大卒の三人だけで話しましょう。俺の方を見て馬鹿にしたように笑っているのは、エリート大卒の営業部長だ。この人は俺のことを一方的に敵視していて、部長会議で仲間外れという地味な嫌がらせをしてきた。しかし俺の堪忍袋の緒が切れた結果、営業部長とエリート軍団は泣いて許しを乞うはめになる。
俺の名前は金井。四十歳。中堅で働くシステム部の部長だ。俺の人生は順風満帆とは言えない。高校一年の冬、父親が経営していた町工場が突然倒産。高校を中退し、工場のアルバイトや雑用をして家計を支えた。将来は安定した仕事に就きたいと思っていたため、仕事の合間に独学でプログラミングを学ぶ。努力の甲斐もあり、プログラミング関連の資格を取得後、二十三歳で今の会社に転職。システム部で平社員からスタートし、実力一本で周りと戦ってきた。
我が社は前社長が学歴主義で、今もその風潮は残っている。現トップの清水社長は実力を重視する人で、五年前に交代した後、俺はトントン拍子で昇進し、半年前に部長になった。ちなみに俺は部長職では社内唯一の高卒だ。清水社長になってから高卒の登用や昇進が進んでいるので、学歴重視の空気もいつかなくなるだろう。しかし前社長の時代に学歴で社内の地位を確立し、今も偉そうな態度の人はそこそこいる。営業部のトップである中西部長がその代表格だ。
中西部長は有名大学の出身で、同じ大学出身者を集めた派閥を作っている。プライドが高く偉そうな態度のメンバーが多いので、派閥を嫌っている人たちは裏でエリート軍団と呼んでいた。俺は中西部長のことを特に何とも思っていなかったが、五年前、清水社長に代わった直後に起こった事件で中西部長から一方的に敵視されている。
部長は自分が贔屓にしていた外部のシステム会社を、コスト削減や最新技術導入にちょうどいいという理由で社内に強烈な売り込みをかけたのだ。中西部長は半ば強制的にシステムを導入しようとする。俺はシステム会社の経営状況や技術レベルを細かく調べ、当時のシステム部の部長に進言した。部長は俺を学歴ではなく実力で評価してくれる数少ない人で、俺の話を真面目に聞いてくれた。部長は清水社長に進言。その結果、外部委託の話は白紙になった。
システム部の部長から聞いたぞ。お前が余計なことをしたらしいな。あの会社と契約できれば俺の懐も潤ったのに。中西部長は契約の報酬を受け取る予定だったらしい。かなり恨まれ、顔を合わせるたびに嫌味を言われるようになった。ところが俺の読みは正しかったことが証明される。この出来事から半年後、契約した別の企業で大規模なシステム障害が発生し、業界内で話題になったのだ。中西部長は反省し謝罪するかと思いきや、さらに俺に対する攻撃を強めていく。どうしても自分の間違いを認めたくないようだ。
ある日、俺は夜遅くまで会社に残り、ある仕事をこなしていた。今日の仕事は月に一回の保守作業だ。清水社長に代わった直後、大手企業がサイバー攻撃を受けニュースになった。清水社長はこれを受け自社のシステム強化を決定。俺は一人で社内サーバーを監視するアラートシステムを独自に構築した。毎月の保守作業で動作確認するのが俺の重要な仕事だ。動作確認も問題なく終了したので、帰宅した。
翌日、総務部の社員がシステム部にやってきた。次回の部長会議の議題とのことだ。部長会議は中西部長の主催で月一回行われているものだ。社員が帰った後、書類の中身を確認する。議題は各部署の次年度予算についてだ。他に大きな変動はないが、システム部だけ三十パーセントの削減が必要と書かれている。理由はコスト最適化及び業務効率化だ。もっともらしい理由が並べて書かれているが、起案者の欄に中西部長の名前を見つけて嫌がらせの一環だと気づく。削減対象となっている業務には月一回の保守作業も書かれていた。まるでこの保守作業を潰すための提案ではないか。考えすぎか。頭を振って雑念を払う。
この出来事から数日後、社内の空気が徐々に嫌なものになっていることに気づいた。部下の一人が声をかけてくる。社内で噂になっているんです。うちの部署が社員の個人情報を盗み見してるって。俺はそんな権限はないと否定するが、噂は広がっているらしい。予算削減の件でシステム部はピンチに陥っている。このタイミングで噂が流れたのは本当に偶然か。この噂は中西部長が流したものではないか。俺にできるのは可能な限り中西部長に近づかないようにすることだけだ。
それから三日後、俺は部長会議に出席していた。部屋に入ってすぐ視界に入ったのが上座に腰かけている中西部長だ。隣にいるのは中西部長の大学時代の後輩でエリート軍団のナンバー2である総務部の織田部長、そして経理部の胃嵐部長だ。俺がシステム部の取り組みを説明しようと口を開くと、中西部長が遮る。次も同じだった。どう口を開いても遮り切られる。これは偶然ではなく、最初から決められた役割分担だ。中西部長が采配し、織田部長が実行する。三人時間後、俺は一切の発言も許されず会議が終了した。
さて、この後は大卒の三人だけで話しましょう。中西部長が笑顔で言う。俺を仲間外れにして嫌な思いをさせてやろうという意地の悪い感情が伝わってきた。やっていることがあまりにも低レベルだ。これ以上中西部長と同じ空気を吸いたくない。では失礼します。無視されるだろうが礼儀だと思い頭を下げて会議室から出ていく。すると胃嵐部長が俺の後を追いかけてくる。金内部長、大丈夫ですか。俺は今年から社内相談窓口を担当しているんです。胃嵐部長は自分の身の上を話し始めた。彼は二十七歳までアメリカで過ごしていたが、アジア人というだけで偏見の目で見られることもあったという。相談窓口になったのは、俺と同じように苦しんでいる人を助けたいと思ったからです。
胃嵐部長、経理部のあなたにしか頼めないことがあります。協力してくれませんか。俺がある計画を話すと、胃嵐部長は驚いていたが、最終的には頷いて返した。
それから一ヶ月後、今日は各部署の係長と課長、部長を集めた全体会議の日だ。俺は事前にある書類を提出していた。マイクを手に取る前、一瞬だけ目を閉じる。高卒の文字が壁になる瞬間は何度もあった。今日、その壁を正面から崩しに行く。データは嘘をつかない。では、システム部と経理部からの共同報告をさせていただきます。俺は手元のパソコンを操作し、スクリーンにある資料を映し出す。システム部は社内サーバーを監視するアラートシステムの運用をしています。一ヶ月前の保守点検であるログを見つけました。営業部の経費証憑ログです。中西部長たちに視線が集まる。証憑のタイムスタンプが物理的にありえない順序になっているんです。要するに誰かが意図的に手を加えたということです。なぜ手を加えたか。普通なら承認されない経費を通す必要があったからですよ。続けて胃嵐部長が口を開く。実態のない経費だと判明したんです。これは営業部の年間交際費予算の三十八パーセントに相当します。
