夫に初めて会った頃から、彼は何度も言っていた。お袋とはあまり関わらなくていいよ、って。友人時代からの付き合いだった義姉も、うちの母は変わってるから無理に仲良くならなくていいと思うよ、と言っていた。だから私は、どんな人なんだろうと身構えていたのだ。
私は小さい頃に両親が離婚し、学生時代には母を病気で亡くしていた。だから結婚したら、夫の両親と実の親のように仲良くなりたいとずっと思っていた。それだけに、夫と義姉のその言葉は少し寂しかった。実の子ども二人にそう言われるお母さんは、一体どんな人なんだろう。怖い人なのか、変わった癖があるのか。想像はどんどん膨らんでいく。
その数日後、夫の実家でご飯を食べないかと招待された。お父さんに会うのも初めてだったので、私は緊張しながら車に乗り込んだ。
噂のお母さんは、実際に会ってみるとどこもおかしいところはなかった。優しい口調で、料理も上手で、キッチンもすごく綺麗に片付いていて、正直尊敬してしまうほどだった。私を気遣ってくれるし、変に干渉してくるわけでもない。世間話で自然に盛り上がれた。
逆に問題だったのは、お父さんの方だった。最初はあまり口数が多くない人だと思っていた。だがお酒が入ると、どんどん本音を表し始めた。
「そんなダサい服、どこで買うんだ?」
「中卒で恥ずかしくないのか?」
笑いながらそう言われた。私は愛想笑いを浮かべるしかできなかった。夫は見て見ぬふりをしている。私を馬鹿にすることに満足すると、次はお母さんに標的が移った。
「お前はやることがいつも遅い。本当に何もできない女だな」
怒鳴り始めたのだ。お父さんは完璧なモラハラ気質だった。こんなことが日常茶飯事なのだろう。夫も義姉も、何も気にする様子もなくご飯を食べている。確かにお母さんは少しおっとりした性格ではあったが、部屋も綺麗だし、きちんと家事をしていることは初めて来た私にもわかった。お父さんはお母さんの物静かな性格が気に入らないようだった。
「いつも静かでつまらない。だから俺の親戚にも嫌われるんだ」
そう怒鳴ると、お母さんは「ごめんなさい、ごめんなさい」とひたすら謝っていた。そんな光景を見ながら、私はもやもやした気持ちのまま、その日の食事会を終えた。
その後、しばらく義実家に行くことはなかった。だが子供を授かり、私たちは結婚することになった。元々家も近かったこともあり、義実家へ行く機会が増えていった。お父さんは相変わらずのモラハラぶりで、私は関わらないように遠くへ避難していた。すると自然とお母さんと話すことが多くなり、徐々に仲良くなっていった。
ご飯の後片付けを二人でしていた時、私は思い切って聞いてみた。
「お父さん、いつも当たりが強いですけど、大丈夫ですか?」
心配だったのだ。するとお母さんは、こうなった経緯を静かに話してくれた。
お母さんは昔から小説を読むことが好きで、学生時代はひたすら本を読んでいて、あまり人と関わる機会がなかったのだという。そのせいで話すことが得意じゃないと言っていた。友達も少なく、男性経験もなかったお母さんは、お父さんとお見合い結婚で出会った。出会った時から「もっと大きな声で話してくれ。何言ってるか聞こえない」と言われていたそうだ。その時から、この人とは会わないだろうなと思っていたらしい。だが親がお父さんを気に入ってしまい、勝手に結婚が決まってしまった。
「結婚生活は最初から変わらずよ。困っちゃうわね」
お母さんは、無理やり笑顔でそう言った。私はそう感じた。自分の気持ちをうまく伝えられないと、「何言ってるんだ?分かりやすく言え」ときつく言い返されてしまう。それでお母さんはさらに無口になってしまったそうだ。夫も義姉もお父さんに似たのか、はきはき話すタイプなので、お母さんとは合わないのだろう。お父さんが言うことは間違っていないと思っているのかもしれない。
「お母さんはいつも何を考えているかわからない。俺たちのことどうでもいいの?」
夫や義姉にそう言われるようになったそうだ。私から見たら十分素敵な母親なのに、家庭内での地位がすごく低くて、心が痛んだ。
私も小説はよく読んでいて、家にも大量に本がある。実は昔、小説を自分で書いて応募したこともあった。しかし何度出しても受賞はせず、今や恥ずかしい過去だ。お母さんと話しているうちに、好きな作家さんが同じだと分かり、さらに意気投合した。
夫がいない時でも、義実家へ遊びに行くようになった。お父さんがいると嫌だったので、仕事でいない日を見計らって、隠れて会うようにした。もちろん夫には内緒で。だが仕事を早く終えたお父さんに見つかってしまった。
「俺がいない時に家へ上がるとは」
しばらく出入り禁止にされてしまった。そのことは夫の耳にも入り、夫にも説教された。
「お父さんが怒るのも当たり前だ。お母さんとは会うな」
私は納得がいかなかった。お母さんと会うのが、そんなにいけないことなのか。
お母さんに連絡をして、今後は外で会うことにした。だがお父さんにすぐにバレてしまった。後をつけてきていたそうだ。そして「次に二人で隠れて会うことがあれば、会えない距離へ引っ越しをさせる」とまで言われてしまった。
仕事もあるから引っ越しは困る。もう二度と母と会うな。夫にまで言われ、私も監視されるようになった。義姉からは「実の娘よりも嫁を可愛がるなんて頭おかしいわよ。ふざけるな」とお母さんは言われるようになっていた。
