「炊飯機のスイッチも入れられないの?」
嫁の高い声が、静かなキッチンに突き刺さった。
私は岡部みさ子、68歳。薬剤師として36年間働き続けてきた私が、まさかこんな言葉を浴びせられるとは思ってもみなかった。
夕食の準備に追われていた私は、確かに炊飯機のスイッチを押し忘れていた。たったそれだけのことだ。
でも嫁の目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。
「お母さん、最近こういうの多いですよね。認知症じゃないですか?」
胸が締めつけられるような痛みを感じた。長年地域の人々の健康を守り、薬の専門家として信頼されてきた私が、炊飯機ひとつで人格まで否定されるなんて。
そこへ息子の高志が帰宅した。助けを求めるように彼を見つめた私だったが、返ってきた言葉はさらに冷たいものだった。
「母さん、もう役に立たないね。嫁の言う通りかもしれない」
私の中で何かが音を立てて崩れていった。息子夫婦の結婚時には300万円を援助し、孫の教育費も毎月10万円負担している私が、炊飯機のスイッチひとつで役立たず扱いされるなんて。
震える手を必死に隠しながら、私はゆっくりと顔を上げた。そしてなぜか自然と口元に浮かんだのは、静かな微笑みだった。
その夜、私は眠れなかった。36年間、薬剤師として地域医療を支えてきた日々が走馬灯のように蘇る。朝5時に起きて朝食を作り、薬局で8時間勤務。年収600万円を稼ぎながら、息子の高志を大学まで育て上げた。夫が10年前に他界してからは、女手ひとつで家計を支えてきたのだ。
高志と嫁の清美が結婚する時のことを思い出す。
「母さん、マイホームの頭金が足りなくて」
迷わず300万円を渡した。2人の幸せそうな笑顔を見れば、苦労なんて吹き飛んだ。
孫が生まれてからはさらに忙しくなった。もう歳だが、週3日は薬局で働き、残りの日は孫の世話に明け暮れる毎日。教育費として月10万円、食費として月5万円、合わせて月15万円を息子夫婦に渡し続けている。
「お母さんのおかげで助かってます」
以前は清美もそう言って感謝してくれていた。いつから変わってしまったのだろう。
私は薬剤師として、認知症の症状も熟知している。炊飯機のスイッチを忘れたのは、単に他の家事に追われていただけだ。でも息子夫婦にとって私は、もうお荷物でしかないのかもしれない。
それから2週間が過ぎた頃、息子夫婦の態度は日に日にエスカレートしていった。
ある朝、私が朝食の準備をしていると、清美が薬箱を持って現れた。
「お母さん、この薬の説明書、全然分からないんですけど、もっと新しい薬はないんですか?」
私は丁寧に薬の効能を説明した。
「これは最新の処方薬で、副作用も少ない優れた薬です」
しかし清美は鼻で笑った。
「お母さんの薬の知識ってもう古いんじゃないですか? 今はAIの時代ですよ。スマホで調べた方が正確かも」
36年間培ってきた専門知識を、まるでゴミのように扱われた瞬間だった。胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。
その夜、高志が帰宅すると、清美はすかさず告げ口を始めた。
「今日もお母さん、古い知識を押し付けてきて、正直迷惑だったよね」
「母さん、もう歳なんだから仕事もやめた方がいいんじゃない? 患者さんに迷惑かけたら大変だよ」
息子の言葉に、私は凍りついた。地域の患者さんから「先生」と慕われ、同僚からも信頼されている私が、迷惑だというのか。
翌日、さらに追い討ちをかけるような出来事が起きた。
「お母さん、来月から生活費をもっと入れてもらえませんか?」
清美が切り出した。すでに月15万円も渡しているのに、さらに要求してきたのだ。
「物価も上がってますし、月に10万円は必要です。お母さん、まだ働いてるんでしょ。それに母さんの貯金もあるはずだよね」
高志も便乗してきた。まるで私のお金を当然のように絞り取ろうとする。その態度に愕然とした。
最も辛かったのは、孫との関係に制限をかけられたことだった。
「おばあちゃんと遊びたい」
5歳の孫がそう言っても、清美は冷たく遮った。