中西部長が顔面蒼白で立ち上がり、俺を指差す。システム部には怪しい噂があると聞いたぞ。その噂を流したのもあなたではないですか。俺はマイクを握り直し、まっすぐ中西部長を見た。システム部の保守作業への不審感を社内に広め、予算削減への流れを作る。そのための噂だったんでしょう。中西部長が一瞬息を飲む。その隙に俺は決定的な証拠を突きつける。この三年間で計上された金額はおよそ四百万円。そして中西部長と織田部長が連名で提案したシステム部の予算削減額は同じく四百万円です。この金額が偶然一致しているとは考えにくい。削減額を不正経費に合わせて設定したのではないですか。
会議室の緊張が高まる中、営業部の課長が震えながら手を上げた。俺、中西部長に脅されてました。派閥の飲み会幹事で、実態のない経費を計上するようにと言われて、断れる雰囲気じゃなかったんです。その声を合図に、席が切れたように次々と口が開いた。俺も中西部長に言われてやりました。俺も逆らえなかった。中西部長と織田部長は冷や汗を滲ませながら仲間たちを見つめる。これは明らかに横領ですね。胃嵐部長の言葉に俺は頷く。人事部の部長が立ち上がった。中西君、残念だよ。この人は最年長の部長で中西部長のことを可愛がっていた。しかし今は中西部長を覚めた目で見ている。今回の件、俺から清水社長に報告しておこう。
中西部長はまだ言い訳を続ける。こいつは高卒で学歴も後ろ盾もないやつですよ。俺は中西部長を見据えていった。捏造したとして、俺に何のメリットがあるんですか。俺を貶めようとしているのはあなたたち二人の方ですよね。五年前、中西部長が贔屓にしているシステム会社の不備を暴き、部長の懐に入るはずだった契約の報酬をなかったことにした。高卒の俺にしやられて、あなたはプライドを壊され、ずっと俺を逆恨みしてたんでしょ。中西部長と織田部長が俯く。続けて俺はずっと考えていた疑問を口にした。うちの部署の予算削減をしようとしたのは、清水社長への交代で自分たちの影響力が弱まり始めた頃から続けてきた不正を隠すためだったんですか。保守作業をなくせば、俺がログを見る機会もなくなり、自分たちの不正が暴かれる心配もなくなる。だから部長会議で予算削減を提言しようとしたんですね。中西部長の顔が歪む。どうやら俺の予想通りだったようだ。
会議は中断となり、人事部長がすぐ清水社長に報告。俺と胃嵐部長は社長室に呼び出され、詳細を報告した。清水社長は社内調査を実施。結果、二人の横領が認められ、懲戒処分となった。横領に加担したエリート軍団の社員たちも解雇。他のメンバーは関与の度合いに応じ、厳しい処罰が下された。織田部長は資産を売却しても返還資金が足りず、路上生活寸前と噂で聞いた。中西部長はさらに悲惨で、資産を全て失った上に妻から離婚を突きつけられ、子供の親権も失ったとのこと。同情する人は誰もいない。一方の俺は、清水社長からセキュリティ強化を命じられ、忙しい毎日を送っている。予算は増やす。人員も必要なら言ってくれ。清水社長の期待に答えるため、俺は今日も全力で仕事を頑張っている。
そんなある日、俺の工場に一通の書類が届いた。内容は融資のキャンセル通知。私は若林、四十六歳。父から受け継いだ町工場の二代目社長だ。大手自動車メーカーの製造ラインに組み込まれる部品の加工をなりわいにしている。要求されるのは、0. 01ミリ以下の誤差も許されない精密な加工技術だ。俺は工場を受け継いだ翌年から、父が四十年かけて築いた技術を改良するため、新技術の開発に着手した。そして昨年、ようやく理想の加工技術にたどり着く。この技術は独自の接合工程を体系化したもので、同じ精度をより短いサイクルで量産できる。特許も取得することができた。設備を増強すれば従来の二倍の量を受注できる。ただし、そのためには新たな設備投資として三千万円必要になる。俺は取引銀行に提出する融資計画書を作り、十年以上担当してくれている石口に提出した。音社の実績とこの特許技術があれば、審査も問題なく通るでしょう。計画書を丁寧にめくりながら石口はそう言った。
だが翌週、事態は急変する。石口が持病の悪化で入院が必要になったというのだ。融資の件は後任に引き継ぐのでご安心ください。入院直前に関口はそう連絡してきたが、これまで十年以上やり取りしてきた相手が変わることに俺は不安を拭いきれなかった。後任の担当者から連絡が来たのは、石口の入院から一週間後のことだ。根本と名乗るその担当者は、近日中に融資の件を相談したいので俺の工場を訪問したいとのことだった。その話しぶりに俺はさらに不安になる。手元の声はまるで自動音声のように感情がない上に、顧客に対する礼儀を欠いた存在なものだったからだ。
訪問当日、根本は工場につくなり作業場に目を向けた。こんな工場で部品の精密加工などできるんですか。わざわざ従業員たちを一人一人見回すように視線を動かし、声を必要以上に張って聞こえよがしに続ける。まるでこの空間全体を採点して回るような立ち振る舞いだった。従業員たちは作業を止め、不安げに根本を見ている。根本はそんな視線などお構いなしに、平坦な口振りで言った。これで三千万の融資などとよく言えたものだ。俺は根本に声をかけた。こちらへどうぞ。応接室で改めてご説明します。根本は鼻を鳴らして首を振った。結構です。どうせすぐ終わります。ここで構いません。
根本は構わず鞄の中から書類を取り出した。石口に預けたはずの融資計画書だ。その時、工場の入り口に人影が現れた。二十八年来越の取引先で調達部長を務める小島だ。翌月の品について確認したいという連絡が前日に入っていた。根本は小島には目もくれず、計画書を手にしたまま続けた。財務諸表は一応拝見しましたよ。売上規模、設備の状況。いずれも三千万の融資に見合うものではありません。しかし特許があります。その技術があれば。俺が口を開くと、根本は即座に遮り切った。どんな特別な特許なのかは知りませんが、それで経営が安定するわけではないですよね。その物言いに、根本の判断はこの工場に足を踏み入れた瞬間からすでに固まっていたのだと悟った。計画書の中身など、最初から読む気がなかったのだ。根本はそのまま計画書を両手でゆっくりと引き裂いた。一度では足りないとでも言うように、もう一度。破れた紙片が作業場の床に落ちた。ボロ工場への三千万の融資はキャンセルで。根本はそれだけ吐き捨てると、来た時と同じ足取りで工場を出ていく。
