高級レストランの個室で、私の頬に鈍い痛みが走った。
シャンデリアの柔らかな光が、白いテーブルクロスを照らしている。パールのネックレスを揺らしながら、ボスママの美智子が私を見下ろしていた。その口元にはまだ笑みが残っている。
ママ友たちの目の前で、美智子は私を平手打ちにした。
「パートの貧乏人は消えな」
母親たちが息を飲み、口元を押さえて凍りついた。それでも私は頬を押さえなかった。顔をそらしもせず、まっすぐにその女へ視線を返す。
この人は、自分が今誰に手を出したのか、何も分かっていない。
表向きの私は、スーパーで働くしがないパートの母親。同級生の親として招かれた、ただの月例ランチのはずだった。
私は静かに口を開いた。
「旦那に伝えなさい。構想開始だと」
私はひかり。スーパーの青果売り場で朝から働くパートの主婦だ。小学五年生の娘の桜と、狭いアパートで二人静かに暮らしている。
毎朝値引きシールを探しながら買い物をして帰る。夜は娘と小さな食卓を囲み、その日にあった出来事を聞かせてもらう。贅沢な暮らしではないが、この何でもない時間こそが私にとっては何よりのものだった。
月に一度、娘の同級生の母親たちと集まるママ友会のランチがある。会場はいつも、私には少し背伸びした高級レストランの個室。その輪の中心にいるのが、ボスママの美智子だった。
彼女の夫は組長だ。それを笠に着て、母親たちを従わせる女。
「うちの人を任されてるからさ」
彼女がそう口にすると、母親たちは引きつった笑顔で頷くしかない。ブランドのバッグを見せびらかし、人の服装を品定めしながら、声の大きさで場を支配する。
私はいつも隅の席で静かに相槌を打つだけ。波風を立てたくなかった。娘のためにも、目立たずにいたかった。誰も私の本当の顔を知らない。
私はこの穏やかな暮らしの中で、その顔を決して出さないと決めていた。
その日の月例ランチも、高級レストランの個室で始まった。照明が落ち着き、ウェイターが水の入ったグラスを席の前に音もなく並べていく。
入口で席を割り振るのも、メニューを仕切るのも、全て美智子だった。母親たちは笑顔を張り付けて従い、異を唱える者はいない。笑顔の形をしているが、誰一人として目を合わせようとしなかった。
「ここはコースが一番よ。私が選んどくから、みんな同じので注文して」
返事をするより先に美智子はウェイターへ声をかけていた。
「うちの人ね、組長として名前が通ってるからさ、こういう店には部下連れてしょっちゅう来てるのよ。いいコースが当たり前みたいな感じになってくるの」
高かい笑い声が個室に広がる。鳥飼が「そうですよね」と頷いた。他の母親たちも愛想笑いを張り付けたまま、目だけを伏せていた。
「ところで先週ね、うちの人が新しいバッグを買ってくれたの。ほら、これ」
テーブルにブランドのバッグを置き、美智子は母親たちを見回す。
「素敵ですね」
「でしょ? センスがないと選べないから、自分じゃ無理なのよ。こういうのが分かる人間かどうか、一目見れば分かるって言うじゃない」
鳥飼がバッグを覗き込み、羨ましそうに声をあげた。
「うちの人にこういうセンスがあったらいいんですけど」
「旦那の格が出るのよ、持ち物って。奥さんがどう見られるかは、旦那次第でしょ」
笑い声が変わる。誰かが私の方を横目で見て、すっと視線を外した。
やがて美智子の目が、室の隅に座る私へ向いた。
「え、ひかりさん、毎回思うんだけど、一番後ろの席に黙って座ってるじゃない。来た意味あるの?」
意地の悪い声が室に広がる。母親たちの視線が一斉に私に集まった。横目で確認してから、口元を押さえ、視線をそらす者もいた。
「楽しんでいます」
「楽しんでいるのね。まあ、それは良かったわ」
視線が私の服装を上から下まで一度だけ流れていく。
「その格好、品がないわよ。こういう店って、それなりの格があるの。正直、背伸びしすぎよ」
美智子が口元を押さえて笑う。
「すみません」
私は静かに頭を下げた。周囲の母親たちは俯き、誰も口を開かない。それでも美智子の言葉は止まらなかった。
「ねえ、パートさん、あなたいつも同じカーディガンよね。今日もそれ着てきたの? 一枚しかないの?」
薄笑いを浮かべたまま、美智子はテーブル越しに私を見ている。
