「では査定を始めますが、どうしてお売りになろうと思われたのですか?」
急に夫から離婚を宣告され、無一文で放り出されました、とはさすがに言えない。私は慎重に言葉を選んだ。
「父の遺産なんです。管理が難しいので、誰かにお譲りしたいと思いまして」
話している間、車内を見ていた豊島が突然顔を出す。
「失礼、奥様。別でご確認を」
「え? 何を?」
私が聞き返すと、彼は手にしていた茶色い封筒をこちらに見せた。これが父のものだとすれば、車内に隠していたのだろうか。どうしてここに、と考えてすぐにハッとした。
亡くなる直前、父は私にこう言い残している。俺の遺産は、お前に必要なものばかりだぞ、と。ただの冗談だと思っていたけれど、違ったようだ。封筒の中身は、絶対に私に必要なものだ、と大きく頷いていた。
私は五藤トミ、五十八歳。夫の浩司と結婚したのは、三十年も前のことだ。すぐに娘のしおりが生まれ、平凡だが幸せな日々を過ごしてきた。
ただ最近は、今の生活を少し窮屈に感じている。しおりが就職して一人暮らしを始めた途端、浩司は家で話をしなくなった。私の父が亡くなった時も、義務的に葬儀に参列しただけ。
「ねえ、ずっと黙っているけど、私、何か怒らせるようなことした?」
「別に、お前と話すことがないだけだ」
熟年夫婦にはよくあることだ。そう考えていたけれど、しばらくして離婚を告げられるとは夢にも思わなかった。
私に何か悪いところがあったのだろうか。考えても思い当たることはない。しかし以前から、浩司の行動には妙なところがあった。
最初に違和感を覚えたのは、結婚から間もなくのことだ。建設資材を取り扱う会社で、浩司は営業を担当していた。仕事は忙しく、休日でも出勤しなければならない。平日の帰宅も、夜遅くなってからだった。
「仕事、そんなに大変なの?」
そう尋ねたのは結婚して半年ほどが経った時だ。浩司は疲れていたようで、ため息をつきながら答えた。
「うちは大手じゃないからな。俺たち営業が頑張らないと、仕事が取れないんだよ。日曜日こそが重要だって分からないのか。ゴルフとか釣りとか、接待の手を抜けばすぐに契約を持っていかれるんだからな」
今では考えられないが、私たちが若い頃は休日の接待が普通のこと。特に珍しくもなかった。
「接待ね。だから俺も仕方なくやっているだけ。分かるか?」
詰められても答えに困る。そっと視線をそらした。
「本当は俺だって休みたいよ。でもさ、仕事だからなあ」
「そうね。お疲れ様」
優しい言葉をかけて終わりにする。だが心の中では浩司を疑っていた。平日の帰りが遅いのは、彼が遊び歩いているからではないか。休日は浮気相手のところで過ごしているのかもしれない。次から次へと悪い想像ばかりが思い浮かび、私はそれらを心の中に押し込めていた。
やがて私は妊娠し、浩司の行動に注意を払う余裕がなくなる。家事だけでも精一杯。休日に出かけようとする彼にお願いすることも増えていった。
「悪いけど、帰りに買い物してくれる?」
「ああ。今日は田口社長のゴルフに付き合うから、帰りはかなり遅いぞ」
田口というのは、彼の会社が取引をしている建設会社の社長さんだ。地元では有名な会社で、田口の人柄は評判もいい。それが分かっていたから、私は無理を押し通した。
「分かっているわ。でも妊娠中の買い物は大変なのよ。田口社長はいい人だから、分かってくださるんじゃないかしら」
わざと社長の名前を引き合いに出す。こうすれば浩司は断りにくくなるはずだ。
「確かに、社長なら妻のために買い物くらいはしてやれって言うだろうな」
「でしょ。じゃあこれ、お願い」
買い物のメモを渡すと、彼はため息混じりに受け取っていた。
「分かった。帰りにスーパーによるよ」
「お願いね」
笑顔で浩司を送り出す。しばらくの間は、そんな生活が続いた。
しおりが生まれてからは、再び浩司に注意を払う日々。不審というほどではないが、怪しいと感じる行動は相変わらずだ。
やっぱり浮気かしら。一人の時に呟いていた。しかしどうやって浮気を調べたらいいのか、当時は知らなかった。探偵の存在も知っていたけれど、ドラマや映画の中の話だという印象。実際に浮気調査を依頼するというのは想像もできなかった。
こんな時、相談できる人がいればいいんだけど。友達はいるけれど、今のように気軽に連絡するのは難しい。携帯電話の普及率も一割ほどで、持っていない人も多かった。
そんなことを考えていた時だ。ふと玄関チャイムが鳴った。オートロックなのに、どうして。玄関に向かい、ドアスコープから外を見ると若い男女が立っていた。年齢は私と同じくらい。男性の方は小さな紙袋を手にしている。今よりも安全意識が低かった当時の私は、首をかしげながら玄関を開けた。
「あの、どちら様ですか?」
「あ、私、寺本健一と言います。上の階に引っ越してきました」
健一と名乗った男性が笑顔で上を指さす。思わず上を向いてしまった。そこで彼の隣にいた女性がすかさず頭を下げる。
「あの、妻のゆみ子です」
「えっと、あなた」
ゆみ子が健一の脇腹をついた。ハッとした彼は、手にしていた紙袋を差し出してくる。
「これ、どうぞ。つまらないものですが」
「ご丁寧にありがとうございます」
挨拶を言って紙袋を受け取った。中には焼き菓子の箱が入っている。
「引っ越しそばを配ろうと思ったのですが、好みもありますので」
「ああ、それでお菓子を」
「はい。よろしければ、召し上がってください」
丁寧に頭を下げたゆみ子。綺麗な仕草に見惚れてしまった。
「ありがとうございます。夫と一緒にいただきますね」
挨拶をしながら扉を閉めようとした途端、健一が扉を掴む。ギョッとすると、彼はハッとして手を離した。
「ああ、すみません。ちょっと伺いたいことがあって」
「何か」
反射的に顔を強張らせてしまう。不審感というか、警戒心が芽生えていた。そんな私の警戒を悟ったかのように、ゆみ子が柔らかい口調で聞いてくる。
「こちら、五藤浩司さんの家ですよね。旦那さん、建設資材の会社に務めていませんか?」
突然二人に尋ねられ、個人情報が漏れていると不安になりながら私は頷いた。
「そうですけど」
「やっぱりそうだ。五藤さんの家だ」
「え? どういうことですか?」
眉間にしわを寄せて聞き返すと、健一は苦笑して答えた。
「ああ、申し訳ない。私、今は地元の建設会社に務めていまして、仕事でご主人にはお世話になっているんですよ」
建設会社という言葉にピンと来た。彼は田口の会社の人だ。それなら浩司の大事な取引先の人になる。私は背筋を正し、玄関の前に出た。
「もしかして、田口社長の?」
「そうです。田口社長の会社で働かせてもらっています」
無礼な態度を取らなくて本当に良かったと安堵する。それはさておき、作り笑いで話を続けた。
「夫の会社の取引先の方でしたか。これは失礼を」
「ええ、引っ越しの挨拶に伺っただけですから」
「ああ、そうだ。中でお茶でも」
家の中を示す。室内は掃除をしたばかりだ。失礼ではないはず。しかし断られてしまう。
「いえ、お気持ちだけで。まだ部屋の片付けもありますから」
妻としてできる限りのことはするべきだ。良い印象を与えられるなら、それに越したことはない。そんな下心もあったけれど。
「そうですか。では後日」
「すみません。私も仕事が忙しいので」
「あ、ゆみ子は仲良くしてもらえば」
「そうね。そうするわ」
ゆみ子が微笑みながら頷く。
「じゃあ、また訪ねてきてください」
私がそう言った時、部屋の中からしおりが泣く声がした。どうやら目が覚めたようだ。
「お子さん、いらっしゃるんですか? おいくつ?」
「もうすぐ一歳の誕生日です。うるさいかもしれませんが」
「全然構わないわ。私はまだだから、羨ましいくらいよ」
