息子の怒鳴り声が、静かな夜のリビングに響き渡った。
私は驚いて、手に持っていたペンを取り落とした。
私は山子、62歳。今夜も遅くまで家計簿をつけていた。足の病院代、息子の昼食代、光熱費の引き落とし。すべて私の給料から支払う、いつもの作業だ。
階段から激しい足音が聞こえ、振り返ると、息子の強しが顔を真っ赤に上気させ、拳を握りしめて降りてくる。
こんな息子の姿は初めて見た。
「母さん、水希に何をしたんだ?」
心臓が凍りついた。何のことを言っているのか、まったくわからない。
「私は何も…」と震える声で答えると、強しの拳が壁を殴りつけた。
ドンという鈍い音が響き、壁に小さなへこみができる。
「とぼけるな。水希が泣いているんだぞ。母さんのせいで水希が泣いているんだ」
私のせい。頭が真っ白になった。
「もう限界だ。こんな母親とは暮らせない」
強しの言葉が、刃物のように私の心を切り裂く。36年間、必死に育ててきた息子からの、憎しみのこもった眼差し。涙が頬を伝い始めたが、声が出ない。ただ震えながら、息子の怒りに満ちた顔を見つめることしかできなかった。
私は震える手で台所の椅子に座り込んだ。
思い返せば、10年前に夫と別居してからは、強しとの二人暮らしだった。看護師の仕事を36年、月給15万円。その半分以上を強しのために使ってきた。大学の学費420万円、就職活動の費用30万円。すべて私が払った。
3年前、強しが水希を連れてきた日のことを覚えている。
「お母さん、よろしくお願いします」
可愛らしい笑顔だった。私は心から歓迎した。
その日から、生活は一変した。毎朝5時に起きて強しと水希の弁当を作り、朝食の準備をし、病院で8時間働いた後は、夕食の支度、後片付け、アイロン掛け。
「お母さん、今日も体がだるくて…」とソファに横たわる水希を気遣い、私は家事を一手に引き受けた。
水希の体調不良を心配し、病院代も私が払い続けた。
家賃8万円、光熱費2万円、食費5万円。月15万円の生活費を、私の収入から出している。3年間で540万円。私の老後の蓄えは、ほとんどなくなっていた。
それでも、息子夫婦が幸せならと思っていた。水希が「お母さん、ありがとう」と微笑む顔を見れば、疲れも吹き飛んだ。
なのに、私が水希を苦しめているだと? 一体何が起きているのか。
強しは怒りに震えながら、私を指差して言い始めた。
「母さんは、水希が料理を作ろうとすると“下手くそだから触るな”って言うんだろう?」
私は息を飲んだ。水希が料理をしているところを、一度も見たことがない。いつも「お母さんの料理が一番」と言って、キッチンに近づきもしないのに。
「違うわ。強し、水希さんは一度も…」
「嘘をつくな。水希が泣きながら言ってたんだ」
強しの声がさらに大きくなる。
「掃除をしようとすると“やり方が違う。私がやる”って取り上げるんだろう?」
掃除? 水希が3年間、掃除機を持つ姿すら見たことがない。いつも「腰が痛くて」とソファで横になっているのに。
「それに、水希の実家の悪口も言ってるそうじゃないか」
私の頭が真っ白になった。水希の実家? むしろ私は、あちらの無理な要求をすべて受け入れてきた。お中元5万円、お歳暮5万円。水希の妹の結婚祝い10万円。すべて私の貯金から出した。
「嫁の家族とは付き合いたくないって言ったんだろう?」
そんなことを思ったことすら一度もない。水希の両親が来た時は、高級料亭でご馳走し、宿泊費も私が払った。
「強し、お願い、話を聞いて」
「もういい。水希がどれだけ苦しんでいるかわからないのか」
強しは私の言葉を遮り、続けた。
「水希は毎日部屋で泣いているんだ。“お母さんに嫌われている”って」
私の胸がキリキリと痛んだ。嫌う? どころか、水希のために私は自分の時間もお金も捧げてきたのに。
「昨日も水希が言ってた。お母さんに存在を否定されたって」
存在を否定。昨日、私は水希に何を言っただろうか。思い出すのは「ゆっくり休んでね」という言葉だけだ。
「この家にいる価値がないとまで言われたそうじゃないか」
強しの怒りは頂点に達していた。でも、私にはまったく心当たりがない。
ふと、先週の出来事を思い出した。
水希が友人と電話している声が聞こえてきたのだ。
「うん。計画通りよ。義母は完全に信じてる。毎日泣いたふりをすれば、夫は必ず信じるから」
あの時は聞き間違いだと思った。でも、今、すべてが繋がり始めている。
「母さん、水希は繊細なんだ。母さんみたいな無神経な人間にはわからないだろうけど」
無神経? 私が36年間、患者さんの心に寄り添ってきた私が?
