「無能はいらない。」
部長は俺の顔を見て、嘲るようにそう言った。もし俺を排除したらどうなるか、あの男には分かっていないのだろうか。俺は悔しくてたまらなかった。いつか必ず、思い知らせてやる。
俺の名前は樋口二。四十二歳。五年間、食品関連の会社で働いている。昔は活発な子供だったが、中学生の頃にパソコンが世に出てきたことで、すっかりコンピューターに夢中になった。それを機に情報処理科のある高校へ進学し、卒業後は専門学校でプログラミングを学んだ。いくつかの会社でプログラマーとして働いた後、今の職場に落ち着いたのだ。
今の会社で俺はITシステムの構築を担当している。社内で唯一のプログラマーであり、商品の製造上重要となる新システムの開発を任されていた。社長から直接、プログラミングを依頼されることもあった。商品製造の再現性を高めるために、システムが必要だというのだ。つまり、俺がいなければシステムは構築できない。責任は重大だからこそ、俺は開発に心血を注いでいた。
しかし、会社には和田部長という上司がいる。和田部長は俺より十歳年上だが、なぜかそりが合わない。日頃からの態度を見ていると、俺がプログラマーであることを快く思っていないらしい。
ある日、俺が集中してプログラムを組んでいると、部長がやってきてこう言った。
「なんだ? お遊びをやってるのか? プログラムだか何だか知らないが、ゲームの延長みたいなもんじゃないのか?」
何を言っているのだろう。プログラミングがゲームの延長なわけがない。最初はゲーム感覚で身につけることもあるかもしれないが、仕事にするなら覚えることは山ほどあるのだ。
「そんなことはないですよ。プログラミングは覚えることも多くて、楽しいことばかりじゃないですから」
俺が気にしていない風を装って言うと、部長は鼻で笑った。
「気楽でいいよな。責任があるわけでもないんだからな」
そう吐き捨てて去っていった。責任がないわけがないだろう。俺がこのシステムを完成させなければ、この会社の商品の製造に関わってくるのだ。もしかしたら、部長は俺に因縁をつけたいだけなのではないかと思えてくる。
そんなある日、俺はやっとの思いでシステムを完成させることに成功した。道のりは大変だったが、思ったよりは早く出来上がった。ほっとした気持ちでいると、俺のいるシステム開発部に部長がやってきた。歩き回りながら俺のところに来て、こう言う。
「なんだ? サボってるのか?」
「いえ、そういうわけじゃありません。仕事が一つ終わったから、一息ついていただけです」
「一体何の仕事だよ。思いっきりあくびしながら伸びていたくせに」
その言葉に俺はカチンと来た。せっかく新システムが完成したというのに、たまたまこの場に来ただけで、そんなことを言わないでほしい。部長はさらに続けた。
「パソコンで遊んでいただけだろ。無能はいらない」
俺たちの様子を察したのか、部下の宮下が俺と部長の間に割って入った。
「和田部長。樋口さんは無能なんかじゃありません」
「何を言ってるんだ。どうせパソコンオタクだろ。うちの会社の何に役立ってると言うんだ」
「部長こそ何を言っているんですか? うちで新システムを開発しているのを、部長だって知っていますよね」
宮下が言うと、部長は押し黙った。
「新システムの開発を主導していたのは樋口さんなんです。システム開発の責任者なんですよ」
宮下は必死に弁護してくれたが、俺は「いいです」と言って遮った。
「ふん。システム開発を知っているが、それがどうしたというんだ。こいつみたいな無能に作れるんなら、誰だってできるんだろう」
もうこんなところにいたくなかった。ただ、それだけだった。
「もういいです。お望み通り消えますので」
「はあ? 消える? 消えろ」
部長が手をひらひらと振るので、俺は頭を下げて立ち去ろうとした。宮下が「樋口さん」と焦って俺と部長を交互に見る。
「いいんですね。俺がいなくなったら、後悔しますよ」