「だめよ。おばあちゃんは汚いから触らないで」
私の目の前で、そんな言葉を平然と口にするのだ。心臓を鋭利な刃物で切り裂かれたような痛みが走った。
「それにお母さんの古い考えを子供に教えられたら困ります。変な知識を吹き込まないでください」
薬学の知識だけでなく、人生経験まで「変な知識」扱いされた。孫に絵本を読んであげることさえ、時代遅れの価値観を植えつけると禁止されたのだ。
ある日曜日、私は庭で洗濯物を干しながら、隣の家から聞こえてくる3世代の笑い声に、涙が込み上げてきた。同じ屋根の下にいながら、私はまるで透明人間のような扱いを受けている。食事の時も私の意見は完全に無視され、まるで存在しないかのように会話が進んでいく。
「正直言って、邪魔なんだ」
ある日、酔った勢いで高志が呟いた言葉が、私の心に深く突き刺さった。
「嫁の実家のお母さんはまだ若くて元気だし、孫の面倒も上手。比べると、母さんは本当に使えない」
「そうよね。うちの義母ならもっと家事も完璧にこなすし。お金の援助もしてくれるわ」
清美も追い打ちをかける。私は黙って聞いていた。手が小刻みに震え始めていることに気づき、テーブルの下で拳を握りしめた。
これまでの人生は、何だったのだろう。必死に働き、息子を育て、老後も家族のために尽くしてきた。その存在価値が日々否定されていく。薬剤師としての誇りも、母親としての愛情も、全て踏みにじられていく。
でも、私の中で何かが静かに、しかし確実に変化し始めていた。
運命の日は、ある火曜日の夕方に訪れた。
私はいつものように夕食の準備をしていた。煮物を火にかけ、サラダを作り、汁物の具材を切っていた時だ。清美が仕事から帰宅し、キッチンに入ってきた。
「あれ? ご飯は?」
清美の声に、私ははっとした。炊飯機を見ると、赤いランプがついていない。また忘れてしまったのだ。
慌てて説明しようとしたが、清美の顔は見る見るうちに歪んでいった。
「またお母さん、この前も同じことしたじゃないですか」
「ごめんなさい。すぐにスイッチ入れますね」
私は急いでスイッチを押そうとしたが、清美はそれを遮った。
「もういいです。炊飯機のスイッチさえ入れられないなんて、本当に使えない」
その瞬間、玄関のドアが開き、高志が帰ってきた。
「どうしたの?」
「またお母さんが炊飯機のスイッチ入れ忘れたのよ」
高志は大きくため息をついた。そして、信じられない言葉を口にした。
「母さん、正直もう限界かもね。炊飯機も使えないなんて、完全に認知症の症状じゃない?」
私の全身から血の気が引いていった。薬剤師として認知症の患者さんと接してきた私が、単純な家事の失敗で認知症扱いされるなんて。違う、ただ他の料理に集中していただけなのに。
必死に弁解しようとしたが、清美は聞く耳を持たなかった。
「言い訳はもういいです。お母さんみたいな人がまだ薬剤師として働いているなんて、患者さんがかわいそう。薬を間違えたらどうするんですか?」
その言葉は、私の最後の誇りを完全に打ち砕いた。36年間、一度も調剤ミスを起こしたことのない私が、危険な存在扱いされたのだ。
「それは言いすぎです」
私は声を絞り出して抗議したが、清美の攻撃は止まらなかった。
「言いすぎ? 事実でしょう。お母さんはもう何の役にも立たない。お金だけ入れてくれればいいんです。それ以外は邪魔」
高志も追い打ちをかけてきた。
「母さん、嫁の言う通りだよ。正直、母さんがいない方が家の中も平和かもしれない」
私の目から、涙が一筋流れた。息子からここまで言われるとは、夢にも思わなかった。
「私はあなたたちのために……」
「うるさい!」
清美が突然叫んだ。そして次の瞬間、信じられないことが起きた。
清美が私の肩を両手で強く押したのだ。不意をつかれた私はバランスを崩して後ろに倒れ込み、腰と肘を強く床に打ちつけた。鋭い痛みが走る。
「お母さん!」
一瞬、清美も自分のしたことに驚いたようだったが、すぐに開き直った。
「自分で転んだんでしょう。大げさに倒れないでください」
床に倒れた私を見下ろしながら、清美は冷たく言い放った。高志は、母親が突き飛ばされて倒れているのに、助け起こそうともしない。
