母の葬儀の朝、夫はアイロンのかかったスーツを着て言った。「悪いな。どうしても外せない出張が入った。香典は適当に立て替えておいてくれ」。その背中を見送りながら、私は喪服のポケットにある小さな紙切れを握りしめていた。母が死の三日前に私に託した、古い封筒の中身。それを確認した瞬間、私は全てを悟った。夫は私の母の死を「タイミングが良い」と笑い、実家の土地を売って愛人のマンション代にあてようと計画して…

母の葬儀の朝、夫はアイロンのかかったスーツを着て言った。「悪いな。どうしても外せない出張が入った。香典は適当に立て替えておいてくれ」。その背中を見送りながら、私は喪服のポケットにある小さな紙切れを握りしめていた。母が死の三日前に私に託した、古い封筒の中身。それを確認した瞬間、私は全てを悟った。夫は私の母の死を「タイミングが良い」と笑い、実家の土地を売って愛人のマンション代にあてようと計画して...

母が息を引き取り、葬儀会社との打ち合わせが始まろうとしている朝。夫の浩司はアイロンのかかったスーツを着て、新しい革靴を履いていた。そして、こう言った。

「悪いな。どうしても外せない出張が入った。香典は適当に立て替えておいてくれ」

その言葉で場の空気が凍りついた。葬儀スタッフが信じられない顔で夫から目をそらす。私は怒鳴らなかった。泣き叫んで止めもしなかった。ただ、喪服のポケットに入れた小さな紙切れを指先でなぞっていた。

浩司は腕時計をちらりと見て、勝ち誇ったように言った。

「俺は社長なんだから付き合いがあるんだよ。親の葬式くらい、お前一人で何とかしろ」

そう言い残し、振り返りもせずに出ていった。車のエンジン音が遠ざかるのを、私は静かに聞いていた。この時の浩司はまだ何も知らなかった。私が見送るその背中が、もうすぐ社会的な信用もお金も全て失う男の背中であることを。そして、私がポケットで握りしめている小さな紙切れが、三億円の価値を持つ当選くじであることも。

数時間後、葬儀場に到着した義母の和子は、母の家を見るなり鼻で笑った。

「浩司が来られないのも無理ないわね。あの子は社長で忙しいんだから」

親族席の一番前にどっかと座った義母は、周囲に響く声で言った。

「大体、あなたのお母さん、大した財産も残していないんでしょう。浩司がわざわざ仕事を休んでまで見送る価値なんてないのよ」

私の親族たちは一斉に顔をこわばらせて義母を睨んだ。叔父が怒りで立ち上がりそうになる。私は目で制した。ここで波風を立てて母の葬儀を台無しにするわけにはいかない。

私は静かに立ち上がり、焼香の列に向かった。手の中には、母が亡くなる三日前に病室で渡してくれた古い封筒があった。

「ゆみ、これをずっと隠していたの。もしもの時は、これで逃げなさい」

母は苦しそうに、けれど力強くそう言った。その封筒の中にあったのは、母が密かに買い続けていた宝くじだった。昨夜、眠れずにスマホで当選番号を確認した。一等、三億円。間違いなかった。震える手で何度も番号を確認した。

その時、スマホが震えた。クレジットカードの利用通知だった。

「ご利用のお知らせ。海沿いリゾートホテル、スイートルーム宿泊費及びディナー代、十五万八千円」

浩司が使ったカードだった。大事な出張と言いながら向かった先は、海沿いの高級リゾート。しかも二人分の宿泊料金。相手が誰かは、すでに分かっていた。浩司の会社で働く若い事務の美穂だ。最近、浩司のシャツから甘い香水の匂いがするようになっていた。

葬儀の手伝いに来ていた社員の中村さんが、申し訳なさそうに声をかけてきた。

「奥さん、社長の出張、急だったみたいで大変ですね。今日の午後、大事な取引先との打ち合わせが入っていたはずなんですが、社長と連絡がつかなくて」

その一言で、浩司の嘘は完全に裏付けられた。出張など最初から存在しなかった。仕事をすっぽかし、妻の母親の葬儀も無視して、愛人とホテルで会合しているのだ。

仮焼場へ向かうバスの中で、義母が私の隣に座ってきた。

「ゆみさん、お母さんが亡くなったからって、うちへの毎月の仕送りは減らさないでちょうだいよ。浩司の稼ぎだけじゃ私の生活が苦しいんだから」

母が亡くなったその日にお金の要求。私は無表情で小さく頷いた。私のバッグの中には、宝くじの当選くじと一緒に一枚の書類が入っていた。母が亡くなったことで連帯保証人を解除するための銀行の申請書類だ。