俺は動けなかった。頭の中であの計画書の最後のページが浮かんだ。父が四十年かけて磨き上げた技術を、俺がさらに前へ進めるための計画だった。結果が出なくて夜中に一人で機械に向かい続けたあの日々が浮かんだ。先祖代々からここで働き続けてくれている職人たちの顔が浮かんだ。その全てが今、床の上で無惨に散らばっている。一部始終を見ていた小島が静かに歩み寄ってくる。若林さん、今のは一体。俺は融資が断られたと小島に率直に話した。そうでしたか。小島はそう話してから顎に手を当て、しばらく思案してから意味深な笑みを浮かべていった。いいですね、若林さん。これは天気かもしれませんよ。俺は思わず聞き返した。小島は続けた。銀行の融資などなくても、あなたの技術を生かす道があります。場所かそれとも機会か。俺はすぐには言葉の意味を飲み込めなかった。しかしその言葉に俺は顔を上げ、小島を事務所へ案内した。
向かい合って椅子に腰を下ろすと、小島は静かに切り出した。若林さん、音社が特許を取得したのは去年の秋でしたね。そうです。特許公報に音社の技術が載った時、私はすぐに中身を読みました。あの接合工程の仕組みを見て、これはうちが求めていたものだと直感しました。うちの工場では新製品ラインを立ち上げます。音社の特許技術で加工した部品をそこに組み込めば、製造コストを大幅に削減できる見込みがある。その精度と量産体制の両方を満たせるのは若林さんの工場だけです。若林さんから以前、設備増強のために銀行へ融資を申し込んでいるとお聞きしていました。そのことがあったので、私から先に話を持ち込むのは筋が違うと思い、待っていたんです。ただ、今日ここで起きたことを見て、話してもいい段階だと判断しました。単刀直入に言わせていただきます。銀行が知りくなら、うちが直接出資させていただきたい。金額は変わりません。三千万です。小島は続けた。一つは設備の仕様をうちと共同で決めること。もう一つは音社の特許技術の独占契約です。他社は一切使用を認めない。その代わり、こちらは市場相場を大きく上回る使用料を継続的にお支払いします。工場の運営には口を出さないということですか。もちろんです。この工場はあくまで若林さんのものです。俺は少し考えた。小島は父の代から二十八年にわたって取引を担当している。その間、小島から不当な単価引き下げや納期の短縮を要求されたことは一度もない。うちの工場にとって最も信頼できる取引相手と言っていい。その小島からの提案なのだ。受けます。俺は迷いなくそう告げる。
小島との正式な資本提携契約が締結されたのは、それから十日後のことだった。設備仕様を共同で決めることと、特許技術に関する独占使用が定められた。また、相場を上回る継続的な使用料の支払いと、設備導入に対し三千万円の出資も決まる。早速翌日から設備の選定が始まる。小島の会社から生産技術担当が工場を訪れ、新製品ラインに必要なスペックを俺と二人で洗い出す。最終的に精密加工機二台と検査装置一台の導入で合意した。これが揃えば月産能力は従来の二倍を超える計算になる。機械の搬入は三週間後に決まった。搬入から一ヶ月を過ぎた設備が低い駆動音を立て、若い職人が加工機のモニターを確認しながら作業を進めている。根本が破った融資計画書の紙が散った場所に、新しい設備が何事もなかったかのように動き続けている。
小島の会社への最初の納品から三ヶ月が経つ。納品の連絡は毎回滞りなく届いた。加工部品の質の高さを褒める小島の一言が毎回添えられている。そんな頃、石口から再度の電話があった。社内の調査が一段落しました。根本が引き継ぎ資料をほとんど確認していなかったことが正式に確認されました。根本は若林さんの融資計画書も、私が作成した技術評価の資料もまともに参照していなかったことが判明しました。融資の可否を記録する書類にも、判断の根拠が何も記載されていませんでした。それはつまり、財務諸表だけを見て融資のキャンセルを決めたということですか。そういうことになります。銀行の調査がどうなろうと、今の俺には関係のない話だ。この工場はすでに動いている。
それから、融資課長の瀬沢から改めてご挨拶に伺いたいという申し出がありました。根本も同行するとのことです。俺は少し考えてから訪問の申し出を受けた。二日後、工場に二人が訪れる。応接室に通すと、年配の方が名乗りながら深く頭を下げた。融資課長の瀬沢と申します。この度は平行の対応により多大なご迷惑をおかけしました。瀬沢は改めて融資のお取引をご検討いただけないでしょうか。条件は当初の計画書をもとに、ご要望に沿う形でご用意いたします。俺は深く息を吸った。瀬沢課長。音社では根本さんが私の融資依頼を断った経緯を調査したと聞いていますが、根本さんがその際私に何を言ったかご存知ですか。瀬沢は申し訳なさそうに答えた。それは、根本が何を言ったかまでは確認しておりません。そうですか。ボロ工場への三千万の融資はキャンセルで。根本さん、あなたは私にそうおっしゃいましたよね。根本さん、あなたは融資を断っただけじゃない。私の工場とそこで働く従業員たちを侮辱した。あなたにその自覚はありますか。気づけば感情が高ぶり、いつの間にか立ち上がっていた。瀬沢課長、先ほど融資の話がありましたが、改めてお断りさせていただきます。もう銀行に頼るつもりも、その必要もないので。わかりました。話は終わりました。お引き取りください。俺はそう言って二人を出口へ誘導する。二日後、根本が融資課から一般の窓口業務へ移動になったという。融資案件を適切な審査なく打ち切った事実が社内の査定に正式に反映された結果だ。それを聞いても俺の胸に波立つものはなかった。工場では今日も設備が低く唸りながら動いている。小島の会社との取引はその後も順調に続いている。受注量は当初の見込みを上回り、工場の生産能力はほぼ上限近くに達している。
