雨の夜、最終に近い電車のドア隅で、私は自分のエプロンに染みついた油の匂いを気にしながら小さく息をしていた。六十三歳、週四日の総菜コーナー、夫を亡くして十年。なのにその日、家に帰って玄関を開けた瞬間、テレビの青い光だけが部屋を照らし、ソファには離婚して戻ってきた三十五歳の娘が転がっていた。私は何も言えず、弁当の容器を洗い、味噌汁を作るかどうかだけを考えた。その夜、郵便受けに入っていた市役所の封…

雨の夜、最終に近い電車のドア隅で、私は自分のエプロンに染みついた油の匂いを気にしながら小さく息をしていた。六十三歳、週四日の総菜コーナー、夫を亡くして十年。なのにその日、家に帰って玄関を開けた瞬間、テレビの青い光だけが部屋を照らし、ソファには離婚して戻ってきた三十五歳の娘が転がっていた。私は何も言えず、弁当の容器を洗い、味噌汁を作るかどうかだけを考えた。その夜、郵便受けに入っていた市役所の封...

六月の雨というのは、人を試すために降るのだと、いつからか草石はそう思うようになっていた。傘を差していても濡れる。コートを着込んでいても染みてくる。生ぬるくてしつこく、体の芯まで沁みてくる水気には、何十年生きても慣れることができない。夜の闇に溶けるようにして、笹井静枝の薄い背中を、今夜もじわりと濡らしていた。

午後六時十二分発、大宮駅行きの最終電車に近い時間帯。車内はまだ帰宅客で混み合っていて、吊り革を握る手がゆらゆらと揺れている。静枝はドアの隅に体を寄せ、ほんの少し肩を丸めながら、目線を窓の外の暗闇に向けていた。隣に立つ若い女がチェーン店のコーヒーカップを持ったまま小さくくしゃみをした時、静枝は無意識に数センチ体をずらした。自分のエプロンに染みついた揚げ物の油の匂いを、他人に嗅がせてはいけないと、そう思ったからだった。

空いている席はいくつかあった。でも静枝は座らなかった。座ると隣の人に匂いが届きやすくなる。ドアの隅に立っていれば、風が多少は逃してくれる。そういう計算が、何年もかけて体に染みついていた。誰かに教わったわけでもない。ただ、いつの間にかそうすることが当たり前になっていた。

ようこそ、私たちのポッドキャストへ。今日は埼玉の古い団地に暮らす、一人の女性の物語をお届けします。さえ草しずえ、六十三歳。夫を亡くして十年。今は埼玉市内の格安スーパーの総菜コーナーでアルバイトとして働いている。週四日、午前十時から午後八時まで。揚げ物、煮物、総菜の盛り付けと値付け、閉店前のパック詰め。立ち仕事の八時間は、六十三歳の体には決して軽くはないが、彼女は一度も遅刻したことがなかった。それどころか、いつも十五分早く更衣室に入り、エプロンの紐を丁寧に結んでから、消毒液で六十秒かけて手を洗う。規定時間は三十秒だが、彼女は自分で決めた基準で動いていた。

背中はやや丸まっている。何年も総菜に向かって前傾姿勢でいたせいで、意識しなければ自然と首が前に出る。手のひらは乾燥してひび割れており、指の付け根には油の古い跡が薄く残っている。でも爪は短く切り揃えていて、汚れはない。目は細くて鋭いが、滅多に相手の目を正面から見ることがない。何かを話す時、静枝の視線はいつも相手の口元か、あるいはその人の肩の少し下あたりを漂っている。見ていないわけではない。ただ、真正面から見ることが何かを要求しているように思えて、気が引けるのだった。

眠れない夜が続いていた。午前三時になると、決まって胸がドキリと打って目が覚める。何かの夢を見ていたわけでも、物音がしたわけでもない。ただ心臓が一度大きく脈打って、それで意識が引き戻されてくる。その後はもう眠れない。薄暗い天井を見つめながら、頭の中で今月の支出を計算し直す。食費、水道代、電気代、健康保険料、そして娘の携帯料金。数字を足したり引いたりしているうちに夜が明けて、また布団を畳んで一日が始まる。

ドアが開いた。武蔵浦和の駅だった。乗客が数人降り、入れ替わりに何人かが乗り込んできた。静枝はドアが閉まるまで少し体を引き、それからまた元の位置に戻った。車窓の外は黒く、雨粒が斜めに流れている。その時、静枝はふと気づいた。今日の夕飯のことを考えていなかったと。

朝、出かける前に炊飯器に米をセットしておいた。おかずは何があるだろうか。冷蔵庫の中には昨日買ったキャベツと、賞味期限が今日までの木綿豆腐がある。あと棚の奥に煮干しが少し残っていたはずだ。味噌汁が作れる。ご飯と味噌汁と、キャベツを炒めるか。でも、帰ったら今夜は誰がいるだろうか、という考えが浮かびかけて、静枝はそこで思考を止めた。考えたくないことは考えない。そのための訓練を、この四ヶ月で随分積んだ。

武蔵大門を過ぎ、別所沼公園の近くを通る頃、電車が少し速度を落とした。夜の公園は暗く、街灯だけが点々と光ってベンチの輪郭を浮かばせている。雨の中に人影はもちろんない。静枝は視線を車内に戻した。座席の端に、七、八歳くらいの子供が眠っていた。ランドセルを膝に乗せたまま、母親らしい女性の肩に寄りかかって、口を少し開けて眠っている。母親は携帯電話を見ながら、もう片方の手で子供の背中を無意識にさすっていた。静枝はそれを二秒ほど見て、また目をそらした。

電車がホームに滑り込んだ。終点ではないが、静枝の降りる駅だった。改札を出て商店街のアーケードを抜けると、すぐに雨の本降りになった。傘を広げ、静枝は古い団地の方向へ歩き出した。住んでいる団地は昭和の終わりに建てられた公営住宅で、外壁のコンクリートは年月でくすんで黄ばんでいる。棟と棟の間に街灯が一本、ぼんやりと光っている。雨の中敷地に入ると、湿った土の匂いとどこからか流れてくる柔軟剤の匂いが混じり合う。建物の出入り口の軒下で、静枝は傘を閉じた。雨粒が傘の布を叩く音が、急に静かになった。

エレベーターのボタンを押す。三階。扉が開いて閉まるまでの十七秒間、静枝は手提げ袋を両手で持ち直した。廊下に出ると、隣の部屋の前に何日か前からダンボールが積まれたままになっているのが目に入った。一〇一号室の岡村さん。七十四歳の男性が、今月初めに入院したと管理人から聞いた。身内が荷物を引き取りに来るのか来ないのかも、まだ分からないという話だった。静枝はそのダンボールをちらりと見てから、自分の部屋のドアに向かった。

鍵を差し込む前に、ドアの隙間から光が漏れていないかを確認した。玄関の電灯はついていないようだった。でも奥から、青白いテレビの光がチラチラと漏れ出していた。

ドアを開けた。玄関は暗い。靴が散らばっている。静枝のパンプスの隣に、雑に脱ぎ捨てたようにスニーカーが二足、無造作に置かれていた。靴べらは使われていない。リビングに続く引き戸は半開きで、テレビの音が低く流れている。バラエティ番組か何かで、笑い声が時折飛び出してくる。静枝は靴を脱ぎ、靴を揃えて端に置いた。上着を脱ぎながら、そろそろと引き戸を引いた。

部屋の電気は消えていた。テレビだけが明るく、青白い光がソファを照らしている。ソファには人が横たわっていた。娘のさゆりが、膝を曲げ、クッションを抱いて転がっていた。三十五歳、去年の秋に離婚して、その翌月には勤めていた事務の仕事も失い、四ヶ月前にここへ戻ってきた。ソファの前のコーヒーテーブルの上には、コンビニの弁当の容器が二つ、蓋を開けたままで置かれていた。割り箸がその横に落ちている。ペットボトルのお茶も蓋を開けたまま、斜めに傾いていた。テレビの中でまた笑い声が起きた。

静枝は、さゆりが起きているかどうか顔を確認しなかった。確認して目があった時、何を言えばいいか分からなかったからだ。台所に行き、エプロンを外して洗濯機のそばに置いた。手をもう一度洗い、コーヒーテーブルの容器を持ってきて台所の流しに置いた。容器を水で注ぎ、汚れを落とす。プラスチックゴミとして出せるように、綺麗にしておかなければならない。静枝の住む団地では、分別が細かく決まっている。

容器を洗いながら、静枝は今夜の献立のことを考えた。もう遅い。味噌汁を作って、炒め物をして、それだけでいい。簡単なものでいい。でも、二人分作るべきかどうか、という問いが浮かんで、また止まった。作る。それだけ決めた。鍋に水を入れ、火をつけた。煮干しを一つ入れる。キャベツを取り出して、まな板の上に置いた。包丁を握る。六十三歳の手でも、しっかりと包丁を持てる。細かく刻んでいく。規則正しい音が台所に響く。冷蔵庫に昨日の残りのご飯があった。温め直せばいい。

さゆりがソファから起き上がる気配がした。足音。それから洗面所に向かったらしく、水道の音がした。静枝はキャベツを刻み続けた。五分後、さゆりが台所の入り口に立った。頬に枕の跡がついている。目は腫れぼったく、一日中眠り続けていたような顔をしている。

「今日は?」さゆりは母親の背中を見て、「お帰り」と短く言った。

静枝は火の加減を調節しながら、「ただいま」と返した。それだけだった。さゆりはコップに水を汲んで飲み、またソファの方に戻っていった。テレビのチャンネルが変わった。今度は旅番組らしく、アナウンサーの声が聞こえてくる。静枝は味噌汁の火を止め、キャベツを炒め始めた。フライパンを温め、サラダ油を薄く引き、塩を一つまみ。シン、と音がして、キャベツが熱を受けてしんなりしていく。醤油を少し。

いつからこうなったのだろうと思う間もなく、手は動いている。夕食を二人分、皿に盛り、テーブルに並べた。さゆりを呼ぶと、のそのそとやってきて、「いただきます」と言わずに箸を持った。静枝は自分の分を少し少なめに取り分けて、向かい側に座った。テレビは旅番組から料理番組に変わっていた。誰かが大きなフライパンで炒め物をしている映像が流れている。食卓に会話はなかった。箸を動かす音とテレビの音だけが、静かに部屋に満ちていた。

静枝は食べながら、こっそりとさゆりの顔を見た。頬がこけている。四ヶ月前に戻ってきた時より、さらに痩せた気がする。目の下のくまが濃い。シャワーはいつ入ったのだろうか。口を開きかけた。でも何を言えばいいのかが分からなくて、静枝は箸を味噌汁の椀の上に置いた。聞けば傷つく。黙っていれば何かが腐っていく。どちらも正解ではないとは分かっていながら、静枝はいつも沈黙を選んでいた。

食事が終わった。さゆりが自分の食器を流しに運ぼうとしたので、静枝は「いいよ、置いておいて」と言った。さゆりはまた何かを言いかけて、やめた。食器を洗い、台所を拭き、炊飯器の保温を切った。時計を見ると、十時を少し過ぎていた。明日は朝六時に起きて、午前中のうちにベランダの掃除をして、午後から出勤。規則正しい生活を崩さないこと。それが静枝の信念だった。乱れた生活は、乱れた精神を呼び込む。

寝る前に郵便受けを確認するのを忘れていたと気づいたのは、歯を磨いている時だった。玄関に戻り、上着を羽織って廊下に出た。エレベーターを使わずに階段を下り、一階の郵便受けまで歩いた。雨はまだ降っている。廊下の端の方に雨が吹き込んで、コンクリートの床が濡れていた。郵便受けのダイヤルを回して開けると、中に何か入っていた。電気代の請求書、スーパーのチラシ、生命保険会社からのDM。そして一番奥に、少し厚みのある封筒が一通。市役所からだった。表面に赤いスタンプが押してある。「重要」と書かれていた。

静枝は封筒を持ったまま、郵便受けのところにしばらく立っていた。開けるべきかどうか、という問いが頭の中で一瞬浮かんだが、それはすぐに消えた。開けなければ、もっと悪い。封筒を開けた。A4の用紙が二枚、折りたたまれて入っていた。広げると、縦書きの文字がびっしりと並んでいる。懸命老朽化に伴う住宅建て替え計画のご通知について。静枝の目が文面を追った。

最初の一節は行政文書特有の周りくどい書き方で、市の住宅行政の方針と老朽化した公営住宅の建て替え計画について書かれていた。二節目でようやく本題が出てきた。この旅丸団地につきましては、建物の老朽化及び耐震基準への不適合を受け、令和九年十二月末日を持って閉鎖解体する予定となりました。現在ご入居の皆様には、令和九年十二月以降、退去していただく必要がございます。

