「川島さんも、カノンさんが気になってるんですよね。ごめんなさい。私のせいで、席を離れちゃいましたね」
俺は愕然としながら首を横に振る。
「え、ち、違う」
「ごめんなさいね。いいタイミングで席を交代できるようにしますから」
そう言って、雪野さんは俯いてしまった。
俺の名前は川島覇斗。三十歳。IT系のプログラマーとして働いている。主にクライアント企業の業務効率化システムを開発するのが俺の仕事だ。コードを書いて、テストして、バグを潰して、また書く。地味な作業の繰り返しだけど、システムがうまく動いた時の達成感は何物にも代えがたい。
今日は、長年取引のある重要なクライアントである大手スーパーチェーン「丸坂」本社でのプレゼンテーションがある。新しい在庫管理システムの提案だ。デモンストレーション用の画面を用意し、各店舗の在庫がどう動くか、売上グラフがリアルタイムで更新される様子などを、経営陣の前で見せる予定となっている。
俺は緊張しながら本社ビルの前に立っていた。中に入ると、いつも受付にいる女性二人が立ち上がり、深々とお辞儀をしてくれる。そのうちの一人、髪をアップにまとめた華やかな女性、カノンさんが俺に向かって微笑みかけてくる。
「いつもお世話になっております。こちらにご記入をお願いいたします」
甘い響きの声で受付用紙を差し出してくれる。この女性は、うちの開発部でも常に話題の中心となっている女性だ。綺麗で、優しくて、華やかで、仕事もできる。まさに理想の受付嬢と呼ぶにふさわしい存在。特に、俺と同期の田中なんて、カノンさんに惚れ込んで、何度となくアプローチを仕掛けては玉砕を繰り返している様子だ。
確かに魅力的で可愛らしい人だけど、実は俺が心を奪われているのは彼女ではない。カノンさんから受付用紙を受け取りながら、そっと視線を移したのは、すでに挨拶を済ませて着席し、パソコンのキーボードを軽やかに叩いている女性、雪野さんだった。
俺は彼女に魅了されていた。肩まで伸びた黒髪を一つにまとめ、知的な眼鏡の奥にある切れ長の瞳。薄い化粧で、はっきり言ってカノンさんのような華やかな美女ではない。けれど、その落ち着いた佇まいに、俺はいつも目を奪われていた。俺が受付に記入しているわずかな時間に、必要書類を手際よく準備し、来客用IDカードを発行し、素早くカードケースに収納する。その一連の動作にさえ、見惚れる美しさがあった。
「ありがとうございます」
お礼を言って書類を受け取ると、雪野さんは「四階の第三会議室です」とほんのり微笑みながら案内してくれた。俺は軽く頷いて、エレベーターホールへ向かう。エレベーターに乗り込んで受付を振り返ると、カノンさんと雪野さんが揃って俺に向かってお辞儀をしてくれる。その丁寧すぎる対応に少し気後れを感じるものの、彼女たちの仕事への真摯な姿勢が伝わってきて、思わず背筋を伸ばした。
その後、緊張しながらもなんとかプレゼンを終わらせた俺は、期待以上の手応えに満足感を浸りながら開発部に戻ると、同期の田中が声をかけてきた。
「聞いてくれよ。ついさっき俺も丸坂に行ってたんだけどさ」
田中はフロントエンド開発を主に担当しており、俺と同じく丸坂チェーンは重要なクライアントだ。田中は、持ち前の爽やかさとモデル顔負けのルックスで、クライアントの好感度も高い。確かに、田中は同性の俺から見てもイケメンでコミュ力も高いし、今までモテ人生を歩んできたんだろうなと、時々羨ましくなるほどだ。
そんな田中がアプローチしているにも関わらず、一向になびかないというカノンさん。一体カノンさんの好みのタイプはどんな男性なのだろうか。そんなことを考えている俺に、衝撃的な言葉が飛び込んできた。
