その日、俺は所用で訪れた高級ホテルのロビーで、学生時代の元カノと偶然再会した。
10年前、一方的に別れを告げられた相手。
彼女は俺を見るなり、からかうように鼻を鳴らした。
「あら、頭が悪くて受験からも逃げ出すような奴じゃない?あんたみたいなバカにこんなホテルは場違いだわ。」
その直後、彼女の背後から1人の男性が現れ、彼女は見る見るうちに青ざめていった。
俺の名前は大西エイジ。
子供の頃から弁護士に憧れていた。
きっかけは当時流行っていたドラマで、そこに登場する弁護士が子供心にとてもかっこよく見えたのだ。
弱気を助け、強気をくじく。
その正義に感動し、俺はずっと法学部を目指してきた。
中学、高校と順調に成績を伸ばし、担任にも「合格間違いなし」と言われていた。
高校3年の夏、受験目前の大事な時期だったが、息抜きにと友人に海へ誘われた。
メンバーは友人と俺、そして友人の彼女とその友達。
友人の彼女が連れてきた川口リエは、清楚で明るい雰囲気の女の子だった。
楽しい時間を過ごし、その後も勉強会を兼ねて4人で会うようになった。
その時、俺はリエに自分が弁護士を目指していること、法学部を受験する予定だということを伝えていた。
するとリエは「すごい、頭いいのね」と大げさなほど褒めてくれ、「私にできることがあったら何でも言ってね」と驚くほど真剣に応援してくれた。
俺はいつしかそんなリエの笑顔と献身に魅了され、2人は自然な流れで付き合うことになった。
ところが、年が明けて受験を目前に控えた冬、俺に思わぬ事態が起きた。
ある日、学校帰りに駅前の広場で通り魔に刺されてしまったのだ。
昼下がりの賑わう駅前で、突然男が刃物を振り回し始めた。
追いかけられて刺されそうになっていた学生を、俺はとっさに庇って代わりに傷を負った。
幸い、内臓は避けていたため命に別状はなかったが、傷は深く、長期入院を余儀なくされた。
全治3ヶ月。
特に今は絶対安静を命じられているので、もちろん受験なんてできるわけもない。
家族は「命があるだけでも良かった。受験はまた来年チャレンジしたらいい」と言ってくれたが、俺としては幼い頃から憧れていた弁護士への道が遠のいたことに、少なからずショックを受けていた。
そんな時、母親が持ってきてくれた携帯電話がメッセージの着信を告げた。
痛む腕でなんとか確認すると、リエからのメッセージが立て続けに入っていた。
あれだけ真剣に俺の夢を応援してくれていた彼女なら、連絡が途絶えた俺を心配しているだろう。
そう思い、痛みを堪えてメッセージを開く。
そこに書かれていたのは、受験はどうなったのか、手応えはあったのか、など俺の受験の行方に関する事ばかりだった。
俺がこんな状況に陥っていることをまだ知らないのだろう。
だが、まるで彼女が俺の合否にしか関心がないようにも見て取れた。
不信に思いながらも、気が急いていたのかもしれないと思い直し、受験を断念したことを返信した。
その矢先、リエからさらなるメッセージが飛んできた。
開いた画面には、あの明るく優しいリエとは思えないようなそっけない文面で「もう別れる」とだけ書かれていた。
続けて着信があり、「弁護士の卵だと思って付き合ったのに、法学部からも逃げ出すようなバカには用がない」と続く。
極めつけは「弁護士になれないあんたに価値がない」という言葉だった。
俺の口からは、思わず呆けたような声が漏れた。
これは本当にリエが書いたものなのか。
何かの間違いではないのか。
痛みに耐えながら彼女へさらにメッセージを打つが、それは宛先不明で返ってきた。
何度繰り返しても結果は同じで、10回目にしてようやく着信拒否されていることを知った。
正当な理由があったとはいえ、法学部を受験することすらできなかった俺は、こうして彼女にあっさり振られたのである。
それからあっという間に10年が経った。
家族に支えられながら必死でリハビリを頑張ったおかげで、後遺症もなく、今は社会人として仕事に励んでいる。
その日、俺は事務所からほど近い高級ホテルのロビーを訪れていた。
約束の時間にはまだ少し早いので、ソファーに腰掛けようとしたその時だった。
「え、もしかしてエイジ君?」
高級ホテルのロビーには似つかわしくない高い声に振り返ると、そこには10年前に一方的に別れを突きつけてきた元彼女、リエが立っていた。