静枝はそこで一度目を上げた。廊下の端に、さっき見た濡れたコンクリートがある。雨の音がしている。郵便受けの列が、薄暗い廊下に並んでいる。何も変わっていない。全部、さっきと同じだ。なのに、手元の紙一枚が、全てをひっくり返しているような気がした。

続きを読んだ。転居支援金として、一世帯あたり五十万円を上限とした引っ越し補助を予定しております。なお、新たな住居の確保については、各世帯の事情に合わせて市の住宅相談窓口をご利用ください。ただし、住宅の斡旋・保障については市は責任を負いかねますので、あらかじめご了承ください。

五十万円。静枝の頭の中で、その数字が止まった。引っ越し代だけで軽く三十万はかかる。エレベーターなしの物件を探せば少し安くなるかもしれないが、荷物を搬出して搬入して、また新しい家に落ち着くまでの費用を考えると、五十万では足が出るかもしれない。それに六十三歳で今から新しく民間の賃貸を探すとなると、入居審査が通るかどうか。保証人は誰に頼む?さゆり、すぐに名前が浮かんだ。でもその名前は、すぐに空中で溶けた。さゆりは今、無職だ。離婚して、仕事もない。保証人には使えない。

髪が静枝の指の間でかに揺れた。廊下に風が吹き込んでいた。六月の夜風は湿めっていて、少しだけ冷たかった。静枝はその場に立ったまま、封筒を胸元に引き寄せた。預金通帳の残高が頭の中に浮かんだ。数字は正確に覚えている。静枝はいつも数字だけは正確に記憶する癖があった。夫が死んでから、毎月の収支を手帳につけてきた。食費、光熱費、医療費、雑費。全部、小数点以下まで記録してある。今の残高では、敷金と礼金を合わせた初期費用を払って引っ越して、また新しい生活を始めるだけの余裕はない。

四ヶ月前、さゆりが戻ってきた時、離婚調停の弁護士費用を出した。一回だけと思って出した。でもそれが予想よりずっと大きな額になった。通帳から引き出すたびに、静枝は手帳に金額を記録した。記録することでしか、気持ちを整えられなかったから。そのお金を出した時、これで娘がまた立ち直れると、そう思っていた。でもさゆりは今日も、コンビニ弁当の蓋を開けたまま、テレビの前に横になっていた。

静枝は長い間、廊下に立っていた。雨の音が続いている。隣の棟の窓が二つ、灯っている。誰かの家では今もテレビがついていて、誰かが笑っているかもしれない。あるいは、同じような封筒を握りしめている誰かがいるかもしれない。体が少しだけ重くなった。「疲れた」という言葉が浮かんだが、静枝はそれを飲み込んだ。疲れたと言えば、誰かに聞かせることになる。聞かせれば、気を使わせる。気を使わせることは、迷惑をかけることだ。

静枝は封筒を折りたたんで、通知の用紙ごと上着のポケットに押し込んだ。それからしっかりと郵便受けの鍵をかけた。鍵が小さくカチリと音を立てた。ゆっくりと階段を登った。踊り場に立つと、窓の外に雨が見えた。街灯の光の輪の中を、白い雨粒がまっすぐに落ちている。静枝はしばらくそれを見ていた。二秒か三秒か。それから、目を引き剥がすように視線を外して、また階段を登り続けた。

自分の部屋のドアを開ける。玄関は暗い。リビングからはまだテレビの音がしている。さゆりは寝たのか、起きているのか分からない。静枝は上着を脱ぎ、ポケットから封筒を取り出した。そのまま玄関横の引き出しの一番奥に押し込んだ。引き出しの中には、夫の遺影の写真と古い通帳と火災保険の証書が入っている。それらの間に封筒を差し込んで、引き出しを閉めた。見なかったことにはできない。でも、今夜は考えない。寝室に入り、ベッドの横に敷いてある布団に横たわって、しばらく天井を見た。天井のシミが、いつもと同じ場所にある。夫が死んだ翌年から気になっていたシミで、十年経っても同じ形のままだ。広がることも、消えることもない。

布団をかぶった。目を閉じる。眠れるはずがないとは思っていても、目を閉じるしかない。午前三時になれば、また心臓がドキリと打つだろう。そうしたら、今度こそあの封筒のことを考えなければならない。今夜だけは、それを猶予してほしい。自分の内側のどこかに向かって、そう頼みながら、静枝は暗闇の中に沈んでいった。雨の音だけが、窓の向こうで鳴り続けていた。

六月の最終水曜日の朝。静枝は午前九時四十五分にスーパーの更衣室に入った。ロッカーの前で私服の上着を脱ぎ、折りたたんでロッカーの棚に置く。制服のエプロンを取り出し、腰紐を後ろで結ぶ。紐の端が左右同じ長さになるように、一度解いて結び直す。手を洗う。三十秒ではなく六十秒。親指の付け根、指の間、爪の際。消毒を手のひらに受けて、擦り合わせる。アルコールの匂いが鼻を刺す。更衣室にはもう一人、別の従業員がいた。惣菜コーナーの浜田さん、五十一歳。元々総菜コーナー担当で、最近は棚卸しの仕事も兼ねているらしく、いつも腕に在庫管理のタブレットを巻きつけている。

浜田さんは静枝が入ってきた時、鏡の前でヘアネットを被りながら、「さえ草さん、おはようございます」と言った。静枝は「おはようございます」と返した。丁寧語で。浜田さんとはもう三年以上一緒に働いているが、静枝は一度もタメ語で話したことがない。浜田さんが鏡越しに静枝の顔を見た。「なんか疲れてない?昨日も遅かった?」静枝は「少し眠れなくて」と言いかけて、「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」と言い直した。浜田さんはそれ以上聞いてこなかった。人の事情に踏み込まないのが、この職場の暗黙の礼儀だと、みんな分かっている。

静枝は更衣室を出て、総菜コーナーのカウンターに入った。午前中は揚げ物の仕込みと、昼前の商品補充が主な仕事だ。鶏の唐揚げ、コロッケ、ちくわ揚げ。油の温度を確認して、タイマーをセットして、一つ一つ丁寧に揚げていく。揚げ物の音は好きだった。じゅわっと油が泡立つあの音は、何かが動いている音で、自分がここにいる理由を確認させてくれる音だとなんとなく思っていた。午前十一時前、コロッケの二バッチ目を揚げて、静枝は油切りのトレイに並べた。熱がじわりと腕に伝わってくる。ここ数日、揚げ物の熱が少しだけ長く残る気がしていたが、気にしないことにした。

午前十一時三十分、フロアチーフの久保田が総菜カウンターのそばを通った。久保田は今年二十八歳になる主任代理で、いつもタブレット端末を小脇に抱えて歩いている。立ち止まって画面を見て、また歩く。立ち止まる。その繰り返し。静枝は彼が通り過ぎる前に、一歩前に出た。

「久保田さん、少しよろしいでしょうか?」
久保田は立ち止まり、タブレットから目を上げた。「はい。何ですか?」久保田の声は、感情の起伏が少ない。悪意があるわけではないが、温かみもない。最初の頃はその話し方を、仕事のできる若い人はみんなこういう話し方をするのだろうと受け取っていたが、今はただそういう人なのだと思っている。静枝は小さく頭を下げてから、「あの、シフトの件なのですが。もし可能であれば、今月から週に二日ほど増やしていただけないかと思いまして」と言った。

久保田は静枝の顔を見た。少し間があった。「さえ草さん、今の週四日のシフトですよね?」
「はい。できれば週六日に」
久保田がタブレットの画面を一度指でなぞった。「ちょっと難しいですね。難しいというのは、人員の問題です」久保田は続けた。「今年度から夜間のレジは全部セルフに切り替わりましたよね。それで夜間の人員が大幅に減って、今は昼間のシフトに余裕が出てる状態なんです。正直、今のシフトを維持するのも本部から圧力がかかってる状態で」
静枝は「そうですか」と言った。それ以外に言葉が出なかった。久保田はさらに続けた。「来月から、さえ草さんのシフトから水曜日を外させてもらうかもしれません。申し訳ないんですが、週三日になる可能性があります。本部からのコスト削減指示で、うちだけじゃなく全店舗で調整が入っていて」
静枝の手が、エプロンの裾をわずかに握った。指先に少し力が入っただけで、それ以外は何も動かなかった。「わかりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ急な話で」久保田は画面を見ていた。「詳細が決まったら連絡します」それだけ言って、久保田は歩き去った。タブレットの画面が、廊下の蛍光灯を反射して光った。

静枝はカウンターに戻り、手元のトレーに並んだコロッケをラップで包み始めた。一個ずつ、丁寧に形を揃えて包む。手は動いている。頭の中では計算が始まっていた。週四日が週三日になると、月の手取りがどのくらい減るか。税引き後でいくらか。国民健康保険料は。電気代は今月いくらか。数字は残酷なほど正確に、積み上がっていく。

閉店は午後八時だった。静枝のシフトは八時で終わるが、その日は片付けが長引いて、フロアを出たのが八時二十分になった。更衣室で制服を脱ぎ、私服に着替えながら、静枝は頭の中で今夜の夕食を考えた。朝、家を出る時に冷蔵庫を確認した。豆腐は昨日使い切った。キャベツは少し残っている。卵が二個。味噌が少なくなっていて、次に買わなければならない。

着替えを終えて更衣室のドアを開けると、売り場の空気が流れ込んできた。閉店間際の、少し静まり返った空気だ。BGMが切り替わって、閉店を知らせるゆったりとした音楽が流れ始めている。静枝は総菜コーナーのそばを通った。ちょうど若い男性アルバイトが、値引きシールを貼り始めるところだった。半額。閉店間際の値引きは、毎日決まった時間に行われる。何年もここで働いていれば、大体いつ始まるか分かってくる。でも静枝が値引き品を買い始めたのは、ここ三ヶ月のことだった。それ以前は、待って買うことはしなかった。時間が惜しいというより、そういうことをする人間に見られたくなかった。でも今は、惜しいと思う気持ちより、数字の方が先に来る。

売り場には、閉店を待っていた客が何人かいた。白髪の老夫婦、エコバッグを持った中年の女性、ジャージ姿の若い男。みんな少し距離を取りながら、シールが貼られるのを見ている。静枝は少し遠くに立っていた。同じ職場の人間に見られたら困る、という気持ちはまだ残っていた。でも今日は、それより先に動けなかった。若い男性アルバイトが、のり弁当のパックにシールを貼った。それから幕の内弁当。それから唐揚げとご飯のセット。静枝はゆっくりと近づいて、幕の内弁当を一つと、もう一つ豆腐とひじきの小鉢を取った。合わせて四百七十円が、二百三十五円になる。

レジに向かいながら、自分がエコバッグの底の方に商品を入れたことに気づいた。上に別の荷物を重ねて、中身が見えにくいようにした。そうしながら、どうしてこんなことをしているのかと思ったが、手はもう動いていた。レジを通りながら、バイトの子がいつも通り「ありがとうございました」と言った。静枝は「ありがとうございます」と言い返した。声が少し低くなったのは、自分でも分かった。

外は雨が降り続いていた。傘を差して、静枝は駅への道を歩いた。夜の商店街は半分シャッターが閉まっている。コンビニだけが明るく、自動ドアが通るたびに冷気と音楽を吐き出している。静枝はそこを素通りした。寄る必要はない。手元に弁当がある。でも、駅に着く手前で足が止まった。コンビニのATMが頭に浮かんだ。今日、通帳の残高を確認していない。月初めに確認して以来、見ていなかった。口座に何が入っていて、何が出ていったか、ちゃんと把握していないと不安だ。でも、今は確認したくない、という気持ちの方が少し勝っていた。確認すれば、現実になる。現実になれば、対処しなければならない。今夜は、対処できる気力がない。

静枝はそのまま駅の改札を通った。電車の中では、エコバッグを膝の上に置いた。今日は座れた。隣は誰もいない。窓の外は暗く、雨粒が斜めに流れる。静枝は目を閉じた。眠るためではなく、何も見ないためだった。二駅で乗り換え、また十分ほど揺られて最寄り駅で降りた。改札を出ると、傘を開く前にバッグの中の鍵を確認した。ある。帰れる。

団地の棟に入り、エレベーターを使った。三階の廊下を歩いて、自分の部屋のドアの前に立つ。鍵を差し込んで開ける。玄関の電気はついていた。靴が一足、きちんと揃えて置かれている。さゆりの靴だった。今日は、靴を使ったのかもしれない。リビングに入ると、さゆりはソファに座っていた。横になっていない。テレビもついていない。珍しかった。さゆりは静枝が入ってきたのを見て、少し顔を上げた。「お帰り」「ただいま」

静枝はバッグを置いて上着を脱ぎながら、台所へ向かいかけた。その時、さゆりが言った。「今日、人が来た」
静枝は手を止めた。「誰が」
「保険の人。国民健康保険の集金に来た」
静枝はさゆりの方を向いた。さゆりは膝の上で手を組み合わせたまま、視線を少し下に向けている。「で、払ったの?」
「うん。でも出なかった。インターホン鳴らされて、ドア越しに声が聞こえてたけど、そのままでおいた。しばらくしたら帰ってった」

