温泉旅行のチケットを差し出した夫の笑顔に、私は胸が温かくなるのを感じていた。結婚して三十年。家事を手伝ったこともなく、私の誕生日すら忘れるような夫からの、突然のプレゼント。以前から私が行きたいと言っていた伊豆の高級旅館の宿泊券だった。
「たまにはゆっくりしな。お前ももうすぐ還暦だろ。これまで苦労をかけたと思ってな」
不器用な夫なりの精一杯の感謝の印なのだと、私はその言葉を素直に信じた。しかし、この時の私はまだ知らなかった。夫の笑顔の裏に隠された、身の毛もよだつ冷酷な契約に気づいていなかった。
数日後、私は夫に見送られ、期待と少しの不安を抱えながら家を出た。駅の改札で見せた夫の穏やかな笑顔が、私に向けられた最後の夫としての顔になるとは、夢にも思っていなかった。
電車に揺られ、熱海を過ぎたあたりで、私は重大なことに気づいた。鞄の中をいくら探しても、持病の薬と、長年肌身離さず持っていた大切な日記が見当たらない。幸い、まだ家を出て一時間も経っていない。今戻れば、次の電車に乗っても旅館には間に合う。私は予定を変更し、家に戻ることにした。それが、私の運命を決定づける真実の扉を開くことになるとも知らずに。
自宅の最寄り駅を降り、足早に家へと向かう。ガレージには、見慣れない派手な赤い軽自動車が停まっていた。そして二階の寝室の窓からは、聞き慣れない女性の甲高い笑い声が漏れてきた。心臓の鼓動が一気に早くなる。嫌な汗が背中を伝った。
息を殺し、音を立てないように玄関の鍵を開ける。廊下には、脱ぎ捨てられた見知らぬ赤いハイヒール。そして、リビングから聞こえてきたのは、夫の声だった。
「今頃は、のんびり温泉に使ってるぜ。まさか自分が捨てられる準備をされてるなんて、これっぽっちも思ってないだろうな」
その言葉を聞いた瞬間、私の世界は音を立てて崩れた。夫の口から発せられたのは、三十年の歳月を粉々に砕く、残酷な裏切りの言葉だった。震える手でスマートフォンの録音ボタンを押し、一歩、また一歩とリビングへ近づいた。
リビングのドアを僅かに開け、中を覗き込む。そこにいたのは、夫の健二と、私の娘ほども年の離れた派手な女。女は私のエプロンを身につけ、我が者顔でキッチンに立ち、健二のために菓子を作っている。健二は、私には一度も見せたことのないような、蕩けるような笑顔でその女を見つめていた。
「健二さん、本当に大丈夫なの? 奥さん、明日には帰ってきちゃうんでしょ」
女が甘ったるい声で訪ねると、健二は鼻で笑った。
「大丈夫だって。あの鈍感な女が気づくはずがない。今頃、のんびり温泉に浸かって、高い料理でも食ってるさ。それが人生最後の贅沢になるとも知らずにな」
「人生最後の贅沢」。その不穏な響きに、私は目眩を覚えた。健二はビールを煽りながら、吐き捨てるように続ける。
「お袋の介護も終わって、やっと俺も自由になれると思ったんだ。なのにあいつと来たら、次は自分の老後の心配ばかりしやがって。介護なんて嫁の義務だろう。それを恩着せがましく、正直あいつの顔を見るのも嫌なんだ。ジジくさい顔で『お疲れ様』なんて言われると、ヘドが出る」
私は三十年間、どんな思いでこの家を守ってきたのか。熱を出して寝込んでいる時も、健二は「俺の飯はどうするんだ」と怒鳴る人だった。それでも、いつか分かり合える日が来ると信じてきた。この温泉旅行の誘いも、ようやくその日が来たのだと信じていた自分を、今すぐ殴ってやりたい衝動に駆られた。
「でも、離婚するって言っても、簡単にはいかないでしょ。慰謝料とか財産分与とか」
女の言葉に、健二は卑劣な笑みを浮かべた。
「そんなもの、一円も払うつもりはないさ。あいつは専業主婦だぞ。この家も貯金も、全部俺が働いて稼いだ金だ。あいつには一切の権利もない。それどころか、あいつが大事に溜め込んでる貯金も、全部俺の名義の口座に移しておいた」
私は耳を疑った。私が結婚当初からパート代や食費を切り詰めてコツコツと貯めてきた、あの口座のことだろうか。それは、万が一健二に何かあった時のため、あるいは二人の老後のためにと準備していた、大切な資金だった。通帳と印鑑は、一番上の引き出しに隠していたはずだ。
「じゃあ、この家も私の好きにしていいの?」
「ああ、あいつが旅行から帰ってくる頃には、鍵も全部変えてある。荷物は全部、三日で退去できるボロアパートに送り付けてやるさ。あいつには、せいぜい一人で孤独死してもらうのがお似合いだよ」
健二と女はグラスを合わせて笑い合った。その笑い声が、耳の奥で不快な耳鳴りとなって響く。怒りで体が小刻みに震え、今すぐドアを蹴破って怒鳴り込みたい衝動に駆られた。しかし、私は必死に自分を抑えた。ここで感情を爆発させても、何の解決にもならない。健二はきっと「お前が勝手に帰ってきたのが悪い」と逆切れし、私を力づくで追い出すだろう。そうなれば、私は何の準備もないまま路頭に迷うことになる。
私は深呼吸をし、静かに、音を立てずにその場を離れた。幸い、健二たちは酒と会話に夢中で、私の存在に全く気づいていない。玄関に置いてあった自分の鞄を掴み、外に出る。外の空気は冷たく、火照った頬を刺すようだった。