「カノンさんがオッケーしてくれた」
「マジで?」
俺は目を見開いた。田中は嬉しそうに大きく頷く。
「ああ。合コンを誘ったら来てくれるって」
「なんだ、合コンかよ」
「ああ、合コンなら言ってあげてもいいって。ちょうど友達が出会いを求めているからってさ」
俺は少し興味を失った。二人きりのデートを断られ続けた田中は、戦略を変えて複数人での食事会に切り替えたらしい。カノンさんのあの鉄壁のガードがついに崩れたのかと俺も興奮したのに、話が違ってくる。
「いいじゃないか。これをきっかけに、俺の魅力に気づいて一気に交際に持ち込めるかも」
田中はそう言って笑うが、俺は苦笑いを浮かべながら、ふと気になったことを口にした。
「それって、雪野さんも参加するの?」
「雪野さん?カノンさんの隣にいるあの受付嬢の」
田中は眉を潜めた。
「いやいや、それはないだろう」
「なんだよ、お前。雪野さんのこと気になってるのか?」
図星を突かれて、俺は慌てて首を横に振る。
「ち、違うよ。カノンさんって聞いたら、なんとなく頭に浮かんでさ」
苦しい言い訳に、田中は疑うことなく笑った。
「まあ、あの二人は仲良いからな。でも雪野さん、明らかに合コンとか苦手そうなタイプじゃね?」
「うん、確かにな」
疑いの目が逸れたことにほっとしていると、田中に肩を叩かれた。
「お前も参加するだろ?」
当然のように問われるが、俺はまた大きく首を横に振った。
「参加しないよ。合コンとか得意じゃないし」
正直、雪野さんが来るなら飛びついたところだが、初対面の女性たちと話すのは苦手だ。しかも相手はカノンさんとその友達。きっと学生時代はヒエラルキーの頂点にいそうな、いわゆる陽キャと呼ばれるタイプの女性には気後れする。嫌いではないが、苦手なタイプだ。
「えー、もったいない。カノンさんだぞ。友達も絶対可愛いって」
「いや、だから嫌なんだよ」
前のめりになる田中に押され、思わず後ずさる俺。
「他にもいるだろう。行きたい奴。そっちに譲るよ。じゃあ俺、課長にプレゼンの進捗報告してこなきゃ」
そう言って、足早に田中の前から立ち去った。田中は顔が広く友人も多い。カノンさんを狙う社員はうちにも大勢いるだろうから、メンバー集めには困らないだろう。そう思っていたのだが、数日後、田中は俺の前で両手を合わせて頭を下げた。
「だめだ。メンバーが集まらない。頼む。一緒に来てくれ」
「なんでだよ。カノンさんがいるなら行きたいって人たくさんいるだろうよ」
俺の言葉を田中は遮った。
「だからダメなんだよ」
意味が分からず首をかしげる俺に、田中は説明する。
「男みんながカノンさん狙いなんてありえないだろ。ライバル連れて行ってどうすんだって話。それに他の女の子も来るわけだし、カノンさんにばっかり話を振ることになっても気まずいじゃん」
「なるほどね」
他の女性のためにも、カノンさん目当てではないメンバーを用意したいらしい。
「でも、実際結局みんなカノンさんに夢中になっちゃうんじゃないの?なら誰が参加しようが同じじゃん」
口を尖らせると、田中はにっこりと微笑んだ。
「いや、お前はカノンさん苦手だろ」
図星だったので言葉に詰まる。
「つまり、絶対に俺のライバルにはならないだろ」
変な信頼に冷汗が流れた。
「う、そりゃそうだけど、だとしても他のことうまく話せるかって言われたら自信ないよ。そういうの得意じゃないんだ」
田中は俺の肩をがっしり掴んだ。
「大丈夫。話さなくたっていつものように聞き上手にすればいい」
聞き上手。そう言われると褒められているような気分にもなるが、要するに自分から積極的には話さない奴とディスられてるような気もする。