また別の日、突然かかってきた電話でそう言われた俺。キャンセルってどういうことですか。と聞き返すも、相手はキャンセルしろの一点張り。こいつ、社長のくせに何も分かっていないのか。まあ、相手がそう言っているんだ。ここは従おう。ただ、今後どうなるか覚えておけよ。俺の名前は神谷。四十歳で工場を経営している。この工場は父から受け継いだものだ。俺は大学で工学を学び、父の仕事が好きだった。うちはガラスを加工する工場なのだが、俺はその知識を生かして、ガラスを加工する機械も作っている。特に俺が開発した割れにくいガラスを製造する機械は、他の工場にも下ろしている。おかげで苦しい経営状況からも脱出し、売上は右肩上がりなのだが、外観は昔ながらの町工場で古いということもあり、そんなに儲かっているようには見えないだろう。
そんな時、取引先の社長から連絡が来た。浜口という父と同じ六十代の社長なのだが、この人は昔から随分と態度が大きい。浜口は長男だそうで、両親から大切に育てられ、自己中心的な性格をしている。浜口は父から会社を継いだが、実際に経営をしているのは副社長である浜口の弟だ。この副社長はとある会社の社長令嬢と結婚し、婿入りしているそうで名前は追川という。何度か会ったことがあるが、追川はかなり頭の切れる人だ。俺は基本的に仕事上の相談や連絡は追川にする。今日もそれで電話したのだが、追川は俺が話し出す前から何を言いたいのか分かっていた。ちなみに浜口に相談しても何も解決しない。多分、浜口の会社の人たちもそうだろう。追川ばかりが頼りにされ、浜口は追川に会社を乗っ取られるのではと焦っているようだ。時々、自分も仕事をしているふりをするため、あちこちの取引先に仕事の契約について値段の再交渉がしたいとか、納期が早められるだろうとか、言いたい放題連絡をしてくるようになった。
その時に聞いた話だが、浜口の会社は新しい工場を建設しているという。そして浜口は、だからお前との取引は減らしていくよ。自社製品をブランド化すれば、そちらで加工してもらう必要はもうないからな、と言ったのだ。浜口は以前からうちのことを古臭い町工場だと見下している。どうしてもうちでしかできないガラス加工があるため、仕方なく取引をしていると言われたことがある。俺はむしろ願ったりだとと思った。この人の相手は疲れるし、うちとしては別にこの取引先がなくなってもそこまで問題にはならない。数日後、追川から連絡が来て、浜口が俺に言ったことを謝罪したのだ。それと共にあることを頼まれた。新工場を設立するのに、うちが作る機械は必要不可欠だと追川は言い、メインの機械の発注をしたいという。しかも浜口には内密にお願いしますというのだ。俺は追川からの注文を受け、浜口には言わないことも了承した。
三ヶ月後、機械の納品も無事に終え、浜口の会社の新工場がそろそろ稼働するという頃、浜口から電話が来た。浜口は取引先のリストを見て、まさかお前の名前があるなんてな、と言ったのだ。俺は適当に、新工場で必要なものをいくつか融通しただけです、と答えた。すると浜口は笑いながら、なんだそれだけか。なら切ってもいいな。お前はいいかもしれないが、うちとしてはただの恥なんだ。古臭い町工場が取引先だと周りに知られては、うちの信用に関わるだろう、と。俺は眉間にしわを寄せ、口を開いた。だが浜口は俺の反応なんて気にもせず、まあそういうことだから、お前の会社の発注だけキャンセルで、と言ったのだ。キャンセルというのは、全てということでしょうか。俺が念を押すと浜口は、当たり前だろ、今までご苦労さん、と言った。この瞬間、俺は追川さんとの約束もどうでも良くなった。なんでうちがここまでコケにされなければいけないんだ。俺はイライラしながら、通常納品後のキャンセルは受け承わっておりません。それからキャンセル料も発生しますよ、と言うと、浜口は笑う。うちがキャンセルって言ってるんだよ。うちがお前と取引してるなんて知られるより、キャンセル料がかかる方がマシだ。その言葉に俺はため息をつく。キャンセルなら仕方ないですね。では明日、納品したものを全て受け取りに行きます、と告げた。
翌日、俺が新工場に足を運ぶと、見知らぬ担当者がいた。俺は浜口からキャンセルされたことを伝え、納品した製品と設置した機械を引き上げると告げる。担当者は大慌てで電話をかけ始めた。相手は浜口のようで、お前に取引先を決める権利はないという叫び声が聞こえた。さらに翌日、ついに新工場のお披露目ではあったが、当然俺は出席しない。すると案の定、浜口から電話が来た。電話に出た瞬間、浜口は、お前、機械も納品してたのか。あれがなければうちは製品を作れないじゃないか。今すぐ元に戻せ、となってくる。やっぱり浜口は、うちの納品がガラス製品だけで、それを製造する機械はうちの製品だと思っていなかったのだ。俺は、浜口社長が全てキャンセルだとおっしゃったんですよ。私は全てですかと確認もしていますし、昨日撤去作業に行った時も担当者から電話してましたよ、と返す。しかし浜口は、あの機械がお前のところのものだなんて分かるわけないだろう、と王情際が悪い。俺はため息をつく。あれはうちの看板商品と言っても過言ではありません。それを新工場で使いたいと追川副社長と契約を交わし、設置までしたのに、あなたがキャンセルと言い張ったんです。浜口は慌てて、副社長が決めたことだったのか。いや、今はそんなことどうでもいい。今すぐ設置しに来てくれ、という。俺は、無理ですよ。あの機械、設置に半日はかかりますし。それと、すでに別の業者に納品が決まっているんですよ。ああ、キャンセル料はきちんと支払ってくださいね、と言うと、浜口は怒り始める。だが怒りたいのは俺の方だ。古臭い町工場。あんた、前からうちのこと見下してきてるけど、取引してやってるのはこっちの方なんだよ、とつい声が出てしまったのだ。俺は、だったら何ですか。別にうちはいつ取引をやめても構いませんよ。ただ、あんたの看板商品、うちが取引を辞めたら作れませんけど、分かって言ってるんですよね、と切り返す。すると浜口は言葉に詰まった。俺は、とにかくあの機械はキャンセルされたので、二度とあんたのところに伺うことはありません。では失礼します、と言って電話を切った。