私は暗い夜道を歩きながら、冷徹なまでに冷静になっていく自分を感じていた。健二、あなたは大きな間違いを犯した。私がただの従順な妻だと思っていたのなら、それは大間違いよ。私は、健二が知らない秘密を、いくつも持っている。彼が奪ったと思っている貯金についても、彼が知らない事実がある。絶対に、ただでは済ませない。私は暗闇の中で一人、そう誓った。
翌日、私は予定通り温泉宿にチェックインするふりをする。でも、その間に私がやるべきことは、のんびり湯舟に浸かることではない。私はスマートフォンの連絡先を開き、ある人物に電話をかけた。
「もしもし、お久しぶりです。実は、お願いしたいことがあるんです」
電話の相手は、健二が最も恐れ、そして最も会いたくないであろう、あの人物だった。
「随分と楽しそうね、健二さん」
私の声がリビングに響いた瞬間、空気は一瞬で凍りついた。ソファにふんぞり返り、女に肩を揉ませていた健二が、まるで糸の切れた操り人形のように動きを止める。女の方も、手に持っていたビールの空き缶を床に落とした。
「お、お前、なんでここにいるんだよ。旅行に行ったんじゃなかったのか」
私は震える足を必死に地面に踏みしめ、一歩、また一歩と部屋の中へ入った。キッチンのカウンターには、私が大切にしていたブランドのカップが置かれ、中には安っぽい香りのついたコーヒーが入っている。その横には、私が毎日磨き上げていたシンクに、汚れた食器が乱雑に積み重なっていた。たった数時間家を空けただけで、私の愛した場所は、土足で踏みにじられたような状況に変わっていた。
「忘れ物をしたのよ。持病の薬と日記。でも、戻ってきて正解だったわね。まさか家の中で、こんな盛大なパーティーが開かれているとは思わなかったわ」
私の皮肉に、健二はようやく我に返ったようだった。彼は焦りを隠すように、わざと大きな声で怒鳴り始めた。
「ふん。バレちまったもんは仕方ねえな。そうだよ、見ての通りだ。こちらはリカちゃん。俺の新しいパートナーだ。お前みたいな古臭い、愛のない女とはおさらばなんだよ」
健二の隣に座る、リカと呼ばれた女は、私の視線に気づくと、これ見よがしに健二の腕にしがみついた。
「やだ、健二さん、怖い。この人が奥さん? 写真で見るよりずっと、その、お疲れっていうか、おばあちゃんみたい」
女の言葉に、健二は鼻で笑った。
「だろう? 家の中じゃ、いつもボロみたいな格好して、暗い顔して掃除ばかりしやがって。お前と一緒にいると、こっちまで滅入るんだよ。せっかくの温泉旅行も、俺がお前を追い出すための準備期間として用意してやったんだ。ありがたく思えよ」
私は何も言い返さず、ただじっと健二を見つめた。怒りを通り越し、深い悲しみと、そして言葉にできないほどの軽蔑が胸のうちに広がっていく。三十年間、この男のために尽くしてきた日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。それでも彼には良いところもある。家族のために働いてくれているのだからと、自分に言い聞かせて耐えてきた。その結果が、これだ。
「本気なのね。私を追い出して、その人とここで暮らすつもり?」
私の静かな問いかけに、健二は立ち上がり、私を指差して叫んだ。
「本気に決まってるだろう! 離婚届ならもう用意してある。お前の署名なんていらないんだよ。勝手に出しておいてやるからな。それから、この家の鍵も明日には変える。お前の荷物は全部ゴミ袋に詰めて、表に放り出しておいてやるよ」
「この家は、二人でローンを払って建てた家よ。私にも権利があるわ」
「権利? 笑わせるな。ローンを払ってきたのは俺だ。お前はただ、俺の稼いだ金で飯を食わせてもらっていた寄生虫だろうが。専業主婦が何を偉そうに。お前が家でダラダラしている間、俺がどれだけ外で頭を下げて働いてきたと思ってるんだ」
「まあまあ、健二さん、そんなに怒らなくても。このおばさん、もうすぐ行くところがなくなるんだから、かわいそうじゃない」
リカがクスクスと笑いながら言った。
「ねえ、おばさん。健二さんから聞いたわよ。貯金も全部、健二さんの口座に移したんだって。今騒いでも無駄よ。法律的にも、夫婦の財産は旦那さんのものなんでしょ。世間知らずって怖いわね」
「分かったわ」
私は短く答えた。健二が、面食らったような顔をする。もっと泣き叫んで、すがりついてくると思っていたのだろう。
「離婚には応じます。今日、このまま出ていくわ」
「ほ、ほう。話が早くて助かる。さすが、長年俺の顔色を伺ってきただけはあるな。分かればいいんだよ。分かれば、お前みたいな価値のない女は、どこへでも消えちまえ」
健二は勝ち誇ったように、私の顔の前に離婚届を叩きつけた。
「ほら、さっさと名前を書け。それで今すぐ、その薄汚い顔を俺の前から消せ。二度とこの敷居を跨ぐなよ」
私は無言でペンを手に取り、名前を書いた。手は震えていない。むしろ驚くほど冷静だった。
「これでいいんでしょ? 満足?」
「ああ、清々したぜ。さあ、荷物をまとめて出ていけ。門限は五分後だ」
私は二階へ上がり、あらかじめ用意しておいた小さな旅行鞄を手に取った。本当の忘れ物は、薬や日記だけではなかった。一階に降りると、健二は玄関先で私の靴を外に放り投げようとしていた。
「おい、早くしろよ。ゴミ収集者が来る前に、片付けてやりたいんだからな」
私は健二の横を通り抜け、玄関のドアの取っ手を掴んだ。そして最後に一度だけ振り返り、彼らを見つめた。
