俺は神田勇気。四十を少し過ぎた中間管理職で、総務課長という立場で会社の裏方を支えている。経理や給与、人事関係の仕事が中心で、日々のルーチンワークがほとんどだ。有能な部下たちに恵まれて、なんとか問題なく回している。この業務が滞れば会社全体が止まりかねないから、普段から慎重にやるよう口酸っぱく言い聞かせてきた。
昼をだいぶ過ぎた十四時近く、入社四年目の大崎ミキが声を潜めて言った。
「あの、課長。まだ来てません」
「誰がだ」
「田端さんです」
つい十日ほど前、社長のゴリ押しで入社した新人、田端ルナのことだ。困ったことに、こいつが不良すぎて手を焼いている。遅刻や欠勤は毎日。昨日なんか少し注意したら泣き出して、トイレに行ってきますと言ったきり事務室に戻ってこなかった。すみません、明日から心を入れ替えて働きます、と言ったのはまったくの嘘だった。
「昨日、そう言ってたんですけどね」
ミキが呆れたように付け加える。ルナは二十六歳。もう立派な大人だ。短大を卒業後、キャバ嬢として地元の店から首都圏まで様々な店を渡り歩いてきたらしい。
入社初日に手渡された職務経歴書らしきものには、驚かされた。キャバ嬢としての経験が中心なのはまだいい。体験入店まで経歴の一つとして堂々と書いてある。さらにキャバクラ以外の風俗店で働いていたことも包み隠さず記載されていた。しかもラメ入りのインクのペンで装飾してあり、あちこちにハートマークや星マークが散りばめられている。これを親が見たらどう思うのか。俺には小学生の娘がいるが、こうならないようにきちんと教えていかねばと心から思った。
「あの、こんなこと聞くのはあれですけど、田端部長は、このことご存知なんでしょうか」
ミキが不安そうに言う。田端ルナは、弊社の都市部の支社にいる田端部長の娘なのだ。田端部長は人望が厚く、人当たりも良い。彼でなければ商談に応じないという顧客がいるほどだ。娘が本社にいることを知っているのか。そして、娘の振る舞いで社員が困っていることを知らせるべきなのか。ミキが心配するのは、俺も同じことだった。
社長は軽いノリで「じゃあ、そういうことでよろしく頼むよ」と、ルナを総務に置いていった。二十六歳とは思えない行動と、田端部長の誠実さがどうしても噛み合わない。社長が連れてきたのだから知っているはずだと思いたかったが、本当にあの人の娘なのかという疑問しか残らない。
「あの人、本当に私の父親ですよ」
俺とミキが話している脇で、突然ルナがにやりと笑いながら肯定してきた。カジュアルな服装で、けろっとした顔をしている。
「おはようございます」
「今何時だと思ってるんだ。遅刻にも程があるだろう」
「だってキャバクラはさ、行きたい時に出勤すれば良かったんだもん」
「ここは会社だ。酒を提供する店とはわけが違う」
「何よ、課長さん、私に説教するの? 私は田端の娘だし、社長にも気に入られてるんだから」
切り札を出されたように思えたが、俺は引かなかった。
「田端さん」
「ルナって呼んで」
「やだ。なんか学校みたいだ」
「ここは会社なんだけどな。まあいい。ルナさん、君は酒を飲んでここに来たのか?」
「正解。駅前のバルでランチ飲み放題プランがあったので、朝ごはん代わりにビールを飲んできました」
「ちょっと待ってください。ランチタイムなのに朝ごはん代わりって」
ミキが呆れた声を出す。ミキは高卒入社だが、しっかりしている。
「ふん。課長に怒られて心が折れたルナたんは、夕べホストの彼氏と一緒にアフターを楽しんでました。で、今朝は二日酔いです」
ミキは汚いものを見たかのような目でルナを見ている。俺はミキに仕事へ戻るよう伝えてから、ルナを応接スペースに促した。
「ルナさん、君は会社を何だと思ってるんだ」
「自動的にお金を振り込んでくれるところ。いるだけでお金もらえるなんて、なんかいいじゃん。キャバクラはさ、日は良くてもお客さんがつかなきゃ最悪だし」
「自動的にお金をもらえる場所じゃないよ。仕事をして会社の利益を生み出した対価をもらうんだ」
「でも、なんでこの私がコピー取ったり郵便屋さん行ったりしなきゃなんないのよ」
「仕事だからだ」
「もっといい仕事ないわけ? アメリカに出張して商談するとか、パソコンぱちぱち叩いて数十億の仕事を一瞬でこなすとか」
「そもそもそんな仕事はここにはないな。もしあったとしても、遅刻したり酒を飲んでから出社する社員には任せられない」
「ああ、そ、そうですか。私が田端の娘だって分かって言ってる」
「田端部長だって同じことをおっしゃると思うよ。ここに呼ぼうか?」
「そんなことしなくていいわよ」
「じゃあ、最後のチャンスを与えるよ。明日からは酒を飲まず、遅刻もせず、きちんと出社できるね」
「説教する気?」
