夕食が終わった直後、賀さんが突然こう言った。「プレゼンの最終確認をさせて。私の部屋まで来て」。正直、行きたくなかった。賀さんは二十九歳の上司で、有名大学を出たエリート。いつも高圧的で、社会人一年目の俺にとっては苦手な相手の代表格だった。それでも仕事だからと重い足取りで部屋に向かった。ところが、彼女が自信満々に用意した資料が、全部修正前のものだったのだ。指摘すると「そんなはずないわ」と否定され…

夕食が終わった直後、賀さんが突然こう言った。「プレゼンの最終確認をさせて。私の部屋まで来て」。正直、行きたくなかった。賀さんは二十九歳の上司で、有名大学を出たエリート。いつも高圧的で、社会人一年目の俺にとっては苦手な相手の代表格だった。それでも仕事だからと重い足取りで部屋に向かった。ところが、彼女が自信満々に用意した資料が、全部修正前のものだったのだ。指摘すると「そんなはずないわ」と否定され...

夕食が終わると、賀さんが突然そう切り出した。

「プレゼンの最終確認をさせて。私の部屋まで来て」

正直、行きたくなかった。賀さんは俺の上司で、二十九歳。有名大学を卒業したエリートで、性格はきつく、いつも高圧的だった。正論を言われるからこそ心に刺さり、反論もできずに抱え込むしかない。社会人一年目のひよっこである俺にとって、彼女は苦手な相手の代表格だった。

それでも仕事は仕事だ。重い足取りで賀さんの部屋に向かう。何を言われるかわからない。想像するだけで嫌な気持ちになる。

部屋に入ると、賀さんはノートパソコンを広げて資料の確認を始めた。俺も隣で同じ資料を開く。だが、その過程であることに気がついた。

賀さんが自信満々に用意した資料が、全て修正前のものだったのだ。

「え……賀さん、これ、おかしくないですか?」

「そんなはずないわ。私、ちゃんと修正したものを保存したんだから」

「いえ、違うんです。これ、俺が直す前に見たやつです。ここも、ここも、前のままです」

俺は修正前のデータと見比べながら、彼女にその場面を見せた。確かに、俺が修正した箇所が全部元に戻っている。それも、俺が賀さんに渡したはずの修正版ではなく。

「どうしたらいいでしょう。もうすぐ明日の朝にはプレゼンがあるのに」

「今から印刷し直せば大丈夫でしょう。コンビニで刷ってきてちょうだい」

「でも……俺もさっきそれで刷ってきたんです。もしかして、直す前のやつを間違って印刷しちゃったんですかね」

「そんなことありえないわよ」

そう言いつつも、賀さんは自分のノートパソコンを開き直して確認する。そして、画面を見た瞬間、彼女の顔色が真っ青になった。

「……嘘でしょ」

どうやら彼女自身が、修正前のデータを保存していたらしい。上書きするつもりが、逆に古いバージョンを保存してしまっていたのだ。

「ど、どうしますか?」

「待って。少し考えさせてちょうだい」

顔面蒼白で、賀さんは頭を抱えた。初めて見る姿だった。いつもの高圧的で強気な賀さんではなく、取り返しのつかない失敗をやらかした後悔と恐怖に震える、一人の人間の姿がそこにあった。

「どうしたら……こんな資料じゃ、明日のプレゼンなんて……」

その言葉は、いつもの自信に満ちたものではなく、完全に自信を失った声だった。

俺はその姿を見て、胸が締め付けられた。そして、心の奥底からある感情が湧き上がってくるのを感じた。

助けなければ。

「わかりました。今から修正しましょう」

「でも、徹夜しても間に合うかどうか怪しいのよ」

「間に合います。俺、どこを直したか覚えてますから」

「本当に?」

「本当です。やらせてください。俺、全力を尽くします」

賀さんはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。

「わかったわ。じゃあ、お願いする」

それから俺たちは徹夜で資料の修正を行った。俺が修正内容を口頭で伝え、賀さんがそれを反映させていく。午前四時を過ぎた頃、ようやく修正が完了し、早朝のコンビニで再印刷を行った。

