深夜十一時、誰もいないオフィスで冷めた弁当を食べていた私は、突然人事室に呼び出された。「グループ長に就任してもらいたい。断れば、削減対象リストに入る」——四十八歳の部長は、笑っているのか見下しているのか分からない目でそう言った。六十五歳。十二年勤めた会社。離婚の借金を一人で返し続けてきた私に、断る権利はなかった。役職手当は月一万二千円。残業代は消えた。実質、給料は下がった。それでも「分かりま…

深夜十一時、誰もいないオフィスで冷めた弁当を食べていた私は、突然人事室に呼び出された。「グループ長に就任してもらいたい。断れば、削減対象リストに入る」——四十八歳の部長は、笑っているのか見下しているのか分からない目でそう言った。六十五歳。十二年勤めた会社。離婚の借金を一人で返し続けてきた私に、断る権利はなかった。役職手当は月一万二千円。残業代は消えた。実質、給料は下がった。それでも「分かりま...

夜の十一時、六十五歳の男が冷めた弁当を食べていた。蛍光灯の白い光の下、スチールデスクに向かってプラスチック容器の蓋を静かに外す。中身はコンビニの幕の内弁当で、電子レンジで温める時間さえ惜しんでいた。白米は固く、焼き鮭は干からびてひび割れていた。割り箸を袋から引き抜くと、一本が先端でわずかに割れた。気にしなかった。食うべきものを食う。それだけのことだ。

オフィスには誰もいなかった。窓の向こうには東京の夜景が広がり、高速道路を赤いテールランプの列が流れていた。松崎秀夫は一度もそちらに目を向けなかった。机の上には書類の束が三つ、付箋だらけのファイルが二つ、未読メールが映ったパソコンが一台。その隣に、白い容器と注ぎ口の歪んだ緑茶のペットボトル。彼は黙々と米を口に運んだ。自分でも不思議なくらい、何も感じなかった。正確に言えば、感じないようにしていた。

二〇二六年の春、東京の物流業界は静かな混乱の中にあった。ドライバー不足は数年前から叫ばれていたが、この年になってその影響は取り返しのつかない形で業界全体に広がっていた。中小の運送会社が次々と廃業し、残った企業は少ない人手で増え続ける仕事を捌こうと現場に無理な負荷をかけていた。そんな時代の中で、秀夫の務める中堅物流会社も、表向きは安定を保ちながら内側では慢性的な歪みを抱えていた。

秀夫は関東調整グループの一員として、輸送ルートの最終確認と納期調整を担当していた。物流センターから各拠点への発送スケジュールを管理し、ドライバーの運行状況を記録し、取引先からの急な変更依頼を調整する。地味で細かく、誰にも感謝されない仕事だった。秀夫はそれで良かった。感謝など元々期待していなかった。

この会社に入って十二年になる。最初の三年は倉庫管理の補佐、次の四年は配送センターの運行記録担当、その後は現在の調整業務。常に地味なところで働いてきた。上を目指したことは一度もなかった。目指す理由がなかったのではない。目指す気力を失っていたのだ。

秀夫が離婚したのは十五年前のことだった。当時の妻みち子は飲食店の経営に乗り出し、秀夫も保証人として名前を連ねた。店は三年で立ち行かなくなり、残ったのは高額の負債だった。離婚の手続きが完了した日、秀夫は弁護士事務所の外で立ち尽くし、そのまま近くの公園のベンチに座って一時間ほどタバコを吸った。怒りはなかった。悲しみもまだ形をなしていなかった。ただ、これで全部終わったのだという感覚だけが夕暮れの空気に漂っていた。

娘のさおりは当時十八歳で、大学入学直前だった。離婚後、秀夫は娘と何度か連絡を取ろうとしたが、みち子が間に入り、やがてメッセージへの返信は来なくなった。拒否されていると気づいたのは、離婚から二年ほど経った頃だった。それを確認した夜、秀夫は特に何もしなかった。ただ眠った。

負債は今も続いていた。元妻の名義の借金を秀夫が肩代わりする形になっており、毎月決まった額が口座から引き落とされた。それを滞納しないために、秀夫は働き続けた。居酒屋にも行かない。旅行など考えたこともない。休日の楽しみといえば、スーパーの閉店前に半額になった食材を買い、安い麦焼酎を少量だけ飲みながらテレビで自然ドキュメンタリーの再放送を眺めることだった。それ以上のことは望まなかったし、望んだところで意味がないと分かっていた。

秀夫の部屋は、荒川の近くにある古いマンションの三階にあった。三十年もので玄関の建て付けが悪く、ドアを閉めると鍵が引っかかった。浴槽の縁にはタイルのかけた跡があり、窓の隙間からは冬に隙間風が入った。家賃は安く、駅から徒歩十分という立地だけが長所だった。秀夫はそこに九年間住み続けた。愛着があったわけではない。引っ越す手間と費用が面倒なだけだった。

毎朝五時半に起きる。水で顔を洗い、インスタントコーヒーを飲みながら天気を確認する。六時十五分に自宅を出発し、電車で三十分。会社には七時半に着く。始業は九時なので、誰もいないオフィスでその日の業務確認を済ませてから仕事を始める。秀夫の一日はそういうリズムで動いていた。

だが、それ以上に重要な習慣があった。毎日十キロを歩くことだ。朝の出勤前に四キロ、昼休みに二キロ、帰宅後に残りを歩く。雨の日も、暑い夏も、凍りつくような冬の朝も、秀夫はそれを続けた。最初に始めたのは離婚後すぐのことだった。眠れない夜が続いた時、とにかく体を動かすことが唯一の気晴らしになった。気晴らしというより、消耗する手段として選んだのかもしれない。いずれにしても、それを続けた結果、秀夫は六十五歳になった。背筋は少し丸みを帯びていたが、体そのものは驚くほど締まっていた。足取りは若い社員より確かで、長い距離を歩いても疲れを見せなかった。ある意味で、それが唯一の誇りだったかもしれない。

五月の第二週の火曜日、秀夫は昼の弁当を食べながら来週の取引先別発送の最終確認をしていた。この時期は製造業の決算後の在庫整理が重なり、関東エリアへの大口配送が増える。ルートの重複をなくし、無駄なコストが発生しないよう、前日から調整しておく必要があった。秀夫は黙々とその作業をこなしていた。

そこへ、総務担当の山田が近づいてきた。二十代の若い女性で、秀夫とは普段ほとんど会話をしない。山田はわずかに声を落とし、午後に人事へ来てほしいと伝えた。相手は運用本部長の山之内部長だと言った。山田の表情には特に何も示されていなかったが、目が合うとすぐにそらされた。

秀夫は箸を置いた。人事室に呼ばれることは、この十二年でほとんどなかった。年一回の面談が形式的に行われるだけで、それも大抵は五分で終わる。山之内部長が直接呼んだという意味を、秀夫は昼の残り時間いっぱい考えた。考えながらも、結論を出そうとはしなかった。なるようにしかならない。そういう感覚が、いつの間にか秀夫の中の基本的な姿勢になっていた。

午後一時半、秀夫は人事室の前に立った。ドアをノックすると、低く太い声で入れと言われた。山之内平は窓際の応接セットに座っていた。四十八歳、秀夫より十七歳若いこの男は、いつも高級なスーツを着ており、話す時にわずかに口の端だけを上げる癖があった。笑っているのか、見下しているのか、正直なところいつもよく分からなかった。

テーブルの上には薄いクリアファイルが一つ置かれていた。山之内は秀夫に座るよう促すことなく、視線だけを向けた。秀夫は立ったまま待った。山之内はクリアファイルの上に手を置き、切り出した。

「松崎さん、関東調整グループのグループ長に就任してもらいたい」

秀夫は一秒だけ動きを止めた。グループ長は、現在の関東調整チーム全体を統括するポジションだった。部下は七名。ルート計画の策定、燃料コストの予算管理、担当者のKPI進捗管理、顧客対応の最終承認。そういった責務が一括して乗ってくる。秀夫は静かに、しかしはっきりと、自分にはその役職は難しいと述べた。年齢のこともあるが、それよりも自分は現場の実務が向いていて、管理職としての適正があるとは思っていないと、丁寧な言葉で説明しようとした。

山之内の口角がわずかに上がった。それは笑いではなかった。

「二〇二六年の労働市場のことはご存知ですよね。ドライバー不足、人材の流動、それに伴う組織の効率化。当社も例外ではなく、若い人材を積極的に登用するとともに、成長志向のない高齢層の社員については、段階的に役割の見直しを図る方針になっている」

その言い回しは非常に滑らかで、まるで以前から何度も使ってきた文面であるかのように聞こえた。秀夫は少し間を置いてから、それはどういう意味かと聞いた。山之内はクリアファイルを軽く叩き、そのまま続けた。