そこにいた社員たちは、みんな俺たちの会話を聞いて顔を青ざめさせた。俺がいなくなったらどうなるか、社員たちは分かっているからだろう。俺は自分の席に戻り、片付けを始めた。もちろん、会社を辞めるためだ。
「ま、待ってください。まさか辞める気ですか?」
「ああ。だって、いらないって言われたんだから、いられないもんな」
「でも、樋口さんがいなければシステムはどうなるんですか?」
それくらい俺だって分かっている。けれど、無能だ、不要だと言われたなら、去るしかないのだ。
「悪い。システムについては、お前たちも十分に理解しているだろう。あとはお前たちに任せるよ」
俺はポンと宮下の肩を叩いた。完成したシステムを放置して去ることは、逃げなのかもしれない。俺だって、自分がいなければシステムが回らないこと、製造に影響が出ることは分かっている。それでも、プライドを捨ててまでここにはいられなかった。
すると、騒ぎを聞きつけた社長が現れ、余計にその場は騒然となった。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
俺も部長も、社長の登場に驚いた。
「社長。和田部長に『いらない』と言われたので、私は今日で退職させていただきます」
そう言って、俺は書いたばかりの辞表を手渡した。
「あ、何を言っているんだ、樋口君。君がいなければシステムはどうなるんだ?」
宮下も「そうですよ」と心配そうな面持ちで見つめてくる。社長は俺の父親の幼馴染みだ。だからと言ってコネ入社ではないが、ずっと俺に対して良くしてくれていた。俺が社長の幼馴染みの息子だということは、社員たちには知られていない。
「本当にすみません、社長。でも、俺は耐えられません」
「一体、和田君と何があったんだ?」
相当迷ったが、我慢の限界に達していた俺は、社長に告げることにした。
「実は、和田部長は俺のことを見下しているようなんです。部長から『プログラミングはゲームの延長だ』とか言われて」
それを聞いた社長は「何だと」とひどく驚いた様子だった。
「なんてことだ。樋口君がいるから我が社の業務は回っているというのに、和田君は何も分かっていないのか?」
「新システムの開発が先ほど終わったんですけど、部長は『俺じゃなくても誰にでもできることだ』と言うんですよ」
そして、『無能はいらない』と言われたため、退職を決めたことを社長に告げた。社長は和田部長の話は聞かなくていいから考え直してくれと言う。しかし、部長が同じ社内にいるのでは、俺は安心して仕事ができない。なおも社長は俺を引き止めてくれたが、俺は会社を後にしたのだった。
父親との付き合いもあるし、社長にはとても申し訳ないと思う。それでも、もう後戻りはできないのだ。ただ、俺はこれからどうしようかと悩む。怒りに任せて退職してしまったが、無職になってしまったのだ。
帰宅後、俺はすぐにネットで転職先を探すことにした。とはいえ、俺の年齢にもなると、そう簡単にことが運ぶはずがない。少しは会社を辞めたのは早まったかとも思ったが、それでも前に進むしかないだろう。
求人情報を探していたところ、宮下から電話がかかってきた。
「樋口さん、本当に辞めちゃうんですか?」
「ああ。言った通りだよ。今は求人を探してる」
「社長が部長のことを怒ったんですよ。樋口さんに辞められると困りますからね」
俺がいなければ、システムの今後の運用もできないし、メンテナンスだってできない。商品の製造にも関わる事態となる。そうした点を、部長はあまり深く考えていなかったようだ。部長という役職にありながら社内のことを把握していないなど、言語道断ではないか。社長は「そんな大事な人材を無能とはどういう件だ」と言って、珍しく怒ったらしい。顔を真っ赤にして、部長は「申し訳ありません」と何度も謝っていたそうだ。
「それはありがたいけどな。でも、もう戻れないよ。すでに去った場所だし」
「まあ、もし俺が樋口さんの立場だったとしても、きっと辞めたくなるとは思いますけど」
「そうだろ? 冷たいようだけど、俺はもう会社の人間じゃないから」