「できた……」

「本当にありがとう。大変な思いをさせてしまって、ごめんなさい」

賀さんが俺に謝った。感謝の言葉をかけられたのは、これが初めてだった。この人も、ちゃんと感謝するんだ。素直にそう思った。

数時間後、俺たちはプレゼンに臨んだ。二人とも三十分も眠っていないが、ここまでの努力を無駄にはできない。全力で挑み、取引先からは高い評価を得ることができた。

「終わった……」

「なんとかなったわね」

ようやく気が休まったのは、帰りの新幹線に乗ってからだった。ずっと神経を張り詰めていたから、少し解放された気分だった。

新幹線が動き出すなり、賀さんは大きなあくびをした。

「少し寝てください。着いたら起こしますから」

「でも、ずっと寝てないんですよ。無理はいけません」

「あなたはいいの?」

「俺は大丈夫です。少し仮眠しましたから。それに、緊張しすぎて寝ようにも寝れないんです」

「寝れないの?」

「はい。プレゼンやるのが初めてだったんで」

俺の言葉を受けて、賀さんはどこか嬉しそうに笑った。

「ウーキーだもんね。でも、あなた初めてであそこまでプレゼンをやれるなんて、大したものよ。一緒に来てくれてよかった」

その言葉に、俺は少し照れくさくなった。やがて賀さんは目を閉じ、すぐに眠ってしまった。俺はその寝顔を見ながら、どこか安心している自分がいた。

彼女を助けることができて良かった。そして、彼女を助けられた自分に、少しだけ誇りを感じていた。

この日を境に、賀さんの俺に対する接し方は一変した。今までの冷たい印象ではなく、素直な仕草や笑顔を見せてくれるようになったのだ。

「このグラフ、全体的にはOKだと思うけど、細かい調整が必要ね」

今までは「ここがダメ、あそこがダメ」と否定から入っていたのに、今はまず俺の仕事を認めた上で意見を言うようになった。

「まだ甘いな。あとで直しておいて」ではなく、「ここは良かったよ。でも、ここはこうした方がもっと良くなると思う」という感じに。

賀さんの変化は俺に対するものだけではなかった。他の社員に対しても同じだった。以前のように高圧的に怒鳴ることはなくなり、皆が戸惑うほどだった。

「一体何があったんだろうな」

同僚たちは首をかしげていたが、真実を知っているのは俺だけだった。彼女の変化のきっかけが、あの出張だったことは間違いないだろう。

そんなある日のことだった。

「そろそろ結婚とか考えないんですか?」

同僚の一人が、賀さんにそんなことを聞いた。

「全く、そんなことより自分の仕事をしなさい」

「いやいや、申し訳ない。でも気になりましてね。だって賀さん、いつも仕事が彼氏みたいな感じなんで」

賀さんは半ば呆れたように言った。

「彼氏なんていないわよ」

だが、直後彼女はこう続けた。

「……でも、気になっている人はいるけど」

何気なく近くで聞いていた俺は、その言葉に驚いた。てっきり、俺との出張が彼女を変えたのだと思っていた。だが、実際には違ったらしい。

気になっている人がいる。それが誰なのかはわからないが、もしかしたら俺ではない誰かかもしれない。俺とは無縁の世界にいる男が、彼女を変えたのかもしれない。

その可能性を考えた瞬間、心に重苦しいものがのしかかった。

「……ん、どうしたの?」

「いえ、何でもないです」

そう言ってごまかしたが、俺は自分の気持ちを抑えられなかった。いつの間にか、俺は賀さんのことが好きになっていた。彼女の強気なところも、時々見せる不器用な優しさも、全部含めて好きになっていた。

だからこそ、他の男がいるかもしれないという話を聞いた瞬間、冷静でいられなかった。

気持ちを伝えたい。例え受け入れてもらえなくても、何も言わずに終わるよりはましだ。そう思った。

残業で偶然二人きりになったタイミングを見計らって、俺は話しかけた。

「込み入った話で申し訳ないんですが……賀さんには、好きな人がいるんですか?」

「……変ね。なんでそんなこと聞くの?」

「いえ、ただ、意外だなって思ったんで」

「何が?」

俺はそれ以上何も言えなかった。気まずい沈黙が部屋を支配する。

伝えよう。今言わなければ、ずっと後悔する。俺はそう思い、意を決して口を開いた。

「俺……賀さんのことが好きです。大好きなんです。だから、他の相手がいたとしても、俺のことを選んではくれませんか?」

すると賀さんは、不思議そうな顔をして首をかしげた。

「……他の相手?」

「はい。気になっている人がいるって、さっき言ってたじゃないですか」

「ああ、それ?」

賀さんは少し照れくさそうに笑って、こう言った。

「それって、あなたのことなんだけど」

「え?」

俺は思わず身を乗り出してしまった。

「いや、それは……本当ですか?」

「本当よ。あの出張以来、あなたのことが気になってた。だから、ずっとあなたを気にかけてたんだから」

確かに嬉しい。だが、いきなりそんなことを言われても、驚きの方が勝ってしまう。

「……嫌だった?」

「いえ、嫌じゃないです。むしろ、嬉しいくらいですけど」

勝負どころだと俺は思った。俺は女性と付き合った経験なんてほとんどない。だが、今ここで逃げたら、絶対に後悔する。

俺は一歩踏み出した。

「じゃあ、俺と付き合ってください」

まさか自分がこんな言葉を口にするとは思わなかった。それも、賀さんという相手に。

賀さんは少し間を置いて、そして、はっきりと頷いた。

「はい。よろしくお願いします」

彼女の笑顔を見た瞬間、俺の心は嬉しさでいっぱいになった。俺が思っていた以上に、彼女は俺という存在を大切に思ってくれていたのだ。

こうして俺たちの交際が始まった。最初こそぎこちなかったが、お互いを思う気持ちは確かだったから、距離は早いペースで縮まっていった。

三年後、俺たちは結婚し、二人の親となった。今では幸せな毎日が続いている。

今や妻となった賀さんと、今でもあの日の出張のことをよく話す。

「あの時、本当にどうしようかと思ったわよ。あの資料を見た瞬間、頭が真っ白になった」

「でも、何とかなったじゃん」

「あなたがいたからよ。本当に、あの時は助かったわ」

俺たちを結びつけてくれたのは、あの出張だったのだ。あの、最悪なミスから始まった出張が、俺たちの人生を変えた。

今でも時々思う。あの日、賀さんが資料のミスに気づかなかったら。俺が彼女を助けようと思わなかったら。今の俺たちは存在していなかった。

人生の転機は、いつも予期しないところからやってくるのだ。

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