新社長は、中卒と車椅子のお荷物に三百万のボーナスを払う価値はないと、俺と車椅子に座った相棒に放った。俺たちは思いがけない言葉に衝撃を受けた。俺はともかく、相棒にこんな言い方をするなんて。相棒の表情は分からないが、小さく手を振わせているのが見える。俺は新社長を真正面から睨みつけた。
俺の名前は高橋。四十三歳の技術者だ。うちの会社では産業用の機械や部品を製造している。俺は中学卒業から現場で技術を学んできた。最終学歴が中学なのは家庭の事情という点も大きい。高校進学や大学進学を進められていたが、うちは兄弟が多かったのだ。両親は気にしなくていいと言ったが、俺自身早く自立したいと考えていた。
そんな俺には相棒と呼べる人物がいる。青木という俺より二歳年上の男で、俺よりも数年後に入社してきた。現場で作業する俺とは違い、青木はデスクに向かって設計や図面を描くのが得意だ。仕事を通じて顔を合わせるうちに自然と話すようになった。馬があったのだろう、次第に俺たちは帰りに飲みに行ったり、一緒に組んで仕事をすることが増えた。青木が設計したものを俺が形にするようになり、次第に技術部の中で俺と青木は名コンビと呼ばれるようになった
そんな青木は現在、車椅子で仕事を行っている。なぜそんなことになってしまったのかと言うと、十年前に遡る。俺たちが一緒にあるシステムを完成させた直後の頃だった。うちの会社で長年磨かれてきた製造技術をデータ化し、製造ラインを独自に効率化するシステムだ。特許登録が完了したら最高だよな。なあ、本当にもし登録されたら奥さんに自慢するよ。この時、青木は結婚して間もない時期でもあり、余計に俺たちは気分が明るかった
しかし、青木が仕事帰りに交通事故にあったと聞かされたのは、その会話の数日後のことだった。完全に相手側の落ち度で起きた事故であり、幸い命に別状はなかったが、足の筋肉に重い障碍が残ってしまったのだ
僕は会社をやめるよ。みんなのお荷物になりたくないからね。それに新婚なのに妻に申し訳ない。一層離婚を最初はこんな言葉を口にするほど青木は落ち込んでいた。浮かぶ言葉はどれも今の青木にとって耳触りがいいだけの偽善にしか聞こえないのかもしれない。正直、俺自身も不安だった。車椅子で現場に戻ることが青木にとって本当に幸せなのかどうか
だけど、と俺は拳を握りしめた。何言ってんだよ。奥さんのことを考えるなら、余計に勢いでやめるとか離婚なんて言うなよ。みんなお前を待ってるよ。時間がかかったって、だからそんなこと言うなよ。例え一人で嫌われても、疎まれてもいい、と気がついたら俺は口ば走っていた
青木はその後、長いリハビリを経て車椅子で現場に戻ってくることに。高橋が支えてくれたおかげだよ。ありがとな、相棒、と改めて握手し合ったのを今でも覚えている
そういえば聞いたか? 山田専務がいよいよ新社長になるらしいよ、と青木の言葉で現実に引き戻された。ああ、そうらしいな、と俺は短く答えながら山田の顔を思い出す。有名大学の出身で、入社当初から将来の幹部候補と目されていた男だ。大きな会議などで会う機会があるのだが、基本的に俺たち一般の社員のことは見下しているのだろう、言動の端から嫌でも感じ取れた
山田専務といえば覚えてるか、あの時のこと、と俺が言うと青木は首をかしげる。二年前のことだったか、年に一度規模の大きな会議での出来事だった。コスト改革の一環として、取引先を大手の一社に絞り、まとめて経費を圧縮することを提案する。数字だけ見れば悪くない提案に聞こえる者もいるだろう
しばらく発言してもよろしいでしょうか、とその意見に異を唱えたのが、会議に参加していた俺と青木だった。俺が手を上げると一斉に視線がこちらに集まった。青木がパソコンのモニターを見ながら冷静に告げる。データによると、ご提案された取引先は過去三年で二度も大幅な納期遅延を起こしています。一社に集中した場合、決済リスクが現状の倍以上になると試算が出ております、と。さらに俺も続けていく。現場としても今の体制の方がトラブルへの対応が早いと思います。生産が止まるリスクが高まるのなら賛成できかねます
俺たちの言葉に会議がざわめいた。私も異論です、現場の感覚とこのデータは一致しているのではないでしょうか、と他の社員一人が同意すると、次々と同意の声が上がっていく。その時、山田の顔がどんどん赤くなっていくのが、離れた場所からでもはっきり分かった。自分の判断が否定された上に、大勢の前で恥をかいたとでも感じたのだろう。山田は明らかに怒りを滲ませていたが、視線が社長の方へ向く。社長の前で悪態をつくべきではないと判断したのか、悔しげに口元を引き締め、検討し直そう、とだけ言って引き下がった
ああ、あの会議のこと、確かにあれ以来、たまに顔を合わせると俺たちのことを睨んでたっけ、とようやく思い出したというように青木が苦笑する。この様子からして青木はあまり気にしていないようだが、俺は少し引っかかるものを感じていた
そういえば、例の三百万、高橋はどうする? と唐突に話題が変わり、俺は目を丸くした。え? ああ、そうだな、実を言うと現実味がなくてな、と俺はとっさに笑ってごまかした。というのも、前社長が山田に後を任せると決める直前、俺と青木に三百万のボーナスを支給すると決めたのだ。理由は俺と青木が開発した特許システムである。無事に特許登録が完了してから今日に至るまで、システムは俺たちの想像を超える働きをした。コスト削減、納期や品質の安定、そして結果として受注が増加し、気がつけばシステムは会社の売上の七十五パーセントを作り出していたのだ
システム完成からちょうど十年、これは二人を賞賛して報いるべきだ、と前社長は考えたらしい。僕もだよ、僕はそうだな、奥さんに何かプレゼントしたいかな?

おいおい、相変わらず愛妻家だな、のろけは聞き飽きたぜ、と俺が茶かすように言うと、青木が気恥ずかしそうに笑った
それから少し経ち、山田が正式に社長に就任してすぐ、社内では山田による視察が行われた。高橋と青木という社員を呼べ、と突然山田はそう口にしたらしい。部長が俺たちを呼びに来た。いきなり俺たちの名前が出たことには驚いたが、呼んでいるとなれば行かないわけにもいかない。何の用事だろう? 青木とそう言いながら山田の元へ向かった
来たか、と山田は冷たい目つきで俺たちを出迎える。周りで仕事をしていた他の同僚たちも、何事かと気になるのだろう、チラチラと俺たちと山田を盗み見ている。緊張していると、山田がにやりと口の端を歪めた。まさか私に恥を欠かせたお前たちが特許システムの開発者とは、会長から話を聞いた時はまさかと思ったよ
俺と青木は困惑しながら互いに顔を見合わせる。まさか本当にまだ根に持っているとは、と俺が呆れていると、山田は言葉を続けた。確かにお前たちの開発した特許システムは売上に貢献はしたようだな。だが中卒と車椅子のお荷物が作ったにしては、という程度の話だ。うちの会社も随分人材に恵まれなかったらしい
山田社長、そんな言い方は、と部長が山田にそう言ってくれたが、山田は部長を睨みつける।じめとした侮辱を込めた発言に、青木が小さく息を飲むのが分かった。部長が口を閉ざすのを見て、山田は再び言葉を続ける。担当直属によ、中卒と車椅子のお荷物にボーナス三百万を払う価値はない、と今日は視察ついでに辞退するように言いに来たんだ。会長の提案だから無視はできんが、お前たちが辞退するなら話は別だろう
山田が言う通り、今回の三百万のボーナスは会長が言い始めたことだ。きっと会長には深い意図があったのだと思う。新社長の最初の仕事として、功績ある人間をきちんと評価することを選ばせる。それは単なるボーナスの受け渡しではなく、経営者とはどうあるべきかを山田自身の行動で示させようとした、いわば山田への教育、そういった考えがあってのことだったのだろう。だが山田は会長の真意など端から眼中にないようだ
事態、と俺は思わず山田の言葉を繰り返し口にしていた。俺の考えが合っていたとしたら、山田はとんでもない行動をしている。会長の俺たちに対する評価だけではなく、会長の山田への仁心に近い考えをも踏みにじっていることになるのだから
青木は俯いて表情は分からないが、車椅子の手すりに置いた手が小さく震えていた。会長には申し訳ないが、相棒を傷つけられて黙ってはいられない。お言葉ですが、わざわざ中卒や車椅子という単語を用いるのはやめていただきたいです。成果とは何も関係がないですし、特に青木に対しての言葉選びには悪意を感じます
俺の指摘に山田は鼻を鳴らした。ふん、嫌ならやめろ、お前らごときが新社長である俺に盾突くのか。これ以上ない機会だと思ったんだよ、二年前の仕返しをする機会だと思ってな、と何が仕返しだ? 俺は心の中で吐き捨てる。そもそも二年前の会議での出来事だって、こちらが悪いところは一つもない
そうだ、いっそやめてもらった方がいい、中卒と車椅子のお荷物がいるってだけで、ただでさえ会社の体面を汚しなんだからな、とで、どうする? ボーナス三百万を諦めて惨めに会社にしがみつくか、会社を去って就職活動をするか選ばせてやる、と俺たちが言葉を発せなくなっているのをいいことに、山田はさらに言い放つ
我々がお荷物ですか?