「削減対象のリストというものが存在する。現在の組織の中で付加価値を生み出せていないポジションにいる社員については、次の評価期に入る前に退職勧奨の対象になる場合がある。松崎さんはその対象に今のところ入っていない。だが、グループ長のポストを辞退した場合、その前提が変わりうる」

部屋の中の空気が変わった気がした。秀夫は山之内の顔を見た。男は視線をそらさなかった。目の奥には、計算された冷静さがあった。この男がこういうことをするのは今日が初めてではないのだろう。長く続けてきたからこそ、あれほど自然に言えるのだと思う。

秀夫の頭の中で数字が走った。残っている負債の総額、毎月の返済額、完済までに残っている期間、失業した場合に受け取れる給付金と、その後の再就職の困難さ。六十五歳という年齢で、中途採用で物流の管理職として採用される可能性はほぼゼロに近い。体が動く限り現場仕事はできるが、今の給与水準は絶対に保てない。足元が揺らぐような感覚があった。だが、表情には何も出なかった。長年の習慣で、感情が顔に出る前に抑え込む癖がついていた。

秀夫はしばらく沈黙した後、言った。

「分かりました」

山之内は軽く頷き、来週の月曜から正式に就任という形で進めますと言った。辞令は明日中に出します。引き継ぎは今週中に。グループ全体のKPIと予算資料はこれです、とクリアファイルを秀夫の方へ押し出した。秀夫はそれを受け取り、一礼して部屋を出た。廊下に出てドアが閉まった瞬間、秀夫は立ち止まり、数秒間そのまま壁を見た。壁には何もなかった。白いだけだった。

自席に戻る途中、秀夫は頭の中で状況を整理した。グループ長になれば役職手当がつく。しかし同時に管理職扱いになるため、残業代は一切支払われなくなる。現場の実態を知っている秀夫には、これが何を意味するかすぐに分かった。今まで残業代として支払われていた分が丸ごと消え、代わりに定額の役職手当がつく。その差額は、どう計算しても秀夫に不利だった。権限はない。責任だけがある。そういうポジションだった。秀夫はそれを知った上で、それでも断ることができなかった。それが、この国の仕事というものの二〇二六年における実態だった。

翌週の月曜日、秀夫は正式にグループ長として初出勤した。机が変わった。以前の席より二列分だけ前に移動し、パーティションで仕切られた小さなスペースに専用デスクが与えられた。デスクの上には名刺立てがあり、松崎秀夫・グループ長という肩書きが印刷された名刺が百枚入っていた。秀夫は一枚取り出して眺め、名刺立てに戻した。

部下七名に簡単な挨拶をした。秀夫は短く、自分は実務重視でやっていきたい。分からないことがあれば気軽に話しかけてほしいと言った。過剰な挨拶が苦手だった。それだけ言って、すぐに書類の確認に入った。

七名の中に、白鳥大輝がいた。二十八歳。秀夫より三十七歳若い。目元が鋭く、笑うと人懐っこく見えるが、話し方に妙に計算された丁寧さがある若者だった。入社四年目で業務の容量は良かったが、仕事の全体を意識的に絞るタイプだということは、秀夫も以前から薄々感じていた。グループ長になって初日、白鳥は秀夫の席まで来て、よろしくお願いします、松崎グループ長、と深々と頭を下げた。その角度と持続時間は、過剰に丁寧すぎた。秀夫はありがとう、こちらこそよろしく、とだけ言った。

最初の一週間で、秀夫は自分が置かれた状況の輪郭を少しずつ把握し始めた。グループ長の仕事は、想像よりもはるかに多岐に渡っていた。ルート計画の策定という名目の元に求められるのは、実質的に全配送計画の見直しと提案書の作成だった。燃料コストの予算管理は、数字を見るだけでなく、差異が出た場合に運用本部へ原因分析と改善策を報告する義務が伴っていた。顧客からのクレーム対応は、担当者が最初に受けた後、グループ長として最終的な謝罪と再発防止策の提示を秀夫が直接行う形になっていた。そしてKPIの管理。部下七名それぞれの月目標と達成状況を追いながら、遅れている場合は個別にフォローし、部門全体の数値を維持しなければならない。

秀夫はそれをこなすために、早出と残業を繰り返した。朝は七時前に来て、夜は九時、十時を超えることが珍しくなくなった。残業代はない。役職手当として月に一万二千円が加算されただけで、実質的な収入はほとんど変わらなかった。いや、一日当たりの時間単価で換算すれば、明らかに下がっていた。

毎日十キロ歩く習慣は、最初の週こそなんとか維持できたが、二週目に入ると帰宅が遅すぎて夜の分が取れなくなった。秀夫はそのことをほとんど無意識に記録していた。毎朝のコーヒーを飲みながらスマートフォンの歩数系アプリを確認する習慣があり、その数字が下がっていることに、何かを失っていくような感覚を覚えた。

白鳥が秀夫の元に来たのは、就任して十日ほど経った頃だった。午後の三時過ぎ、秀夫がルート効率のデータをまとめている最中、白鳥は申し訳なさそうな表情でデスクの横に立った。

「先日の千葉の取引先からのクレームの件ですが、あれは私が最初に受けた案件で引き継ぎ書も作ったんですが、グループ長の方で一度直接ご対応いただけると、取引先の方も落ち着くかと思いまして」

秀夫はデータから目を上げ、白鳥の顔を見た。クレームの内容は納期の遅延で、担当者レベルで十分に対応できる案件だった。秀夫は内容を一通り確認してから、分かった、こちらから連絡すると言った。白鳥はまた深々と頭を下げ、ありがとうございます、と言った。

それが最初だった。それ以来、白鳥は週に二度、三度と秀夫のデスクに立つようになった。案件の難しいもの、対応に時間がかかりそうなもの、少しでも機嫌を損ねているもの。そういう仕事が、理由をつけてグループ長の仕事として秀夫の元へ集まってきた。白鳥の言い回しは毎回丁寧だった。グループ長の判断が必要な案件で、という枕詞がついた。秀夫が引き受けるたびに、白鳥は必ずお礼を言った。

秀夫はすぐにそのパターンに気づいた。しかし、気づいた上で特に何かを言うことができなかった。言えなかったのは、白鳥が正式に間違ったことをしているわけではなかったからだ。グループ長は確かに最終的な責任を持つ立場だった。難しい案件をグループ長に上げること自体は、組織の論理としては誤っていない。秀夫にはそれを問い詰める明確な根拠がなかった。

その夜、秀夫は会社に残り、デスクの前に冷めた弁当を広げた。時刻は十一時を回っていた。フロアには誰もいない。空調は切れており、パソコンのファンの音と、外の道路を走るトラックの低い振動音だけが聞こえた。蛍光灯の一本が微妙に明滅していたが、管理部門に報告する気力もなかった。

秀夫は割り箸を手に持ったまま、しばらく動かなかった。正確に言えば、動くことができなかった。疲労のせいではなかった。体はまだ動いた。問題は、なぜ動く必要があるのかという問いに、今この瞬間だけはうまく答えられなかったことだった。

毎月の返済のため。それは分かっている。その一点があるから、秀夫はここにいる。だがそれは、秀夫がここにいることの理由であって、意味ではなかった。今まで意味など考えずに働いてきた。考えてもどうにもならないことを考えても仕方がないと自分に言い聞かせながら、十二年やってきた。だが今夜は違った。夜の十一時に、誰もいないオフィスに一人座り、冷めた弁当を食べている。昇進したから。断れなかったから。これが自分の昇進というものの正体だった。役職だけが重くなり、給与は実質変わらず、自由な時間は消え、習慣にしていた歩きも削られた。

秀夫は箸で白米を救い、口に入れた。味がしないわけではなかった。ただ、食べていることを意識していなかった。

翌日も早く来なければならない。今夜のうちに仕上げておくべき報告書がまだある。考えても何も変わらない。この感情には名前をつけない方がいい。名前をつけてしまうと、それが実態を持ってしまう気がした。秀夫はペンを走らせ始めた。夜のオフィスに、紙の上を滑る音だけが響いた。

グループ長になって三週間が経った頃、秀夫は初めて自分の睡眠が壊れていることに気づいた。壊れたというのは正確ではないかもしれない。眠れないのではなく、眠りが浅くなったのだ。深夜に一度目が覚めると、そのまま天井を見ている時間が一時間、二時間と続く。脳が勝手に動いている。明日の取引先対応の段取り、白鳥に回してもらわなければならない案件の整理、まだ手をつけていない先週分の予算報告書。そういったものが順番を無視して頭の中に浮かんでは消える。

ある夜、秀夫は午前三時に目を覚まし、一時間以上そうしていた後で、ゆっくりと起き上がった。台所で水を一杯飲んだ。冷蔵庫の側面に小さな磁石でメモが貼ってあり、今月の支払い日と残高の数字が鉛筆で書かれていた。秀夫はそれを眺め、また寝室に戻った。眠れなかった。体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に覚醒していた。

