手術室の扉が閉まる瞬間、二十年前に長野で救った患者の娘が、震える手で一通の古い封筒を差し出してきた。「父が、手術の前に先生へ渡してほしいと」。角のすり切れたその封筒には、鉛筆の掠れた文字で俺の名前が書かれていた。それを見た瞬間、指先が止まった。俺はこの二十年、「失敗をしない男」と呼ばれながら、誰よりも失敗を恐れて手術台に立っていた。なのに、その日はどうしても集中できなかった。滅多に崩れない手…
手術が終わり、手袋を外した。廊下に出ると外はもう昼を過ぎていた。窓の向こうで桜の枝が揺れている。今年も咲いたのかと思った。そういえばここ何年か桜を見上げた覚えがない。 俺の名前は田所正雄。五十歳。中央医療センターの心臓外科部長だ。院内では「失敗をしない男」と呼ばれているらしい。本人としてはありがたくもなく、迷惑な呼び名だと思っている。失敗をしないのではない。失敗を許されないだけだ。 医局に戻るとデスクの上に書類が山になっていた。学会の招待状、新人指導の予定表、手術記録。椅子に腰を下ろした瞬間、扉が静かに開いた。 「お疲れ様です」 神谷だった。心臓外科の若手で三十二歳。無駄口を一切叩かない。それでいて手術中の判断は速い。俺は彼の腕を密かに買っていた。ただ一つ気になることがある。こいつは俺をじっと見ることが多い。仕事として観察しているのとは少し違う。何かを確かめるような、そんな目つきをすることがある。 「部長、午後の症例検討会、お時間大丈夫ですか」 「ああ、行く。資料は揃っているか」 「こちらに用意してあります。それと、委員長から伝言です。検討会の後、来てほしいと」 「分かった。ご苦労」 神谷は軽く頭を下げて出ていった。扉が閉まった後、俺は資料を手に取りながらぼんやりと考えた。委員長からの呼び出しは、いつもろくな話じゃない。 会議室には十人ほどの医師が集まっていた。スクリーンに映し出されたのは一枚の心臓のCT画像。俺はそれを見た瞬間、軽く前のめりになった。冠動脈の状態がひどい。弁膜にも問題がある。おまけに心筋の一部が薄くなっていた。教科書通りの手術ではまず助からない。 「患者は野村光一さんです。心不全症状が進行しており、現在は内科的治療でなんとか維持している状態です。手術の判断を田所部長にお願いしたいと」 会議室の視線が一斉に俺に集まる。俺は画像をもう一度見た。この症例の成功例はほとんどない。 「検査データをもう一度全部出してくれ。それと、家族には病状の重さをきちんと伝えているのか」 「はい、娘さんには何度か説明してあります。本人も覚悟はできているようです」 覚悟か。その言葉が少し胸に引っかかった。覚悟というのは患者がするものじゃない。患者はただ生きたいと願うものだ。覚悟をするのは医者の方だ。 「手術は引き受ける。準備に入ってくれ」 会議室がわずかに緊張した。 検討会の後、俺は委員長室に向かった。扉をノックすると低い声が返ってきた。 「入ってくれ」 委員長の山本精一はデスクの向こうで茶を飲んでいた。五十八歳、現実主義の塊のような男だ。経営と実績。その二つが彼の言葉のすべてを支配している。 「野村さんの症例、引き受けてくれたそうだな」 「ええ、他にできる者もいませんから」 「君ならやれる。私は信じている」 「信じる、ですか」 「ああ。今回の手術が成功すれば、うちの病院は全国に名が通る。心臓外科の実績で上位に食い込めるんだ」 俺は黙って茶を見つめた。 「君にプレッシャーをかけるつもりはない。ただ、君の腕を信じているということだ」 「承知しました」 それだけ言って俺は委員長室を出た。廊下を歩きながら、胸の奥に重いものが残っていた。「信じている」という言葉ほど医者を縛るものはない。失敗は許されないと言われているのと同じだ。 その日の夕方、俺は野村光一の病室を訪ねた。ベッドの上で白髪の男が穏やかに笑った。 「田所先生ですか。お噂は伺っております」 「明日からは私が担当します。少しお話を伺ってもよろしいですか」 「もちろんです。こんな年寄りに付き合ってくださってありがとうございます」 野村光一は思っていたよりも穏やかな人だった。顔色は悪い。息も浅い。それでも目だけはしっかりしている。ベッドの横には娘らしい女性が座っていた。野村秋。三十五歳。父親の手を両手で包むようにして握っていた。 「先生、私はね、もう十分生きました。だから、もしダメでも恨んだりしませんから」 「そういうお話はまだ早いですよ。手術はこれからです」 「ええ。ただ、娘にね、心配をかけたくないんです」 秋がゆっくりと顔を上げた。俺の目をまっすぐに見る。 「田所先生、父をお願いします。父は私のたった一人の家族なんです」 「全力を尽くします。お約束します」 「先生、一つだけ伺ってもいいですか」 「どうぞ」 「先生は昔、長野の小さな病院にいらっしゃいましたか」 その言葉に俺の手が一瞬止まった。長野。二十年以上前、俺がまだ駆け出しだった頃の話だ。無償で手術をしていた時期があった。誰にも話していない過去の自分。 「ええ、確かにいました。なぜですか」 「父が昔、よく話していたんです。長野で、どういう若い先生に命を救われたって。先生はもう覚えていらっしゃらないかもしれませんが」 野村がベッドの上で小さく頷いた。俺はその顔をじっと見た。記憶の中の、誰かの顔と重なるような気がした。だがはっきりとは思い出せない。 「先生、あの頃の先生にもう一度会えるとは思いませんでした。お元気そうで何よりです」 声が自分でも驚くほど低かった。 病室を出る時、俺は廊下で一度立ち止まった。長野の冬をふと思い出した。雪に埋もれた小さな診療所。何のために医者になったのか、まだ自分の中でしっかりしていたあの頃。廊下の向こうから看護師の栗原が歩いてきた。彼女は俺の顔を見て少しだけ立ち止まった。 「先生、お顔の色がいつもと違いますよ」 「そうか。気のせいだろう。少し疲れただけだ」 「無理はなさらないでくださいね」 俺は軽く頷いて医局へ戻った。二十年前の自分が今の自分を見ていたら、何と言うだろう。そんなことを、らしくもなく考えてしまった。 … Read more