するとしばらくして、追川が浜口を連れてうちへやってきたのだ。追川は、取り乱して申し訳ありませんでした、と深く頭を下げた。追川は続けて、今回は浜口が勝手にしたことですが、会社同士の取引でそんなことを言っても通じないことは分かっています。あの機械はすでに買い手がついているとのことですが、納期は問いませんので、もう一度契約をさせていただけないでしょうか、という。追川の謝罪の気持ちは十分伝わった。だが俺が頭に来ているのはこの人ではなく浜口だ。すると浜口は追川を睨みつける。お前、弟の分際で偉そうに。俺は社長だぞ。出しゃばるんじゃないよ。俺は人ごとながら浜口の言葉に腹が立ち、つい口を挟んでしまった。会社に必要不可欠なのは、実力のある追川さんでは。俺がそう言うと浜口が俺を睨みつける。俺は追川に向かって、追川副社長、あなたのことはとても尊敬できます。ですが、浜口社長のうちを見下す態度、無茶な要望、それにうちとは取引をしないといった言葉は許すことができません。音社との取引は今後一切する気はありませんよ。ただ、追川さんが社長として経営する会社があるのなら、是非一緒に仕事をしてみたいですけどね、と言うと、追川はもう一度深々と頭を下げて帰っていった。
その一ヶ月後、俺のところに追川から電話が来た。追川は会社をやめて、自分で新しく会社を起こしたのだそう。しかも浜口の会社と同じ業種だという。追川は、結局父はどこまで行っても兄の味方なので、私も腹が立ちましてね。妻と義理の父が応援してくれて、起業することにしたんです。それに、神谷社長は私が社長の会社があれば一緒に仕事をしたいと言ってくださったので、私は背中を押されたんです。ありがとうございます、という。俺はその言葉に驚いた。確かにそう言ったし、俺の本音だったが、こんな風に俺に背中を押されたと言ってもらって、なんだか嬉しくなったのだ。追川の会社とはそれ以来良い関係を築いている。追川を慕っていた社員は浜口の会社から退職し、みんな追川の会社に転職したそうだ。おかげで浜口の会社の売上は目に見えて右肩下がりだという。その後、浜口の会社はとうとう危機に追い込まれたようで、うちにも浜口から連絡が来た。どうか、うちの会社の建て直しのため力を貸してくれませんか。浜口の態度は百八十度変わり丁寧になっていたが、それだけで今までの暴言が帳消しになるはずがない。無理です、と俺が言うと、浜口はそこをなんとかと粘った。俺は、自業自得ですよね。取引先の製品のことも何も理解していない。副社長や有能な社員が決めたことを勝手にキャンセルする。おまけに取引先を見下す。そんな社長のいる会社と、誰が取引したいと思っているんですか。それに俺は、父が経営してきたこの工場を馬鹿にされたこと、忘れていませんから、と強く言う。浜口は、大変申し訳ありませんでした、と言ったが、口先だけでは何とでも言える。数ヶ月後、浜口の会社は倒産。対照的に追川の会社は急成長。うちの会社は今、追川の会社とタッグを組み、新しい技術を開発中だ。これが完成すれば、より画期的な製品が作れる。俺は浜口を見て、人を大切にすることの重要性を学んだ。自分はこうはならないと常に心に置いている。
別の取引先では、新しい担当者が送ってきた書類を破り捨てられたことで、俺は激怒していた。俺の名前は増田。四十歳の会社員だ。中小規模の産業用制御システム専門技術会社で技術者をしている。特に食品工場向けの安全装置は特許を取得している自慢の装置だ。この特許は取得までに五年を要した。俺は異物検知や温度管理、衛生基準の監視など食品製造に欠かせないシステムを開発保守しているのだ。その特許安全装置を導入している取引先について、俺は悩んでいた。取引先は中堅の食品メーカーだ。付き合いは七年ほどで、先方の工場の全ラインにうちの装置が導入されている。俺はその期間担当者をしているのだが、数年前、先方の担当者が退職した。技術に対する理解も深く、何かあればまめに連絡をくれる人だった。問題はその後任になった担当である。名前を佐井と言い、取引先の新しい購買部長に就任した男だ。前任者と入れ違いに他社からヘッドハンティングされてきたらしい。コストの大幅削減などの実績を売りにしている人物だと噂で聞いた。前任者と比べるのも変かもしれないが、冷たくて傲慢な物言いが多い。初めて顔合わせをした時、開口一番こう言われた。前任者は甘すぎだ。中小企業との付き合いなんてもっとドライでいい。いちいち御用聞きみたいに来られても困るんだよね。こっちは使ってやっているんだ、と。俺は個人的にも佐井に対して印象が悪い。そんな中、特許安全装置の認証更新日が近づいた。佐井にとっては今回が初めての認証更新となる。うちの安全装置は通常の定期メンテナンスとは別に、三年に一度認証更新が必要になる仕様だ。更新しないと、安全の理由で装置が自動的にロックされてしまう。食品工場では安全装置の定期的な点検保守が厳しく求められる。認証更新日から一ヶ月前、俺は何度も連絡を取ろうとしたのだが、メールの返信がほとんど来ない。電話も繋がらないか、後日連絡しますと言われたきり沙汰なしだ。そして今日、更新期限になっても連絡はつかない。このままでは明日の営業開始時刻、午前九時には装置がロックされてしまう。そうなれば工場のラインが強制的に停止する。そう思い、俺は取引先に向かった。
取引先に着くと、俺はまっすぐに受付へ向かう。お約束はされていらっしゃいますか。受付の女性社員に尋ねられ、俺は首を横に振った。していません。緊急のメンテナンスでして。購買部長の佐井さんはいらっしゃいますか。やがてエレベーターから佐井が姿を表す。あれだけ無視されてもやってくるとは、よほど必死らしいな。俺の姿を見るなり佐井は鼻で笑う。佐井部長。メールでも何度も申し上げましたが、認証更新をしないと安全装置が完全にロック。俺の発言を佐井は手を上げて静止した。そもそも、あんたは来る必要なんかないんだよ。それはどういう意味でしょう。はっ、ってことだよ。担当引き継いだ時から思っていたが、あんたのところは高すぎる。他の業者なら、年間三割も安くできそうなんでね。正式な解約通知すら送ってこないのだ。佐井が独断で決めたのだろう。俺は、あなたの選択です。これで二度と安全装置は解除できませんよ、と言う。佐井は、負け犬の遠吠えもいいところだな。そうやって不安を煽ろうとしても無駄だ。明日になった途端、完全ロックになんてなるわけないだろ。大げさに言うな、と。俺はただ一言、そうですか、と微笑んだ。そして佐井に背を向け、取引会社を後にした。