と青木がつぶやくのが聞こえ、俺は顔を上げる。周りにいる同僚たちのどよめきが遠くに聞こえ、目の前で山田に抗議する部長の動きが余計にスローに見えた。頭の中がズンと重くなり、体全体が夜中に熱い、と楽観でも失望でもない、激しい怒りの感情に俺は飲み込まれそうになっていた
なんだその目は? と山田が俺の目つきに気がつき、せせら笑う。学歴もなく、片方は現場に満足に立つこともできない,ボーナスどころか、そんな人間に払う人件費なんて無駄なんだよ、とその言葉で俺は一歩前に踏み出した
やめろ、高橋、といつもは穏やかな青木が鋭い口調で俺を制止する。周りも驚いたのだろう、部長たちも動きを止めた。俺の目は多分血走っていただろう,青木の静かで真っ直ぐな視線と交錯した。青木の目に怒りはなかった,俺はその目を見て奥歯を噛みしめる,暴力で返しても何も変わらない,それより自分たちの価値を証明する方法がある
分かりました,とややあって俺は口を開く,はあ,と山田が腕を組んだ状態で顎を上げる,私と青木がお荷物で人件費の無駄らしいので、やめますね,と僕も同意見です,望まれていない場所にすがりつくほど僕たちは愚かではありません,と俺たちの発言で周囲が大きくざわついた
高橋君、青木君まで待ちなさい,私がしっかり,と部長が慌てて割って入るのを、俺は静止した,いいんですよ、部長,と俺は言った,俺が感情に支配されて何も言えなくなっている間、部長は山田に抗議してくれていた,それを見ていたからこそ、申し訳ないが俺と青木はすでに心を決めている
山田はつまらなそうに部長と俺のやり取りを眺め、鼻を鳴らした,結構ならもう明日から来なくていいぞ,お前らが作って十年も経つシステムだ,引き継ぎなんぞなくても他のものでなんとかなるだろうしな,とそんな,と周りで騒いでいた同僚のうちの一人が声を漏らした,その誰もが山田に向けて暗い視線を向けている,こんな人が新しい社長なのか,声にこそ出さないが、同僚や部長はそう思っているに違いない
お世話になりました,と青木はそう言って車椅子を操作して山田に背を向ける,後ろから引き止める部長の声が聞こえてきたが、俺たちは決して振り向かない
会長が社長のままでいてくれていたらな,と青木はつぶやく,俺と違って青木はどこか寂しげで遠い目だ,だが、俺たちがいなくなって困るのは、おそらく向こうだ,と俺の言葉に青木は静かに頷いた
その数日後のことだ,俺と青木は会社に来ていた,なぜかと言えば、それにはもちろん理由がある,今回は無理を言って申し訳なかった,目の前にはある男性が俺たちに頭を下げている,髪は白く高齢には間違いないが、佇まいから品のようなものが感じられた,俺たちはこの男性に呼び出され、再び会社にやってきたのだ
会長、頭をお上げください,と青木が心苦しそうに言う,そう、目の前で頭を下げていたのは、現会長その人だったのだ,俺はちらりと会長の隣を見る,会長の隣では黙って土下座をする山田の姿が
君たちの部長が直接私に連絡してきてくれたんだよ,と会長が言うには、部長が言うには、そういう背景もあって、今回の山田の暴走を知ったらしい,俺たちが帰った後、部長は即座に動いてくれたらしい,顔の効く社内の人物を片っ端から当たり、その日のうちに会長へつながる人物へたどり着いたという,社長になったからと言って、こんな暴挙は許せない,このまま山田が社長でい続けるなら、私もここにはいられないでしょ,とそう強く抗議してくれたらしい,部長らしい真っ直ぐな行動だと思った
会長は説明しながらため息をつく,ボーナスの件を私が直接行えば、こんなことには,と会長は言いながら額を押さえ、しばらく黙って目を閉じた,その沈黙には後悔と自責が滲んでいた
山田社長、あなたのしたことで会長が謝罪しておられます,ずっと黙っていますが、何とも思わないのですか? と俺が指摘すると、山田が顔を上げる,顔は血の気がないはずなのに、目だけが妙に血走っている,きろりとした目つきで俺を睨んできた
会長は山田の表情に気がつき、吐き捨てるように言う,全く、新社長になって自分に敵などないと思いやがったのか,私は君を信頼していたのに,と会長の声はどこか悲しげだ,くう,と山田は一瞬表情を歪めた
山田君、君から直接説明しなさい,と会長が静かに、しかし言い包めぬ口調で言った,山田は一瞬口を引き結んだ,その顔には俺がこれまで一度も見たことのない表情が浮かんでいた,屈辱とでも言えばいいのだろうか
特許システムの定期メンテのタイミングで不具合が発生しました,対応できる人間が社内におりません,と声が途切れ途切れになる,あれだけ俺たちを罵倒した男が、今は一言ごとに言葉を絞り出している,俺は何も言わなかった,言う必要がなかった
先日のことは心から謝罪する,だからどうか戻ってきてほしい,ボーナスは増額するし、なんなら昇進させてやってもいい,と床に膝をつき謝罪している人間の言葉とは思えない,そんな言い方があるか? と会長がすぐに叱りつけたが、山田は撤収する様子はない
俺は思わず青木と顔を見合わせた,そうですか,でも仕方ないことです,今までは私と青木がメインで見ていましたし、山田社長は引き継ぎも必要ないとおっしゃった,同僚では把握できていない箇所があったとしても仕方ありません,と俺の返事に青木も頷く,そもそも私たちは人件費の無駄なんでしょ,そんな私たちに戻れとは笑い話にもなりません
高橋君たちの言う通りだ,私は今日謝罪をしろと言ったのに、恥を知れ,と会長の隣声に山田が肩を震わせる,わ、私は社長として責任を,何が社長としてだ,これ以上失望させてくれるな,と会長は何度目かのため息をつく,私の見る目のなさが招いた結果だ,本当に申し訳ない
今日何度目かの謝罪の言葉に、俺は心が苦しくなる,様子を見るに青木も同じようだ,俺は意を決して口を開いた,会長、私たちは山田社長を許すつもりはありません,ですから御社に戻るつもりもございません,と俺たちの真っ直ぐな目に、会長はそうか、と悲しげに目を伏せる,場が静まり返った
引き継ぎだけはきちんとやらせてください,と俺が続けると、会長も山田も驚いたように顔を上げた,そして俺は言葉を足した,これは決して山田社長のためじゃない,会長と、引き続き働いている部長や同僚たちのためにやりたいんです,ええ、僕も高橋と同じ気持ちです,僕たちはやめますが、このシステムへの誇りは変わりません,と青木が静かに、しかしはっきりと言い添えた
会長の目が大きく見開かれる,本当に惜しい人物を失った,高橋君、青木君、本当にありがとう,山田君には相応の処置をする,私が約束するよ,と山田は驚愕に声を震わせたが、会長は山田を無視する,俺たちに土下座した時よりも、より憔悴しきった顔だ
今更泣き言か,そんなことよりも肝心な、高橋君と青木君に何か言うべきことがあるんじゃないのかね,とじっと会長が山田を見据える,山田は俺と青木の顔を交互に見て、あ、ありがとうございます,この度は申し訳ありません,と不服そうに声を発した
それから俺たちは宣言通り引き継ぎを行った,尽力してくれた部長に感謝をし、部長や同僚たちとの別れを惜しんだ,当初受け取るはずだった三百万のボーナスだが、会長の強い要望で改めて受け取ることに決まった,封筒を手にした時、俺はふと思った,十年分の仕事がこの封筒一つに収まっているのかと,それに加え、今回の件に対する解決金を上乗せした退職金を受け取ることにもなった
仲の良かった同僚から聞いた話だが、臨時取締役会が開かれた結果、山田は異例のスピードで社長を解任されたという,それ以来めっきり会社に姿を見せなくなったそうだ,きっとプライドの高さゆえに、もう誰にも会いたくないと思っているのかもしれない
俺たちはと言うと、会長の手助けもあり、早くも転職先に向けて動き始めている,俺たち二人での功績も多いことから、二人を望んでくれる会社も多い,最終的に青木と同じ職場か、別の会社で働くかは分からないが、俺たちの友情は変わらない,そう確信している
どうして俺の部下になる奴は問題児が多いのかね,と久しぶりに見た俺の顔を見て、部長が嫌味な息をつく,この人は昔と変わっていない,ため息をつきたいのはこっちだ,だが俺はただこの部長の部下として戻ってきたわけではない,俺の十二年を無駄にしないためにも、この上司への復讐を果たしてやる
俺の名前は加藤,四十歳の会社員だ,俺はこの会社に新卒で入り、期待の新人なんて言われながら成績を上げていた,しかし部署を移動すると、とんでもない上司の下に着くことになる,上司の名前は井上,俺より一回りほど年上で、別の上司からの評判はそれなりに良かったので、俺は期待して部署を移動した,だが井上は機嫌によって部下に当たり散らすような人で、部下からの評判は最悪だったのだ
しばらく井上を観察していると、上司にごまをするのは当たり前,女子にいい顔をして引き受けた仕事を部下に押し付けるというようなことをよくしていた,立場のある人には本性を隠しているようで、その使い分けがとんでもなくうまい,こうして部下を踏み台にしてきたから今の地位がある,その処世術だけは本物だと苦々しく思う,井上が出世コースに乗っているのも分かる気がする
その頃、俺には娘が生まれた,同僚たちは喜んでくれ、定時で帰れるように協力してくれていたのだが、井上だけは違う,わざと残業させようと、時間ギリギリでほれ、明日の朝までにやっておけよ、と言ってくるのだ,娘はあまり寝ない子らしく、妻が連日の寝不足だったので、俺は井上にも事情を話し、なんとか定時で帰れるように交渉した,だが、そんなの母親なんだから当然だろ,それに子供なんて勝手に育つ,お前がしっかりするんじゃないのかと鼻で笑う,同僚はそんな言い方ないんじゃないですか、などと助け舟を出してくれたが、井上は最近の女はダメだなあ、とわざとらしくため息をつく
とはいえ、周りに恵まれていた俺はなるべく定時で帰らせてもらい、娘の寝かし付けや家事を代わっていた,それから半年ほど,子供の成長は早いもので、娘がもうはいはいを始め、喜びを噛みしめていたのだが、急に井上に呼ばれた,お前、この契約書は何だ?
とそう言われて見せられたのは、先週の俺が見積もりを出したお客様のものだ
え? と俺は思わずその書類を手に取った,そこには俺の記載していない項目が追加されていて、金額が跳ね上がっている,この契約は俺が話をまとめてきたのに、井上がこういう客はもっと利益が求められるだろう,あとは俺が引き継ぐ,と言って無理やり担当を変わらされたものだ,だがその承諾に失敗したのだろう,そりゃ契約金が倍以上に跳ね上がったのなら、契約する気もなくなるだろう,その失敗を井上は俺に押し付けてきたのだ
でも、これは、と俺が説明をしようとしていると、井上は聞く耳を持たずに、こんな失敗は許されない,お前、しばらく頭を冷やせ,視点に移動だと言ってきた,そんな,と井上は一切俺の話を聞くことなく、同僚たちは井上に不満を持ってくれたが、これ以上どうすることもできなかった
俺と妻は娘を連れて田舎に引っ越しをし、慣れない土地で娘の一歳の誕生日を迎えたのだ,とはいえ田舎暮らしは意外にも俺たち家族の性に合っていて、娘ものびのびと過ごし、三年後には息子も生まれた,俺はこの土地で、本社での経験を生かし視点の改革もした,より効率的に仕事をし、視点でしかできない地域に寄り添ったことをする,視点の業績は右肩上がり,店長にも喜ばれたほどだ
あれから十二年,俺は再び本社への異動を命じられる,というのも、視点での俺の活躍が社長の耳に入っていて、社長から本社の改革を出して欲しいと頼まれたのだ,家族には反対されるかと思ったが、元々過ごしていた地域には妻の実家があり、ちょくちょく遊びにも行っていたので、子供たちもすんなりと引っ越しを受け入れてくれた
俺は課長という立場で本社へ,懐かしい本社の建物へ足を踏み入れた,廊下を歩きながら十二年前のことを思い出す,あの日、何も言わせてもらえないまま荷物をまとめて出ていった廊下だ,悔しくて情けなくて、夜中に一人で酒を飲んだ,だが今日は違う,俺は帰ってきた
同僚たちは辞めている人もいたが、久しぶりだな、と受け入れてくれた,気になったのは、初めて見る三十代くらいの女性が、トイレの前の席にぽつんと座っていること,同僚にそれとなく聞いてみたのだが、杉崎さんって言うんだけど、井上部長の怒りを買って席を移動させられたんだ,話したことないけど、仕事はできる人だと思うんだけどな,と言われるくらいで、大した情報は得られなかった
井上は相変わらず部下からの評判は悪い,上司には今もこびを売っているのだろうか,ただ以前と変わらぬ部長職だし、女子たちも井上の部下からの評判には気づいてきたのかもしれない,その辺りは探り探りだな、と思っていた
井上が入ってきたので、俺は井上の元に急ぎ挨拶をする,本日付けで戻ってきました,とそう言うと、井上はどうして俺の部下になる奴は問題児が多いのかね、と息をついた,相変わらず嫌味は全開だ,井上は自分の部下たちを見渡す,ここにいる奴らみんな問題だとでも言いたそうだ,一番の問題はお前だろう、と心の中で毒づく,そんな俺の気持ちは無視し、井上は先ほどの杉崎さんという女性を指さして、あの無能は雑用係だ,こき使っていいぞ、と笑った
俺は彼女はなんであんな席にと聞いてみる,井上は女の分際で俺に意見したからな、と得意げに言い放った,俺は思いっきり顔をしかめる,だが井上はそれに気づいていない
俺は部署内に挨拶に回り、最後に杉崎さんの席へ行く,初めまして、加藤です,とそう言うと、杉崎さんはぱっと席を立ち、杉崎です、とだけ答えた,不器用そうな人だ,でもこんな扱いをされていたら当然だろう,その時、俺は彼女のデスクの上を見て、貼られたメモに目をやった,あれ? このコード、まさか,とそう思ったが、ここで俺が話しかけても彼女の立場が悪くなるのも嫌だったので、その時はその場を離れる
それから俺は杉崎さんとコミュニケーションを取ることを試みた,だが杉崎さんは警戒心が強く、会話が続かない,こんな時、俺が休憩室で弁当を食べようとしていると、杉崎さんが入ってきて席を探していた,ちょうどお昼時だったので、ほとんど座る場所がない,俺は杉崎さん、こっちこっち、と声をかけると、杉崎さんは逡巡してから隣に座った,すみません、失礼します,とあくまで他人行儀だ,まあ一応部下と上司という関係なので当然ではある
俺は少し気まずさを感じながらも、いい機会だと思って妻の作ってくれた弁当の蓋を開けた,その時、え、と思わず声を上げ、そのまま固まった,というのも、蓋を開けて現れたのは、妻と娘がはまっている推しアイドルのキャラクターが描かれたキャラ弁だったのだ,料理好きな妻には感謝しているが、驚かされる弁当を作ってくる,俺は普段はそれが楽しみでもあるのだが、さすがに部下と一緒のこの状況でキャラ弁は引かれるだろう,だが食べないわけにもいかない
あ、そうか,杉崎さんがこのキャラを知っているとは思えない,何食わぬ顔で早く食べてしまおう,とそう思い、箸を持つと、杉崎さんの視線が弁当に注がれていることに気づく,俺は妻が料理好きで、娘の弁当も一緒に作るから、たまにこんな弁当なんだ、と笑ってごまかした,すると杉崎さんは、あの、それって奥様の推しですか、と食いついた,まさか,実は私も,と杉崎さんは自分のスマホの待ち受けを見せてくれた,そこには同じキャラクターが表示されている,妻が言うには、若い子はアイドルの写真など待ち受けにしているが、自分くらいの年齢になるとそれは恥ずかしいから、このキャラクター化されたイラストを待ち受けにしているとのこと,杉崎さんは、ちょっとマイナーなアイドルなので嬉しいです,とぽそっと言う
なんだか共通点ができ、俺は妻がいつも話してくる知識を駆使し、杉崎さんとコミュニケーションを図った,それ以来、徐々に色々話してくれるようになったのだ,そこで分かったのは、杉崎さんは情報処理を専門にしていて、この会社に転職したのだという,そこで部長に頼まれた開発をしていたところ、部長の知らないコードで埋め尽くされていたらしく、一つ一つ説明をした,すると部長は、女に教えられるようなことはない、といきなり怒り出し、あの席に移動させられたのだという,なんたる理不尽なことだ
杉崎さんのデスクに貼ってあるメモ、随分と高度な言語で驚いたよ,あれは杉崎さんが書いたんですか? と俺が尋ねると、杉崎さんは小さく頷く,やはりそうか,あのメモの書き方は、二年前に俺が視点で参照した技術と同じ流儀だった,あれを書いた人間がこんな席に追いやられているのか,部長は本来こういう人材が欲しかったはず,それを女だからとか、くだらない理由で杉崎さんの能力を抑えつけているというわけか
俺は今開発しているプログラムを杉崎さんに一任することにした,杉崎さんには俺の近くの席に移動してもらう,井上には、彼女こき使っていいって言いましたよね,近くの席の方が都合がいいので、と言って言い包めないようにする,社長の肝入りで戻ってきた俺に、今の井上は表だって逆らえないのだろう,井上はまあ給料の分は働いてもらわないと困るからな、と渋々言ったが、納得はしていなさそうだ
この頃から俺は同僚たちを巻き込み、井上への不満を解決していこうとしていた,ある日、いつも俺の愚痴を聞いてくれる同僚の山田と休憩室で二人きりになった時のことだ,山田、実はお前に頼みたいことがある,と俺が声を落として言うと、山田は少し目を丸くしてから、加藤さん、本気でやるつもりですか?