その夜、全ての葬儀が終わり、誰もいなくなった静かな実家で、私は銀行の書類と義母への自動送金を停止する書類に、迷うことなく印を押した。その時、浩司からメッセージが届いた。

「仕事が長引いている。明日も帰れないから家のことは任せた」

添付されていた写真には、ホテルの窓から見える夜景が映っていた。しかし、ガラスの反射の隅に、女性物の赤いバッグが写り込んでいた。浩司は自分のミスに全く気づいていない。私は冷たく微笑み、弁護士の先生へ短いメールを送った。

「先生、全て予定通りに進めてください。容赦は入りません」

私は母の家を見上げた。明日、浩司の会社と義母の口座に何が起きるのか。彼らはまだ知るよしもなかった。

翌朝、私は銀行へ向かった。窓口で母の死亡診断書と連帯保証人解除の申請書類を差し出すと、担当の行員は顔色を変えた。

「奥様、よろしいのですか? これが受理されれば、ご主人様の会社への融資は直ちにストップし、一括返済を求めることになります」

「構いません。母の意思でもありますから」

私は迷うことなく答えた。さらに行員は、浩司の会社の口座が異常に残高を減らしていることを教えてくれた。毎月、給料日と同じタイミングで三十万円が、ある個人の口座に振り込まれている。その名前は、高橋美穂。浩司の愛人だった。

私は手元のバッグを強く握りしめた。浩司は会社の運転資金を横領し、愛人に貢いでいたのだ。

銀行を出ると、浩司からまたメッセージが届いた。

「葬式終わったか。明日の夜には帰るからうまい飯でも作っとけ。あ、母さんの香典、後で俺の口座に入れといてくれ」

人間の心を完全に失った夫の文章に、私は怒りを通り越して笑いさえ込み上げてきた。

「ええ、作って待っているわ。あなたの人生最後の晩餐を」

その時、背後で声がした。

「ゆみさん」

振り返ると、中村さんが青ざめた顔で立っていた。彼は喫茶店で、浩司の法外な経営の実態を話してくれた。取引先への支払い遅延、社員の給料すら危うい状態、そして美穂による経理の私物化。中村さんは、会社の経理データをコピーしたUSBメモリを私に託してくれた。

そして、衝撃の事実を口にした。

「奥さん、気をつけてください。社長は、奥さんのお母様が亡くなったと聞いて、会社で『これでやっとあの家の遺産が手に入る』と言っていました」

浩司は母の死を悲しむどころか、最初から実家の土地と建物を狙っていたのだ。

私は弁護士の伊藤先生のもとへ向かった。先生は、USBメモリのデータを確認すると、さらに深刻な事実を明かした。浩司は会社の経費を偽装し、美穂名義のマンションの頭金を支払っていた。そして、復元された社内メールには、美穂からのメッセージがあった。

「早くあの古臭い奥さんと別れてくださいね。私が社長夫人になる日が待ち遠しいです」

全てを把握した私は、準備を進めた。義母が使っているケーブルテレビ、健康食品の定期購入、スマートフォンの回線。これらは全て私が自分のクレジットカードで支払いを立て替えていたものだった。私は解約ボタンを押していった。

そして、三億円の宝くじを換金するため、都心の大手メガバンクへ向かった。新しい口座を開設し、当選金はそこに振り込まれることになった。母が私にくれた、新しい未来の重みだった。

