玄関をくぐった瞬間、ビルの中の空気は記憶よりもずっと無機質で、床も壁も真っ白な冷たさに包まれていた。8年前、別れの言葉すら交わさずに去ったこの本社に戻る日が来るなんて、思ってもいなかった。インドの灼熱の現場で8年間、ノートパソコン一台を武器に必死に積み上げてきた日々が、ようやく小さな評価に繋がった。配属された開発部で、営業主任の財前が俺を見るなり言い放った。「朝倉君、まだそんなところやってん…

玄関をくぐった瞬間、ビルの中の空気は記憶よりもずっと無機質で、床も壁も真っ白な冷たさに包まれていた。8年前、別れの言葉すら交わさずに去ったこの本社に戻る日が来るなんて、思ってもいなかった。インドの灼熱の現場で8年間、ノートパソコン一台を武器に必死に積み上げてきた日々が、ようやく小さな評価に繋がった。配属された開発部で、営業主任の財前が俺を見るなり言い放った。「朝倉君、まだそんなところやってん...

玄関をくぐった瞬間、ビルの中の空気は記憶の中よりもずっと無機質に感じられた。床も壁も真っ白で冷たく、張り詰めた沈黙が廊下を満たしている。8年前、別れの言葉すらかけられずにこの場所を離れた自分が、再びこの本社に戻ってくる日が来るとは思わなかった。

俺は朝倉洋一、37歳。大手IT企業に勤める開発部の社員だ。つい先月までインドにいた。現地法人で8年間働いていたのだ。言葉も文化も違う中、現場の混乱に揉まれながら必死に積み重ねてきた日々。灼熱の太陽の下、薄暗い食堂の片隅でコードを書き続けた。ノートパソコン一台だけが武器であり、仲間だった。それが国境を越えて小さな評価に繋がり、本社に戻ってくることができたのは、正直運が良かったとしか言いようがない。

配属先はアプリケーション開発部。静かで、居心地の良い空気の流れる部署だった。皆が黙ってディスプレイに向かい、キーボードの音だけが唯一のリズムになっている。だが、そのリズムを乱す男が一人いた。

「朝倉君、まだそんなところやってんの?さすが高卒だね。動きが鈍すぎるよ。そんなんじゃ、また誰も行きたがらない転勤先に送られちゃうよ」

営業主任の財前だった。彼もまた37歳。肩書きは立派だが、内面はと言えば、いつも他人を踏み台にすることしか考えていないような男だった。

「頼むよ、朝倉君。売れるもん作ってくれなきゃ、俺が上に詰められるんだからさ」

その言葉を聞き流しながら、俺は自分がこの場に戻ってきた意味を噛みしめていた。財前は、何の反応も示さない俺につまらなそうに鼻を鳴らすと、興味を失ったように視線を別のターゲットへ向けた。見れば、営業から帰ってきたばかりの若い社員が、財前の前に立って必死に頭を下げている。

「すみません。先方には資料は渡せたんですが、話す隙もなくって」

汗をかきながら言葉を継ごうとするが、声は震えてうまく繋がらない。その手には、くしゃくしゃになった資料の控えが握られていた。

「ふうん、なるほどな。まあ、しょうがねえか。相手はあの『鬼』って呼ばれてる女、七瀬だもんな。しかも社長令嬢と来たもんだ。あそこの契約が取れるのは俺くらいしかいないだろう。ここは俺が行くしかねえな」

そう言って笑う彼の顔には、自信と満足感が入り混じっていた。

「ってことで、朝倉君、運転よろしく」

「え、まだ作業が」

「仕事ってのはタイミングなの。口答えしてる暇があったら車出して」

仕方なく俺は車を回した。走り出した後部座席から、またしても彼の自論が始まる。

「鬼だろうが何だろうが、結局女ってのは惚れた相手の話は聞くのよ。分かる?俺が契約取れるのはそういうことだ。女相手の時は仕事じゃなくて、女を落としに行くつもりで望まなきゃな。俺みたいに」

