「お前の退職金は53円だ。お前なんか、ゴミアプリと一緒に消えてしまえ。」部長はそう言うと、ポケットから小銭を取り出して俺に投げつけた。その日はいつも通りの午後で、開発部のフロアにはキーボードの音だけが響いていた。二十年以上この会社でアプリを作り続けてきた俺は、その小銭が床に落ちる音を呆然と聞いていた。「ゴミのお前にはぴったりだ。脳なしで役に立たないお前が退職金をもらえるだけでもありがたいと思…
「お前の退職金は53円だ。お前なんか、ゴミアプリと一緒に消えてしまえ。」 部長はポケットを漁ると小銭を取り出し、いきなり俺に投げつけてきた。長年かけて作り上げてきたアプリを無駄だと切り捨て、首を言い渡した挙げ句の仕打ちがこれだ。 「ゴミのお前にはぴったりだ。脳なしで役に立たないお前が退職金をもらえるだけでもありがたいと思えよ。ははは。」 小銭を投げつけられて驚く俺の姿を見て、部長は愉快そうに笑っている。大手IT企業から転職してきたこの部長は、就任当初から俺たちを底辺の三流企業の社員だとバカにし、見下していた。 こんな人の下で働かなければいけないのなら、この会社に未練はない。退職も望むところだ。 「私は退職させていただきます。首で結構ですよ。」 俺は退職することを即決し、無駄なものだと酷評されたアプリを削除すると、会社を後にした。長年かけて作り上げたもの。生き甲斐とも言えるこの仕事をゴミ扱いしたことを後悔し、俺に泣きつくことになることを、この部長はまだ知らない。 俺の名前は松井孝之。ウェブシステムやアプリの開発運営を手がける会社で働いて、もう二十年以上になる。長年開発部でさまざまな業務に携わってきた俺は、社内でもその技術は高く評価されていて、この仕事が生き甲斐でもある。 そんな中、開発部に新しい部長が来ることになった。 「なんだこのビルは。古くて汚いし、とんでもないな。この上階の部屋も狭いし、デスクや椅子もガタガタだ。こんなところでシステム開発なんてできるのか?」 新しく赴任してきた斎藤部長は、部屋に入ってくるなり周囲をじろじろ見渡し、俺たちの会社にケチをつけてきた。 「おい、もしかしてあの人が斎藤部長か?いきなり大声を出して一体何なんだ?」 「さあな。けど斎藤部長は一流大学を出たハイキャリア組の転職で、今回うちの会社に来たそうだ。かなりのやり手で、社長も期待をかけているらしい。」 赴任早々の斎藤部長の言動に社員たちは一斉に注目し、ざわめき出す。だが斎藤部長はそんなことはお構いなしで、今度は俺たち社員に目を光らせた。 「おい、俺のデスクはどこだ?それに、お前たちは部長の俺が出勤したというのに知らん顔だ。三流企業は気の利かない社員ばかりで、だからダメなんだ。こんなことでは先が思いやられるなあ。」 「ああ、これは、その、申し訳ありません。斎藤部長のデスクはこちらです。どうぞ。」 あまりの勢いに気圧されていたが、俺は慌てて立ち上がり、斎藤部長を案内した。 「俺は大手IT企業での実績がある。これまでも大きな仕事をして成果を上げてきた。俺に従っていれば間違いはない。こんな小さな底辺の会社でも、きっと業績が上がるだろうよ。」 斎藤部長は俺たちが挨拶をしてもほとんど聞いていないようだった。デスクについても自慢話が終わらないので、皆仕方なく黙って聞いていた。 「一流の仕事というものを、三流企業のお前たちにこの俺がこれから教えてやる。俺が部長になって、お前たちも運がいいというものだ。おい、そこのお前、コーヒーを持ってこい。」 大手IT企業から来たというだけで、自分のことを格上だとでも思っているのだろうか。俺たちをバカにして文句を言い続け、今度は若手の社員に雑用を指示して平然としている。 うちの会社は決して大企業とは言えないが、小規模な企業ならではの良さがある。俺が何より気に入っているのは、自由で風通しが良く、社員のやりたいことをやらせてくれるところだ。社員たちは自由な発想で仕事をすることができて、俺も子供の頃から興味を持っていたことを、この環境で成し遂げたいと思っている。仕事の内容も大企業のような派手さはないものの、どこにも引けを取らない質の高いものだと自負している。今の俺があるのも、そんな自由でレベルの高い環境で働いてきたおかげだ。 「貧乏会社のコーヒーはまずくて、俺の口には合わないな。」 斎藤部長はまだ勝手なことを言い続けている。散々バカにされて、開発部員たちは俯いて押し黙ったままデスクに向かっている。どんな人物かと昨日まで楽しみにしていたのが、もう吹き飛んでしまった。 「決まった仕事だけやっていては先は知れている。新しいことを思いついたら、それがチャンスだ。」 以前の部長は口癖のようにそう言っていた。豪快で人を圧倒するようなものがあったが、社員たちと議論を交わすのが日課で、俺たち開発部員の意見を取り入れてくれていたと思う。先月定年退職してしまったが、長年一緒に働き、今となっては叱責されたことさえ懐かしく思えた。 そんな中、初日から皆の反感を買うような斎藤部長の態度はどうしても腑に落ちなかった。