翌朝、いつも通り五時半に起き、コーヒーを飲み、歩数系アプリを確認した。昨日の歩数は六千四百歩だった。以前は毎日一万五千歩を超えていた。その数字を見て、秀夫は何も言わずスマートフォンを置いた。

金曜日の夜、秀夫は帰宅しながら缶ビールを一本だけ買おうと思った。普段は麦焼酎を飲むが、今夜はなぜかビールが飲みたかった。コンビニにより、冷蔵ケースの前に立った時、スマートフォンに着信があった。見ると、会社の管理部門からではなく、個人の番号からだった。一瞬思い出せず画面を見つめてから、それが黒川大輔からの番号だと気づいた。

黒川大輔は大学時代の友人だった。正確には、友人と呼べる人間が秀夫にはほとんどいなかったが、黒川はその数少ない例外だった。大学の経営学部で同じゼミに所属し、卒業後も年に一度か二度、連絡を取り合っていた。秀夫が離婚してからは回数が減ったが、それでも完全に途絶えることはなかった。黒川は現在、別の物流関連の会社で内部監査の仕事をしていた。

秀夫は缶ビールを手に取り、会計をしながら電話に出た。黒川の声は変わっていなかった。少しだけ低くなったかもしれないが、話し方の速度と、話す前に一瞬を作る癖は昔のままだった。

「久しぶりだな。元気か。最近どうだ」

秀夫は正直に答えた。グループ長になった、と。黒川は少し間を置いてから、お、と言った。それから、今度飲まないか、と言った。秀夫は今夜でいいか、と聞いた。黒川は笑い、今夜か。急だな。でも悪くない、と言った。

二時間後、秀夫は荒川の近くにある小さな居酒屋で、黒川と向かい合って座っていた。その店は秀夫が一人で来ることがある店で、カウンターが六席と小さなテーブルが三つだけ。店主の老人は無口で、注文しなければ近づいてこない。秀夫はそういう店が好きだった。

二人は奥のテーブル席に座り、生ビールを一杯ずつ頼んだ。黒川は一目で秀夫の顔色を読んだようだった。

「どのくらい寝れてる」

「五時間くらいだ」

黒川は特に驚いた様子もなく、そうか、と言って自分のグラスを傾けた。しばらく他愛のない話をした。黒川の娘が今年就職したこと、職場の近くで立ち飲み屋が潰れて昼飯の場所が減ったこと、去年の夏が異様に暑かったこと。秀夫はそういう話をしながら、少しずつ体の緊張が緩むのを感じた。仕事の話をしなくていい時間というのが、この三週間でこれほど貴重なものになるとは思っていなかった。

二杯目に入ったところで、秀夫は少しずつ話し始めた。グループ長になった経緯、山之内に言われたこと、それを断れなかった理由、就任してからの三週間がどういうものだったか。秀夫は感情を排した事実の列挙として話したが、話しながら自分でもそれがかなり圧縮された話し方であることは分かっていた。本当のことを言えば、あの人事室でドアが閉まった瞬間、廊下に一人立ったあの数秒間のことは、まだうまく言葉にできなかった。

黒川は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。秀夫が話し終えると、黒川はしばらく何も言わなかった。グラスを持ったまま、テーブルの木目を見ていた。それから口を開いた。

「一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「お前、今より給料は上がったか」

秀夫は正直に答えた。役職手当がついて月一万二千円が増えたが、残業代がなくなった分を差し引くと、実質下がっている。黒川は頷いた。

「管理職用の古典的な手口だな。それ自体は違法でも何でもない。こういう仕組みが合法的に存在している」

秀夫もそれは理解していた。黒川は続けた。

「ただ、一つだけ見方を変えてみるとどうなるか、考えてみろ。月の差し引きが多少不利でも、グループ長の実績がつく。来年度の評価に響く。それはつまり、基本給の見直しにつながりうる。しかも、年末の賞与は役職のある人間の方が算定基準が高い。今年一年を乗り切れば、賞与だけで今の差し引きは十分に埋まる可能性がある」

秀夫は黙って聞いた。さらに黒川は言った。

「お前、残りの借金、どのくらいあるか知ってるか」

秀夫は金額を答えた。黒川は計算するように少し目を細めてから、今の返済ペースだと完済まで何年だ、と聞いた。秀夫は二年半から三年だと答えた。

「グループ長として今年の賞与をフルに受け取れれば、それが二年に縮まるかもしれない」

秀夫は何も言わなかった。黒川はもう一つ言った。

「それからもう一つ。お前の娘のことだ。十五年、連絡も返事もないというのは分かる。でも人間は変わる。状況も変わる。お前が借金を完済して、少し余裕のある状態で一度手を出した時、さおりがどう思うかは、今の段階では分からない。ただ、少なくとも今の状態より可能性があることだけは確かだ」

秀夫は黒川の顔を見続けた。黒川は視線をそらさなかった。追い打ちをかけるわけでもなく、励ますわけでもなく、ただ淡々と言った。

「諦める理由は後でいくらでも出てくる。今はまず、やれることをやってみろ」

秀夫はグラスを置いた。黒川の言葉は、秀夫が自分に言い聞かせるには重すぎて、人から言われると初めて実態を持つような種類の言葉だった。娘のことは、秀夫の中で長い間触れてはいけないものとして固く閉ざしていた。触れることで、その扉が完全に閉まり切っていることを再確認するのが怖かった。だが黒川は今、その扉の前で、まだ少し隙間があるかもしれないと言っていた。

秀夫は短く、分かった、と言った。それだけだった。黒川は、だろう、と言って自分のグラスを持ち上げた。

翌週の月曜日、秀夫はいつもより三十分早く出勤した。机の前に座り、手元に関東エリアの配送ルートのデータを全て広げた。このデータは、秀夫が十二年間かけて頭に叩き込んだものだった。どの幹線道路が何時から混雑するか。どの中継拠点がどの取引先と相性がいいか。季節や曜日によってどう変えるべきか。そういった知識はシステムには入っておらず、秀夫の経験の中にしかなかった。

秀夫はその知識を使い始めた。今の関東調整グループの配送計画は、効率という面から見てかなりの無駄があった。似た方向への配送が別の便に分かれていたり、積み替えのタイミングが微妙にずれて待機コストが発生していたりする箇所が複数あった。秀夫はそれを一つずつ洗い出し、改善案を書き出した。作業は午後まで続いた。昼飯は近くの自販機でおにぎりを二つ買い、デスクで食べた。白鳥が何度かデスクに来たが、秀夫は今日は少し待ってくれと言った。白鳥ははい、分かりました、と言って引いた。

夕方までに、秀夫は関東全域の配送ルート改善案を一枚の資料にまとめた。数字の裏付けもつけた。燃料コストが何パーセント下がるか、時間あたりの配送件数がどう変わるか、中継拠点への負荷がどう分散されるか。具体的な数字が並んだ資料だった。

翌日、秀夫はその資料を白鳥に渡した。一緒に見てくれと言った。秀夫はルートの変更点を一つずつ説明し、どこが今どうなっていて、どう変えるべきかを話した。白鳥は最初、いつものように相槌を打ちながらメモを取っていたが、途中から手が止まった。

「これ、かなり変わりますね」

「変える必要があるところが変わるだけだ」

白鳥はしばらくルートの変更箇所を眺めてから、自分が担当している埼玉北部のルートについて一つ質問した。その質問は的確だった。秀夫は数秒考えて答えた。白鳥はなるほど、と言って手帳に何かを書いた。それが、最初のまともな業務上の対話だった。

秀夫はその後、白鳥に埼玉エリアの中継調整を任せてみることにした。任せると言っても丸投げではなく、毎日夕方に白鳥から進捗を聞く時間を十分だけ設けた。最初の二日は白鳥の報告が要領を得ず、秀夫は何度か質問を返した。白鳥は次の日、少し整理した形で報告してきた。少しずつだが、変わり始めていた。

そこからの二週間は、秀夫にとって久しぶりに仕事の手応えがある時間だった。改善案の実施に合わせて、まず東京部の幹線ルートを変更した。変更の初日は現場から混乱の電話が数本来たが、秀夫が直接掛け直し、変更の理由と移行期間中の対応方針を説明した。二週目には問題なく定着した。燃料コストの数字が少しずつ改善し始めた。神奈川の担当者から、前より確認の手間が減ったという報告が来た。