と静かに答えた,ああ、とそれだけで山田には伝わったようだった
俺は視点ではのびのびと仕事をさせてもらい、本社ではできなかった挑戦をし、その結果が裏目と出ることも多かった,だが、ここではみんなが上司の顔色を伺い、窮屈な思いをして働いている,それではいい仕事ができるわけがない,社長に頼まれた以上、俺には引く理由がない,この部署を必ず変えてみせる
相変わらず井上は定時のギリギリになり、これ、明日の朝までにやっておいてくれ、と部下に仕事を振ってくる,俺はそこに割り込んで、部長、今日は私がやりますが、この時間に仕事を渡して明日の朝までにというのは無理があります,もっと早くに渡してもらわないと困るんですよ,今後は誰も引き受けませんからね、と釘を刺した,井上はお前、上司に向かってその態度は何だ、と言ってくるが、俺はひるまず、定時で終わるように仕事を配分できないのは、ただの無能な上司ですよ、と言い返すと、井上は何も言えなくなり、俺を睨みつけ、どすどすとわざとらしく足音を立てて去っていった
それから一ヶ月,杉崎さんにお願いしていたプログラムがついに完成した,井上に報告する前日の夜、俺はある準備を静かに進めていた,詳細はまだ言えないが、これで全てが揃った,翌朝、この日社長が部署に立ち寄ることは俺には事前に知らされていた,俺はそのタイミングを見計らい、井上の元へ向かう,杉崎さんが完璧なプログラムを組んでくれました,とすると井上は、女が組んだプログラムだと使い物にならん、と言ったのだ
俺は今までの不満もあり、思わず反論してしまう,使い物にならないのはあなたの方でしょ,十二年前と何も変わっていませんね,あの時から何もアップデートできてないんじゃないですか? と井上は一気に逆上し、貴様、誰に向かって言っているんだ,ふざけるな、となった,するとそこへ社長が入ってくる,井上君、今の怒鳴り声は何だ? と井上は焦って社長、と言うが、社長は続けた,加藤君の報告を見たよ,あのプログラムは我が社の救世になれるかもしれない,素晴らしい,というので、俺はあれは杉崎さんが開発してくれました、と杉崎さんを紹介する,社長は感激して、君は中卒のくせに大したものだ,これからも頼むよ、と言った
実は井上に報告する前に、社内メールでこのプログラムの完成を送信していたのだ,すでに社長にもこの詳細が届いていたのだ,俺は、井上部長、申し訳ありません,本来部長に先に報告すべきでしたが、社長の肝入りのプロジェクトですし、今までのように部長に潰されては困るので、社長にも同時に報告させてもらいました、と言った,はあ,と井上は突然の部下の裏切りに怒りを現わにする
そこで社長は、加藤君、例の報告書は、と俺に向かって言ったので、俺は用意してあった書類を渡した,井上は眉を潜め、それは何だと聞きたそうだが、社長には言えないので、俺にアイコンタクトしてくる,俺はそのアイコンタクトを分からないふりで通した,社長は書類をめくり、ため息をついた,通りで優秀な社員がいるはずのこの部署の成績が思うように上がらないわけだ,やはり君が原因だったんだな、と井上を見る,井上はど、どういうことですか? 私は部下を厳しく指導していますし、成績だって私がフォローしてあげていますよ、と訴えた
社長は俺に目くばせをする,俺は、井上部長は定時ギリギリに部下に仕事を押し付けたり、部下の手柄を横取りしたり、部下のことなんてこれっぽっちも考えていません,現に優秀な杉崎さんをあんな席に追いやって仕事をさせないんですよ,ごまをするのは得意のようですが、部長としての実力はどうでしょう?
パワハ拉がましいこともよく言っていますし、と言った,井上は何を言っているんだ? 私がパワハ拉がましい? 厳しい指導はパワハではない、と反論する
俺はスマホを取り出し、井上が部下を攻めている映像を出す,山田たち同僚が自ら買って出て集めてくれた映像だ,社長はそれを見て、井上君、コンプライアンス研修を受けただろう,これは立派なパワハだと断言する,続いて、井上君は広格,部長は加藤君に引き継いでもらう,と言うと、部署内から拍手と歓声が上がった
よ、加藤部長,と早速同僚が囃し立てる,そして俺は井上の所に行った,お前、彼女の席と変われ,と赤年の思いが込み上げ、ぶっきらぼうな言い方になってしまったが、それで十分だった,井上は口を開きかけた,何か言い返そうとしたのだろう,だが社長の視線がまっすぐに自分へ向いていることに気づいた瞬間、その言葉は喉の奥で消えた
井上はゆっくりと立ち上がり、無言のまま歩き出す,俺はその背中を最後まで静かに見届けた,社長は俺の肩を叩き、この部署の成績を上げてくれ,頼んだぞ、と言って去っていったのだ
その週末、俺は同僚と杉崎さんを我が家に招待した,妻が少し祝いにパーティーをしようと言ってくれたからだ,妻は杉崎さんと意気投合し、娘も交えて推しトークを繰り広げている,息子は最近大好きなレーシングゲームを、ゲーム好きな同僚と勝負し、パパは下手だから相手にならなくて、と楽しそうだ
それからというもの、部署内の結束は強まり、杉崎さんもみんなの輪に入りよく笑うようになった,井上はあのトイレの前の席について、あんな席じゃ集中できん,と文句を言ってくる,俺は優秀な人間をそんな席に追いやったのはあなたですよね,少しは身を持って体験してみてください,それとも、僕の目の前の席にしますか? と言うと、渋々戻っていった
その後、井上は数々の不正を調査され、戒告処分にボーナスもカット,元部下の下にいるというプライドが許さなかったようで、退職していった,社長からは、この部署がこんなことになっていると気づかず申し訳なかった、と謝罪を受け、プログラムの成功報酬としてボーナスも出された,杉崎さんはいつの間にか妻と仲良くなり、今度妻と娘とコンサートに行くそうだ,杉崎さんとの接点を作ってくれた妻にも感謝している,その日は息子と二人でラーメンでもすすることになりそうだ
俺は部長になり、責任は重くなったが、部下たちから信頼される人間になれるよう気合を入れていこうと思う,よし、今日も頑張るぞ
弱小企業なんていつでも潰せる,歪んだ笑を俺に向けてきたのは取引先の担当者だ,担当者の顔を見て、過去の記憶が蘇える,俺をいじめていた過去の上司と同じ顔をしていた,こういう人間は絶対に許せない,硬い決意を胸に、俺はある計画を実行,結果、担当者は社会人生活は愚か、自分の人生も棒に振る羽目となってしまった
俺の名前は西岡,四十八歳,貧乏な家庭だったので高校卒業後すぐ働き始めた,就職先は地元の小さな工場,人口の少ない職場で、とても閉鎖的な環境だった,お前みたいな人間はいくらでも代わりが効くんだよ,と俺に向かってそう言い放ったのは工場長だ,若くて立場の弱い人間をいびることを唯一の楽しみにしているという、最低の性格の持ち主だった
毎日のように罵倒され、俺の心は疲弊していく,消えてしまいたいな,と春日の仕事帰り、無意識のうちに呟いていた,すぐに我に帰り、自分の口を手で覆う,俺は何を?
手はぶるぶると震えていて、全身が冷たくなっていくのを感じた,このままではまずいと思った俺は、工場をやめ思い切って上京,都会なら稼げる仕事があると思ったのだ,しかし現実は厳しい
無一文で上京した俺を待っていたのは、都会の洗礼だった,おい、金出せや,と上京直後,俺は悪い連中に絡まれてしまう,あれよあれよという間に路地裏に連れて行かれ、複数の男に囲まれたのだ,どうすることもできず絶望していると、突然声が聞こえてきた,警察に通報したからな,と男たちは足早に逃げ去る
取り残された俺に手を差し伸べてくれたのが、江崎社長だった,兄ちゃん、大丈夫か? あ、ありがとうございます,飯は食ったか? まだです,じゃあ飯でも食いながら話そう,腹が減っちゃ力も出ないだろう,と豪快に笑いながらそう言った社長に、俺は思わず目頭が熱くなった,水知らずの人間にここまでしてくれる人がいるとは
その後社長と仲良くなった俺は就職先を紹介してもらい、真面目にこつこつ働いてお金を貯めていく,そして四十歳の時に独立して自分の会社を起こした,江崎社長とはずっと付き合いがあり、俺が会社を起こした直後、仕事に困っていた時に自社との取引を持ちかけてくれた,おかげで会社の経営は軌道に乗り、従業員数も徐々に増えていく
四十四歳の時,もっと広い場所に会社を引っ越したいなと考えていたところ、江崎社長は自分が所有している土地の一つを譲ってくれた,社長、いくら何でもそこまでしていただくわけには,とすでに江崎社長には返しきれない恩がある,しかし社長は豪快に笑いながら公開した,私の田舎にある何の価値もない土地だ,お前がもらってくれれば、私は無駄な固定資産税を払わずに済む,と確かに譲ってもらった土地は広いだけで大した価値はない,売っても二三百万だろう
ありがとうございます,社長,この恩は必ず返します,ああ、気にすんな,楽しみにしてるぜ,しかし、俺は江崎社長に恩返しはできなかった
俺が四十五歳の時、突然社長が病気で亡くなってしまったのだ,父親のように慕っていた人がいなくなり、俺の心はぽっかり穴が開いた,葬儀が終わった後、俺は一人で家の前に座り込んだ,社長、結局何一つ恩返しができませんでした,本当に申し訳ありません,と返事はない,遺影の中の社長は、いつもと同じ笑顔でそこにいた
呆然としている間に、新しい社長が就任する,元部長の森さんという人が新社長になった,初めて顔を合わせた時から、俺は江崎社長との違いを感じていた,性格は明るいのだが、調子のいいことばかり言うのだ,その場のノリで重要事項を決めることもあり、経営能力にはかなりの疑問を持っていた
ほどなくして俺の不安は見事に的中,して一年ほどで江崎社長の会社が傾き始めた,本格的な経営の立て直しをしなければ、倒産の可能性もある,そこで森社長は思い切った決断を下した,駅前にあった本社を売却し、土地価格が安い山の近くに本社を移転したのだ,固定費をかなりカットすることができ、経営の立て直しができた,俺としても御社の会社が残ったことに胸を撫で下ろす,それに今も取引が続いているので、御社の会社であると同時に、売上を支えてくれる貴重な取引先でもあるのだ
色々あったけどこれで安心かな,と四十八歳の誕生日を迎えた直後の春,俺は社長室でのんびりとそんなことを考えていた,当時の俺は知らなかったのだ,まさかあんな大事件が起こるなんて
始まりは、森社長の会社の担当者の変更通達だった,窓口は俺が担当している,会社を起こした当時からの長い付き合いということもあり、他の社員に任せる気が起きなかったのだ,前担当者が急病で入院し、そのまま退職することになったらしい,新しい担当者が決まり、挨拶のために我が社を訪れる
前任者くん、ろくに引き継ぎもせず入院なんて、迷惑な話ですよね,はあ,と一方的に話しているのは新担当者の吉田さんだ,ぺらぺらとよく動く口をぼんやり見ながら、吉田さんのプロフィールを頭の中で整理する,半年前に大手企業から転職して、森社長の会社にやってきたらしい,前職では年少数百億規模の案件を担当していたと本人が誇らしげに話していた,元の職場で上司とそりが合わず転職したと言っているが、俺の考えでは吉田さんの性格にも原因がありそうだ
いい条件だと思って転職したけど、まさか辺鄙な場所にある会社だとは思いませんでしたよ,数年前に移転したそうですけど、なんであんな場所を選んだんですかね,と事前に会社の住所を調べなかったのかというツッコミは心の中にとどめておく,相手は大切な取引先で、しかも御社の会社の人間だ,気分を害すようなことはしたくない
俺が泰然と話を聞いていると、吉田さんは徐々に調子に乗り始める,まあうちの会社は建物が新しいので居心地はいいですけどね,とうちとは違って,おっと、失礼,と軽い笑みを浮かべる吉田さん,少し眉を寄せると、吉田さんはへらへらと笑いながらこう言った,冗談ですって,そうですか,おっと、もうこんな時間だ,今日はこの辺で失礼しますね
吉田さんを見送りながら、俺は小さくため息をつく,今後何事もなければいいけど,と俺のつぶやきは誰にも届かず、地面へ落ちていった
それから一週間後、突然吉田さんから電話がかかってきた,なあ、ちょっとお願いがあるんですけど、料金下げしてくれません? とえ、どうしてです?
