俺の上司は、自分の作った契約書のクレーム対応を全部俺に押し付けてきた。相手が「担当者を出せ」と怒鳴っても、平本はスマホをいじったまま「お前が対応しとけ」と笑う。「上司の力借りないと問題も解決できないなら、さっさとやめちまえよ」——その瞬間、俺は笑顔で「では、お言葉に甘えてやめさせていただきます」と言い放った。辞表を机に叩きつけて会社を出た翌日、営業先から内定の連絡が来ていた。でも、あいつは必…

俺の上司は、自分の作った契約書のクレーム対応を全部俺に押し付けてきた。相手が「担当者を出せ」と怒鳴っても、平本はスマホをいじったまま「お前が対応しとけ」と笑う。「上司の力借りないと問題も解決できないなら、さっさとやめちまえよ」——その瞬間、俺は笑顔で「では、お言葉に甘えてやめさせていただきます」と言い放った。辞表を机に叩きつけて会社を出た翌日、営業先から内定の連絡が来ていた。でも、あいつは必...

「上司の力を借りないとこんな問題すえ解決できないなら、さっさと会社やめちまえ」

平本のその言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツンと切れる音がした。長い間、会社のためを思って我慢してきたが、これはさすがに我慢ならなかった。視界の端で平本が勝ち誇ったような顔をしているのが見えた。そして、俺は気づいた。こんな男の相手をいつまでもしている自分が、バカバカしくなってきたのだ。気づくと、自然と顔に笑みが浮かんでいた。

「わかりました。では、お言葉に甘えてやめさせていただきます」

俺はそう笑顔で言った。

「はあ?」

驚いている平本を無視して、俺はその場を離れた。今までありがとうございました。そう言って頭を下げると、足早にその場を立ち去る。向かう先は課長の席だ。もう迷いはなかった。

「課長、今日限りでやめさせていただきます」

そう言って、あらかじめ準備していた辞表を机の上に置いた。課長は目を丸くして驚いている。どういうことだと聞いてくるが、それに答える気はなかった。

「詳しくは、係長に聞いてください。今までお世話になりました」

そう言って深く頭を下げると、俺はそのまま会社を出た。二度と振り返らなかった。外の空気がやけに清々しく感じた。

俺の名前は松田博幸。いい年齢になってきたが、地元の友達は結婚したり子供ができたりしているのに、俺は未だに独身だ。しかし、それでいいと思っている。家庭を持つよりも、一人で気楽に過ごすこの生活が気に入っているのだ。

俺は会社の営業部で働いている。この年になっても、平社員のままだった。しかし、それもまた気に入っていた。そもそも出世にはあまり興味がない。それに営業の仕事がとても好きだ。歩き回っていろんな会社に出向き、たくさんの人と会って話をする。契約を結び、互いの仕事の繁栄を祈りながら共に頑張る。その仕事がうまくいけば、共に喜びを分かち合う。こんなに素敵な仕事は他にないだろう。だから、上に立って部下に指示を出すよりも、現場で働く方が俺の性に合っている。

そして、うちの会社の営業部は上司も部下もいい人ばかりで、とても気持ちよく仕事ができていた。現場を歩き回る平社員の気ままな独身生活。この生活が、俺の幸せな日々だった。しかし、その幸せな日々が、とある人物のせいで壊されてしまう。

ある日、一人の人物が中途入社してきた。その男の名前は平本年と言い、年は俺より五つ下の三十歳らしい。そして平本は営業部に配属された。俺は年が近いということで、平本の教育係になった。これが、不幸の始まりだった。

「平本君の教育係になる松田です。よろしく」

「ああ、うす」

最初の会話から、こうだった。平本はとにかく態度が悪い。人に対する態度もそうだが、勤務態度も悪く、常にスマホをいじってはサボってばかりいた。俺は教育係にされてしまった手前、放っておくわけにもいかず、その度に注意をしなければならなかった。

