「もう子どもは産まないつもり?」
義母が電話を切った後、何気なく、でも確信を持って私にそう聞いてきた。夏のことだった。
私は34歳。専業主婦として夫の実家の農家を手伝いながら、3歳の娘を育てている。土日も関係なく畑仕事に借り出され、ご近所の持ち回りの仕事である村当番まで代わりにやらされていた。
「あなた、男の子を産まないの?嫁として恥ずかしくないの?」
ため息混じりの言葉に、私は拳を握りしめた。入籍して1年経った時も同じことを言われた。あの時は我慢できた。私さえ我慢すればいいと思っていた。
でも今は違う。義母は娘の前でも平気で「弟が欲しいわよね」と言うようになった。
「いや、ママは今日はかーん!」うちの子は予想以上にママっ子だ。義母の言葉を拒否した。
「なんですって。子供のくせに生意気よ。甘えた子に育つなんて!」
手を振り上げた義母。私が代わりに平手打ちされたので娘には当たらなかったが、パチンという音に怯えた娘が泣き出した。
「いや、バーバ怖い!」
「泣き喚いてうるさいわ。さっさとどこかへ連れて行ってちょうだい!」
3歳の娘に向かって怒鳴り散らす義母に、私は本能的な恐怖を覚えた。このままでは、いつかこの家で娘が痛い思いをする。もうここにはいられない。浮かんだのは離婚の二文字だった。
だが、娘がいる以上、計画的に動かなければ離婚を妨害されるかもしれない。私はじっくりと計画を練ることにした。
お盆休みに入り、夫の姉が実家に帰ってきた。姉は男の子3人の母で、実家に来れば子どもたちは遊び場と勘違いしている。
「あ、若菜さん、私お腹空いた。お団子か何かおやつある?」
お茶はご自分でどうぞ。私は用意したおやつを出し、姉が食べ始めたのを見ながら言った。
「さて、では私は実家に帰らせてもらいますね」
その場にいた全員が驚いてこちらを振り返った。
「なんですって?そんなこと聞いていないわ」
「あれ?おかしいですね。夫には伝えましたよ。お母さんにも知らせるように言いました」
「お、俺は聞いてないぞ。嘘つくなよ」
信じてもらえないので、私はスマホを取り出し、音声を再生した。お盆に実家へ帰ると言う私の言葉に生返事を返す夫の様子がよく録れていた。
「その生返事、会社ではしないようにね。足元を救われるわよ」
夫は何も言えずに口をつぐんだ。
「待ちなさい。嫁が家のことをしないで実家に帰るなんて許されないわ。家事はどうするのよ」
「なるほど。ではここにいる姉さんはいいんですか?実家に帰って手伝いもせずにゴロゴロしているようですが、帰って旦那さんの実家の家事をするべきでは?」
「へえ?嫌よ。私がこき使われるなんてごめんだわ」
義母は何も言えなくなった。娘の手前、言葉が見つからなかったようだ。
久々の実家は思った以上に快適だった。両親は娘が何をしても可愛いとべた褒めだ。義実家のことを相談すると「あんた、そんなに我慢してバカなの」と呆れられたが、全て娘を安全な実家に託すために必要だったと打ち明ければ、仕方ないなと許してもらえた。
両親の協力を得て、私は離婚届の準備をし、決意も新たに義実家へ戻った。ところが、数日ぶりの義実家は大変なことになっていた。
家中の収納が開け放たれ、壁や床は落書きまみれ。大事な書類は破かれ、夫がプレイ中のゲームデータは上書きされていた。犯人は姉の息子たちだ。いつもなら私が適度に目を配っていたが、今回は誰も面倒を見なかったらしい。
「若菜さん、今頃帰ってきたなんて。なんて役に立たない嫁かしら。バカみたいな量の食事の準備は大変だったのよ」
「私は毎年こなしてましたよ。お母さん、私にあれこれ文句をつける割に、この程度なんて段取りが悪いんですね」
「なんだその口の聞き方は!大変な思いをした人間に思いやりの気持ちはないのか?」
「なるほど。ではお父さんはお忙しいお母さんを手伝ったんですね」
「もちろん!」
「帰宅後、必死に床を磨いていたのはお母さんだけでしたけど」
義両親は私の指摘に言い返せず、ぐっと口をつぐんだ。義母は、働いているのが自分だけだと気づき、義父をちらりと睨んでいる。
