暗い路地裏から、かすかに聞こえた声。最初は聞き間違いかと思った。しかし、その声は確かに女性のものだった。強い拒絶の色を帯びながらも、震えを隠せない声。俺の体は考えよりも先に動いていた。
「何してる!」
路地裏にいた男に向かって叫んでいた。男は小柄な女性の手首を掴み、無理やり連れ去ろうとしている。
「この人から離れろ」
俺の言葉に男は一瞬ひるんだものの、取り繕うように笑った。
「関係ない人は引っ込んでてください。これは僕と彼女の問題で」
「嘘つかないで。私のことつけ回してたくせに」
女性の言葉に男の顔色が変わった。俺は持っていたビニール袋から缶ビールを取り出すと、男の腕めがけて思い切り投げつけた。鈍い音が響き、男は腕を押さえてその場に座り込む。俺はその隙に女性を背中に庇った。
男は情けない声を漏らしながら立ち上がると、何も言わずに走り去っていった。
「あの、ありがとうございました。おかげで助かりました」
振り返ると、まだ怖そうな表情の女性が頭を下げていた。20代前半といったところだろうか。小柄で、服装は少し派手めなのに、言葉遣いはしっかりとしていた。ただ、その体の細さが気になった。ガリガリと言ってもいいほど痩せ細っている。
「大丈夫か? 何かされたりした?」
「大丈夫です。あなたが来てくれたおかげで、他には何も」
そう言って微笑む。怖い思いをしただろうに、無理に笑おうとしているのが分かった。そんな姿を見ていると、胸の奥に何とも言えない苦しさが広がっていく。
次の瞬間、空腹の音が路地裏に響いた。女性の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「なかなか豪快な音だったな。腹減ってるのか?」
気まずそうに小さく頷く姿が、小動物のようで愛らしかった。
「うちに来るといい。まだまだな腕前のラーメン屋だけど、ご馳走するよ。体も温まるだろうし」
彼女の名前は新島花。19歳で、専門学校に通っているが現在は休学中だと言う。母親と近所に住んでいるが、今は母親が旅行中で一人で留守を預かっているらしい。いつもより少し遅くまで出かけていたら、帰りに先ほどの男に跡をつけられたそうだ。
ラーメンを出すと、花は小さな声で「いただきます」と言って食べ始めた。無言で食べる様子から、相当な空腹だったことが伺えた。俺は言葉を飲み込み、後片付けをしながら花が食べ終わるのを待った。
ラーメンを食べ終えた花は、改めて礼を言った。顔色も先ほどよりは良くなっている。
「あの、お金、払わないと」
「そんなこと気にするな。俺が勝手にやったことなんだから」
「でも、しばらくお金の都合がつけられなくて」
そう言って俯く花の声は、泣きそうだった。何か事情があるのだろう。俺の口から言葉が飛び出していた。
「だったら、うちで働くといい」
驚いて顔を上げた花の瞳から、涙がこぼれ落ちる。親の留守を預かっているだけの俺にそんな権限はないが、この弱々しい少女を放っておくことはできなかった。
「まあ、両親が帰ってきたら改めて相談する感じになるけど、それでもよければ」
「はい。もちろんです。本当にありがとうございます」
「って言っても、うちも儲かってるわけじゃないから、大して給料は上げられないかもしれないけどな」
「働かせてもらえるだけで嬉しいです。私、佐々木さんには絶対迷惑かけたくないから。だから頑張ります」
花の表情は真剣そのものだった。俺はその気迫に少し面食らいながらも、「ああ、よろしく頼む」と返すのが精一杯だった。
花が働き始めて数日が経った。最初はかしこまっていた彼女も、少しずつ打ち解けていった。派手な服装も次の日からはシンプルなものに変わり、働く姿は真面目で明るかった。ガリガリだった体も、まともな食事のおかげで少しずつ元に戻りつつあるように見えた。
ある日、頭を抱えてうなっている俺に、花が遠慮がちに話しかけてきた。
「佐々木さん、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