「平本君さ、上司とか他の人にはタメ口じゃなくて、ちゃんと敬語を使おうね」

「タメ口なんて使ってないっすよ」

「いや、使ってるでしょ。それに、『っすよ』っていうのも敬語じゃないからね」

「はい、わかりました」

明らかに下を向いて言い返したが、これ以上注意すると雰囲気が悪くなるので、俺は我慢した。

「さっきからスマホで何を見てるの?仕事中だよ」

「いや、プライベートなことなんで、詮索しないでください」

「そもそも、仕事中にプライベートなことをしてるのがおかしいんだよ」

そうきつく言っても、平本は適当に謝るだけで、同じことを繰り返す。俺はもううんざりしていた。さすがに疲れた俺は、課長に相談することにした。

「平本君、どうにかなりませんかね?俺の言うことも全然聞かないですし、あのまま他社に営業へ行ったら、必ず問題起こしますよ」

俺はそう言ったのだが、課長は困った顔で「そこはまあ、御機嫌取りに頼むよ」としか言わなかった。事実、他の部署からも平本君に対するクレームは何度も来ているようだった。平本君が受け取った営業部への連絡事項が社員に回っていないとか、他の部署にフラッと来ては仕事の邪魔をされて困るといったクレームが、俺の耳にも届いていたのだ。しかし課長は、あまりきつく注意しない。いくらなんでも、平本君に甘すぎる。

不思議に思った俺は、それとなく周りの社員に話を聞き、理由を探ってみた。そうして集めた情報によると、平本君はこの会社の顧問を担当する顧問弁護士の息子らしいのだ。元々は父親のような弁護士を目指して勉強していたらしい。しかし、何度挑戦しても司法試験には受からず、年齢が三十歳に近くなっていた。そこでしびれを切らした父親から「弁護士は諦めて真面目に働け」と言われ、渋々仕事を探し始めた。だが、プライドの高い平本君は、ある程度名前の知れた会社しか受けなかった。しかし、三十歳を前にして職歴もない人間が、そんな大きな会社に就職できるわけもなかった。

ここで困った父親が、自分が顧問弁護士を務めるうちの会社の顧問取締役である島田誠に頼んで、会社にねじ込んだということらしいのだ。つまり平本君はコネ入社だったのだ。それを知って、課長のあの態度の理由が分かった。そして、これから俺がする苦労を想像し、ぞっとするのだった。

しかし、事態はもっとぞっとする方向へ進んでしまう。俺が平本君の教育を始めて一ヶ月ほどが経った頃だった。

「まさか」

掲示された人事異動の事例を見て、俺は愕然とした。あの平本君が係長に昇進したのだ。一番まずいのは、あの平本君が俺の上司になるということだ。後輩が昇進するのがまずいのではない。一切の努力もしない、成長もしない、態度の改善も見られないあの平本君が昇進するというのが、まずいのだ。

俺はすぐに課長の元に向かった。

「課長、平本君が係長ってどういうことですか?ありえないでしょう」

しかし課長は、いつもの調子で「ああ、まあね」とはぐらかすだけだった。課長の様子を見て、確信する。きっと平本の父親と島田が動いたのだ。

「どうにもならないんですか?」

そう食い下がってみるが、課長は首を横に振るだけだった。

そして、翌日から平本は俺の直属の上司になった。

「何をそんなに慌ててるんだ?」

平本が俺にそう言う。

「平本?あ、これから松田君の上司になる平本です。よろしく。お前、松田君。上司には敬語を使うようにね。俺は教育係からそう教わったけどな」

平本が見下した態度で言う。あの時、俺が平本に言っていた言葉を、そのまま皮肉として返してきたのだ。そして、そこから平本の最悪な勤務態度に拍車がかかった。今まで注意された分の復讐でもするかのように、俺のやることなすことに文句をつけてくるのだ。

「松田、お前どこ行ってたんだよ」

「取引先を回ってたんですけど」

「時間かかりすぎだろ。お前、外でサボってたんじゃねえのか」

「そんなことするわけないだろ」

「おい、上司には敬語じゃなかったのか」

毎日、こんな具合で理不尽に文句を言われる。そして、平本は自分の仕事をそっくりそのまま俺に投げてくるようになった。特に平本は顧客や取引先からの苦情対応が嫌いなようで、それは全て俺に回ってきた。一応上司であるため、反論することもできない。仕方なく振られた仕事をこなす。そのため、自分の本来の仕事である営業が後回しになり、俺の仕事の成績は見る見るうちに落ちていった。