笑顔で答えるゆみ子。少なくとも迷惑とは思っていないらしい。
「じゃあ今日はこれで。では旦那さんに伝えておいてください。また釣りに行きましょうって」
健一が釣りをするような仕草をして見せる。そんな彼に、ゆみ子は不愉快そうな表情をした。
「ご迷惑かもしれないでしょ。毎週のように誘っているのに」
二人のやり取りを笑いながら見守る。実際私はホッとした。彼らの言動を見る限り、浩司は何度も彼と一緒に出かけていたようだ。私は胸を撫で下ろしつつ、しおりの元へ急いだのだった。
健一たちが訪ねてきた日の夜、浩司が帰宅するとすぐに彼らの話をする。
「寺本さんが? 本当か?」
目を丸くする浩司。引っ越してくることを知らなかったようだ。
「ええ、昼間に挨拶にいらしたわ。聞いてなかったの?」
「この間の日曜日に釣りに行っただろ。あの日、引っ越しの話はしたけど、引っ越し先がうちのマンションっていうのは聞いていなかったな」
浩司は首をかしげている。健一が来た時点で、私の中で彼が浮気をしているという疑いは晴れていた。だから問題は今後のことだ。
「寺本さんって、偉い方なの? 場合によっては、これからの付き合い方を考えないといけないし」
「ああ、営業部のエースだ。彼の一言で取引先が決まると言っても過言じゃないくらいだな」
浩司の話が事実なら、今後は絶対に失礼がないようにしたい。健一はもちろん、ゆみ子に対してもだ。
「とにかく丁寧な対応を心がけてくれ」
「分かったわ。奥様のゆみ子さんとも、うまく付き合います」
こうして私は、重要な使命を負うこととなった。
健一の方は浩司に任せるとして、私はゆみ子との付き合い方を考えなくてはならない。もし機嫌を損ねれば、浩司の評価を落としてしまうからだ。しっかりしないと。気が重いけれど、営業担当者の妻としては仕方がない。私は気合いを入れ直した。
しかし蓋を開けてみれば拍子抜け。ゆみ子は思った以上に気さくだった。腰が低く、まるで妹のようだ。年齢的にも彼女の方が年下で、本当に可愛い妹ができた気分だった。ただ、そんな話を浩司にすると怒られるかもしれない。大事な取引先の人の奥さんだ。丁重にもてなせと言われるだろう。だから私は実情を隠して、ゆみ子との交流を続けることにした。
彼女もまた、そんな私と同じ気持ちだったらしい。ある日、家に訪ねてきた彼女はこんな愚痴をこぼした。
「周りには気を使う人ばかりで、うんざりしていたんですよ。健一が田口社長に気に入られているからって、私に媚びる人ばかりで。その点、トミさんは友達みたいだから気楽でいいです」
彼女は彼女なりに苦労しているようだ。つい私もため息をついてしまった。
「結局、夫がどういう立場になっても、妻の苦労は変わらないのね」
「そうですね」
「あっ」
二人で大笑いする。私たちはこんな風に仲良くなっていった。
だがいいことばかりでもない。仲が良くなれば、それだけ愚痴も増えてしまう。ゆみ子はうちに来るたびに、健一の愚痴をこぼすようになった。
「健一って全然家のことをやってくれないんですよ。どう思います?」
「そうね。夫がやるべきだと思うわ」
「ですよね。私もそう言ったのに、全く聞いてくれないし」
子供のように口を尖らせるゆみ子。何の話かと言えば、家事のことだ。私はすでに出産を経験し、しおりという娘を育てている。しかしゆみ子はまだだ。妊娠の兆候もなく、健一の両親から子供はまだかと責められているらしい。普通なら夫が気にかけるところだろうが、それがないと彼女は文句を言っていた。
ひとしきりうちで愚痴をこぼしたゆみ子が帰っていく。疲れきったところへ、浩司が帰宅した。珍しくかなり早い時間だ。
「あ、ごめんなさい。夕飯の支度はまだなの」
「いつもより早いとはいえ、もう六時だぞ。こんな時間までお前は何をしていたんだ?」
浩司が不愉快そうに顔をしめる。申し訳ないと頭を下げるしかなかった。
「ごめんなさい。ゆみ子さんが来てて」
「ゆみ子? ああ、寺本さんの奥さんか」
丁寧に対応しろと言ったのは彼だ。さすがに文句は言えないだろう。
「話していたら、つい。今から夕食の支度をするわ」
「ああ、早くしてくれ」
浩司はふてくされたようにソファーに腰を下ろす。その姿を横目に、私は夕食の準備を始めた。キッチンで手を動かしながら彼に訪ねてみる。
「今日は早かったけど、どうしたの? 珍しいわね」
「たまたま仕事が早く片付いただけだ。しばらくは早く帰れそうだが、すぐに忙しくなるだろうな」
虫の居所が悪いのか、そっけない感じに聞こえた。実際、彼の生活に余裕があったのは一ヶ月ほどだ。すぐに再び仕事が忙しくなり、以前と同じように帰りも遅くなった。
そんな風に忙しい時期と暇な時期を繰り返しつつ、時は流れていく。繁忙期の浩司は家に帰れないこともあった。反対に暇な時は早々に帰宅して、部屋でゴロゴロするばかり。稀に、今日は接待だからと出かけるくらいだった。
私たち家族は彼の仕事に振り回されっぱなし。特にしおりはかわいそうだった。父親が参加する学校行事があっても、浩司の仕事次第だからだ。例えば、しおりが小学校高学年の時には、こんなことがあった。
「ねえ、お父さん、明日私の運動会だけど、覚えてる?」
「え? 明日だっけ?」
浩司の顔が引きつる。ムッとしたしおりが強い口調で言った。
「プリント、ちゃんと渡したはずなんだけど」
「ああ、ごめん。明日はちょっと」
またそれ。しおりは頬を膨らませる。本人は至って真面目なのだろうが、とても可愛い仕草だ。
「この次、次は絶対に行くから」
「この前もそう言ってた」
今回ばかりは機嫌が治りそうにない。横からそっと助け舟を出した。
「ご褒美を買ってあげるしかないわよ」
「あ、ああ、そうだな」
浩司が私の合図に応じる。作り笑いで彼はしおりに尋ねた。
「ごめんな、しおり。お父さん、明日は仕事なんだ。代わりに運動会で頑張ったら、何か買ってあげるぞ」
「じゃあ、冬休みに旅行に行きたい」
しおりが小さな声でつぶやく。
「ああ、任せろ。テーマパークでも温泉でも、好きなところに連れて行ってやるぞ」
「約束だからね」
口では納得しているように見えるが、実際そうでもなさそうだ。おそらく同じようなことを繰り返していたから、しおりも学習したのだろう。翌日、浩司が出かけた後、運動会の準備をしながら彼女は私にこう言った。
「やったね、お母さん。これで冬休みは旅行ができるよ」
「あら、私のために旅行を選んでくれたの?」
何気なく聞いてみる。しおりは笑いながら答えた。
「だってお父さんってば、私たちのことをほったらかしだもの。家事もお母さん任せで、父親としては最低だわ。どこかで浮気とかしてるかも」
あまりのことに驚いてしまう。
「ありがとう、しおり」
「うん。お母さんこそ、無理をしないでね」
「でも、お父さんの浮気はないかな。釣りとかは寺本さんと一緒に出かけているみたいだから」
とりあえずフォローしておく。実際、先の人が一緒なら浮気は無理だろう。しおりが納得したかどうかは分からない。彼女は無表情で頷いていた。
そんな風に色々とありながらも、私たちはうまくやれていたと思う。少なくとも、しおりが就職するまでは。
やがて大学を卒業したしおりは、銀行に就職した。担当するのは窓口業務らしい。仕事の様子を見に行きたかったけれど、しおりに先に釘を刺された。
「お母さん、先に言っておくけど、仕事先には来ないでね」
「どうして?」
「恥ずかしいからに決まっているでしょ? それと、配属先は遠いから」
同じ県内だが、かなり遠い。仕方がないので、しおりは一人暮らしをすることになった。
しばらくして彼女が引っ越すと、家の中がガランとする。浩司も仕事で帰りが遅いし、私は一人で取り残されたような気になった。この家、こんなに静かだったかしら?