「どうしたんだ? 休みが欲しいとかなら全然問題ないぞ」
「違うの。あのね、お店のテーブルとか、少し雰囲気変えてみない?」
花の提案は、テーブルや椅子の色を変えるというものだった。年配の客には暗い色だと境目が分かりにくいらしい。リメイクシートを使えば、買い替えるよりずっと安く済むと言う。
「花は色々知ってるんだな」
「私ね、昔からそういうのが好きなの。インテリアデザイナーになりたくて勉強してたんだけどね」
「そういうのを仕事にしようとは思わなかったのか」
俺の言葉に、花は困ったような笑みを浮かべた。何か言いたげだったが、すぐに店の話に戻ってしまった。
二人で作戦会議をして、現実的な価格の範囲でプランを組み立て、すぐに作業を始めた。出来上がった内装を、花が写真に撮ってもいいかと聞いてきた。何の記念になるのか不思議に思いつつも、俺は了承した。
それからだろうか。少しずつだが、客が増えた気がする。
ある日のことだ。店の前の道に差しかかると、異様な光景が広がっていた。百人を超える行列ができている。この辺りでは見かけないような、お洒落な格好をした若者たちばかりだ。信じられない光景に呆然としていると、店の入り口で俺に向かって手を振る花の姿が見えた。
その日は目が回るような忙しさだった。閉店後、ぐったりと椅子に座っていると、花がスマホの画面を見せてくれた。有名なSNSサイトに投稿された、うちの店の写真だった。
「花が撮ったあの写真か?」
「うん。元々はデザインの勉強中に色々投稿してたアカウントなんだけど、この前完成した内装を投稿したら、みんなが広めてくれたんだ」
「そうか。じゃあ全部花のおかげなんだな」
「そんな、私は全然」
「謙遜するな。ありがとう、花」
俺の言葉に、花の頬が薄っすらと赤く染まった。思わず花の頭をポンポンと叩くと、慌てて手を引っ込める。
「あ、すまん」
「謝らなくていいのに」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもない。まだ残ってるどんぶり洗ってくる」
そう言うと、花はさっと立ち上がって洗い場へと行ってしまった。
行列ができた日から、店は連日大盛況だった。この忙しさは、両親が長年作り続けたラーメンの味と、花が考えてくれたレイアウトのおかげだ。俺一人では、こんな奇跡は起こせなかっただろう。
花と一緒にいる時間が増えるにつれて、俺は無意識に花を目で追うようになっていた。あの時の作戦会議のように、二人でああでもないこうでもないと話していた時間が楽しかった。
だが、幸せな変化ばかりではなかった。備品を買うために出向いた都心の商店街で、偶然にも花の姿を見かけた。清楚なワンピースを着た花は、見たこともないくらい可愛らしかった。しかし、その隣にはスーツ姿の男性がいた。二人は楽しそうに話しながら、人混みの中へ消えていった。
俺はショックを受けていた。最初は、娘に彼氏ができた父親のような感覚かと思ったが、違った。俺は花のことを、一人の女性として見ている。19歳も年が離れているのに。
その思いには蓋をして、花と距離を取り始めることにした。
しかし、それだけでは終わらなかった。別の日、今度は地元の駅前で、花が先日とは全く別の男と会っているところを見かけた。四十代くらいのサラリーマンから何かを受け取り、住宅街の方へ歩いていく。共通点は、年上のサラリーマンということくらいか。俺はある可能性に思い至り、花を追いかけた。
「おい、花」
戸惑う花を連れて店へ戻り、問いただす。
「あの男とどういう関係だ?」
花の顔色がさっと変わった。しかし、答えない。
「この前も別の男といるのを見かけた。何かやばいことでもしてるのか?」
「ち、違う。そんなんじゃ」
「なら、ちゃんと説明してくれ。俺は花の保護者じゃないが、花のことが心配なんだ」
花は泣きそうな顔で話し始めた。男の人とお茶をしたりご飯を食べたりして、お金をもらうバイトをしていると。初めて会った日、花を襲ってきたあの男も、そういう相手だったらしい。
「何に必要なんだ?」