白鳥は次第に、自分から改善点を見つけて提案するようになった。最初の提案は荒削りだったが、考える方向は間違っていなかった。秀夫はいい着眼点だ、と言い、どこを直すべきかを具体的に伝えた。白鳥はその場でメモを取り、翌日修正案を持ってきた。その姿は、秀夫が想定していた白鳥の像とは少し違った。仕事を押し付けてくる抜け目のない若者。それが就任してからの秀夫の白鳥への印象だった。それが今は、見ていると覚えようとしている人間に見えた。最も、それが本当のことかどうかは秀夫にはまだ分からなかった。人が変わったように見える時、本当に変わっているのか、それとも状況が変わっただけなのかの区別は難しい。秀夫はそのことを長い年月で学んでいたので、単純に喜ぶことはしなかった。

ある日、秀夫はグループ全体の月次KPIをまとめながら、数字が前月より改善していることを確認した。配送件数あたりの燃料コストが三パーセント下がり、顧客クレームの件数が二件から一件になっていた。小さな数字だった。しかし、秀夫はその小さな数字を見ながら、しばらく画面から目を離せなかった。これは自分が動かした数字だった。十二年間、秀夫は地味なところで働いてきた。数字を記録し、確認し、報告する側だった。その数字が動く側にいたことはなかった。自分がした判断の結果が数字になって戻ってくるという感触は、思っていたよりも実態を持っていた。

月末の部門会議の二日前、山之内が秀夫を廊下で呼び止めた。

「今月のルート改善の件、よくやった」

声は低く、褒め言葉としての温度はほとんどなかった。しかし、秀夫の経験上、この男がよくやったと言うのは極めて稀なことだった。秀夫はありがとうございます、と答えた。山之内は続けた。

「来月の全体会議で発表してもらう。グループ長として」

そして何も言わず、廊下を歩いていった。秀夫はその背中を見送った。発表。それは秀夫が今まで一度もしたことがない種類の仕事だった。スライドを作り、数字を整理し、部門の上役の前で話す。それを、よくやったの代償として求められた。

秀夫は部屋に戻り、デスクに座った。発表というのは、まあやれないことではない。やったことがないと言うだけで、数字は全部手元にある。論理を整理して話せばいい。それだけだ。

その夜、資料の下書きを作り始めながら、秀夫は黒川の言葉を思い出した。賞与の話ではなく、その後の話だった。さおりがどう思うかは今の段階では分からない。ただ、少なくとも今の状態より可能性がある、という部分だった。秀夫は資料から目を外し、少しだけ窓の方を見た。窓の向こうは夜になっていた。今年の年末、借金がどのくらい残っているか計算しようとして、止めた。今計算しても意味がない。結果が出てから考えればいい。ただ今夜だけは、少しだけさおりが今どこで何をしているかということを考えた。三十三歳になっているはずだった。

秀夫は一度だけ静かに息を吐いた。それから画面に向き直り、資料の続きを書き始めた。

全体会議での発表は、秀夫にとって予想外の経験だった。うまくいったという言葉は正確ではない。秀夫は自分がうまく話せたと思っていないし、聴衆の反応を見て満足したわけでもない。ただ、準備した数字を順番に説明し、改善の根拠を示し、今後の方向性を述べた。それだけのことをした。質疑応答で運用本部の別の部長から細かい数字を追及されたが、秀夫は全て即答できた。データを頭に入れていたからだ。

会議が終わり、廊下に出た時、白鳥が隣に並んで歩きながら、良かったですよ、と言った。秀夫はそうか、と言っただけだった。

その翌週から、山之内の態度が少し変わった。廊下で会っても、以前のように素通りせず、一言声をかけるようになった。内容は仕事の確認ばかりで世間話ではない。しかし、秀夫を見る目線の角度がわずかだが変わっていた。秀夫はそれを観察しながら、特に何も感じなかった。人の態度が変わることにはもう慣れていた。問題は、その変化がどういう方向に向かっているかだった。

六月に入ると、関東調整グループの雰囲気がさらに安定してきた。白鳥の報告は整理されるようになり、他のメンバーも少しずつ自分の担当エリアで主体的に動くようになっていた。秀夫が毎日夕方に設けた進捗確認の時間は、最初は秀夫が質問して引き出す形だったが、今は各自が報告すべき内容を準備してくるようになっていた。些細なことかもしれない。だが秀夫は、その変化の積み重ねが何かを作っていることを薄ぼやりと感じていた。

黒川への返信メッセージを書いたのは、その頃だった。発表の件を報告すると、黒川から短い返信が来た。それだけで十分だ。あとは年末まで続けろ、とあった。秀夫はそれを読み、少しだけ口の端を動かした。笑ったとは言えない程度の微かな動きだった。

山之内が秀夫を会議室に呼んだのは、六月十八日の午後のことだった。会議室は普段から締め切りにされている小部屋で、中には細長いテーブルと四脚の椅子があるだけだった。山之内はすでに着席しており、テーブルの上に一枚の紙を置いていた。秀夫が入ると、ドアを閉めるよう言った。

秀夫がドアを閉め座ると、山之内は紙を秀夫の方に向けた。第三四半期のKPI目標値と、それに伴う運用変更の概要が書かれていた。秀夫は黙って読んだ。数字を見た瞬間に、何かが胃の底に落ちるような感覚があった。現在のグループのKPIは、配送件数、燃料効率、クレーム件数の三つを軸にしていた。その三つの目標値が、次の四半期から全て引き上げられていた。配送件数は現行比で二十パーセント増、燃料効率はさらに五パーセントの改善、クレーム件数はゼロを目標とする、と書かれていた。

秀夫は紙を見たまま少し間を置いた。それから山之内を見た。山之内は何も言わずにいた。口の端は、いつものように微妙な角度で上がっていた。

「現状の人員のままで、これを達成しろということですか」

「そうだ」

「二十パーセント増というのは、今の体制では物理的に無理です。ドライバーの稼働時間には上限があり、中継拠点のキャパシティにも限界がある。今の改善は、そのギリギリのところを詰めて出した数字で、そこからさらに二十パーセントを載せるには、人を増やすか、拠点を増強するか、どちらかが必要です」

山之内は表情を変えなかった。

「二〇二六年の物流危機という状況の中で、当社は競合より優位なポジションを取りに行く。それが経営判断だ。そのための数値目標であり、グループ長にはそれを実現する責任がある。必要であれば、既存の取引先との契約条件の見直しも視野に入れていい」

秀夫はその言葉の意味を考えた。契約条件の見直しというのは、下請けの運送業者への支払い単価を下げるということだった。つまり、人員を増やさず、コストも増やさずにより多くの仕事をこなすために、末端のドライバーへの締め付けを強くする。それが山之内の言っていることの実態だった。

秀夫は少し言葉を選んでから言った。

「それは現場のドライバーに過剰な負荷をかけることになります。今でもドライバー不足で各社が苦しんでいる。この条件でさらに単価を下げれば、協力会社が離れていく可能性がある」

山之内の口調が少し変わった。

「松崎さん、あなたは現場の調整の専門家だ。経営の判断については、それとは別の話だ。ここで求められているのは、与えられた目標をどう達成するかのプランであって、その目標が正しいかどうかの議論ではない」

秀夫は黙った。山之内はさらに続けた。

「前回の成果は評価している。だからこそ、次のステップとしてより高い目標を任せている。それを仕事として受け取ってもらいたい」

秀夫は紙を見た。紙の上の数字は変わらなかった。

「分かりました」

秀夫は言いながら、自分が言っていることの意味を考えていた。分かったというのは納得したということではない。ただ、今ここで反論を続けても何も変わらないという判断だった。

部屋を出て廊下に戻った時、秀夫の頭の中では別の計算が始まっていた。この数字を実現しようとすれば、何をどう変えなければならないか。変えられること、変えられないこと。その境界はどこか。帰りの電車の中でも、その計算は続いた。秀夫は吊り革を持ち、窓の外の夜の景色を見ながら、自分が今やろうとしていることの輪郭を考えていた。それは黒川が言った話とは、少しずれ始めていた。乗り切れば賞与が出るという話と、現場のドライバーに無理を強いてでも数字を達成しろという指示の間には、秀夫には見えている線があった。その線を超えれば、賞与の話ではなくなる。

翌朝、秀夫は白鳥を呼び、次の四半期の方針について話した。KPIの目標値が上がることを伝えた。その上で、秀夫自身の考えとして、下請け単価の引き下げには踏み込まない方針でやると言った。白鳥は少し驚いた顔をした。

「でも、山之内部長は」

白鳥は途中で止まり、秀夫を見た。秀夫は言った。

「山之内さんの方針は分かっている。ただし、グループとしての動き方は自分が判断する」

白鳥はしばらく何かを考える顔をして、最終的に、分かりました、と言った。

七月に入ると、KPIの目標値引き上げが正式にグループ全体に通達された。メンバーたちの反応は、秀夫が想定した通りだった。数名が控えめに不満を口にし、一人は直接秀夫に、これは無理じゃないですか、と言いに来た。秀夫はその言葉を受け止め、自分もそう思う。ただし、今できる範囲で最善を尽くすしかない、と答えた。