今でもゆみ子が訪ねてくることはある。ただ、かなり少なくなっていた。仲が悪くなったわけでもない。実は彼女の不妊が原因だった。
ゆみ子が妊娠しないのは、彼女の生活態度が悪いからだ。彼女の義母はそう決めつけた。そして頻繁に彼女の家に来るようになったそうだ。遊びに行っていたら、男のところへ行っていたのだろうと言われて。少し前、うちに来たゆみ子はそう話していた。要するに義母に疑われるから、落ち着いて外出もできないらしい。年齢的にも、さすがに今から妊娠するのは難しいだろう。本当にくだらないと呆れていた。おかげで、私まで一人になったじゃない。
愚痴をこぼすように言うゆみ子。しかしいつしか、私は一人の生活に慣れていた。
そんなある日のことだ。ふと、父から電話がかかってきた。
「どうしたの? お父さん、何か用事?」
「いや、用事というわけじゃないが、お前に話しておきたいことがあって」
真剣な父の声にドキッとする。まさかと思いつつ、聞き返した。
「どこか悪いの?」
「なんだ、バレたか? 実はな、ガンと言われて」
その先の言葉は覚えていない。すぐに着替えを鞄に詰めて、家を飛び出していた。浩司に連絡したのは、実家についてからだ。父の病状を確認し、これからどうするのかを相談した。
「しばらくはこっちにいるつもりだけど」
「ああ、勝手にしろ。俺は構わない」
平然と答える浩司。慌てて聞き返した。
「いいの? 食事とか、洗濯とか、大丈夫?」
「外食はいつものことだ。洗濯は洗濯機、掃除は掃除機を使えばいい。お前がいなくても困るほどじゃない」
強がりを言っているような感じはしない。それなら、と私は甘えることにした。
「じゃあ、しばらくはこっちにいるわ」
「ああ、ゆっくりしろ。休みが取れたら、俺も顔出すよ」
「うん。待ってる」
浩司の優しさが身にしみる。しばらくの間、私は父と暮らすことにした。
母が亡くなったのは私が中学生の時だ。それから高校を卒業するまでは、父と二人で暮らしてきた。だから随分と久しぶりの二人暮らしだ。
「お父さん、何かして欲しいことがあれば、遠慮なく言ってね」
「分かっている。娘に遠慮なんかしないよ」
互いに笑い合う。もう先は長くないかもしれない。だが父と笑える時間が、今愛しかった。
私はしばらくの間、実家と浩司の元を行き来する。たまに家に帰ると、洗濯物が溜まっているだろう。初めはそんなことも考えたけれど、全くの杞憂に終わる。浩司は一人で洗濯も掃除もこなしていた。食事は外食だったようだが、それ以外は問題なし。
「これくらいは、誰でもできるだろう」
平然と答える浩司。それなら普段から少しは手伝って欲しかった。言えない言葉が脳裏をよぎる。色々な思いに蓋をして、私は再び実家に向かう準備をした。
「次は二週間後に戻るから」
「それはいいけど。お父さん、具合はどうだ?」
「うーん。あんまりかな」
本当のことを言えばかなり悪いけれど、余計な話をしても心配させるだけだ。その時までは、普段通りに仕事をしてもらいたい。
「じゃあ、何かあったらすぐに連絡しろよ」
「ええ、分かったわ」
「じゃあ、行ってきます」
頭を下げてから家を出た。外に出る前に、ゆみ子の家に向かう。チャイムを鳴らすと、すぐに彼女が出てきた。
「久しぶりですね、トミさん。お父さんの具合は?」
ゆみ子にも父のことを話している。そして、いくつか頼み事もしていた。
「あまり良くないけど、今は落ち着いているわ。だから、また荷物のこと」
「ええ、受け取りを頼めるわよ」
軽く頷いてみせる。実家に戻ったばかりの頃は、父も家で暮らしていた。しかし今は体調が悪くなり、実家近くの病院に入院している。私も父に付き添っているので、ほとんど実家にはいなかった。親戚から送られてくる荷物も、受け取れない状態が続いている。
そこで考えたのが、荷物をゆみ子のところへ送ってもらう方法だ。彼女に受け取りを頼み、家に戻った時に私が彼女の家を尋ねるようにした。荷物を送る日を帰宅する日に合わせれば、痛みやすいものでもなんとかなる。
「いいわよ。たまにお菓子ももらうし」
「ごめんなさいね。また美味しいものを送ってもらうから、楽しみにしているわね」
交流の機会も増え、一石二鳥だと私たちは思っていた。けれど、こんな話をしたのもほんの数回だけ。癌の告知を受けた三年後、父は亡くなった。八十二歳だったこともあり、悲しむ人は少なめ。どちらかと言えば、長生きをしたと喜んでいる人の方が多かった。私もそう思う。だからあまり悲しまずに、父を送り出すことができた。
そんな中、気になったのは浩司の態度だ。彼は淡々と葬儀を終わらせていた。悪いとは言わないが、その様子が少し気になる。全てが終わった後で、彼にこう話しかけた。
「浩司、お疲れ様。迷惑をかけたわね」
「いや、別に。それより、遺産相続はどうするんだ?」
意外な言葉に面食らう。私の遺産相続に、浩司は無関係だ。遺言でもあれば別だが、父は何も残していなかった。法定相続は私くらいだし。
「うちの親戚は面倒を嫌うから」
「そっか。じゃあ、お前が勝手にやればいいんだな」
妙にあっさりしている。違和感を覚え、私はさらに追求した。
「浩司は遺産に興味はないの? ほら、お父さんって古い車が好きだったから、高く売れるものがあるかも」
父が趣味にしていたのは車だ。若い頃はバイクでツーリングにも行っていたらしい。しかし私が知っている父は、いつも車に乗っていた。旧車と言えばいいのか、レトロな車が好きだったと記憶している。
「ああ、古臭いあれか。旧車だか廃車だか知らないが。ただのゴミだろ」
「ゴミ?」
言葉を失った。呆然とする私に、浩司が畳みかけてくる。
「今、ゴミを捨てるのにも金がかかる時代だ。早々に実家を売って、お父さんが集めたゴミの処分費用を捻出しろ。いいな」
「そんな言い方しなくても」
「じゃあ、どう言えば納得するんだ? 俺にゴミの処分費を出せって言うのか?」
浩司がこちらを睨みつけてきた。私は咄嗟に視線をそらす。それから、小さな声で言い返した。
「父さんの品は、私がもらうわ。嫌でも何でもかんでも」
「ああ、そうかよ。勝手にしろ。ただし、税金はお前が払え。いいな」
睨まれ、私は不承不承ながら頷いた。実家は祖父の代に建てられた家だ。建物資産価値はほとんどない。土地も田舎だから二束三文。請求される固定資産税は、父が残したお金で十分足りるだろう。問題は遺品にかかる税金だ。父が残した旧車は査定が必要だし、他にもこまごまとしたものがある。面倒だけど、弁護士に依頼するしかないわよね。後で発覚すれば厄介なことになる。可能なら一度に済ませておきたい。私は弁護士を頼ることにした。
相続の件はそれで片付くが、問題は浩司との関係だ。言い争いをしたことで、ギクシャクしてしまう。家にいても互いに口を利かない。やがて、家庭内別居のような状態になっていた。私は何も悪くない。どうしてもその思いが先に立った。我慢して謝るか、それとも今の状態を受け入れるか。毎日頭を悩ませた。
弁護士に遺産相続の手続きを任せてから約三ヶ月。私たちの関係に大きな変化はなかったけれど、やはり夫婦の関係を改善するべきだろう。資産相続がどうなるかは別として、協力してもらわなければならないことが必ず出てくるからだ。勇気を出した私は、仕事へ向かう前の彼に声をかけた。
「ねえ、浩司。話があるんだけど」
「はあ? これから仕事だぞ」
「分かってる。だから、帰ってからでいいわ」
黙り込む。しかし浩司は不愉快そうに顔をしめただけ。
「今更、何の話だ? 遺産の件なら、勝手にしろと言ったはずだぞ」
「だからこないだ、ちょっと揉めたでしょ。そのこと」
懸命に説明する。考える間を置いた彼は、深いため息をついていた。
「ああ、それか。もう終わった話だろ」
「でもね」
「はいはい。分かったよ。俺も話したいことがある。ちょうどいい」
浩司は私に背を向ける。さっさと荷物を手にして玄関へ向かいながら、こう言った。
「帰ったら聞いてやる。それでいいだろ。じゃあな」
急いで追いかけた私の返事も聞かず、彼は扉を閉める。残された私は、ただ見送ることしかできなかった。まあいいか。きっかけになったから。今はこれで十分だと自分を納得させる。あとはどうやって彼をなだめるか。私は懸命に考えていた。
やがて夜になり、浩司が仕事から帰ってくる。何も言わずに帰宅した彼を、私はリビングで出迎えた。
「お帰り。早かったわね」
「なんだ、お前、いたのか」
冷たい言い方にムッとするけれど、ここで言い返せば話が続かない。笑顔を絶やさないように、私は我慢した。
「決めたいって言ったでしょ」
「ああ、そうだったな。俺も話があるんだ」
スーツの上着を脱ぐ浩司を見ながら、私は先を促した。
「じゃあ、あなたが先に行って。私の話は、分かっていると思うから」
「そうだな。じゃあ、俺から話すよ」
前置きしてから、彼はリビングのテーブルに着く。私は向かい側に座った。
「ああ、お茶でも入れようか」
気を利かせたつもりだったが、そっけない態度で返される。
「必要ない。すぐに終わるからな」
「そう。ごめんなさい」
「いいや。俺の話は一つだけ。離婚してくれ」
意味が分からず呆気に取られる。ポカンと口を開けたままでいると、浩司がもう一度言った。