「健二さん、一つだけ忠告しておくわ。あなたは自分が何を手放したのか、まだ分かっていないみたいね」
「ああ? 負け惜しみかよ。みっともねえな。さっさと消えろ」
私は夫が投げつけた言葉を背中で受け止めながら、夜の町へと踏み出した。冷たい夜風が、私の決意をさらに固くさせる。健二、あなたが奪ったと思っている貯金。そして、あなたが寄生虫と呼んだ、私の本当の姿。それを知った時、あなたがどんな顔をするのか。今から楽しみで仕方がないわ。
私は暗闇の中で静かに微笑んだ。手元のスマートフォンが、一通のメッセージを受信して光る。それは、先ほど電話した、ある人物からの「作戦開始」の合図だった。
私は鞄の中から、夫に奪われた通帳とは別の、一冊の古い通帳を取り出した。それは、私の実家で母から密かに受け継ぎ、私自身がある才能を使って大きく育ててきた、資産の記録だった。健二は知らない。彼が毎日会社で上司にごまをすり、愚痴をこぼしている間、私が自宅のパソコン一台で、彼の年収の数倍もの利益を上げ続けてきた投資家であることを。そして、彼が奪った貯金用口座は、彼を油断させるためにあえて置いておいた、餌に過ぎないということを。
私は再びスマートフォンを取り出し、メッセージを送った。
「準備は整いました。明日、予定通り彼を追い詰めてください」
すぐに返信が来た。
「承知いたしました。あちらの銀行の担当者とも、話をつけてあります。明日の朝、彼が銀行のATMへ行った瞬間、絶望が始まるでしょう」
私は暗い夜道を歩き始めた。向かう先は、温泉宿ではない。この町で最も高級なホテルのスイートルーム。そして明日の朝、私が再会するのは、健二が最も恐れる、彼の会社の最大株主。
夜の町は、昼間の賑わいが嘘のように冷え切っていた。私は近くのビジネスホテルのロビーに座り、震える手で温かいコーヒーを握りしめていた。高級ホテルへ向かう前に、どうしても一度、心を落ち着かせる時間が必要だった。三十年。私の人生の半分以上を、あの家で、あの男のために捧げてきた。それなのに、彼にとって私は「価値のない女」でしかなかった。
不意に涙がこぼれそうになり、私は慌てて上を向いた。泣いてはいけない。ここで泣いたら、健二の思うつぼだ。そう自分に言い聞かせていると、バッグの中でスマートフォンが激しく震え始めた。画面を見ると、健二からの着信だ。無視しようかと思ったが、あまりにしつこく鳴り続けるため、私は覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「何かしら」
「おい、まだこの町に居やがるのか。GPSでお前の居場所は分かってるんだぞ」
健二の怒声がスピーカー越しに突き刺さる。
「何言ってるの? 離婚届にはサインしたはずよ」
「ふん。あの後な、お前の部屋を片付けてやったんだよ。そしたら出るわ出るわ、ゴミの山がな」
健二の背後で、あのリカという女の、うわずった笑い声が聞こえる。
「お前が大事に持ってた、あの薄汚い木箱。あれ? なんだ? 中に安っぽい着物やら手紙の束が入ってたが、あんなもん、この家に置いとくだけで運気が下がるんだよ。さっき全部、庭の焼却炉に放り込んでやったぜ」
心臓が、ドクンと大きく波打った。その木箱には、亡くなった私の母が、私が嫁ぐ時に持たせてくれた着物と、二十年前に亡くなった父からの手紙が入っていた。私が辛い時、苦しい時、何度も読み返しては心の支えにしてきた、世界でたった一つの宝物。
「やめて! あれだけは返して。お願い、健二さん!」
「わははは、遅えな。お前みたいな教養のない女には、ゴミがお似合いなんだよ。ああ、もう手遅れだ。今ちょうどいい具合に燃え上がってる。お前の思い出も、親の形見も、全部灰になって消えていくんだ。清々するぜ」
「そんな……嘘でしょう」
膝の力が抜け、私はその場にへたり込んでしまった。物としての価値は高くないかもしれない。でも、そこには両親の愛が、私の生きてきた証が詰まっていた。それを、この男はこれっぽっちの躊躇もなく燃やした。私の心の一部が、真っ黒に焼け焦げていくような感覚に襲われた。
「それからな、もう一つ教えてやろう。子供たちには、さっき連絡しておいたぞ。『お母さんが若い男と駆け落ちして、家のお金を持って逃げた。俺は被害者だ』ってな。娘もお前を軽蔑してたぜ。『信じられない。最低だね』ってよ」
「嘘よ。子供たちがそんなこと信じるはずがないわ」
「信じるさ。だって、お前は今夜中に家を出て、どこぞのホテルに泊まってるんだろう。証拠は十分だ。お前にはもう、戻る家も、帰りを待つ家族も、一通の手紙さえ残っちゃいないんだよ。文字通り、お前は全てを失ったんだ」
健二の言葉は、残酷な宣告だった。住む場所を奪われ、財産を奪われ、ついには最愛の子供たちからの信頼と、両親の形見までをも奪い去られた。私は暗い闇の底に、たった一人で突き落とされたような絶望感に包まれた。
「あ、そうそう。お前が使ってた携帯の家族プランも、明日には解約してやる。ネットも電話も使えなくなって、社会からも抹殺されるんだ。せいぜい、死ぬまで孤独を楽しめよ。じゃあな、ゴミババア」