「気に入っているので」
「気に入ってるね」
美智子は鳥飼と目を合わせ、笑いをこらえていた。
「あのさ、こういう場の空気って、パートの立場だときついでしょ。正直、無理してまで来なくてもいいのよ。みんなも遠慮しながら気を使ってるんだから」
声に、気遣いの形をした棘が混じっている。
「皆さんにご迷惑はかけていないと思いますが」
言ってから、余計だったと口元を結ぶ。
「迷惑の話じゃないの。立場が合わないと、場の空気が変わるのよ。分かる? パートの人がここに来ると、それだけでみんなが気を使わないといけなくなるの」
「すみません」
笑いが収まり、視線が今度はまっすぐ私へ向く。
「大体、パートの人がこういう場所に来ること自体が間違いなのよ。雰囲気ってものがあるでしょ。なんで分からないの?」
「すみません」
私は目を伏せ、視線をテーブルへ落とした。
「身の程を少しは考えたら? ここに来る方たちは、それなりの立場の方ばかりなのよ。会費だって当たり前の金額じゃないの」
母親たちは視線を落としたまま、誰も動かない。隣に座る親も目を伏せたまま。一人として口を開かなかった。
テーブルの下で、そっと手を握りしめた。爪が掌に食い込み、指の先から力が抜けない。
娘のためだ。今は耐える。
耐えることには慣れていた。答えなかった。頭を下げたまま沈黙し続けていると、美智子の苛立ちがじりじりと膨らんでいく。
やがて、椅子を引く音がした。
「聞いてるの? 私の話を無視する気?」
立ち上がった美智子が、私の席へ向かって歩み寄ってくる。テーブルのグラスが硬い音を立てた。
「あんたみたいな人間が、私たちと同じ空気を吸ってること自体、不愉快なのよ。こっちまで気分が悪くなる。分かる?」
私は顔を伏せたまま答えなかった。ここで口を開けば、娘に及ぶ。テーブルの下で拳を握り、それでも顔をあげない。
「何黙ってるのよ。私が話しかけてるのに、聞こえてないの? それとも無視してるの? ここは私たちの場所なのよ。こんな人がここに来ていい道理がどこにあるの?」
鳥飼たちは視線を伏せ、誰も口を挟まない。美智子の声がさらに尖った。
「黙ってんじゃないの? 返事もできないの? 何が恥ずかしいのよ。そっちがこんな場所に来るのが間違いなのよ。最初から来なければよかったのよ」
ヒールの音が一歩、また近づく。
「身の程お知らせなさい」
次の瞬間、美智子が拳を振り上げた。
「パートの貧乏人は消えな」
拳が私の頬を打った。鈍い音が個室に響いた。悲鳴が上がり、何人かが口元を押さえた。頬が熱を持ち、視界が一瞬揺れる。
それでも私は頬を抑えなかった。
痛い。けれど、この女が踏み越えたのは、ここからだ。
ゆっくりと顔をあげた。美智子をまっすぐ見る。
「いいでしょう。そこまで言うなら、それはあなたが選んだことです」
美智子の笑みが一瞬だけ止まった。勝ち誇った表情のまま、何か言おうとして、口が止まる。
私は静かに口を開いた。
「旦那に構想開始と伝えな」
個室が静まり返った。高笑いをあげるはずだった口が、半開きのまま止まっている。美智子がわずかに後ずさった。
次の瞬間、美智子が笑い出した。高笑いが室に響く。
「構想ですって? パートの主婦がねえ。聞いた? この人、今何て言ったか分かった? 構想ってもう笑えるわよね。本当に」
美智子は鳥飼たちへ視線を向け、涙を拭く仕草さえ見せた。鳥飼が目を泳がせる。誰も笑い返せなかった。
「うちの人はね、その道で名前を知られてる人なの。組を構えてる、ちゃんとした組長よ。あんたみたいな庶民が構想なんて口にしていい言葉じゃないのよ。いいこと教えてあげる。そういう言葉は、使う相手を間違えると大変なことになるのよ。分かってる?」
私は表情を変えなかった。
「旦那に伝えなさいですって。ちょっと待って。笑わせないでよ。あなた、今自分が何を言ったか分かってる? 構想よ。構想。そんな言葉、どこで覚えてきたの? パートの主婦が軽口で口にしていいセリフじゃないの」
「伝えなさい」
テーブルを見つめたまま、私は動かない。美智子の笑いが少しだけ止まった。
「はあ。何それ?」
また笑い声が上がる。