「聞こえなかったか? 離婚してくれ、俺と」
「あ、いや、え、離婚?」
間抜けな声で聞き返してしまう。だが浩司は気にも止めずに頷いた。
「ああ、離婚だ。しおりも就職したし、別に問題はないだろう」
「え、でも」
「俺はずっと前から考えていたんだ。生活が破綻していたとは言わないが、これ以上一緒に暮らす意味もないだろう」
突然の申し出に、答えが思いつかない。そんな私を余所に、彼は勝手に話を進めていった。
「いい機会じゃないか。お父さんも亡くなったし、お前は実家に戻ればいい。住む場所を探す手間もかからないし、今なら生活費も何とかなるだろう」
「どういうこと?」
「遺産があるだろうって話だよ」
浩司はフンと鼻を鳴らした。実際、正確な父の遺産はまだ分からない。弁護士に調べてもらっている最中だからだ。それに、亡くなる直前には結構な医療費がかかっている。私が暮らしていくのに十分な預貯金が残っていない可能性もあった。
「待ってよ。遺産って、それだけで生活できるわけがないでしょ」
「それもそうか。じゃあ、財産分与してやるか。預金の半分をやるから。それでいいだろう」
財産分与は当然の権利だ。それよりも今は、突然の離婚宣言が納得できなかった。
「一方的に離婚って。それで私が頷くと思ったの?」
「嫌なら、裁判をするだけだ。離婚調停って言ったか」
また腹が立つ。私は思いきりテーブルを叩いていた。
「何よ、その態度。なんで、この年になって」
「今だからだよ。熟年離婚ってやつだな」
平気な顔で言い放つ浩司。その顔を見ていて、私はハッとした。
「もしかして、定年後だと退職金が減るから?」
「それもある。退職金は、定年後の俺の大事な生活費だからな」
浩司はあっさりと認める。開き直った態度が気に入らなかった。そういうことかと理解した私は、深いため息をつく。
「分かった。離婚ね」
「上出来だ。納得してくれて助かるよ」
「でも、慰謝料はきちんともらうから、覚悟しといてよね」
浩司を睨みつける。すると彼は眉間にしわを寄せて首をかしげた。
「慰謝料?」
「とぼけるの? あなたが離婚って言い出したんでしょ? 慰謝料を払うつもりもなかったのかしら」
強い口調で言い返す。次の瞬間、思いもよらない反撃を受けた。
「俺が、何の慰謝料を払うんだ? 俺は何も悪くないぞ」
「え、だって」
言い返そうとして固まってしまう。そんな私に、浩司は冷静に説明してきた。
「離婚の慰謝料は、一方に責任がある時に発生するものだ。例えば浮気されたとか、叩かれたとか、そういう感じだな。でも、俺は何もしていないだろう。ただ単に価値観の不一致。それが離婚の理由だ」
実際、相手に明確な責任がなければ、慰謝料はもらえない。明確な責任に該当するのは、彼が言ったように浮気などだ。一緒にいるのが嫌になったというのは対象にならない。また、請求可能な状況でも何もせずに諦める女性が多いという話もある。財産分与だけで終わらせて慰謝料を手にするのはほんの数パーセント。大抵は早々に関係を終わらせたいからと、無条件で離婚するという。
「責任もないのに、慰謝料を払うわけがないだろう。財産分与するだけでもありがたいと思えよ」
「待ってよ。財産分与って、二人で分けるようなお金はないでしょ」
実は、今の我が家は貯金がほとんどない。理由は簡単。父の看病をするために、私たちが離れて暮らしていたからだ。
しおりが就職するまでは、彼女の学費に貯金を費やしてきた。就職が決まった後は、再び貯金を始める。その矢先、父が病気で倒れてしまった。私は実家に戻り、浩司は一人で暮らしていく。生活費は二人で暮らす以上に必要だった。結局、貯金を切り崩し、私たちは生活することになったわけだ。
ここまで話せばもう分かるだろう。長年の貯金は、随分と減ってしまっている。さすがにゼロではないけれど、お世辞にも多いとは言えなかった。
「仕方ないだろ。お前の実家のためだったんだから」
「それは分かるけど。残りの貯金を半分。いや、少し多めでいいから、持っていけ。話はそれからだ」
スッと浩司が立ち上がる。私は懸命に引き止めた。
「ま、待ってよ。そんなの、無一文で離婚って言ってるようなものじゃない」
「まあ、そうだな。でも、俺のせいじゃない。お前の実家のために行動した結果だろ。俺に文句を言うなよ」
完璧に言い返されてしまう。呆然とする私を置いて、彼はリビングを出た。入口のところでこちらを向き、最後にこう告げる。
「早急に荷物をまとめて出ていけ。大きいものは、後で送ってやるから」
言うが早いか、浩司はピシャリとリビングの扉を閉めた。もう私に選択肢は残っていない。翌日、私は着替えだけを持って実家へ向かった。
実家までは車で一時間弱。私はバスを乗り継いで実家へ行った。家に着いて最初にしたことは、弁護士への連絡だ。遺産相続の手続きが終わっていれば、とりあえず生活費は確保できる。
「そうですか。分かりました」
残念ながら、旧車の査定がまだとのこと。ただ、課税されない限り相続税は払わずに済みそうだった。
「どうせ相続人は私だけだし、父の車を売ってから相続の手続きをしても構わないわよね」
相続人が複数いる場合、換価分割という方法がある。遺産となる不動産などを売却して、その利益を分割する方法だ。同様に、相続人が一人の場合でも、現金化してから相続することができる。私は弁護士立ち合いのもと、旧車を売却することにした。翌日、弁護士と連絡を取り合い、車の買い取りディーラーのところへ向かう。車は店の人が取りに来てくれるらしい。私は手ぶらで店へ行くだけでいいそうだ。便利な世の中になったわね。
店内で一息ついていると、奥から男性が現れた。私よりも少し若く見える彼が査定を担当するようだった。
「査定を担当します。豊島です。奥の車庫に車が到着しましたが、査定をご覧になられますか?」
「はい、お願いします」
豊島に案内されて、車が搬入された車庫へ行く。
「では査定を始めますが、どうしてお売りになろうと思われたのですか?」
急に夫から離婚を宣告され、無一文で放り出されました、とはさすがに言えない。慎重に言葉を選ぶ。
「父の遺産なんです。管理が難しいので、誰かにお譲りしたいと思いまして」
話している間、車内を見ていた豊島が突然顔を出す。
「失礼、奥様。別でご確認を」
「え? 何を?」
私が聞き返すと、彼は手にしていた茶色い封筒をこちらに見せた。これが父のものだとすれば、車内に隠していたのだろうか。どうしてここに、と考えてすぐにハッとした。
亡くなる直前、父は私にこう言い残している。俺の遺産は、お前に必要なものばかりだぞ、と。ただの冗談だと思っていたけれど、違ったようだ。封筒の中身は、絶対に私に必要なものだ、と大きく頷いていた。
「分かりました。案内してください」
「では、こちらへ」
豊島が店の奥へ向かう。一番奥にはオフィスがあり、手前には応接室のような部屋があった。そこに通される。
「ここで構いませんか?」
「はい」
私は弁護士と一緒に中へ入った。ソファーに座ると、向かい側に豊島が座る。彼は封筒をテーブルの上に置き、こう切り出した。
「こちら、シートの隙間に隠すように挟まれていました。何か思い当たることはございますか?」
おそらく父のものだ。中身が何か分からないが、父がそこに入れたのは確実だ。では、どうして隠していたのか。答えは一つしかない。私以外の人に見つからないようにしたかったからだ。
「中身を確認させてください」
「もちろんです。お客様のものですので」
封筒を手にする。そっと開けて中を覗いた途端、私は小さな声をあげていた。
「これって」
反射的に口を塞ぐ。じっとこちらを見ている豊島に、作り笑いで応えた。
「すみません。こちら、父のもので間違いありません。中身はちょっと」
「詮索はいたしませんので。ただ、もう一点よろしいですか?」
豊島が指を立てる。私が首をかしげると、彼は封筒の裏側を示した。
「そちらに、とある方のお名前が書いてあります。車はその方に譲ってほしいと記載されているとお見受けしますが」
「え、嘘」
咄嗟に封筒を裏返す。確かにそこには、ある人の名前が書かれていた。
「当店の重要なお客様のようですので、私どもが仲介しても?」
「お願いします」
こうして父の車の売却先が決定。私は詳しくないのだが、一九七〇年代に作られた国産車だったそうだ。近年人気が高まっている車種で、思ったよりも高額で売れるらしい。豊島はすぐに相手に連絡を取ってくれた。電話で話をしただけだが、相場よりも少し高い六百万円で買いたいとのこと。相手がお得意様ということもあって、店側は手数料を取らないと言ってくれた。申し訳ない気もするが、今は少しでもお金が欲しい。私はありがたく彼の申し出を受けることにした。
残りの手続きは全て弁護士に任せる。遺産相続の手続きが済むまでは、できるだけ関わらない方がいいと思ったからだ。そこから先は意外と早かった。弁護士から全ての手続きが終了しましたと連絡が来たのは、二ヶ月後のこと。
これでようやく、浩司と決着をつけられるわ。覚悟していなさい。一人で呟いた私は、浩司に電話をかけた。ちょうど昼時だったが、もしかすると仕事中だろうか。そんなことを考えていると、彼が電話に出た。