という、無機質な電子音が響き、通話が切れた。私は震える手でスマートフォンを握りしめ、しばらく動くことができなかった。悔しくて、悲しくて、情けなくて。歯を食いしばっても、涙がポロポロと溢れ出して止まらない。
「お母さん、お父さん、ごめんなさい。守りたかったものを、何一つ守れなかった」
三十年間、私は一体何をしていたのだろう。こんな男を信じ、支えてきた自分自身が、たまらなく愚かに思えた。ふと見ると、ロビーのテレビではニュースが流れていた。地元の経済会のニュース。そこには、健二が務める会社の社長が、どこかの投資家と握手をしている姿が映っていた。
その映像を見た瞬間、私の脳裏に、母の最後の言葉が蘇った。
「人間は、全てを失った時こそ、その人の本当の価値が問われるんだよ。あなたは私の子。何があっても、自分を信じることをやめちゃいけないよ」
そうだ。私は、ただの専業主婦じゃない。母が残してくれた知恵と、私が自らの手で築き上げてきた力は、誰にも奪うことはできない。私は立ち上がり、手の甲で乱暴に涙を拭った。鏡に映る自分の顔は青白く、ひどくやつれて見える。でも、その瞳の奥には、まだ消えていない小さな炎が灯っていた。
私は鞄の中から、一通の封筒を取り出した。それは、健二がゴミだと称して捨てようとした書類の中に、紛れ込ませておいた、私の真実を証明する書類の一部だった。そして、私は先ほどとは別の番号へ、電話をかけた。
「私です。予定を早めます。明日の朝、彼が銀行へ行く前に、全ての口座を凍結してください。それから、例の株主提案を、社長の直通で入れなさい。ええ、遠慮は入りません。徹底的に、根こそぎ奪い取ってください」
電話を切った私の顔には、もう涙はなかった。あるのは、冷徹までの決意だけ。健二、あなたが燃やしたのは、私の過去かもしれない。でも、私が今から燃やすのは、あなたの未来そのものよ。子供たちへの嘘も、私への侮辱も、全部倍にして返してあげる。
私はホテルを出て、夜の町へと踏み出した。今度こそ、私が本来いるべき場所へと向かうために。私がたどり着いたのは、市内でも一際目を引く、外資系の超高級ホテルだった。泥のついた鞄を持ち、安物のコートを着た私の姿は、キラビやかなロビーでは明らかに浮いていた。しかし、フロントに向かう私の足取りに、迷いはない。
「いらっしゃいませ。失礼ですが、ご予約は……」
若いスタッフが、少し困惑したような表情で私を見た。無理もない。今の私は、家を追い出されたばかりの惨めな女性にしか見えないだろうから。私は黙ってバッグから一枚のブラックカードを取り出し、カウンターに置いた。それを見たスタッフの表情が、一瞬で凍りついた。
「大変失礼いたしました。一ノ瀬様。お待ちしておりました」
スタッフは深々と頭を下げ、すぐさま奥から支配人を呼び寄せた。
「一ノ瀬様、お久しぶりでございます。本日もスイートルームをご用意しております」
「ありがとう。急な予約で、済まないわね」
私は「一ノ瀬」という姓を名乗り、案内されるがまま、最上階の部屋へと向かった。健二の妻として生きる「佐藤静」ではなく、投資家として、そしてある資産家の娘としての「一ノ瀬静」に戻る瞬間だった。
広い部屋に入り、私はようやく深く息を吐いた。窓の外には、健二とあの女がいるであろう、あの町の夜景が広がっている。健二は、私のことを「中卒の親に育てられた教養のない女」と侮辱した。確かに、私の父は学歴こそなかった。だが、一台でこの町の基幹産業を支える会社を築き上げた、稀代の相場師でもあった。私は幼い頃から父の膝の上で新聞の経済欄を読まされ、数字の裏にある人間の欲と時代の流れを読み解く術を叩き込まれてきた。
二十五年前、父が亡くなった時、私は父から莫大な遺産と、それ以上に価値のある投資のノウハウを受け継いだ。しかし、その当時の私は若く、愛する人との穏やかな家庭を何よりも優先したいと願っていた。「俺がこの家を支える。お前は家で笑っていればいい」。新婚当時の健二が言ってくれた、その言葉を、私は純粋に信じてしまった。だから、私は自分の資産を隠した。健二に余計な劣等感を与えたくなかったし、何より、お金で繋がる夫婦ではなく、心で繋がる夫婦でありたかった。
私は、いつも通りの主婦を演じ続けた。スーパーの特売に並び、夫の少ない小遣いのやりくりに頭を悩ませるふりをして。でも、その裏で私は、父から受け継いだ資金をもとに、着実に資産を増やし続けてきた。十年前、健二の務める会社が倒産の危機に瀕した時があった。「もうだめだ。俺の人生は終わりだ」と家で酒を煽り、泣き言を言っていた健二。その時、匿名で多額の出資を行い、会社を救った謎の投資家が誰だったのか、健二は今も知らない。その投資家こそ、私だったということも。
私はデスクに置かれたノートパソコンを開いた。画面には、健二の銀行口座の動きがリアルタイムで表示されている。彼は今、リカという女と一緒に高級ワインを開けて、祝杯を上げているようだ。クレジットカードの利用履歴が、次々と更新されていく。高級ブランド店、六本木のバー、そして宝石店。私の貯金を、そんなことに使っているのね。健二が自分のものだと思い込んで奪った三千万円。それは、私が健二を試すために、あえて置いておいた餌だった。あの口座の管理権限は、実はすでに私の弁護士が握っている。彼が使っているそのカードも、明日の朝にはただのプラスチックの欠片に変わる。