「もう限界だ。水希がこれ以上苦しむなら、母さんには出て行ってもらう」
強しの最後通告が、私の心を打ち砕いた。
「明日までに決めてくれ。水希を取るか、この家を出るか」
そう言い残して、強しは階段を登っていった。重い足音が遠ざかっていく。
私は一人、リビングに取り残された。
テーブルの上の家計簿が、涙で滲んで見える。540万円という数字が虚しく浮かび上がっていた。
これが私が尽くしてきた結果なのか。息子は完全に水希の言葉を信じきっている。私の言葉には耳を貸そうともしない。
窓の外は真っ暗だ。私の心も、真っ暗闇に包まれていった。
深夜2時、私は自室で静かに荷物をまとめ始めた。
強しの言葉が何度も頭の中で繰り返される。水希を取るか、この家を出るか。
答えはもう決まっていた。
押入れから古いスーツケースを取り出す。36年前、看護師として働き始めた時に買ったものだ。あの頃は希望に満ちていた。息子を立派に育てて、幸せな家庭を作ると信じていた。
服を丁寧に畳んで詰めていく。看護師の制服、普段着、下着。必要最小限のものだけ。
机の引き出しから、大切な書類を取り出した。通帳、委任状、保険証、年金手帳。そして、3年間つけ続けた家計簿。
家計簿をめくると、びっしりと書き込まれた数字が並んでいる。
令和3年4月。生活費15万円、水希病院代3万円、強しスーツ代8万円。
令和3年5月。生活費15万円、水希実家送り5万円、固定費3万円。
一ページ一ページに、私の人生が刻まれていた。月15万円の生活費、年間180万円、3年間で540万円。この数字が、私の愛情の証だった。
でも、もう終わりにしましょう。息子が水希を選んだのなら、私は身を引くだけだ。
パソコンを開き、病院の寮への入居申請書を作成した。勤続36年の私には、職員寮に入る権利がある。家賃は月3万円。今よりずっと楽になるだろう。
申請書を印刷し、印を押す。明日の朝一番で総務課に提出するつもりだ。
次に、置き手紙を書き始めた。何度も書き直し、最終的にこうした。
「強し、水希さんへ
お世話になりました。私の存在が水希さんを苦しめているなら、出ていくのが最善だと判断しました。
3年間の生活費総額540万円の明細は机の上に置いておきます。今月分の生活費15万円は振り込み済みです。
来月からはお二人で頑張ってください。いつか真実がわかる時が来るでしょう。
くれぐれもお元気で。
母より」
手紙を書き終えると、家計簿のコピーを取った。720ページにわたる詳細な記録。水希の美容院代、強しの会費、水希のマッサージ代。二人のために使ったお金の記録が延々と続く。
ふと、水希の部屋から声が聞こえてきた。ドアの隙間から、電話の声が漏れている。
「うん。もうすぐよ。義母を追い出したら、この家は私たちのもの。強しなんて簡単よ。泣いてみせれば何でも信じるから」
やはりそうだったのか。私の勘は間違っていなかった。でも、もう関係ない。息子が選んだ道だ。
身支度を終えると、部屋を見回した。この家で過ごした最後の夜。強しの成長を見守ってきた場所。写真立てには、強しの入学式、成人式、就職祝いの写真が並んでいる。
あの愛しい息子はもういない。水希の言葉を鵜呑みにし、母親を追い出す男になってしまった。
朝5時、いつもの起床時間だ。でも、今日は弁当を作る必要はない。
荷物を持って静かに階段を降りる。リビングのテーブルに置き手紙と家計簿のコピーを置いた。
玄関で靴を履きながら、最後に振り返る。28年間住んだ我が家。強しを育て、水希を迎え、尽くし続けた場所。
「さようなら」
小さくつぶやいて、ドアを閉めた。
朝の冷たい空気が頬を撫でる。病院に向かって歩き始めた。重いスーツケースを引きずりながら、一歩一歩進む。慣れ親しんだ道なのに、今日は違って見えた。新しい人生の始まりだからだろうか。