「もしもし」
眠そうな声が聞こえる。私はわざと明るい口調で話しかけた。
「ごめんなさい。昼時だから、寝てたのかしら」
「ああ、その声か」
受話器の向こうから物音がする。慌てて飛び起きたというところか。
「ええ、遺産相続の手続きが終わったから、あなたとの離婚の件を片付けようと思って連絡したのよ」
「しつこいな。何度もするな。もう決めたことだ。早く離婚届にサインしろ」
実は、家を追い出された後、私は離婚届にサインするのを拒否していた。離婚については同意しようと思っている。ただ慰謝料がないのが、どうしても納得できなかったからだ。
「離婚届には、サインするわ。でも、慰謝料の件は保留だから」
「はあ? なんで?」
明らかに不機嫌になっている浩司に、私は笑いながら言ってあげた。
「だって、あなたに責任がないかどうか、まだ分からないじゃない」
「何だと?」
「悪いけど、調べさせてもらうわよ。しばらくの間、あなたのこと」
浩司からの返答がない。考えているのだろうか。長い沈黙の後、彼はこう言った。
「ああ、勝手に調べろ。でも、何も出ないぞ」
「分からないわよ。調べてみないと」
「バカか、お前は」
調べると宣言したら、誰だって何もしないだろう。当然といえば当然だけれど、それが私の狙いでもある。浩司には大人しくしていてもらいたい。その間に、彼を嵌めるつもりだ。
「そうね。じゃあ、一ヶ月くらいかな。調べて何もなかったら、慰謝料はなしね」
「ええんだな。それで」
「私が言い出したことよ。いいに決まってるわ」
意気込んでいると、浩司はこう切り返してきた。
「今の会話、録音したぞ。絶対だからな」
「あなたも十分しつこいわよ。それに、私も録音しているから、問題ないわ」
これで仕込みは終わった。あとは次の手を打つだけだ。
「それと、後で荷物を取りに行くから」
「あ? 今日か? んか都合が悪いの? もしかして、浮気相手がそこにいるとか?」
そう言った途端、ガタンと大きな音がした。慌ててどこかにぶつけたのだろうか。
「どうしたの? 大きな音がしたけど」
「なんでもない。荷物だったな。さっさと持っていけ。邪魔だったんだよ」
子供の強がりにしか聞こえない。本当に浮気相手が彼のそばにいたようだけれど、それはもうどうでもいい。問題は、こちらが調べていると浩司に思わせることだったからだ。
「じゃあ、後でね」
一方的に言って、電話を切る。時計を見上げてから、私は浩司の家に向かう準備を始めた。浮気相手と鉢合わせしても、面倒なことになる。変に言い訳をされて、うやむやにされると余計に厄介だからだ。私は頃合いを見計らって出た。約一時間後、浩司の家に着く。オートロックの前でチャイムを鳴らした。
「はい。どちら様」
「私よ。早く開けて」
「ああ、お前か」
めんどくさそうに答える浩司。しかしオートロックはすぐに解除された。エレベーターで上の部屋まで行く。エレベーターが着いた時、ちょうど彼が部屋から出てきた。
「ああ、やっと来たか。待ってたぞ。離婚届は準備できてる?」
「当然だ。こっちは離婚したくてうずうずしていたんだからな。やっと離婚できると思うと、清々するよ」
浩司が目の前で離婚届を振る。私は頷きながら部屋に入った。すぐに離婚届にサインし、捺印を押す。そして、自分の家に送ってもらいたいものを指定した。
「これとこれ、あとはこれも、全部私の実家に送って」
「はいはい」
浩司は適当な返事をしている。仕方がないので、念を押した。
「別に構わないわよね。私がもらっても。旧車だっけ? あのゴミが」
見下したような言い方にムッときたが、ここは我慢した。
「ゴミって、何かしら? お父さんの車のこと?」
「ああ、ゴミだろ。古臭い車とか、何の価値もねえよ。かわいそうだから、何でもくれてやる。好きなだけ持っていけ」
鼻で笑う浩司。さすがに我慢の限界だった。視線を合わせずに言い返す。
「そりゃ、必要ないでしょうね。これから先は、浮気相手の家に入り浸りになるんですから」
「なんだと? 出たらめを言うなら、名誉毀損で訴えるぞ」
浩司が急に声を荒らげる。私も強い口調で反論した。
「恥をかきたくなかったら、訴えない方がいいわよ。裁判の席で、浮気の証拠が提示されるとどうなると思う?」
「お前」
「あら、その反応、まるで浮気をしているみたいよ」
笑みを浮かべて指摘した途端、浩司がビクッとする。取りつくろおうように咳払いをして、視線をそらした。
「俺は、別にそういうつもりじゃない」
「まあいいわ。本当に浮気しているなら、私は絶対に許さないから」
少し強く主張する。すると彼は開き直ってきた。
「仮に俺が浮気していたとして、それはお前に魅力がないからだろ」
「好きに言えばいいわ。でもね、許さないのは本当。きっと、あなたと浮気相手を消してしまうでしょうね」
私が真顔で冷たく言ってやる。浩司の顔からは血の気が引いていた。
「何を言っているのよ。浮気していないんでしょ」
確認するような口調で尋ねると、彼は必死に頷いていた。
「じゃあ、問題ないじゃない。それじゃあ、私は帰るから」
軽く手を振って、部屋を出る。これだけ脅しておけば、少しは大人しくなるだろう。そう考えつつ玄関に向かっていると、浩司が慌てて追いかけてきた。引きつった顔で聞いてくる。
「さっきの話、冗談だよな。何が、だから消すとか、なんとか、そういうこと」
私は柔らかい微笑みを返して、忠告した。
「冗談なわけがないでしょ。全部本気よ。じゃあね」
玄関から外へ出る。浩司は追いかけてこなかった。恐怖で体が固まっているのだろう。苦笑しながら、エレベーターホールへ向かった。階下へ降りず、上の階へ行く。
私が目指したのは、健一とゆみ子の部屋だ。ただ、彼女が留守にしているのは分かっている。あらかじめ外出するように連絡しておいたからだ。理由は言うまでもない。私が健一と話ができるように、仕組んでもらったのだ。
玄関チャイムを鳴らす。室内から足音がして、玄関の前で止まった。しばらくすると、扉が開かれる。
「誰かと思ったら、五藤さんの奥さんじゃないですか」
「ご無沙汰しています。五藤の、妻だったトミです」
過去形を強調すると、健一の表情がわずかに曇る。彼はすぐに取りつくろった笑顔で聞いてきた。
「ご主人と、何かありましたか?」
「ええ、先ほど離婚届にサインをしました」
包み隠さずに話す。健一が顔色を変えることはなかった。
「そうでしたか。ところで、今日はご挨拶に?」
「ええ。ゆみ子さんは?」
知っていて聞く。知らないふりをした方が、今は都合がいいからだ。
「すみません。ちょっと買い物に」
「そうですか。では、こちらを渡してください」
私はメモを差し出した。そこにはこう書いてある。米、塩、ナ、豆、茶。ただ、横に並べて書いているわけではない。全て縦に並べて書いていた。見る人が見れば、ギョッとするだろう。なぜなら、米、塩、ナ、豆、茶と五つの品物が書いてあるように見えるから。健一もその一人だったようだ。少しばかり顔を強張らせて、私にこう聞いてきた。
「こちらは、何ですか?」
「ああ、これは私が買ったもののリストです。通販で買ったのですが、離婚で家を出ることになりまして」
ため息をつきつつ、視線をよそへ向ける。それから落ち着いた口調で続けた。
「仕方がないので、ゆみ子さんに受け取ってもらおうと思いまして」
「あ、ああ、そういうことですか」
完全に頬が引きつっている。もう少し突っ込んでおこうか。
「証拠がないんですけど、夫が浮気していたようなので。ガツンと食らわしてやろうと思って買ったんですけど」
こう言えば、彼は勝手に想像するだろう。通販で買った、米、塩、ナ、豆、茶と。もちろん、そんなことはしない。大体、メモに書いているのは女茶だからだ。主な効果はいくつかあるけれど、老廃物の排出など、不要なものを出して問い詰めるという意味で、そう書いただけだった。しかし、健一は勝手に勘違いしてくれている。額に汗を浮かべ、健一は声を潜めて私に尋ねてきた。
「これ、その妻に渡せば」
「ええ、ゆみ子さんには何度も荷物の受け取りを頼んでいますから。それこそ、夫に見つかると都合が悪いものとかも」
ダイエット食品のことだ。見つかれば、いい年をした女が何をしている、と怒られただろう。だが健一は、これも勘違いしてくれた。
「ああ、そうですか。じゃあ、これはゆみ子には」
早足で玄関を閉めようとする健一。私は思い切って扉を掴んだ。
「待って。もう一つ」
「え、まだ何か?」
「さっき夫には、浮気していたら許さないと言いましたけど」
そこでわざと話を中断する。健一が少し身を乗り出したところで、私は続けた。
「もし、彼に協力する人がいたら、その人も許さないつもりです。夫と一緒に消えてもらおうかなって、思っているんですよ」
最後のところで声のトーンを落とす。表情を消して、健一のことを見つめた。
「ふ、ふあ、そうですね。浮気に協力とか、最低ですよね」
「でしょ? では、ゆみ子さんによろしく」
言いながら、私は頭を下げる。玄関は勢いよく閉まった。
もう分かっただろう。こんなことをしたのは、健一と浩司が協力して、浮気をしていたからだ。