その時、部屋のチャイムが鳴った。
「失礼いたします。一ノ瀬様。工藤でございます」
部屋に入ってきたのは、シャープなスーツに身を包んだ、知的な雰囲気の女性だった。彼女は工藤弁護士。私の父の代からの、私の資産管理を任せている、信頼できるパートナーだ。
「工藤さん、夜分に悪かったわね」
「いいえ。顔色が少し悪いようですが、どうされました?」
工藤弁護士の鋭い目が、私の頬の赤みに気づいた。健二に突き飛ばされた時に、ぶつけた跡だ。
「なんでもないわ。それより、準備はいいかしら」
「はい。佐藤健二氏に対する横領及び不当な財産差し押さえの証拠は、全て揃いました。それから、奥様が気にされていた、あの件についても」
工藤弁護士は、一通の調査報告書をテーブルに置いた。そこには、健二の愛人であるリカの正体と、彼女が健二に近づいた真の目的が、詳細に記されていた。
「なるほど。そういうことだったのね」
報告書を読んだ私の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。健二は、自分を愛してくれる若い女を手に入れたつもりでいる。でも、実際には、彼は私以上に残酷な蛇に狙われていたのだった。
「静さん、本当によろしいのですか? このまま手続きを進めれば、佐藤さんは社会的地位も財産も、そして自由も、全て失うことになります」
工藤弁護士の問いに、私は窓の外を見つめながら答えた。
「ええ。彼は私の両親を侮辱し、形見を燃やした。それは、私の魂を殺そうとしたのと同じことよ。慈悲なんて、もう一滴も残っていないわ」
私は工藤弁護士に、最終的な指示を出した。
「明日の朝、彼が会社の取締役会議に出席したその瞬間、全ての真実を突きつけて。彼が、自分が下に見ていた無能な妻の正体を知った時の顔を見るのが、楽しみだわ」
その時、私のスマートフォンに一通のメールが届いた。それは、健二が偽りの情報を流して味方につけたはずの、私の娘からだった。
「お母さん、ごめんなさい。お父さんの言ってること、どうしても信じられなくて、隠れて調べてみたの。お母さん、今どこにいるの? 助けて。お父さん、大変なことをしようとしてる」
娘からの必死の叫び。私は娘に返信しようと指を動かしたが、太手を止めた。健二、あなたはまだ知らない。あなたが最後にすがろうとしている絆さえも、すでにあなたの身勝手な嘘によって、崩壊し始めていることを。
朝。私が滞在するホテルのスイートルームに、朝日が眩しく差し込んだ。ふかふかのベッドの上で、私は一度も目を覚ますことなく、ぐっすりと眠っていた。三十年間、あの家で、いつ健二が怒鳴り始めるかと神経を尖らせていた日々が、いかに異常だったかを改めて痛感する。
一方で、自宅であるはずの場所では、残酷な宴の続きが繰り広げられていた。工藤弁護士が手配した調査員からの報告が、私のタブレットに次々と送られてくる。
「健二さん、すごい。この時計、本当に私にくれるの?」
リビングでは、リカが健二から送られた高級ブランドの腕時計を掲げてはしゃいでいた。
「ああ、お前に似合うと思ってな。あいつから奪った貯金に比べれば、こんなのは可愛いもんだよ」
健二は、まだ朝の十時だというのにビールを片手に、高笑いしている。しかし、健二の傲慢は、私の想像をはるかに超える方向に暴走し始めていた。彼はリビングに、派手なスーツを着た見知らぬ男を呼びつけていたのだ。男の名は、悪名高い不動産ブローカーの金子。
「それで佐藤さん、この家と土地、本当に今すぐ売りに出してよろしいんですか?」
「ああ、構わん。どうせあいつを追い出したんだ。未練なんて一ミリもねえ。さら地にして売るなり、好きにしろ。ただし、一週間以内に手付け金として一千万円は用意しろよ」
健二は、私たちが三十年かけて守ってきたこの家を、私の同意もなしに勝手に売却しようとしていた。さらに驚くべきことに、彼はこの土地が私の実家から相続した私有財産であることを、完全に無視していた。登記上の土地の名義は、一ノ瀬静、つまり私のものだ。しかし、健二は自分が世帯主であり、ローンを払っている以上、全てを自分の意思で処分できると信じ込んでいた。
そこへ、一人の女性が飛び込んできた。私の娘、真紀だ。
「お父さん、何してるのよ、これ!」
真紀は、庭に散らばった私の荷物や、黒焦げになった思い出の品の残骸を見て、肩を震わせていた。
「お母さんはどこ? 駆け落ちなんて嘘でしょ。お母さんがそんなことするはずない」
「うるさい! 親に向かって、その口の聞き方は何だ?」
健二はソファから立ち上がり、真紀を指差して怒鳴り散らした。
「あの女はな、愛想を尽かして勝手に出て行ったんだよ。家のお金も、大事な書類も、全部持ち逃げしてな。お前もあの女の味方をするなら、今すぐここから出て行け。お前みたいな、まともに就職もできない不良娘を、養ってやる義理はないんだ」
真紀は、一年前から体調を崩し、現在は療養しながら自宅で細々と仕事をしている。私は真紀を温かく見守ってきたが、健二にとって娘は、稼ぎのない邪魔者でしかなかったようだ。
「お父さん、変わっちゃったね。ううん、これが本当のお父さんだったんだね」
真紀の瞳から、涙が溢れる。
