鈴原部長が会議室で俺を見たとき、満面の笑顔だった。これまで一度も褒められたことのない俺には、その笑顔が逆に不気味に映った。「ご苦労だったな。よくやった」と部長は言った。俺はただ「はあ」と返すのが精一杯だった。そして次の瞬間、部長はとんでもない言葉を放った。「じゃあ後は俺が引き継ぐから、中卒はよ済みだ」俺は言葉を失った。耳を疑った。「え……?」間の抜けた声が漏れる。部長は嫌な笑みを浮かべて俺を見下ろしている。「この技術を商品化するには、頭のいい人間の高度な判断が必要なんだ。お前は技術面ではそこそこやっているかもしれないが、所詮中卒だろう。こんな人間に大切な特許技術は任せられない」鈴原部長は、偏差値の高い大学を出たエリートだ。しかし文系出身で、技術のことは表面上しか理解していない。そんな人物がなぜ技術部の部長になったのか。社内では、事業拡大のために外部から優秀な人材を集めていた時期と、技術部の部長の椅子が空いた時期が偶然重なったからだと言われている。とにかく、この男は技術の本質を何も分かっていない。要するに、俺が5年かけて開発した省エネ回路技術を横取りしようとしているのだ。
俺の名は田中。39歳。高校1年生の時に父親が病気で倒れ、働けなくなってしまった。父の治療費と生活費を稼ぐために、俺は高校を中退した。中卒で拾ってくれた町工場で働きながら、電子工学を独学で学んでいった。幸い勉強は好きだった。知識を吸収し、仕事に生かしていくうちに、26歳で今の会社の技術部に中途採用された。転職先は業界でもそこそこの大手だ。普通なら中卒など採らないが、前にいた町工場の石村社長が、転職先の知り合いに俺を紹介してくれたのだ。「家庭の事情で学歴はないが、頭がいいし、何より努力できる子だ。うちで実務経験も積んだし、独学ながら知識もある優秀な技術者だと思うぞ」石村社長のその言葉を、俺は今でも覚えている。入社後は学歴のことで馬鹿にしてくる連中もいたが、気にせず目の前の仕事に没頭した。だんだんと馬鹿にする者も減り、俺は平穏な技術者人生を送っていた。
そして6年前、俺は画期的な省エネ回路技術のアイデアを思いついた。これが実現すれば、従来品と比べて40パーセントも省電力になるというものだ。全国の家庭で使われるエアコンや冷蔵庫の電気代が大幅に削減できる。これは単なる技術じゃない。社会に貢献できる仕事だ。当時の部長に開発を申請し、早速取りかかった。
ところが2年前の冬、前の部長が病気で倒れ、そのまま退職となった。そして外部から新しい部長が来た。それが鈴原だった。「鈴原だ。よろしく」眼鏡をクイッと持ち上げて挨拶する、頭の良さそうな男性。まさかこの人が表変してとんでもないことになるとは、当時の俺は想像すらしていなかった。
鈴原部長の本性が現れたのは、着任から1週間ほど経った頃だ。「この仕事を俺の代わりにやっておけ」大量の書類を押し付けられ、俺は思わず困惑の声をあげた。「え……これ、こんなにですか?」すると部長は突然大声で怒鳴りつけた。「命令に逆らうつもりか?」以降、鈴原部長の態度は日増しに傲慢になっていった。「おい、中卒。弁当買ってこい」仕事以外の雑用まで命令されるようになった。技術部の社員は大卒か専門学校卒ばかりで、一番学歴が低いのは俺だ。どうやら部長の中では、俺はいくら馬鹿にしてもいい相手という認識らしい。部長のストレス発散のため、嫌味を言われる日々が続いた。
ある日、俺がずっと開発を続けている省エネ回路について、部長がこう言い放った。「ただの中卒の思いつきだろう。こんなのに部署の経費を使うなんてもったいない」開発をストップさせられそうになったが、その危機を救ってくれたのは営業本部長の藤岡さんだった。「田中君、例の開発ってどのくらい進んでる?君がメインでやってたよね」突然技術部にやってきた藤岡さんに、俺は困りながら答えた。「えっと、最近はちょっと開発が止まってまして……」そう言いながら、俺は部長の方をちらりと見た。すると藤岡さんは残念そうにこう続けた。「大手の取引先に田中君の開発の件を伝えたら、ものすごく興味を示してくれたんだ。是非とも成功させてくれよ」力強く俺の肩を叩いて去っていく藤岡さん。部長は本部長である藤岡さんには逆らえないらしい。「早く開発を進めろよ」と、先ほどまでの態度を忘れて命令してきた
それから1年ほど前、5年かけて開発した省エネ回路がようやく完成した。部に話を持っていったところ、特許を取得できるかもしれないという話になり、手続きを開始した。そして現在、特許が取得できたという知らせと同時に、部長は俺を追い出そうとしている。「お前が作った設計図も手元にあるし、これがあれば誰でも再現は可能だ。現実を理解したか?これが頭のいい人間のやり方だよ」部長は自信満々に胸を張っている。設計図は俺のパソコンの中に保存していたものだ。部長は社員のパソコンに自由にログインできる権限を持っていて、その権限を悪用して俺の情報を盗んだのだ。「特許もうちの会社名義で申請したし、別にお前のものじゃないしな」俺の5年間の努力は、こうして全部部長に奪われようとしていた