白鳥はその日から、明らかに秀夫のデスクに来る回数が減った。最初は気にしなかった。仕事が増えて忙しいのだろうと思っていた。しかし、一週間経っても、白鳥が自分から話しかけてくることはほとんどなかった。必要な報告はしてくるが、以前のように少し余分な言葉が添えられることがなくなっていた。秀夫が質問すると答えるが、自発的に動く場面が目に見えて減っていた。秀夫はそれを観察しながら、何も言わなかった。

七月下旬のある夜、秀夫が残業して書類を整理していると、白鳥がデスクに来た。時刻は九時を過ぎていた。白鳥は声を少し落として話しかけてきた。

「例の山田運送の件なんですが」

秀夫は顔を上げた。山田運送というのは、関東調整グループが使っている中規模の協力会社の一つで、千葉と茨城のルートを主に担当していた。

「来月から単価を見直してほしいという打診が、山之内部長の方から直接、山田運送さんに行ったらしくて。山田運送から私のところに確認の電話が来たんです」

「部長から直接、か」

秀夫は確認した。白鳥は頷いた。

「グループ長を通さずに、部長から直接、先方に連絡が行ったみたいで」

秀夫は白鳥の顔を見た。白鳥の表情は読みにくかった。困っている顔をしているようでも、何か別のことを考えている顔のようでもあった。

「分かった。明日確認する」

翌日、秀夫は山之内に声をかけた。協力会社への単価見直しの件だが、自分は聞いていなかった、と言った。山之内は少し表情を変えた。それは驚きではなく、何かを確認するような動きだった。

「ああ、あれは経営判断として進めている案件で、グループ長を経由する必要はないと判断した」

「グループの予算管理は、グループ長の責任範囲のはずです。その変更なら、事前に共有してほしい」

山之内は少し黙ってから、これはグループ単位の話ではなく、会社全体の方針だ、と言った。そして、その話はここで終わり、というように手元の別の書類に目を落とした。秀夫は何も言わずに引き下がった。

その日の昼休み、秀夫は一人でビルの外に出て、近くの公園を歩いた。七月の東京の昼は異常に暑く、日差しが路面に白く反射していた。頭の中で状況の整理をしていた。山之内は自分を経由せずに下請けの締め付けを進めている。KPIの目標は引き上げられたまま変わらない。白鳥の態度が変わり始めている。これらは個別の出来事ではなく、何かにつながっている可能性がある。ただ、何につながっているのかは、まだ分からなかった。

八月に入り、台風が二度関東を通過した。二度目の台風は勢力が強く、深夜に東京湾を通過しながら大雨と暴風をもたらした。秀夫はその夜、会社に残って緊急対応をしていた。便の遅延、荷物の待機場所の確保、取引先への連絡。問い合わせが次々と入り、秀夫はそれを一本ずつ処理した。

そこへ、一件の案件が入った。医療機器の部品メーカーからの依頼で、手術用の電子機器のコンポーネントが緊急で翌朝までに関西の病院へ届く必要があるという案件だった。金額は大きく、納期は絶対だった。秀夫は白鳥にその案件を任せた。

「使う運送業者は、必ずAランクの協力会社にしろ。この荷物は精密機器で、振動への耐性が保証されていない業者では運べない」

白鳥は分かりました、と言って電話を取り始めた。秀夫はその後、別の案件の処理に入った。台風の夜は長く、秀夫が最後の電話を終えたのは午前二時を過ぎた頃だった。白鳥もまだ残っており、案件の処理が終わったと報告してきた。秀夫はお疲れ、と言った。白鳥は軽く頷いて、帰り支度を始めた。

翌朝、秀夫は医療機器の件を確認しようと白鳥のデスクに向かった。白鳥はまだ出勤していなかった。秀夫は自分のデスクに戻り、運行管理のシステムを開いて昨夜の案件を検索した。データが出た。秀夫はそれを見て、数秒間動かなかった。

昨夜の医療機器の案件に使われた運送業者は、Aランクの協力会社ではなかった。秀夫が名前を見て、すぐに分かった。これは以前に一度、品質管理の検査で問題を起こし、秀夫が使用しないように指示を出していたCランクの業者だった。

白鳥が出勤してきたのは九時過ぎだった。秀夫は白鳥を呼んだ。

「昨夜の案件に使ったのは、どこですか」

白鳥はわずかに顔色を変え、それから落ち着いた声で言った。

「申し訳ありません。Aランクが全部埋まっていて、やむを得なかったんです」

秀夫はじっと白鳥の顔を見た。

「それでもCランクはまずい。その業者はリストから外す方向で動いていたはずだ」

白鳥は少し間を置いてから、あの状況で選択肢がなかった、と言った。声に、以前のような謝罪の柔らかさはなかった。どちらかと言えば、そこで終わりにしたいというような乾いた響きがあった。

秀夫は何か言おうとして止めた。今は荷物が届いたかどうかの確認が先だった。秀夫は病院の担当者に確認の電話を入れた。荷物は届いた。ただし、箱に一部へこみがあったという報告を受けた。中身に問題があるかどうかは確認中とのことだった。

秀夫は電話を切り、目を閉じた。中身に問題があれば、賠償になる。金額次第では、会社として大きな損害になる。そして、その案件を担当していたのは、グループ長として秀夫だった。

昼過ぎに病院の担当者から折り返しの電話が来た。箱の損傷と合わせて、一部の部品に動作確認ができないものがあるという報告だった。全損ではないが、交換が必要な部品があり、その調達と再配送にかかるコストと損害を整理して報告してほしいという話だった。秀夫は了承して電話を切った。

その日の夕方、秀夫はデスクで損害額の試算を始めた。部品の単価、輸送コスト、再配送費用、納期遅延による取引先への補償。数字を並べていくにつれ、額が膨らんでいくのが分かった。白鳥がデスクに来たのは、秀夫がその計算をしている最中だった。

「話があります」

秀夫は顔を上げた。白鳥は、昨夜のことなんですが、と言った。その先を言う前に、一度だけ目を伏せた。それから言った。

「グループ長から、コスト削減のためにCランクの業者を使うように、昨夜の時点で口頭で指示があった、という話になっています」

秀夫は白鳥の顔を見た。部屋の中の空気が変わった。秀夫は静かに言った。

「それは事実ではない」

白鳥は秀夫の目をしばらく見た。その目の中に何があるのかを、秀夫は読もうとした。申し訳なさではなかった。恐れでもなかった。どちらかと言えば、それはもう決まったことだ、という種類の冷静さだった。

「私も、それを信じたいんですが。残念ながら、私以外にもその話が伝わっているようなので」

秀夫が口を開こうとした。そこへ、ドアが開き、山之内が入ってきた。秀夫はその登場の速さに一瞬だけ違和感を覚えた。廊下を通りかかったにしては、タイミングが良すぎた。

「重大な案件が発生しているという報告が来ている。明日本社の人事部も入れて、経緯の確認をする」

声は低く、業務的だった。秀夫は分かりました、と言った。山之内は白鳥に一度だけ視線を向け、そして出ていった。白鳥もすぐにデスクに戻っていった。

秀夫は一人になった。デスクの上には、損害額の試算が途中のまま開いていた。秀夫はそれを見た。見ながら、事が置かれている状況の輪郭を頭の中でゆっくりと書き直した。Cランクの業者を使うよう指示したのは誰か。それは秀夫ではなかった。白鳥が判断した。あるいは、白鳥に対してどこかから圧力がかかった。その問いに対する答えは、秀夫には見えていなかった。ただ、今この瞬間に確かなのは、白鳥の言葉と山之内の動きが、秀夫に向かってきているということだった。

翌朝、秀夫はいつも通りの時間に出勤した。スーツは前日の夜に丁寧にアイロンをかけ直した。靴は磨いた。秀夫はそういうことを、落ち着きを保つための習慣として、意識せずにやっていた。

午前十時、秀夫は会議室に呼ばれた。部屋には山之内と、見知らぬ顔が二人いた。人事部から来たと山之内が紹介した。もう一人は顧問だと言った。テーブルの端には白鳥が座っていた。秀夫は正面に座らされた。

山之内が口を開いた。

「今回の医療機器の輸送事故について、経緯を確認したい」

その口調は、確認ではなく、何かが決まっている話を進めるぞ、という響きがあった。顧問の担当者が書類を開き、関係者の証言をまとめたものがある、と言った。

「複数の関係者から、台風の夜、グループ長が口頭でコスト削減を優先するよう指示した、という証言が得られている」

秀夫は言った。

「それは事実ではない」

声は平静だった。自分で驚くくらい、声が揺れなかった。山之内は言った。

「松崎さん、証言が複数ある」

複数という言葉に、妙な力があった。秀夫は聞いた。

「複数というのは、何名ですか」

人事の担当者は少し間を置いてから、二名です、と言った。秀夫は白鳥を見た。白鳥は下を向いていた。

「もう一名は誰ですか」

顧問の担当者が、それは今の時点では開示できない、と言った。秀夫はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。開示できない証人というのは、証人として機能しない。法的には何の意味もない。だが、ここはそういう場ではなかった。ここは事実を確認する場ではなく、責任の所在を決める場だった。