そんな状態が数ヶ月続くと、気持ちの方もやられてくる。上司からは毎日のように理不尽な文句を言われ、業績は落ち、自分の好きな営業の仕事にも行けない。俺は仕事をしている意味が分からなくなり、気持ちが落ち込んでいった。唯一の救いは、俺が営業で出向く取引先の会社の人たちが、とてもいい人ばかりだということだ。みんな風の噂でうちの会社と平本君の存在は知っているようで、俺を見るたびに「何かあったら相談してね」と言ってくれる。

「ありがとうございます」

俺はそう言われる度に救われた気持ちになり、深く頭を下げるのだった。

そして、ついに事件は起きてしまう。

ある日のことだった。その日も俺は外を回る営業に行けず、会社で平本から言われた仕事をこなしていた。そんな時、女性社員から営業部に電話がかかってきているという知らせがあった。ちょうどその場にいた俺が電話に出る。

「お電話変わりました。営業部の松田と申します」

言い終わらないうちに、相手は怒鳴りつけてきた。その剣幕に驚く。とにかく謝罪し、相手をなだめて話を聞いた。相手の言うところによると、契約書がめちゃくちゃだというのだ。

「申し訳ありません。すぐに確認します」

そう言ってパソコンを開き、その契約書を確認する。これはまずいな。契約書に書かれた予算の見積もりが明らかにおかしい。このまま契約すれば、取引先の会社はほとんどただ働きになる。こんな失礼な契約書を書いたのは誰だよ。思いながら契約書の作成者を見る。やっぱりか。契約書の作成者は、やはり平本だった。うんざりするが、今は取引先の対応が優先だと、気持ちを再び取る。

「大変申し訳ありません。こちらが契約書を誤って記載しておりました」

相手からは見えていないが、思わず頭を下げてしまう。電話の相手は「お前じゃ話にならないから、担当者を出せ」と言ってきた。俺は正直、平本に対応させたら余計に事態が悪化しそうで、それは避けたかった。

「大変申し訳ありません。すぐに訂正した契約書を書き直します」

しかし、俺の話の途中で「いいから担当者を出せ」と怒鳴られてしまった。このまま俺が対応を続けるのは、余計に相手の気持ちを逆撫でしてしまう気がした。

「かしこまりました。少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか?」

そう言って電話を保留にし、平本の元に向かった。

「係長、お電話が入っております」

しかし、それまでの俺の様子を知っていた平本は、電話に出ることを拒否した。

「いや、クレームでしょ。そんなのお前の仕事だろう。わざわざ上司のところに回さないで、自分で対応しろよ」

「いえ、先方は係長をご指名なので」

「そんな面倒なのを俺のところに持ってくんなよ。お前が対応しとけって」

平本は自分は出ないの一点張りだ。しかし、ここで引き下がれば相手はさらに怒るだろう。そうなると、会社に大きな損害が出る可能性がある。ここは俺も引き下がれない。

「あの契約書を書いたのは係長ですよね。担当した人間を出せと言われてしまったので、先方は大変お怒りです。このまま俺が対応を続けるのは逆効果だと思います。お電話変わっていただけませんか?」

「無理だって言ってんだろ。そもそも、お前が出た電話なんだから、最後まで責任持って対応しろよ」

「お言葉ですが、契約書を書いたのは係長ですから、最後まで責任を持って取引先とやり取りしていただかないと」

俺のその返事に、平本は明らかに苛立った表情をし、そしてため息をついた。

「使えねえな。お前さ、上司の力を借りないとこんな問題も解決できないの?」

元々はお前のせいだろうが。そう思いながらも、俺は言葉を飲み込んだ。

「はい」

「まあ、お前は普段から何やってるか分かんないからな。だから、その年まで平社員なんだよ。そんなことじゃ、これからも会社の役に立つなんて無理だから、さっさとやめちまえよ」

プツンと、俺の中で何かの糸が切れる音がした。今までは会社のためを思って我慢してきたが、これは我慢ならない。そして、いつまでもこんな奴の相手をしているのがバカバカしくなった。そう思うと、思わず顔に笑みが浮かんだ。