「女の子は、何でもうんうんって聞いてくれる男に弱いんだよな。よし、じゃあ決まりだな。明後日よろしく」
こう言って田中は勝手に話をまとめ、俺が反論する隙を与えずに去っていった。俺は頭を抱えたが、仕方ない。強引な営業スキルで成果を上げている田中だが、図らずもそのスキルの高さを身を持って実感することになってしまった。
そして迎えた合コン当日。スーツの入った田中と、田中の幼馴染みだという二人、そして俺の四人で合流地点に入る。おしゃれな個室の席の奥の方に、田中はさっさと俺たちを案内した。
「俺が幹事だし、グラス下げたり注文を取ったりするのにこっちの席の方がいいでしょ」
そう言いながら、田中は入口近くの席に座る。そして、やがてやってきた女性三人をいち早く見つけ、女性側の幹事となったカノンさんにも同じ提案をしている。
「あ、じゃあそうしましょうか。みんな奥の席にどうぞ」
カノンさんに促された女性が、続々と奥の席に入ってきた瞬間、俺の心臓がどくんと跳ねた。おずおずと、どこか申し訳なさそうにお辞儀をしながら入ってきたのは、なんとあの雪野さんだったのだ。
「え、雪野さん?」
驚いて思わず口にした俺を見て、雪野さんは恥ずかしそうに俯いた。
「人数が足りないからって、カノンさんから誘われて……。すみません、私なんかが」
そう言って彼女は申し訳なさそうに俺の前に座る。一気に心が踊った。来ないと思っていた雪野さんが、今目の前にいる。仲良くなれるチャンスだと浮き足だったのだが、次の瞬間、俺の心はきゅっとしぼんでしまう。
「川島さんも、カノンさんが気になってるんですよね。ごめんなさい。私のせいで席を離れちゃいましたね」
「え、ち、違う」
俺は愕然としながら首を横に振るが、雪野さんは続ける。
「ごめんなさいね。いいタイミングで席を交代できるようにしますから」
雪野さんはそう言って、俯いてしまった。自分でもよくわからないのだが、俺はその時、弁解する気力さえ湧かなかった。明るくて華やかなカノンさんは、確かに異性にモテるタイプだってことは分かる。俺もカノンさんに惹かれてる。そう思われても仕方がないのかもしれない。
でも、俺はそうじゃないのだと、しっかり反論すればいい。俺の気持ちを雪野さんが知っているはずもないのだから。そう思うのに、心がついてこない。窓の外にはキラキラと光るネオン。町を歩く人々の群れ。窓側の席に座っているのをいいことに、俺はそれらをぼんやりと眺める。会話に全く参加しないのは失礼なので、隣にいる男性や向かいの女性とは適当に返事をしていた。でも、目の前にいる雪野さんからは、どうしても視線をそらし続けてしまう。
「すみません、ちょっとトイレ行ってきます」
そう言って俺はそっと立ち上がり、外に出た。この場にいることが、どうにもいたたまれなくなってしまったのだ。トイレに行ったら、このまま帰ってしまおう。会費はすでに田中に払っているから問題ない。出る時に田中の背を軽く叩いて、目配せした。田中は分かったのか分からなかったのか首をかしげて頷いたので、そのまま席を後にして、俺はトイレに向かった。
気分がどんよりと沈んでいる。せっかく雪野さんが目の前にいたのに。仲良くなれる絶好のチャンスだったのに。なのに俺は、カノンさんのことが好きなのだろうと勘違いされていた。この事実が、俺をどうしようもなく暗い気持ちにさせる。一番誤解されたくなかった彼女に、誤解されていることが心底悲しかった。