「デザインの勉強のために、留学資金を貯めるためです」
「そうだったなら、言ってくれればいいのに」
「佐々木さんに迷惑かけたくなくて」
花の言葉は揺れていた。俺は今すぐ抱きしめてやりたい気持ちを抑えながら言った。
「俺が迷惑だなんて思うわけないだろう。給料はアップするから、今すぐそのバイトはやめるんだ」
「でも、それじゃあお店の負担に」
「今こうして売上が増えたのは、花が提案してくれたリフォームのおかげなんだ。その立役者に礼をしなかった俺の不手際だ。すまなかったな」
「佐々木さん」
「というわけで、小遣いアップだ。おめでとう」
俺が笑ってそう言うと、ようやく花も笑顔を見せてくれた。やっぱり花には笑顔が似合う。花の笑顔を守ってやりたい。できることなら、恋人として。そんな気持ちでドキドキする心臓を抑えながら、俺はそう決意したのだった。
それから数日は平穏だった。店の賑いは変わらず、花は仕事の合間にデザインの勉強にも取り組んでいた。俺は店の奥にあった物置き部屋を片付け、花が自由に使えるようにすると、花はとても喜んだ。休みの日にも店に来ては、その部屋にこもってスケッチブックに向き合っていた。
そんな日々が続くと思っていた。しかし、現実はもっと辛い出来事を運んできた。
この日、食材の買い出しから帰る途中、ふと見かけた男の姿に一瞬にして体が硬直した。体中から汗が吹き出し、息が荒くなる。心臓の音が頭に響くほど速く打っている。俺が見間違うはずがない。あいつだ。かつて俺が追っていた男、悪悟だった。
俺は無意識に男の跡をつけていた。男は駅前に到着すると、ある人物と合流した。どうして花が? 俺が追っていた男と話しているのは、花だった。何やら話した後、男が花に封筒を渡している。
花は店の方へ、男は駅の方へ歩いていく。男を追おうとしたが、ちょうど電車が到着したのか、駅から人が大勢やってきて、男は人並みの中へ消えてしまった。
その日の営業を終えた後、俺は花に問いただした。
「また危ないバイトをしてるのか?」
「してない。だって佐々木さんと約束したもの」
「じゃあ、夕方会っていた男は誰なんだ?」
花は言葉をつまらせた。
「知らない。ただ道を聞かれただけで」
「嘘をつくな」
気がついた時には、俺は花に向かって怒鳴っていた。あの男が危険なんだと伝えようとした時、花は俯き、肩を震わせていた。そして次の瞬間、俺をきっと睨みつけてきた。その瞳には涙が浮かんでいる。
「なんで話を聞いてくれないの? それに、嘘なら佐々木さんだって嘘ついてるじゃない」
「何を言って」
「本当はラーメン屋じゃないくせに!」
その言葉に、俺は息を飲んだ。初めて見る花の姿に、俺は言葉を失う。花は怒っていた。
「もういい!」
そう叫ぶと、花は店を飛び出してしまった。
「あ、おい!」
慌てて追いかけたが、もう花の姿はなかった。花の話を聞かず、自分の考えだけで突っ走ってしまった。俺はあの頃から何も進歩していない。後悔しても、もう遅かった。
その日から、花は店に現れなくなった。預かっている連絡先の番号にかけても、繋がらない。店は相変わらず繁盛していたが、俺の胸にはぽっかりと穴が開いたような喪失感が広がっていた。
昼の営業を終えた後、うなだれて椅子に座っていると、突然店の入り口が乱暴に開かれた。入ってきたのは、一人の女性だった。
「花! さっさと出てきなさいよ!」
「ちょっと、やめてください」
騒ぐ女性を制止すると、その女性が鋭い目で俺を睨みつけてきた。
「あなたがここの店長? うちの娘をさっさと呼んできてちょうだい」
「娘? まさか、花さんの親御さんですか?」
女性は鼻を鳴らすと、短く「そうよ」と答えた。確かに目元が花と似ている。しかし、その美貌も、目の下のくまや苛立ちのせいで影を潜めていた。そして何より、出会った時の花と同じように、彼女も痩せ細っていた。
「旅行から帰ってきたらあの子がいないから、探しに来たのよ」
花は家にも帰っていないのか。
「申し訳ありませんが、花さんは今日は出勤していません」