「いいわよ。言っといてあげる。笑って相手にしてくれるといいわね。うちの人ね、こういう事を軽く見る人が一番嫌いなの。あなたが誰に向かって言ってるか、分かってるの? パートの主婦のくせに口先だけ達者で、恥ずかしくないの?」
笑い声が続く。私は嘲笑に乗らず、静かにバッグへ手を伸ばした。もう引き返せない。この人が自分で選んだ道だ。
私は静かに電話をかけた。短い呼び出し音の後、相手が応答した。
「私です。構想開始」
そう告げて通話を切る。バッグから取り出した携帯は、普段使いの安物ではなかった。その小さな一台を、美智子は気に留めていない。
「何それ? 旦那でも呼ぶの? 笑えるわ」
鳥飼たちも笑い声をあげた。
「本当に構想ですって。ドラマじゃないんだから。何が旦那に伝えなよ」
私は答えなかった。バッグを膝の上に置き、個室の扉の方へ目を向ける。
十分も経たなかった。美智子がまだ何か言いかけた時だった。室の扉が静かに開く。隙のない黒いスーツの男が、深く頭を下げながら入ってくる。
「若頭、お伺いしました」
美智子の笑いが途切れた。笑い声の残響が空気に溶けた。室が静まり、食器の音も聞こえない。呼吸さえも止まったようだった。鳥飼たちも一斉に口を閉じた。誰も動かない。美智子の口がゆっくりと動いた。
「え、何? ちょっと、こいつ誰? 役者雇ったの?」
「失礼が過ぎます」
鳥飼たちが息を飲む音がした。
「な、な、何なの? なんでそんな目でこっち見てるの? 怖いじゃない?」
男は視線を映さない。
「なんで黙ってんの? うちの人は組長なのよ。あんたみたいな人が出てくるなんて、意味が分からない」
男は答えず、目線だけを私へ向けた。美智子の声が細くなっていく。
男の視線が私の方へ動いた。頬の跡を確かめるように、一度だけ目を留める。
「あなたが若頭に?」
声が低く落ちた。
男が、静かに美智子へ向き直る。
「あなたの夫は村井組よね。うちの末端に置いてある程度の組だ」
美智子の目が大きく開く。
「末端? 何言ってるのよ。うちの人は組長よ。知らないでしょ」
「若頭を止めるほどの相手ではありません」
「末端」という言葉が個室に落ちる。取るに足らない。つまり、それだけの話だった。
「うちの人を馬鹿にしてるの? 組長よ。組長。そんな言い方、失礼にもほどがある」
男は答えなかった。
「ねえ、誰か何か言ってよ。なんで黙ってるの?」
鳥飼たちは目を伏せたまま動かない。美智子の声だけが個室に浮いていた。彼女の目に、初めて怯えのようなものが浮いていた。何かを言おうとして、言葉が出ない。自分が何をしてしまったのか、ようやく理解し始めているのかもしれなかった。
「組長の妻が、うちの若頭の方を殴った。組として返答を求めます。これが構想の始まりです」
淀みなく言い終えると、男は正面を向いたままだった。
「まだ電話は入れていない」
美智子がはっと息を飲む。顔を青ざめさせながら、男を見上げた。
「待って。まだ話があるの?」
男は動かない。
「冗談でしょ? 本気で言ってるの?」
視線だけが美智子に向かったまま、動かない。落とし前はこれからだ。
美智子が両手で口を押さえた。高笑いを上げていた口が、小さな悲鳴を飲み込んでいる。
「どういうことなの? うちの人は……」
声が途切れる。母親たちは青ざめて立ち尽くしていた。
「あ、あの」
声を上げて、口を閉じる。誰も次の言葉を続けられない。美智子だけが声を震わせている。
「何よ。はったりでしょ。役者でも雇ったのね。なんとか言いなさいよ」
男は目を動かさない。私も何も言わなかった。美智子の声がさらに上がる。
「うちの人を誰だと思ってるの? 組長よ。本物の組長。下っぱのくせに、うちの人を舐めてるの?」
誰も口を開かない。ママ友たちは俯いたまま、鳥飼の動きを待っていた。
「あんたなんかの言うこと、本気にするわけ。そんなの……」
声が尻切れになっていく。個室に美智子の上がった叫びだけが残っていた。
男が静かに携帯を取り出す。コールが一度なり、繋がった。
「村井組か。現部連合会の白石だ。組長の妻がうちの若頭の方を殴った。構想開始だ。組として今すぐ返答を」
それだけ告げて、通話を切る。男の言葉が、村井組の事務所に届いた。
美智子の目が見開かれる。彼女も夫に電話をかけているようだった。
「おかしい。出てよ。出てよ」
コール音が続く。一度切って、かけ直した。また出ない。何度かけ直しても、夫は出なかった。