山之内が続けた。

「グループ長として、部下への指示に責任を持つ立場として、今回の事故についての責任を認め、適切な対応を取ってほしい」

適切な対応という言葉の意味は、説明されなかった。

秀夫はしばらく何も言わなかった。部屋の外から、廊下を歩く足音が聞こえた。誰かが電話で喋りながら通り過ぎていった。普通の、何事もない昼間の職場の音だった。秀夫は山之内を見た。山之内の目の中に、何かが満ちていた。秀夫はそれを見て、初めてはっきりと理解した。

この男は、最初からこうするつもりだったのだ。

グループ長という職位は、権限がなく責任だけがある。それは構造的にそういうものとして設計されていた。うまくいけば会社の成果として吸収され、問題が起これば責任者としてグループ長が前に出る。秀夫はその構造の中に、十二年間この会社に忠実に働いてきた男を、意図的に置いたのだ。台風の夜、白鳥がCランクの業者を使ったこと。それが偶発的な判断ミスだったのか、あるいは前持って何かの指示があったのかは、今この時点では秀夫には証明できなかった。だが、関係なかった。ここに来て証言が二つ出た時点で、すでに秀夫の立場は決まっていた。

秀夫は口を開いた。

「今回の案件については、私は関知していません。Cランクの業者を使うよう指示した事実はありません。それは、変わらない事実として申し上げます」

山之内の口角が上がった。その動きは数ミリだった。だが、その数ミリの中に、何かが凝縮していた。

「では、改めて正式な調査に入ります。その間、グループ長の職務は暫定的に別の者が担当する」

「分かりました」

秀夫は部屋を出た。廊下に出て、ドアが閉まった。秀夫は立ち止まった。壁はまた白かった。ただ白いだけの壁だった。頭の中が静かだった。怒りがないわけではなかった。それよりも、何か巨大なものが頭の上から降りてきた感覚があった。

秀夫は自席に戻り、デスクの上を見た。印鑑、付箋のメモ、積んだままの書類、小さなメモ帳。それらが今日の朝には自分のものだったものが、今は別人のものではないかのように見えた。秀夫は椅子に座り、正面の画面を見た。画面には、昨日の損害試算の途中のファイルが開いたままになっていた。秀夫はそれを閉じた。保存しますか、と画面に聞かれた。秀夫はいいえを選んだ。

会社を出たのは、八月の終わりの午後だった。ダンボール箱は小さかった。デスクの引き出しに十二年間かけて溜めたものを全部出しても、一つの箱に余裕で収まった。ボールペンが数本。付箋の残り。ポケットに入れていた小さなメモ帳。それと、以前に取り出して名刺立てに戻したまま、一枚も使わなかった自分の名刺の束。秀夫はそれらを無言で箱に入れ、両手で抱えてビルを出た。

外は晴れていた。八月の東京の午後の日差しは容赦なく、ビルの外壁が白く反射して目を射した。秀夫は少し目を細め、そのまま駅の方向に歩き始めた。

家に着き、部屋のドアを開け、箱を床に置いた。中身を出す気にならなかった。秀夫はそのまま靴を脱ぎ、椅子に座り、しばらく窓を見た。外は普通の午後の風景だった。何かを考えようとしたが、頭の中に何も入ってこなかった。疲れているわけではなかった。空腹でもなかった。ただ、何かが空になっていた。

翌日から、秀夫の生活は急速に変化した。口座の残高は、毎月の返済が引き落とされる度に減り続けた。失業給付の申請をしようとしたが、退職の形式が会社都合ではなく自己都合に近い形で処理されていることが分かった。秀夫は異議を申し立てようとしたが、書類を揃えるためには証拠が必要で、その証拠が手元にほとんどなかった。給付が始まるまでの待機期間、収入はゼロだった。

債権者からの連絡が来始めたのは、その頃だった。最初は書面だった。返済の遅延に関する通知で、秀夫はそれを読み、次の月こそ何とかする、と思いながら引き出しの中にしまった。二週間後、今度は電話が来た。秀夫は一度目は出た。声は事務的で冷静だったが、言っている内容は明確だった。次の支払い期限までに入金がなければ、法的手続きに移行する、と言った。

秀夫は電話を切り、手元にある預金の残高と返済の残額を改めて計算した。数字は明確だった。このまま収入がなければ、三ヶ月以内に支払いが完全に止まる。秀夫はその数字を紙に書き、机の横に貼った。

再就職活動を始めたのは、その翌週だった。秀夫は物流関係の求人を中心に探した。六十五歳という年齢は、管理職の求人ではほぼ全ての応募要件から外れていた。現場系の仕事では、年齢制限が六十歳までのところが多く、六十五歳まで受け付けているところは少なかった。秀夫は条件を広げ、夜間警備、施設管理、軽作業など、体を動かす仕事の求人を調べた。応募書類を何通か送った。二社から面接の連絡が来た。一社目は品川にある小さな倉庫管理会社だった。面接官は秀夫より二十歳近く年下の男で、秀夫の職歴を見ながら、グループ長の経験があるんですね。うちは管理職のポジションはないですが、それでもよければ、と言った。秀夫は構いません、と答えた。結果は一週間後に不採用の通知が来た。二社目は深夜の物流センターの仕分け作業だった。担当者は秀夫の体格を見て、夜間の力仕事になりますが、大丈夫ですか、と聞いた。秀夫は問題ありません、と答えた。この会社からは、採用の連絡が来なかった。

九月の中旬、秀夫は自宅のドアに何かが塗られているのを朝に気づいた。赤いペンキだった。ドアの表面に、横から刷毛で走らせたような線が数本入っていた。量は少なく、完全に乾いていた。秀夫はそれを見て、少しだけ立ち止まった。そのまま部屋に戻り、雑巾とシンナーを持ってきて拭いた。完全には落ちなかったが、目立たない程度にはなった。管理会社に連絡しようとして、止めた。問題を大きくすることで解決するかどうか分からなかったし、何より今は余計な時間と気力を使いたくなかった。

それから数日後の深夜、インターフォンが鳴った。秀夫は応答しなかった。数分後、ドアを叩く音がした。秀夫はそのまま動かなかった。やがて、音は止んだ。翌朝、ドアの前に封筒が置かれていた。中には手書きの紙が一枚入っており、返済の期限と、それを過ぎた場合の措置について書かれていた。秀夫はそれを読み、引き出しの中の他の書類と重ねた。

黒川に連絡したのは、そういう状況が二週間以上続いた頃だった。秀夫はメッセージを送った。少し状況が変わった。相談したいことがある。時間があれば会えないか、と書いた。返信は夕方に来た。

「ごめん、今すぐは難しい。うちの会社で今ちょっとした問題があって、外との接触を控えるように言われてる。お前のこと、いろいろ聞こえてきてるよ。悪いけど、今は連絡取れない」

秀夫はその文章を三度読んだ。いろいろ聞こえてきてる。その言葉の意味を、秀夫はすぐに理解した。会社での件が、どういう形かで外に伝わっている。黒川はその話を聞いて、距離を置くことにした。

秀夫はスマートフォンをテーブルに置いた。返信はしなかった。黒川が悪い人間だとは思わなかった。役員を目指していると、以前に言っていた。そういう立場にある人間が、不正に関わったと噂される人物と付き合い続けることは難しい。それは理屈としては理解できた。ただ、理解できることと、受け止められることは違った。

十月の初め、秀夫は娘のさおりのことを考えるようになった。正確には、以前から頭の隅にあったものが、他の選択肢がなくなるにつれて浮かび上がってきたという感じだった。黒川も連絡が取れない。仕事の目処も立っていない。返済は止まりかけている。こういう状況の中で、ただ一人だけ血のつながった人間がこの世界にいることを、秀夫は改めて意識した。助けを求めるというつもりはなかった。ただ、会いたかった。それだけだった。

さおりが今どこに住んでいるかは、秀夫はおよそ把握していた。数年前にみち子から届いた一通の書類に、さおりの住所が記載されていた。その書類は今も引き出しの中にあった。東京のはずれ。電車で一時間ほどの住宅地だった。

