「下受けの出る膜か」――22年間一度も放送を止めたことのない俺が、38万円の交換部品を『駆け捨てだ』と却下され、9月に契約を切られた。新しい業者は月11万で請け負い、俺が東京で腕によりをかけて出した報告書は、読まれもせず机の端へ滑らされた。そして12月、本番5分前、副調整室のモニターが真っ黒に落ちた。焼けた接触器を握って機械室から戻った俺に、編成局長はそう言った。その時、俺は決めた。国が、決…
「下受けの出る膜か」 その声を聞いた時、俺はまだ軍手をはめたままだった。副調整室にいる誰一人、俺の方を見ていない。本番まで5分を切ったところで、この番組の絵は一度消えている。 38万円。たった一枚の紙が読まれもせずに机の端へ滑っていったのは、3ヶ月前の昼のことだ。 俺はこの建物の設備を22年見てきた。その22年で、放送を止めたことは一度もない。だが今日、俺の首から下がっているのは期限の欄に今日の日付だけが手書きで入った入館証だ。 床に置いた台車の上で、搬出用の伝票が空調の風に揺れている。 俺はもうこの局の業者ではない。今日は22年分の道具を運び出しに来ただけだった。 外に出ると鉄塔の唸りが風に乗って届いていた。正門から続く並木は9月の光をまだ青いまま返していて、色づく気配はどこにもない。風の強い日だった。 俺の名は明谷に実る。今年で55になる。放送設備の保守を受け負う明谷電気サービスの代表で、社員は他に一人しかいない小さな会社だ。 朝一番に屋上へ上がって空中線設備を見るのが、この局に通うようになってからの決まりだった。手すりの金具の緩みと並木の根元のボルトの締まりを、屋上を一周しながら一つずつ確かめていく。同軸ケーブルの接続部を指の腹で押し、「異常なし」と手帳に書いてから鉄の階段を降りた。踏む度に低く響くその音が、年々確実に重くなっていく。自分の体を毎回同じ段で思い出させた。 技術棟の重い扉を開くと、油と埃り、それに電気が流れ続けるものだけが持つ乾いた熱の匂いが押し寄せた。天井の蛍光灯が2呼吸遅れて灯り、床のリノリウムを白く照らす。換気ファンの唸りにリレーが切り替わる乾いた音が混ざっていた。 電源盤は12面。壁際に隙間なく並び、扉の把手にはそれぞれ小さな封印シールが貼ってある。先月俺が貼ったシールに割れや切れ目のないことを一枚ずつ確かめながら、端の一面から順に進んでいく。 無停電電源装置のバッテリー表示が緑に灯っているのを一面ずつ確かめ、その並びを通り過ぎた。棚の上には俺が22年の間休まず付けてきた青い表紙の点検簿が22冊並んでいる。背表紙の色は年ごとに少しずつ違うが、中の書式だけは一度も変えていない。55になる指で背表紙の年を一つずつ名乗りながら、どの一冊にも事故の記録が一行もないことを確かめる。 TKの並びまで来て足が止まった。こちらはAスタジオの照明とカメラとマイク、それに時局の番組を送り出すローカル送出装置を受け持つ系統で、無停電電源装置はついていない。商用電源に直結の裸のままの並びだ。 順に扉を開けていって、主幹端子の樹脂カバーの縁が薄く茶色に変色しているのに気づいた。顔を寄せると、焦げた樹脂の匂いが鼻の奥に触れた。 またここか。 接触器の銘盤には昭和の刻印が薄く残っていて、あの交換で入れた時のままだ。懐中電灯を当てると接点にも細かい黒ずみが散っている。放射温度計を当てると左の端子が36℃、右は61℃を示した。指先一つ分の距離で25℃も違う。隣の並びの同じ位置を測ると左右とも34℃で揃っていた。 工具箱の中でこのトルクレンチだけは10年以上使い込んで、握りのゴムが黒く光っている。規定の値に合わせて端子のネジにかけたが、カチッとなるはずの音がならなかった。角度と力の入れ方を変えて何度か試しても、規定のトルクで座らない。端子台ごと接触器ごと、もう持たなくなっている。 もう持たないな。 声に出しても、この部屋で返事をするのは換気ファンの唸りだけだ。数字と匂いだけは嘘をつかない。この部屋で俺が覚えたのは結局それだけで、後は全部その2つの言い訳を紙に移す作業だった。 棚の閉地から一番古い一冊を抜き出し、表紙の年を確かめてからBK系統の項を辿っていく。紙は乾いていて硬くなり、めくる度に乾いた音を立てた。交換の年の記録には主幹の接触器を新品で換えたと当時の俺の字で書いてある。その次の年もその次も交換の欄は空白のまま。2冊目、3冊目と抜き出しては同じ項を追い、5冊目で数えるのをやめた。この接触器は替えた日から一度も変わっていない。