「母さん、大丈夫? ……まあ、自業自得かもしれないけど」
息子のその言葉に、私は完全に打ちのめされた。必死に立ち上がろうとしたが、腰の痛みで動けない。
「ほら、やっぱり認知症じゃない。普通の人ならこんな大げさに倒れないでしょう」
清美の言葉が私の耳に響いた。
やっとのことで立ち上がった私に、高志が最後通告を突きつけてきた。
「母さん、もうこの家から出て行ってもらった方がいいかもしれない。施設とか入った方がいいんじゃない?」
「そうですね。お金だけ振り込んでもらえれば、お母さんがどこにいても構いません」
清美も同調した。
私は2人の顔を見つめた。もうそこに、息子夫婦の愛情はなかった。ただ私からお金を絞り取ろうとする、欲にまみれた他人がいるだけだった。
腰の痛みをこらえながら、私はゆっくりと顔を上げた。不思議なことに、もう涙は出なかった。代わりに、心の奥底から静かな何かが湧き上がってきた。そして私の口元に、自然と微笑みが浮かんだ。静かで穏やかな微笑み。
「わかりました」
私はただ一言、そう答えた。
息子夫婦は私の反応に少し戸惑ったようだったが、すぐに安堵の表情を見せた。きっと私が素直に出ていくと思ったのだろう。でも彼らは知らない。薬剤師として36年間培ってきた冷静さと計画性を。そして、彼らがまだ知らない私の本当の立場を。
この瞬間、私の中で全ての決意が固まった。
その夜、私は自室で静かに準備を始めた。腰の痛みはまだ残っていたが、頭は不思議なほどクリアだった。36年間、薬剤師として緊急事態にも冷静に対処してきた経験が、今こそ生きる時だ。
まず、私は古い手帳を取り出した。そこにはこれまでの援助の記録が全て記されている。結婚時の頭金300万円、毎月の生活費5万円、孫の教育費10万円。総額にすると、この8年間で1500万円を超えていた。
次に、私はタンスの奥から封筒を取り出した。息子夫婦は知らないことだが、実は私にはまだ明かしていない事実があったのだ。
私の叔父、つまり私の母の弟は、この地域で最大の薬局チェーンを経営していた。そして先月、その叔父が亡くなったのだ。子供のいなかった叔父は、可愛がっていた姪の私に全てを託すと遺言を残していた。相続手続きはすでに完了し、私は来月から薬局チェーン15店舗の取締役に就任することが決まっている。年収は1500万円。さらに叔父の遺産として3億円の資産も相続していた。
このことを息子夫婦に言わなかったのは、純粋に彼らの反応を見たかったからだ。お金ではなく、私という人間を大切にしてくれるか。残念ながら、答えは明白だった。
私は机に向かい、3通の書類を作成し始めた。
1通目は遺言公正証書の通知書。私の遺産相続の分配を、息子への遺留分を少しでも減らす内容だ。遺言公正証書としてすでに弁護士にも相談済みだった。
2通目は援助金返還請求書。これまでの1500万円の援助は、あくまで貸付金だったという内容に変更する書類だ。もちろん法的効力を持たせるため、過去の振り込み記録も全て添付した。
3通目は薬局グループ取締役就任通知。私が地域最大の薬局チェーンの経営者になること、そして年収が1500万円になることを知らせる書類だ。
さらにもう1つ、重要な書類を用意した。息子夫婦の住宅ローンの連帯保証人解除通知だ。実は彼らの家の連帯保証人は私だった。これを解除すれば、銀行は確実に融資の見直しを迫るだろう。
深夜2時、家中が寝静まった頃、私は音を立てないように荷物をまとめ始めた。必要最小限の衣類だけを小さなスーツケースに詰めた。薬剤師免許書、これまでの表彰状、患者さんから頂いた感謝の手紙。これらは私の誇りであり、生きてきた証だ。お金では買えない本当の財産だった。
リビングのテーブルに4通の封筒を並べた。そしてその横に、小さなメモを添えた。
「炊飯機のスイッチも入れられない人間からの、最後の贈り物です」
私は静かに玄関に向かった。振り返ると、8年間暮らした家が月明かりに照らされている。ここで過ごした日々は決して無駄ではなかった。息子夫婦の本性を知ることができたのだから。
玄関のドアを開ける前に、もう1度だけ振り返った。孫の部屋の方向を見つめ、心の中で別れを告げた。いつか真実を知った孫が、私を理解してくれる日が来ることを信じて。