俺は手に持っているスマホを見た。時間はまだ二十時。少し冷静さを取り戻した俺は、ふと考える。気持ちはこのまま帰りたいところだが、社会人としてどうなんだろう。みんなに失礼であることは間違いないよな。そう思った俺は意を決し、鏡に向かって笑顔を作った。そして、やっぱり席に戻ろうとトイレを出た瞬間、足が止まりそうになった。雪野さんが立っていたからだ。
雪野さんは、泣きそうな顔をしていた。
「ごめんなさい」
「あ、あの、いや、こちらこそすみません」
いきなり謝られた俺は、動揺しすぎてなぜか謝ってしまう。そして次の言葉を考えているうちに、さらに雪野さんは続けた。
「あの、ずっと私を避けてますよね。ごめんなさい。私本当こういう場に慣れてなくて……。きっと何か失礼なこと言っちゃいましたよね」
雪野さんの震える声に、俺はおろおろしたが、意を決して思いっきり本音をぶちまけた。
「いや、俺の方こそなんだか幼稚な態度を取ってすみません。俺、雪野さんのことを気になってたんで、カノンさん狙いだと誤解されていたことにショックで、それでうまく話せなくなっちゃって……。無視するみたいになってごめんなさい」
他の言い訳も浮かばなかったので、正直に謝ることにした。恥ずかしくて顔を上げられずにいると、困惑している様子の雪野さんの声が聞こえてくる。
「え、あの、え、気になってたって……」
ゆっくりと顔を上げると、雪野さんの顔は真っ赤に染まっていた。ノンアルコールだったはずなのに、俺はふうっと息をついた。
「よかったら、空気を変えて飲み直したいんですけど、席に戻りませんか?ま、できたら別の店に二人で行きたいところだけど……。あ、もちろんこのまま帰るならタクシーをお呼びしますし」
「じゃあ、別の店に……」
「え、い、いいんですか?」
予想もしなかった大展開の答えに、俺は心の中でガッツポーズを決めた。
「あ、じゃあよし、行きましょう」
声が上ずりそうになるのを必死に抑え、冷静を装いながら雪野さんと店の外に出た。歩きながら田中にメッセージを送った俺。田中からは驚きの表情のスタンプが返ってきたが、それ以上引き止められることはなかった。きっとカノンさんを口説くのに必死なのだろう。
雪野さんはお酒に弱いらしく、「あの、お酒もいいですが、ちょっとあの……カフェで甘いものでも食べませんか?」と、遠慮がちに俺を誘った。誘われるまま入ったのは、駅前にあるガラス張りのカフェ。大きな窓からは町のネオンが差し込み、外の喧騒とは対象的に、店内は落ち着いた雰囲気に包まれていた。白いテーブルに柔らかな明かりを落とすペンダントライト。奥のソファー席に案内され、ふかふかのクッションに腰を下ろすと、ゆったりとしたBGMが耳に心地よく流れ込んでくる。テーブルに置かれたメニューには色鮮やかなパフェやケーキの写真が並んでいて、見ているだけで少し気分がほぐれてしまう。
「わあ、美味しそう」
雪野さんは、フルーツがたくさん乗ったパフェを注文した。
「恥ずかしいな。なんだか子供みたいで」
こう言って顔を赤らめた雪野さん。会社でしか顔を合わせたことのない雪野さんの、初めて見る表情に、ドキドキが止まらない。俺もここぞとばかりに、普段頼まないようなティラミスなんかを注文した。そもそもこんなおしゃれなカフェには縁がない生活をしているし、甘いものは好きだけど、一人でカフェに入ってまして。パフェやケーキを頼むなんて、恥ずかしくてできないから。
注文を終え、しばしの沈黙の後、俺は改めて口を開いた。
「改めてすみません。無視したみたいな形になって」
俺の言葉に、雪野さんは首を横に振った。
「私こそ、勝手に誤解して先走ったこと言ってしまったみたいで……。でも、カノンちゃんは本当に可愛くて優しくていい子ですし、男性は皆さんカノンちゃんがいいのかなって。実際受付にいても、男性は皆さんカノンちゃんの方に釘付けなんですよ」