「ああ、そうだよ。俺は自由になりたいんだ。こんな古びた家も、古臭い嫁も、お前みたいな出来損ないの娘も、全部まとめてゴミ箱だ。ほら、リカちゃんを見ろ。若くて綺麗で、俺の才能を認めてくれる。お前たちとは月とスッポンなんだよ」
「いいか、真紀。お前がここにいたければ、リカちゃんを新しい母親として敬い、家事の一切を取り仕切れ。それができないなら、今すぐその安物の服をまとめて消え失せろ。お前に相続させる財産なんて、一円たりとも残してやらんからな」
隣でリカが、真紀を見下すように囁いた。
「ねえ、お嬢さん。お父さんの言うことを聞いた方がいいわよ。これからここには、私の友達もたくさん呼ぶんだから。あなたの部屋、私のクローゼットにする予定なの。邪魔だから、早く片付けてくれない?」
真紀は唇を噛みしめ、拳を握りしめていた。
「お母さんを返して。お母さんがこの家をどれだけ大事にしてたか、お父さんだって知ってるはずでしょ」
「知るか! あんな女、今頃どこかの安アパートで震えてるさ。それとも、新しい男にでも捨てられて、泣きついてくるか。まあ、その時にはこの家はもう影も形もないけどな」
まさにその時だった。健二のスマートフォンが鳴った。画面には「銀行担当者」の文字。健二は勝ち誇った顔で、スピーカーフォンに切り替えた。
「ほら見ろ。金の話だ。お前たちみたいな底辺には、縁のない金が動く音を聞かせてやるよ。はい、佐藤です。例の三千万円の引き出しの件ですが、準備はできましたか?」
健二が息を飲んで尋ねると、電話の向こうから、困惑したような、どこか冷ややかな声が返ってきた。
「佐藤健二様。大変申し上げにくいのですが、先ほど、佐藤様の全口座に対し、法的な仮差し押さえの申し立てがなされました。それに伴い、現在全ての預金の引き出し及び、クレジットカードのご利用が停止されております」
健二の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「は? 何を言ってるんだ。差し押さえ? 誰が、何の権利で!」
「申し立て人は、奥様の佐藤静様の法廷代理人、工藤弁護士でございます。理由は、共有財産の不当な処分及び横領の疑い。さらに……」
銀行員は、一呼吸置いてから続けた。
「佐藤様が昨日からご利用になっていたカード、及び今回引き出しを希望されていた口座の原資の大部分が、奥様の特有財産であることが判明いたしました。佐藤様、あなたはご自身の口座だと思い込んでいらしたようですが、その口座の実質的な権利者は、一ノ瀬静様です」
「バカな! そんなはずがあるか! あれは俺の稼いだ金だ! あの女はただの専業主婦だぞ!」
健二の叫びが、虚しくリビングに響く。
「記録によりますと、その口座の資金を供給していたのは、国内有数の投資ファンド、一ノ瀬キャピタルからの配当金となっております。佐藤様、お気づきではありませんでしたが、あなたの給与口座とは別に、奥様が管理されていたあの多額の資金は、奥様ご自身が運用されていた資産だったのです」
健二は呆然と立ち尽くし、スマートフォンを落としそうになった。隣にいたリカも、顔を引きつらせて後ずさりする。
「一ノ瀬キャピタル? なんだそれは。聞いたこともないぞ」
その時、家の前に、黒塗りの高級車が数台、音もなく止まった。車から降りてきたのは、ビシッとしたスーツ姿の男たち。その中心にいたのは、工藤弁護士と、そして私だった。私は健二が放り投げた私の靴を履き直し、凛とした足取りで、自分の家の敷地へと足を踏み入れた。
「おはよう、健二さん。随分と騒がしい朝ね」
私の姿を見た健二の目が、驚愕で見開かれた。しかし、本当の絶望は、まだ始まったばかりなのだ。
「し、静! お前、その格好は何だ? それに、後ろに連れている連中は誰だ?」
リビングの真ん中に立ち尽くす健二の声は、怒りと困惑で裏返っていた。私は、先ほどのボロボロのコートを脱ぎ捨て、父から譲り受けた一ノ瀬家の家紋が入った、最高級の着物のアンサンブルを身にまとっていた。澄ました立ち姿で彼を見据える私の姿に、健二は一瞬言葉を失った。
「静さん、お怪我はありませんか?」
工藤弁護士が私の横に立ち、鋭い眼光を健二に向けた。その後ろには、体格の良い数人の男たちが控えている。彼らは、一ノ瀬家の資産を守る警備会社のスタッフだ。
「お母さん!」
真紀が駆け寄ってきた。私は震える娘の肩を抱き寄せ、優しく頷いた。
「大丈夫よ、真紀。もう、悲しい思いはさせないわ」
「ふ、ふざけるな! 何が大丈夫だ!」
健二が、空になったビールの缶をテーブルに叩きつけた。
「静! お前、どこでそんな服を手に入れた? 銀行の件もそうだ。何かの間違いに決まってる。工藤だか誰だか知らんが、勝手に俺の口座を止めるなんて、営業妨害だぞ。今すぐ解け!」
健二は私に向かって一歩踏み出そうとしたが、警備の男たちが静かに、しかし圧力的に道を遮った。
「そこまでです」
工藤弁護士が冷徹な声で告げた。
「あなたが『俺の口座』と呼んでいるものは、法的には一ノ瀬静様が婚姻前から所有していた資産、及び彼女の特有財産から派生した利益を、一時的に管理していた場所に過ぎません。あなたが無断で引き出した三千万円、及び昨日から使用しているクレジットカードの利用分。これらは全て、不当利得返還請求の対象となります」