頭の中で冷静に状況を整理する。ここで抵抗して会社に残り続けても、今までと同じように嫌がらせを受け続けるだけだ。下手な手を打てば、もっと酷い目に遭うかもしれない。完全に目をつけられている今、無理に戦うのは得策ではないと判断した。「わかりました。じゃあ退職の手続きをします」俺の返答に、部長の顔がパッと明るくなった。「低学歴にしては引き際を弁えているな。じゃあ今日中に退職願いを作って提出しろよ」「はい、では失礼します」頭を下げて会議室を出ながら、俺は心の中でつぶやいた。「もし俺が本当に退職したら、この会社はもう終わりだな」口にしなかったその言葉は、誰にも届かずに消えていった
それから1週間後。俺は即日で退職願いを部長に提出し、1ヶ月後に退職が決まった。部長は俺が辞める前に、プロジェクトは自分が引き継ぐと工場側に通達していたらしい。部長は上機嫌で仕事をしていた「早くあの中卒がいなくならないかな」とでも言いたげな顔で。そしてある日、会社に一本の電話が入った。「部長、工場の研究室から電話です」電話を受け取った女性社員に、部長は軽快な顔で受話器を取るが、「はあ。何のようだ?」次の瞬間、部長の顔色が変わった。慌ただしくどこかへ出かけていった。そして2時間後。「おい、田中!これは一体どういうことだ?」技術部に戻ってきた部長は、試作品を片手に大パニックに陥っていた。「お前の特許技術は欠陥品だったのか?この試作品、思ったような動きをしないぞ」「目玉の省エネ機能が一切働かないどころか、従来品より20%も消費電力が高くなった!」「一体どういうことだ?説明しろ!」俺はようやく来たかと思いながら、試作品を受け取った。そして部長にある事実を告げた「そりゃ、設計図通りに作っても同じものはできませんからね」「なんだと?」「特許申請した設計図自体は完璧ですよ。回路の基本構成も理論値も、全部正しい」「でもね、部長。この技術を実用化するには、製造時の微調整が必要なんです」「これらのノウハウは設計図には書けない。俺の頭の中にしかないんですよ」「試作品は一応動くでしょ。でも肝心の省エネ性能が全く出ない」「俺が5年間で積み重ねた経験を元にした最終調整がなければ、この技術は絵に描いた餅です」明かされた衝撃的な事実に、部長は目を丸くした。「ば……バカな!じゃあ申請した特許も嘘だったのか?」「いや、申請内容に不備はありませんよ」「部長が俺のパソコンから設計図を盗んだのは知っていました」「でもそれは基本設計図だけ。俺が実際の開発で使っていた調整ノウハウや製造マニュアルは、別の場所に保管していたんです」「部長はこれさえあれば誰でも作れると思い込んだんでしょうね」次の瞬間、部長が俺の胸倉を乱暴に掴んだ「じゃあ今すぐ完璧な設計図を作って俺によこせ!」「お断りします」即座に断った俺に、部長はかなり驚いたようだ。いつも部長の言いなりになっていた俺が、初めてまともに反抗したのだから無理もない「なぜ俺が部長のためにそんなことを?俺のことを散々いびって利用してきたくせに」「まあ、それに聞きましたよ、部長。この技術をうまいこと自分の功績にして、昇進を狙ってるんですって」「卑怯なことしますね。んな最低な人の手助けなんかしたくありません」冷めた目を向ける俺に、部長は少しの間ポカンとしていたが、すぐに怒りの感情が戻ってくる「き……貴様!」ぶち切れた部長が思いきり手を上げる「やめてください、部長!」今まで見守ることしかできなかった社員たちが、これはさすがにまずいと止めようとするが、その時、技術部のドアが勢いよく開いた
現れたのは、藤岡さんだった「鈴原君、これは一体どういうことだ?」「藤岡さん、なぜここに?」藤岡さんは俺の方をちらりと見ると、眉を寄せて事情を説明した。試作品失敗の報告を受けて急いで駆けつけたらしい「エレベーターホールで女性社員から、部長が田中さんに手をあげそうだと聞いて、結局走ってきたんだ」実は、田中君と俺は少々繋がりがあってね。会社では今まで直接関わりはなかったが、俺が前にいた町工場の石村社長の紹介で、藤岡さんとは面識があったのだ。藤岡さんは石村社長の高校時代の後輩で、石村社長が色々面倒を見ていたらしい。転職の際、藤岡さんが人事に口添えしてくれたこともあった。「石村先輩の頼みでな。あとは自分の実力で頑張ってくれ」入社後は、実力で勝負したかった俺が、後ろ盾を望まなかったため、藤岡さんと深く関わることはなかった。