俺は頭を掻いた。
「カノンさんが率先して声をかけてくれるので、なんとなくカノンさんの方に行っちゃうとは思います。でも俺は、実は雪野さんのことがずっと気になってて……。見てました。気づきませんでしたか?」
正直に白状すると、雪野さんは顔を真っ赤にした。
「そ、そんなからかわないでください。私なんて、そもそも受付嬢に向いてないんです。元々は事務だったのに、定員補充で移動になって、仕方なく受付の仕事をしてるだけで……。元々あまり喋るの得意じゃないから、カノンちゃんにもいつも助けてもらってばかりで申し訳なくて」
俺は首をかしげた。
「でもいつもテキパキ対応してくれてるし。それに俺、知ってるんです。喋るの苦手って言うけど、雪野さん、会社近くの私立図書館で読み聞かせボランティアしてますよね」
指摘すると、雪野さんはさらに顔を赤らめた。
「え、どうしてそれを?」
「俺もあの図書館よく利用するので。実は俺、よく行く図書館で何度も雪野さんを見かけてました」
静かな図書館で本を読むのが唯一の趣味とも言える俺は、休みの日によく図書館に行く。ある日、児童書のコーナーから絵本を読み聞かせる女性の優しい声が聞こえてきて、思わず聞き入ってしまったことがあった。優しく、まるでゆっくりと流れる川のせせらぎのように澄んだ声。その素敵な声の主を一目見たくて、そっと近づいて本棚の影から声のする方を覗き込んだ。
「え、あれって雪野さんじゃん」
その時の驚きは、心臓をわし掴みにされたような衝撃だった。職場で見せる落ち着いた笑顔しか知らなかった雪野さんが、柔らかな声で子供に絵本を読み聞かせている。本の挿絵に合わせて表情を変えたり、登場人物の声色を演じたり。そんな姿は、俺の知っている雪野さんとはまるで別人のようで、思わず息を飲んだ。こんな優しい表情で話すんだ。胸の奥が熱くなり、しばし本棚の影から目を離すことができなかった。
雪野さんは俺の話を聞くと、恥ずかしそうに顔を覆った。
「やだ、全然気づかなかった。ボランティアの時は眼鏡外してるから、遠くまでは見えにくくて」
眼鏡を外したまさにその姿が、とても愛しかったのだ。大きな瞳をキラキラとさせ、いつも結んでいる髪の毛を下ろし、可愛らしいエプロンをして子供たちに微笑みながら語りかける様子は女神のようだった。
「子供が好きで、小さい頃は保育士になりたかったんです。色々あって夢は叶いませんでしたけど、ここで読み聞かせのボランティアを募集してるって知って、すぐに応募しました。自信はなかったけど、子供たちはキラキラした顔で喜んでくれて。図書館の職員さんたちも褒めてくれて……。私、褒められることなんて滅多にないから嬉しくて、気が付いたらずっと続けてます」
雪野さんの話に、俺は少し驚いた。
「褒められることないんですか?」
「ないです。私、目立たないし、地味だし、愛想もないし。それに特に得意なこともなくて。カノンちゃんみたいな明るくて優秀な人に憧れます」
その言葉に、俺は身を乗り出す。
「俺は、雪野さんのことすごいと思って見てますよ」
少し大きくなった俺の声に、雪野さんは驚いた様子だった。
「俺が受付表に記入している間に、ささっと必要な書類を出してまとめて、キーボードを光の速さで打って、受付表を書き終えた時にはもう何もかも揃ってるじゃないですか」
雪野さんは俯いて、困ったように笑った。
「そんなの、大したことじゃ……」
俺は首を横に振った。