「特有財産? 婚姻前? 何を言ってるんだ?」
健二は、ぽかんと口を開けた。
「こいつは、親の遺産なんてない貧乏人の娘だろうが! 中卒の親が残せるものなんて、借金くらいのもんだ!」
健二の侮辱に、私は沈黙を守った。ただじっと、彼の歪んだ顔を見つめ続けた。その沈黙が、返って健二を苛立たせる。
「おい、黙ってないで何か言えよ。お前、俺を騙してたのか? 専業主婦のふりをして、裏でこそこそ金でも隠してたってのか?」
「騙していた? 随分と失礼ね、健二さん」
私はようやく口を開いた。
「私は一度も嘘をついたことはないわ。あなたが勝手に、私のことを無能な女だと決めつけて、話を聞こうとしなかっただけ。私が父から会社の一部を引き継いだ時も、あなたは『女が仕事の話をするな。飯がまずくなる』と言って、書類を投げ捨てたわね」
健二の顔に、微かな記憶の断片がよぎったようだった。そう、私は何度も伝えようとした。でも、彼は常に自分の方が立場が上だと誇示するために、私の言葉を遮り続けてきたのだ。
「それに、この土地についても、そう」
私は工藤弁護士から手渡された登記簿を、健二の目の前に置いた。
「この家が建っている土地は、私の父、一ノ瀬竜像が私のために残してくれたものよ。建物のローンを払っていたのはあなただと言うけれど、その頭金の二千万、そして毎月の返済の補填として、私が私の口座からあなたの口座に移し続けていたお金。あれがどこから出ていたか、考えたことはなかったの?」
健二は震える手で登記簿を手に取った。そこには、確かに私の旧姓である「一ノ瀬」の名前が刻まれていた。
「な、なあ、一ノ瀬竜像って、あの伝説の投資家と言われた……」
「ええ。あなたが『中卒の教養のない男』と侮辱した、私の父よ。父は学歴こそなかったけれど、独学で経済を学び、一台で数千億の資産を築き上げた。私はその娘として、幼い頃から資産運用の全てを叩き込まれてきたの」
健二の顔から、急速に生気が失われていった。隣で様子を伺っていたリカも、形勢が不利だと悟ったのか、健二の腕からそっと手を離し、後ずさりし始めた。
「ちょ、ちょっと健二さん、話が違うじゃない。この家も貯金も全部、あなたのものだって言ったじゃない」
「うるさい! 黙ってろ、リカ!」
「静、待て。何かの間違いだ。三十年も一緒に暮らしてきた。夫婦じゃないか。そんな他人行儀なことを言わなくても……」
健二の声が、急に哀願するようなものに変わった。自分の立ち位置が崩れ去ったことを、本能的に察知したのだろう。しかし、私は彼の謝罪めいた言葉を、冷たく遮った。
「三十年? そうね、三十年よ。私があなたに尽くし、あなたの家族を守り、下げすまされても耐えてきた時間。それを、あなたは昨日、自ら灰にしたのよ」
私は庭の方を指差した。そこには、健二が燃やした、私の両親の形見の無惨な燃え殻が残っている。
「あの木箱の中には、父が私に残した最後のメッセージが入っていた。お金なんかより、ずっと大切なものが。健二さん、あなたは私が一番大切にしていたものを、思いやった。だから、私もあなたの全てを、思い出すことに決めたの。物理的にではなく、社会的にね」
「な、何を……」
その時、家の前に新たな車が到着した。降りてきたのは、健二が務める会社の常務取締役、佐藤だった。健二にとって、神様よりも恐ろしいはずの上司だ。
「常務! なぜ、ここに!」
健二が慌てて玄関へ寄ろうとしたが、常務は彼を無視し、私に向かって深く頭を下げた。
「一ノ瀬様。本日は急な呼び出しに応じられず、こちらから伺わせていただきました。佐藤健二君、君は一体、我が社の筆頭株主に対して、何という無礼を働いているんだね?」
「ええっ?」
健二の喉から、引きつったような音が出た。
「筆頭株主? そうだ。君が務めている東洋産業の株式の三割を保有しているのは、一ノ瀬様個人、及び彼女が代表を務める一ノ瀬キャピタルだ。君がこれまで、さしたる実績もないのに部長まで昇進できたのは、奥様が影ながら会社を支え、君の立場を守ってこられたからだということに、まだ気づいていなかったのか」
常務の言葉は、健二のプライドを根底から粉砕する一撃だった。自分がエリートだと思い込み、妻を寄生虫と見下していた根拠。その全てが、実は妻の手のひらの上で転がされていた結果に過ぎなかったのだ。
「そ、そう……じゃあ、俺は、俺は……」
「ああ、そういうことよ。あなたはずっと、私に養われていたのよ」
健二は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。その姿を、リカは、生ゴミを見るような目で見つめていた。
「ああ、最悪。お金持ちの奥様を追い出して、全財産奪うって言うから協力してあげたのに。ただの勘違い男だったわけね」
リカは吐き捨てるように言うと、自分のバッグを掴んだ。
「健二さん、さよなら。あー、昨日買ってもらったこの時計、売ってお金にするから。精神的苦痛の慰謝料ってことで」
「待て! 行かないでくれ!」
健二の叫びも虚しく、女は一度も振り返ることなく家を出ていった。静まり返ったリビングで、健二はただ震えていた。私はそんな彼を、一片の同情も感じることなく見下ろした。