だが今回は別だ「鈴原部長の横暴をこのまま放置していたら、会社にとって悪影響を及ぼしかねない」「この会社には、中卒の俺を採用してくれた恩がある」「だから石村社長に頼んで、藤岡さんに連絡してもらったんです」「田中君から連絡をもらった時は驚いたし、混乱したよ」「鈴原君が田中君に嫌がらせをして追い出し、技術を横取りしようとしている」「1週間後の試作品の完成時にそれが事実だと分かるから、その結果を踏まえて今後について判断してほしいと言われたんだ」藤岡さんは鈴原部長の腕を引っ張り、俺から遠ざけた。顔面蒼白の部長は大人しく従っていた「さて、俺はまだ状況を完全に把握していない」。田中君、俺にも理解できるように説明してくれるか?」「わかりました」藤岡さんに頼まれ、俺は全ての事情を明かした。話を聞いた後、藤岡さんは少々呆れた目を俺に向けた「やることが汚いなあ、君は」「13年前に初めて会った時は、純粋な青年だと思ってたのに」「13年の間に社会の荒波に揉まれまして」「まあ、保険をかけるという意味では正解だな」「さて、どうするか」。このまま田中君の退職を認めたら、我が社は大損だ。「特許技術を使った新商品の開発にはかなり費用がかかっている」「それを取り戻すために、商品化して売上で取り返さなければならない」すると、今まで黙っていた技術部の社員たちが突然声をあげた「田中さんが部長から嫌がらせを受けていたのは事実です!」「私たち、部長が怖くて何も言えませんでした」「田中さんだけじゃありません。部長のせいで、私たちの仕事にも支障が出ています」「退職にするなら、むしろ部長を追い出してください」頭はいいけれど技術のことを理解していない部長は、知ったかぶりで他の社員の仕事に口出しすることも多かった。被害を被っていたのは俺だけじゃなかったのだ。「お前ら!」部長が震えながらみんなを睨みつけるが、全員から避難の視線で返される「なるほど」。鈴原君は部長にふさわしくないようだな」「い、違います!こいつら俺を嵌めようとしてるんです!」「だとしても、部署の社員全員から嫌われるって相当だぞ」「何か問題があると判断せざるを得ない」部長はパクパクと口を動かしているが、うまい言い訳が思いつかないようだ「この件は上層部に報告する」「移動か、最悪の場合は退職も覚悟しておくように」「そ、そんな!待ってください!俺の話を聞いてくださいよ!」藤岡さんにすがりつこうとする部長を眺めつつ、俺はポケットの中からダメ押しの一手を取り出した「部長から受けた罵倒の数々は、ここに記録されています」「必要でしたら提出しますよ」証拠は万全に揃えておいた方がいいと思い、小型の録音機器を常にポケットに忍ばせ、この1年ほど部長との会話をほぼ全て記録していたのだ。部長が俺から録音機を取り上げようとしたので、さっと避ける「た、田中!俺が悪かった!今までのことは謝るから、全部水に流してくれよ!」「嫌ですよ。俺はあなたを排除すると決めました」「いくら謝ったところで、俺の決意は揺るぎません」「諦めて、バツを受け入れてください」鈴原部長の目から光が消えた。そして力なく、その場に膝をついた
藤岡さんの行動は早かった。その日のうちに上層部に報告し、翌日には鈴原部長は呼び出された。退職にはならなかったものの、技術部から総務部へ移動となり、役職も平職となった。後日、藤岡さんから詳しい事情を教えてもらった「平職処分で給料カットになっただろう」「あいつ、高級住宅のローンが元々ギリギリだったんだ」「で、今回の件で支払いできなくなって、奥さんはカンカンらしい」「離婚も噂だって」「それは大変ですね」口ではそう言いつつも、内心では一切同情していない。真面目に仕事をしていれば、こんなことにはならなかったのだ。部長は選択を誤った。ただそれだけのことだ。
一方、俺は鈴原部長がいなくなった技術部でのびのびと働いている。特許技術を使った試作品も無事に完成し、量産に向けて準備が進められていた。そして今、また別の新技術の開発が始まったため、これからはさらに忙しくなるだろう。中卒の技術者が、ここまでのし上がってきた道のりを思うと、感慨もひとしおだ。あの日、俺は心の中でこうつぶやいたんだった。「もし俺が本当に退職したら、この会社はもう終わりだな」と。今、その言葉は現実のものとなろうとしている。ただし、終わるのは会社ではなく、鈴原部長の驕りだったのだが。俺は今日も、技術部のデスクで回路図と向き合っている。いつかまた、誰かが俺の技術を奪おうとするかもしれない。だがもう大丈夫だ。今度は、俺が負けることはない。社会の荒波に揉まれて身につけた知恵と、地道な努力の積み重ねだけが、この世界で生き抜く力だと知っているからだ。