「一度雪野さんがお休みの時に訪問したことがあって、カノンさんが一人で対応してたんですけど、その時言ってましたよ。雪野さんはすごいんだって。来る人の顔と名前はほぼ全部覚えてるから。自動ドアの向こうに立った時から誰が来たか分かって、その時点から準備を始めてるんだって。早く私もそんな雪野さんみたいになりたいって」
俺の言葉に、雪野さんは目を丸くした。それを見て、俺も微笑んだ。
「俺もすぐに名前覚えてもらって嬉しかった一人です。それからなんとなく雪野さんのことが気になり始めて。そして図書館で読み聞かせをする姿を見て、完全に恋に落ちました」
恥ずかしさをこらえて、俺は続ける。
「だから、友達からでいいので、仲良くなりたいです。例えば、好きな本の話とかできませんか?」
雪野さんはおずおずと頷いてくれた。
「私でよかったら」
その言葉に、俺は飛び上がりそうになった。
それから俺たちは、週に一度会うようになった。土曜日に読み聞かせを聞きに行き、読み聞かせが終わったらお互いに好きな本を借りて、カフェに行く。本の話をしたり、時には借りた本を読む時間を作ったり。彼女はただ本を読むだけじゃなく、自分で物語を作るのも好きだった。時々「この話の続きを即興で考えて」なんて無茶ぶりをしてきて、二人で交互に物語を紡いでいくようなこともあった。ある時は突飛もないSFになり、またある時は童話のようなファンタジーになる。決して派手な時間ではないけれど、そのやり取りの中に穏やかな楽しさと温かさがあって、俺にはそれが何よりも幸せだった。
そんな日の読み聞かせの最中のことだった。聞かせが始まってしばらくした時、突然建物が大きく揺れた。
「地震だ」
震度は三か四ほどだろうか。本棚から本が数冊落ち、子供たちが一斉に泣き始めた。
「みんな大丈夫よ。落ち着いて。座って、頭を隠すの」
雪野さんがパニックになった子供たちを落ち着かせようとする。揺れは数秒で収まったが、子供たちの動揺は激しく、泣きはめえたり、中には顔面蒼白で呆然と立ち尽くすような子もいた。その時、雪野さんが突然、大きな声を響かせた。
「大きなくしゃみだったね」
その声に、子供たちは一瞬ぴたりと静まった。
「くしゃみ?そう、地球さんがくしゃみしたの。風邪引いちゃったのかな?森にいたみんな、びっくりしちゃったね。うさぎさん、リスさん、たぬきさん」
一人一人を動物に見立てて、雪野さんが指を指していく。そうか。これは雪野さんがとっさに思いついた創作だ。パニックになる子供たちの注意を引こうとしている。
「お猿さん、キツネさん、ふくろうさん。そして……」
そう言って、俺の方を指さした。
「体の大きなゴリラさんも」
俺に向かってそう言った時、子供たちから笑い声が漏れた。
「ゴリラさんは、小さな動物さんたちを守ってくれました」
そこで雪野さんは、何かを訴えるように俺の方をじっと見た。この視線は、いつも俺に話の続きを無茶ぶりしてくる時と同じ目だ。俺はすぐに察して、言葉を続けた。
「ああ、びっくりした。でももう大丈夫。地球さんにはお薬をあげました。風邪はすぐに治るでしょう。さあ、広い公園でお歌を歌って、地球さんに聞かせてあげましょう」
津波の可能性も考え、とりあえず安全を確保すべく、大きな本棚のない四階の多目的室に子供たちを誘導。雪野さんの合図で、子供たちは笑顔で歌い始めた。見守っていた保護者も職員も、そして子供たちみんなが笑顔で歌う。その明るい歌声が部屋中に響き渡った。
そのまま無事に読み聞かせは終了し、片付けを終えて図書館の小さな休憩室で二人きりになると、俺と雪野さんはぐったりと脱力した。そして、雪野さんのとっさの機転や俺のアドリブを褒めちぎってくれた図書館職員さんたちの言葉を思い返し、互いに笑い合った。
「私、あんなにたくさん褒められたの初めて」