「説教と捉えるのか。これは教育的指導なんだけどな。もし説教だと思うなら、お父さんに言ってやめてもらうといい」
「ああ、君がそれでいいなら、やめるといい」
ルナは手帳から一枚の小さな紙片を引きちぎり、ペンでひらがなを描いて俺に突き出してきた。
「退職届。今日でやめます。六月十八日、田端ルナ」
「ああ、ここに会社名を書くとかっこいいな」
ルナはふくれっ面をしながら、うちの会社の名前を書き足した。
「で、反抗すんでしょ?」
そう言って、何やら印鑑を取り出した。十三ミリの銀行印だ。
「彼に婚姻届に印鑑を押してほしいって言われたから買ったんだ。その前に他の書類にも押したから、これも練習」
もう仕事をやめるだのなんだのといった次元の会話ではなかった。どんなに立派な印鑑であるかを解説し始めたので、俺は呆れて言った。
「ああ、その話はまた今度。これは人事部に提出するよ。じゃ、おしまいね。バイバイ」
ルナはそのまま会社を去っていった。やれやれ、とため息をつく。あれが退職届として通用するかどうかはさておき、俺は田端部長がいる支社へ電話を入れた。
夕方、大急ぎで車を飛ばして本社へやってきた田端部長は、そのふざけた退職届を見て愕然とした。
「申し訳ない。娘が……」
深々と頭を下げてくれた。ルナがこの会社に入社したことは、まったく知らなかったという。
「ルナは兄の娘でね、私が引き取ったんだよ」
田端部長の兄が亡くなり、一時は母親がルナを育てることになったが、置き去りにされたような形だったそうだ。ルナが原因で兄は妻と不和になり離婚。行き場を失ったルナを田端部長夫婦が引き取って養育した。その時ルナは中学生で、すでに手のつけられない不良に仕上がっていたという。
「この退職届を有効にしてもらいたい。彼女には、少し痛い思いをさせないとダメかもしれない」
だが、なぜ社長がルナを連れてきたのか、田端部長も不思議がっていた。俺はその表情を見逃さなかった。
田端部長は紙切れ一枚を持って、人事部へ向かっていった。
それから一週間が経った頃、朝の始業時間に突然ルナが現れた。
「おはようございます」
俺を含む社員全員が、なんだこいつ、誰だこいつ、といった冷ややかな目でルナを見る。
「何よ、田端ルナが出勤してやったのよ。なんて目で見るのよ」
「出勤? ここは夜の店じゃないぞ。会社だぞ」
「なんてことを言うのよ。それくらい分かってるわよ。だから心を入れ替えて来てやったんじゃないのよ」
「随分と長い反省期間だったな。ただ、遅かったよ。もう君の退職届は受理されたし」
「え? あんな紙切れが通用するの? おかしくない?」
「文字や紙がどうであれ、書式は成立していたからな。人事部が自己都合による退職として受理したよ」
「それは向こうよ、向こうでしょ? 私は誰だと思ってるの? 田端の娘よ。ふざけないで」
「俺自身、君を首にしようと動き出したけど、田端部長が、退職届があるんだからと、自己都合でまとめてくれたんだ。感謝しろよ」
「なんで父親が関わってくるのよ」
「秋の異動で、田端部長は部長として本社に戻ってくる内事があるからだよ。その前に、田端部長にとってネガティブな要素は断ち切っておきたかったってことさ」
「私がネガティブな要素ってこと?」
「それは俺の言うことではないよ。それより君は、どうして今になって出社してきたんだ?」
「働かないと生活ができないって分かったからよ」
「キャバクラに戻れば良かったじゃないか。日がいいんだろう」
ルナはここで一瞬、俺を睨みつけた。
「戻れなかったのか?」
ルナはしくしくと泣き出した。彼女の泣き落としには、もう騙されない。ほんの数週間前も、泣きながら心を入れ替えて働きますと言っていたのだ。
「知ってるよ。何もかも」
俺はここで、ルナが職場を去ってからの一週間で分かったことを話すことにした。
「売り掛け金を抱えたまま、複数の店を飛んだんだって」
ルナの顔色が変わった。
お客さんがツケを払わずに夜逃げした場合、担当のキャスト、つまりキャバ嬢がそのツケを肩代わりすることになる。ルナはその肩代わりを支払わないまま、何件もの店で同じことを繰り返して姿をくらましていた。どんなに地元を変えたところで、要注意人物として店の間で情報が回る。夜の世界には、もう戻れないということだ。
「訴えられるべきは、付けを払わない客でしょ。そうだよね、本当は。けど、君が店を飛んでしまえば、責任を追うのは君になっちゃうんじゃないか」
痛いところを突かれたルナは黙り込んだ。
「それと、君は連帯保証人として、ホストの借金を肩代わりしたんじゃないか」
「え? 何よそれ」
「この前言ってた、婚姻届に印鑑を押す練習だとか言って、彼が出してきた書類に署名捺印しなかったか?」
「署名捺印? 何それ」
「印鑑を押したよね。彼が出してきた書類に」
ルナが軽くうなずく。