外に出ると、満月が優しく私を照らしていた。
タクシーの運転手に行き先を告げた。
「市内の高級ホテルまでお願いします」
車が動き出すと、不思議な解放感に包まれた。もう理不尽な扱いに耐える必要はない。誰かの顔色を伺う必要もない。明日の朝、息子夫婦が封筒を開けた時の顔を想像すると、自然と微笑みがこぼれた。でもそれは復讐の笑みではない。自由を取り戻した者の微笑みだった。
ホテルに到着し、最上階のスイートルームにチェックインした。窓から見える夜景は、まるで新しい人生の始まりを祝福しているようだった。
私は叔父の遺言を取り出し、もう一度読み返した。
「みさ子君は私の誇りだ。薬剤師として、人として、素晴らしい人生を歩んできた。この財産を君の幸せのために使ってほしい。誰かのためではなく、君自身のために」
叔父の言葉が、今になって心に染み渡った。明日から、本当の私の人生が始まるのだ。
翌朝8時、岡部家のリビングに清美の悲鳴が響き渡った。
「これ何? 嘘でしょう?」
テーブルの上に置かれた4通の封筒を、震える手で開いた清美の顔は、見る見るうちに青ざめていった。寝室から慌てて出てきた高志も、書類を見た瞬間、血の気が引いていった。
最初の封筒には、遺言公正証書の通知書が入っていた。みさ子の遺産相続の分配を、高志への遺留分を少しでも減らす内容だ。公正証書として作成され、弁護士の署名もあった。
「お母さんに、こんな財産があったなんて……」
清美は信じられない様子で書類を見つめていた。
2通目の援助金返還請求書を見た時、高志の手が震え始めた。
「1500万円の即時返還? これまでの援助は貸付だった? そんな話、聞いてない」
書類には過去8年間の振り込み記録が全て添付されていた。日付、金額、振り込み先、全てが克明に記録されている。法的にも有効な証拠だった。
「でも、お母さんはただの薬剤師でしょう。こんな大金、どこから?」
清美の疑問は、3通目の書類で氷解した。薬局グループ取締役就任通知を読んだ2人は、まるで石になったように固まった。
叔父が薬局チェーンの創業者。みさ子が唯一の相続人。書類には詳細な内容が記されていた。地域最大の薬局チェーン「岡部ファーマシー」15店舗。年商50億円。従業員300名。その取締役にみさ子が就任し、年収は1500万円。さらに叔父の遺産として現金2億円、不動産1億円相当を相続したことも明記されていた。
3億円。年収1500万円。高志は目を何度も擦った。まるで悪い夢を見ているようだった。
最後の封筒を開けた時、清美は床に座り込んだ。
「連帯保証人解除通知……?」
この家の住宅ローン3000万円の連帯保証人が、みさ子だったのだ。それが解除されれば、銀行は確実に融資の見直しを求めてくる。高志の年収600万円だけでは、とても返済できない。
「母さんが連帯保証人だったなんて、覚えてなかった」
高志は頭を抱えた。そして、4通の封筒の下にあった小さなメモを見つけた。
「炊飯機のスイッチも入れられない人間からの、最後の贈り物です」
その一文を読んだ瞬間、昨日の自分たちの言動が蘇ってきた。「炊飯機も使えない」「認知症」「役立たず」「出ていけ」。そして清美がみさ子を突き飛ばした瞬間も。高志の顔が真っ青になった。
清美は慌ててみさ子の携帯に電話をかけたが、すでに解約されていた。薬局に電話すると、衝撃的な事実を知らされた。
「みさ子さんでしたら、本日から本社の取締役として勤務されています。新しい連絡先は、一般の方にはお教えできません」
「一般の方? 私は息子です」
「申し訳ございませんが、取締役から、岡部高志様と清美様からの連絡は一切受けないよう指示を受けております」
電話はそこで切られた。
2人は必死にみさ子の居場所を探そうとしたが、手がかりは何もなかった。部屋には私物がほとんど残されていない。まるで最初から存在しなかったかのようだった。
「お金、どうするの? 1500万円なんて返せるわけない」