宮下はひどく気落ちしたようだったが、俺は「すまない」と言って電話を切った。
それから案の定、元いた会社ではパニックとなり、製造ラインがほぼ全てストップしたという。もちろん、俺が開発したシステムが機能していないからだ。商品が取引先に供給できなくなり、非常事態となっているらしい。そんな話がちらほらと聞こえてきていたが、俺は、俺を無能だと切り捨てるとどうなるのか、部長に分かってほしかった。部長の言動により会社がどうなるのか理解し、責任を取ってほしかったのだ。
こうした状況になり、部長は果たしてどんな心境でいるのだろうか。そんなことを考えながら、俺はとある会社の求人に応募した。俺のプログラミングの技能を生かせそうだったからだ。新たな再出発に向けて、不安と期待が入り混じった心境でいた。
しかし、状況は違う方向へと向かっていった。
ある日、俺は元職場の社長から会社に呼び出された。退職した会社に行くのは気が進まなかったが、仕方なく俺は会社を訪れる。何の用かと尋ねると、社長はこう言った。
「和田君がな、商品の検査で不正をしていたんだよ」
それを聞いて、俺は「えっ」と驚きの声をあげた。俺に嫌がらせをしてきた部長だが、そうした噂は聞いたことがない。周囲に人脈を張り巡らせていたのだろうか。
「和田君は不正を主導していたわけではないようなんだが、検査をする部署に協力をしていたそうなんだ。社内で監査を行ったところ、発覚したらしい」
そういえば、監査が近々あると聞いていた気もする。俺のことだけでなく、部長がそうしたことをしていたのなら、とても残念だ。
「和田君のことは、処分をすることになると思う」
それは仕方がないことだろう。しかし、社長は何のために俺を呼んだのだろうか。そんなことを考えていると、社長がこんなことを言う。
「そこでなんだが、我が社に戻ってきてくれないか」
俺は驚いて、また声をあげてしまう。
「システムを削除した君の気持ちは分かる。ただ、戻ってきて、また再構築してほしいんだよ」
「お言葉はありがたいですが、すでに新しい会社に応募していまして」
「そうか。まだ決まったわけではないのだろう。それなら、もう一度うちに来てはくれないかね」
確かに、採用が決まったわけでもないし、俺の今後は不透明だ。今応募している会社から採用されるとは限らないだろう。しかも、社長から引き継いだまま、俺の辞表をまだ受理していないことを聞かされた。ということは、俺はまだあの会社に席があるということか。
「そうですね。でも、戻るとしても、和田部長がいるなら戻りづらいです」
「確かにそうだろうな。その点も私に任せてくれ」
社長は、また俺がシステムの開発をしやすいように環境を整えておくと約束してくれた。この前応募した会社からはまだ連絡がないが、元職場に戻るなら、こちらから断りを入れた方がいいだろうか。そう考えていたが、数日経っても、その会社からの連絡は来なかった。結局、応募していた会社には受かることができなかったようだ。
そこで俺は、また求人を探すか、元の職場に戻るか悩んだ。社長は戻ってほしいと言ってくれてはいるが、本当にそれが最善策なのか、分かりかねていたのが理由だ。
モヤモヤと考えていると、「どうしましたか」と宮下から電話がかかってきた。俺は転職先を探しているが、まだ見つかっていないことを告げる。また、社長から戻ってきてほしいと言われていて迷っていることも伝えた。
「部長、社長からめちゃくちゃ怒られたんですよ。唯一のプログラマーである樋口さんを退職に追いやったことで。それだけでなく、検査の不正に加担していたことも、社長から問い詰められたらしいです」
悪いことは隠しておくことができず、いずれは明るみに出るものだ。どうせ発覚して自分が罰を受けることになるのなら、最初からしなければいい話だろう。悪事というものは、バレなければいいというものではない。それは、部長が日頃からしてきたことも同様である。
「まあ、当然だろうな。いつかは自分に跳ね返ってくるものだ」