翌日の午前、俺が会社で通常業務に忙しくしていると、佐井さんからお電話が入っておりますが、と部下の女性社員が俺に声をかけてきた。予想通り、電話の向こうから佐井の慌てふためいた声が聞こえてくる。増田さん、頼む。今すぐ来てくれ。どうされました。俺が平然と返すと、分かっているくせに、と受話器から聞こえてきた。佐井の話をまとめるとこうだ。今日の朝一番に、俺に話していた別業者が佐井の元へやってきたらしい。その時点で特許安全装置のロックが作動し、製造ラインは停止していた。頼みの綱の業者は現場に来てほどなくして佐井に告げたそうだ。弊社の特許技術、うちでは対応できませんよ。どうやら佐井と業者の間では話の行き違いが発生していたらしい。佐井は、安全装置ならどれも大して変わらないだろうと技術を理解していないために曖昧な依頼をした。業者もまた詳細を確認しないまま対応可能だと答えてしまったのだ。俺は受話器の向こうの佐井にもよく聞こえるよう、大きくため息をつく。ですから言いましたよね。二度と解除できませんよって。あなたが担当として責任を取ればいいことです。俺は佐井に反論の隙も与えずにさらに続けていく。一方的に契約を終了されたので、当然信頼関係はすでに破綻しています。よって私が赴く理由などありません。それから、現時点での損害金に関してご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします。俺はあえて丁寧に言葉を選び、そのまま電話を切った。
それから三十分ほど経った頃だろうか。俺は社長に声をかけられた。増田君、佐井部長の先方の社長から電話があったよ。直接謝罪したいと言っていてね。一応、長年取引してきた間柄だから、君同席してくれるかな。そういうわけで、俺と社長、そして佐井と杉原社長の四人が一堂に会することになったのだった。杉原社長が深く頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。そして、現状生産ラインが止まっているということは、すでに損失が出ているに等しい。長引けば長引くほどその損失額も大きくなる。杉原社長はすっと立ち上がり、床に膝をついて頭を下げた。さすがの行動に俺と社長だけでなく、佐井ですらぎょっとして目を丸くした。俺は呆然とする佐井を睨みつける。あなたにどんな意図があったのかは知りませんが、これはあなたが招いた事態です。どうして本来何も知らなかった杉原社長が頭を下げる必要があるんです。社長は俺にこう言った。今回だけは、ひとまず認証作業を行おう。ただし、無条件というわけにはいきません。今回のトラブルの発端である佐井部長に厳正な処罰を望みます。その後、佐井は懲戒解雇となった。再契約の金額は以前の一・五倍。こちらがまた不審感を覚えた際は、うちの判断で契約を打ち切ることも了承してもらった。後日、業界紙に小さな記事が載った。中堅食品メーカー生産ライン停止で数千万円の損失。佐井の名前は伏せられていたが、業界は狭い。佐井が次の職を見つけるのは容易ではないだろう。信頼は一度失えば取り戻すことは容易じゃない。それを改めて実感した出来事だった。
また別の会社で、俺は設計図を却下されるという屈辱を受けていた。俺の名前は岩崎。三十五歳。中堅の建築設計事務所で働く一級建築士だ。今俺が手掛けているのは、二千四百億円規模の大型複合施設開発プロジェクトである。都心に建設される超高層ビルの設計業務で、俺はその設計担当に抜擢された。きっかけは三ヶ月前に遡る。会社として大手不動産デベロッパーの案件に応募し、提案プレゼンを実施した。その際、俺が提案した基本構想が先方の梅村社長の目に止まった。岩崎さん、あなたの設計思想は素晴らしい。環境性能と収益性を両立させる視点が秀逸です。このプロジェクトはぜひあなたに担当してもらいたい。梅村社長から直接指名を受け、俺はこの大型案件の設計担当に選ばれた。それ以来、俺は昼夜を問わず資料作成に没頭している。そして迎えた契約前日の朝、俺は事務所で基本設計図とプレゼン資料を全て印刷し、ファイルに閉じ込めていた。その時、背後から声がした。振り返ると、設計部長の追川が立っていた。追川は創業者一族の中からただ一人、婿で入社した男だ。その後、次期社長候補としての修行も兼ねて部長職まで昇進している。一応一級建築士の資格は持っているが、設計の才能には恵まれず、劣等感から俺を目の敵にしてきたのだ。俺はこの部長から何度も理不尽な仕打ちを受けてきた。以前、俺が省エネ構造の基本案を提案した時も、追川は設計図も見ずに机に叩きつけて却下した。しかもその後、叩きつけた俺の設計案を自分の名前で提出して実績を横取りしたのだ。
追川は俺の机に置かれた資料を手に取り、ページをめくり始めた。君の資料、見させてもらうぞ。完成予想図のCGを見て鼻で笑い、収益性の試算データに目を通すと眉を潜め、わざとらしくつぶやく。これはひどいな。お前の設計図は零点だ。こんなもので契約に臨むつもりか。俺はすぐさま反論した。この設計図のコンセプトは、発注先の社長にも評価されたものです。それは三ヶ月前の話だろう。コンセプトは良くても、このプレゼン資料は全然ダメだ。明日の契約は俺が担当する。困ります。この設計図は私が三ヶ月かけて作り上げたもので。黙れ。俺は全てを理解した。この男は、俺が設計図を完成させるのを待っていたのだ。契約前日というこのタイミングで担当を奪えば、準備万端の状態で契約に臨める。過去の省エネ設計を横取りした時と同じ手口だ。追川は勝ち誇ったように言った。お前も知っているだろ。工藤社長は来月で引退する。そして俺は次期社長候補だ。社長はこの案件を花道にしたいと言っているんだ。俺が成功させれば、社長も喜んで引退できるだろう。だからあとは俺に任せろ。明日の午前中に荷物をまとめておけ。来月の社長引退と同時にお前は首だ。俺は静かに口を開いた。部長、そこまでおっしゃるなら、明日の契約はお任せします。俺は引き出しから筆記用具を取り出し、退職届を書き上げた。追川の前に差し出す。うち、本日付けで退職させていただきます。追川は退職届を受け取り、目を通した。顔色が変わる。お前、本気か。来月まで首を待つ理由はありません。追川は一瞬動揺を見せたが、すぐに勝ち誇った表情を浮かべる。ふん。勝手にしろ。どうせお前みたいな使えない奴がいなくても困らん。追川は退職承認通知書に署名し、俺に突き出す。今すぐ荷物をまとめて出ていけ。それは正式な退職承認だ。