静枝の中で、何かが静かに沈んだ。沈む感覚はもう慣れているので、表情には出なかった。「何ヶ月になる?三ヶ月?いや、もしかしたら四ヶ月かも」
「四ヶ月」静枝は繰り返した。声に感情を載せないようにしていた。「計算したら、いくらになるか分かる?」
「分からない」
「分からないっていうのは、計算してないってこと」
さゆりは何も言わなかった。静枝はしばらく立っていた。台所へ行くべきか、ここに立ったままでいるべきか、どちらが正解か分からなかった。怒鳴るべきではない。感情的になっても、何も解決しない。でも黙っていたら、さゆりはまた同じことをする。

「分かった」静枝は言った。「明日、役所に電話して、分割納付の手続きができるか確認する。滞納が続くと延滞金が上乗せになる。それだけ覚えておいて」
さゆりは、かすかに「うん」と言った。静枝は台所に入った。弁当の袋をバッグから取り出し、電子レンジに入れて温める。温まる間に、シンクで手を洗った。夕食は一人だった。さゆりは「お腹が減っていない」と言って、また自分の部屋に引っ込んだ。静枝は一人でテーブルに座り、幕の内弁当を食べた。弁当の中身は、鮭の塩焼き、きんぴら、卵焼き、漬け物、白ご飯。どれも温め直してあるから、それなりに食べられる。量が少ないと感じたが、気のせいかもしれない。もう一方の小鉢は、明日の昼に回すことにした。

食器を洗い終えたのは、午後十時少し前だった。静枝はテーブルに座り、引き出しから手帳を取り出した。毎月の収支を記録している古い手帳で、表紙がすり切れている。鉛筆で書いてあって、間違えたところは消しゴムで消してある。今月の支出の欄を開いた。食費、光熱費、国民健康保険の自分の分、交通費、それから先月から新たに加わった欄、弁護士費用。残金という欄がある。まだ払い終わっていない分が残っている。そこに、さゆりの健康保険の未払い分を計算して書き加えた。四ヶ月分。金額を足していくと、延滞金込みで八万円近くになる。静枝はしばらくその数字を見た。鉛筆の先で数字の下に、細い横線を一本引いた。

行かなければ、と思った。今夜のうちにコンビニのATMに行って、さゆりの保険料の未払い分を下ろして、明日の午前中に役所に持っていく。後で分割払いの相談をするにしても、まず誠意を見せなければ、窓口で強硬な対応をされることがある。静枝はそれを知っていた。行政の窓口では、こちらの態度が全てに影響する。深夜の外出は体に応える。でも明日の朝早くATMを使おうとしても、役所が開く前に家を出なければならない。そうすると出勤前に走り回ることになって、万が一仕事に影響が出たら困る。

静枝は立ち上がった。上着を羽織り、財布を持った。財布の中に通帳と印鑑を入れた小さなポーチも入れた。玄関を出た。廊下には誰もいない。夜の十時を過ぎると、この棟は静まり返っている。外は雨がまだ降っていた。傘を開いて、静枝はコンビニへ向かった。夜の住宅街は、濡れた道路が街灯の光を反射して、少しだけ明るく見える。でも人通りはない。犬の散歩をする人も、ジョギングをする人もいない。静枝の傘が雨粒を弾く音だけが聞こえる。

コンビニに入ると、店内の冷気と蛍光灯の明かりが、一気に体に当たった。深夜のコンビニは、食べ物の匂いと柔軟剤の匂いが混じっていて、独特の空気がある。夜間のレジには、外国人の若い男性がいた。静枝が入ってきても、ちらりと視線を向けただけで、また雑誌のページをめくり始めた。ATMのコーナーに行き、画面を操作した。暗証番号を入れる。残高。数字が表示された。静枝はその数字を見て、何も思わないようにしようとした。でも、思わないようにすることと、何も感じないことは別のことだ。

引き出す金額を入力した。七万円。さゆりの保険料の未払い分と延滞金の目安と、少しの余裕を持たせた金額。紙幣が機械の口からそろりと出てくる。千円札と五千円札と一万円札。静枝はそれを受け取り、財布に入れた。コンビニを出ると、また雨の中に戻った。帰り道、静枝は傘を握り直した。手が少し冷えていた。夜の道を歩き、静枝はいつも通り頭の中で数字を組み直していた。今月の残りの収入。来月の予定支出。引き出した七万円が出ていった後の残高。数字は合わない。合わないとは分かっていても計算する。計算することで、少しだけ現実をコントロールしている気持ちになれるからだ。

帰宅したのは、午後十一時を少し過ぎていた。玄関を開けると、さゆりの部屋の明かりがドアの隙間から漏れている。まだ起きているらしかった。静枝は上着をハンガーにかけ、財布をバッグに戻した。台所で湯を沸かして、湯飲みに入れた。飲みながら、明日の朝の準備を頭の中で組み立てていた。六時起床。ベランダの掃除。朝食の準備。役所へ電話する時間は、午前九時以降でないとつながらない。出勤は午後一時。

十一時半。湯飲みを洗って、寝る準備をしようとした時、さゆりの部屋からガチャという音がした。それからドアが開いて、さゆりがリビングに出てきた。手に携帯電話を持っている。画面を見ながらソファに座った。「まだ起きてたの?」「うん」さゆりは携帯の画面を指でぞろぞろと動かしている。何かを見ている。通販サイトの、小さな商品の画像が画面に光っているのが静枝の目に入った。

静枝が台所から出て、もう遅いから、と言いかけた。その時、さゆりが画面を数回タップして、「よし」と独り言を言った。静枝は立ち止まった。「何?」「口紅買った」
静枝の体が、そのまま止まった。「口紅?」
「面接に使うやつ。百貨店ブランドのやつ。ずっと気になってたんだけど、セールで少し安くなってたから」
静枝は動かなかった。止まったまま、さゆりの横顔を見た。さゆりは画面から目を離さずに、「届いたら見せるね」と言った。「お金、どうした?」
少し間があった。「カード」「クレジットカードで。自分のカードで払ったから、お母さんには関係ない」声が、少しだけ硬くなった。
「どのカード?どこのカード会社の?」
「なんで聞くの?」さゆりは初めて携帯から目を離して、静枝の方を向いた。「自分のカードで自分のもの買っただけじゃないの?何が問題なの?」
静枝は一歩前に出た。「今、仕事してないよね。収入がない状態でカードを使ったら、引き落としの時残高が足りなくなる」
「だから何?」「その時はその時で考える」
「その時考えるっていうのが、どういう結果になるか分かってる?滞納が続いたらカードが止まる。止まってからじゃ遅い」
さゆりは「うるさい」と言った。小さくでも、はっきりと。「面接に行くために買うものじゃないの。それくらいさせてよ。お母さんはいつもそうやってお金の話ばっかりして、こっちの気持ちは一回も聞かないじゃない」
「気持ちを聞く場合じゃないから言ってる」
「お母さんには気持ちってものがないんでしょう。お金の計算しかしてないんだもん。毎日毎日、電気代がどう、保険がどう、それしか言わないじゃない」

静枝は答えなかった。答えるべき言葉が見当たらなかったわけではない。言いたいことはいくつかあった。でもそれを声にすれば、取り返しのつかないことになる気がして、静枝は唇を一度きゅっと結んで、また開いた。「口紅の値段、いくらだった?」
さゆりが、つばを飲んだ。はっきりと聞こえた。「三千八百円」
「三千八百円」静枝は繰り返した。「カードの引き落とし、いつ?」
「来月の二十七日」
「来月の二十七日に、通帳に三千八百円。ある?」
沈黙。「ある、ないの?」
さゆりは携帯の画面を伏せて、膝の上に置いた。視線が下に落ちる。「ない」
「そう」静枝はそれだけ言った。それ以上、何も言わなかった。言い続ければ言葉が刃物になると知っているから。でも黙って引き下がれば、また来月も同じことが繰り返される。今夜、静枝は七万円をATMで下ろしてきた。雨の中、傘一本で歩いて、夜の十時を過ぎてから外に出て、コンビニの冷たい空気の中で機械に暗証番号を打ち込んで。その紙幣の重さのことを、この子は知らない。知る必要もないと思っているのかもしれない。でも静枝はそれを口にしなかった。口にすれば、じゃあ頼んでない、と帰ってくる。それが分かっているから、言えない。

さゆりがまた部屋に戻った。ドアが閉まった。静枝はリビングに一人残った。テレビもついていない。静かだった。ソファには座らなかった。台所のカウンターの端に手をついて、立ったままでいた。右の目が少し痒い。最近、乾燥がひどくなっている。瞬きをしても、なかなか潤わない。眼科に行くべきだとは思っているが、診察費と薬代を考えると、足が向かない。今夜、七万円を下ろした。来週の役所への手続きに使う。でもさゆりのカードの引き落としが来月あって、その分はどこから出る?弁護士費用の残りもある。市から来た通知の封筒が、玄関の引き出しの中にある。来年の秋には、この部屋がなくなる。全部、同時に存在している。

静枝は目を閉じた。手のひらに、カウンターのタイルの冷たさが伝わってくる。それだけが、今この瞬間の確かな感触だった。「疲れた」という言葉がまた喉の奥から浮かんでくる。でも静枝はそれを言わない。言う相手がいない。言ったとしても、何が変わるわけでもない。電気を消して、寝室へ向かった。廊下を歩く時、さゆりの部屋のドアの隙間からスマートフォンの明かりが漏れていた。まだ何かを見ているらしい。静枝はそこで一瞬足を止めたが、ノックはしなかった。寝室に入り、布団をかぶった。天井のシミは、今夜も同じ場所にあった。午前三時に目が覚めるだろう。その時、今夜の全てが頭の中で展開される。七万円と口紅と、久保田の「週三日になる可能性があります」という言葉と、雨の音と。でも今はまだ、深夜の一時前だ。静枝は目を閉じた。眠れるかどうかは分からない。でも閉じる。それしかできない。部屋の外では、雨が降り続けていた。

七月の第一週、木曜日。静枝は午前六時に目が覚めた。目覚まし時計は六時半にセットしてあったが、それより三十分早く、いつも通り心臓がドキリと打って意識が浮き上がってきた。天井のシミが、薄明かりの中にぼんやりと見える。静枝はしばらくそのまま横になって、今日の段取りを頭の中で確認した。今日は仕事を休んでいる。正確には、久保田への申請を先週の木曜日にしておいた。個人的な用事がありまして、一日お休みをいただけないでしょうか、と頭を下げて言うと、久保田はタブレットのスケジュールを確認してから「わかりました」と答えた。それだけで終わった。理由は聞かれなかった。静枝はほっとしたような、少し物足りないような気持ちで、更衣室に戻った。

午前九時に市役所の窓口が開く。そこへ行って、団地の移転についての相談をする。それが今日の目的だった。布団を畳んでから、ベランダに出た。六月の終わりから七月にかけて、梅雨がまだ続いている。今朝は雨は降っていないが、空は厚い雲に覆われていて、日差しがない。ベランダに置いた小さな箒で床を掃いた。土埃と枯れた葉が、端の排水溝の方へ集まっていく。箒を片付けてから、雑巾を硬く絞って床を拭いた。この習慣は、夫が生きていた頃からだった。夫の吉典はベランダの掃除が好きで、雨の翌日は必ず外に出て、丁寧に掃いていた。静枝がそれを引き継いだのは吉典が死んでからで、なぜそうしようと思ったのかは自分でもはっきりは分からない。ただ、やめると何かが壊れる気がして、今もやめられないでいる。

台所に戻り、ご飯を炊いた。冷蔵庫に昨日の残りの味噌汁がある。温め直して、ご飯と一緒に食べた。食卓には静枝一人だった。さゆりはまだ寝ている。朝食を終えてから、引き出しの奥に入れておいた市役所からの封筒を取り出した。もう一度、文面を読む。令和九年十二月末日。転居支援金、五十万円上限。住宅相談窓口。分かっていたことが、また目の前に並ぶ。封筒を丁寧に折りたたんで、小さなセカンドバッグに入れた。通帳、印鑑、健康保険証、それから収入証明になる給与明細の直近三ヶ月分もコピーして入れておいた。こういう場に行く時は、必要なものを全部持っていかないといけない。何かが足りなくて二度手間になることを、静枝は何より嫌った。