唐突な要求に驚きつつ理由を尋ねる,最近うちの会社また経営が怪しくなってるみたいで、コストカットしろって達が来たんですよ
森社長の経営手腕は未だレベルアップには至っていないらしい,本社の売却で経営の立て直しができたかと思っていたが、ピンチは続いているようだ,それで西岡社長の会社に協力していただきたくて,と申し訳ありませんが、それはちょっと,うちも経営に余裕があるわけではない,と即座に断ったが、吉田さんの声に不穏な気配が混じり始めた
あの、ご自分の立場分かってます? うちの会社に仕事をもらってるんですよね,別の会社に乗り換えてもいいんですよ,と驚きすぎて黙っていると、さらにこんなことを口にする,コストカットで結果を出した社員は昇進に有利になるんですよ,俺、将来的に役員を目指してるんです,今のうちに俺と仲良くしておいた方が、御社のためにもなると思うんですけどね
要するに吉田さんは自分の利益のために、俺に無理をしようとしているのだ,本音を言えば断りたかったが、相手は御社の会社の社員だ,結局、できる範囲ギリギリで値下げに応じる,すると調子に乗った吉田さんは、今度は納期短縮を要求してきた,しかも簡単なメールをよこしただけで、特急料金はなし,これはさすがに無理がある
抗議したところでまた脅されるだけだと考えた俺は、吉田さんの上司に電話で連絡をした,吉田さんから納期短縮のメールが届いたのですが,はあ、それはすみませんね,と上司の声は気の抜けた感じで、俺の話を真面目に聞いている様子はない,うちも大変なんですよ,お互い様ってことで、なんとか頑張っていただけませんか? どうやら上司は吉田さんの味方のようだ
ため息をつきながら電話を切ると、すぐさま吉田さんから着信が入る,あの、うちの上司に変なこと吹き込まないでくれます? 仕事の邪魔なんで,ですが納期の短縮は無理です,と俺が言い返す前に、吉田さんは電話を切ってしまった
問題はこれだけにとまらない,他の取引先からも値引き要求が届き始めたのだ,あまりにも件数が多く、窓口担当の社員から相談を受けたため、社長である俺が自ら取引先の一つに事情を尋ねた,御社は値引き交渉に応じてくれると、吉田さんという方から聞いたんです,と吉田さんは、参加した業界の交流会で、うちが簡単に値引きに応じると吹聴していたらしい
胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた,これは俺一人の問題ではない,従業員たちの生活にも直接関わってくることだ,あれは特例で、うちは値引きに応じてません,申し訳ありませんが、今まで通りの価格でお願いします,と断固拒否すると、担当者は少々不満げだったが素直に引き下がった,他の取引先も大半は応じてくれたが、中には不服を露わにする者もいる,最終的に複数の会社との関係が悪化してしまった
もはやこれは、吉田さんと俺だけの問題じゃないぞ,次があった時にはしっかり話し合いをしなければ、と思っていたら、吉田さんから電話がかかってきて、またもや無理難題を押し付けてきた,新商品を作ろうと思ってて、本社に部品制作を依頼したいんですよ,と提示された価格は相場の三分の一,納期は本来必要な期間のわずか半分程度だった
吉田さん,いい加減にしてください,我が社はあなたの飯使いじゃありません,と怒りのあまり荒い言葉が出てしまう,言いすぎたか?
しかし今更引っ込める気にはなれなかった,と後悔しつつ、吉田さんから帰ってきた言葉に俺は目を丸くした,はあ,誰に向かって偉そうな口聞いてるんですか? うちはあんたの会社に仕事を与えてやってるんです,その気になれば弱小企業なんていつでも潰せるんですよ
次の瞬間、俺の脳裏に昔の記憶が蘇る,地元の工場で働いていた時、工場長に言われたあの言葉,お前みたいな人間はいくらでも代わりが効くんだよ,あの時の俺はただ黙って俯くしかできなかった,治ったと思っていたはずの心の傷が、また疼くのを感じる,吉田さんの声と工場長の声が頭の中で重なり合う,立場の弱い人間を踏みにじることに何の躊躇もない,同じ顔だ,全く同じ顔をしている
確かに我が社は規模が小さい,社も古いし、バリバリ稼いでいるわけではなく、俺自身も頼りがいがある見た目や雰囲気がある社長ではない,情けないが、しかしバカにされる筋合いもなかった,同感です,は、と考えるより先に口が動いていた,何がだよ,おい、吉田さんの問いかけには答えず電話を切る
弱小企業はいつでも潰せる,俺も同じ考えですよ、吉田さん,小さくつぶやくと、俺はスマホを操作してある人物に電話をかける,もしもし,すまない、頼みたいことがあるんですけど,と頭の中で今日のスケジュールを組み直す,これから忙しくなりそうだ,残業確定だな、と思いながら、俺はある計画を進めた
翌日、社長室でいつも通り仕事をしていたところ、内線がかかってきた,もしもし,お仕事中失礼します,社長、お客様です,わかった,社長室にお通しして,即座に伝えると、ノックもなく社長室の扉が開く,どうも,さあ入ってください,笑顔の俺とは対照的に、相手の顔は真っ青だった
し、失礼します,震える声をあげながら社長室に入ってきたのは、吉田さんの会社のトップ、森社長だ,続けて、滝のような汗を流しながら吉田さんが入ってきた,西岡社長、これは一体どういうことでしょう? と森社長の手には茶封筒が握られていた,昨日、郵送で送った手紙が届いたんですね,はい,御社の顧問弁護士から送られてきた、本社の土地の賃貸借契約の解除通告が、今朝我が社に届きました
次の瞬間、吉田さんが必要な叫び混じりの声をあげた,な、なんで言ってくれなかったんだよ,うちの会社があんたの土地の上に立ってるってこと,むしろ、なんで知らなかったんですかと聞きたいですね,大手企業出身の吉田さんには、借地という概念がそもそも頭になかったのかもしれない
森社長に視線を移すと、どもどもと事情を明かす,前担当者が急病で倒れ、引き継ぎがしっかりできていなかったようで、そんな理由が通用するのかと呆れてため息をついた
俺が四十六歳の時の話だ,経営の立て直しを始めた森社長が突然我が社を訪れた,西岡社長は前社長から土地をもらいましたよね,あの土地を貸していただけないでしょうか? 本社を売却して、土地代が安い場所へ移転しようと考えてまして,と森社長が言っているのは、三千万で買った土地のことだ,会社を大きくする目的で江崎社長からもらったが、移転費用がかなりかかるため、予算を検討している段階だったのだ,現状固定資産税を払っているだけで活用できていない
森社長の提案は、俺にとってもありがたい話だ,土地の貸し出しで、別の土地への移転費用を稼げるだろう,それに当時の俺は、江崎社長に恩返しができなかったことを気にしていて、社長が残した会社を救えるならばと、あまり迷わず承諾した,わかりました,前社長にはお世話になりましたし、格安でお貸ししますよ,本当ですか?
ありがとうございます
こうして、俺の所有する土地に森社長の会社が移転してきたのだ,相手は江崎社長ではない,経営手腕に不安のある森社長だ,そこで俺は契約書にこんな条項を盛り込んだ,誠実義務違反があった場合の即時解除条項が入っています,あの時、社長が確認してサインしましたよね,今回違反があったと判断しました,などと文書記録が揃っていたため、顧問弁護士も迅速に対応してくれましてね
顔面蒼白で震える森社長に、俺は静かに語りかける,江崎社長のように全面的に信頼できる相手ではなかったのだ,万が一の場合の予防策として盛り込んだ条項だが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった
そ、その件ですが、具体的にどのような違反をしたのでしょう? 吉田本人からは何か問題があったとは聞いていません,吉田さん、社長に何も言ってないんですか? と弁護士が送ったのは賃貸借契約の解除通告のみ,詳しい事情は書いていなかったが、まさか吉田さんが森社長に何も伝えていなかったとは,仕方ない,俺から説明します,吉田さんが担当になってから、こんなことがありまして、と今までの出来事を全て明かす,森社長の顔色が青を通り越して白に変わった
おお、本当にそんなこと,と会議には記録担当として我が社の社員が同席することもありました,その人に確認を取ってみましょうか,議事録にも残っているはずです,と言い逃れできない状況に、吉田さんは先ほどから震えっぱなしだ
吉田、謝れ,と森社長の口から低い声が聞こえてくる,今まで聞いたことのない、怒りに満ちた声だ,森社長は明るい性格で、問題が起こっても笑顔で受け流そうとする,そんな人の本気の怒りは、かなり迫力があった,社長として頼りないと思っていたが、こういう一面もあったとは
吉田さんは森社長の怒りに触れ、心の底から恐怖しているようだ,今までは呆然と突っ立ていたが、ゆっくりと膝を折り、額を床に擦りつけた,も、申し訳ございませんでした,と少しつついたら泣き出すのではと思うほど、余裕のない声だ
しかし簡単に許すわけにはいかない,江崎社長には恩があります,一回だけチャンスを与えましょう,本当ですか? と吉田さんが勢いよく顔を上げる,どうやら自分にチャンスが与えられたと勘違いしているようだ,吉田さんを今後一切、私の会社との取引に関わらせないでください,厳しい処分もお願いします,へ、わかりました,即座に頷いた森社長と、俺を吉田さんは交互に見ている
ど、どうして,俺が謝ったじゃないですか,黙って許されないことも、世の中にはたくさんあるんですよ,今回の件がそれです,あなたは自分の立場を笠に着て、我が社に無理難題を押し付けた,我が社が受けた損失は甚大です,頭を下げた程度で許されることではありませんよ
森社長が頷いて返す,お前のせいで、我が社は再び移転する可能性があった,どれだけの費用がかかると思っているんだ,これだけ安く土地を貸してくれるところは他にない,あったとしても、今より辺鄙な山の中か,そもそも移転できるほどの費用なんてない,お前のせいで我が社は倒産していたかもしれないんだぞ
吉田さんの目が大きく見開かれ、口からは浅い呼吸が漏れる,そ、そんな,俺、会社に迷惑かけるつもりなんて,とは言わせませんよ,あなたはとんでもないことをした,しっかりバツを受けなければ,と吉田さんの目から光が失われ、絶望の表情になる
二度と俺の前に姿を現さないでください,吉田さんが項垂れるように肩を落とした,うう,と嗚咽が聞こえる,床にぽたぽたと落ちているのは涙か,しかし誰も吉田さんに手を差し伸べなかった
後日、森社長から連絡があった,吉田さんは担当を解任され、遠方の小さな営業所へ異動になったとのことだ,奥さんに離婚を突きつけられ、近いうちに退職になるかもしれないとも聞いた,自業自得だなとしか思えない,値下げされた取引価格も元通りになり、迷惑な噂もすっかりなくなった
よし、今日も張り切って仕事するぞ,腕まくりをして自分を鼓舞する,江崎社長、見守っててくださいね,いつかあの世で再会することがあれば、今回の件も笑って話せるだろうか,そんなことを考えながら、俺は今日も仕事に励んでいる
中卒無能の上司、二度と話しかけるな,と俺を無能とバカにしたのは、今まで面倒を見てきた部下だ,この度、大手に転職が決まったらしい,本来であればおめでたいことだが、まさか去り際に砂をかけられるとは思っても見なかった,しかしこの後、元部下は自分の愚かな行為が原因で、華やかなサラリーマン人生から転落することとなった
俺の名前は足立,三十八歳,中堅IT企業の開発部で係長として働いている,貧乏家庭出身で高校進学すらできなかった中卒だが、独学でシステム開発を学んで身につけた,最近は立ち上げたばかりのプロジェクトの中心メンバーとして忙しい毎日を送っている
そんな俺に、面倒な仕事が舞い込んだ,頼むよ、足立,お前しかいないんだ,と両手を合わせて拝むように俺に頼んでいるのは、上司である佐々木部長だ,中途採用の新人教育はお前しか任せられないんだよ,お前は教え上手だしな
俺は器用貧乏なところがあり、開発部で働き始めてから色々な仕事を任せられていた,それに今まで新入社員の教育を何度も経験しているし、佐々木部長の言うことは理解できるが、今は新システム開発のプロジェクトを進めていて、仕事が山積みで余裕がないのだ
頼む,次のボーナスは多めにもらうように上に言うからさ,まあ、そこまで言うなら分かった,と金に釣られたわけではなく、部長にここまで頼まれたら断るのが忍びなかっただけだ
しかしやってきた中途採用の新人は、とんでもない人間だった,どうも,高橋です,よろしくっす,教育の足立だ,分からないことがあったら何でも聞いてくれ,と最近の若者といった感じの軽い調子で、高橋君は開発部にやってきた
任せた仕事は単純な書類作業,しかし高橋君はミスだらけの完成品を提出してきた,これでいいすか?