もういいのよ、まさ子。あなたは十分頑張った。自分に言い聞かせながら前を向いて歩く。
朝日が登り始め、空が明るくなってきた。きっと真実は、いつか明らかになるだろう。その時、強しと水希はどんな顔をするのだろうか。でも、私はもう見ることはないだろう。
私の人生は、今日から新しく始まるのだ。
あれから1ヶ月後、病院の寮から仕事に通う私の元に、同僚の看護師から思わぬ話を聞いた。
「まさ子さんの息子さん、最近顔色悪いわよ。この前コンビニで見かけたけど、やつれてた」
私は黙って聞いていた。もう関係のないことだと、自分に言い聞かせながら。
その頃、強しの家では予想外の事態が起きていた。
朝6時。目覚ましが鳴っても、朝食は用意されていない。水希は布団から出ようともしない。
「水希、朝ご飯は?」
「自分で作ればいいでしょ。私、体調悪いから」
強しは仕方なくコンビニでおにぎりを買って出社するようになった。弁当など、もちろんない。
夜、仕事から帰っても、家は散らかったまま。洗濯物は山積み、流しには汚れた食器。水希はソファでスマホをいじっている。
「水希、掃除とか…」
「家事なんてできないわよ。お母さんが全部やってたんだから」
初めて聞く水希の本音に、強しは戸惑った。
「でも、母さんが君に家事をさせなかったって…」
「そんなの嘘よ。面倒だからやらなかっただけ」
水希はあっけらかんと言い放った。
3ヶ月後、家計は完全に破綻していた。まさ子からの月15万円がなくなり、強しの給料だけでは生活できない。
「光熱費の督促状が来てるよ」
「じゃあ、あなたが払えばいいでしょ」
水希は相変わらず、お金を一切出さない。実家からの仕送りがあると言っていたのも嘘だった。
「水希の病院代も今月3万円」
「当然でしょ。妻の医療費くらい」
しかし、強しは気づき始めていた。水希の体調不良は、都合のいい時だけ現れることに。友人と遊びに行く時は、驚くほど元気なのだ。
ある日、強しは母が残した家計簿のコピーを見つけた。720ページにわたる詳細な記録。
「水希エステ代、ブランドバック15万円、水希実家への送り5万円…」
すべて母が払っていた。自分の老後の蓄えを削って。
「これ、全部母さんが…」
強しの手が震え始めた。
5ヶ月後のある朝、水希が神妙な顔で強しに告げた。
「強し、大事な話があるの。私、妊娠したみたい」
強しは驚いた。最近、夫婦生活もほとんどなかったのに。
「本当か? いつわかったんだ?」
「昨日、検査薬で調べたの」
水希は妊娠検査薬を見せた。確かに陽性反応が出ている。
「でも、お金どうするの? お母さんもいないし」
水希の言葉に、現実が重くのしかかる。子供ができたとなれば、さらにお金が必要だ。
その後、水希の携帯に頻繁に男性から電話がかかってくるようになった。
「今、誰から?」
「友達よ。関係ないでしょ」
水希は立腹したように答える。
ある日、水希が風呂に入っている隙に、彼女の携帯が鳴った。画面には「友」の文字。強しの知らない名前だ。
翌日、強しは会社を早退し、水希を尾行した。
向かった先は、高級ホテルのラウンジ。そこには、見知らぬ男性が待っていた。
「もう少しの辛抱よ。あの家を手に入れたら、一緒になれるから」
水希の声が聞こえてくる。
「でも、強しがいなくなったのに、まだ離婚しないの?」
「強しって本当に単純なのよ。でも、もう少し時間が必要」
強しはその場に立ち尽くした。母の言葉が、今更ながら思い出される。「いつか真実がわかる時が来る」。
その夜、強しは水希と対峙した。
「今日、ホテルで誰と会ってた?」
水希の顔色が変わる。
「なんの話?」
「“友”って誰だ?」
一瞬の沈黙の後、水希は開き直った。
「バレたなら仕方ないわね。そうよ。彼氏よ」
強しは言葉を失った。
「あなたなんて、最初から愛してない。お母さんのお金とこの家が目的だったの」
「なんだって…」