身支度をして玄関を出た。最寄り駅から電車に乗り、市役所の最寄り駅まで二十分ほどかかった。朝の電車は、平日のラッシュが少し落ち着いた時間帯で、座れた。窓の外に住宅地と田んぼと工場の屋根が交互に流れていく。静枝は膝の上にバッグを置き、車窓を見ながら今日の窓口でどう話すかを考えた。何を、どの順番で言えばいいか。聞かれる前に、自分から何を出すべきか。行政の窓口というのは、こちらから情報をうまく出していかないと、的外れな答えをされて時間を無駄にすることがある。静枝は数年前、吉典の死後の手続きで何度も市役所に足を運んだ経験があった。あの時覚えた窓口との向き合い方の作法が、今も体に残っている。感情は出さない。事実だけを伝える。聞かれたことに、不足なく答える。それだけでいい。

駅を降りると、市役所まで徒歩で七分だった。曇り空の下、静枝は急がずに歩いた。市役所は四階建ての建物で、一階が窓口フロアになっている。自動ドアを入ると、受付の番号発券機が並んでいた。整理券を引いて、待合スペースのプラスチックの椅子に座った。番号は六十三番だった。窓口の表示板を見ると、今呼ばれているのは四十一番だった。待合スペースには、すでに二十人ほどが座っていた。杖をついた老人、乳児を抱っこした若い母親、作業着を着た中年の男性。静枝は端の席を選んで、バッグを膝に置いた。係の人が何かを読み上げ、また別の係の人が書類を持って駆け足で通り過ぎる。フロア全体に、書類と消毒液の混じった独特の匂いがある。冷房が効いていて、半袖では少し寒い。静枝は上着の前を合わせた。

隣に座っていたのは、七十代後半と思われる男性だった。膝の上に紙袋を乗せて、天井の蛍光灯を見上げている。静枝はその横顔をちらりと見た。頬がこけていて、首の辺りが細い。一人で来ているようだった。待っている間、静枝はバッグの中の書類を一度確認した。封筒、給与明細のコピー、通帳。全部ある。確認してから、また膝の上に置いた。三十分が過ぎた。番号は五十七番になっていた。一時間が過ぎた。ようやく六十一番が呼ばれた。もうすぐだと思って背筋を伸ばしたところで、隣にいた老人が急に深く頷いた。眠っているのだと気づいた。紙袋が膝からずれそうになっていた。静枝は手を伸ばして支えようとしたが、老人がぼんやりと目を開けて、自分で直した。静枝は手を引いて、また前を向いた。六十三番、呼ばれた。静枝は立ち上がり、書類を入れたバッグをしっかりと持って、指定の窓口へ向かった。

窓口の椅子に座ると、透明なアクリル板越しに、担当の職員が向かいに座った。女性だった。三十代の半ばだろうか。髪を後ろでまとめ、薄いベージュのブラウスを着ている。顔立ちはきりっとしていて、化粧は薄いがきちんとしている。名札には、住宅課・田中と書かれていた。田中は静枝の顔を見て、「お待たせいたしました」と言った。声は落ち着いていて、丁寧だった。「失礼ですが、本日はどのようなご要件でしょうか?」
静枝は封筒を取り出して、アクリル板の下の隙間から差し出した。「こちらを先日いただきまして。団地の建て替えのことについて、お話を聞きに参りました」
田中は封筒を受け取り、文面を確認した。何秒かけて読んでから、「はい。こちらの件ですね」といった。「こちらの団地の居住者の方でよろしいでしょうか?」
「はい」
「それでは、現在のご状況を少し確認させていただいてもよろしいでしょうか?今のお住まいには、何名でお住まいですか?」
「二名です。私と娘が一緒に」
「娘さんのお歳は?」
「三十五歳です」
「現在のお仕事は?」ここで、静枝の指がバッグの止め金を一度押さえた。ほんのわずかな間があった。「今、仕事を探しておりまして」
「つまり、現在は無職の状態ということでしょうか?」
「そうです」
田中はパソコンの画面を見ながら、何かを入力した。キーボードの音が、アクリル板を越えてかすかに聞こえる。「ええと、さえ草さんご自身の現在の収入状況を教えていただけますか?」
静枝は給与明細のコピーを取り出した。「こちらになります。アルバイトを週四日しておりまして。年金は六十五歳からになりますので、まだ受給しておりません」
田中はコピーを受け取り、金額を確認した。何も表情が変わらなかった。「ありがとうございます。それでは、民間の賃貸住宅への入居をご希望されているということでよろしいでしょうか?それとも、公営住宅の申し込みをご検討中でしょうか?」
「どちらが現実的か、ということからまず教えていただきたくて」
田中は少し間を置いた。それからファイルから何枚か紙を取り出して、静枝の前に並べた。「正直にお伝えしますと」田中は言った。声のトーンは全く変わらなかった。ただ、少し速度が落ちた気がした。「現在の日本の賃貸市場では、六十歳以上の単身または高齢者世帯の方が民間の賃貸物件に入居申し込みをされた場合、不動産会社や大家さんの側が審査を通さないケースが非常に多くなっています。どのくらいの割合か、はっきりした数字はお示しできませんが、高齢者の単独申し込みや、収入が年金のみ、あるいはアルバイト収入のみという場合には、物件によっては九割近いお断りが出ているとも言われています」

九割。静枝はその言葉を、一度だけ頭の中で繰り返した。「理由は主に二つです」田中は続けた。「一つは、収入の安定性への懸念。もう一つは、孤独死のリスクを大家さんが嫌がるというものです。賃貸人が室内で亡くなられた場合、物件の価値が下がるという考えが、まだ根強くあります」
静枝は田中の顔を見た。田中はアクリル板の向こうで、静枝の目を見返していた。申し訳なさそうな顔でも、同情するような顔でもない。事実を説明している顔だった。静枝はそれで良かったと思った。同情の顔を見せられると、返す言葉がなくなる。

「保証人がいれば、状況は変わりますか?」
「変わります。連帯保証人の方が定期的な収入のある現役世代の方であれば、審査が通りやすくなるケースはあります。または、家賃保証会社を利用することで保証人の代わりにする方法もありますが、こちらは審査基準が会社によって異なります」
「娘を保証人にすることは?」
「現在無職とのことですので、収入証明が出せない状態では、保証人としては認められないことがほとんどかと思います」
田中の言い方は穏やかだった。でも、言っていることは一つ一つ、静枝の前に壁を積み上げていった。

「公営住宅の申し込みについては、いかがでしょうか?」静枝は話を切り替えた。
「公営住宅の場合、収入が一定以下という条件を満たしていれば申し込みは可能ですが、現在埼玉県内の公営住宅は応募倍率が非常に高く、場合によっては三十倍から五十倍になる住宅もあります。入居できるまでに数年かかることも、珍しくありません」
数年。静枝は膝の上のバッグを、もう一度しっかりと持ち直した。「入居を待っている間は、どこに住めばいいですか?」
「一時的な措置として、市の運営する短期入居施設がありますが、定員に限りがあります。また、民間のシェアハウス型の住宅や、高齢者向けのサービス付き住宅という選択肢もございます。ただし、費用は物件によって大きく異なります」
費用の目安は、田中がサービス付き高齢者向け住宅のパンフレットを一枚、静枝の前に滑らせた。静枝はそれを手に取った。月額の費用の欄を見た。十五万円、十八万円。管理費別、食事付き二十三万円。静枝の月の手取りは、今のアルバイトで約九万円だった。

田中がパソコンの画面から静枝に視線を戻した。「娘さんは、就職活動の状況はいかがですか?もし娘さんに安定した収入が見込めれば、連帯保証人として申請できる場合もありますので」
静枝は一息置いた。「できるだけ早く、仕事を見つけるように話しております」
「就活中ということでしたら、最近では就職支援のハローワークの出張窓口もこちらの庁舎内にありますので、よろしければご案内します」
「はい。後ほど確認します」
田中はまた何かを入力して、書類を一枚プリントアウトした。「本日お持ちいただいた情報をもとに、ご案内できる制度をまとめましたので、こちらをお持ちください」
「ありがとうございます」静枝は紙を受け取り、バッグに入れようとした。その時、田中が画面を少し眺めてから、「あ、一点確認させていただいてよろしいでしょうか」と言った。
「はい」
「住民票の住所を調べますと、こちらのお住まいに対して現在、いくつかの債務記録が紐づいているようなのですが」
静枝の手が止まった。「消費者金融系の会社からの信用情報照会が、複数、お住まいの住所と電話番号でかかっていまして。住宅支援の審査に入る前に、この状況をご確認いただく必要があります。債務整理や返済状況によっては、公営住宅の入居審査に影響が出ることがありますので」
静枝はアクリル板を見た。自分の顔が、ぼんやりと写っていた。「その債務というのは」
「こちらでは詳細な内容までは分かりかねますが、住所と電話番号に紐づいた形で、複数の消費者金融業者からの照会記録がございます。お心当たりはありますか?」
心当たり。静枝は「少し調べてみます」と言った。声が、思ったよりも落ち着いていた。自分でもそれが不思議だった。田中は「分かりました。住宅相談の続きは、その状況が整理されてからが望ましいかもしれません。何か分からないことがあれば、またこちらにいらしてください」と言って、軽く頭を下げた。静枝も頭を下げた。立ち上がり、椅子を静かに引いて、窓口を離れた。

市役所のエントランスを出ると、すぐ外に小さな広場があった。ベンチが三つ、コンクリートの地面に並んでいる。静枝はそこに座った。バッグから田中に渡された書類を取り出した。でも、読まなかった。田中の言葉が頭の中でゆっくりと整理されていった。住所と電話番号に紐づいた、複数の消費者金融業者からの照会。心当たりはあるか。

静枝の住所は、さゆりも使っている。同じ住所に、同じ電話番号で暮らしている。そしてさゆりは、四ヶ月前に突然戻ってきた。荷物だけ持って。消費者金融。カードローン。口紅の、三千八百円のことを思い出した。あの夜、さゆりが「自分のカードで払ったから関係ない」と言った時の顔を思い出した。あの顔は、ただ一枚のカードの話をしていた顔ではなかったかもしれない。

静枝はバッグから小さな手帳を取り出した。書くことはまだない。ただ、手帳を開いたまま膝に置いた。近くでハトが一羽、コンクリートの上を歩いている。頭をこくこくと動かしながら、何かをついばんでいる。あと一歩で水溜まりに入りそうだった。静枝はそのハトを見ていた。ハトはしばらく歩いてから、何かを見つけたらしく、首を伸ばして嘴を地面に当てた。それから顔を上げ、また歩き始めた。静枝は立ち上がろうとして、また座り直した。まだ、ここにいなければならない。まだ、動ける状態になっていない。

市役所の正面玄関から、老人が一人、杖をつきながら出てきた。職員が一緒に出てきて、何かを説明している。老人は頷いているが、どこか視線がぼんやりしていて、話が頭に入っているのかどうか分からない。静枝はその二人を見た。職員は説明を終えると、少し頭を下げてから戻っていった。老人は一人でベンチの方に歩いてきて、静枝の隣ではなく、もう一つ離れたベンチに座った。誰もがそれぞれに何かを抱えて、ここに来ている。静枝はそれだけを思って、立ち上がった。

市役所から歩いて三分ほどのところに、コンビニがあった。静枝は入って、マルチコピー機の前に立った。信用情報を自分で照会する方法は、以前別の手続きの際に調べて知っていた。だが、今日ここでできることは限られている。コンビニを出て、近くの公園に向かった。梅雨の曇り空の下、公園には人がほとんどいなかった。滑り台の前に自転車が一台止まっているだけで、子供の姿は見えない。ベンチに座った。バッグから、先ほど市役所からもらってきた書類とは別に、自分の手帳を開いた。考えを整理する必要があった。田中が言っていた、住所と電話番号に紐づいた複数の消費者金融業者からの照会記録。「複数」という言葉が引っかかっていた。一社ではない。

静枝は鉛筆で手帳に書き始めた。さゆりが戻ってきたのは三月。弁護士費用を静枝が立て替えたのは四月と五月。その間、さゆりは何をしていたか。部屋にいた。スマートフォンを見ていた。コンビニの弁当を食べていた。それだけだ。外には、ほとんど出なかった。でもスマートフォンがあれば、外に出なくても借入はできる。カードローンはネットで申し込める。審査は数時間で終わる。入金も即日のものがある。必要なのは、本人の身分証明と住所と電話番号と口座番号だけだ。この住所。静枝の家の電話番号。さゆりはその住所から、申し込んだ。手帳に書いた数字を、静枝は見つめた。いくらかは、まだ分からない。一社なのか、複数社なのかも分からない。でも市役所の田中が「複数」と言った。複数の消費者金融業者から。

公園の外を、自転車が一台ゆっくりと通り過ぎた。荷台にダンボールを積んでいる。通り過ぎて、見えなくなった。どこかでカラスが一羽、鳴いた。静枝は手帳を膝の上で閉じた。それから、また開いた。一社あたり、カードローンの上限はどのくらいか。消費者金融のカードローンは、審査によっては五十万円、百万円単位の借入ができる。複数社に渡れば、合計はどれほどになるか。書いた数字の下に、横線を一本引いた。それから、また一本。鉛筆の先が、紙を少し破りそうになっていた。静枝は手を止めた。息を一度、ゆっくり吸い込んだ。こうしていても、何も変わらない。家に帰って、さゆりに聞くしかない。直接聞く。逃げてもいいけれど、逃げた先には何もない。それが分かっているから、今日まで逃げてきた。でも役所の窓口が、強制的に現実を突きつけてきた。