しかも本人は自信満々だ,えっと、まずこの部分なんだけど、と一つずつ分かりやすいようにミスを指摘すると、高橋君はあからさまに不機嫌になる,もう一度お願いね,と俺の言葉に返事もせず、乱暴に書類を奪う
初日からこんな感じで、高橋君の指導はかなり大変だった,本人は有名な私立大学の出身であることを自信に思っているようで、頻繁に学歴を自慢してくる,俺、大学ではこんな経験をして,あ、すみません,足立係長は中卒だから、大学の話しても分かりませんよね,と申し訳ないという素振りを装っているが、高橋君の目は、俺を見下す感情で歪んでいる
俺が中卒だと知ってから、高橋君の学歴自慢はさらにひどくなった,正直腹が立たないわけではない,だが俺は教育係だ,高橋君だっていつかは変わるかもしれない,そう信じて、俺はぐっとこらえることにした,まあ、その期待は見事に裏切られるわけだが
高橋君、学歴が全てじゃないよ,と見かねた佐々木部長が苦言を呈するが、本人はどこ吹く風,入社して一ヶ月が経ち、指導期間が終わっても、高橋君は相変わらず仕事を覚えなかった
部長,あれじゃ仕事は任せられませんよ,と会議室に部長を呼び出し、指導結果を伝える,佐々木部長も高橋君の使えなさは理解しているようだ,でもなあ、試用期間は過ぎてしまった,正社員になってしまった以上、よほどの問題がない限り簡単には解雇できない,これが日本の労働法の難しいところだ,部長も困り顔だ
その顔を見ていたら、ある考えが浮かぶ,じゃあ、俺が中心になってるシステム開発の仕事を任せます,え、大丈夫なのかい? 任せる仕事は雑用です,今は猫の手も借りたいほど忙しいので、それと正式なメンバーには入れません,あくまでサポートという形で,誰でもできる簡単な仕事で、ミスをしてもすぐカバーできるような業務を任せれば大丈夫だろう
しかし高橋君は、俺の想像以上にとんでもない人間だった,高橋君が入社してきてから半年後,大変だ,顧客データが全部消えてるぞ,と佐々木部長の叫び声に、開発部は一瞬で阿鼻叫喚に包まれた
顧客データを管理しているのは開発部が作ったシステムだ,部署の社員全員が一丸となり原因を探す,すると高橋君のパソコンから、設定をいじったという履歴が見つかった,高橋君、もしかして顧客管理のシステムに触ったかな? 昨日、高橋君に顧客データを一部コピーしてもらう業務を依頼した,まさかそれだけでデータが消えるわけがない、と思いつつ尋ねると、ああ、なんかいじってたら設定画面ってやつが出てきましたね,よくわかんなかったし、画面占領して邪魔だったから、削除って書いてあるボタンを押しました
思わず頭を抱えてしまう,なぜ簡単な仕事を任せただけなのに、このような重大な失態につながってしまうのか,部長、俺の監督責任です,と高橋君に仕事を依頼した俺も無関係とは言えない,しかし、足立君,そうっすよ,足立係長がちゃんと指示しないから、こんなことになったんです,っていうか、このシステム作ったの誰です? 使い方が分かりづらくて最悪ですね,と高橋君の自分勝手な発言は無視し、データの復旧作業に入った
午後になり、ようやくデータが元に戻ったが、おかげで通常業務が溜まってしまった,この日は全員残業をして仕事を片付ける,高橋君は一切悪びれることはなかった,なんで俺が残業なんか,復旧できたのに,とぶつぶつ文句を言っている厄介な部下に、思わずため息がこぼれてしまった
高橋君の扱いに困りつつ、顧客データの削除以降、大きな事件は起こらなかった,小さなトラブルは数えきれないほど起こったが、主に俺が中心となりフォローすることで事なきを得る,これから先もずっとこの調子なのかと気が重くなっていたが、高橋君が開発部に入ってきてから一年後、突然本人からこんな発表があった
おれ、大手企業に転職が決まったんで,と高橋君は一切仕事ができないのに、なぜか業界大手から内定をもらったのだ,へえ、縁があったのか,というかそもそも嘘じゃないか,あいつ見栄っ張りだし,と佐々木部長もこんなことを言う始末で、開発部の社員たちはみんな首をかしげている
とはいえ、問題がいなくなるならそれに越したことはない,じゃあ引き継ぎはこれで終わりだね,高橋君には俺が中心となっているプロジェクトに少しだけ関わらせていた,任せていた仕事は簡単なものばかりだったので、引き継ぎ作業も半日で終了,しかし本人は心底疲れたという様子で肩を回しながら、とんでもないことを口にした
いやあ、中卒無能の上司のせいで色々苦労したわ,はあ,なあ,転職先聞いて驚いただろ,高学歴の俺だから大手に転職できたの,あんたと俺じゃ格が違うんだよ,もしこれから先どこかで俺を見かけても、二度と話しかけるなよ,とへらへらと笑いながら、高橋君は罵倒の言葉を俺に向ける
もう必要ないと判断したのか、敬語がなくなっていた,こんなことを言われる筋合いは一切ない,むしろ今まで親身になって面倒を見てあげたのだから感謝して欲しいくらいだ,しかし高橋君の目からは、本気で言っていることが伝わってくる,この一年で痛いほど理解したが、高橋君はとてもプライドが高い人間だ,自分の学歴にかなりの自信を持っている,そんな人間が中卒の上司に指導されるというのは、俺が想像する以上に苦痛なことだったのだろう
なあ、何か言ったらどうだ?
と俺たちの隣の席に座っている社員が、信じられないものを見る目で高橋君を見ている,俺も同じ気持ちだよと心の中で語りかけながら、ゆっくり口を開いた,あ、そう,分かったよ,喜んで,さて、これで引き継ぎは終わりだね,君の仕事はもうないから、あとはのんびりしてて,転職先でも頑張ってね,と満面の笑みで言うと、高橋君が口を閉じる,俺の反応に面食らったようだ
とにかく会社に仕事をしに来ているだけで、部下と口喧嘩するためにここにいるわけではない,それに高橋君に構っている暇があるなら、もう少しで完成するシステム開発のプロジェクトを進めておきたい,高橋君のデスクから離れ、自分の持ち場に戻る,不満げに俺を見つめる高橋君の視線には気づかないふりをして、目の前の仕事に戻った
二ヶ月後,俺は商談先へ向かう準備を進めていた,高橋君が一ヶ月前に辞めてから、開発部は仕事のスピードが段違いにアップした,俺だけでなく、みんな高橋君には苦労させられていたらしい,よし、行こうか,足立君,ええ、と商談へは佐々木部長も同行する
今回の商談で、相手に買ってもらいたいのは、俺が中心となって開発を進めていた新システム,先日ようやく完成して日の目を見ることができたのだ,約束の時間の十分前に相手の会社に到着する,かなり大きな会社で、我が社にはない広いエントランスに、俺と佐々木部長は圧倒された
大きくて綺麗な会議室に案内されて数分後,お待たせしました,と商談相手の担当者、営業部の大葉部長が入ってきた,どうも、大葉部長,この度は商談の席を設けていただき、ありがとうございます,いえいえ、我が社としてもこのシステムは注目ですからね,ありがとうございます,こちらが開発責任者の足立係長です
佐々木部長に紹介された俺は、笑顔で大葉部長に手を伸ばした,初めまして、大葉部長,本日はよろしくお願いいたします,早速お話を,ああ、ちょっとお待ちください,急な話で申し訳ないのですが、あと一人、うちの社員を参加させてください,と大葉部長が眉を寄せて時計を見る,すでに約束の時間は過ぎていた
遅刻だろうかと佐々木部長と顔を見合わせる,すみません,お待たせしました,遅いぞ、高橋,と大葉部長の止めるような声に、俺と佐々木部長は目を丸くした,会議室の扉を開けて入ってきたのは、一ヶ月前にうちを辞めた高橋君だったのだ
俺たちも驚いていたが、高橋君も強張った顔をしている,転職先がこの会社とは聞いていたが、まさか今回の商談に姿を現すとは思わなかったのだ,な、なんでここにいるんだ? と俺たちは混乱しながら答えると、高橋君から信じられない言葉が飛び出した
確かに今日の商談相手はあんたらの会社だけど、相手は課長じゃなかったのか,飯田課長,あの人は長期出張中だけど,大葉部長からAIを使ったシステムの相談って聞いて、飯田課長がそんな仕事してるって聞いてたから、てっきり飯田課長が来るかと思ってたんだよ,と商談の資料は事前に渡していたはずだが、ちゃんと読んでいなかったのか,と部長の止めるような声に、高橋君は少し気まずそうにしながら言い訳した,仕事が忙しくて時間がなかったので
どうやら高橋君は転職先でも色々やらかしているようだ,それにしても、AIを使ったシステムの相談と聞いて、なぜ元上司の俺を真っ先に思い浮かべなかったのか,俺のプロジェクトの仕事、少しだけ任せてたよね,なんで商談相手が俺だと思わなかったの? え、あんたのプロジェクトがそんなに重要だったの? 中卒がこんな大きな案件のリーダーやってたなんて知らなかったわ,と高橋君は言う
思わず頭を抱えそうになったが、大葉部長の前だと思い出しこらえる,簡単な仕事ばかり任せていたとはいえ、君にはプロジェクトについて一通り説明したはずだけど,そうだっけ?
とどうやらこの元部下は俺の話を真面目に聞いてなかったようだ,もしくは聞いていたが綺麗さっぱり忘れてしまったのか,普通ならありえないが、高橋君なら仕方ないと思ってしまう自分もいる
おい、高橋,足立さんはお前の元上司では,なぜため口なんだ? と大葉部長の指摘に、高橋君がはっとした顔になる,ようやく今の上司の前だと気づいたようだ
大葉部長,こちらも色々と言いたいことはありますが、とりあえず相談を進めてもよろしいでしょうか? と混乱する場を治めたのは佐々木部長だ,このまま高橋君の仕事のできなさを追求したところで時間の無駄だと判断したらしい,そうですね,おっしゃる通りです,高橋には後で私の方から話を聞いておきます,では相談を始めましょう
その後は、俺が中心となり話を進めた,すみません,ちょっといいですか? この部分について質問があるんですけど、こういうのは早めにはっきりさせておいた方がいいですよね,と自分がやらかしたことを察したらしい,高橋君は失態を取り戻すためか、積極的に手を上げて質問してきた,しかしどの内容も的外れだ,大葉部長の表情がさっきから硬い
それは先ほど説明した通りです,と呆れ果てた俺は、丁寧に答えることはせず、しまいには高橋君の質問を無視して相談を進める,その対応を責める者は、この場に誰もいなかった,最初は昂然の表情を浮かべていた高橋君だったが、誰からも相手にされてないことに気づき、口を閉ざす
ではご提示の内容で契約を進めましょう,ありがとうございます,と大葉部長と握手をかわす様子を、高橋君は悔しそうな顔で見ていた
そうだ、高橋,一つ聞いておきたいことがあるんだが,あ、はい,何でしょう?