一週間後の雨の夜、秀夫は駅に向かった。傘を持っていなかった。出かけるつもりで出たわけではなかった。ただ、部屋にいることができなくなり、外に出て歩いていたら駅に着いていた。秀夫は切符を買い、電車に乗った。一時間弱で、さおりの住む最寄りの駅に着いた。改札を出ると、小さな商店街があり、その先は住宅地になっていた。秀夫はスマートフォンの地図を見ながら歩いた。雨は強くなっていた。ジャケットが肩から濡れて、重くなった。

二十分ほど歩いて、目当ての家の前に着いた。小さな二階建ての建物で、一階の窓から明かりが漏れていた。玄関の横に小さな植木鉢が二つ並んでいた。表札があり、さおりの姓が書かれていた。結婚しているのだと、秀夫はその時初めて確認した。

秀夫はしばらく道路の向かいから家を見た。中に誰かがいる気配はあった。窓の明かりが揺れ、人影が横切るのが見えた。秀夫は道路を渡り、玄関の前に立った。インターフォンのボタンを見た。押そうとして、手が止まった。何を言うつもりだったのか、考えていなかった。来てしまってから、初めて気がついた。十五年ぶりに、雨に濡れた姿で立って、何を言うのか。

秀夫は手を伸ばし、ボタンを押した。少し間があって、足音が聞こえた。ドアが開いた。さおりは、玄関の明かりの中に立っていた。秀夫が最後に見た時より大人になっていたが、目の形は昔のままだった。さおりは秀夫を見て、最初の一秒だけ何も言わなかった。それから、表情が変わった。

「なんで来たの」

声は低く、感情が抑えられていた。秀夫は、近くまで来たので、と言った。嘘だった。それが言えた最善の言葉だった。さおりは秀夫を頭の先から足元まで一度だけ見た。雨に濡れた服、痩せた顔。その視線の中に、何かを読み取ろうとする動きがあった。それから、さおりは言った。

「お金のことなら、私には関係ない。もう、関係したくない。ここに来るのはやめてほしい。私には家族がいる。迷惑をかけないでほしい」

秀夫はさおりの顔を見た。声は、思っていたより落ち着いていた。怒鳴っているわけでも、泣いているわけでもなかった。ただ、ドア一枚隔てた向こうにいる人間に対して、言うべきことを過不足なく言っている。そういう声だった。秀夫は何も言えなかった。

さおりはもう一秒だけ秀夫を見て、ドアを閉めた。閉まる直前、玄関の奥の廊下に小さな人影が見えた。子供だった。三歳か四歳くらいの、パジャマを着た子供が、廊下に立っていた。その子は秀夫を見た。秀夫もその子を見た。ドアが閉まった。

秀夫は玄関の前に立ったまま、しばらく動かなかった。雨が続いていた。孫がいた。秀夫は、今初めてそのことを知った。その事実を受け取る容器が、今の秀夫の中にはなかった。嬉しいとも悲しいとも、うまく感じられなかった。ただ、事実として存在している。それだけだった。

秀夫は向きを変え、歩き始めた。駅まで戻る道を、雨の中を歩いた。傘はなかった。ジャケットは完全に濡れ、靴の中まで水が入っていた。だが、歩く速度は変えなかった。信号が赤になれば止まり、青になれば渡った。

家に帰り、濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びた。お湯の温度を上げても、体の芯からは冷えが抜けなかった。秀夫はしばらくシャワーを浴び続け、それから出てタオルで体を拭き、古いトレーナーに着替えた。椅子に座り、テーブルの上を見た。麦焼酎の瓶、開封していない米、スマートフォン。それと、以前から机の横に貼ったままの返済残高の数字を書いた紙。秀夫はそれらを見た。長い間、何もしなかった。頭の中は静かだった。悲しみがなかったわけではない。ただ、悲しみというものが、今の秀夫の中では音を立てなかった。

それでも、翌朝、秀夫は起きた。五時半に目が覚めた。長年の習慣で、目覚ましをかけなくても起きる体になっていた。秀夫は水で顔を洗い、インスタントコーヒーを入れた。窓の外は雨が上がっていた。路面が濡れて、光っていた。秀夫はコーヒーを飲みながら、今日何をするかを考えた。求人を探す。それだけだった。それ以外にできることが、今の秀夫にはなかった。できることがそれしかないなら、それをするしかない。秀夫はコーヒーカップを置き、パソコンを開いた。

十月の半ば、秀夫は部屋の中で荷物の整理を始めた。理由は単純だった。家賃が払えなくなる前に、部屋を引き払う準備をしておく必要があった。次にどこへ行くかは決まっていなかった。当面は、安いネットカフェか、地元のない町の簡易宿泊所を探すしかないと思っていた。

秀夫は押入れの奥から古いダンボール箱を取り出し、本棚の本を入れ始めた。本は少なかった。物流の専門書が数冊と、古い文庫本が十冊ほど。それだけだった。会社から持ち帰ったダンボール箱は、あの日から床に置いたままだった。秀夫はそれも開き、中身を確認した。ボールペン、付箋、メモ帳、使わなかった名刺の束。秀夫は名刺だけを取り出し、ゴミ袋に入れた。

作業を続けながら、秀夫は自分が今何をしているのかを考えた。何かをしていなければならなかった。動いていれば、頭が余計なことを考えない。十二年間、そうやってきた。手を動かし、足を動かし、考えを押し込んでいれば、朝から夜までなんとかになる。問題は夜だった。動きが止まると、静寂の中に色々なものが浮かんでくる。

押入れの奥から、古い布のトートバッグが出てきた。秀夫はそれを引き出し、中を確認した。会社の書類がいくつか入っていた。グループ長になって最初の週に、秀夫は自分の仕事の記録を個人のパソコンに保存し始めていた。意図的にやったわけではなかった。毎日の業務の記録を、会社のシステムとは別に手元にも残す習慣が、長年の現場仕事でついていた。何かトラブルがあった時、自分がいつ何をしたかを証明できるようにするためだ。秀夫はそのデータのことを、あの会議室で白鳥と山之内に向き合ったあの日から、ほとんど考えていなかった。考えても何も変わらないと思っていた。

だが、今この布製のバッグの中に、会社支給ではなく自分の個人用のUSBメモリが入っていた。秀夫はそれを手に取り、しばらく眺めた。親指ほどの大きさの、黒いメモリだった。これに、グループ長として働いた期間の配送データが入っている。秀夫は記録用として、毎週のデータを自分のパソコンにコピーしていた。

秀夫はパソコンを引き寄せ、電源を入れた。メモリを差し込み、ファイルを開いた。配送管理の記録が並んでいた。秀夫は日付を遡り、台風の夜の前後のデータを開いた。事故のあった案件のファイルを探し、数字を確認し始めた。最初は何を探しているのかよく分からなかった。ただ、手を動かしていた。三十分ほど経った頃、秀夫はある数字の前で手を止めた。

台風の夜に事故を起こしたCランクの業者。その業者の使用記録だった。秀夫が見ている個人メモには、その業者への発注記録の断片が含まれていた。日付を確認すると、台風の夜よりも前、七月の段階で、すでにその業者への発注がグループ内で行われていた痕跡があった。秀夫は目を凝らした。七月といえば、秀夫がCランクの業者を使わない方針を示した時期だった。それ以降、Cランク業者への発注は、秀夫の確認なしには行われないはずだった。しかし、記録の数字を見ると、七月から八月の台風の夜まで、断続的に小さな案件でその業者が使われていた痕跡がある。

秀夫はさらに掘り下げた。数字を追うにつれ、輪郭が浮かんできた。その業者への発注は、秀夫がグループ長に就いてからずっと、秀夫の知らないところで継続されていた。その経路は秀夫のルートではなく、別のラインから入っていた。そして、台風の夜の案件は、それまで積み重ねてきた流れの延長線上にあった。偶発的な判断ミスではなかった。

さらに数字を見ると、もう一つのパターンがあった。Cランク業者への発注は、単価が正規ルートより低かった。しかし、会社の経費記録では、正規ルートの単価で処理されている。その差額がどこへ行ったのかは、秀夫の手元のデータでは直接追えなかった。しかし、差額が発生していること自体は、数字から読み取れた。

秀夫はデータから目を離し、椅子の背もたれに体を預けた。部屋の中は静かだった。秀夫は数秒間、天井を見た。これは偶発的な事故ではない。Cランク業者への発注は意図的に続けられており、その差額は抜かれていた可能性がある。台風の夜の件は、その流れの中でたまたま大きな問題が表面化したに過ぎず、秀夫はその問題を被せる相手として使われた。元々、そのためにグループ長の椅子に座らされていたのかもしれなかった。

秀夫は再びパソコンの画面を見た。データは断片的で、秀夫の手元にあるのは個人メモの範囲だった。しかし、その断片でも流れの形は見えた。秀夫が何も知らずにいれば、このデータは整理の中に消えていたかもしれなかった。