「はあ」

返す言葉は見つからず、沈黙のまま富士ホールディングスへ到着した。応接室の扉が静かに開き、視界に一人の女性が現れた。その瞬間、部屋の空気が変わった。

その女性こそ七瀬。富士ホールディングス営業部の管理担当者だ。社長令嬢である彼女は、業界では「契約の鬼」と呼ばれている。だが、その姿はその呼び名から想像される威圧感とは真逆だった。艶やかな黒髪が肩に滑り落ち、グレーのスーツは体のラインを引き立てながら、凛とした知性をまとっていた。

「本日はお忙しい中ありがとうございます。主任の財前です。名刺、どうぞ」

財前の声は、いつもよりワントーン低い。スーツの襟元を軽く整え、まるで自分が主演の舞台に立っているかのようなゆったりとした口調で話しかけている。右手の名刺を差し出す動作にもわずかに間を取り、一流の男を演出しているつもりらしい。

「申し訳ありません。名刺はお断りさせていただいておりますので、ご遠慮させていただきます」

隣で財前の表情が強張るのを感じた。彼が得意とする演出は、相手に受け入れられない時、脆くも崩れる。

「七瀬様、前回までのご説明では不足があるかと判断しまして、改めて私の方からアポイントを取らせていただいておりますので、とりあえずお座りください。お話は伺いますので」

彼女の言葉は丁寧だが、芯が鋼のように強い。俺たちは静かに頭を下げ、席に着いた。

「そちらの方は?」

「ああ、彼は朝倉です。開発部の一社員でして、高卒なもので大した仕事はできません。まあ、運転手くらいには使えるかと思って連れてきただけです」

財前はそう言って笑いながら、俺の肩を叩く。

「車内の方であれば、名刺を頂けますか?」

「ああ、はい。朝倉洋一と申します」

名刺を差し出すと、七瀬はその名刺にじっと目を落とした。呼吸の間が変わった気がした。凍った時間が、過去へ巻き戻るような。

「朝倉さん、少しだけ二人きりでお話できますか?」

「ど、どういうことですか?こいつと二人で話すことなんてあります?」

財前は目を丸くして、口元を引きつらせている。

「すぐ済みます。財前さん、お手数ですが、外のスペースでお待ちいただけますか?」

財前は困惑したまま立ち上がり、足音を響かせて出ていった。部屋に残されたのは、俺と七瀬だけ。沈黙が落ちた。彼女は視線を避けていたが、ゆっくりと俺の方へ向き直る。

「いつ戻ってきたの?」

「先月、8年ぶりに」

「そうだったんだ。本当に、また会えるなんて思わなかった」

彼女の声が震え、目元に涙が滲んだ。その仕草に、俺の心もひどく揺れた。

「み、久しぶりだね」

「名前、覚えてたのね」

「覚えてるさ。忘れるわけないだろう」

彼女が両手で顔を覆った瞬間、あの8年前の夜が鮮明に蘇った。俺と七瀬の最初の出会いは、9年前。当時の俺はネット回線の営業で、七瀬はホールディングスで通販部門を担当していた。よく職場に顔を出すうちに、自然と会話も増えていった。

「朝倉さんのおかげでネットすごく速くなりました。これでバンバン売れますね」

「そうだといいですね」

そんな他愛もないやり取りをしながら、次第に彼女への気持ちが変わっていった。仕事で会うのが目的なのか、彼女に会いたくて来ているのか、自分でもよく分からなくなっていた。ある日、思い切って食事に誘うと、七瀬は笑顔で頷いてくれた。仕事を素早く片付け、慣れないレストランの窓際で待っていると、いつものオフィス服とはまるで違う、肩の開いたワンピース姿の七瀬が現れた。髪を軽く巻いていて、その華やかな美しさから正直目が離せなかった。

楽しく食事を終え、最後のデザートのタイミングで俺は言った。

「七瀬、俺と付き合ってほしい」

彼女は驚いた表情で目を見開き、俯いたままか細い声で言った。

「え、あ、あの、でも、ごめんなさい」

そのまま席を立ち、店を出て行った。その背中を、俺はただ見送るしかなかった。残されたデザートのアイスクリームはぐったりと溶けていて、その甘さすら苦かった。その後すぐ、上司から海外赴任の話が来た。場所はインド、帰国は未定。人手不足で、すぐに返事が欲しいとのことだった。俺は迷わず承諾し、日本を離れた。七瀬とはそれっきり、あっという間に8年が過ぎた。