「お母さんって本当に馬鹿ね。全部信じてお金を出し続けて。まあ、あなたも相当馬鹿だけど」
水希は高笑いした。
「泣いたふりをすれば、あなたは何でも信じた。お母さんが意地悪するって言えば、すぐに怒ってくれた」
強しの頭が真っ白になった。母は何も悪くなかった。すべて水希の計算だった。
「俺は…母さんに…なんてことを」
膝から力が抜け、強しはその場に崩れ落ちた。取り返しのつかないことをしてしまった。この事実が、重くのしかかってくる。
翌朝、強しの携帯に病院から電話が入った。
「もしもし、強し様ですか? お母様のまさ子様の件でお電話しました」
心臓が凍りつくような感覚だった。
「母に何かあったんですか?」
「過労で倒れられて、現在入院中です。意識は戻られましたが、かなり衰弱されています」
強しは仕事を放り出し、病院へ駆けつけた。
個室のベッドに横たわる母の姿に、息を飲んだ。頬はこけ、体もかなり痩せているようだ。半年前とは別人のようだ。
「母さん…」
まさ子はゆっくりと目を上げた。しかし、強しを見ても、表情を変えない。
「どうして連絡をくれなかったんだ?」
「もう、息子はいないと思っていますから」
冷たい言葉が、強しの胸を貫いた。
そこへ、まさ子の同僚の看護師長が入ってきた。
「あら、息子さん、やっと来たのね」
看護師長は強しに厳しい視線を向けた。
「まさ子さん、36年間無欠勤だったのよ。なのに、この半年で10キロ痩せて。息子に捨てられたって、泣いていたわ」
「捨てられた?」
「知らないの? まさ子さんが毎月15万円も生活費を入れていたこと。3年間で540万円よ」
看護師長は、まさ子の給与明細を見せた。
手取り15万円。そこから15万円が、強しの家の生活費に消えていた記録。老後の蓄えを全部、あなたたちのために使ったのよ。なのに、追い出すなんて。
強しは震える手で給与明細を見つめた。母の献身の証が、そこにあった。
その時、強しの携帯が鳴った。見知らぬ番号だ。
「もしもし、強しさんですね。水希さんの友人の石田と言います。どうしても伝えたいことがあって…」
水希の友人?
「水希さんのしていることが許せなくて。実は、水希の不倫、知ってました」
強しは廊下に出て、話を聞いた。
「相手は資産家の息子です。水希さんは最初から、あなたと結婚したのは計算だったんです」
「計算だった…」
「お母さんがお金を出してくれるから結婚したって、自慢してました。で、財産を手に入れたら、不倫相手と一緒になる計画だった」
石田は、水希と不倫相手のLINEのスクリーンショットを送ってきた。
「強し、まだお金持ってる?」
「月15万は確実。“ボーナス時はもっと取れる”」
「いいね。俺たちの新居の資金になる」
「奥さんは何も気づいてない。笑」
強しの手から、携帯が落ちそうになった。
「それと、水希の妊娠も嘘です」
「妊娠も…嘘?」
「不倫相手との子供が欲しいから、“練習”だって。検査薬の偽装の仕方まで調べてた」
すべてが嘘。すべてが演技。母を苦しめた原因は、すべて水希の計算だった。
強しは病室に戻り、母の前で土下座した。
「母さん、俺が間違っていた。水希に騙されていた。許してくれ」
涙が止まらない。額を床に擦りつけて、謝り続けた。
「母さんが水希をいじめていたのも、水希の妊娠も、全部嘘だったんだ。母さんを追い出したのは、俺の人生最大の過ちだった」
まさ子は静かに、息子を見下ろした。
「今更、何を言っているの?」
「探偵を使って水希と不倫相手を調べる。不倫の証拠も全部ある。慰謝料を請求する」
強しは必死に説明した。
「水希から200万、不倫相手からも200万。合計400万円の慰謝料を取る。それを全部母さんに返す」
「お金の問題じゃないのよ」
まさ子の声は、氷のように冷たかった。
翌日、強しは探偵事務所へ水希の不倫調査の依頼をした。不倫相手の情報と、不倫の証拠を確かなものにするためだ。