替えた本人が22年変えずに来たということであり、その事実の重さは閉じの厚みそのままだった。 古い土地を棚へ戻し、一番新しい一冊を作業台へ置く。点検簿を取り出して今日の日付と測った数値を書き込むと、複写の下敷にボールペンの跡がデコボコになって伝わってきた。 点検を終えた11面には新しい封印シールを貼り、BK系統の一面だけは風をしないまま扉を閉じる。書き上げた一枚にしばらく目を落としていた。 この数字を持って、今月こそ上に行かなければならない。 機械室から技術部のフロアへ上がると、蛍光灯の白さばかりが目についた。床の面積が人の数に対してどうしようもなく広く見える。デスクは窓際まで長い列を作っているが、明りのついたパソコンが並ぶのは手前の3列だけで、奥の列は椅子までもが等間隔に空いている。島の端には名前の抜けた名札差しだけが残った机があり、41人いた当時と同じ列数の椅子がそのまま余っていた。今この部署にいるのは9人だ。 壁のフロア案内板には古いプラスチックの文字が並んでいて、「技術局」と刻まれた場所だけが四角い跡を残して剥がされている。その下に「技術部」と書かれた新しいプレートが、心なしか小さいサイズで貼り足されていた。 受付カウンターへ進んで報告書を差し出すと、机の端の分厚い受付簿が開かれた。今月のページを目で追うと、俺の提出前の記入はまだ2件しかない。月に入って5日で2件は、去年までの半分にも満たない数だ。 9月5日の日付欄にスタンプが押される乾いた音がして、受付第309号という番号が書き込まれていく。その下の件名欄に「BK主幹端子及び接触器要交換の件」と記された。その番号を俺は自分の手帳にも書き移した。 ト倉が奥の席から立ち上がり、猫背のままゆっくりとカウンターまで歩いてきた。胸ポケットの3本のペンが歩みに合わせて小さく揺れている。差し出した報告書の端を受け取る指先は俺の指と違って、爪の周りまで白く綺麗だった。工具ダコのない、もう何年も机の上だけで動いてきた手だ。 「上げられない。今はちょっと時期が悪いんだ」 「温度差が25℃あります。増し締めでは座りません。端子台ごと買えないといずれ焼けます」 ト倉は報告書の数値の欄を目で追ったが、それは読むというより視線の置き場所を探しているだけの動きだった。 「分かってる。分かってるよ、あんたの言うことは。ただ今年はどこの部署も新規の支出は止まってる」 「じゃあ、いつなら通りますか?」 「上に聞いてくれ」 「上」という言葉が引っかかった。俺が22年この紙を持って上がってきた先は、いつでも技術局長の部屋だった。 「なんで設備の話が編成局長のところへ行くんですか?」 ト倉はすぐには答えず、ペン立てから飛び出していた一本を意味もなく押し込んだ。 「2年前に技術局長のポストがなくなった。技術部は編成局の下に入って、今俺の上が編成局長だ。委託契約の決済もそっちに一本化されてる」 「盤を見たことがある人が判を押すんですか?」 「悪いな」 ト倉はそれだけ言うと、俺の返事を待たずに自分の席へ戻っていった。 編成局長室のドアをノックすると、返事より先にフロアの空調とは違う静かな音が耳に触れた。分厚い絨毯と磨かれた木目の大きなデスクだけが、蛍光灯ではなく間接照明の色をゆっくりと映している。軍事は椅子に座ったまま眼鏡越しに一度だけこちらを見て、そのまま手元の書類へ視線を戻した。 「ああ、出入りの人」 デスクの前には来客用の椅子が見当たらず、立ったままメガネの上からこちらを見上げる軍事の視線と向き合う形になった。 俺は点検報告書を差し出したが、軍事はそれを受け取るそぶりも見せず、指先だけでデスクの端まで滑らせた。紙が滑っていく乾いた音だけが、夜けに静かなその部屋の中でいつまでも小さく響いた。表紙すら開かれないまま、俺の報告書はデスクの隅で他の書類の山にすぐ埋もれていく。 「で、いくら?」 「38万です」 軍事は数字を聞いても眉を動かさず、眼鏡の縁を指先で押し上げただけでしばらく黙っていた。 「今まで何かありましたか?」 「まだありません」 俺が短く答えると、それだけで十分だというように軍事の口の端がわずかに上がった。 「なら大丈夫でしょう。要望保全は保険でしょ。保険は駆け捨てだ。来年でいい」 「駆け捨てで済んでいるのは、掛けてきたからです」 言ってしまってから、これは通らない言い方だと分かった。軍事の目はもう次の書類に落ちていて、俺の声が届いた形跡はどこにもない。 「来年また来てください」 … Read more