清美の声は震えていた。2人の貯金を合わせても200万円程度。しかもそれは子供の教育費として貯めていたものだ。住宅ローンもどうすればいい。連帯保証人を失えば、銀行は追加の担保を要求してくるだろう。最悪の場合、家を手放すことになる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、スーツを着た男性が立っていた。
「岡部高志様ですね。私、岡部みさ子様の代理人弁護士の田中と申します」
弁護士はさらなる書類を差し出した。
「援助金返還に関する正式な通知書です。返済期限は3ヶ月後。期限を過ぎた場合は、法的措置を取らせていただきます」
「3ヶ月? そんな短期間で1500万円も……」
「これまで8年間、無理やり渡していたことを考慮すれば、十分な期間だと考えております」
弁護士は冷たく告げた。
「また、みさ子様はお2人との今後一切の関係を断つことを希望されています。接触禁止命令の申請も検討中です」
「接触禁止? 親子なのに」
高志の抗議も虚しく、弁護士は淡々と続けた。
「昨日、みさ子様が突き飛ばされて怪我をされた件についても、傷害罪での告訴を検討されています。診断書もすでに準備ができています」
清美の顔から、完全に血色が消えた。
弁護士が帰った後、2人はリビングに呆然と座り込んでいた。
「お母さんがあんな大金持ちだったなんて知ってたら、あんな態度は取らなかった……」
でも、もう遅い。みさ子を「炊飯機も使えない認知症の老人」と侮辱し、暴力まで振った事実は消えない。
その時、高志の携帯が鳴った。会社からだった。
「岡部さん、薬局チェーンの岡部取締役から、うちとの取引の連絡が入ったんだが……」
岡部ファーマシーは、高志の会社の大口顧客だった。その取引がなくなれば、会社での立場も危うくなる。まさか母さんが、という現実に、高志は膝から崩れ落ちた。
清美も、ママ友からのLINEで衝撃を受けていた。
「さきちゃんのお母さん、すごい人だったのね。薬局チェーンの取締役だなんて」
町中にみさ子の本当の立場が知れ渡り始めていた。そして同時に、息子夫婦が母親にひどい仕打ちをしていたことも。窓の外を見ると、向かいの家の老夫婦がこちらを見て何か話していた。きっと「親不孝な息子夫婦」として噂になっているのだろう。
「炊飯機のスイッチも入れられない」——その言葉が、今は呪いのように2人にのしかかっていた。
3ヶ月後、みさ子は市内の高級タワーマンション最上階で、優雅な朝を迎えていた。大きな窓から差し込む朝日を浴びながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。この穏やかな時間が、今の私の日常だ。炊飯機のスイッチを気にすることもなく、誰かの顔色を伺うこともない。本当の自由を手に入れた。
携帯が鳴った。秘書からの連絡だ。
「取締役、本日の理事会の資料をお送りしました。新店舗の件も順調に進んでいます」
「ありがとうございます。午後からの会議、楽しみにしています」
私は今、薬局チェーンの取締役として充実した日々を送っている。年収1500万円という報酬以上に、自分の知識と経験が正当に評価される喜びは、何者にも代えがたいものだった。週に3日は経営会議や店舗視察。残りの日は自由に過ごしている。先週は薬剤師仲間と温泉旅行に行った。
「岡部さん、若返りましたね」
そう言われて、心から笑うことができた。
そんな中、弁護士の田中さんから連絡が入った。
「みさ子様、息子さんご夫婦からまた連絡がありました。返済の猶予を求めています。かなり切羽詰まっているようです」
私は少し考えてから答えた。
「予定通り、法的措置を進めてください」
感情はもう動かなかった。彼らは私を「炊飯機も使えない人間」と侮辱し、突き飛ばした。その結果を受け入れるのは、当然のことだ。
実は息子夫婦の現状は、風の便りで聞いていた。住宅ローンの借り替えは審査に通らず、家を売却することになったそうだ。しかしローン残高の方が多く、売却してもまだ1000万円の借金が残る計算だった。高志は会社での立場も悪くなり、左遷されたと聞く。岡部ファーマシーとの取引がなくなったことで、営業成績が大幅に落ち込んだからだ。清美もママ友から距離を置かれているようだった。「お母さんにあんなひどいことをした人とは付き合えない」と、噂が広まっていた。