強しが持ち込んだ不倫の証拠もあったため、調査はスムーズに進み、すぐに追加の証拠も集まった。
1週間後、強しは弁護士を立てて、離婚調停に臨んだ。
不倫の証拠は完璧だった。ホテルの出入り記録、ラブホテルの領収書、LINEの履歴。
水希は観念し、慰謝料200万円の支払いに同意した。不倫相手の男性も、200万円の支払いを約束した。
これで400万円。母さんに返せる。
強しは慰謝料の振り込み通知書を持って、再び病院を訪れた。
「母さん、見て。400万円の慰謝料が入った。これを全部、今まで使わせた分の返済に当てる」
しかし、まさ子の表情は変わらない。
「540万円のうち、400万円は返せる。残りも必ず…」
「もういいのよ」
まさ子は静かに首を振った。
「お金を返されても、失った信頼は戻らない。息子を信じて尽くしてきた36年間は、戻らない」
「母さん…」
「“嫁を苦しめるな”と言われましたよね。だから、その通りにしました。もう関わらないことが一番でしょう」
強しは泣き崩れた。母の愛も信頼も、すべて失ってしまった。金銭で解決できる問題ではなかった。
看護師長が強しに告げた。
「まさ子さん、来月から師長に昇進するのよ。36年間の功績が認められて、給料も上がるし、部屋も良くなる」
母は一人でも立派にやっていける。むしろ、息子がいない方が幸せなのかもしれない。
強しは病室を後にした。廊下で、水希からのメールを受け取った。「慰謝料振り込んだから。すべてを失った」
強し。母の愛も、妻も、信頼も、誇りも。残ったのは、空っぽの家と400万円の慰謝料だけだった。
退院から2週間が経った。私、まさ子は病院の会議室に呼ばれた。
院長と看護部長が、笑顔で待っていた。
「山子さん、36年間の献身的な勤務に感謝します。来月から看護師長に昇進していただきます」
思いがけない昇進の知らせに、胸が熱くなった。
「給与も月額28万円になります。職員寮も、日当たりの良い広い部屋に移っていただけます」
今までの苦労が、やっと報われた瞬間だった。
新しい部屋は南向きの明るい空間。ベランダからは満開の桜が見える。一人暮らしには、十分すぎる広さだ。
「師長、おめでとうございます」
後輩たちが、お祝いの花束を持って尋ねてきた。
「師長は私たちの目標です。36年間、一度も休まず働いて、患者さんに寄り添って。本当のお母さんみたいに私たちを見守ってくださって」
若い看護師たちの言葉に、涙がこぼれそうになった。
ここには、私を必要としてくれる人たちがいる。私を大切にしてくれる場所がある。
ある日、病院の受付から連絡があった。
「師長、息子さんがお見えです」
久しぶりに見る強しは、やつれ果てていた。髪は伸び放題、無精ひげ、よれよれのシャツ。
「母さん、聞いてくれ。慰謝料の400万円、全部母さんに返したい」
強しは銀行の振り込み用紙を差し出した。
「水希と不倫相手から取った金だ。まずはこれで、540万円の一部を返済させてくれ」
「そのお金は、あなたのものでしょう」
「違う。母さんから奪ったお金だ。返さなきゃ、俺は前に進めない」
強しの目は真剣だった。でも、私の心は動かない。
「わかりました。では、振り込んでください」
1週間後、400万円が私の口座に振り込まれた。
その日のうちに、私は全額を児童養護施設に寄付した。
「恵まれない子供たちのために使ってください」
施設長は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
強しには、寄付したことを伝えた。彼は絶句していた。
「全額寄付…」
「あなたからのお金で、私が幸せになることはできません。でも、子供たちの未来のためなら、意味があるでしょう」
強しは泣き崩れた。
「母さん、本当にごめん。俺が愚かだった」
「もう、済んだことです」