とようやく自分にスポットライトが向けられたと思った高橋君が、大葉部長の問いかけに顔を輝かせて答える,しかし大葉部長の口から飛び出したのは、高橋君にとって予想外のものだった
履歴書に書いてた内容は嘘だったのか? へ、前職でAI開発の中心メンバーだったという内容だよ,だから今回の会議に、転職したばかりのお前を参加させたんだ,あれが本当なら、商談の最中にあんな質問はしないはずだが,ずっと営業で働いてる俺でも知っている基礎的な内容を尋ねるものだったぞ
確かに高橋君の質問は初歩的なものばかりだった,自分に注目を集めるための質問かと思っていたが、まさか履歴書にそんな嘘を記載していたとは,そんなことすれば、いずれ化けの皮が剥がれて困るのは本人だというのに,どうやら高橋君は先を考えられないタイプのようだ
君が在籍していた当時、うちの部署で進めていたプロジェクトは、足立のものだけでしたよ,高橋君はプロジェクトのメンバーですらありませんでした,と俺の代わりに佐々木部長が答える,嘘がバレた高橋君の顔は、見る見るうちに青く変わった
そうですか,教えていただきありがとうございます,お前とはしっかり話をする必要がありそうだな,と大葉部長のまとう空気が重いものになる,高橋君は顔面から滝のような脂汗を流していた
大葉部長,気をつけてくださいね,高橋君はうちの顧客データを全部消したこともあるので,とちょ、おい、何言ってんだお前,,がさいのくせに俺を陥れる気か,と俺が横やりを入れると、高橋君が慌てた様子で口を開く,元上司、今は取引相手の俺に、どういう口の聞き方してるの? 社会人として以前の問題だ,いい年をした大人としてありえないよ,と即座に言い返すと、高橋君がぐっと言葉に詰まる
しかし、今更口を閉ざしたところで、何もかも遅かった,高橋、お前にはほとほと呆れた,この一ヶ月、お前がしでかしたミスはすでに数えきれない,この後すぐ、正直に上に報告するからな,え、それってつまりどういうことです? と察しの悪すぎる高橋君に、大葉部長は呆れて言葉を失ってしまったようだ
簡単に言うと、高橋君は大手企業では使えない人材だってことだよ,まあ、うちでも使えなかったけど、最悪の場合、解雇もあり得るかもね,と代わりに俺が答えると、高橋君はぎょっとした顔になった,お、俺が使えないだと,そんなわけない,自分が中卒だからって、高学歴の俺を妬んでるのか
いや、もうはっきり言わせてもらうけどな,お前、使えないよ,全く,これっぽっちも使えないだけならまだマシだ,下手に仕事を任せると、とんでもないミスをしかす,お前はいるだけで迷惑だ,と耐えきれなくなったのか、大葉部長が正直な気持ちを言葉にした
これだけはっきり言えば、さすがの高橋君も理解できたようだ,そんな,か,解雇になったら俺どうすりゃいいんだよ,知らないよ,そ、そうだ,またあんたのところで働かせてくれよ,短い間とはいえ、一緒に働いた仲間だろ,と高橋君が俺にすがりつこうとしてきたが、さっと避ける
言っただろう,うちでも使えない人材だって,君は仕事ができなさすぎる,性格が良ければまだ救いようがあったけど、君は俺のことを学歴で判断して馬鹿にしてきた,仕事もできなくて性格も最悪な部下なんて、絶対にお断りだね,そうだな,俺も部長として、お前みたいな人材は採用したくない,二度と俺たちに関わらないでくれ,と佐々木部長の言葉に、俺は頷いて同意する
大葉部長,今後は高橋君を連れてこないでください,もちろんです,高橋にはきちんと処分を下すよう、私の方から上層部にしっかり頼んでおきます,ま、待ってください,これからは心を入れ替えて真面目に働きますから,と叫び声に、俺は覚めた声で言い放った,もう遅いよ,誰も君を必要としてない,諦めて処分を待つんだな
これがとどめになったようだ,高橋君の顔に絶望の感情が広がり、がっくりと肩を落とした
大葉部長は迅速に動いてくれた,その結果、高橋君は地方にある工場へ異動,現場勤務となる,しかしそこでもミスを連発しているようだ,周りから煙たがられ、まともに仕事もできない状態だとか,あの調子では、近いうちに解雇になるでしょうね,だいぶやれた様子でしたよ,と外回りで我が社に顔を出した大葉部長が、高橋君のその後について教えてくれた
世の中には信じられないくらいのポンコツがいますが、あそこまでの人間は初めて見ました,足立さんも苦労されたでしょう,ええ、まあ,と大葉部長の問いかけに苦笑いで返す,このまま本人が何も努力せず改善しなければ、高橋君の未来はお先真っ暗だろう,しかし俺にはもう関係のない話だ
一方で、俺が中心となり開発した新システムは好評で、数多くの企業から契約の話が来ている,は会社の売上に期待が持てるだろう,毎日忙しくて大変だけど、自分の仕事が認められるのは嬉しい,これからも俺はこの会社で一生懸命働いていくつもりだ
独占契約と言っても、このくらい自社でなんとかなるんですよ,とその言葉は、十三年間も真面目に取引をしてきた俺の心に刺さった,取引先の新しい部長は何も分かっていない,俺はこいつに思い知らせてやろうと考えたのだ
俺の名前は天野,四十八歳で工場を経営している,うちの工場では主に高精度センサー用の特殊コーティング技術を提供していて、運転システムや医療機器にも使われている,中でも付き合いが長いのは、自動車部品メーカーの遠藤さんという、俺と同年代の人が担当者で、うちの技術を高く買ってくれている
遠藤さんは物柔らかくて人当たりもいい,勉強熱心で、うちがどんな技術を持っていて、どう活用したらいいかをよく理解しているのだ,そんな遠藤さんの会社とは十三年の付き合い,うちが開発した技術を専門誌で知った遠藤さんが尋ねてきたのがきっかけだ
付き合い当初、遠藤さんの会社は赤字が続いていたが、うちと取引を始めてから徐々に業績を上げていった,そして八年前、うちの技術を活用した高精度センサーを開発してから、一気に業績を回復させた,うちは特許取得済みの特殊なコーティング剤と処理技術を提供している,過酷な環境からセンサーを守る技術だ
業績回復を受けて五年前,遠藤さんの会社は製造拡大のため二十億かけて新工場を建設することになった,しかし工場を建てる土地がなかなか見つからない,そんな時、遠藤さんが困った顔で相談に来たのだ,天野社長,土地探しが難航していて、もし何か心当たりがあれば,と俺はこの時、先祖から代々受け継いだ土地を思い出した,それなりに広い土地だが、特に借り手もなく放置していた場所だ
俺は少し考えた,先祖代々の土地を他人に貸すのは、正直言って躊躇もあった,だが遠藤さんとは十三年の付き合いだ,それなら、うちの土地を貸しましょうか,と遠藤さんは目を輝かせた,本当ですか?
ありがとうございます
その後、遠藤さんは当時の社長と一緒に正式な契約の話をしに来た,当時の社長は創業者で、技術を重んじる人物だったのだが、俺は弁護士と相談し、土地賃貸契約を結ぶ際にある条項を入れることにした,この土地の賃貸契約は、コーティング技術の独占契約と連動させたいんです,もう一つ、独占契約が一方的に破棄された場合、建物も含めて即座に天野に譲渡していただくという条項を入れたいのです,と遠藤さんも社長も驚いた顔をした
建物もですか? はい,二十億の投資をされるわけですから、御社としても独占契約を守る強い動機になるでしょう,もちろん契約を守っていただければ、五年後の更新時にも同じ条件で継続しますし、建物はずっと御社のものです,と当時の社長は少し考えてから頷いた,分かりました,うちが一方的に契約を破棄することなどありえませんから,むしろ天野社長の技術がなければ、この工場も意味がない,この条項を飲みましょう
遠藤さんも、そうですね、と納得する,こうして独占契約の更新と土地賃貸契約を同時に結んだ,契約期間は双方とも五年,さらに従業員用の駐車場もうちの土地を貸すことにした
工場が完成し、遠藤さんは、こんな素晴らしい技術を提供していただいて、本当に助かっています,今やこのセンサーはうちの主力商品,これからもよろしくお願いします、と喜んだ
俺と遠藤さんの会社は良好な関係を保ってきた,しかし二年前に当時の社長が引退し、その息子が新社長に就任してから、社内の雰囲気が変わり始めた,新社長は数字重視の経営方針で、過去の成功体験に縛られるな、が口癖だったらしい
そして一年前、コスト削減の実績がある川口という人物をヘッドハンティングしたのだ,ある日のことだ,お世話になっております,といつもと同じように入ってきた遠藤さんだったが、なんだか顔が疲れていた,俺は思わず、何かあったんですか、と聞いた,遠藤さんは少しためらいながらも、実は経営戦略部の部長が変わったんですが、ちょっと厄介な人で、と話し始めた
川口部長は入社してまだ半年なのに、古い契約は全て見直すと言って社内を掻き回しているんですよ,契約書の細かい条項まで読まずに、数字だけ見て判断するから現場は大混乱ですよ,と短期的にコストを削減することがこの部長の仕事らしい,朝から呼び出され、独占契約について聞かれたが、よくわからんが、自社でなんとかする方向で調整できないのか、と言われたらしい
遠藤さんは、うちでできないからこうして天野さんのお力を借りているということを説明しても、いまいち分かってもらえなくて、朝から疲れちゃいましたよ,とげらりとする,一通り話した遠藤さんはため息をついた
書類の数字だけ見て、コストがかかりすぎていると詰められましてね,どうしてこのコストが必要かも説明しましたが、分かってもらえず,実は社長も、古い取引先に頼りすぎていると考えているようです,川口部長は前職で三年間で五十億円のコスト削減を実現した人物で、社長はその実績を買って、かなりの権限を与えているんですよ,正直、川口部長のやり方には現場も戸惑っていますが、社長が全面的にバックアップしているので、誰も逆らえないんですよ
遠藤さんは続ける,川口部長が来てから、社内の雰囲気が変わってしまって、技術を大切にする文化が失われつつあります,うちの社員も次々と辞めていて、私ももう限界かもしれません,と愚痴を言うと、少し気が晴れたのか、いつもの遠藤さんに戻った
大きい会社の人間関係は大変そうだが、遠藤さんがいれば、うちに不利益なことは起こらないだろうと俺は思っていたのだ
しかし事件は突然起こった,数日後、遠藤さんから、どうしても部長の川口が天野社長とお話ししたいと言っておりまして、これから一緒に伺います、と電話があった,コストカッターと言われている人だから、経費を握ってくるのだろうと思い、俺は身構える
やってきた川口は、うちの工場に入るなり、中をきょろきょろと見回す,どうかされましたかと俺が尋ねると、いやあ、随分年季の入った工場だと思いましてね,うちの新工場とは違うな、と笑う,ボロ工場だとでも言いたいのか,別にどう思われてもいい,確かにうちの工場は古いが、最新システムも導入しているし、馬鹿にされるようなことはない
それ以外にも川口は、とても最新の技術を持った工場とは思えませんね,などと俺を見下す発言をしてくる,その度に遠藤さんが部長を止めるが、川口は気にしていないようだ,むしろ遠藤さんのことも面倒だと思っている雰囲気である
椅子に座った川口は、うちが仕入れている材料と、五年間の独占契約に関してだが、と始めた,俺の予想通り材料の値段を下げろと言ってきたので、俺はそれはできません,正直なところ、うちもギリギリなので、と断る,川口は不満な顔をしたが、そこですかさず遠藤さんが、そうですよ、部長,このセンサーはうちの主力商品ですし、利益も十分に得られています,経費を削減するのは、わざわざここでなくても,と口を開いたが、川口は遠藤さんを止めた
私は君より立場が上なことくらい分かるだろう,意見していい立場じゃないんだよ,私は社長に見込まれてヘッドハンティングされ、今この職についている,主力商品だからこそ、徹底的なコストカットが必要なんだよ,と言い、俺の方を向く,そもそも五年の独占契約って何だ? うちにとってメリットだろう
そう言われて、俺はこいつは何も分かってないのかと思った,遠藤さんは、天野社長の開発したこの技術は画期的で、独占契約の間は他社にはこの技術が流れないようになっています,それをメリットがないというのは、と言ったが、川口は、たった五年の独占契約で偉そうに,と笑い出した,として材料は他から仕入れ、自社でコーティング技術を作り出せば大幅なコストカットができる,どんなすごい工場かと思って来てみたら、こんな小さいボロ工場だし、こんなところにうちが牛耳られているなんて思われたら、我が社の恥なんだよ
遠藤さんは慌てて、何言ってるんですか、部長,と川口を止めるが、川口は止まらない,うちの主力商品を作ってるとはいえ、コストがかかってるんだ,街工場の記述力はすごいなんて言うけど、いつ潰れるかも分からんような工場にコストをかけて頼るなんて、不安定すぎる,独占契約と言っても、このくらい自社でなんとかなるんですよ
川口は俺に向かってそう言った,その言葉は、さすがに俺も頭に来た,うちがいつ潰れるかわからないと言っているんですか? と俺が言い返すと、川口はそうだ,このボロ工場を見れば、誰でもそう思うだろう、と俺を見下してきた,俺は、あんた、失礼だな、と思わず言ってしまう,遠藤さんも、部長,天野社長に謝罪を,と言った
だが川口は、偉そうなこと言ってるけど、こんな工場、俺の一存で潰せるんだよな,と笑う,その瞬間、遠藤さんが、部長、いい加減にしてください,とぶち切れた,川口は遠藤さんに、君は首だ,私の邪魔をする奴はいらないんだよ,という
この川口という男は、とんでもない奴だ,独占契約の件も、書類上の数字しか見ていないのだろう,遠藤さんは見たこともないほど怒っていて、では退職させていただきます、と宣言した,俺は慌てて、遠藤さん、ちょっと落ち着いて,と言ったが、天野社長をこんな風に言う人間と、一緒に働けませんよ,と叫んだ
それを聞いて、俺も腹を決めた,俺は川口に向かって、では独占契約は解除でよろしいですか?