気まずい空気を破ったのは夫だった。
「おい、悪いのは勝手に出ていったお前だろ。何が足元救われるだ。今後こんな真似は絶対許さないからな。帰りたければ離婚だぞ」
「離婚?」
「今回の騒ぎは土下座で許してやるよ。離婚にビビるとでも思っているのか」
夫はニヤニヤと笑みを浮かべ、謝罪を迫ってくる。私は深いため息をつき、鞄から離婚届を取り出すと、夫の胸へ押し付けた。
「じゃあ離婚ね。もう全部記入してあるわ」
「え……娘がいないことにも気づかない無能な夫だわ」
姉は実家に戻り、あらかじめまとめておいた残りの荷物を手にし、玄関に向かおうとする私を、義家族が慌てた様子で追ってきた。
「わ、若菜さん、あなた本気なの?ここを出てどうするの?女ひとりで子育てなんて大変よ」
「ここにいるよりマシですよ。そもそも夫が育児を手伝ったこと、ありました?」
「そ、それは……うん」
「ないですよね。休日に娘と遊ぶのだって嫌がるくらいですから」
「おい、俺は腰が悪いんだよ。畑仕事はどうするんだ?怪我人を放置するなど」
「腰が悪いのに、お友達の車に乗り合わせてカラオケバーで若い女の子と遊ぶのはいいんですか?」
「お、お前、なんでそれを……」
慌てる義父。玄関の扉を開け、外に踏み出した私は、こちらに歩いてくる数人の人影に気づいた。
「ああ、若菜ちゃん帰って来たか」
ほっとした様子の人たちはご近所さんだった。お盆に娘を連れて家を出る場面を目撃されていたようで、まさかとうとう離婚かと心配していたらしい。
「その通りです」
「でも旦那は納得してねえみたいだな」
お隣のおじさんが呆れたように笑い、後ろを指さした。振り返れば夫と義両親が追ってきている。
「おい、お前ら!ご近所さんの前でなんだ。みんなで話し合いましょう」
「そうだぞ。うちの嫁としてきちんと話し合わなきゃいけんからな。離婚なんて冗談に決まってるだろう」
上から目線の物言いに、ため息しか出ない。
「呆れたもんだなあ。若菜ちゃんもよくこんな家で頑張ってくれたよ」
「本当よ。村当番も畑仕事も全部任せておいてさ。ご近所の集まりでは平気で若菜ちゃんの悪口ざんまいよ」
「バカバカしくって誰も信じちゃいなかったけどね」
奥さんが義母を睨みつける。
「う、嘘じゃないわ。この嫁は本当に……」
「うちの旦那がぎっくり腰になった時、若菜ちゃんが代わりに車で病院まで送ってくれたのに、この人は『家の仕事もしてないのに出歩くな』って言ったんだよ」
「そうだよ。鬼ババってみんな言ってるよ」
「鬼ババの旦那はバーのエロじじい。働きもしないで文句ばかりなんて最低よ」
「旦那が鬼ババから守ると思えば、親と一緒になっていびってたとはな。離婚は冗談だ?ふざけんじゃねえよ。言っていいことと悪いことの違いも知らねえのか」
近所の人に叱られ、公然の秘密を暴露され、外で見るような冷たい視線にさらされて、ブルブル震える3人の姿を見て、胸のうちがすっとした。
その後、夫との離婚は無事成立した。お隣のおじさんの息子さんが離婚歴があり、手続きに詳しいからと、財産分与や養育費の件も随分手伝ってもらったのだ。
聞くところによれば、義父と義母の関係は最悪らしい。若い女とのツーショットがゴロゴロ出てきて、義母は義父を責めているそうだ。元夫は休日も朝早くから畑仕事に借り出されて、体力のなさに毎日ぐったり。再婚を考えようにも、狭い村社会ではあっという間に離婚理由が知れ渡るため、次の嫁候補も見つかりにくいはずだ。義母は私に頼りっぱなしだったから、家事の腕も落ちて苦労しているようだ。
近所の人からは相変わらず白い目で見られ、「嫁に捨てられた一家」という不名誉なあだ名で呼ばれている。
実家へ戻る私に、近所の人が言ってくれた。
「若菜ちゃんならどこへ行っても大丈夫。今まで本当にありがとうね」
私こそ、優しいご近所さんに恵まれて離婚の支度までしてもらった。畑も人との関係も、大切に育てれば良い結果が待っているのだ。