「ああ、もう本当にイライラさせるわね!」
花の母親は突然大声をあげたが、俺の顔を見た瞬間、顔を輝かせた。
「ああ、そうだ。あなたあの子の雇い主よね。それなら、あの子の給料渡してくれる?」
「は?」
「ここのお店、最近すごく人気なんでしょ? だったら給料もきっといいはずよね。それに、どっちにしたってあの子のお金は全部私がもらう約束なんだから」
その言葉に、俺は再び停止した。
「いきなりバイトやめたとか言い出して。相手の好きな格好してちょっとお茶して話すだけで、あんなにお金がもらえるのになんでやめたのかしら。あの子ったら本当に親不幸な娘よね。お兄ちゃんは怪我して入院して大変だっていうのに」
腹が立った。この人の話が本当なら、花は母親に渡すためにあんな危ないバイトをしていたことになる。
「帰ってください。ここに花さんはいないし、としても、あなたのような人間に彼女は渡さない」
ドスを含んだ俺の声に、花の母親は戸惑いの表情を浮かべた。俺は容赦なく彼女を外へ追い出した。
「とにかく、あの子が来たら家に帰るように言ってちょうだい」
「あんたのような親の元に返せるわけがないだろう」
そう言って、俺はドアをピシャリと閉めた。花はこれまで、働いた金を母親に取り上げられていたのか。俺に嘘をつくしかなかったのも、無理はなかった。俺は何も知らずに花を追い詰めただけだったんだ。
激しい後悔に襲われながら、俺は店の奥にある花が使っていた部屋を見つめた。動くんだ。花のために。俺は部屋に入ると、花が愛用していたスケッチブックが置かれているのを見つけた。何か手がかりになるかもしれない。俺はページをめくっていった。様々な年代の人を想定して書かれた、色々な部屋のデザインが続く。そして半分を過ぎた辺りから、人物画が現れた。かなり美化されているように見えたが、柔らかなタッチで描かれた俺の姿だった。仕事中の姿だけではなく、休憩中のだらしない姿まである。さらには、花に見せたことのない昔のスーツ姿まで描かれていた。
一体、いつの間に。何枚も描かれた絵を眺めていると、不思議と涙が出てきて視界がぼやけてくる。スケッチブックは七割くらい描かれていて、最後の方のページには今日の日付と十六時という時刻、そしてどこかの住所が書き留められていた。ここは隣町のマンション建設地だ。近隣住民とのトラブルで工事がストップされている場所だった。どう見ても、花がそんな場所に用事があるようには思えない。考えすぎならそれで構わない。だが、俺の勘が危険を告げている。
俺はスマホを手に取った。
「もしもし、ご無沙汰してます。佐々木です」
要件を伝え終えると、必要なものを準備して家を出た。時刻はすでに十五時を回っていた。
建設現場は静まり返っていた。本来なら固く閉ざされているはずのゲートが、少し開いていた。俺は静かにゲートを開け、中へと侵入する。日が落ち始めた建設現場は、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。いくつかの区画を抜けた後、広い空間に出た。薄暗い中、かすかに明りが差し込んでいる場所に、花の姿を確認した。
「花!」
「佐々木さん! 来ちゃだめ!」
花が叫ぶが、花の背後からあの男が姿を表した。
「やっぱりお前だったんだな」
「あーあ。久しぶりだな、佐々木さんよ。って、今はただのラーメン屋だったか」
「用があるのは俺のはずだ。その子は関係ない。さっさと解放しろ」
「関係ない? その割に随分仲良さそうじゃないか」
男はニヤニヤと笑いながら、何かを放り投げた。無機質なコンクリートの床に写真が散らばる。俺と花の姿が映っている。
「お前、今度は花を狙ってたのか?」
「まさかあんたのところで働いてるとはね。でも、ちょうど良かった。邪魔なやつも消せるし、花ちゃんも手に入れられるんだから」
そう言うと、男は花の顔をじっと眺めた。花は恐怖に怯えながらも、男の顔を睨みつけている。
「いいね、その強気な顔」
「花に触るな!」
俺は反射的に叫んで飛びかかろうとしたが、男の手にしたものを見て動きを止めた。鈍く光るナイフだった。