「それ、君が闇金から二百万借りたことになってるらしいね。うちの会社に、柄の悪いおじさんたちが押しかけてきたよ。君の彼氏は、その金を持って逃げたって」
「嘘? 嘘よ」
ルナがスマホでホストの彼氏に連絡を取ろうとしたが、電話も何もつながらなかった。
「婚姻届も嘘だったってこと? なんちゃら証明を取りに行くから印鑑持って来てって言われて、頑張って区役所まで行ったのに」
多分、ルナが言うなんちゃら証明とは証明書のことだろう。住民票の写しを取りに行かせて、借金を仕組んだのだ。ホストはルナを騙し、容易に人に騙される状態で金を騙し取ったのだ。
ルナも、ぼんやりとだが自分が置かれている立場を理解したようだった。
「じゃあ、パパを呼んでよ」
「田端部長なら、もうすぐ来ると思うよ」
「違うわ。そのパパじゃない。めぐっちょ」
「めぐっちょ?」
ルナはバッグから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を俺に差し出した。
「この人よ」
見覚えがある。会社はまさしくうちの会社のもので、目黒社長の名前が記載されていた。
「目黒社長? めぐっちょ? お金をくれるパパだったのか?」
俺は頭を抱えてうずくまってしまった。パパ活の相手が、弊社の社長かよ。
「最近金払いが悪くなって、キャバクラの飲み台も飛ばしやがったんだよ。めぐっちょの家に乗り込んでやったら、月三十万の給料をやるからうちの会社で働けって言うから来てやったのに。これってありえない」
俺は額を指で押さえながら、ルナの衝撃発言を頭の中で整理しようとした。前の店に来ていた客の一人が会社社長だと言うから名刺をもらったら、父親の勤務先だった。このおっさん使えると思ってパパにしてやったのに、これじゃただの気持ち悪いおっさんだ。三回ぐらい我慢して相手してやったのに、損したわ、と。
だんだん収拾がつかない事態になってきた。これは俺だけで収まる話ではない。俺はふらふらする頭をなんとか回復させて立ち上がった。そこへ田端部長がやってきた。
俺はこの十分ほどの間に起こった出来事をすべて話した。田端部長は顔を赤くしたり青くしたり、目まぐるしい表情の変化を見せた後、うめくように話し始めた。
「会社に闇金の取り立て屋が来たって。社長とパパ活。客の売り掛け金を支払わずに店から姿をくらましたって」
田端部長自身の口調が、怒りに満ちていた。ルナの顔色が、途端に変わる。父親は、怖い存在なのだろう。
「神田課長。社長を呼びました。ルナさんの名前を出すと来ないと思ったので、嘘の内容で呼び寄せています」
ミキはこの状況を瞬時に判断して、社長室へ電話をし、社長を呼び寄せたのだった。
社長が急いで事務室へ飛び込んできたが、ルナと田端部長と俺とミキが揃ったのを見て、何かを察したようだった。
「社長。田端ルナさんは、田端部長の娘さんです。パパ活の事実とは、いかがなものでしょうか」
社長とルナが夜の関係を持っていたという内容は、俺でも頭がクラクラする話だったのに、ミキは淡々と社長に事実を告げている。
「恐れ入りますが、これまでの皆さんの会話を録音させていただいております。こちらは人事部に提出いたします。先日、反社会的勢力の方が二名、この総務科を訪れてから、ずっと記録を取っております」
ミキのさすがの対応が、社長の逃げ道をがっちりと封じた。
その後のことだ。ルナの退職届は、使用期間十四日以内だったため、正当なものとして扱われた。社長はパパ活の事実を役員会で追及され、解任に至った。ルナに甘言を弄されて入社を許したと社長は話していたが、飲み代を付けにしたまま支払わなかったことが発端だと役員会で指摘された。月三十万のパパ活資金を会社の給与として提供する、と考えることもできた。これらの言い訳を覆すことができず、社長はこの組織から追放されてしまった。
田端部長は父親としての責任を取り、退職届を出したが、直接の関係がないということで減給処分にとどまった。
ルナは、ホストの彼に騙されて借金を背負わされた事実と、闇金に追われていることを警察に届け出た。売り掛け金の滞納については、田端部長が立てた弁護士と各店の間で話し合いを行うらしい。
ルナは、結婚の約束をしたホストの彼氏が、また自分の元に帰ってくると強く信じている。今回の出来事のショックが大きすぎたため、心が夢の中へ逃げ道を作ったと見られる。ルナの挙動がおかしくなったため、田端部長が山の上にある病院へ入院させたそうだ。
怒涛のような数週間が過ぎ、やっと以前と同じリズムで仕事を進めることができそうだ。新しい社長が赴任したが、今度の社長は生真面目さだけは日本一と呼ばれる人だ。突然社員を連れてくることもなさそうだ。
俺は、平穏無事に過ごせることが一番であると、噛みしめている。