結婚当初、私は浩司の仕事が忙しいことに疑問を感じていた。接待と言いながら、本当は浮気をしているのではないか。そう考えていたが、実はこれが大正解。当時は接待と偽り、休日のたびに浮気相手に会いに行っていた。
しかし、ある時、私の疑いを晴らす出来事が起きる。それが健一の引っ越しだ。同じマンションに引っ越してきた際、彼が浩司の取引先の人だと知らされた。休日に一緒に釣りに行くという話を聞き、まんまと騙されてしまう。けれど、これは二人が仕掛けた罠だった。私が疑っていると気づいた浩司は、健一と話し合い、わざと自分たちが一緒に出かけていると知らせる。接待が本当だったと私は思い込み、浩司は疑いを晴らすことに成功した。本当にうまくやったものだ。
でも、茶番はもう終わりよ。一ヶ月後、楽しみにしていなさい。つぶやきながら、私は浩司のマンションを後にした。
それから一ヶ月。全ての時間を、浩司への復讐の準備に当てた。一円も払わずに三十年の結婚生活を終わりにしようとする男に、復讐する。私の思いはそれだけだった。
準備をするうちに、浩司の方から私に電話がかかってきた。
「そろそろ一ヶ月になるが、話し合いをしないか」
「そうね。いいわよ」
「じゃあ、どこで会う?」
堂々とした声が聞こえる。浮気相手と会うのを我慢した。私は絶対に浮気の証拠を掴んでいない。そんな自信が伺える。だが、随分と甘い考えだ。なぜなら、証拠はとっくに手に入れているのだから。そう、父が残してくれた封筒の中に、全てが入っていたのだ。
何も知らない浩司は、嬉しそうに私に聞いてきた。
「こっちはいつでも時間を作るけど、お前の都合はどうだ?」
「そうね。近いうちに会えるから、大丈夫よ」
「はあ? なんだよ、それ」
彼が聞き返してくる。フフフッと笑いながら、私は答えた。
「すぐに分かるわよ。じゃあね」
具体的なことは何も言わず、一方的に電話を切る。その後は着信拒否。浩司は何度か電話をかけてきたようだが、私は全て無視した。向こうからすれば、こちらが話し合いを拒否しているように見えるだろう。けれど、これはほんの演出に過ぎない。事実、その日の夜、私は浩司とある場所で会うことになった。
会ったのは、高級ホテルのバンケットルーム。イベントなどを行うための、ホテルの大広間だ。開かれたのは、田口の会社のパーティーで、私はしおりと一緒に招待されていた。そして、同じように招待されていたゆみ子と話していた時のことだ。どこからか、聞き覚えのある大声が響いてきた。
「どうして、お前がここにいるんだ」
振り返ると、顔を真っ赤にした浩司が立っている。アルコールも出されていたが、まだ酔っているとは思えない。おそらく、かなり怒っていたのだろう。私は少し煽るような口調で答えた。
「あら、誰かと思ったら、浩司じゃない。酔っているの? 顔が真っ赤よ」
「酔っているわけがないだろう。怒っているだけだ。お前の最低の行動に」
こちらを指さして声を荒らげる浩司。そうだと思った、と息を吐きながら言い返す。
「私の最低の行動って、何? 電話を無視したこと?」
「それもある。だが、一番は、俺が仕事をしているところに押しかけたことだ」
「仕事? そんなことはしていないわよ」
彼は、私が今この場にいることを責めているのだろう。しかし、招待されたから来ているだけだ。別に彼の仕事を邪魔する意図はない。
「仕事を邪魔するつもりだろう。捨てられた腹いせに」
「はあ? 何を言ってるの?」
「とぼけるな。ここにいるのが、その証拠だ」
浩司はズカズカとこちらに向かってきて、私の腕を掴んだ。そのまま出口の方へ行こうとする。
「ここにいるだけで邪魔なんだよ。来い」
「話してよ。痛いじゃない」
強引に腕を振りほどいた。次の瞬間、私の背後から声がする。
「何の騒ぎかな?」
振り返ると、田口が立っていた。
「あ、田口社長。お招きいただき、ありがとうございます」
「おお、トミさんか。来てくれたんですね」
「当然です。せっかくのお招きですから」
笑顔で答える。そんな私たちのやり取りを、浩司は呆然と見ていた。
「母だけでなく、私までご招待いただいて、申し訳ないくらいです」
私の横にいたしおりが頭を下げる。浩司はそこでようやく、彼女の存在に気づいたようだった。
「あ、しおりか」
「お父さん、恥ずかしい行動はやめてくれる?」
しおりが不愉快そうに顔をしかめる。
「あ、う。でも、なんでお前まで?」
「お母さんが言ったでしょ。招待されたからよ」
「招待? どうして? 社長から?」
開いた口が塞がらないという感じの浩司。仕方がないので、招待された経緯だけ話すことにした。
「車を売ったご縁で、招待されたの。父の旧車があったでしょ。あれ、田口社長が探していたものだったのよ」
「そうよ。あの古い車が」
「そうよ。あなたがゴミ扱いした、あの車」
呆然とする浩司の鼻先に、指を突きつける。その途端、田口がムッとした様子で割り込んできた。
「今、ゴミ扱いしたとおっしゃいましたか?」
「ええ、彼は私に言いましたわ。古臭い車とか、何の価値もないって。それと、ゴミは捨てるのもお金がかかるとも言ったかしら」
ゆっくりと浩司の方へ視線を向ける。いつの間にか、彼は真っ青になっていた。
「どうしたの? 浩司。顔色が悪いわよ」
「あ、ああ。お前が嘘をつくから」
「嘘? 全部、あなたが言ったことじゃない。もう忘れたの?」
嫌な言い方をする。浩司は必死に否定した。
「そ、そんなわけないだろう。社長が旧車を好きというのは、私も存じていますし、それを馬鹿にするとか、絶対にありませんよ」
取りつくろおうように、言い訳を並べ立てている。その姿を見た私は、鼻で笑ってしまった。
「必死に媚びて、面白い人ね、あなたって」
「なんだと? お前が余計なことを言うから」
「余計なこと? 事実を言っただけなのに」
私は少し身を乗り出して応戦する。自分の言動を否定する彼の態度に、無性に腹が立ったのだ。
「黙れ。俺が社長の趣味を馬鹿にしたと嘘をついて、仕事を邪魔しようって魂胆なんだろう。分かってるんだよ」
浩司が私に掴みかかろうとする。寸前のところで、田口が間に入ってくれた。彼は浩司をなだめる。
「少し落ち着いた方がいい。そういう話は、水かけ論になるだけだ」
「申し訳ありません、社長。うちの妻が失礼で」
頭を下げる浩司。私はすぐに否定した。
「もう妻じゃないわよ」
「うるさい。社長が取り成してくれているんだぞ。素直に受け入れろ」
「悪いけど、水かけ論にはならないわよ。こっちには証拠があるから」
ポケットからボイスレコーダーを取り出す。浩司に止められる前に、再生ボタンを押した。
「古臭い車とか、何の価値もねえよ」
一ヶ月前、彼のところへ荷物を取りに行った時の会話が流れる。当然、浩司は真っ青な顔になっていた。
「どう? 覚えているわよね。一ヶ月前のことだもの」
「あ、ああ。いや、AIとか合成とか」
「言い訳してもいいわよ。どちらを信じるかは、周囲の人たちの自由だものね」
わざとらしく、大きく手を広げる。気づけば、周囲の視線は私たちに注がれていた。
「私、お父さんのこと、見損なったわ」
しおりが、打ち合わせ通りのセリフを口にする。さらに、ゆみ子も彼に冷たい視線を向けた。
「どうやら、君を信じる人の方が少ないようだね」
「社長、違うんです。これは言葉のあやで、その切り取りが」
しどろもどろに言い訳をする。何を言っているのか、私にはよく分からなかった。
「もういい。君が旧車のことを、そんな風に考えていたとは残念だよ」
田口が深いため息をつく。浩司は全身の力が一気に抜けたのか、その場に崩れていた。大勢の前で恥をかいて、いい気味だ。私の復讐は、これくらいで終わらない。
崩れ込んだ浩司の方を、ポンポンと叩いてあげる。
「がっかりするのは、まだ早いわよ」
「え?」
「いい機会だと思うから、あなたが慰謝料をゼロで私と離婚しようとした話も、聞いてもらいましょう」
笑顔で告げる。その瞬間、田口の顔色が変わっていた。
「慰謝料ゼロで、離婚?」
田口が聞き返してくる。
「はい。つい先日、離婚届にサインをしました。自分に責がないから、慰謝料は払わないと言われていて」
「本当なのか? 五藤君」
浩司に問いかける田口。
「あ、ああ。えっと、離婚は価値観の不一致ですし、慰謝料を払う義務はないと。それに、財産分与をするつもりなので、法的には何ら問題ないと思いますが」
「しかし、私が聞いた話だと、彼女は専業主婦だったはずだ。急に働くというのは大変だし、少しくらいは」
「ですから、財産分与を払う法的な根拠がないので」
二人の間で論戦が始まる。しばらく眺めようかと思ったけれど、時間を無駄にはできない。仕方がないので、私は二人の間に入った。
「法的な根拠はあるでしょう。自分のことなのに、分からないの?」
「何のことだ?」
「こっちには、あなたが浮気をしていた証拠があるのよ」
堂々と宣言するけれど、鼻で笑われてしまった。
「フン。バカか、お前は。たった一ヶ月で、何が分かるって言うんだ。大体、この一ヶ月、俺は仕事しかしてないからな」
余裕の笑みを見せる浩司。いつの間にか立ち上がって、偉そうな態度でこちらを見ている。すぐにその鼻っ柱を叩き折ってあげる。私は自分の携帯電話を出した。画面に表示されている文字を読み上げる。