秀夫は少しの間、考えた。自分がこれをどうするかについて、怒りはあった。ただ、その怒りは今まで感じてきたものとは少し種類が違った。胃の中から来るような、荒くて出口のない怒りではなく、もっと静かで冷たいものだった。何かを正したいという感情よりも、自分がどこでどう使われたかを最後まで確認したい、という感覚に近かった。

秀夫はUSBメモリを抜き、手の中で転がした。それから立ち上がり、押入れの中から一冊のノートを取り出した。グループ長だった期間に、日々の業務確認として手書きで残していたメモだった。秀夫は毎晩、その日の主な動きと判断をノートに書く習慣があった。これも個人的な記録で、会社の資産ではなかった。秀夫はノートを開き、問題の期間のページを確認した。台風の夜の記録がある。秀夫が白鳥にAランクの業者を使うよう指示した時刻と内容が、秀夫の手書きで残っていた。秀夫の指示が、いつ、どういう言葉で行われたかが、日付と時刻付きで書いてあった。

秀夫はノートを閉じ、USBメモリと一緒にテーブルに置いた。それから、部屋の整理作業に戻った。本の残りを箱に入れ、押入れの中の不要品を分け、ゴミ袋を二つ結んだ。

どこへ持っていくか。会社の支社に戻るのは意味がなかった。山之内がいる場所に持ち込んでも、隠蔽されるか、証拠として認めてもらえないかのどちらかだ。秀夫が持ち込むべき場所は、一つしかなかった。会社の本社だ。本社には取締役がおり、そこには山之内の上に当たる役職者がいる。支社の内部告発が最初に届くべき場所としては、そこしかない。

秀夫は翌朝の準備を始めた。持っていくものを整理した。USBメモリー、手書きのノート、そしてグループ長として承認した書類のコピーが数枚。秀夫はそれらを一つの封筒にまとめた。スーツを出した。グループ長になってから何度かアイロンをかけたスーツだった。少し古かったが、しっかりした生地で、きちんと着れば見苦しいものではなかった。秀夫はそれをハンガーにかけ、アイロンをかけた。折り目を一本ずつ、丁寧に伸ばした。靴を出し、布で磨いた。それから布団に入った。

翌朝、秀夫は五時半に目が覚めた。顔を洗い、コーヒーを飲み、スーツを着た。鏡の前に立つと、痩せた顔と少し薄くなった髪が映った。背筋はまっすぐだった。秀夫はネクタイを締め、封筒を内ポケットに入れた。駅に向かった。

本社のビルに着いたのは九時過ぎだった。受付に名前を告げ、取締役の事務局と話したいと言った。受付の女性は少し困った顔をした。どのようなご要件でしょうか、と聞いた。秀夫は、以前の支社での業務に関して、経営陣に直接お伝えしたい内容がある、と言った。受付の女性はしばらく待つように言い、内線をかけた。秀夫はロビーの椅子に座らず、立っていた。待っている間、特に何も考えなかった。ここまで来た。あとは話すだけだ。

十分ほど後、エレベーターから若い男が降りてきた。秘書室の者だと名乗り、内容を聞かせてほしいと言った。秀夫は、詳細は担当の方に直接お伝えしたい。支社の運用に関する不正の可能性について、報告がある、と言った。男の表情が少し変わった。少々お待ちください、と言って電話をかけた。

さらに十五分後、秀夫は会議室に通された。部屋には三人いた。内部監査室の担当者と名乗る中年の男性が二人と、顧問部門の女性が一人だった。秀夫は向かい側に座った。

秀夫は話し始めた。自分がグループ長だった期間の経緯を、最初から順番に話した。KPI目標の引き上げ、下請け単価の問題、台風の夜の案件、翌朝の会議室での経緯。感情を排して、事実として話した。話し終えると、封筒を取り出し、テーブルに置いた。

「USBメモリとノート、書類のコピーです。データは支社での業務中に、個人の記録として保管していたものです。管理の数字の中に、業者への発注単価と経費処理の間に差異が継続的に発生していた痕跡があります。私の判断ミスとして処理された台風の夜の案件は、その流れの中に位置しています」

部屋が静かになった。内部監査の担当者が封筒を受け取り、中のUSBメモリを見た。

「ご連絡先を教えていただけますか」

秀夫は名刺を持っていなかった。手帳に電話番号を書いて渡した。担当者は、確認に時間がかかるかもしれませんが、必要であればまたご連絡します、と言った。秀夫は分かりました、と言った。それだけだった。

秀夫はビルを出た。外は秋の晴れた空だった。秀夫はしばらくビルの前に立ち、空を見た。高いところに、薄い雲が流れていた。それから歩き始めた。駅に戻る途中、秀夫はコンビニに寄って、缶コーヒーを一本買った。ホットの、安いやつだった。外のベンチに座り、それを飲んだ。どうなるかは分からなかった。持ち込んだデータが動くかどうか、調査が始まるかどうか、始まったとして、何かが変わるかどうか。秀夫には何も確信がなかった。ただ、持っていたものを持って行くべき場所に持っていった。それ以上のことは、秀夫にはできなかった。

一ヶ月後、本社の内部監査室から電話が来た。調査の結果、秀夫の提出したデータをもとに、支社内での複数の不正取引の痕跡が確認された、という連絡だった。詳細は現在も精査中だが、山之内部長と白鳥の関与について調査を進めている、と言った。秀夫は短く、分かりました、と言った。それ以上、何も聞かなかった。

さらに三週間後、別の担当者から連絡が来た。調査の結果を踏まえ、秀夫の退職処理について見直しを行う。不当な処分として会社として認定し、保証を行いたい、という内容だった。秀夫はその話を聞き、金額を確認し、一日考えた。翌日、先方に連絡して、保証は受け取る。ただし、職場への復帰は断る、と伝えた。担当者は少し驚いた様子で理由を聞いた。秀夫は、戻る理由がない、と言った。それだけだった。

保証金が振り込まれた日、秀夫は銀行のATMの前に立ち、残高を確認した。返済に当てる分を計算した。今の残高に保証金を加えれば、残りの負債をほぼ全額返済できる。秀夫は振り込みの手続きをした。画面の数字が変わった。

外に出ると、十二月の東京は寒かった。秀夫はコートを着ていなかった。商店街を歩きながら、すれ違う人たちを見た。買い物袋を持った主婦、スマートフォンを見ながら歩く若者、自転車で走っていく子供。それぞれの用事を持って、それぞれの方向に動いている。秀夫はその中を、特に急ぐ理由もなく歩いた。

新しい仕事が始まったのは、その翌月だった。求人サイトで見つけた、都内の建設現場での夜間警備の仕事だった。シフトは夜十時から朝六時まで、週四日。給与は以前の半分以下だったが、家賃を下げた今の生活には十分だった。初日、秀夫は制服を受け取り、担当者から仕事の説明を受けた。夜間の現場の見回りと不審者の確認、業者の出入りの記録。単純な仕事だった。

深夜の現場は静かだった。クレーンが夜空に突き出しており、鉄骨の構造が街灯の光の中に浮かんでいた。秀夫は懐中電灯を持ち、決まったルートを歩いた。自分の足音だけが聞こえた。見回りを終え、現場の端に立って、一服した。タバコに火をつけると、白い煙が冬の空気の中にゆっくりと広がった。秀夫は煙が消えるのを見ながら、特に何も考えなかった。

手の中の返済残高の数字は、もうなかった。冷蔵庫の横のメモも、もう先週、剥がした。借金はなくなった。娘には、会えていない。孫の顔を見たのは、あの雨の夜の、一秒だけだった。黒川とは、それ以来、連絡を取っていない。山之内と白鳥がその後どうなったかは、秀夫から追うことはしなかった。会社から届いた一通の書類で、何らかの処分が行われたことだけは分かっていた。

秀夫はタバコを吸い終え、携帯灰皿に押し込んだ。冬の東京の夜は、まだ始まったばかりだった。秀夫は懐中電灯を持ち直し、次の見回りのルートに向かった。足元の砂利が、音を立てた。その音が、夜の静寂の中に広がり、消えた。秀夫は歩き続けた。

派手でも、劇的でもなかった。誰かに感謝されているわけでも、誰かの役に立っているわけでもなかった。六十五歳の男が、冬の深夜に、工事現場を一人で歩き回っているだけだった。ただ、秀夫の目は静かだった。長い間、秀夫の目の奥には何か張り詰めたものがあった。返済、解雇、孤立、裏切り。そういったものが糸のように絡まり、目の奥に重さとして溜まっていた。今夜、その重さの種類が変わっていた。消えたわけではない。ただ、以前とは違う質のものになっていた。

秀夫は現場の端まで歩き、向きを変えた。懐中電灯が足元を照らした。光の輪が、地面を動いた。朝まで、まだ時間がある。秀夫は歩き続けた。

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