親族会議の夜。浩司と義母が、実家を奪うためにやって来た。浩司はソファにどっかと座り、足を組んだ。

「さあ、実印と権利書を出せ。俺が会社名義で立派に管理してやるから」

私は静かに、一枚の書類をテーブルに置いた。それは、離婚届けだった。

「もう一度聞きます。昨日の出張、本当にあったんですか?」

浩司は一瞬戸惑いながら、嘘の笑みを浮かべた。

「あ、大変だったよ。重要な取引先との接待でな」

私は、クレジットカードの利用明細のコピーを置いた。

「海沿いのリゾートホテルでの接待、お疲れ様でした」

浩司の顔から笑みが消えた。

「美穂さんという方の新居のために、私の実家を売るつもりですか?」

その名前が出た瞬間、浩司は言葉を失った。義母は混乱し、私は全てを明かした。中村さんから聞いた話、マンションの頭金、そして美穂のSNSの書き込みまで。

義母は叫んだ。

「なんて嫁なの! 浩司、早くこの女から家を取り上げて、追い出しなさい!」

私は冷たく言い放った。

「お義母さん、私の母が亡くなった時、あなたは『厄介払いができた』と言いましたね。今まで毎月あなたに渡していた十万円は、私の母の年金と貯金から出ていたものです」

義母の顔から血の気が引いていった。

「浩司さんは三年前から生活費を入れるのをやめました。でも、あなたは毎月のように金の無心に来ました。だから母は、あなたに恩を着せないように、こっそり私に現金を渡してくれていたんです」

そして最後の一枚、銀行の連帯保証人解除の申請書を置いた。

「あなたの会社が倒産しそうになった時、あなたは私の母に泣きつきました。そして母はこの実家の土地と建物を担保にして、銀行の連帯保証人になったんです」

浩司は椅子から滑り落ちそうになった。

「今すぐ取り消せ! 明日の昼までに手形の決済があるんだぞ!」

私は静かに言った。

「ええ、知っています。だからその書類を出したんですから」

その時、浩司のスマホが鳴った。伊藤弁護士からの着信だった。浩司が恐る恐る出ると、弁護士は告げた。

「ゆみ様は離婚を決意されております。あなたと不倫相手の高橋美穂さんに対し、慰謝料の請求手続きを開始いたしました」

「ふざけるな! 証拠もないのに!」

「証拠は全て揃っております。社員の方から経理データの提供を受けました」

浩司は完全に言葉を失った。義母はパニックになり、今度は私にすがり始めた。

「ゆみさん、さっきの離婚の話、あれは冗談よ。私が悪かったわ。この家を担保にして、もう一度銀行からお金を借りてちょうだい」

私は義母の手を振り払った。

「お義母さん、私の母はあなた方の見栄と欲のために、自分の老後を全て捧げたんです。これ以上、母の思いを汚さないでください」

浩司は怒り狂い、財産分与を要求したが、私は冷たく言い放った。

「この実家の土地と建物は、亡くなった母の個人名義でした。私が相続したのです。法律上、親から相続した財産は特有財産と呼ばれ、離婚の際の財産分与の対象には一切なりません」

二人は何とか反撃しようとしたが、もう手遅れだった。浩司は「みほのマンションを売ればいい」と叫び、義母を置いて家を飛び出していった。義母も後を追うように去っていった。

翌朝、私は弁護士と共に浩司の会社へ向かった。事務所は取引先の男性たちに囲まれ、修羅場と化していた。浩司は私を見ると、すがりついてきた。

「弓、お前来てくれたのか。実家の権利書を担保に、すぐに金を作るって言ってやってくれ!」

私は静かに言った。

「浩司さん、私は今日、母が貸していた掛け軸を引き取りに来ただけです」

伊藤弁護士が名刺を差し出し、離婚と連帯保証人解除を告げると、取引先の男性たちは呆れたように浩司を見下ろした。その時、中村さんが全社員の退職届を突きつけた。

「社長、私たちが汗水流して稼いだお金を、美穂さんのマンションの頭金やホテル代に使っていたじゃないですか」

さらに、美穂は昨日の夕方、金庫の現金を持って逃げていたことが発覚した。中村さんは冷たく言い放った。

「社長は奥様だけでなく、愛人にも完全に見捨てられたんですよ」

事務所には怒号と着信音が鳴り響き、義母まで現れて家賃の滞納を訴え始めた。浩司は床に崩れ落ち、義母は泣き叫ぶばかりだった。私は静かにその場を後にした。

実家に戻った私は鍵を交換し、浩司の荷物を全てゴミ袋に詰めた。その夜、家の前に現れた浩司と義母は、幽霊のような顔をしていた。義母はマンションを追い出され、行く場所がなかった。