立ち上がろうとした時、空から雨粒が一粒落ちてきた。額に当たった。それから、肩に、手の甲に。一粒ずつ増えていった。静枝はバッグを胸に引き寄せて立ち上がった。傘をさした。雨が強くなる前に、帰らなければならない。

帰りの電車の中で、静枝は窓際の席に座った。雨が強くなっていた。窓ガラスに雨粒がついて、外の景色が滲んで見える。頭の中では、今日一日が何度もゆっくりと再生されていた。番号を引いて、待って、田中に会って、壁を積み上げられて、また帰ってくる。六十三歳の一日の仕事として、何が残ったか。手帳の中の、消えそうな鉛筆の数字だけが残った。電車の向かいに、母親と小さな女の子が座っていた。女の子は七、八歳で、膝に絵本を開いている。母親は疲れた顔をして、スマートフォンを見ていた。でも女の子が何かを指差して顔を上げると、母親はすぐに画面から目を離して、女の子の方を見た。静枝はその二人から目をそらした。さゆりの子供の頃を思い出したくなかったので、別の方向を見た。ドア付近に立っている若い男性。リュックサックを背負い、イヤホンをして目を閉じている。彼にとって、この電車の時間は別の何かの時間なのだろう。静枝にとっては、考え続ける時間だった。家に帰って、さゆりに何と言えばいいか。借金したの、と直接聞けばいい。ただ、それだけだ。でもさゆりが認めなかったら。認めなければ、追い詰めることになる。追い詰めれば、また「お母さんはいつもそうやって」と言われる。言われれば、黙るしかない。そしてまた、何も解決しないまま時間だけが過ぎていく。でも今回は、市役所の窓口が事実を知っている。住所に紐づいた記録が、行政のシステムに残っている。これ以上、知らないふりはできない。

電車が駅に止まるたびに、人が乗り降りする。静枝の隣に誰かが座り、また立っていく。世界がいつも通りに動いている。静枝だけが、動けずにいる。

家に着いたのは、午後二時を過ぎていた。鍵を開けてドアを入ると、さゆりの靴がある。いつも通り、かかとを踏みつけたまま。今日も、どこにも出かけていないらしい。リビングに入ると、さゆりはソファに横になってスマートフォンを見ていた。テレビもついている。昼間のワイドショーの音が、音量を絞って流れている。静枝は上着を脱ぎながら言った。「ただいま」さゆりは「お帰り」と言って、また画面に目を戻した。静枝はソファの向かいのダイニングチェアに座った。バッグを膝に置いたまま、動かなかった。少し間があった。さゆりが静枝を見た。「何?どっか行ってたの?」「市役所に行ってきた。団地のことで」さゆりはスマートフォンを伏せた。少し体を起こした。「で、どうだった?」「いくつか、確認しなければならないことが出てきた」「何が」
静枝は一度だけ息を吸った。「窓口の人に言われたんだけど、この住所に、消費者金融からの問い合わせ記録が複数残っているって」
部屋の空気が、少しだけ変わった。テレビの音が、遠くなった気がした。さゆりは何も言わなかった。「心当たりはある」
沈黙。スマートフォンの画面が、少し暗くなった。静枝は続けた。「住所と電話番号でかかっているって言われた。うちの住所と、うちの電話番号で」
さゆりは顔を少し下に向けた。前髪が落ちてきて、目が見えなくなった。低い声だった。「借りた」
「借りた?カードローンを?」
静枝の体は動かなかった。動かないようにしていた。「何社から?」
「三社」
「合計いくら?」
さゆりは、すぐに答えなかった。「答えて」「八十万くらい」
「八十万」静枝はその数字を聞いた瞬間、手帳に書いた数字が頭の中で自動的に動き始めた。消費者金融は金利が高い。年利十五パーセントから十八パーセントが一般的だ。借金八十万に対して、毎月の最低返済額はいくらになるか。さゆりに収入がない状態で三社から同時に借りていた場合、それぞれの引き落とし口座はどこか。もし残高不足で引き落とせなかった月が続いていたなら、延滞損害金がいくら積み上がっているか。計算が頭の中で、止まらなかった。

「いつから」
「去年の夏。まだ結婚してた頃から」
「離婚してから、少しずつ増えた。去年の夏から。旦那には内緒で、生活費が足りなくて」
静枝は一度だけ目を閉じた。開けた。さゆりは前髪の向こうで、小さく続けた。「最初は少しだけのつもりだった。でも返せなくて、また借りて、また返せなくて」
静枝はその言葉を知っていた。消費者金融の構造だ。返せないから借りる。借りるから増える。増えるから返せない。「今は」
「一社だけ、二ヶ月分滞納してる。督促は来てる。電話が。でも出てない。あと手紙も来てたけど、捨てた」
「捨てた」という言葉を聞いて、静枝はもう一度だけ目を閉じた。「分かった」と静枝は言った。それ以上は言わなかった。立ち上がり、バッグを持って玄関へ向かいかけて、立ち止まった。さゆりの方を振り返った。さゆりは膝を抱えて、ソファの端に縮こまっていた。体を小さくして、顔を下に向けている。三十五歳の体が、まるで子供のように小さく見えた。

「今すぐ問い詰めるつもりはない」静枝は言った。「でも、近いうちに三社全部の明細を見せてもらう。滞納分の状況と、残高の合計を全部確認する。そこから先のことを、考える」
さゆりは動かなかった。それだけ言って、静枝はドアを開けて廊下へ出た。廊下の窓から、雨が見えた。まだ降っている。六月の梅雨が、七月になっても続いている。静枝は廊下の手すりに手をついた。階段の踊り場まで歩いて、そこで止まった。窓の外に、屋根と屋根の間に細い空が見えた。どんよりとした、灰色の空だった。八十万円。三社。去年の夏から。市役所の田中の言葉が重なる。住所に紐づいた債務記録がある。公営住宅の審査に影響する。静枝の体が、少しだけ重たくなった。膝ではなく、胸のあたりが。うまく言葉にできない重さだった。全てが、同時に存在している。団地の取り壊しは来年の十二月。六十三歳で新しい家を探す方法は、今のところない。娘に、三社八十万の借金がある。自分の預金残高は、毎月少しずつ減っている。仕事のシフトは、来月から削られる。一つ一つ解決しようとすると、別の何かが崩れる。

手すりの鉄が、冷たかった。六月から七月の、梅雨の夜の鉄の冷たさだった。静枝はしばらくその冷たさを手のひらで感じていた。それからゆっくりと手を離して、部屋に戻った。玄関を開ける。台所に入る。夕食の準備を始める。冷蔵庫にキャベツがある。卵が一個。手を動かすしかない。動かしながら考える。考えながら動かす。それ以外に、今夜できることはない。フライパンに火をつけた。油がじわりと熱を持つ。静枝は卵を割って、箸でかき混ぜた。白と黄身が混ざり合って、やがて一つの色になる。リビングからテレビの音がした。さゆりがまた、テレビをつけたらしい。いつも通りの夜だった。何も解決していない。それでも、夕飯は作らなければならない。

十一月に入ってから、静枝の一日は午前三時五十分に始まるようになった。目覚まし時計は三時四十五分にセットしてある。でも時計が鳴る五分前には、いつも通り胸がドキリと打って目が覚める。天井のシミは、暗くて見えない。部屋の中は冷えていて、布団の外に出した指先がすぐに冷たくなる。静枝は布団を確りと畳んで、押入れに入れる。押入れの中には、吉典の形見の毛布が一枚、綺麗に畳まれて一番奥に置いてある。十年間、一度も広げていない。広げる必要がないから、広げない。ただ、そこにある。

顔を洗い、うがいをして、台所でお湯を沸かした。白湯を一杯飲む。体に温かいものを入れてから、外に出る。これは静枝が三ヶ月前に決めたことだった。白湯一杯。それだけでいい。制服に着替えて、道具袋を肩にかける。モップと雑巾と洗剤の入った小さなバケツ型の鞄で、スーパーのエプロンとは別に、駅の清掃として支給されたものだ。バックル部分が少し歪んでいて、きちんとはまらない。毎回、無理やり押し込みながら、いつか直してもらわないと、と思うが申請するのが面倒で、そのままにしている。

玄関を出るのは、午前四時ちょうど。廊下は暗く、静まり返っている。他の住民は、まだ眠っている。十一月のコンクリートの廊下は、足元から冷えが伝わってくる。スニーカーの底を通して、じわじわと。階段を降りて、外に出た。外気が顔に当たった。冷たい。十一月の埼玉の夜明け前は、思った以上に冷え込む。静枝はマフラーを首に巻き直して、駅へ向かった。この時間帯に外を歩く人間は少ない。コンビニの前に一台、配送のトラックが止まっている。運転手がダンボールを台車に積んでいる。静枝はその横を早足で通り過ぎた。

駅に着くのは四時十五分。清掃の開始は四時二十分。改札の外の待機スペースで五分待つ。この五分が、唯一何も考えなくていい時間だと、最近気づいた。体を動かす前の、短い静寂。清掃の担当責任者は、五十代の川崎という男性だった。いつも先に来ていて、待機スペースで腕を組んで立っている。口数が少なく、「よし、始めよう」というだけで、指示は最小限だった。静枝はそれが性に合っていた。余計なことを言われると、かえって集中が乱れる。

四時二十分、川崎の合図で、静枝はモップを持ってトイレの清掃に入った。男性トイレと女性トイレ、それぞれを担当する曜日が決まっている。静枝は水曜、金曜、日曜が女性トイレ担当で、月曜と木曜が男性トイレ担当だった。男性トイレに入る時は、声をかけてから入る。「清掃中です。失礼します」と言って、扉を少し開けてから入る。この声かけを、忘れたことは一度もない。個室の扉を一つ一つ開けて確認する。汚れている箇所に洗剤をかけて、ブラシで擦る。便座を拭く。床を雑巾がけする。ゴミ箱のビニール袋を変える。鏡の水垢を落とす。手洗い場の周りを、乾いた布で拭き上げる。作業は順番通りにやれば、大体一トイレあたり二十分で終わる。最初の頃は二十五分かかっていたが、三ヶ月でこなれてきた。体が順番を覚えて、考えなくても手が動く。

この仕事を始めたのは、七月の終わりだった。市役所から帰ってきた翌週。静枝はハローワークのパートの求人票をネットで確認した。六十三歳で応募できる仕事の選択肢は、多くなかった。清掃業、配食サービスの補助、農業の手伝い。駅の清掃は時給が九百八十円で、週五日の早朝だった。スーパーと掛け持ちできるかどうか、ぎりぎりの時間帯だったが、スーパーの出勤が午後から始まる日に限れば、どうにか組み合わせられる。掛け持ちが始まってから、静枝の一日は細かく切り分けられるようになった。四時二十分から七時までが、駅の清掃。一旦家に帰って、朝食を食べて、少し横になる。昼過ぎからスーパーへ。スーパーは午後八時まで。帰宅が九時前後。その日のうちに食器を洗って、明日の段取りを確認して、十一時前には布団に入る。七時間も眠れない夜が続いているが、それでも体は動いている。体が動いている間は、生活できている。そう思って、毎日繰り返す。

鏡を見るのが少し怖くなったのは、先月頃からだった。洗面所の鏡に映る自分の顔が、夏前と比べて変わっている気がする。頬のあたりが少し引っ込んだような気がする。目の下のくまが、以前より色が濃い。首が細くなった気もする。体重計には先週乗った。三キロ九百グラム減っていた。食事の量を減らしているわけではない。ただ、食べる量が自然と減っている。朝は白湯一杯とご飯を小さな茶碗に少し。昼はスーパーの半額弁当か、家に残っているものを食べる。夜は簡単なものを二人分作る。でも最近は、自分の分を少しだけ少なめにする癖がついていた。食材が限られている時に、娘の分を減らしたくないからだ。三キロ九百グラム。数字として確認すると、現実になる。だから体重計には、できるだけ乗らないようにしていた。でもズボンのウエストが緩くなってきたので、確認せざるを得なかった。

駅の清掃中に、何度か動作が少し遅れることがあった。モップを引いた時、手がわずかにもたつく。頭では手順が分かっているのに、体がそれより今、何秒か遅れてついてくる。そんな感覚が、最近増えていた。先週の月曜日、床を掃いていた時、通勤客の男性がモップを避けようとして、つばを吐いた。「邪魔だよ」という声が聞こえた。静枝はすぐに「申し訳ありません」と言って、モップを引いた。声は出たが、顔は上げられなかった。川崎はそのやり取りを、少し離れたところから見ていた。後で何か言われるかと思ったが、何も言われなかった。川崎は静枝の仕事ぶりを、黙って見ている人間だった。それが助かった。何も言われないということは、最低限はできているということだと思うことにした。