と問う,川口はああ、これでかなりのコストカットができるよ ,今までご苦労だったな,と鼻で笑った,しかも、これが契約解除の書類だ,サインしてくれ,とわざわざ書類を用意していたのだ
それを見た遠藤さんは目を丸くした,これは本当に川口の独断なのだろうと、俺は確信する,俺はその書類を受け取り、サインした
川口は、私が別の大手からスカウトした技術者に頼めば、こんなものは自社で製造ができる,どうして今までそんなこともしてこなかったのか、私には理解ができんよ,と自慢げに言う
そこで俺は書類を川口に渡すと、では、うちが二十億注ぎ込んだ新工場の土地と駐車場、今すぐ返せ,と川口に説明をしてやった,独占契約の破棄は、あの新工場を建てる時に結んだ信頼を著しく損なう行為に該当します,うちが貸しているあの土地は、ご返却していただきます,え、え、と戸惑う川口に、遠藤さんは、新工場の土地は天野社長からお借りしている土地なんですよ,駐車場の土地もお借りしているので、それもお返ししなければいけませんね,五年前に契約を結んだ時、私も同席しましたから、よく覚えています,と頷いた
おおおい、どういうことだ? と川口は慌て始めた,俺は全て契約書に記載されていますよ ,まさか契約書の内容を確認せずに契約解除を迫ったなんてこと、ありませんよね,と強制契約の即時解除になりますので、あの工場は立ち退きですね ,それに、独占契約を潰せば、御社の高精度センサーは性能を満たせず、市場から消えると思いますよ ,二十億円の投資、無駄になりましたね ,と断固たる口調で言った
川口は、ふざけるな,そんな契約があるものか ,俺を嵌めようとしてるんだろう ,と怒鳴ったので、俺は、では会社に戻って社長にご確認ください ,というと、川口は逃げるように工場を出ていった
数時間後,遠藤さんの会社の社長が、青ざめた川口を連れてやってくる,社長は、天野社長、この度は申し訳ございません,川口は何か勘違いをしていたようで,うちから契約解除なんてとんでもない,と言ってきた
社長,この土地賃貸契約の件,ご存知でしたか? と俺が質問すると,社長は顔面蒼白になった,それが父の代の契約で,私が就任した時に引継ぎは受けたはずなのですが,川口に契約関係の見直しを一任していたもので,まさか土地契約と独占契約が連動しているとは
なるほど,そういうことか,川口も入社前の古い契約だからと軽視し,契約書の重要な別表まで確認しなかったのだろう,しかし口先だけの謝罪でなんとかなるとでも思っているような態度は,信用できるはずもない
俺は,勘違いなんてことないでしょう,先ほど契約解除の書類を出し,サインを迫ったのはそちらです,私はそれにサインしました,ですから今月いっぱいで契約解除,あの土地ももうお貸しできません,と断固たる口調で言った
社長は青ざめて,私が川口に任せすぎた,私の責任です,ですが真面目に働いている従業員たちに罪はありません,と縋り許しを請うた ,だが俺はそれを許さない
社長 ,川口さんはうちをボロ工場と呼びました ,十三年前から真面目に取引してきた相手に対して,そんな言葉を吐く人間を登用したのは,社長,あなた自身の判断でしょ? それと,と言って,俺は遠藤さんを招き入れる ,遠藤さんは事前に用意していた退職届を社長に渡した ,お世話になりました
社長がそれを受け取ると,俺は,今まで御社と取引を続けていたのは,担当の遠藤さんを信頼していたからです ,遠藤さんが辞めるとなると,その信頼すらなくなりますからね ,と言うと,社長も青ざめ,申し訳ございません,と土下座を始めた ,だがこんなのはパフォーマンスだ
俺は,ボロ工場とは早く手を切って,自社でコーティング技術を開発すればいいんじゃないですか ,確かにそちらの方がコストは削減できる ,同等のものが作れるなら ,あんたの考えは妥当でしょう ,と言うと,遠藤さんが隣で頷いた ,川口は俺を睨みつけ,社長,やはり自社でなんとかしましょう ,コストをかけてまでこんなボロ工場に頼るなんて間違ってる ,こいつらを後悔させましょう ,という社長は納得いかなさそうな顔をしながらも,川口と一緒に去っていった
俺は遠藤さんに,これで良かったんですか,と聞くと,遠藤さんは頷いた ,私は天野社長の技術を尊敬しています ,この技術がなければ,うちの主力商品だって開発できていなかった ,それをあんな言い方するなんて許せません ,後悔もありませんよ
それを聞いて,俺たちは真面目にやってきたのに,正直が馬鹿を見るような展開は許せない ,徹底的にやってやる,と心に決め,遠藤さんはうちで働いてもらうことにした
そこから俺は弁護士を入れて工場の立ち退きを要請 ,月末までの猶予をやったが,回答は得られなかった ,そこでまず,貸していた駐車場を封鎖する ,ここは車でないと来られないような土地なので,交通手段を失えば,工場で働く人たちは出勤すらできないのだ ,三十人という従業員の車が入れなくなった駐車場から列を作り,違法駐車をする車もあった
この違法駐車に関しては,近隣住民が警察に通報し,違反切符を切られたようだ ,おかげで工場は動かせず,主力商品の製造が滞った ,社長から,借地料は払います ,どうか駐車場を使わせてください ,と泣きを付けて連絡が入ったが,何言ってるんですか?
工場も立ち退きですよ ,今すぐ出て行ってもらわないと,法的に解決することになりますが ,と言って黙らせた
数ヶ月後,立ち退きが完了 ,契約条項に基づき,二十億の新工場は無償で俺のものになった ,川口は,買い取った街工場で製造すればいい ,大したダメージじゃない ,と負け惜しみを言ってきたが,その街工場の技術は低く,粗悪な代替材料では同じ性能は出せなかった
耐久性が著しく低下したセンサーが市場に出回り,わずか半年で不具合が続出したようだ ,大規模なリコールとなり,賠償金は数十億円に膨れ上がった ,さらに俺は以前から取引のあった自動車部品の製造会社に話を持ちかけ,あの工場を貸し出し,新たな部品を開発 ,今までよりも精度の高いセンサーが完成し,市場では天野の技術を使った新製品として高い評価を得た
この新製品により,川口たちの会社で作っていた部品は完全に世間から見放された ,主力商品を失い,リコール賠償で財務も悪化 ,取引先からの信用も地に落ちた彼らの会社は,銀行からの融資も打ち切られ,五年ほどで倒産することになった
社長は倒産後,責任を取って全財産を失ったそうだ ,川口を登用し,古い取引先を軽視した判断ミスが全ての原因だったと,遠藤さんから聞いた
遠藤さんは,天野社長,私を雇ってくれてありがとうございます ,胸を張って自社の技術を広められるので嬉しいですよ ,と生き生きしている ,俺も遠藤さんに来てもらって良かったですよ ,これからも頼みますよ ,と肩を叩いた ,遠藤さんに期待をしているのだ
それからしばらくして,なんと川口がうちの工場に乗り込んできた ,お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ ,と喚く川口 ,俺は冷静に,あなたの戦略が外れて会社が倒産しただけ ,自業自得というやつじゃないですか ,と言い返した
川口は顔を真っ赤にして,俺は間違っていない ,こんなボロ工場いつまで持つかわからんだろ ,と叫んだが,俺がじっと見つめると急に声のトーンが変わった ,頼む ,なんとか仕事を回してくれないか? 前の会社のことは悪かった ,あれは俺の判断ミスだった ,俺も家族がいるんだ ,妻と子供が ,と声が震えている
スーツも以前より安物に変わり,前よりも窶れた姿で,明らかに転職もできていないのだろう ,だが俺は首を横に振った ,あなたはうちをボロ工場とののしり,遠藤さんを首にした ,そんな人ともう一度仕事をする理由がありません
その背中は,かつての傲慢さのかけらもない ,遠藤さんも川口の後ろ姿を見て,あれが五十億円のコストカットを成功させた人物とは思えませんね ,と冷たく言った ,社長も倒産後,全財産を失ったらしい
今回の件で,信頼関係の大切さを痛感した ,数字だけ見て人や技術を軽視すれば,取り返しのつかないことになる ,これからも誠実に技術を磨き,誰かの役に立てるよう頑張っていきたい
特許部品ごときで偉そうに ,俺の一存で潰せるぞ ,と自分の権力を振りかざし,うちの工場を潰そうとしているのは取引先の新しい部長だ ,たとえ工場が潰れても,この人の言うことは聞けない ,そこで俺は今まで隠していたとっておきの手を使う ,その結果,部長は何もかも失い,地獄を見る羽目となった
俺の名前は朝岡 ,三十九歳 ,地元の田舎で父親の代から続いている工場を経営している ,俺が工場経営者に就任したのは十年前 ,工場自体は三十七年間経営を続けていた
うちが作っているのは特許取得部品で,家電の自動クリーニング機能に使われている ,この機能は誰もが名前を知っている超大手の家電メーカーが独占中だ ,家電のモデルチェンジやメーカーの要望に合わせて新しい部品を作っているので,その都度特許を申請するのは少々手間がかかるが,おかげでうちの工場は三十七年間,安定した売上を保っている
ただし本社と直接取引はない ,うちから車で一時間ほどの距離にある大手家電メーカーの支社に部品を下ろしている ,その支社は家電の組み立て工場の経営と出荷を担っていて,支社とはいえなかなかの規模だ ,この三十七年,特に大きな波乱もなく平穏無事な取引関係を保っている
そんなある日のことだ ,朝岡さん,こんにちは ,どうも,斎藤さん,お待ちしてました ,とうちの工場にやってきたのは,支社との取引の際に窓口担当になっている斎藤さんだ ,俺が十年前に工場長になった時とほぼ同じタイミングで,斎藤さんも窓口担当者に就任 ,年齢が近いこともあり,とても良好な関係を築いていた
そんな斎藤さんが今日は何やら疲れている様子だ ,応接室に案内し,仕事の話を一通り終えると,斎藤さんにどうしたのかと尋ねる ,お疲れの様子ですけど,何かありました? と朝岡さんにはお見通しでしたか ,長い付き合いですからね ,と俺が軽く笑うと,斎藤さんも少し笑顔を浮かべる ,しかしすぐにその表情は曇った
実はうちの営業部に,新しい部長が就任しまして ,そうなんですか ,前の部長さんは一ヶ月前に病気で倒れて,そのまま入院になったんです ,報告が遅れて申し訳ありません ,と頭を下げる斎藤さんに,俺は慌てて首を横に振って答える ,いいんですよ ,大変でしたね ,いえ,本当に大変なのは半月前に新しく就任した部長なんです
斎藤さんによると,その部長は本社からやってきた人間とのこと ,支社は慢性的な人手不足で,部長候補の人が皆忙しく昇進を断られたため,本社から人材を呼び寄せたらしい ,人材不足をどうにかしてくれと本社には何度も頼んでいるのですが,田舎の支社の要望なんて,まともに聞いてくれないんですよね
大手企業の闇を垣間見た気がして,俺はうまく返事ができず黙ってしまう ,その新部長,西さんという名前なんですけど ,西部長は本社専務の親戚でして,なるほど ,それは厄介ですね ,そうなんです ,何かあると専務の権力を笠に着て強引に通すんです ,支社長すら強気に出られなくて,もはや西部長の天下ですよ ,その上,西部長は仕事ができない ,専務の後ろ盾だけで昇進したと噂されているらしい ,それなのに本人は仕事ができると思い込んでいて,俺たちの仕事にやたらと首を突っ込んでくるんですよ ,おかげで余計な仕事が増える一方で
すみません ,こんな愚痴を聞かせてしまって ,気にしないでください ,斎藤さんと俺の仲じゃないですか ,と社外の人間である俺には,話を聞くことくらいしかできない ,今度飲みに行きましょう ,新しくできた店があるんですよ ,いいですね ,楽しみにしてます ,と飲みに誘って斎藤さんの鬱憤を晴らすことしかできないが,これが少しでも気晴らしになればいいなと思った
しかしこの後,予想外の展開が起こる ,斎藤さんの愚痴を聞いてから一ヶ月後,突然斎藤さんからこんな電話がかかってきた ,朝岡さん,ご相談があるのですが,西部長をそちらへ連れて行ってもよろしいでしょうか? いいですけど,突然どうしたんですか?