「え、何年ぶり?こんなところで会うなんてすごい偶然なんだけど」
彼女は一旦言葉を切り、思わせぶりにこちらをじろりと見ると、馬鹿にするかのように鼻を鳴らした。
「相変わらずしょぼい顔してるから、すぐにあんただってわかったわ。何そのスーツ?格好だけ一丁前でも、あんたみたいなバカはこの高級ホテルには場違いなのよね」
自分の言葉がおかしかったのか、クスクスと肩を揺らして嘲笑うリエ。
さらに暴言は止まらない。
「あんたさ、あの時『今年は受験できない』とか何とか言い訳送ってきたけど、あれでしょ?要は落ちるのが分かってて恥ずかしくなったから、受験自体から逃げたんでしょ」
付き合っていた頃には見たこともないような意地の悪い顔で、彼女は俺を眺め回す。
若く未熟だった俺が気づかなかっただけで、もしかしたら彼女は最初からこんな顔をする人間だったのかもしれない。
そう考えながら、俺はあくまで静かに口を開いた。
「なあ、リエ。今更だけど、あの時は本当に事情があって」
だがその途端、リエはこちらを思いっきり小馬鹿にしたように、はあ、と首を傾げる。
「何よ。あんたまだつまんない言い訳とか考えてるの?ちょっと、もう何年前のことだと思ってんのよ。え、もしかしてあんた、まだ私に未練があるわけ?うわ、キモい」
そうつぶやきながら、綺麗に化粧を施した目元を歪めて、リエはいかにも面倒くさそうにため息をついた。
「ああ、てか私に言わせれば、貴重な私の半年間を返して欲しいくらいなのよね。法学部受験するって聞いたから付き合ったのに、結局あんたは直前に逃げ出す甲斐性なしのバカだし」
そう吐き捨て、彼女はつまらなそうにちっと舌打ちをした。
だが次の瞬間、リエはにやりと笑って俺を見やると、唐突に大声で喚き始めた。
「皆さん聞いてください!ここにいる大西エイジは、私を騙した卑怯者で嘘つきで、おまけに自分が頭いいと思ってる男です!」
ロビーにいる人間やホテルマンが、何事かと彼女に視線を送る。
だが、そんな周囲の迷惑など考えてもいないように、リエはさらに得意げに続けた。
「あ、そんなバカなエイジ君にいいこと教えてあげるね。私の婚約者、なんと現役の弁護士なの。今日もここで彼の世話になってる人に挨拶する予定で。あ、来た」
そう言って彼女はにっこりと笑うと、頼まれもしないのに自己紹介してあげると言い、またしても大声で婚約者の男性を呼び寄せた。
「ケイ太さん、こっちへ来てくれない?」
その声に、スーツ姿の男性がこちらへと近づいてきた。
男性はリエのそばにいる俺に気づき、驚いたように目を瞬かせたが、それに気づくこともなくリエはまるで自慢のアクセサリーを見せるように男性を紹介してくる。
「こちら、沢田ケイ太さん。なんと学生のうちに司法試験に合格した優秀な弁護士さんなの。あ、ケイ太さん。こちらは大西さん。あなたみたいに勝ち組になれなかった元弁護士志望の底辺よ」
悪意たっぷりにそう口にして、面白くてたまらないとばかり肩を揺らす。
だが次の瞬間、横に立っていたケイ太が表情を変えて彼女を見た。
「君、なんてことを言うんだ」
この沢田ケイ太という人物は、普段は怒ったところなど見たこともない優しい男だが、いざ法廷に立った時の迫力は目を見張るものがある。
俺はそのことを知っている。
案の定、検察官並みのその迫力を初めて目の当たりにしたのか、リエは訳も分からず固まってしまった。
そんな婚約者に構わず、ケイ太は少し音量を落としながらも、迫力はそのままに言った。
「こちらの大西さんが、今日君に紹介する予定だった先輩だよ。君にもいつも言ってるよね。俺が高校1年の時に巻き込まれた通り魔事件で、動けなくなった俺をかばってくれた人だって」
そうなのだ。
このケイ太は俺と同様、あの通り魔事件の被害者であり、俺がとっさにかばった学生本人だった。
結局、俺が刺された後も犯人は暴れ続け、倒れた俺を助けようとしたケイ太も、俺ほどではないが腕に傷を負った。
俺とケイ太は同じ病院に運ばれ、年齢も近いということで同じ病室に入れられた。
ケイ太は俺が自分をかばってくれたことを深く感謝してくれ、それから何かと俺に懐いてもくれた。
俺も俺で、素直で真っすぐな彼を本当に弟のように思い、可愛がった。