先日、偶然にもスーパーで清美とすれ違った。やつれた顔の清美は、私を見ると駆け寄ってきた。
「お母さん! お願いです。話を聞いてください」
「申し訳ありませんが、どちら様でしょうか?」
私は冷静に答えた。
「お母さん、私たちが悪かったです。本当に反省しています。どうか、許してください」
清美は涙ながらに土下座をしようとした。私はそれを止めた。
「残念ですが、私には息子も嫁もいません。『炊飯機のスイッチも入れられない人間に家族はいない』と言われましたから」
「あの時は感情的になって……」
「突き飛ばされた時の痛みは、今でも覚えています。でもおかげで目が覚めました。本当の幸せが何か、分かったんです」
私は静かに微笑んだ。もう怒りも、憎しみもない。ただ、彼らと関わりたくないだけだ。
「返済の件は、弁護士を通してください。では、失礼します」
立ち去ろうとする私を、清美が必死に引き止めた。
「お母さん、子供がお母さんに会いたがっています」
その言葉に、一瞬心が揺れた。でも私は振り返らなかった。孫には罪はないが、今はまだ会う時期ではないと感じたからだ。
その日の夕方、私は地域の公民館にいた。
「岡部先生、今日もありがとうございました。子供たちが本当に楽しみにしているんです」
私は週に1度、地域の子供たちに無料で薬学教室を開いている。薬の正しい飲み方、体の仕組み、健康の大切さを分かりやすく教えるのだ。
「岡部先生、また来週も来てくれる?」
「もちろんよ。約束するわ」
子供たちの純粋な笑顔を見ていると、心が温かくなる。これこそが、私が本当に求めていた「家族」のような関係かもしれない。
教室が終わった後、1人の若いお母さんが近づいてきた。
「岡部先生、実は相談があるんです。息子がアレルギーで」
私は丁寧に話を聞き、アドバイスをした。36年間の薬剤師経験は、今でも誰かの役に立っているのだ。
「先生は、お子さんはいらっしゃるんですか?」
その質問に、私は少し考えてから答えた。
「昔はいましたが、今はいません。でも、ここに来る子供たちが、私の新しい家族みたいなものです」
帰り道、夕焼けがとても美しく見えた。
マンションに戻ると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人は、以前勤めていた薬局の患者さんだった。
「岡部先生へ。先生が取締役になられたと聞いて、本当に嬉しく思います。先生の優しさと確かな知識に、何度も救われました。これからもお体に気をつけて、多くの人を助けてください」
涙が自然とこぼれた。これが私の本当の財産なのだと、実感した。
夜、ワイングラスを傾けながら、これまでの人生を振り返った。確かに息子夫婦から受けた屈辱は辛いものだった。でも、そのおかげで自分の本当の価値に気づくことができた。そして、誰かのためではなく自分のために生きる勇気を持つことができたのだ。
携帯に、薬剤師仲間からのメッセージが届いた。
「みさ子さん、今度みんなで海外旅行に行かない?」
「いいわね。ぜひ参加させて」
68歳にして、私の人生は新しいステージに入った。もう誰かの顔色を伺うことはない。炊飯機のスイッチを入れ忘れても、誰も責める人はいない。
ベランダに出ると、満天の星が輝いていた。
「お父さん、見てる? 私、やっと自由になれたよ」
亡き夫に語りかけると、星がひとつ、明るく瞬いたような気がした。きっと夫も天国で、「よく頑張った」と言ってくれているだろう。
私の物語は、ここでひとつの区切りを迎える。でも人生は、まだまだ続く。これからも薬剤師として、そしてひとりの女性として、堂々と生きていく。
理不尽な扱いを受けている全ての人に伝えたい。我慢し続ける必要はない。あなたには幸せになる権利があるのだ。時には大切なものを手放す勇気も必要かもしれない。でもその先には、必ず新しい幸せが待っている。私がその証人だ。
炊飯機のスイッチを入れ忘れた。ただそれだけのことから始まった物語。でもそれは、私にとって本当の人生を取り戻すきっかけとなった。今、心から言える。私は幸せだと。