理由を尋ねると,斎藤さんが小声になる ,部下の仕事に首を突っ込むと言ったと思いますが,その一環でして,朝岡さんにはご迷惑をおかけして申し訳ありません
なるほど ,わかりました ,お待ちしてますね ,と断る理由もなかったので承諾したが,西部長は俺の思っていた以上にとんでもない人だった ,なんだこのボロ工場は ,こんなところと取引してたのか ,ここで特許部品なんて作ってるなんて信じられんな ,と工場にやってきた西部長は,開口一番俺の目の前でこんな発言をした
部長 ,朝岡さんの前ですよ ,だったら何だ? ボロいのは本当だろう ,それにうちはこいつに仕事を与えている立場だぞ ,かしこまる必要はないだろう ,と斎藤さんから聞いていた以上に非常識好きな人らしい ,俺はなんとか笑顔を作ると,西部長の罵倒は聞こえなかったふりをして,二人を応接へと案内した
どうぞですが,お茶を用意して二人の目の前に出すが,西部長は顔をしかめてお茶を拒否した ,こんなボロ工場の茶なんて,汚くて飲めるか ,西部長 ,と斎藤さんが止める声をあげるが,西部長は逆に睨み返す ,俺に何か文句があるのか? 部長に盾突くなら本社に報告するぞ
この発言に,斎藤さんは顔を青くさせ黙ってしまった ,もし西部長に睨まれて耳に入ったら,斎藤さんは無事では済まないだろう ,最近子供が生まれたばかりで,仕事を失うわけにはいかないのだ ,その事情も把握しているのか ,西郷部長はにたにたと笑を浮かべながら,斎藤さんに高圧的な態度を取り続ける
それが見ていられなくて,俺は二人が会話をする暇を与えないよう,仕事について話をし続けた ,では今後ともよろしくお願いいたします ,おや,もうこんな時間ですか? 長い時間引き止めて申し訳ありません ,と無理やり会話の主導権を握ったおかげで,西部長はすっかりこちらのペースだ
おお ,と遠回しに帰宅を促すと,西部長は素直に立ち上がる ,斎藤さんは俺の気遣いを感じ取っていたようで,目線で何度も謝罪してきた ,応接室の扉を開けると,ちょうどそこにいた人物とぶつかりそうになる ,あ,あれ,なんでこんなところに ,とぶつかりそうになったのは俺の妻だった ,工場全般を担当していて,お茶を運んだのは俺だが,入れてくれたのは妻だ ,お茶のお代わりが必要かと思って ,あら,もう帰られるんですか?
お気をつけてお帰りください ,と笑顔を浮かべる妻を,なぜかぼっと見ている西部長
妻がその場から去ると,部長は勢いよく俺に迫ってきた ,おい,あの女性は誰だ? この田舎にそぐわない美人だな ,まあ,確かに美人ですが,,あの人は俺の妻で,工場の雑務を担当してます ,ああ,なるほどね ,と西部長がにやりと口の端を持ち上げる ,おい ,あの義理に俺の接遇をさせろ ,はい ,もちろんよな ,うちはお前のボロ工場に仕事を与えてやってるんだから
にやにやと笑いながら,とんでもないことを言う西部長 ,どうやら俺の妻を下心のある目で見ているらしい ,自分の大切な人をそういう対象にされ,俺の中で怒りが湧いた ,お断りします ,何だと? 妻は接遇のためにうちで働いているんじゃありません ,と即座に拒否すると,西部長の顔が怒りで歪む ,そばで見ている斎藤さんは顔面蒼白で慌てふためきっぱなしだ
しばらく西部長と睨み合っていたが,西部長は突然戯けた笑を浮かべると,こんなことを口にした ,お前がそんな態度なら,こちらにも考えがあるぞ ,とそう言い捨て,俺の前から足早に去る ,斎藤さんは何度も俺に頭を下げ,慌てて西部長の後を追いかけていった
それから三日後,今度はアポイントなしで,西部長だけがうちの工場へとやってきた ,おい,話があるんだが ,と挨拶もなく,俺が一人で事務作業をしていた事務所に入ってきたかと思ったら,突然契約中止の書類を突きつけてきた ,自分の立場を分かってねえみたいだから,ちゃんと理解させてやるよ ,特許部品ごときで偉そうに ,俺の一存でこんなボロ工場いつでも潰せるぞ ,それが嫌なら分かってるよな
この場に妻がいなくて本当に良かったと心の底から思う ,西部長の目は下心に染まっていたからだ ,黙って妻を差し出さなければ,この人は容赦なく契約中止の書類にサインをするだろう ,うちが作っている部品がご理解いただけないのであれば,このような書類を持ち出したのでしょうか? 馬鹿にしてんのか?
クリーニング機能の特許部品だろ? そんなの探せば,いくらでも似たような部品が見つかるだろう
あっけらかんとしている西部長に呆れてため息が出そうになった ,類似品がないから特許取得ができたのだ ,仮に似たような働きを持つ部品を見つけたとしても,うちと同じ品質ではないだろうし,場合によっては特許権の侵害に該当する ,この人は問題の本質を全く理解していないらしい
俺は本社の役員の親戚だぞ ,ボロ工場でお山の大将を気取っているお前とは違うんだよ ,立場はお前よりはるかに上だ ,分かるか? ましてや,定のお前にあんな美人の妻は似合わねえよ ,黙って俺に差し出せ ,そしたら穏便に済ませてやるぞ
これは明らかな脅迫だ ,正当な方法で訴えればこちらが勝つだろうが,西部長のような下品な相手に律儀に対抗したところで,こちらの時間と労力が無駄に削られるだけだ ,そこで俺は速攻で問題を解決できる,とっておきの裏技を使うことに決めた
へえ ,そういうことするんだ ,じゃあ社長に,本社ビルの土地の借地料二十倍って伝えとけ ,はあ? と隠していたんだけど,俺の祖母の家が本社ビルの土地の管理者なんだよ ,あそこはうちが年払い契約で御社に貸してる土地だ ,と部長は最初,俺の言っている言葉の意味が理解できなかったようだ ,俺が敬語から歯口調になっているのにも気づいてない様子でしばらくぽかんとする
そう,俺はただの田舎の工場経営者ではない ,父方の祖母の家はかなりの資産家で,都内にいくつか土地を持っている ,それを色々な企業に貸し出して風営を立てているのだ ,西部長の会社の本社ビルは現在,父の兄,俺から見て叔父が所有者となり管理している ,叔父には娘が三人いるのだが,本当は息子が欲しかったらしい ,弟の子供である俺のことを,実の息子のように可愛がっていた
ちょうど昨日,叔父から近況を尋ねる連絡が来たので,世間話のついでに西部長の件を報告 ,表面上は平静を保っていたが,妻がそういう目で見られて,俺は内心怒り狂っていたのだ ,大切な人を守るためなら,使える手は何でも使ってやるという,少々卑怯な考えもあり ,叔父に事情を全て話す ,叔父は怒り心頭といった様子で,何かあればすぐに連絡して欲しいと言っていた
ちなみに祖母は息子である父の工場経営にはノータッチだ ,工場設立の前,父は自分の力だけで経営をしたいと祖母に言ったらしい ,その覚悟を認めた祖母は,今まで一切工場経営に関わっていない ,父は実力だけで長年工場を続けてきたのだ
西部長に自分と本社の関係性を明かすと,しばらく目を白黒させた後,俺を馬鹿にしたような笑を浮かべた ,お前,何言ってんだ?
嘘をつくなら,もっとそれっぽいことを言えよ ,ま,信じられないのも無理はないな ,じゃあ,この場で本社ビルの土地所有者のおじに電話すれば信じるか? とスマホを取り出し,西部長に見せる ,俺の顔を見て本気だと悟ったらしい
俺の言っていることが本当だと信じ始めた西部長は,若干脂汗を浮かべながら慌てて立ち上がり始めた ,は,面白い冗談だな ,今日のところは帰るわ ,と卑怯な部長はこの場から逃げるという選択を取る ,情けなく去っていった背中を見送りながら,俺は叔父にこの件を伝えるために連絡をした
その翌日 ,工場の応接では,ボロ工場にそぐわない来客を迎え入れていた ,本当に本当に申し訳ございません ,と顔面蒼白で滝汗を流している西部長の隣で,高級そうなスーツに身を包んだ男性が深々と頭を下げている ,顔をあげてください ,飯田社長 ,わざわざ本社から来てくださり,ありがとうございます
そう ,この人は西部長の会社のトップ,本社を率いている飯田社長だ ,昨日,おじに連絡した際,社長にこの件を伝えると言っていた ,俺の可愛い甥っ子に,とんでもないことをしでかして ,ちゃんと謝るように伝えておくからな ,と怒り混じりで叔父が言っていたが,まさか昨日の今日で本社の社長がやってくるとは思っても見なかった
叔父からどれだけ伝わっているかわからないので ,改めて俺の方から何があったか詳しく話させていただきます ,と西部長と関わって短期間の間で起こったことを余すことなく飯田社長に伝える ,俺の話を聞いた社長は血の気を失った顔で,西部長に怒鳴り声をあげた
君は取引先になんてことをしたんだ? こちらは仕事をお願いしている立場だぞ ,取引関係に上も下もない ,そもそも相手が誰であろうと見下していい理由にはならないぞ ,社会人として以前の話で,大人として身につけておくべき一般常識だ ,今まで君は何を学んできたんだ? 全て飯田社長の言う通りだ ,心の中で同意しながら,俺は厳しい意見を述べる ,はっきり申し上げまして,この方が相手では仕事になりません ,うちとの取引には二度と関わらないように手配をお願いします ,それと,支社は慢性的な人手不足で悩んでいると聞きました ,人員の補充対応をきちんとしてください
斎藤さんの悩みもこれで解決するだろう ,飯田社長は衷心な顔で俺の話を聞き頷いた ,承知しました ,すぐに対応します ,西は二度と御社に関わらせません ,というより,他の会社にも関わらせられませんね ,始末書と報告書の作成に加えて,厳しい処罰を下すつもりです ,広格と給料カットが妥当でしょ
え,しょ,処罰ですか?
と今まで泰然と黙っていた西部長が,処罰の言葉に反応して顔を上げる ,そんな部長に飯田社長は鬼のような形相で答えた ,当たり前だろう ,君のしたことを考えれば足りないくらいだ ,朝岡さんの部品を買い叩くなんて言ったらしいが,,買い叩けないから特許部品なんだぞ ,君のせいでうちのメイン商品が生産中止になるところだった ,ことの重大さを理解していないのか? 西部長が取引に関わらないのであれば,従来通り部品を下ろすと伝えてある ,しかし場合によっては本当に取引中止になった可能性もあるのだ ,と飯田社長からこのことを教えられ,ようやく理解したらしい ,西部長の顔色が青を通り越して白に変わった ,も,申し訳ありませんでした ,とぶるぶると震えながら俺に頭を下げる西部長
本当は許したくないが,これ以上話をこじらせるのも忍びない ,謝罪だけは受け取ろうとした瞬間,西部長がとんでもないことを口にした ,二度と失礼な口は聞きません ,なのでどうか処分だけはご勘弁を ,あなた,自分で何を言ってるか分かってます? と西部長は血の気を失った顔に涙を浮かべ,必死になって俺に迫る ,俺,最近家を買ったばかりなんですよ ,育てている子供もいるんです ,給料が減ったら生活がままならなくなります
ここに来てもなお自分の保身ばかり考えている西部長に,わずかに残っていた同情心が綺麗さっぱり消えるのを感じた ,あなたの事情なんてこちらは知りません ,悪いことをしたらバツを受ける ,子供でも知ってることですよ ,というか既婚者なのに,俺の妻を横取りしようとしたんですか? 救いのない人ですね
君にはさらに厳しい罰を ,そ,そんな,と西部長の顔が絶望に染まっていく ,しっかりバツを受けて心の底から反省してくださいね ,これがとどめになったようで,西部長はがっくりと肩を落とす ,俺と飯田社長はその様子を覚めた目で見ていた
西部長の処分は迅速に行われる ,当初言っていた通り,広格と給料カットの処分が下された ,そして飯田社長はさらに厳しい処罰を下す ,西部長を邊鄙な場所にある支社に移動させたのだ ,俺が住んでいるこの田舎以上に何もない場所らしい ,さらにその支社には厳しい支社長がいる ,部長の話を聞いた支社長は再教育の計画書を本社に提出し,飯田社長がこれを承認 ,西部長は支社長の元で,心身を削る日々を送っているとのことだ ,ちなみに奥さんは西部長の所行に呆れかれ,子供を連れて実家に帰ったらしい
ご希望でしたら今後も報告しましょうか?
いえ ,もう十分です ,答えをいただきありがとうございました ,と飯田社長はわざわざ俺に電話をかけて,その後の対応や西部長の詳細について教えてくれた ,十分すぎる内容だ
支社の人員補充を頼んだおかげで人手不足も解消されつつあり,最近の斎藤さんは明るい顔つきになっている ,色々あったけれど,終わりよければ全てよしとはこのことだ ,平和を取り戻した俺は,今日も田舎の工場で一生懸命仕事に励んでいる