俺は机の上のプレゼン資料を手に取り、シュレッダーに向かった。おい、何をしてるんだ。追川がいぶかしげに声をかけてくる。三ヶ月間、何度も徹夜して作り上げた資料だ。この資料を追川に渡すくらいなら、消してしまった方がいい。俺は無言で資料をシュレッダーに差し込む。機械音と共に紙が裁断されていく。おい、やめろ。追川が駆け寄るが、俺はやめない。俺は昼まず反論する。部長は先ほど言いましたよね。私の設計図は零点だと。それでも使いたいというなら、サーバーには基本設計図が保存されています。部長ならそれで十分ではないですか。サーバーには基本設計図があるが、契約で顧客を納得させるプレゼン資料とは別物だ。プレゼン資料は完成したばかりで、まだデータをサーバーには移していない。俺は私物のノートパソコンで作成していたからだ。俺は鞄に残りの私物をしまいながら、あることを思い出していた。実は一ヶ月ほど前、梅村社長から突然連絡があったのだ。岩崎さん、あなたを我が社にスカウトしたい。あなたの設計思想、特に省エネと収益性を両立させる考え方に深く共感しました。年収は今の倍を保証します。その時は工藤社長への恩義もあり返事を保留していた。だが、追川の行動で俺の迷いは完全に消えた。俺は鞄を持ち、追川に背を向ける。ビルの外に出て、俺はスマートフォンを取り出す。梅村社長の番号を呼び出し、通話ボタンを押した。梅村社長、岩崎です。先日のスカウトの件、お受けします。梅村社長は驚いた様子で聞き返してきた。本当ですか。それにしても急ですね。音社で何かあったのですか。俺は事情を詳細に説明した。梅村社長は話を聞き終えると、怒りを含んだ声で言った。これは許せませんね。しかし明日の契約ですが、岩崎さん抜きでは進められません。我が社と委託契約を結び、本プロジェクトの技術顧問として契約に同席していただけませんか。わかりました。喜んでお受けします。契約当日の朝。俺は梅村社長と打ち合わせを終え、会議室で待機していた。契約開始五分前。追川が硬い表情で会議室に入ってきた。そして俺を発見した瞬間、顔色が変わる。お前、なぜここにいる。すると会議室に訪れた梅村社長が説明した。岩崎さんは昨日本社を正式に退職されました。本日から我が社と業務委託契約を結び、本プロジェクトの技術顧問として同席していただきます。追川は一瞬言葉を失う。しかしすぐに強がりを見せた。ふん。お前がどこにいようと関係ない。今日の契約は俺がまとめる。追川は自らが作成した資料を配る。案の定、俺の基本設計図だけだ。梅村社長が資料を見ながら口を開いた。それでは、追川部長、このプロジェクトの概要を説明していただけますか。追川は上ずった声で話し始めた。お配りした資料がプロジェクトの基本設計図です。構造的には問題ありませんし、建築基準法にも適合しています。梅村社長は図面を見てすぐに質問する。基本設計は結構ですが、完成イメージの図はありますか。追川の顔が途端に曇る。それは、今回は基本設計図のみでして。二千四百億円のプロジェクトで、完成イメージがないのですか。追川の額にうっすらと汗が浮かび始める。梅村社長は鋭く追求を続ける。では、このデザインのコンセプトを説明してください。梅村社長は質問を続けた。収益性の試算はお持ちですか。追川は苦し紛れに答えるが、梅村社長は妥協を許さない。追川は冷や汗を拭いながら、どの質問にも曖昧な回答を繰り返すばかりだ。すると梅村社長は俺に視線を向けて言った。岩崎さん、あなたから追川部長に質問はありませんか。俺は追川に向き直る。追川部長。この設計の最大の特徴は、省エネと収益性の両立です。具体的にどのような技術で実現するのか、説明していただけますか。追川は言葉に詰まる。具体的な点は、基本設計図には一切記載されていません。私が音社に席を置いている時に作成したプレゼン資料にのみ、詳細が書かれています。俺の言葉に追川は完全に言葉を失った。梅村社長は一呼吸を置いてから、厳しい口調で言った。追川部長、大変申し訳ありませんが、本日の契約はここで終了とさせていただきます。音社に二千四百億ものプロジェクトを任せることなど、到底できません。追川の顔から血の気が引いた。ま、待ってください。もう一度チャンスを。私が悪かったんです。岩崎、お前が戻ってくれれば。追川は俺にすがりつくように懇願する。だが俺は冷静に答える。私はもう音社の人間ではありません。契約は完全に決裂した。その日の夜、帰宅した俺に工藤社長から着信が入った。岩崎君か。追川から契約が決裂したと報告があったが、詳細が全く分からないんだ。一体何があったのか教えてくれないか。俺は契約前日になって追川が突然担当を奪ったこと。契約で追川が何も答えられず決裂したことに加え、梅村社長の会社と業務委託契約を結んだことも含めて詳しく報告した。工藤社長は冷静さを取り戻した声で続けた。これは私の責任でもある。私は追川を次期社長候補と思っていたが、創業者一族への配慮を優先しすぎた。私の目が甘かったようだ。翌朝、俺は梅村社長と共に応接室で待機していた。やがて秘書が工藤社長と追川を案内してくる。工藤社長は入室するなり深々と頭を下げた。梅村社長、この度は誠に申し訳ございませんでした。工藤社長は俺に向き直った。岩崎君、本当に申し訳ない。君が我が社をやめたのは、そうせざるを得ない状況に追川が追い込んだからだろう。君の能力を生かせる環境を用意する。ぜひ我が社に戻ってきてほしい。俺は首を横に振る。お気持ちはありがたいのですが、私はすでに梅村社長の会社と業務委託契約を結んでおります。工藤社長は肩を落とし、追川に向き直った。追川、お前の行為は重大だ。役員会に諮り、懲戒解雇も含めて厳正に対処する。追川は顔面蒼白になり、その場に立ち尽くす。それから一ヶ月後、工藤社長から連絡があった。追川は懲戒解雇が決定し、損害賠償も請求されたという。俺は梅村社長の元で二千四百億円のプロジェクトに全力を注ぎ、正式に設計部長に就任した。年収も以前の三倍になり、新たに大型プロジェクトも任されている。俺はこれからも自分の技術と誠実さを武器に、建築設計の世界で生きていく決意を固めるのだった。