「ご主人は今頃、通達の返答を迫られていらっしゃる。妻の電話どころではないはずです」
美智子の強気な声に、初めて亀裂が走った。コール音が美智子の手の中で鳴り続けている。
「嘘よ。うちの人が……」
指先の血の気が引いていく。
「待って。ちょっと待って」
もう言葉が出ない。
美智子がまだ何かを言おうとしていた。個室の窓際に目を向けながら、私は静かに口を開いた。
「美智子さんの娘のみさきと、私の娘の桜は、同じクラスだった。母親同士が揉めれば、娘たちの間にも火が飛ぶ。桜が孤立するのだけは、どうしても避けたかった」
ただ、静かな娘の顔だけを思い浮かべていた。笑ってご飯を食べるあの顔を。
「言葉だけなら、桜のために我慢できた。侮辱も嘲笑も、全部飲み込んできた。でも、あの日まで極道の力は使われていなかった」
左の頬がまだ熱を持っている。
「組長の妻が、人の顔を拳で打つ。調子に乗らせれば、私だけじゃない。こういう場で出会う普通の母親たち。子供を連れてここに来るような人たちまで、次の標的になる」
個室が静まり返った。正体はバレてしまう。それでも向こうが極道の力で来た以上、こちらも極道の言葉で返す。だから構想を口にした。
男はずっと黙ったまま立っていた。組織の刃として来た男に、こういう場面の言葉はない。個人として拳を振ることはなかった。組織の言葉で落とし前をつける。殴り返しではない。それだけだった。
私は立ち上がった。
「組長と合わせて」
男が短く頷く。美智子はまだ何か叫んでいる。夫に説明するそぶりは見せない。
個室を出ると、廊下で私の携帯が開く。
「組長の妻が、現部連合会の若頭の顔を殴っている。若頭として、早朝の前に出頭せよ」
男がその日と場所を告げた。出頭先の手配は、すでに男が整えていた。
出頭通達の届いたその夜、村井は帰宅するなり美智子を問い詰めた。
「お前、何をした?」
「ママ友の悪口よ。それだけよ」
「それだけで済む話じゃない。お前のせいで、現部連合に構想を宣告されたんだぞ」
美智子の視線が揺れ、それから声が落ちていく。
「だって、あの人、パートの貧乏人だと思ったんだもの。本当に若頭なの? 若頭まであそこに行ったの? 信じられない。出頭通告が届いているの? 本当に若頭に手を出したのか?」
「分からなかった。知らなかったのよ」
出頭通達から数日後、出頭を命じられた一室で、村井が正面から頭を下げていた。あの室にいた地味な母親。その姿が今、向かいに座っている。私が若頭だと知った今、その顔から強がりも虚勢も消えていた。
額に油汗が滲み、手が膝の上で震えている。出頭の場で、村井は妻を問い詰めていた。
「妻の暴言が、全ての引き金を引いていました。今回はうちの組がとんでもないことを。本当に申し訳ございません。なんとかお許しを。どんなけじめでもします」
腕に力が入らず、手が床につきそうだった。
「この件は妻が独断でやったことで、指示では一切ございません」
「組長の妻が、うちの若頭の方を殴った。言い訳は要りません。返答してください」
「そ、それは妻が勝手にやったことで、私は聞いていませんでした。白石さん、どうか」
私はその姿を黙って見ていた。私の口調は事務的で、一言一言が力の差として落ちていた。
「あなたの組が、商売をできているのは、うちの島を借りているからだ。その意味は、分かっているはずだ。若頭は、その許しを取り消すと決めた」
「そ、それは。組員が何人もいるんです。みんな今日までその商売で食ってきた人間です。家族もいる。この先、どうやって食わせるんですか? 立っていけなくなるんです」
「これまでの取引も、本日付で全て停止だ。これ以上、うちの島で動くことはない」
「お、お待ちください。まだ新集会には話を通せていない。せめてそちらだけは」
「新集会にも、すでにこの件は通達済みだ」
村井の目が揺れた。現部への返答は済ませた。出頭も取引停止も受け入れる覚悟で、ここに来た。それでも足りないのか。
「組として、けじめをどうつけるか。問われているのは、あなた自身です」
「うちの組員がどうなるんですか? 組員たちは何も知らない」
返事が帰ってこない。私は急がなかった。一言ずつ置くように言う。問い詰めも脅しもない。それが余計に重かった。