「わかりました。では、お言葉に甘えてやめさせていただきます」

そう笑顔で言う。

「はあ?」

驚いている平本を無視して、俺は頭を下げた。

「今までありがとうございました」

そう言って、平本の元を立ち去る。そしてその足で課長の元に向かった。

「課長、今日限りでやめさせていただきます。そう言って、あらかじめ用意していた辞表を出した。課長は驚き、「どういうことだ」と聞いてきた。

「詳しくは係長に聞いてください。今までお世話になりました」

課長にも頭を下げ、俺はそのまま会社を出た。外の空気が、やけに美味しく感じられた。これでやっと解放される。そう思うと、心が軽くなった。

その翌日、俺のスマホが鳴ったので出る。電話の相手は、平本だった。

「もしもし」

「は、松田さんですか?」

平本の昨日とは打って変わって、丁寧な態度に笑ってしまいそうになるのを、必死でこらえた。

「どうしたんですか?私はもう係長の部下じゃないですけど」

「昨日は、いや、今まですみませんでした。本当に申し訳ありませんでした。あんなことを言っておいて虫がいいとは思うのですが、助けてもらえないでしょうか?」

「何があったんですか?」

「松田さんは今まで大変なお仕事をなさってたんですね。昨日あの後、私が先方に謝りに行ったんですが、それまで苦情の対応などしてこなかった私には何をしていいか分からなくて。はあ、には余計に先方を怒らせてしまう始末で。課長に助けを求めたのですが、課長もあまりこういう対応に慣れていなかったみたいで、二人で困ってしまいまして」

「そうですか」

「松田さんの存在のありがたみが身に染みて分かりました。戻ってきて我々を助けていただけないでしょうか?」

「無理です」

「何を今更」と思った。しかし、平本は必死だった。

「いえ、そこをなんとか。私も反省いたしました」

「いや、本当に無理です。ご自分でどうにかなさったらいかがですか?」

その時、受話器の向こうから舌打ちが聞こえた。

「なんだお前?人が下手に出てたら、いい気になりやがって」

本性を表したことに、また笑いそうになってしまう。

「いや、私にはもう関係ありませんし、辞めた私には助ける義務もございませんので」

「関係ないことないだろ。お前だって営業部だったんだから、お前にも責任があるだろ」

「すみません。今、勤務中ですので、もういいですか?」

話を聞くのが面倒になり、平本の話の途中でそう言った。

「はあ?お前、昨日の今日でもう勤務してるわけないだろ。嘘つくなよ」

「本当ですよ。今は研修の真っ最中です。まあ、すぐに転職できたのは、ある意味あなたのおかげです。ありがとうございます」

「どういうことだよ」

「俺が、あなたみたいな質の悪い上司の元で働かされてることは、取引先の会社でずっと噂になってまして。いろんな人が『もし何かあったらうちに来てくれ』って誘ってくれたんですよ」

「なんだと?」

「だから、俺は昨日会社を出て、すぐに今の会社に来たんです。そしたら、すぐに受け入れてくれました。今は研修の真っ最中というわけです」

「お前、ふざけるな。卑怯だぞ」

どの口が言ってるんだと思ったが、もう相手にするのも面倒だった。

「では、失礼します」

そう言って電話を切った。受話器の向こうで何か叫んでいたようだが、俺の知ったことではない。俺は今の会社の仕事に集中した。

それから一週間ほどが経った頃、平本たちのその後の顛末が噂話になって、俺の耳にも入ってきた。その後、結局平本一人では対応しきれず、課長と共に取引先に謝罪に行ったが、それでも怒りは収まらなかった。その結果、話は社長の耳にも届いてしまった。社長は平本の人事には関わっていなかったため、なぜこんな人間が係長をやっているのかと、顧問取締役の島田を問い詰めた。そして、平本が何の結果も出さずにコネだけで昇進している事実を知った社長は激怒。平本をよく思っていなかった社員が多数いたこともあり、二人は懲戒解雇となった。もちろん、平本の父親である顧問弁護士も、担当を下ろされたようだ。

しかし、まあ、あの会社を辞めた俺には、もう関係のない話だ。今の俺は、理不尽な上司やストレスばかりの仕事から解放され、営業の仕事を楽しくやっている。歩き回って、人と会って、会話をする。やはり、この仕事が自分にとって天職だなと感じる。これからも、人との繋がりを大事にしながら、仕事に励もうと気持ちを新たにした。

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