そんな思い出をぼんやりと思い返していると、外からノックが響く。財前が戻ってきたのだ。七瀬は静かに席を指す。俺は頷いて戻った。

「改めまして、本日は」

「財前さん、前向きに検討させていただきます。でも、条件があります。担当を朝倉さんにしてください」

「は?」

「彼は開発部員で、営業経験もないし、俺が」

「先ほどお話した通りです。彼の話し方は誠実で丁寧です。うちの担当には、そういう人が合っています」

「そんな」

「車内にも新しい風が必要ですよね」

財前は口を閉じた。握られた拳が机の下で震えていたのを、俺は見逃さなかった。そして七瀬は俺に向かって微笑んだ。その目は確かに、あの日の続きへと繋がっていた。

こうして契約が正式に成立した日、俺は初めて本社に戻ってきたことに、ほんの少しだけ達成感を覚えた。心の奥が静かに温まるような、そんな感覚は長らく忘れていた。

会社に戻ると、開発部の空気がなぜかざわついている。フロア全員がすでに席についていて、俺が入っていくと同時に一斉に拍手が起きた。

「朝倉さん、契約成立おめでとうございます」

「さすがっすね。営業スキルもあるんじゃないっすか」

俺は照れ臭くお礼を述べながらデスクへ向かおうとした、その時。

「待った、待った。みんな、何か忘れてないか?」

声の主は主任の財前。腕を組み、フロアの中央へゆっくりと歩き出す。

「そもそも朝倉君を営業に連れて行ったのは俺の判断だ。俺が敷いた道を彼が歩いただけだ。そうだろう」

その言葉に、思わず息が詰まった。確かに俺が営業へ同行することになったのは財前の一言だった。だが、今回の契約が実ったのは、俺自身の言葉と、七瀬との確かな信頼が結びついたからだ。

「そうでもないぞ」

珍しく口を挟んだ課長が、やりとしながら財前の方を向く。

「先方から聞いた話によると、朝倉は話が分かりやすくて誠実だったそうだ。人柄が羨ましいほどだって言ってたぞ」

周囲が一気に湧いた。

「へえ」

精一杯笑顔を作った財前の表情は、どこか歪んでいた。悔しそうに唇を噛んでいる。

昼後、オフィスへ戻った俺に、財前が声をかけてきた。

「さっきは悪かったな。ほら、差し入れ。このコーヒー、うまいんだよな」

「ありがとうございます」

妙な違和感を覚えた。差し入れにコーヒーをくれるなんて、今まで一度もなかったし、そもそも彼がそんな気の利いたことをするタイプだとは思えない。彼は俺の後ろに立っていた。笑顔は作っていたが、目が笑っていない。パソコンを立ち上げる俺に視線を送りながら、淡々と話す。

「朝倉君、何でもそつなくこなして尊敬するよ。で、アプリの進捗はどうなの?」

「予定より前倒しでテストに入れそうです」

「へえ、順調か。なるほどね。すごいね」

そう言いながら財前はしばらく画面を見ていたが、会議が始まる時間だとわざとらしく呟いて、その場を離れた。何かがおかしかった。その違和感は、数日後、大きな騒ぎとして姿を現すことになる。

ある朝、部長からの内線が飛び込んできた。受話器から聞こえてくる声は、いつになく硬い。

「朝倉、至急会議室まで来てくれ」

「分かりました」

会議室の扉を開けると、部長、課長、そして財前が待ち構えていた。

「朝倉、重要な話だ。今朝、情報処理部から連絡があった。我が社のアプリケーション開発ファイルの一部が、外部へ漏洩した」

「はい」

「調査は進行中だが、現時点で判明しているのは、漏れたデータが朝倉君の担当範囲のプログラムに関係しているということだ。まさかとは思うが、データ管理が甘かったんじゃないか」