村井の体がゆっくりと沈んでいく。かつて妻が笠に着ていた看板が、音もなく崩れた。床に両手をつき、額を垂れる。声を絞り出すように、また頭が下がった。
肩が落ち、言葉が出ない。商売も、取引先も、妻が騙っていた後ろ盾も、組員の行き先も。今、全てが消えていく。床についた両手が、小刻みに震えている。
「も、申し訳ございません。なんなりと……」
顔をあげられない。私は静かに村井を見下ろした。
「構想開始と、奥さんに伝えてと言ったはずです。これが、その答えですよ」
「妻が愚かなことを……」
返す言葉がなかった。
「以上です」
出頭から数日後のことだ。美智子が一人、電話に手を伸ばしていた。
「ちょっと聞いてくれる? ひかりさんって、ただのパートだと思ってたけど、とんでもない人だったの。うちの人にまで手を回して、私の家庭をめちゃくちゃにしようとしてるの。商売にも口出してきて、本当に怖くて。こんなこと、あなたにしか話せなくて」
声を震わせながら、美智子はママ友会の母親一人ずつに連絡を入れていた。
「ちょっと待って。本当の話? 美智子さんがそんな目に遭ってるなんて。一体何があったの? ひかりさんって、そんな人に見えなかったけど」
「本当よ。私が先に手を出したって言われてるけど、向こうが先に挑発してきたのよ。あんな言い方をされて、誰でも我慢の限界が来るわ。私だってずっと耐えてきたのに。でも誰も信じてくれない。私だけが悪者にされて、本当に理不尽だと思わない?」
「そうは言っても美智子さん、あの日のこと、私も覚えてるけど、なんか違くない? あんな執念深い女、これ以上付き合っちゃだめよ。あなたにも、うちの家族にも、何かしてくるかもしれない」
「こんなこと、もう誰にも話せなくて。お願いだから私の味方になって。ずっと仲良くしてきたじゃない。これだけ頼んでるのに、あなただけは信じてくれると思ってた」
すぐには返事が来ない。美智子は電話を切らず、次の母親の名前を探していた。
「美智子さん、正直に言っていい? 先に手を出したの、美智子さんの方じゃなかった? 私、あの日、個室にいたのよ。みんなの前であなたが手を出すのを見てたわ」
一人がそう言った。
「え? あれは、あの女が先に挑発してきたから。向こうが悪いのよ」
「美智子さんのことが嫌いなわけじゃないけど、本当のことを言うと、ずっと我慢してきたの。今回のことは、あなたが悪いと思う。もう付き合えない。ごめんね」
「嘘でしょ? あなたまで、そんなこと言うの? 何年の付き合いだと思ってる?」
「だからこそ、今まで言えなかったのよ。ずっとね」
黙っていた別の声も続いた。
「なんでみんな、そんな言い方するの? 私だって辛かったのよ。ずっとあなたたちのために無理してきたのに。助けてくれないなら、もういい。どうせ私が悪者なんでしょ」
「あの日、個室にいたでしょ。みんな見てたのよ。誰が先に手を出したか。ひかりさんが一言も言い訳しなかったことも。なのに美智子さんは、まだ向こうのせいにしてる。もう誰もあなたの味方なんかいないわ」
いつも最後まで笑って頷いていた一人も、電話を切っていく。今まで従ってきたママ友たちが、席を立ったように一人また一人と離れていった。美智子の声だけが、返事のない空白に落ちていく。
その頃、私はまだ知らなかった。美智子が自ら、最後の居場所を手放したのだ。
新集会の裁断が下ったのは、間もなくのことだった。村井組の事務所に、静かに男が一人入ってくる。
「村井組長。新集会からの裁断を今日、伝達します。現部連合から構想の通達が入っている。その件について、組長として話を聞かせてもらいたい」
テーブルの上に、封筒に入った書類が静かに置かれた。
「お前の妻が別組織。現部連合会の若頭の頬を殴り、他組織に構想を持ち込んだ。その件について、新集会として判断を下した」
村井が書類を手に取り、ゆっくりと開いた。指先が震えている。額に油汗がにじみ、喉から声が出ない。
「これは、破門ですか? 首事ですか?」
「新集会は許さない。破門だ」
「お待ちください。今まで新集会のために、何十年と尽くしてきたじゃないですか。なのに今更、切り捨てるんですか? 組員が何人もいる。みんな私についてきた人間です。それなのに、見捨てるんですか?」