おかしい。お母さんを阻害していたのは、家族である自分たちなのに。私は不審に思ってしまった。こんな状況が続き、夫との仲もどんどん悪化していった。私はどうにかお母さんと会おうとしていたが、「これ以上みゆさんを苦しめられないわ」とお母さんの方から会ってくれなくなってしまった。お母さんはさらに心を閉ざしてしまった。
その後、お母さんは体調を壊してしまったようで、家事もあまりできなくなったと義姪から聞いた。それを聞いた私は心配で家の近くまで行ってみた。するとフラフラと歩いているお母さんを見かけた。ちょっと見ないうちに、少しやつれたような気がした。もちろん声をかけることはできず、その日は帰宅した。
後日、お母さんが倒れたと連絡が入った。すぐに病院へ向かう私。私の顔を見るなり、お父さんが指を刺してこう言ってきた。
「こうなったのはお前のせいだ」
夫や義姉も「お母さんがおかしくなったのは、みゆと関わるようになってからだ」と攻めてきた。私もそれから病んでしまうようになった。外へ行く気力もなくなり、家で引きこもるようになってしまった。そして、もうすぐ子供が生まれるのに、幸せに育てられるのか不安に感じるようになってしまった。
そんな時だ。お母さんから連絡が入った。
「今、一人なの」
夫は仕事で不在だった。久しぶりにお母さんと会うことになった。なぜかお母さんは生き生きしている。
「よし、みゆさん、荷物をまとめて私と旅行に行くわよ」
お母さんは笑顔で言い出した。
「え?」
私は声を出して驚いた。
「息抜きも大事大事。みゆさんが楽しくないと、お腹の子も悲しがってるわよ」
その言葉で私は目が覚めた。よし、行きましょう。荷物をまとめて、お母さんと旅行へ出かけた。夫には「息抜きしてきます」とだけ置き手紙を残した。温泉へ行き、美味しいものを食べて、大好きな小説についてたくさん話をした。
家へ戻ると、義実家の家族三人が待ち伏せをしていた。
「二人で何をしているんだ?次に会ったら遠くへ引っ越しさせると言ったよな」
お父さんが声を荒げて怒鳴ってきた。義姉も「ありえないわ。お母さんに何かあったらどうするの?他人のくせに」と私を睨みつけている。夫も怒っている様子だった。何も言わないが、表情でわかった。
そんな時だ。
「いちいちうるさいのよ。あんたたちに関係ないでしょ。散々私を馬鹿にしてきたくせに」
あんなに温厚だったお母さんが怒鳴ったのだ。三人はあ然としている。お父さんは開いた口が塞がらない様子だった。
「家族らしくないから、強制切りで家族を辞めさせてもらうわ。リビングのテーブルに離婚届を置いておきました。今まで私にしてきたモラハラの証拠は全て取ってあるので、弁護士に渡してあります。後日弁護士から連絡がありますから、対応してくださいね。今後は私ではなく弁護士と話してください」
お母さんははきはきとそう言った。
「な、なんだと?そんなこと、お前ができるわけない」
「私を舐めないでちょうだい。いつか離婚してやるって、ずっと思って過ごしていたの。あなたといたのは、あくまでも証拠集めのためだけよ。慰謝料がっつりもらうから、覚悟してちょうだい」
お母さんは優しい笑顔に戻り、私にこう言った。
「今後、みゆさんはどうしたい?」
その言葉で、私の気持ちも決まった。
「もちろん私も離婚します」
その言葉に夫が慌て出した。
「自分の母親を大事にできない人が、我が子を大事にできるとは思えない」
私がそう言い放つと、夫は黙ってしまった。何も言い返せずにいた。
そのまま私とお母さんはビジネスホテルに泊まり、今後について話をした。その後、お母さんとお父さんは離婚成立。慰謝料もがっつり取ることができたそうだ。モラハラの音声を聞いて、弁護士は「これはひどいな」と言っていたようだ。私には夫から何度も謝罪の連絡が入っていたが、私はそれを拒否した。少し時間はかかったが、無事に離婚することができた。
お互いの離婚成立祝いをお母さんと開催した。セカンドライフを楽しもうと、お祝いをした。
その半年後、私は無事出産した。最初に子供を抱いたのは、もちろんお母さん。お母さんは涙を流していた。そして私は今、シングルマザーで頑張っている。お母さんとは今でも変わらずに仲良しだ。お互いの家を行き来しながら。
あの家族はと言うと、家事を完璧にしていたお母さんが急にいなくなり、家の中は大荒れ状態。義姉も家事は全くできず、料理も食べられたものではないので、毎日外食しているそうだ。私と離婚後、夫も実家へ戻っており、家族三人で毎日てんてこ舞いしているのだろう。お母さんも私もいなくなって、家事の大変さ、大切さを味わってもらえて良かった。ちゃんと反省してほしい。
そしてここからが幸せな話だ。お母さんは今、恋をしているそうだ。趣味で始めたテニスで出会ったらしい。たまに二人でお茶をしているそうで、恋の効果は絶大だ。お母さんが綺麗になっているのが分かる。
「こんな年して恥ずかしい」
顔を真っ赤にしてお母さんは言う。私は「恋をすることに年齢は関係ないし、恋をすることはとても素晴らしいことよ」と伝えた。お母さんは嬉しそうに笑った。
私もいつか、そんな相手に出会えるだろうか。その時は、お母さんにすぐ紹介しようと思う。