斎藤部長と今後どう付き合っていけばいいのかを考えると、不安しかなかった。しかし不思議なもので、開発の仕事に集中している間はそんな嫌なことを忘れることができる。仕事好きは筋金入りなのだから、これからも仕事に集中していくしかない。 その後も斎藤部長はうちの会社を弱小企業とバカにしたり、自分の経歴を自慢し続けて、皆をうんざりさせていた。そんな中、開発部に社長がやってきた。 「斎藤君、なかなか顔を出せなくてすまなかったね。今回は我が社によく来てくれた。このご時世でうちの会社も売上が伸び悩んでいる。私は君に大いに期待しているよ。」 「社長、私はこの会社で気持ちも新たに働く所存です。業績が上がるように社員たちともよく話し合い、期待にお応えできるようにいたします。」 斎藤部長は日頃俺たちに見せる傲慢な態度とは裏腹に、社長には晴れやかな笑顔を見せている。 「じゃあ頼んだよ。私はこれからまた外出しなくては。皆もこれからは斎藤君と協力して頑張ってくれ。」 社長はそう言い残して部屋を出て行ってしまった。俺たち社員は呆気にとられたように、お互い顔を見合わせた。斎藤部長は社長の前では物腰丁寧で口調も柔らかく、まるで別人のようだった。社長は何も知らずにうまく丸め込まれているのだろう。部長はこうして人によって態度を変えていく人間なのだろうが、あまりにも浅ましい光景を目の前で見せつけられ、俺たちは驚かされた。そして、その後も何事もなかったかのように平然としている斎藤部長は、相当な神経の持ち主なのだと思う。 そんな状況で、俺たちは黙々と仕事を続けていくしかなかった。以前の開発部が遠い過去のように思えた。 「おい、待て。お前はどこに行くんだ?」 ある日の午後、また斎藤部長の大声がフロアに響いた。その横で、上着を着て出かけようとしていた若手社員がうろたえている。 「仕事中だというのに勝手に出かけるな。今まで見ていると、お前はフラフラと出ていくことが多いな。」 「いえ、私は仕事で出かけているのです。別に勝手なことをしているわけでは……」 「言い訳をするな。こうしていつも勝手に仕事を抜け出しているのか。今日お前は外出の予定はないじゃないか。俺をバカにするな。」 若手社員は俯いて言葉を詰まらせてしまうが、斎藤部長は先日社長と話していた穏やかさとは打って変わった高圧的な口調で彼を叱責した。 「本当に違うんです。私が開発中のアプリの仕事で……」 「そんなもの、俺が聞いている仕事には入っていないぞ。そんなことは許さない。お前は締め切り前の仕事があるだろう。まったく図々しいやつだ。」 斎藤部長はまくし立てるが、それぞれ規定の業務以外に自分の発想で新しい開発の仕事をしていくことは、多くの開発部員がやっていたことだ。毎月のミーティングでも進捗状況を確認し合うようにしているから、皆がお互いにどんなことをしているのかもよくわかっている。現在この若手社員が手掛けているのは、俺も先日見せてもらったが、ゲームを進めながら地元の店の紹介や買い物ができるというアプリだ。店舗の確認や新しい店を探し回ったりするようで、彼は出かけることも多い。彼だけではなく、俺たちも今まで短時間ならさっさと出かけるか、一声かけるくらいで席を外していた。若手社員は今日もいつもの調子で出かけようとして、斎藤部長に叱責され面食らっている。 「斎藤部長。彼は買い物のアプリを手掛けていて、確認のために出かけることが多いんです。仕事でやっているもので、ミーティングでも聞いています。決してサボっているわけではありません。」 「まだそんなことを言っているのか。そんなものは仕事にはならないぞ。お前は先輩だからと言っていい格好をして後輩をかばっても無駄だ。とにかく外出するなら、俺の許可を取れ。」 俺は若手社員を擁護するべく説明をするが、斎藤部長は聞く耳を持つ様子はなく、イライラとした様子で彼を睨みつけている。 「いいか?業務外のことを会社でするなんて言語道断だ。そんなものすぐに削除してしまえ。」 「待ってください。本当にこれは仕事の一環です。アプリは今まで時間をかけて私が作り続けてきたもので、皆も知っていることです。」 「俺は開発部の部長なんだぞ。命令は絶対だ。さあ、今すぐアプリを削除しろ。」 斎藤部長に捕まってしまった若手社員は必死に訴えるが、結局、大切に作り上げてきたアプリをその場で削除させられてしまった。 「お前の自業自得だ。これに懲りたら、勝手なことはもうやめておくんだな。」 社員はパソコンの画面を前に唸ったまま座っている。斎藤部長はそんな彼を目の前にして、満足げにニヤニヤと笑っている。こうして俺たちは、斎藤部長の許可がないと何一つできなくなってしまったのだった。斎藤部長の横暴を改めて見せつけられ、開発部にはさらに重苦しい空気が流れた。 そして、その翌日のことだ。 「いいか?これからは何でも俺の指示通りにやっていけ。大手企業の仕事のやり方というものを、お前たちも覚えていくんだ。」 斎藤部長は開発部員たちを集めると、業績を上げるべく自分のやり方を押し進めると宣告した。 … Read more