言葉が頭に入らない。何度もPCの管理体制を確認してきた。セキュリティの強化も、課長の許可を得て施したばかりだ。なのに、しかも俺が疑われている。

「絶対にそんなことはありません。パソコンもデータも厳重に管理しています。漏れるはずがない」

「だとしても、実際に漏洩が発生しているのは事実だ。現時点では誰も犯人と断定できないが、状況上、君には関与の疑いがある」

「でも」

「調査が済むまで、自宅待機を命じる。社内システムへのアクセスは禁止。パソコンは情報処理部へ引き渡してくれ。了承してくれ」

拳が震えるほど悔しかった。無実のまま、犯人のように扱われる。納得できるわけがない。だが、ここで反発しても状況が変わるわけではなさそうだった。

「承知しました」

拳を握りしめたまま言葉を飲み込む。だが、納得などしていない。このままでは全てが崩れてしまう恐怖に、飲まれそうになっていた。

自宅待機を言い渡された翌朝、俺はただ机の前で無言の時間を過ごしていた。部屋には朝の日差しが差し込んでいるのに、心の中は曇ったままだった。疑いをかけられた悔しさよりも、何もできない自分の無力さがずっと苦しかった。七瀬からもメッセージが届いていた。

「大丈夫?何かあったら話してね」

その優しさに救われながらも、返信する気力は湧かなかった。

昼過ぎ、スマホが震えた。着信は、思ってもいなかった相手。部長だった。

「朝倉、状況が変わった。すぐ会社に来てくれ」

「え、でも昨日自宅待機って」

「急ぎだ」

言葉の様子が尋常じゃない。慌ててスーツを着込み、会社へ向かった。大会議室に入ると、部長と課長がすでに席についており、その奥にもう一人。この部署では見慣れないが、どこか懐かしい顔。

「よう、久しぶりだな」

その声だけで、心臓が跳ねた。アリム・ジャワール。インドのIT採用大手、アリムコンサルタンシーのCEOだ。だがそれ以前に、俺にとって彼はかつての食堂仲間だった。8年前の異国、ガンジス川近くの市街地の食堂で、俺は情報担当として孤独な生活を送っていた。アリムはそこで皿洗いをしながら、夜は古びたノートにコードを書き殴っていた。英語も不自由で、誰にも頼れず、自作のアプリを夢見ていた。

「アルバン、ここロジック崩れてる。多分、ループが二重になってる」

俺は彼が書いたコードを見て、声をかけた。彼は驚きで目を見開き、言葉にならない感謝を繰り返していた。それから毎晩、食堂の裏で一緒にノートを広げ、HTML、Python、SQL、Gitの概念を一から教えた。翻訳を交えながら、彼の夢を支えた日々。

「洋一、あの時、俺の夢を笑わなかったのはお前だけだった。俺はお前から、世界と向き合う言葉をもらったんだ」

部長と課長が顔を見合わせていた。

「彼のPCから情報が漏れたって?そんなことは、俺は信じない。洋一は食堂で安い茶を飲みながら、俺のデータを守る方法まで教えてくれた。自分の仕事に責任を持ってた。こんな男が漏洩なんてするはずがない」

「だが、状況が示しているんです」

「君は状況しか見ていない。洋一という人をよく見ることだな。俺が今ここにいるのも、彼がいたからなんだ」

「アリム様、正式な調査はまだ」

「なら、続けてくれ。だが、調査も結果も誠実さを伴わないなら、俺はこの契約を見直す」

社長が会議室へやってきて、脂汗を浮かべながら頭を下げた。

「し、何卒、お時間だけでも」

アリムは視線を外さずに言った。

「僕にとって、洋一は技術者という以前に、一人の人として尊敬している。僕がこの会社と取引するかどうかは、彼がどう扱われるかによって決める。それだけだ」

俺はアリムの優しい言葉に、思わず目尻が緩んだ。契約先へ視察に来たんだ、ここにいると聞いて驚いたよ。俺の肩に手を置いたアリムの瞳は、何よりも俺の信念を肯定してくれていた。そして、アリムとの再開は、先の見えない闇の中で光る一筋の希望となった。