また別の会社で、俺は部長に副業を疑われていた。俺の名前は小島。三十五歳のエンジニアだ。俺が務めるのは、新素材や新部品を開発する企業だ。積極的に新しい素材や部品、機械などを作り出し特許を取る。自社の特許を貸し出すことで利益を得ているのだ。この仕事を始めたきっかけは、大学のロボット研究会で仲が良かった先輩、和田さんに誘われたこと。俺が二十八歳の頃、和田さんが会社を立ち上げると聞いた。それが今の会社で、俺も誘われたのだ。そしてある時、趣味でロボットパーツの研究をしていた時、これはと思い開発を始めたのがワンタッチジョイントだ。ワンタッチジョイントとは、折りたたみ部分などに使用される、ボタン一つで完全な固定と解除ができる新設計の結合部品のこと。俺が開発したのは、従来の製品より耐久性が高く、がたつきが一切ないのが特徴だ。和田さんも同意してすぐに特許申請。今から半年ほど前に、このワンタッチジョイントの特許がようやく取得できた。すると、とあるアウトドア会社から連絡が来て、この技術を使いたいという。アウトドア会社の社長はうちの事務所に来て、この技術を使ってテントを作れば他社よりも優位に立てる。そして、自社の製品に最適化するには、発明者本人に一時的に入ってもらい、技術指導を受けたいと社長から依頼された。和田さんから、小島に任せる。どうする、と聞かれ、俺はすぐに行きますと答えた。とはいえ、特許を持っている会社の人間が同じ職場にいるというのは、周りにとってやりづらいかもしれない。忖度ない意見が欲しいと思った俺は、社長に詳しい説明はせず、社員には他社からの派遣とだけ伝えて欲しいと交渉した。こうして俺はアウトドア会社に技術顧問という形で派遣されることになった。
アウトドア会社ではそれなりに周りのメンバーと仲良くやっている。ただ、俺がフレックスタイム制で勤務していたので、それをよく思っていない人もいたようだ。しばらくして、俺の派遣されている部の部長が交代。この岡崎という新部長が特に頭が固く、俺のフレックスタイム制の勤務を受け入れないうちの一人だった。岡崎は、君、会社への忠誠心がなさすぎるな、といきなり俺を威圧してくる。どうやら岡崎は、全員が決められた時間に席につき、自分の目の届くところで働くというのが忠誠心と言っているようだ。とはいえ、たとえ上司と馬が合わなくても仕事は仕事。俺はワンタッチジョイントをこの会社の製品に合うようにし、新しいテントは無事に販売にこぎつけた。それは徐々に口コミで評判が広まり、販売数は伸びていく。今までのようながたつきや緩みがなくなり、悪天候でも安全に使用できると好評だ。社長は大喜びで俺のところに来て、小島君のおかげだよ、と言ってくれた。これを見ていた岡崎は面白くなかったようで、記述者が当然の仕事をしただけですよ。どれだけ優秀でも、勤務時間にいないのはおかしい。勤務態度を見直してください、と社長に直訴した。社長は、小島君の他にもフレックスタイム制の勤務は何人かいるよな。それぞれに事情があって、そのような制度を取り入れているんだ。岡崎君も古い考えは少しずつ変えていくべきだよ、と諭す。岡崎は納得いかない顔で視線をそらした。
ある日、俺が仕事を終え会社を出る時に、和田さんから電話が来たのでその電話を取る。内容は別の特許の件で問い合わせだったのだが、この電話を切った時にすぐそこに岡崎がいた。そしてついに、俺は岡崎に呼び止められたのだ。その日も勤務が終わり、帰り道で和田さんと連絡を取る。電話を切った時、岡崎がいることに気づいた。君、今のって、仕事の電話だよな。君がこそこそ副業しているのは分かっているぞ。うちは副業禁止だぞ。もう逃れられないとでも言うように、厳しい口調で岡崎は言う。俺は説明を始めようとした。だが岡崎は全く話を聞かず、鬼の首を取ったように、副業やめるか、首か。どっちか選べ、と迫る。俺は、では、首で、となんとか言い切った。すると岡崎は笑い出す。そんなにうちの会社が嫌なら、さっさとやめればいいんだよ。このまま荷物をまとめて退職届でも出すんだな。俺は、はい。この会社が副業なので、失礼します、と口を開く。岡崎は一瞬固まって、えっ、と言った。俺は、社長によろしくお伝えください。荷物は明日の朝取りに行きます、と答え、足早にその場を去る。
翌日、俺は会社に行き、退職届を岡崎に突きつけた。社長にはお伝えいただいていますか、と聞くと、岡崎は眉間にしわを寄せ、首を横に振る。いや、社長には伝えていない。俺はここで岡崎に全てを理解させようと思った。私はもうここには来ませんが、いくつか確認だけさせてください。俺はこの間の新製品のおかげで、売上がV字回復したという認識はありますよね、と詰め寄った。確かにそうですね。ですが、あの技術は特許技術なんですよ。そう言うと岡崎は少し驚いた顔をする。特許だと。いや、しかし我が社の製品を作るために開発した技術なんだから、特許権は会社に帰属するはずだ。俺は、いえ、あれは私が以前開発した特許技術で、特許権を持っているのは私が本業で所属している会社です。私がここに勤務している理由は、社長から頼まれ、音社製品への技術適合コンサルティングという名目で派遣されてきただけですから、私にとってはこちらが副業なんです、と発言。周りもざわざわした。岡崎は、どういうことだとパニックになりかけている。俺は、私が業務終了後に電話をしていたのは本業の社長。ちなみに、昨日あなたから言われたことも、うちの社長には報告しています。そこで出た話は、特許使用料の見直しです、と説明。この特許技術を独占的に使えるのは、私がここに勤務している間という契約です。つまり、私がここを離れれば、特許技術は他所でも使用できることになります。実際、うちの社長からは、他社からもすでに問い合わせが来ていると言われています。この技術が他社で使われたら、せっかくV字回復した売上もどうなるか分かりませんね。そこまで言うと、技術チームの社員が、部長、どういうことですか。小島さんは退職されるんですか、と厳しい声が飛んだ。岡崎はしどろもどろに、あ、いや、そうではなく、と言っているが、俺は、岡崎部長が昨夜私に言いましたよね。うちは副業禁止だから、副業やめるか首か選べって。私にとってはこちらが副業。そこまでしてここにいる意味はありません、と言い放った。すると、社長が飛び込んできた。岡崎君、どういうことだ。どうやら和田さんから社長にすでに話が行ったようだ。翌日、社長がうちの事務所に岡崎を連れてやってきて、申し訳ありませんでした、と再び頭を下げる。岡崎は青い顔で、申し訳ありませんでした、と土下座を始める。しかし俺は、自分が今までやってきたことや言ってきたこと、思い出してみてください、と問いかけた。土下座くらいでチャラになるはずないでしょ。会社への忠誠心がないのは、どっちですかね、と言い放った。その後、岡崎は会社に大きな損害を与えたとして解雇されることになった。結局、小額ながら特許使用料はもらうことになり、独占契約は解除。俺はこのアウトドア会社にいたことで思いついた新たな技術を開発中だ。これがまた世に出せるように努力しているところだ。