5月の第2日曜日、母の日。強しがカーネーションの花束を持って現れた。
「母さん、もう一度一緒に暮らしたい。俺が家事も全部やる。母さんの面倒も見る」
必死の懇願だった。でも、私の答えは変わらない。
「私には、もう息子はいません。“嫁を苦しめるな”と言われましたよね。だから、その通りにした結果です。あなたとは、もう関わりません」
強しの顔が、絶望に歪んだ。
「一生、償います。毎月給料から送りもします」
「お金の問題ではないと、前にも言いました。信頼は、一度失ったら二度と戻りません」
私は立ち上がり、強しに背を向けた。
「お元気で。あなたが選んだ道を、しっかり歩いてください」
「待って、母さん!」
振り返ることなく、私は部屋を出た。
その後、強しから毎月10万円が振り込まれるようになった。「残りの140万円の返済」と書かれた手紙付きで。
私はその都度、全額を寄付している。強しからのお金で、私が幸せになることはない。でも、誰かの役に立つなら、それでいい。
師長になってから、私の生活は充実している。
朝は6時に起床し、ゆっくりとコーヒーを飲む。誰かの弁当を作る必要はない。自分のペースで、自分の好きなものを食べられる。
仕事では、後輩の指導に力を入れている。
「患者さんの心に寄り添うことが一番大切よ。でも、自分を犠牲にしすぎてはだめ。自分を大切にできない人は、他人も大切にできないから」
36年の経験から学んだことを、若い世代に伝えている。
休日は趣味の読書や映画鑑賞を楽しんでいる。美術館に行ったり、一人旅に出かけたり。今まで我慢していたことを、一つずつ実現している。
先日、水希と町で偶然会った。彼女は一人で、見すぼらしい格好をしていた。
「お母さん…」
水希は罰が悪そうに、視線をそらした。
「不倫相手にも捨てられたのよ。慰謝料払ったら、用なしだって。自業自得だわ」
でも、もう憎しみもない。
「お大事に」
それだけ言って、私は通り過ぎた。
強しのことも、水希のことも、もう過去のこと。私には、新しい未来がある。
師長室の窓から夕日が見える。オレンジ色に染まる空が美しい。
自由って、こんなに素晴らしいものだったのね。誰に気兼ねすることなく、自分の人生を生きられる幸せ。お金では買えない、心の平安。
ノックの音がして、後輩が顔を出した。
「師長、今日も残業ですか? たまには早く帰ってくださいよ」
「あら、心配してくれるのね」
「師長は、私たちの大切な上司ですから」
温かい言葉に、胸がいっぱいになった。ここには、私を本当に大切にしてくれる人たちがいる。
電話が鳴った。強しからだ。私は出ない。留守電に、メッセージが残されていた。
「母さん、今日も元気でいてください。俺は一生、後悔し続けます。でも、母さんが幸せなら、それでいいです」
少しだけ、心が痛んだ。でも、もう戻ることはない。
私は深呼吸をして、明日の準備を始めた。新しい看護師の研修プログラム、患者さんへの対応マニュアル。やるべきことは、たくさんある。
36年間の看護師人生。息子に捨てられた母親。
でも、今私は誰よりも自由で、誰よりも幸せだ。
夫婦の情に屈しないこと、自分の尊厳を守ること、我慢にも限界があること。
これらを学んだ私は、もう二度と誰かの犠牲にはならない。自分の人生は、自分のもの。この先の人生を、思い切り楽しんで生きていく。
最後に、私からあなたへメッセージを送る。
もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、もし家族から傷つけられているなら、もし献身が報われないと感じているなら、勇気を持って自分を守ってください。
あなたの人生は、あなたのもの。幸せになる権利は、誰にでもある。
私のように、遅すぎることはありません。今この瞬間から、新しい人生を始められます。
信じてください。必ず道は開けます。