先に退院したケイ太に続き、俺も無事退院すると、1年遅れで今度こそ目指していた法学部へ合格し、大学在籍時に司法試験にも合格した。
卒業後は研修を経て、大手の弁護士事務所に入所した。
驚いたのは、退院後も交流を続けていたケイ太が、俺の後を追うように法学部へ進み、さらには弁護士になったことだ。
本人に聞けば、「何があっても立ち上がって前を向く大西さんの姿に憧れた」とのこと。
また、「自分たちのようになすべなく犯罪に巻き込まれた人々へ手を差し伸べたい」とも口にしていた。
それから俺たちは共に切磋琢磨し、弁護士としての腕を磨いてきたのである。
「そ、そんな、違うのケイ太さん!今のはちょっとした言い違いっていうか、そんな馬鹿にしたつもりはなくって」
ケイ太の言葉を聞き、リエが真っ青になってどもりながら必死に言い訳を並べ立てる。
だがケイ太はそんな彼女を一瞥すると、今度はごく静かに告げた。
「何が違うの?俺には君が大西さんに対してひどい暴言を吐いているようにしか聞こえなかったよ。君には失望した。婚約も考え直す」
「いや、待って!私の話を聞いて!ケイ太さん!」
眉を寄せてため息を吐くケイ太に、リエは髪を振り乱し、涙を浮かべて取りすがる。
一見すると、彼女がそのような顔をするといかにもかわいそうで情が移ってしまいそうになる。
だが、その姿は俺の目にはもはや彼女の得意な演技にしか見えなかった。
むしろ、彼女とケイ太が婚約していたことにも驚きだが、リエのような裏表の激しい女性と可愛がっている後輩がこのまま結婚することには、俺としてはどうしても反対せざるを得ない。
「うん。ケイ太の判断は正しいと思う」
ぼそっと口を開いた俺に、リエが顔を引きつらせて睨む。
「あんた、大西さんは黙っていてもらえますか?」
しかし、そんなリエを押しのけるようにしてケイ太が首をかしげた。
「というか、大西さん。もしかして彼女と知り合いなんですか?」
その問いにリエはさらに青ざめてぶんぶんと首を振るが、俺はその仕草には気づかないふりをして、やがて「うん」と頷いた。
「ああ、まあ、高校3年の時に数ヶ月だけ付き合ってたというか。でもあの事件で俺は受験できなかっただろう。そしたら彼女に一方的に振られて、『弁護士になれないあんたに価値はない』って」
俺の答えにケイ太は驚いたように目を見開き、それから険しい目でリエを見た。
「違う!この人が私に振られた腹いせで出鱈目を言ってるのよ!ケイ太さんは弁護士でしょ?ねえ、私の言うこと信じてくれないの?」
ただわめく彼女を見るケイ太の顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
「むしろ、今の君のどこに信じられる要素があるというの。とにかく、少し考える時間が欲しい。落ち着いたら俺から連絡するから、君の方からは連絡を控えてくれ」
それだけ言うと、ケイ太は俺を連れてその場を立ち去った。
背後には、未だ何事か叫んでいるリエの大声が響いていた。
それからしばらくして、俺は再びケイ太と会う機会があった。
その席で、迷惑をかけたと改めて謝る彼に、俺はわずかに苦笑して首を振った。
「彼女との婚約は正式に解消しました。元々、合わないと思うところはあったんです。でも彼女なりに献身的で、俺も腑に落ちてしまって。まあ、それもきっと弁護士と結婚したかったからなんでしょうけど」
自嘲気味の彼の言葉に、俺は無言で頷いた。
弁護士と結婚をすること。
それが彼女の理想なのであれば、否定することでもない。
だが、だからと言ってそれが他人を傷つけていい理由にはならない。
まあ、リエはなんだかんだと強い女性なので、これに懲りずにまたあの調子で貪欲に行動していくのだろう。
俺は小さく笑って、ケイ太の肩を叩いた。
「お互い、弁護士になる夢は叶えたけど、結婚にはしばらく縁がなさそうだな」
「本当に」
俺の言葉にケイ太が肩をすくめる。
「じゃあ、何のしがらみもない1人同士、今夜は久々に飲みにでも行こうか」
「はい。もちろん、エイジさんの奢りですよね?」
そう言ってケイ太がふざけたように笑った。
「おい、いいじゃないですか。人生の先輩として、後輩を慰めてくださいよ。あ、俺いい店知ってます」
その後、廊下にはしばし俺たちの賑やかな会話が響いていた。