褒められることがないと自虐的に言っていた雪野さんの頬は上気し、興奮している様子が伺える。
「俺も、人前であんな大声で話したのなんて初めてだったし」
自他共に認める聞き上手の俺が、自ら考えて発言できたことにも驚きながら、俺は言った。
「雪野さんと即興で創作してたのが役に立ったよ」
そう言うと、雪野さんも頷いた。
「うん。私も、自分で自分のことちょっと褒めてあげたい。ちょっとは成長してるのかな、私」
その言葉に俺も頷く。
「そうだね。で、同時に、俺たちパートナーとしても成長してるんじゃないかななんて思ったりして」
「え、パートナーとして」
俺は一呼吸を置いて、語り出した。
「あるところに、自信がない一組のカップルがいました。男の人は、女性を喜ばせるどころか、勘違いをして不機嫌にさせたり、うまく喋れずにつまらない思いをさせたりしているんじゃないかって、ずっと心配してました」
俺が口を紡ぐと、しばらくして雪野さんが続けた。
「女性は、いつも周囲にいる素敵な女性と自分を比べては、嫉妬ばかりしていました。合コンに行って、せっかく気になる人が目の前にいたのに、きっと自分のことなんて見ていない。別の女性のところに行くに違いない。なんて決めつけてしまうような、可愛げのない女性でした」
あの合コンの時、雪野さんはそんなことを思っていたのか。正直な気持ちを聞き、俺は苦笑する。雪野さんは恥ずかしそうに、続きを紡いだ。
「こんな自分と一緒にいてもつまらないんじゃないか。きっとすぐ、私の周囲にいる素敵な女性に心を奪われてしまうんじゃないかって。未だにいつも心配してます」
雪野さんの唇が、きゅっと固く結ばれた。俺はそっと彼女を抱きしめながら、言葉を紡いだ。
「その男性にとって、その女性は掛け替えのない唯一無二の人であり、一緒にいるといつも心が穏やかになる相手でした。この人とずっと一緒にいたいと、いつも強く思っています」
俺の背中に、そっと腕が回される。
「女性も、男性のことがどんどん好きになっていて、周囲の女性がどんなに素敵でも負けたくない。手放したくない。ずっと一緒にいたいって、強く思うようになりました」
俺は少し体をずらして、雪野さんを見た。
「きっと二人は、とても相性のいいパートナーになるでしょう」
雪野さんの目が緩む。
「私もそう思います。覇斗さん、私と結婚してください」
こうして、外から聞こえる町の喧騒を聞きながら、俺たちは残りの人生を共にすることになる。
あれから数年。家族となった俺たちは、五歳になる一人の娘、彩佳を連れて公園にピクニックに来ている。雪野さんの手作り弁当を食べ、彩佳とたくさん外を駆け回った後、芝生に座っていつものお話会を始める。
「あるところに、とっても仲良しな三人家族がいました」
雪野さんが最初に言葉を紡ぐ。
「お父さんはゴリラさん。お母さんはお歌の上手なうさぎさん。そして、そんな二人の子供は……」
俺がそう言って続きを促すと、彩佳が元気よく答える。
「お歌とダンスが上手な、可愛い可愛いリスさんです」
俺は少し笑ってしまった。笑いをこらえながら、言葉を探す。
「リスは楽しそうに笑ってます。リスの笑顔は、お父さんとお母さんを幸せにする魔法です」
その言葉に、娘は嬉しそうに笑う。
「魔法使いのリスさんは、お腹が空きました。おやつ食べたい」
お話の世界から突然現実に戻る娘に、俺たちは思わず笑ってしまった。バスケットの中から取り出したのは、雪野さんの手作りチョコクッキー。一口かじると、甘くてサクサク。幸せの味だ。こんな幸せをいくつも積み重ねながら、穏やかな時を過ごしていきたい。キラキラと太陽の光を反射する池を見ながら、そう願うのだった。