清掃の仕事を終えて家に帰るのが、七時十五分頃。玄関を開けると、さゆりの部屋の気配がする。まだ寝ているか、起きているかは分からない。静枝は台所で簡単な朝食を食べて、少しだけ横になる。横になるのは、三十分から四十分。眠れることもあるし、眠れないこともある。眠れない時は、天井のシミを見ながら、頭を空にしようとする。あのシミ。さゆりとの間で、借金の話は二度した。最初は七月の終わり。三社それぞれの明細を並べて、合計の残高と毎月の返済状況を確認した。八十一万二千円。そのうち一社はすでに三ヶ月滞納していて、別の一社も一ヶ月分が未払いだった。利息が積み上がっていた。静枝はさゆりに、自分で対処できる方法を考えてほしいと言った。さゆりは「分かった」と言った。それから一ヶ月して確認したら、状況はほとんど変わっていなかった。滞納していた一社が、債権回収会社に債権が移管されたという手紙が届いていた。さゆりは「知らなかった」と言ったが、手紙を開けていなかっただけだった。その時、静枝は怒鳴らなかった。怒鳴ればさゆりは黙り込む。黙り込めば、また何も動かない。だから淡々と言った。「次の手続きの前に、まず三社全部の現在の残高と、督促状を紙に書いてほしい。書いたら、見せてほしい」さゆりは二日後に、手書きのメモを持ってきた。字がぐちゃぐちゃで、数字が合っていないところもあったが、静枝はそれを受け取って、自分で整理し直した。静枝はそのメモを、引き出しの中に入れてある市役所からの封筒と一緒に保管した。

さゆりは就職活動を細々と続けてはいる。先月、事務職の求人に応募したが、書類選考で落ちた。今月も二社に応募している。ただ、ハローワークに行く日と、応募する日と、寝ている日が、今のところ混在している。静枝はそれ以上のことは言えない。言えば、また「お母さんはいつもそうやって」となる。

その日、十一月の半ば過ぎの水曜日。静枝がスーパーから帰ったのは、午後八時四十分だった。外は冷えていた。コートのボタンを全部留めて歩いても、首元から冷気が入ってくる。マフラーを押さえながら、団地の棟に入った。エレベーターの前に立つと、少し足が重かった。今日は立ち仕事が長かった。揚げ物のバッチが予定より増えて、閉店間際まで動き続けた。エレベーターが降りてきた。扉が開いて、乗る。三階のボタンを押す。扉が閉まる。この短い時間に、静枝はいつも目を閉じる。何かを考えるためではなく、何も考えないためだ。三階。扉が開く。廊下を歩いて、自分のドアの前に立つ。鍵を出して、差し込んだ。ドアを開けた瞬間、熱気が顔に当たった。むっとする温かさが、玄関のドアを開けた瞬間に流れ出してきた。冬の外気との温度差で、一瞬息が詰まるような感覚があった。

靴を脱いで上がると、リビングからテレビの音がした。笑い声が、大きく流れている。引き戸を開けた。石油ストーブが、部屋の中央に置かれていた。炎が天板の小さな窓から、オレンジ色に見えている。最大の火力で燃えているのが、炎の高さで分かった。部屋の温度は、もう二十五度以上あるはずだった。さゆりは半袖のスウェットを着て、ソファに深く沈み込んでいた。膝の上に菓子の袋を置いて、テレビを見ている。こたつはない。ストーブ一台で部屋全体を温めているから、半袖でいられるほどの熱量が出ている。テレビの中では、タレントたちが食べ物の試食をしながら、大声で笑っている。静枝はコートを脱ぎながら、テーブルの上を見た。一枚の紙が置かれていた。郵便受けから持ってきたらしく、封筒が隣にある。電力会社のロゴが入った請求書だった。静枝は手を止めて、金額の欄に目を向けた。二万四千円。先月の請求が七千八百円だったことを、静枝は正確に覚えていた。今月は、三倍以上になっていた。ストーブの炎が、燃え続けている。

静枝は請求書を手に取った。指先が、紙の端を少しだけ強く押さえた。さゆりはまだテレビを見ていた。静枝が入ってきたことに気づいているはずだが、顔を向けなかった。静枝はストーブのそばに近づいた。火力調節のダイヤルに手をかけた。ダイヤルを回して、火力を最小に落とした。炎が、小さくなった。部屋の温度は、これで少しずつ下がっていく。さゆりが顔を上げた。「何、どうしたの?」静枝は請求書を持ったまま、「これ」と言った。さゆりはちらりと紙を見た。「電気代でしょう。知ってる」
「二万四千円。先月は七千八百円だった」
「ストーブつけてるから、増えて当たり前じゃない」
静枝の声は抑えていた。糸のように細く、でも切れないように張っていた。「ストーブの温度、最大にしていたよね」
「寒いから」
「半袖でいられるほど温めている部屋で」
「誰が一日中いるの」
さゆりは、菓子の袋を持った手を止めた。「何が言いたいの?」
「節約してほしいと言いたい」
「節約、節約って、毎回毎回。私だって寒いんだけど」
「半袖で寝転がっていた人間が、寒いとは聞こえない」
さゆりの目が、少し鋭くなった。「はっきり言えばいいじゃない。私がいるから電気代が増えてる、って。そう言いたいんでしょう」
そう言っていた。間があった。テレビの中で、また笑い声が上がった。誰かが食べ物をこぼして、スタジオが湧いている。さゆりはリモコンを持って、音量を少し下げた。それから静枝の方を向いた。「お母さんは、朝から晩まで働いてる。私は、ここにいるだけ。分かってるよ。でも、それを毎日毎日、数字で言われ続けたら、こっちもどうしたらいいか分からなくなる」
「数字で言うのは、数字の話だからだ」
「違う」さゆりの声が、少し大きくなった。ソファから体を起こして、静枝の方に向き直った。「数字じゃなくて、私のことを責めてるんでしょう。ここにいるな、って言いたいんでしょう」
「それは、言ってない」
「言葉にしてないだけで、ずっとそういう目で見てる。帰ってくるたびに、ため息ついて。電気を消して。テレビの音を下げて。私が何かするたびに、お母さんの顔が強張る。全部、見えてる」
静枝は答えなかった。さゆりは続けた。「お母さんって、私が離婚してからの四ヶ月間、一度でも私のこと、聞いたことある?どうして離婚したのか。どれだけ辛かったか。一人でどれだけ怖かったか。聞いたことある?」
「聞かなかった」
「そうでしょ。聞かないじゃない。電気代と保険料と借金の話しかしないじゃない。私のことは、お荷物の数字として見てるだけじゃない。そんな家に、帰ってきたくて帰ってきたわけじゃない」
「じゃあ、どこに行くつもりだったの?それがないから、ここに来たんでしょう」
声が一段、高くなった。「お母さんにとって、私はいくらかかるかって話でしかないじゃない。弁護士費用を立て替えてくれたのも、私のためじゃなくて、自分の評判を守るためでしょう。ご近所に知られたくない。役所に知られたくない。それだけでしょう」
「違う」
「違わない」さゆりの声は、もう抑えが効いていなかった。「お母さんはずっとそうだった。私が子供の頃から、学校のことも友達のことも、全部、人にどう見られるかで判断してた。私が困ってる時も、助けてくれるより先に、外から見てどう映るかを考えてた。今も同じじゃない。私が情けない娘でいたら、お母さんの格好がつかないから、早く立ち直れって。そういうことじゃないの?」
「そんなつもりで言っているんじゃない」
「じゃあ、なんで。なんで毎日毎日、お金の話ばかりするの?一回でいいから、今日はどうだった、って私に聞いてくれたことがある?求人に応募して、どんな気持ちで結果を待ってるか、考えたことある?あのね、お前が毎日寝てるのは、寝てるんじゃないんだよ。動けないから寝てるの。怖いから寝てるの。外に出るのが怖くて、人に会うのが怖くて、またどこかで失敗するのが怖くて。だから、布団から出られない日がある。それを言ったら、お母さんは『どうせなら、シフトを増やせ、節約しろ』ってなるから、言えなかった。ずっと、言えなかった」
静枝の胸のどこかが、音もなく、ぎりりと締まった。「お母さんは、私を心配したことが、一度でもある?電気代が上がったことには、すぐ気づくのに、私が三キロ痩せたことは、気づかなかったでしょう」
静枝の口が、半分開いた。「気づいてた」と、小さく言った。
「嘘」
「気づいてたなら、何か言うでしょう」
「言えなかった」
「なんで?」
「言えば、傷つけると思ったから」
「傷つけたくないなら、最初から数字の話ばかりしなければよかったじゃない」
さゆりは立ち上がっていた。静枝より、頭一つ分背が高い。声が、部屋に充満するような大きさになっていた。「お母さんが早起きして、掃除に行ってることも知ってる。真夜中に出ていくことも知ってる。音で気づいてた。でも、それを私への嫌味として聞かなきゃいけない毎日が、どれだけきつかったか分かる?『あなたのせいで、お母さんがあんなに苦労してる』って、朝起きるたびに思わなきゃいけない毎日が」
「嫌味で行ったつもりはなかった」
「つもりとか、関係ない。お母さんがそこまでしなきゃいけない状況になったのは、私のせいだって。毎日毎日、空気で言われてる気がした。言葉じゃなくて、全部がそう言ってる感じがした」

静枝は、それ以上言葉が出なくなった。手に持っていた請求書を、テーブルの上に置いた。力を抜いて、静かに置いた。紙がテーブルの上で、かに滑った。台所のコンロの上に、味噌汁の鍋があった。帰ってきてすぐ、火をつけておいたものだ。昨日の残りの出し汁を温め直して、豆腐と油揚げを入れたものだった。静枝は今日も、二人分作るつもりで、帰る前から段取りしていた。その鍋を取りに行こうと、静枝は台所へ向かいかけた。足が、つった。廊下の段差ではない。ただ、疲れた足が体を支えきれなかっただけだった。静枝の体がわずかに前に傾いて、手がカウンターの端を掴もうとした。その拍子に、カウンターの上に置いてあった味噌汁の小鍋の取っ手に、袖口がかすった。鍋が、傾いた。静枝は手を伸ばしたが、間に合わなかった。鍋はカウンターの端から落ちて、床に当たった。味噌汁が、飛び散った。熱い出汁が、白いタイルの床に広がった。豆腐のかけらが二つ、床の上を滑った。静枝の足元に、味噌汁が跳ねた。薄い靴下に、熱い液体の感触が染み込んだ。

さゆりが、台所の入り口で止まった。飛び散った汁と、床に転がった鍋と、静枝の足元を見た。静枝は動かなかった。鍋を拾い上げるべきだ。雑巾を持ってきて、床を拭くべきだ。足元が熱いから、靴下を変えるべきだ。全部、分かっていた。でも体が、動かなかった。台所の窓の外に、夜の暗さがある。十一月の夜。午後八時台の暗さ。外は風が出てきているらしく、窓ガラスがかに揺れる音がした。静枝の目が、床の味噌汁の広がりを見ていた。白いタイルの上に、茶色い汁が広がっている。その縁が、ゆっくりと動いて、消えていく。何かが胸の中で、静かに沈んだ。沈む感覚はもう慣れている。慣れているはずなのに、今夜はそこから浮かび上がってこれない気がした。靴下の中が、熱かった。

静枝は、上着を取った。台所の壁のフックにかけておいたコートを取って、腕を通した。ボタンは留めなかった。マフラーはない。玄関に出て、靴を履いた。味噌汁が染み込んだ靴下のまま、靴に足を入れた。さゆりが「お母さん」と言った。台所の入り口から動かずに、静枝の背中を見ている。静枝は振り返らなかった。玄関のドアを開けた。廊下の冷気が、部屋の熱気とぶつかって、一瞬だけ静枝の顔に当たった。冷たかった。外は寒い。コートのボタンを留めてくる余裕がなかった。でも、戻る気にはなれなかった。「お母さん、どこ行くの?」答えなかった。ドアを閉めた。金属の扉が、廊下に重い音を立てた。

廊下は暗い。街灯が一本、端に灯っている。静枝はそこを歩いた。階段を降りた。踊り場を過ぎて、また降りた。一階の扉を開けて、外に出た。空気が肺に流れ込んだ。冷たくて、薄い感じがした。どこへ行くかは決めていなかった。ただ、歩いた。団地の敷地を出て、商店街の方へ向かった。この時間、商店街のシャッターはほとんど降りている。コンビニだけが、四角く明るい。コンビニの前を通り過ぎた。中に入る気にはなれなかった。温かい場所にいたくなかった。今は、外の冷たい空気の中にいた方がいい気がした。なぜかは分からない。ただ、そう感じた。風が吹いた。コートの前が開いて、中に冷気が入ってきた。薄いセーターの胸元に、風が当たった。寒かった。でも、足は止まらなかった。