「部長、退職になりそうですよ。あと、不正を主導していた検査部の部長もですけどね」
宮下によると、部長の立場は悪く、俺が戻れる可能性は高いという。要するに、部長は解雇されるらしいから、俺も元の職場に戻りやすいということだ。
「樋口さんがいなくなって、会社でもプログラマーの人を探したそうなんですよ。でも、なかなかいい人が見つからないみたいです」
宮下の言葉に、会社内の混乱が想像され、俺の心苦しさが増す。部長が原因だったとはいえ、俺の個人的な感情で会社を去ってしまい、本当に申し訳ない。
「商品が製造できなくなったんで、出荷もできない状態なんです。取引先にも迷惑をかけてしまって、発注が打ち切りになったりもしているんですよ」
宮下の言葉は重かった。俺は相当に会社に迷惑をかけているらしい。
「本当にすまなかった。これから社長に復帰することを伝えるよ」
俺はもう腹を決めた。部長がいない環境なのであれば、俺は元の職場で今後も長く勤めていきたいと思う。俺の言葉に、宮下はとても喜んでくれて、「待ってます」とも言ってくれた。
宮下との通話を終えた後、俺は社長に直接電話をする。会社に戻ることを報告するためだ。社長は俺をすぐに受け入れてくれ、俺の決断を喜んでくれた。宮下も社長も、こんなに喜んでもらえて、俺自身としても嬉しい限りだ。
俺はその後、元の職場に復帰を果たした。出社後、すぐに俺は社長室に出向いた。
「今日からまたどうぞよろしくお願いします。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
そう言って、俺は頭を下げる。
「うむ。まあ、確かに君が去ってしまってから大変ではあったよ。取引が中止になったりしたからな」
「本当に申し訳ありません。これからはシステムに責任を持ち、運用させていただきます」
俺の言葉に、社長は「うむ」と言って笑ってくれた。
「よろしく頼むよ。これで和田君なんだが、今は停職処分にしてある。その後、今週で解雇することにしたから」
部長がいないと聞き、俺は正直ほっとする。部長は不正に関与したらしいが、もちろん主となり不正を行った責任者は、即刻解雇になったそうだ。和田部長の後任には、総務部で課長をしていた、とても信頼できる人が就任するという。
以前と同じ部署に行くと、社員たちは俺を歓迎してくれた。「待ってました」という雰囲気の中で迎えられたのだ。俺はそれがとても嬉しかった。
「樋口さん、戻ってきてくれて本当にありがとうございます」
「いや、こちらこそ。こんなに歓迎してもらえてありがたいよ」
俺は、この会社にここまで必要とされる働きができているということだろうか。ちなみに、部長が俺を妬んでいたのは、俺がプログラミングのスキルを持っていたからだそうだ。部長は特にこれと言って仕事に生かせる特技がなかったため、俺のスキルが羨ましかったらしい。羨ましいからと言って嫌がらせをしてきたり、無能だとか言ってくるなど、幼稚ではないか。スキルが羨ましいなら、自分で学んで身につければよかっただろう。なぜ俺が部長のターゲットになってしまったのか。未だに俺は彼を許せない。
俺は会社での仕事を再開し、システムの運用も無事に再開させることができた。システムは滞りなく運用でき、商品の製造もうまくいっているようだ。社内を歩くたびに、他の社員からも「ありがとうございます」と言われる。俺は、ここに戻ってきてやはり良かったのだなと思うことができた。
和田部長はと言うと、会社を解雇され、退職をしたようだ。職安に通っているらしいが、なかなか次の職は見つからないという。家族からも大いに怒られ、立場が悪くなっているらしい。
その頃の俺は、会社でプログラム関連の仕事で活躍し、重宝してもらっている。社長からは「やはり樋口君のシステムはいい。君に任せて正解だったよ」と言ってもらった。また、商品の製造が順調になり、商品の質の良さもあり、売上は倍増。システム導入前では考えられないくらいの売上となった。
これからも、俺はこの会社のために働いていこうと心に誓う。