「開けてくれ。鍵が変わってるじゃないか。俺たちにはもう行くところがないんだ!」

私はインターホン越しに静かに言った。

「門の外に置いてあるゴミ袋の中に、浩司さんの荷物が入っています。それを持って、二度とここへは来ないでください」

浩司は私がお金を持っていることを知ると、開けろと喚いた。私は深く息を吸い、決定的な真実を口にした。

「三億円です。母が残してくれた宝くじが、三億円当選していました」

インターホンの向こうで、二人の動きが止まった。

「もしあの時、あなたが愛人との時間を捨てて母の葬儀に参列してくれていたら。もしこれまでの嘘を謝罪してくれていたら、私はこの三億円で、あなたの会社の負債を全て片付けようと思っていました。でもあなたは愛人との甘い夜を選びました。だから私は決めたんです。この三億円は、これからの私の人生のためだけに使おうと」

モニター越しに、浩司が膝から崩れ落ちるのが見えた。私は通話ボタンを切り、静かにリビングへ戻った。

それから一ヶ月後、伊藤弁護士から全ての決着がついたと連絡があった。

浩司の会社は完全に倒産し、彼自身も自己破産。慰謝料は破産しても免除されないため、彼はこれから多額の負債を抱えたまま生きていくことになった。現在は深夜の道路工事現場で警備員として働いているという。愛人の美穂は、マンションを差し押さえられ、損害賠償を請求され、いくつものアルバイトを掛け持ちしている。義母は親族の誰からも援助を断られ、隣町の古いアパートでスーパーの清掃パートをしている。私の元にも何度も泣きつきの手紙が届いたが、全て読まずに処分した。

そして、正式に受理された離婚届の控えを手渡された。私はその紙を両手で受け取り、目が熱くなった。長い間、見えない鎖に縛られてきた私の足が、ようやく外の光に触れた瞬間だった。

事務所を出て駅に向かう途中、私は旅行代理店の前で足を止めた。生前、母がテレビを見ながら「いつかこんな列車に乗って、ゆっくり温泉に入ってみたいわね」とこぼしていた、豪華な寝台列車のツアーのパンフレット。

私は店内に入り、カウンターで言った。

「こちらのツアーの、一番良いスイートルームをお願いできますか?」

「ご参加は何名様でしょうか?」

「一人です。でも、母の写真と一緒に行くので、気持ちは二人分でお願いします」

店員さんは優しい顔で、「素敵なご旅行になりますよ」と頭を下げてくれた。

母が残してくれたお金を、初めて自分の喜びのために使った瞬間だった。

実家に戻ると、中村さんから手紙が届いていた。新しい就職先が決まったという知らせだった。「ゆみ様が立ち向かってくださったおかげで、私も自分の人生をもう一度やり直す決意ができました」という言葉があった。

仏壇の前で、私は母の写真にパンフレットを置いた。

「お母さん、来月この列車に乗って温泉に行くよ。お母さんがずっと行きたいって言ってた場所。遅くなってごめんね。でも、一番良い部屋を取ったから、ゆっくり景色を見ようね」

私は深くお辞儀をした。

季節は春へと変わり、実家の庭には母が大切に育てていた梅の木が花を咲かせている。私は縁側で紅茶を飲みながら、穏やかな日々を過ごしている。時折、彼らの顔が頭をよぎることもあるが、不思議と憎しみはもうない。彼らはもう、私の人生とは何の関係もない、ただの過去の他人だ。

三億円というお金は、私に豪華な生活を与えるためのものではなかった。私から奪われていた自由と尊厳、そして自分のための時間を取り戻すための、最強の盾だったのだ。

私は紅茶の入ったカップを両手で包み込み、庭で揺れる梅の花を見つめた。温かい日差しの中で、私は自然とこぼれる笑顔を隠すことなく、青く澄み切った空を見上げた。

お母さん、私、今すごく幸せだよ。

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