国道沿いを少し歩くと、小さな公園があった。昼間は子供が遊ぶ公園で、砂場と滑り台とブランコがある。夜は、もちろん誰もいない。街灯が一本、砂場の端を照らしている。静枝はそこのベンチに座った。金属のベンチは、座った瞬間に冷たさが服の上から伝わってくる。コートを着ていても、下半身まで冷えが来る。それでも、座ったままでいた。さゆりの言葉が、頭の中に全部残っていた。消えないし、消そうとも思わなかった。お母さんにとって、私はいくらかかるかって話でしかない。弁護士費用を立て替えたのも、自分の評判を守るため。学校のことも友達のことも、全部、人にどう見られるかで判断してた。静枝は膝の上に手を置いた。手のひらが上向きで、空を向いている。本当のことを言われた、と思った。全部嘘だとは、思えなかった。

静枝が世間体を気にしてきたのは、事実だ。人にどう見られるかを、ずっと気にしてきた。それは、否定できない。でも、でも、という言葉の先が、なかなか続かなかった。朝四時に起きて、声を潜めて廊下を歩いて、トイレを磨いて、それからスーパーで揚げ物を揚げて、夜九時に帰ってきて、味噌汁を作った。二人分、作ろうとした。その気持ちは、どこへ行くのか。そういうことは、言葉にならない。言葉にしようとすると、押し付けだと言われる気がする。だから黙っていた。黙っていたら、気持ちを聞いてくれたことがない、と言われた。言っても、黙っても、間違える。

冷たい風が、また来た。静枝はコートの前を両手で合わせた。ボタンを留めようとしたが、指が冷えていて、うまく通らなかった。空を見上げた。雲があって、星は見えない。十一月の夜空は、ただ暗い。隣の棟の窓に、一つ明かりが灯っている。誰かの部屋で、誰かがまだ起きている。何をしているのかは、見えない。テレビを見ているのかもしれないし、一人で考え事をしているのかもしれない。静枝はその明かりを見ていた。長い時間見ていた気がしたが、実際は数分だったかもしれない。時計は持ってきていなかった。

さゆりが「三キロ痩せたことには気づかなかったでしょう」と言った時、静枝は「気づいてた」と答えた。それは、本当のことだった。気づいていた。食卓から見える、さゆりの輪郭が、少し削れてきているように見えていた。食欲がないのか、食事の量が減っている気がしていた。でも言えなかった。言えば、また監視してる、と言われる気がして、言えなかった。言える言葉と言えない言葉の間に、全部が詰まっていた。静枝は、親として何かをひどく間違えてきたのかもしれない、と思った。何を間違えたのかは、まだ分からない。どこから間違えたのかも、分からない。でも、間違えたという感覚だけは、はっきりとある。それでも、四十年近く生きてきた娘に向かって「ごめんなさい」と言える気がしない。謝るべきことがあるのかどうかも、まだ分からない。さゆりが言ったことの、どこまでが正しくて、どこからが感情的な言い過ぎだったのか。今夜、外のベンチで一人座っていても、それを整理することはできなかった。

ただ、味噌汁が床に落ちた瞬間のことを、思い出した。あの瞬間、何かが体の内側で折れた気がした。折れたというより、長い間抑え続けていたものが、抑える力を失った。そういう感じだった。靴下の中が、まだ少し濡れている。味噌汁が染み込んで、外に出てきて、夜風で冷えた靴の中で、靴下が皮膚に貼り付く感触がある。立ち上がろうとして、また座り直した。まだ帰れない。帰った時に、何を言えばいいか決まっていない。帰って黙って寝室に入るのか。それとも、何か言うのか。何を言えばいいか分からない。でも、言わなければいけないことが何かある気はする。夜風が吹いて、静かになった。公園の砂場の上に、街灯の光が平らに落ちている。静枝はベンチに座ったまま、暗い空を見続けた。答えは出なかった。出なくても、今夜はここにいるしかなかった。体が芯から冷えていた。それでも、立ち上がれなかった。しばらく、そのままでいた。

公園のベンチに座ったまま、静枝はどれくらいの時間が過ぎたのか、分からなくなっていた。体の冷えは、もう足の裏まで来ていた。靴の中の味噌汁で湿った靴下が、とっくに冷たくなって、皮膚に張り付いている。コートの前を両手で合わせているが、ボタンを留めていないので、風が来るたびに胸元が開いて、冷気が入ってくる。それでも、立ち上がる気になれなかった。街灯の光が、砂場の端だけを切り取って照らしている。その光の輪の中に、細い影が一本落ちている。ブランコの支柱の影だった。揺れていない。何もかも、静止している。遠くで、車の音がした。国道の方だろう。一台通り過ぎて、また静かになった。

静枝は、膝の上に置いた両手を見た。指の関節が、冷えて白くなっている。油の古い傷跡が、街灯の斜めの光の中で、いつもより少し濃く見える。この手で、三十年以上、何かを作り続けてきた。夫の飯を作り、娘の弁当を作り、職場で揚げ物を揚げ、今もまだ台所に立っている。この手が、何を間違えたのか。間違えたとはっきり言えることが、どこかにあるのかどうか。それも、分からなかった。さゆりの言葉が、また頭の中で流れた。お母さんは、私が困っている時、外から見てどう映るかを考えていた。子供の頃から。否定したかった。でも、できなかった。運動会の日。さゆりが転んで膝をすりむいた時、静枝が最初に思ったのは、泥で白いソックスが汚れたということだった。その次に、さゆりの顔を見た。その順番を、何十年も忘れていた。今夜、思い出した。思い出してしまった。

ベンチの端に、枯れ葉が一枚、風に運ばれてきて止まった。茶色くて、縁がくるりとめくれている。しばらくそこにあったが、また風が来て、砂場の方へ飛んでいった。時刻の感覚がなくなってきた頃、国道の方から足音がした。ふらふらとした歩き方で、中年の男性が公園の前を通りかかった。スーツを着ているが、ネクタイが緩んで、上着を片手で引きずっている。飲み会の帰りだろう。その男性は、公園のベンチに静枝が座っているのに気づいて、一瞬足を止めた。暗い中に人がいれば、誰でも驚く。男性は静枝を一秒ほど見て、それからまたふらふらと歩き続けた。静枝はその後ろ姿を見ながら、今夜自分がどんな格好をしているかを、初めて考えた。コートを着崩したまま、夜の公園のベンチに一人で座っている、六十三歳の女。外から見れば、どう見えるか。そこまで考えて、静枝は自分でも少し意外に思った。どう見えるかを、考えた。でも今夜は、その考えが続かなかった。どう見えるかより先に、「寒い」という感覚が、体の前に出ていた。寒い。帰らなければならない。

公園を出て、来た道を戻った。商店街のシャッターは、まだ閉まっている。コンビニの明かりだけが、変わらず四角く光っている。団地の敷地に入ると、街灯の下に猫が一匹いた。茶色の虎猫で、柱の根元に体を寄せて丸まっている。静枝が近づいても、逃げなかった。ただ、薄く目を開けて静枝を見た。それから、また目を細めた。静枝はその猫のそばで、一瞬立ち止まった。何かを言おうとしたが、言わなかった。ただ見て、それからエレベーターの方へ歩いた。三階の廊下を歩く。自分のドアの前に立つ。鍵を出して、差し込んで、回す。ドアが、開いた。

玄関の電気がついていた。上がり口に、折りたたんだタオルが一枚置いてあった。靴を脱いで上がると、その下に、使い捨てカイロが一つ。まだ封を切っていないものが、置いてあった。静枝は立ったまま、それを見た。リビングの引き戸が、細く開いていた。向こうの気配を感じた。静枝は引き戸を、そっと開けた。さゆりが、ソファに座って膝を抱えていた。毛布を一枚被って、体を小さくして。でも、眠ってはいなかった。静枝が入ってきたのを見て、顔を上げた。目が、赤い。泣いていたのか、眠れなかったのか、あるいは両方か。二人は、しばらく黙って見合っていた。台所の方から、味噌汁の匂いが来た。静枝は台所に目をやった。コンロの上に、鍋が置いてあった。さゆりが作ったのだろう。鍋の蓋が少しずれていて、湯気がわずかに出ていた。「吹いておいた」とさゆりが言った。声が、かすれていた。「味噌汁も、作った。具は豆腐だけだけど」
「ありがとう」と、静枝は言った。それだけだった。それ以上は、今夜は言えなかった。言う必要があるかどうかも、まだ分からなかった。コートを脱いで、ハンガーにかけた。靴下を変えるために、引き出しから新しい靴下を出した。台所で足を洗って、靴下を履き換えた。それから、椅子に座った。さゆりがカウンターから湯飲みを二つ持ってきて、味噌汁をそれぞれに注いだ。豆腐が一切れずつ、入っている。二人でテーブルに向かって座った。テレビは、ついていない。外の音も、ほとんどない。湯飲みを両手で包んで、静枝は温かさを手のひらに感じた。飲んだ。味噌汁の味がした。薄かった。さゆりは味噌の量をちゃんと計らなかったかもしれない。出しも使っていないかもしれない。ただの湯に味噌を溶いただけかもしれない。でも、温かかった。

夜が明けるまで、二人はほとんど話さなかった。静枝が味噌汁を飲み終えて、湯飲みをテーブルに戻した時、さゆりが「ごめん」と言った。静枝は少し間を置いて、「私も」と言った。それだけだった。謝罪の言葉としては、足りない。でも、今の二人が出せる言葉は、その程度だった。足りないことは、二人とも分かっていた。空が、窓の向こうで少しずつ白くなり始めた。十一月の夜明けは遅い。午前五時を過ぎてから、ようやく空の端がほんのり明るくなる。さゆりが、ソファで横になった。毛布を肩まで引き上げて、目を閉じた。静枝はそれを見てから、台所に入った。湯飲みを洗った。鍋を洗った。床のタイルを、昨夜さゆりが拭いた後もまだ少し汚れていたので、雑巾でもう一度拭き直した。水道の音だけが、静かな朝の台所に響いた。

片付けが終わると、静枝は引き出しを開けた。市役所からの封筒と、さゆりが書いたぐちゃぐちゃな借金のメモが入っている、あの引き出し。その二つを取り出して、テーブルに並べた。椅子を引いて、座った。今日、考えなければならないことが、はっきりしていた。感情は、後でいい。いつかそれを整理する日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。でも今は、現実を動かすために頭を使わなければならない。市役所の封筒を開けた。令和九年十二月末日。あと一年と一ヶ月。さゆりのメモを見た。三社合計、八十一万二千円。利息込みの現在残高は、もう少し増えているはずだった。静枝は手帳を開き、鉛筆を持った。書き始めた。

まず、住居の問題。民間の賃貸は、六十三歳の無保証人では通らない可能性が高い。公営住宅の倍率は三十倍から五十倍で、当たるかどうか分からない。田中が言っていたサービス付き高齢者向け住宅は、月十五万円以上で、今の収入では無理だ。選択肢は、一つだけ残っている。群馬の方に、吉典の遠い親戚が持っている古い一軒家があった。吉典が生きていた頃、一度だけ訪ねたことがある。山の近くで、最寄り駅まで自転車で二十分かかる場所だった。その家が、数年前から空き家になっていると、年賀状のやり取りの中で聞いた。持ち主は七十代の老夫婦で、自分たちでは管理しきれなくなっていると書いてあった。一度、電話してみるしかない。借りられるかどうか分からない。でも、試すしかない。埼玉より家賃は安いはずだ。もしかしたら、格安で、あるいは管理をする代わりに、住ませてもらえるかもしれない。

次に、さゆりの借金の問題。三者のうち、一社は債権回収会社に移管されている。残りの二社も、このまま放置すれば法的な手続きに移行する可能性がある。自力での返済が難しい状況であれば、債務整理か、個人再生か、自己破産か。どれが適切かは、法テラスに電話して聞けば分かる。費用がかからない相談窓口があるはずだ。次に、自分の仕事の問題。スーパーは、来月からシフトが週三日になる可能性がある。駅の清掃は、週五日続けている。どちらも続けながら、群馬への引っ越しを考えると、通勤が成立しなくなる。つまり、群馬に移るなら、仕事も変える必要がある。群馬でどんな仕事があるかは、移った後にハローワークで探すしかない。六十四歳になっている頃の話だ。できるかどうかではなく、するかどうかの問題だった。