アリムと感動の再会を果たした日の夜、俺は自宅で思考を巡らせていた。頭は冷えていくのに、胸の奥だけが熱く、鈍く痛む。どうして漏れるはずのない情報が漏洩したのか。手元にパソコンがないから、確かめようもない。一時の成功で気が緩んだんじゃないか。ヒーローも長くは続かないってことだ。あの時の財前の笑顔。それだけが妙に記憶に焼きついて、離れなかった。

そして、今日の夕方、突然部長からの連絡が届いた。

「アリムさんからの要請で、パソコンの返却が前倒しになった。立ち会ってくれ」

不思議な感覚だった。まるで自分の人生の一部が戻ってくるような、そんな重みがあった。あの端末には、俺が積み上げてきた努力も、信頼も、そして守ってきた誇りも詰まっている。情報処理部の職員からパソコンを受け取った時、俺はすぐ開発部へ足を運んだ。ほとんどの社員は退社していた。誰もいないその場所で、俺は端末を再起動した。画面の光が点くと同時に、胸の奥が静かに熱を持ち始める。セキュリティは俺自身が施したものだ。解除には知識と操作の手順が必要だ。誰がそれを破ったのか。そして、どうやって。その答えを、今ここで見つけなければならなかった。

足音が近づいてきた。背後の扉が開く。

「こんな時間まで会社で何してる?自宅待機の分際で、随分熱心だな」

「調査の結果を確認してます。主任にも報告しておきます」

「ほう。潔白の証明か。夢見てる場合じゃないと思うが」

俺は黙って画面に向き直る。ソフトウェアの復元ログが進行している。日付指定で絞り込み、保存領域を再構築する。やがて、一つの動画ファイルが現れた。それは、コーヒーを受け取ったあの日の記録。画面には、俺の背後に立つ財前がスマホを構えている姿。角度を変えながら、俺のパスワード入力を盗みている手元まで映っていた。

「この時のこと、覚えてますか?」

「は?そんなの知らねえよ」

「このファイルが復元されたのは、あなたのスマホを解析した履歴です。削除されていたけど、完全には消えてません」

財前はわずかに顔を強張らせる。その瞬間だけ、沈黙が部屋を包んだ。

「へえ、なるほどな。俺を嵌めて、俺を潰したいのか?正義のヒーローにでもなった気か?」

「違います。俺はただ、自分の手で真実を見つけたいだけです」

「ああ、そうかよ」

彼は吐き捨てるように言うと、開き直ったように続けた。

「俺はお前みたいな奴が嫌いなんだ。無駄に誠実で、周囲に好かれるタイプ。そういう奴が評価されるのを認めたくなかった。それに、俺にはお前のように信じてくれる友人も味方もいなかった。羨ましかったんだ。俺は、お前が」

言葉を言い切った財前は、静かに背を向けた。証明すべきものは、もう手元にある。誰が、いつ、どのように情報を盗み、外部に渡したのか。曖昧だった点と点が、全て一本の線で繋がった。これまで自分に向けられた疑惑や監視の目、それらの正体がようやく暴かれたのだ。疑いの主である財前は、静かに去っていった。だが、その背中にはわずかな悔いと疲れが滲んでいた。彼の中にも、誰にも見せられなかった何かがあったのかもしれない。けれど、今はそれを知ることが目的ではない。俺は自分の潔白を証明し、事実を明るみに出すだけだ。俺の心も、ようやく揺らぎから抜け出せる気がした。