「現部連合会を敵に回すことは、新集会にはできない。村井組の組長の妻が、別組織の若頭に手を出した。その責任は、組として取ってもらう。それ以外の話は聞かない」
「組員にはまだ知らせていない。妻の所行で、組の指示では一切ないんです。組員たちは、長年この組を支えてきた者たちです」
「組員には関係ない。妻が独断でやったとしても、組長の妻がやったことだ。組として向き合う話だ。個人の問題ではない。それ以上でも、それ以下でもない」
「現部の方には出頭も済ませました。頭も下げた。取引停止も受け入れた。それだけの覚悟で、ここに来たのに。新集会だけは、組だけは……」
声が震えながら、額の汗を拭く手が止まる。
「現部への返答と、新集会の裁断は別だ。現部との話をいくらやっても、それは新集会とは関係ない。うちは、うちで決める」
「妻は、相手が誰か知らなかったんです。本当に知らなかった。私も、何も聞かされていなかった」
「妻の独断で、私には関係ない。組だけは……」
「言い訳は聞かない。何年尽くしてようと、新集会の答えは変わらない。これが新集会の裁断だ」
使者が立ち上がった。書類はテーブルに残したまま、男が扉へ向かっていく。
「看板は、本日付で下ろされます」
扉が閉まり、事務所に静けさが落ちた。テーブルに書類だけが残り、村井は動けないでいる。組員たちが、音もなく外へ出ていく。足音が廊下から店先へと移った。
店先の看板の前に、男たちが集まる。白い布が広げられ、村井組の文字の上に静かにかけられていく。一文字ずつ、白で覆われた。布の端を押さえながら、組員が顔を伏せている。誰も口を開かない。
組員の一人が、黙って布の前に立つ。看板が白布に覆われた。組の看板が、今日で消える。
村井の膝が折れ、床に手がついた。体を起こす力が残っていない。そのまま、動けなかった。
知らせを受けて数日後、男が来た。いつもの黒いスーツで、いつもの短い一礼をする。静かな部屋に、男の足音が止まった。
「若頭、新集会から知らせが入りました」
次の言葉を、静かに整えている。一拍の間があった。
「村井組を切った。これで構想は、ここまでです。現部連合として、これ以上動く必要はありません」
男の口調は事務的で、声は低く、荒げない。私へ視線を向け、一呼吸置く。
「分かった」
一呼吸置いて、また口を開く。
「これ以上、部は動かさないわ」
男が深く頭を下げる。
しばらく、誰も声を出さなかった。男はまだ頭を下げたまま、待っている。私の視線が、その背にとまる。一度息を吐く。男の背を見たまま、言葉は出てこない。部屋に、静かな間があった。窓の外から、低い街の音だけが届く。
後日、風の噂で聞いた。村井一家は、遠い土地でひっそりと暮らし始めたらしい。美智子が夫から破門を聞かされた夜、言葉を失ったという。高級レストランも、ブランドのバッグも、人に持て囃される立場も。全ては夫の看板があってこそのものだった。
その看板が、白で覆われた。美智子は誰にも告げず、子供を連れてその町を出ていく。月例ランチの席に、彼女の名前はもう載っていない。保護者の連絡網からも、その名前が消えていた。
かつて組長の妻として母親たちの上に君臨し、人の貧しさを嘲笑った女。高級レストランで人の頬を打ち、「パートの貧乏人」などと吐き捨てていた女は、もうどこにもいないという。
自業自得。それ以外に言うべき言葉はない。
人を見下す者は、いつか自分が見下される側に回る。力を笠に着る者は、より大きな力の前で崩れ落ちる。
私はもう、彼女のことを思い出すこともない。ただ静かに、いつもの日常へと戻っていった。
今日も私は、パート帰りに値引きシールの貼られた青果を手に、家路に着く。
「ただいま」
玄関を開けると、娘がいつものように笑顔で駆けてきた。今日は学校のテストでいい点が取れたらしく、答案を嬉しそうに見せてくる。点数の丸がついた答案用紙が、娘の手の中で揺れていた。
「すごいじゃない」
娘の頭を撫でると、くすぐったそうに笑った。二人で小さな食卓を囲み、湯気の立つ味噌汁をすする。
何でもないけれど、何よりも温かい時間。組織のことも、あの日のことも、この食卓には何ひとつ持ち込まない。
娘の笑顔を守れること。私にとっては、それが全てだった。