静枝は、書き終えた手帳を閉じた。鉛筆の先が、少し丸くなっていた。削っておかなければならない。午前七時を過ぎた頃、さゆりが目を覚ました。毛布の中からゆっくりと体を起こして、髪が乱れたまま、ぼんやりした顔で台所の方を見た。静枝がテーブルに座っているのを見て、少し目を細めた。「起きてたの」「ずっと起きていた」さゆりは毛布を肩からずらして、ソファの端に座り直した。静枝はテーブルの上の手帳と封筒と借金のメモを、少しさゆりの方に向けて押し出した。「少し、話をしなければならない」さゆりは静枝の顔を見た。昨夜の感情的な顔とは、違う顔をしていた。何かを決めた顔だと、さゆりにも気づいたかもしれない。

「今月末に、この棟の封鎖準備が始まる」静枝は言った。「十二月末が期限だから、それより前に出なければならない。私が考えた選択肢は、群馬に移ることだ。吉典さんの親戚が持っている空き家がある。電話して、借りられるかどうか確認する。埼玉で新しく部屋を借りる方法は、今の状況では難しい」
さゆりは、何も言わなかった。「さゆりの借金については、私はもう立て替えない。それだけは、はっきり言う。私の預金では、引っ越しと当面の生活費だけで手いっぱいになる。だから、債務整理の手続きを自分で進めてほしい。法テラスに電話すれば、無料で相談できる番号がある。それを調べて、電話することだけはしてほしい」
さゆりの視線が、テーブルの上の借金のメモに落ちた。「群馬に一緒に来るかどうかは、さゆりが決めることだ。来るなら、群馬で仕事を見つけてもらう必要がある。食品工場の求人は、田舎の方が多い。私も同じ工場で働くことになるかもしれない。条件は、今より悪くなる可能性がある。それでも、来るかどうかは、さゆりが考えること」
「来なかったら?」とさゆりが聞いた。声は、静かだった。「来なかったら、私は一人で行く」
部屋が、静かだった。窓の外に、朝の光が差し始めていた。十一月の朝の光は弱くて、部屋の中まで届かない。でも窓ガラスに、白い光が薄く当たっていた。さゆりはしばらく黙っていた。指先でソファの布地をつまんで、離して、またつまんだ。「分かった」
「何が」
「一緒に行く。群馬でも、どこでも」
静枝はさゆりの顔を見た。昨夜、泣いた跡が、目の周りに残っている。昨夜の感情が全部消えたわけではないだろう。昨夜言った言葉を、撤回したわけでもないだろう。でも、今この朝に、そう言った。「法テラスには、今電話できる?」
「する」
「下で私に教えてほしい。結果だけでいいから」
さゆりは、頷いた。それだけだった。

午前九時になった。静枝は自分の部屋の電話を使って、群馬の親戚に電話をかけた。相手は吉典の従兄弟に当たる人物で、静枝とは吉典の葬儀の席で一度会っただけだった。名前は、山内高尾。七十四歳。電話は五回なってから、出た。「もしもし」と、低い声が聞こえた。静枝は名乗って、吉典の妻であることを説明した。それから、空き家の件を聞いた。単刀直入に聞いた。周りくどくしている余裕がなかった。山内は少し間を置いて、「ああ、あの家」と言った。「確かに、今は誰も住んでいない。年に一度、草刈りだけ地元の人に頼んでる。雨漏りが一箇所あるが、大きくはない。ただ、設備は古い。水道管が古くて、冬は水が出にくくなることがある」
「それでも構いません」と静枝は言った。「家賃については、ご相談させてください。こちらで草刈りや管理を引き受けることもできます」
山内は、また間を置いた。「固定資産税だけ払ってもらえれば、家賃はいらない。ただ、修繕費は自分持ちになる」
「分かりました。いつから入りたい?」
「今年の十二月までに」
「そうか。では、一度内見に来てもらえるか。伺います」
電話を切った。静枝はしばらく、受話器を持ったままでいた。一つ、動いた。たった一本の電話だったが、今朝の静枝にはそれが重かった。受話器をゆっくり置いて、手帳を開いた。山内さんに電話済み。内見日程調整。と書いた。それから、鉛筆を置いた。

十一月の終わりから、静枝は少しずつ荷物の整理を始めた。スーパーの仕事は、十二月半ばで辞める手続きをした。久保田に退職の申し出をした時、久保田は少し驚いた顔をして、「そうですか」と言った。それだけだった。静枝は丁寧に頭を下げて、更衣室に戻った。駅の清掃の方は、十二月末が最終日になった。川崎に話した時、川崎は腕を組んだまま、少し考えてから「お疲れさんでした」と言った。それだけだったが、その言い方が静枝には悪くなかった。

荷物の整理は、週末ごとに少しずつ進めた。捨てるものと、持っていくものを分ける。吉典の遺品は、もうほとんど処分していた。写真だけは、残してある。さゆりの子供の頃の学校の書類、教科書、成績表。全部、捨てた。持っていくものは、生活に必要なものだけにした。押入れの奥から、吉典の毛布が出てきた。十年間、広げずにいたものだ。静枝はそれをゆっくりと広げて、確認した。虫に食われていない。匂いは、もう残っていない。ただの毛布だった。持っていくことにした。

さゆりは、法テラスに電話して相談を予約した。三者のうち、一社については、すでに自己破産の申し立てを弁護士と検討中だと静枝に報告した。残りの二社については、分割返済の交渉に入るという。静枝は「分かった」と言った。詳しいことは、聞かなかった。さゆりが自分で動いている。それだけで、今は十分だった。さゆりは十一月の最終週に、食品会社のジムパートの面接を一回受けた。結果はまだ出ていなかったが、面接には行った。それだけは、事実だった。二人は会話が少ないまま、それでも同じ屋根の下で、荷物を詰め続けた。

十二月の下旬。引っ越し業者の軽トラックが、団地の棟の前に止まった。一番安い業者を選んだ。荷物は少ない。ダンボール箱が十二個と、小さな家具が数点。それだけだった。業者の若い男性二人が、テキパキと荷物を運び出した。静枝とさゆりも、手伝った。団地の廊下を、ダンボールを抱えて何往復もした。廊下は朝から冷えていた。十二月の埼玉の朝は、日が登っても気温が上がらない。息が、白くなった。隣の一〇一号室は、岡村さんが入院してから空き部屋のままだった。廊下に積まれていたダンボールは、いつの間にかなくなっていた。誰かが片付けたのか、岡村さんが戻ったのかは、分からなかった。静枝は、結局最後まで確認できなかった。

荷物が全部、積み込まれた。業者の男性が「確認をお願いします」と言った。静枝は部屋に戻って、最後の確認をした。部屋は、空っぽだった。台所の床のタイルに、味噌汁のシミが薄く残っていた。静枝は台所用洗剤を取り出して、雑巾でこすった。薄くなったが、完全には消えなかった。もう一度、こすった。少し、薄くなった。時間がないことは分かっていたので、それ以上はやめた。リビングに戻った。何もない部屋だった。カーテンレールだけが残っている。フックに、何もかかっていない。窓の外に、十二月の曇り空が見えた。静枝は窓の近くに立って、部屋を見回した。ここに住んで、何年になるか。吉典が死んだのが十年前。その前は、別の場所に住んでいた。ここに来たのは、その後だ。一人で、ここに引っ越してきた。さゆりはすでに結婚していた頃で、引っ越しは静枝一人でやった。この部屋で、一人で何度も夜を越えた。天井のシミを見た。いつも仰向けに寝て、眺めていたシミ。ここから見ると、思ったより小さかった。仰向けに寝て見るより、ずっと小さい。それが、少しだけ意外だった。

何か言葉を残そうと思った。部屋に向かって、一言だけでも。でも、言葉が出なかった。代わりに、静枝は少しだけ頭を下げた。誰に対してでもなく、この場所に向かって。それから、背を向けた。廊下に出た。鍵を取り出して、ドアに差し込んで、引いた。施錠した。鍵を、ドアポストの返却箱に落とした。金属の鍵が、ポストの中で小さく音を立てた。それで、終わりだった。廊下を歩いた。エレベーターを使わず、階段を降りた。一段ずつ、ゆっくりと。一階の出口を出ると、さゆりが軽トラックの脇に立っていた。スマートフォンを見ていたが、静枝が出てくるのを見て、しまった。業者の男性が「よろしいですか」と確認した。「はい」と静枝は言った。さゆりが助手席の方に歩いた。静枝も続いた。乗り込む前に、静枝は一度だけ振り返った。棟の外壁が、朝の弱い光の中に立っている。黄ばんだコンクリートが、変わらずそこにある。三階の、自分の部屋があった窓。カーテンが外れて、ただの四角い窓になっていた。何十年か後に、この棟は解体されて、この窓も消える。コンクリートが砕かれて、また何か別のものになる。静枝はそこまで考えて、視線を前に戻した。

軽トラックに乗り込んだ。助手席。さゆりは、その奥に座った。ドアを閉めると、外の冷気が遮断されて、エンジンの低い音だけが体に伝わってきた。業者の男性がシートベルトを確認して、エンジンをかけた。車が、動き出した。国道に出ると、少し車の流れがあった。信号待ちで止まるたびに、車が揺れた。さゆりが、窓の外を見ていた。団地の棟が、バックミラーの中で小さくなっていくのが、静枝にも見えた。しばらく走ってから、さゆりが「寒いね」と言った。「そうだね」と静枝は返した。それだけだった。でも、それだけで、どこかが少し軽くなった気がした。昨夜の言葉でも、昨日の借金の話でも、これからの不安でもなく。ただ「寒いね」という言葉だけが、今この瞬間の二人の間にあった。

群馬まで、一時間半かかる。静枝は窓の外を見た。埼玉の住宅地が続いている。マンション、商業施設、工場の敷地、小さな神社、駐車場。どれも見慣れた風景だったが、今日が最後だと思ってみると、少し違う色に見えた。群馬に着いたら、どうなるか分からない。山内さんの家が、本当に住める状態かどうか。行ってみなければ、分からない。水道管が壊れているかもしれない。雨漏りが、思ったよりひどいかもしれない。隣に誰も住んでいない場所かもしれない。何もかもが、やってみなければ分からない。でも、やってみるしかない。静枝は手帳を膝の上に置いた。開かなかった。今日は、数字は書かなくていい。今日だけは。窓の外に、遠く山の輪郭が見えてきた。群馬の方だった。山は冬の色をしていた。木々が葉を落として、稜線がはっきりと空に浮かんでいる。静枝は、その山を見ていた。吉典が生きていた頃、山が好きだったことを思い出した。登るわけでも、写真を撮るわけでもない。ただ、山が見えると、吉典は少し表情が柔らかくなった。「山があるところに住みたいな」と、一度だけ言ったことがある。何気なく言った言葉で、吉典自身もすぐに忘れたはずだった。静枝は今まで、その言葉をずっと覚えていた。覚えていたことを、今初めて、吉典以外の誰かに言いたいと思った。でも隣に座っているのはさゆりで、今それを言う場面が見当たらなかった。だから、黙って山を見ていた。

車が国道を離れて、三車線の細い道に入った。田んぼが広がって、その向こうに小さな家が点在している。信号が、少なくなった。「ここら辺、コンビニあるかな」とさゆりが言った。「さっき、一軒見たよ」「よかった」また、沈黙。それから、さゆりが「お母さん」と言った。「何?」
「昨夜のこと、全部が正しかったわけじゃないと思う。言い過ぎたことも、あったかもしれない」
静枝は、しばらく答えなかった。「私も」と、やがて言った。「聞けなかったことが、あった」
「うん」
「全部、一度に解決はできない」
「うん」
「でも、少しずつ」
さゆりは、窓の外を見たまま、頷いた。

車が、山内さんの家の前の細い道に入った。古い平屋が見えた。庭に、草が伸びている。屋根の端が、少し苔むしている。玄関の前に、山内さんが立って待っていた。七十四歳の、背の低い老人だった。静枝はシートベルトを外した。ドアを開けると、冷たい山の空気が入ってきた。埼玉の冷たさとは違う種類の冷たさで、乾いていて、少し木の匂いがした。静枝は、車を降りた。さゆりも、降りた。山内さんが「よく来られました」と言って、少し頭を下げた。静枝も、頭を下げた。庭の草が、冬の風に揺れた。家の向こうに、山の稜線が見えた。吉典が好きだったような、静かな山だった。

答えは、何もない。問題は、全部残っている。債務整理も、仕事も、この家の修繕も、さゆりの就職も。全部、これからだ。何一つ、解決していない。でも、今日の静枝の一日は、ここから始まる。手帳は、まだ膝の上にある。今日の日付を書いたら、また鉛筆を動かせばいい。

最後まで聞いてくださって、ありがとうございました。さえ草静枝の物語は、ここで終わります。答えの出ないまま続いていく毎日を、少しでもそばで感じていただけたなら、それだけで十分です。もしこの話が心に残ったなら、チャンネルの登録といいねをいただけると、次の物語を続ける力になります。またいつか、別の誰かの話で、お会いしましょう。

Thumbnail