数日後、俺の疑いも晴れ、会社へ戻った日のこと。七瀬から一通のメッセージが届いた。

「今日、会社に来て欲しいの。父に会ってもらえないかな」

そこに込められた言葉は丁寧だったが、画面越しの温度は張り詰めていた。七瀬のお父さんは、社長。一体、何の話があるっていうのか。

正面玄関で、七瀬は少し俯きながら言った。

「何も説明できなくてごめん。でも、ありがとう。来てくれて」

「大丈夫。ここまで来たら、ちゃんと話すだけさ」

俺はその足で社長室へ向かった。

「君が朝倉君か。娘から話は聞いている。少し時間をもらえるかね」

「はい。ありがとうございます」

俺は深く頭を下げて、向かいの椅子に腰を下ろした。

「娘は昔から芯の強い子でね。だが、恋愛に関しては随分慎重だった。そんな七瀬が、8年前に一人の男の話をしていた。彼の言葉が私の価値を変えてくれた、とな」

彼の目が優しく細められる。威厳のある経営者のそれとは思えぬ、父の目だった。

「その男が君だそうだ」

俺は返す言葉を探していた。でも、感情が喉に詰まって、うまく声が出なかった。

「私は経営者だ。だから、冷静に物事を見るよう務めてきたつもりだ。だが、今回ばかりは違った。娘が初めて、自分の意志で信じたい男がいると言ったんだ。君の潔白は証明された。そして、君が多くの人に影響を与えてきたことも、この数日でよく分かった。アリム氏との縁。それは単なる偶然ではない」

「ありがとうございます。でも、俺はただ与えられた場所で、自分の責任を全うしただけです」

「それで十分だよ。娘を大切にしてくれ。それが、私の唯一の願いだ」

俺は深く、深く頭を下げた。そして、部屋の外に出ると、七瀬が立っていた。窓から差し込む夕日の中、まるであの日と同じように、少しだけ髪を巻いた彼女が。

「どうだった?」

「うん。なんとか許してもらえたよ」

七瀬はふっと微笑んで、俺の手を取った。

「じゃあ、今度こそ聞かせて」

「え?」

「前みたいに、最後のデザートのタイミングじゃなくてさ。今、ここで言って」

俺は頷いた。そして、静かに彼女の目を見つめた。

「七瀬、今度こそ、俺と一緒にいてほしい」

「ちゃんと今の俺を見て、それでもって思ってくれるなら」

「私もずっと同じ気持ちだった。あの時、すぐに答えられなかったけど、あなたが私の中にずっといたの」

彼女はそのまま、俺の胸に顔を寄せた。静かに脈打つ心音が、二人の時間を重ねていた。8年間の空白が、ようやく埋まった瞬間だった。

季節が巡り、俺たちは仕事の合間を縫って、少しだけ日常を共有していた。あの告白から数ヶ月後には、同居を始めた俺たち。朝のコーヒーの香りに、笑い声が混じる生活が続いている。時々、部屋でアリムとオンライン通話をする。

「で、結婚はいつ?ウェディングに僕を呼ぶ準備は整ってる?」

「は、もちろんさ。その時は、友人代表スピーチ頼むよ」

「ああ、任せてくれ」

彼は世界の頂点にいても、気遣いと友情の温度は何ひとつ変わらない。アリムほど、無条件に俺のことを信じてくれた人間はいない。

ちなみに、これは噂で聞いたのだが、財前はあの後会社を追われ、退職。今は地方の通信業者に務めているらしい。かつて俺が回線営業していたような現場に、彼は今いる。彼がそこで何を思い、何を積み重ねるかは知らない。だけど、今の俺にはもう、彼を責める感情は残っていない。再会することがあるかは分からない。でも、それもまた時間が運んでくれることなのかもしれない。

「ねえ、洋一。私、今本当に幸せ」

「うん。俺も」

「だってね、辛い時も苦しい時も、忘れられないくらい大好きな人がいた。それって、ずっと幸せだったってことなんじゃないかなって」

「それは、俺のことか」

「誇っていいよ」

夜風が窓の隙間から吹き込んでくる。俺はそっと、彼女の髪に手を伸ばした。アリムが前に言っていたっけ。陽の背中を押してくれたのが僕だって言うなら、その肩を支えてくれるのは七瀬だ。本当にそうだなと思う。七瀬の温かい手の感触を感じながら、俺は静かに言った。

「これからも、ずっと幸せに決まってる。そうだろ」

「うん。そうだね」

それだけの言葉で、8年分の時間が柔らかく形を変えた。そして、俺は再び仕事に向かう。誰かに必要とされる場所へ。自分の力を証明したこの手で、これからの未来も紡いでいく。隣には七瀬がいる。いつも信じてくれるアリムもいる。俺の物語は、ここからまた始まるのだ。

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