「こっちに来るなよ。今度は花ちゃんに当たっちゃうかもよ」
その光景に、半年前の記憶がフラッシュバックする。男がケラケラと笑った。
「情けねえよな。表彰とかもらってる優秀な刑事さんだったくせに、自分のせいで大事な相棒が大怪我したんだからさ」
半年まで俺は警察官だった。刑事部に所属していた。当時、ストーカー事件の犯人を追っていた。それが今目の前にいる男、悪悟だった。出会い系サイトで女性を探し、個人情報を盗んでつきまといを繰り返す。ある女性に対する監禁未遂事件で犯行が明るみになり、俺が担当になった。俺は次第に天狗になっていった。相棒の神崎に何度も忠告されていたにも関わらず、単独で張り込んで悪を追い詰めた。しかし、隙を突かれて反撃に遭った。刺されたのは俺ではなく、俺をかばった相棒の神崎だった。神崎が刺されたことで取り乱した俺は、そのまま悪を取り逃してしまった。そして今、花を危険な目に合わせている。
「そうだな。確かに俺は情けないやつだ。でも、そんな俺を仕留め損なっているお前は、もっと間抜けなんじゃないか」
「なんだと?」
「聞こえなかったか? お前は間抜けだって言ったんだ。ついでに付け加えてやる。女の子を盾にしなければ俺と勝負できない腰抜け野郎だってな」
「言わせておけば!」
怒りで顔を歪めた男が、すごい速さで俺に向かってきた。その手にはナイフが握られている。俺は持っていたカバンを胸の前に構えた。ドスッという音と共に、男のナイフがカバンに突き刺さった。
「なんで?」
驚き戸惑う男に、俺は言った。
「おしまいなのは俺じゃない。お前の方だ」
俺はナイフを握る男の手を掴み、外側へひねった。男のうめき声と共にナイフが落ちる。そのまま体重をかけて男を組み伏せた。体格も力も上な俺が抑え込めば、男は身動きが取れなくなった。
「くそ、放せ!」
「そのまま大人しくしてろ」
間もなく、外からサイレンの音が響いてきた。かつての同僚たちが駆けつけてくれた。悪を逮捕し、彼らに引き渡すと、「さすがだな」と声をかけられた。
「雑誌と鞄でナイフを防ぐとはな」
「すごいっす、佐々木さん!」
「ようやく悪を逮捕できた。佐々木のおかげだ」
「いえ、俺がしたことなんて大したことじゃありません。むしろ、みんなに迷惑をかけてしまって」
「そんなことないさ。それに、こうしてお前自身がけじめをつけたんだ。神崎だってそう思ってるはずだ」
その時、後ろから声が聞こえた。
「佐々木さん」
花だった。怪我はないかと尋ねると、花は首を振った。
「大丈夫。佐々木さんが助けに来てくれたから」
そう言うと、花は涙をこぼした。俺は少しためらいながらも、花の肩を優しくさすった。
「店に花のお母さんが来て、事情を知ったよ。俺の考えが足りず、花のことを傷つけて、本当にすまなかった。それに、花に嘘をつくなと言っておきながら、俺にも隠していたことがあったんだ。それも謝る。本当にすまなかった」
俺は花に向かって頭を下げた。しかし、花はゆっくりと首を振った。
「私の方こそ、勝手に怒って飛び出して迷惑までかけてごめんなさい。お母さんのこともごめんなさい。でもね、私知ってたの。佐々木さんが刑事さんだって」
「え?」
「私のお兄ちゃんも警察官なんだ。すごい刑事さんがいるんだよって話してくれて、その人と同じ部署に配属されて一緒に仕事をするようになってすごく喜んでた。だから、会ったことはなくても、私佐々木さんのことをよく知ってたの。まさか本人が地元の駅前でラーメン屋の宣伝をしてるなんて思いもしなかったけど」
そう言って花はクスクスと笑った。花のお兄さんも俺と同じ刑事で、神崎というらしい。結婚して妻の姓になったと言う。
「あの神崎か」
「うん。お兄ちゃん、早く復帰してまた佐々木さんとバディを組むんだって、リハビリ頑張ってるんだよ。もう少しで退院できそうなの。だから、今度佐々木さんも私と一緒にお見舞いに行こう」
「そうか。そうなのか」