「じゃあ、行くわよ。裕子、リカ、まなみ、それにあさ」
全て女性の名前だ。誰のか、言うまでもないだろう。今までに浩司が浮気してきた相手の女性だ。
「なんだよ、お前」
「あら、女性の名前を聞いただけで、随分と反応しているわね」
「当たり前だろ。話の流れからすると、俺の浮気相手とか言い出しそうだからな」
眉をひそめた浩司が、声を張り上げた。私は無表情で答える。
「違うの? 全員、あなたの浮気相手でしょ?」
「ふざけるな。何の証拠があって」
怒鳴ろうとした浩司の前に、しおりが進み出る。彼女の手には、父の車から見つかった封筒が握られていた。
「お父さん、言い訳は無駄よ。この中に、証拠がたくさん入っているから」
言うが早いか、しおりは封筒の中に手を入れる。中から数枚の写真を掴み、それを会場にばら撒いた。
「あっ」
息を飲む浩司。写真はヒラヒラと会場に散らばっていく。その中の一枚が田口の足元に落ち、彼はそれを拾い上げた。女性と腕を組んだ浩司の写真だ。二人で繁華街を楽しそうに歩いている。
「これ、どう見ても五藤君だね。何か言いたいことはあるかな?」
「あ、ああ。これは偶然、飲食店で働く女性と会っただけで」
苦しい言い訳を始める。だが、私のそばにいたゆみ子の一言で、彼の釈明は終わった。
「飲食店の人が、腕を組んでもホテルに行ったら、浮気ですよね」
ゆみ子が拾ったのは、田口の写真の続きと言えばいいだろうか。繁華街の先にあるホテルに、二人で入ろうとする瞬間の写真だった。
「さすがに、弁解の余地はないと思うが、どうかな、五藤君」
田口に詰め寄られ、浩司は小さくなってしまう。もう立ち直るのは難しいだろう。
その時、健一が会場に入ってきた。妙な空気を悟ったのか、そろそろとこちらへ近づいてくる。すぐにゆみ子に気づき、彼は頭を下げた。
「田口社長。もしかして、妻が何か」
ちょうど輪の中心にいたのはゆみ子だけれど、彼女は無関係。問題を起こしたのは、私というか、浩司というか。
「彼女は関係ない。心配するな」
「ああ、よかった。妻が何かしでかしたのかと思いましたよ」
ホッとする健一を見て、本当に申し訳ないが、もう少し危機感を持ってもらおう。私は次のターゲットに視線を移した。健一の方を向き、静かに告げる。
「実は今、元夫の浮気を追求していたんですよ。ほら、足元に何枚か写真が落ちているでしょ。これが証拠よ」
「ああ、本当だ」
ゆっくりと足元の写真を拾い上げる健一。公園のベンチで、若い女性と睦まじい姿を見せる浩司の写真だった。女性の名前は知らないけれど、過去の浮気相手の一人なのは確かだ。
「よく撮れていますね。羨ましいくらいだ」
健一はアハハと乾いた笑いをもらす。どんな反応をすればいいのか、分からなかったようだ。しかし、うまい具合に彼は出現してくれた。ちょうどいいので、話に乗ってあげる。
「羨ましいですか? じゃあ、あなたの分も見せてあげますね」
しおりに向かって手を差し出した。彼女は例の封筒の中から、別の白い封筒を出す。それを私に渡してくれた。
「中身は、あなたの写真です。こちらもよく撮れているので、皆さんに見てもらいましょうか?」
「え、俺の?」
「ええ。二人で仲良く、破滅してね」
健一の目の前で封筒を揺らした直後、中身をばら撒く。浩司の時と同様に、写真は会場に舞った。
「あ、やめろ」
健一は大声をあげながら、写真を拾おうとする。こういうところは、浩司よりも随分と反応が早い。出世頭とそうでないものの違いだろうか。ともあれ、彼は数枚の写真を拾っていた。
「十二枚拾ったって、追いつきませんよ」
ばら撒かれたのは、百枚近い写真だ。私が言ったように、一人で拾いきれるはずがない。写真は会場にいた人の手に渡り、彼らは健一を指さして、こそこそと話し始めた。
「やめろ。見るな」
「あら、偽物だって否定しないの?」
会場に向かって叫ぶ健一の背後から、ゆみ子が冷静に尋ねる。ゆっくりと振り返った彼は、真っ白な顔になっていた。完全に血の気が引いている。その姿が面白くて、思わず吹き出しそうになった。
「違うんだよ、ゆみ子。これは、五藤さんに誘われて」
「人のせいにするの? 言い訳をした、五藤さんの方がマシね」
ニコリとしたゆみ子。次の瞬間、思いきり健一の頬を引っ叩いていた。パンと乾いた音が、会場に響く。呆然とする彼を、ゆみ子は怒鳴りつけた。
「ふざけるんじゃないわよ。誘われた? 断るって言葉を知らないの? あなたのために服を買って、ついでに投げつけてあげましょうか?」
会場が水を打ったように静まり返る。私も驚いた。実は一ヶ月前のことだ。ゆみ子には、浩司と健一が組んで浮気をしていると伝えていた。互いにアリバイ作りに協力していて、どちらも浮気している。そんな風に話したが、彼女は私よりもずっと冷静だった。
「そう。そんな気がしていたわ」
証拠となる写真を父が集めていたことも話す。もちろん、先ほど会場でばら撒いた写真は、全て彼女に見せた。
「どうする? ゆみ子さんは」
「別に。機会があれば、追求するけど」
落ち着いているといえば聞こえはいいが、興味がないようにも思える。そんな彼女だったからこそ、ここまで怒るとは予想もしていなかった。
健一を怒鳴りつけたゆみ子は、彼の鼻先に指を突きつける。それから、静かにこう言った。
「離婚してくれるわよね」
「あ、ああ」
「あなたに何か言う権利があると思っているの? あなたの答えは、はいか、いいえのどちらかよ」
どうやら選択の余地はないらしい。健一はすぐに反論しようとしたが、私と目が合って、諦めてしまった。おそらく、あのメモが役に立ったのだろう。私が攻撃的な対応をするとほのめかしたから、ゆみ子も何かするに違いない。そんな思いが脳裏をよぎったようだ。
目の前で小さくなる浩司と健一を、二人を交互に見ながら、私は浩司に尋ねた。
「さて、二人で相談していたようだけど、どんなお仕置きがいい?」
「やめてくれ」
浩司が頭を抱える。それから、怯えた声でこう言った。
「謝る。浮気の件は謝るから。だから、あれだけは」
思わず吹き出した。本当に、私が通販で買った女茶で、何かすると思い込んでいたようだ。
「何よ、女茶って。笑うじゃない」
笑いながら聞く。浩司は頭を抱えたまま答えた。
「お、俺は知ってるぞ。お前が女茶を買ったこと。ここで言っておけば、俺に何かあったら、すぐにお前が捕まるだろう。そ、そうだ。証拠のメモは、俺がコピーしている。言い逃れはできないぞ」
震えながら叫ぶ浩司を耳にして、私はゆみ子と顔を見合わせる。次の瞬間、私たちは二人で吹き出していた。
「この人たち、本当に勘違いしているわ」
「なんていうか、本当にいるんですね」
大笑いする私たちを見て、キョトンとする浩司と健一。全く気づいていないようなので、種明かしをした。
「多分、私がゆみ子さんに頼んだ荷物の受け取りのメモを見て、勘違いしたのよね」
「勘違い?」
「ええ。私が頼んだのは、米、塩、それに女、豆、茶よ」
私が言った途端、健一がハッとする。
「私が、何をすると思ったの?」
「あ、え」
急に脱力する健一。彼の肩をポンポンと叩き、耳元で言ってやる。
「ありがとう。あなたのおかげで、うまくいったわ」
「それ、どういう」
「そのままよ。あなたのおかげで、浩司を追求できたというだけ」
軽く説明すると、私は浩司に近づいた。彼はまだ怯えている。ゆっくりと肩を掴み、低い声で話しかけた。
「まだ終わりじゃないわよ」
息を飲む浩司。静かにこちらに顔を向ける。
「話が途中になったけど、まだ続きがあるわよ」
「続き?」
浩司の眉がピクリと動く。私は大きく頷いた。
「あなたが浮気していたのは、認めるわよね」
「ああ」
力ない返事に、咄嗟にため息をついてしまう。もう一つ、重要な追求が残っているというのに。
「まあいいわ。さっきの写真は、過去のものだけど。現在進行形の浮気があるわよね。その辺りも、追求していい?」
浩司が顔を上げ、力なく笑いながら答えた。
「何の話だよ。お前が調べるって言ったから、この一ヶ月は、何もしていない」
「そうね。でも、それまでは浮気していたでしょ。そこにいる、あさ美さんと」
私は、会場の隅にいた一人の女性の方を向いた。驚いた女性は目を白黒させて、自分を指さす。
「ええ、あなたよ。あさ美さん。こちらに来て」
手招きすると、あさ美は渋々近づいてくる。四十歳前後の、綺麗な女性だ。
「濡れ衣を着せないでくれる? 私は彼も、そっちの人も知らないわよ」
あさ美がフンと一蹴する。彼女は私の行きつけのバーの店員だが。
「本当に? 彼女、お店を休んでいませんでしたか?」
私は田口の方へ向いて聞く。
「ああ、そういえば。あれ、出産のためだったんですよね」
田口が言葉をあさ美に戻す。ビクッとした彼女は、わずかに後ずさりをしていた。
「お子さん、お元気ですか? 急に浩司と連絡が取れなくなって、不安でしたよね」
「な、何のことよ」
「とぼけなくてもいいですよ。浩司が急に連絡を絶ったから、あなたは心配で、何度か会社まで様子を見に行きましたよね」
実は、これが浩司を大人しくさせておきたかった最大の理由だ。あさ美を見ながら、私は話を続ける。
