診察室の机に置かれた万年筆。十五年前、医療界で「神の手」と呼ばれた私の師匠がくれた物だ。私はその名声を捨て、離島の診療所に逃げ込んだ。誰にも理由を話さずに。五年後、師匠の娘が突然現れた。「なぜ父は、自分を裏切った人を最後まで信じていたのか」と。私は答えられなかった。師匠は亡くなる直前まで、私宛ての手紙を一通も送らずに書き続けていた。娘は言った。「本当の話を聞きに来ました。あなたの口から」その…
朝の光が診察室の白い壁を柔らかく照らしていた。開け放った窓から潮の匂いが流れ込んでくる。俺は白衣の袖を整えながら、机の上の万年筆をそっと指で撫でた。黒い軸に金のペン先。十五年前、師匠から送られたものだ。 「先生、今日は朝から漁師さんたちが来ていますよ」 看護師の裕子が、いつもの落ち着いた声で診察室に顔を出した。 「ああ、分かった。今行く。山下さんの腰、また悪くなってるんじゃないか」 「ええ、多分先週からまた痛みが出てるみたいですから」 俺は苦笑して立ち上がった。何度言っても聞かない人ばかりだ。それでも、その頑固さに俺は救われてきた。 俺の名前は勇樹。五十歳になる。かつては大学病院で「神の手」と呼ばれた脳外科医だった。将来を嘱望され、教授の椅子も近いと囁かれていた。十五年前、俺はその全てを失った。今は人口僅かなこの離島で、ただ一人の医師として診療所に立っている。栄光も名声ももう遠い昔の話だ。ただ目の前の患者の命を守ること。それだけを支えに、ここまで生きてきた。 待合室では、日に焼けた漁師たちが祭りの話で盛り上がっていた。俺が顔を出すと、一斉に笑顔が向けられる。 「先生、また腰やっちまった。すまんねえ」 「すまんじゃないですよ。あれだけ無理しないでくれって言ったでしょう。横になってください。見ますから」 診察を終え、湿布を貼り直していると、診療所の引き戸が勢いよく開いた。渡だ。島の高校生で、制服の上から白いシャツを羽織っている。医師を目指していて、暇さえあれば診療所に顔を出す。 「先生、おはようございます。今日、見学いいですか?」 「ああ、構わない。ただし邪魔だけはするなよ。手を洗ってから来い」 「はい」 裕子が小さく笑った。 「渡君、本当に先生のこと尊敬してますよね」 俺は何も答えずカルテに目を落とした。渡は小さい頃に俺がこの島で救った子供だ。熱性痙攣を起こし、夜中に運び込まれてきた。あの夜のことを渡は今でも覚えているという。机の上の万年筆が、窓から差す光に鈍く輝いた。 「霧島先生、今日も俺はここにいます」 俺は心の中で、いつものように師匠の名を呼んだ。 その日の午後、診療所に見慣れない女性が立っていた。スーツ姿で旅行鞄を一つだけ下げている。島には不釣り合いな都会の匂いがした。 「先生、お客様です」 俺は診察室から顔を出し、その人の顔を見て息を飲んだ。目元の形が霧島先生にそっくりだった。 「山縣勇樹先生でいらっしゃいますか?」 「ええ、そうです」 「霧島涼子と申します。霧島政治の娘です」 声は静かだったが、こちらを射抜くような響きがあった。霧島先生の娘。最後に会ったのは、彼女がまだ医学部の五年生だった頃だ。二十歳そこそこの、まだあどけなさの残る顔をしていた。今は三十五歳になっているはずだ。医師になったとは風の噂に聞いていた。 「お父様の件は新聞で知りました。ご葬儀にも伺えず申し訳ない」 「お気遣いなく」 涼子は革紐で束ねられた古い封筒の束を取り出した。俺の名前が、霧島先生の懐かしい筆跡で書かれている。 「父の遺品を整理していて見つけました。全部あなた宛てです。一通も投函されていません」 俺は黙って話を聞いた。 「父は亡くなる直前まで、あなたの話をしていました。私には分からなかった。なぜ父が、自分を裏切った人間のことを最後まで信じていたのか」 俺は手紙の束を見つめたまま動けなかった。 「率直に申し上げます。私は長い間、あなたのことを許せませんでした。父が築き上げたものを、研究も患者も全部捨てて逃げた人だと思っていました。父が亡くなって、この手紙を見つけて、分からなくなったんです。私は本当の話を聞きに来ました。あなたの口から」 俺は深く息を吐いた。返す言葉がすぐには出てこない。 「立ち話で済む話じゃありません。今度、少し時間をいただけますか? 今は患者さんが待っているので」 「分かりました。島の旅館に泊まる手配はしてあります」 涼子は一礼して診療所を出ていった。その背中が、霧島先生の背中に重なった。 裕子が心配そうにこちらを見ていた。 「先生、大丈夫ですか?」 「ああ、いつかはこういう日が来ると思ってました」 机の上の万年筆を、俺はそっと握りしめた。 涼子はその日から島にしばらく滞在することになった。俺は彼女に十五年前の話をすぐにはしなかった。何から話せばいいのか、自分でも整理がつかなかったからだ。涼子の方も急かしては来なかった。ただ毎日のように診療所の隅に座って、俺の働く姿を眺めていた。医者の目で観察するように。 朝七時に診療を始め、昼は弁当をかき込みながらカルテを書く。夕方には島の年寄りの家を回り、夜は夜で急患の電話が鳴れば飛び起きる。それが俺の十五年だった。 ある晩、診療所の片付けをしていた裕子がぽつりと言った。 「霧島先生、あの人ずっと先生のこと見ていらっしゃいますね」 「そうか」 「悪い目じゃないと思います。最初は怖い目をしてらしたけど、最近少し変わってきました」 俺は黙って洗ったメスを布で拭いた。 四日目の昼過ぎだった。診療所の電話が鋭く鳴った。裕子が受話器を取り、顔色を変えた。 「先生、渡君が事故です。港の防波堤にぶつかったって」 俺は白衣のまま外へ駆け出した。涼子も何も言わずについてきた。 港に着くと、渡が血を流して倒れていた。漁師たちが取り囲んで慌てている。俺は膝をついてすぐに意識を確認した。呼吸はある。瞳孔の反応もある。頭部からの出血はあるが致命傷ではなさそうだ。 「渡、聞こえるか?」 … Read more