花の言葉を聞いて安心すると共に、涙が自然と溢れてきた。俺のせいで怪我までさせたのに、神崎はそれでも俺とまた組みたいと言ってくれている。まだあいつに必要とされていることが、嬉しくて、ほっとして、止めどなく涙が溢れてくる。そんな俺の手を、花は優しくぎゅっと握ってくれた。その温かさが、俺の心にまで染み込んでいくようだった。
「今度一緒に行こう。約束だ」
「うん」
そう言って花と笑い合う。しかし、まだ問題は片付いていない。花の母親だ。
「花のことだが」
俺の言葉に、花は困ったような笑顔を浮かべた。
「うちね、お父さんが小さい頃に病気で亡くなって、お母さんが一生懸命働いて私たちを育ててくれたの。お兄ちゃんが入院してから精神的に不安定になっちゃって、時々ああやって荒れるから、私が支えなくちゃって思ってた」
「無理しなくていい。お母さんが大事なのは分かるが、それで花に何かあったら元も子もないだろう」
「私も今のままじゃダメだって分かってたの。でも、お母さんのことを一番に考えちゃってた」
「だけど、花が自分自身を守ることを後ろめたく感じる必要はないんだ。花一人で不安なら、俺も手伝うから言ってくれ」
俺の言葉に、花は顔を上げた。
「佐々木さんに頼ってもいいの? こんなに助けてもらってるのに、迷惑なんじゃ」
「迷惑なわけないだろう。俺は花のためなら、なんだってするさ」
「佐々木さん」
「俺は花のおかげで、誰かを守りたいと思えるようになった。警察官を目指した頃と同じ、心の強さを思い出させてくれた。そんな風に、俺も花の力になりたいんだ。だから、俺を頼ってくれ。そして、俺に花を守らせてくれ」
俺の言葉を聞き終わった花が、俺の首にぎゅっと抱きついてきた。俺の馬鹿力で花が傷つかないように、そっと花の体を抱きしめた。
あれから悪の逮捕はニュースでも報道された。花はあの日、もう会えないと断るために男に会いに行っていた。しかし男はそれを拒否し、以前撮った写真と、俺のラーメン屋に危害を加えるという脅迫文を封筒に入れて渡していた。指定された日時に、花は男に会いに行っていたのだ。結局は俺のせいで花を危険な目に合わせてしまったことに変わりはない。
「でも、ちゃんと私を助けに来てくれた。だから、佐々木さんは私のヒーローよ」
そう言って明るく笑ってくれた。この笑顔に、この優しさに、俺はこれから何度救われるのだろう。だからこそ、俺も彼女を守るためにもっともっと強くならなくては。改めてそう決意した。
花の母親は、花や神崎との話し合いの結果、一度離れて暮らすことになり、カウンセリングを受けながら少しずつ精神の安定を取り戻していった。俺の両親も長い夫婦旅行から帰ってきて、すっかり繁盛店へと変化した自分の店を驚きつつも、俺や花の頑張りを心から喜んでくれた。
そして俺は地元を離れ、刑事として復帰した。かつての仲間たちは、俺のことを歓迎してくれた。花に思い出させてもらった。誰かを守りたいという大切な初心を胸に。
それから数年後、復帰した神崎と共にたくさんの事件を解決し、俺は警部としてチームを率いていた。来月には神崎の家族と一緒に小旅行に行く予定だ。花も、あれから専門学校に復学し、インテリアデザイナーとして猛勉強を重ねた結果、その抜群のセンスが認められ、今では有名なデザイナーとして名を馳せている。留学から帰ってきたその年に結婚し、来年の春には俺たちの元に新しい命が誕生する。
「ねえ、誠さん。赤ちゃんの名前、どうしようか?」
「そうだな。春生まれだし、女の子だったら花の名前から取って、はるかとか可愛いんじゃないか。男の子なら、誠さんの字からもらって、誠一郎とか」
二人で頭を寄せて、色々な名前を書き出していく。少し膨らみが分かるようになってきた花のお腹に手を添えると、その上から花の手が重なった。あの頃と変わらない温もりを感じながら、俺はこの幸せを噛みしめた。人は大切なもののためなら、いくらでも頑張ることができる。でも、一人きりで頑張るだけでは、いつかぽきりと折れてしまう。だから俺たちは、これから先も大切なもののために、二人で支え合いながら生きていこうと思う。