「あなたのお子さん、父親が浩司かどうか、確認してもらいましたよ。浩司らしき人が父親として、何度か面会していたと」
「じ、違う。別人よ」
思いきり否定されるけれど、私は構わずに話した。
「浩司が会社の帰りに、あさ美さんの家に来る写真があります。こちらは専門職の方に調べてもらったので、間違いありませんよ」
「は、でたらめよ、そんなの」
「そうですか。じゃあ、これは」
そう言いながら、私が出したのは、子供を抱いたあさ美と、隣で笑う浩司の写真だ。
「これ、職場のロッカーに貼っているそうですね。お店の方に話をして、こっそりとコピーを作ってもらいました」
「人のものを勝手に。犯罪よ」
「そうですね。不適切な手段で手に入れた証拠なので、これは使いません。あなたにお返ししますね」
写真をあさ美に手渡す。彼女は奪い取るようにして受け取った。
「でも、正規に手に入れた証拠は、問題ないですよね」
「はあ? どういうこと?」
「あなた、誰かに子供の父親のことを、尋ねられませんでしたか?」
質問を投げかける。あさ美は考えを巡らせているのか、少し黙り込んでいた。バーの店員ともなれば、客との会話は必須だと言える。相手に合わせて話をするだろうし、時には自分の身の話もしたはずだ。あさ美が妊娠していると気づいた客の誰かが、相手の男性のことを聞いたかもしれない。
「さあね。覚えていないわ」
とぼけたのか、本当に覚えていないのか。事実はどちらでも構わない。なぜなら、私の手元には、彼女が父親を語る音声があるからだ。
「まあ、覚えていなくてもいいですよ。録音がありますから」
携帯電話を取り出し、とある録音を再生する。聞こえてきたのは、店の客とあさ美の声だ。
「え、録音してるんですか、お客さん?」
「ああ。病院を抜け出してきた記念だよ。私も、もう長くないと思うからね。今日だけは、構わないだろ」
懐かしい父の声もする。私は涙をこらえて、音声を耳に傾けた。
「じゃあ、今日は特別にありがとう。ところで、妊娠してるんだって。相手は誰?」
「ああ、浩司さんという人です。建設資材を扱う会社の営業の人なんですよ」
明け透けに、あさ美が話す。浮気をしているというのに、危機感のかけらもない。
「もしかして、五藤浩司さんか」
「え? お、お客さん、知り合い?」
急に、あさ美の声に警戒心が宿る。当時の浩司は既婚者だった。彼のことを知る人物だとなると、都合が悪い。
「いや、うちの部下が何度か釣りに連れて行ってもらったらしくて。私は興味がないから、彼とは全く面識もないよ。名前をもらっただけだ」
「そうなんですか。いい人ですよ、本当に」
そこで録音は終わった。顔を上げると、真っ青な顔をしたあさ美が目に入る。
「さて、言い訳はないですよね、あさ美さん」
「じ、違うの? これは」
「うるさい。あなた、今の音声の中で、認めていたじゃない」
少し強く言うと、彼女は完全に黙り込んでいた。深いため息をついた後、今度は浩司の方を見る。彼を睨みつけ、静かに尋ねた。
「浩司。何か言い訳は? あなた、ないでしょうね。よくも、自分に責がない、なんて言えたものね」
ドンと浩司を突き飛ばす。彼は力なく床に倒れ込んだ。
「離婚の慰謝料、払ってくれるわよね、浩司」
「はい」
「いくらにする? 百万? 二百万? それとも、もっと払える?」
尋ねると、浩司は涙目で顔を上げた。頭を下げながら、必死に言ってくる。
「もういいだろう。俺には、子供が」
「私以外の、ね」
「お父さん、最低」
隣からしおりが声を出す。浩司は何も言えなくなっていた。
「子供がいるから? 何? それはそっちの都合でしょ。法的には浮気と隠し子。ただそれだけの話よ」
「でも、でも」
「でもじゃないわよ。法的に慰謝料を払う義務がないと言ったのは、あなただったら。法的に責任ができた以上、あなたの有責で離婚でしょ」
ピシャリと告げると、浩司は黙ってしまった。
「慰謝料を請求するわ。あなたと、あさ美さんに」
「私にも?」
「ええ。二人で浮気の責任を取ってちょうだい」
冷たい声で伝える。
「待ってよ。私は、子供が」
「はいはい。私もいるわよ。しおりという、可愛い娘がね」
隣にいたしおりを抱き寄せる。彼女は不愉快そうにあさ美を見ていた。
「人の家庭を壊しておいて、逃げられると思わないことね」
「でも、子供の養育費が」
「それは、浩司に何とかしてもらって。どちらかが慰謝料を払ってくれれば、こちらは問題がないから」
法的に、と語尾を強調する。浩司もあさ美も、完全に沈黙していた。
「私も、あなたに慰謝料を請求するから、覚悟しててね」
自分には関係ないという空気を出していた健一に、ゆみ子が告げる。
「あ、おい。俺まで巻き込むな」
「あら。彼の浮気のアリバイ作りに協力したのは、誰? あなたよね」
キツイ言葉を食らわせるゆみ子。健一は顔をしかめていた。
「残念だけど、あなたも終わりよ。あなたの人の悪行が、知られたのだから」
ゆみ子が手を広げる。健一はゆっくりと振り返った。誰も彼もが、健一と浩司を見ている。白い目、という言葉が相応しい。糾弾するような視線を向けられる中、健一は大声をあげた。
「やめろ。そんな目で、俺を見るな」
「見苦しいぞ」
田口が釘を刺すけれど、健一は止まらない。
「なんだよ。俺は何も悪くないだろう。高が浮気じゃないか。俺が、お前たちに何か迷惑をかけたか? 何もしてないだろ。無関係な人間は、引っ込んでろ」
怒鳴り散らす健一は、本当に醜かった。
結局、健一が落ち着かないせいで、パーティーはお開きに。田口の会社の社員は、複雑な顔で帰っていった。残された健一が、居場所を失くしたのは言うまでもない。
ただ、浮気をしていたとはいえ、健一が会社に在籍し続けることは可能だ。彼は業務に影響も及ぼしていないし、横領などの犯罪行為もなかった。これだけで懲戒解雇というのは、かなり難しいだろう。彼はこの後も、会社に在籍することになった。しかし在籍が可能であることと、実際に仕事を続けるのは大きな違いがある。周囲の目も違ってくるし、対応や態度も大きく変わる。毎日のように陰口を叩かれた健一は、やがて自ら退職を申し出たという。慰謝料を払うことで、ゆみ子との離婚も成立。彼女は実家へ帰り、仕事も妻も失った健一は、どこかへと姿を消してしまった。噂では工事現場のアルバイトをしていたというが、定かではない。私も街中の工事現場で、健一に似た人を見たが、人違いだろう。若い男性に大声で怒鳴られながら、ただ頭を下げていたから。
さて、私と浩司だが、彼から慰謝料をもらうことに成功した。離婚届はすでに記入済みなので、これで万事解決。私はそう思っていたけれど、なぜか浩司がゴネ始める。離婚は本意じゃなかった。あれは気を引きたかっただけだから、離婚届は無効だ、なんて主張を始めたそうだ。弁護士から教えられたが、何を言っているのか、全く分からない。当然、私は撥ね付けた。怒ったのか、家庭裁判所に調停を申し立てると脅すことも言い始めるけれど、旧車に対する罵倒の部分を聞かせたら、すぐに大人しくなった。自分で言ったことを、忘れていたらしい。本当に間が抜けている。ともあれ、慰謝料をもらって、離婚することができた。
私と別れた後、浩司とあさ美は、随分と揉めたようだ。高額の慰謝料をこちらに払ったことが原因だった。金銭的に困窮したあさ美は、あっさりと浩司を切り捨てる。お金のない老人と一緒にいるより、他の男性を見つけた方が早い。そんな風に思ったのだろう。浩司の元に残ったのは、彼女からの養育費の請求書だけだった。
彼にはまだ仕事があると思った人もいるかもしれないが、そんなことはない。田口の会社のパーティーで騒ぎを起こした責任を取らされ、浩司は会社をやめていた。解雇ではなく、自主退社という形だ。会社として首にしたいが、それは難しい。仕方がないから、圧力をかけて、自らやめるように仕向けた。そういう感じだ。
高齢で退職を余儀なくされた浩司に、再就職は無理だった。今は河川敷を散策し、近くのゴミを漁る生活をしているらしい。六百万円で売れる車をゴミというくらいだ。彼にとっては、宝の山で暮らしているようなものだろう。
ついでに私の話もしておくが、今は実家で暮らしている。ただ、一人ではない。しおりも一緒だ。理由は、近々彼女が結婚することになり、仕事をやめたからだった。
「本当に、ここで新婚生活するつもりなの、しおり?」
「別にいいでしょ。こんなに立派な家があるんだから」
しおりは、私の実家を新居に決めたそうだ。新婚生活をするには、少々古いが、本人がいいというなら問題ない。
「彼は納得しているの? 私と、義母と一緒に暮らすのよ」
「大丈夫よ。彼が、そうしようって言い出したんだから」
「え、本当?」
聞き返すと、しおりは少し視線をそらして答えた。
「お金の節約にもなるし、平気よ。それに、子育ても手伝ってもらえるし」
「え、今、何て言ったの? 子育てって、聞こえた気がする」
しおりの顔を覗き込むと、彼女は恥ずかしそうに白状した。
「妊娠してた」
だから早々に仕事を辞めたのは、そういうことか。何はともあれ、本当に嬉しい報告だ。
「おめでとう、しおり。これから、新しい家族で頑張りましょうね」
今さら、新しい、と強調してしまったのは、私が前向きになれたからかもしれない。