「健二さん、これはまだ始まりに過ぎないわよ。あなたが昨日私に言った言葉、覚えているかしら? 『お前の居場所はあっちだ。この家は、お前みたいな価値のない女が住んでいい場所じゃない』。その言葉、そっくりそのまま返してあげる」
私は工藤弁護士に合図を送った。
「佐藤健二さん、今この瞬間を持って、あなたにこの家からの退去を命じます。土地の所有権、建物の共有持ち分の一部等、全てにおいて法的な手続きは完了しています」
健二の絶望に満ちた顔を見ながら、私は心の中で父に語りかけた。お父さん、見ていて。あなたの教えてくれた力が、ようやく正しい場所で使われる時が来たわ。
「な、なあ、静、冗談だろう? ドッキリか何かなんだろう? 頼むよ、笑ってくれよ」
膝をついたまま、健二が蛆虫のようにして私の足元に近づいてきた。つい数分前まで、私をゴミと呼び、靴を投げつけていた男とは、到底同じ人物とは思えない。その顔は脂汗でテカテカと光り、必死に私の顔色を窺っている。
「株主だなんて、そんなありえない。お前はずっと、俺の後ろを三歩下がって歩いてきたじゃないか。特売のチラシを握りしめて、百円のネギをどっちにするか悩んでたじゃないか。あれは、全部俺を騙すための演技だったのか?」
「演技? 失礼ね。私はただ、質素に誠実に暮らしたかっただけよ。あなたと二人、穏やかな老後を過ごせるなら、父の遺産なんて使わずに死んでもいいとさえ思っていたわ」
「だったら! だったら今まで通りでいいじゃないか! 俺が悪かった。魔が差したんだ。あの女、リカがしつこく誘ってきて、断りきれなかったんだよ。本当だ。信じてくれ!」
健二は恥も外聞もなく、今度は逃げた愛人のせいにして、言い訳を始めた。その見苦しい姿に、後ろで控えていた真紀が「最低」と吐き捨てるようにつぶやいた。
「お父さん、さっきは私を『不良娘』って呼んだよね。お母さんの思い出も全部燃やしたよね。それが、魔が差したで済むと思ってるの?」
「真紀! お前は黙ってろ! これは夫婦の問題だ!」
健二は一瞬だけ真紀を睨みつけたが、すぐにまた私に向かって手を合わせた。
「静、やり直そう。温泉旅行のチケットだって、本当にお前にゆっくりして欲しくて買ったんだ。少しだけ俺のやり方が強引だったかもしれないけど、それもこれも、お前との新しい生活のためだったんだよ」
「新しい生活? 私を家から追い出し、鍵を変えて、愛人と暮らす生活のことかしら?」
私の問いかけに、健二は言葉を詰まらせた。しかし、彼の焦りはこれだけでは終わらなかった。控えていた常務取締役の佐藤が、手元のタブレットを開きながら、追い打ちをかけるように告げた。
「佐藤君、君が今、奥様に必死にすがりついている理由は、単なる愛情の問題ではないようだが」
常務の声には、底知れない怒りがこもっていた。
「君が担当していた大規模プロジェクトの予算に、経費として説明できない不自然な流れがあることが判明した。調査の結果、君は過去三年にわたり、架空の発注を繰り返し、会社の資金を私的に流用していた疑いがある。その額、現時点で確認できているだけで、四千万円を超える」
リビングに、冷たい沈黙が流れた。健二の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。原稿、青白かった顔が、今や土色に変わっている。
「そ、それは、あれは、必要な経費で……」
「リカという女性との密会に使った高級ホテルの宿泊費や、宝石店での支払いが、我が社のプロジェクトにどう『必要な経費』だったのかね。詳しく聞かせてもらおうか」
常務は、健二が裏でこっそり進めていた証拠の数々を、容赦なく突きつけた。
「君は、奥様の資産を奪えば、その穴埋めができると考えていたようだが、生憎、我が社は不正を許さない。そして何より、筆頭株主である一ノ瀬様に対して、これほどの不義理を働いた人間を、会社に置いておくわけにはいかないのだよ」
健二は、ガタガタと震え始めた。
「ま、待ってください! 首にするって言うんですか? この歳で、あと数年で定年退職なんですよ! 退職金だって……」
「退職金? いい加減にしなさい」
常務は鼻で笑った。
「懲戒解雇だ。当然、退職金など一円も支払われない。それどころか、君には会社から損害賠償請求が行くことになるだろう。刑事告発も辞さない。君の人生は、ここで終わりだ」
「ああ……ああ……」
健二は床に崩れ落ち、獣のような声を上げて泣き出した。名誉、収入、そして退職後の安泰。彼が自分の力で手に入れたと信じていたものが、全て一瞬にして、砂の城のように崩れ去った。
「静、頼む、助けてくれ。お前なら、会社に行って止められるだろう。筆頭株主なんだろう? 俺を助けるのが、妻の役目じゃないか」
健二は私の裾を掴み、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んだ。
「お前だって、俺が刑務所に入るなんて嫌だろう? 世間体が悪いじゃないか。子供たちのためにも、内々に済ませてくれ。金なら、金ならさっきお前から奪った三千万がある。あれを返せば、会社だって許してくれるはずだ」
私は、自分の裾を掴む彼の汚い手を、冷たく振り払った。
「健二さん、勘違いしないで。その三千万円は、元々私のものよ。私のものを私に返すことで、どうしてあなたの罪が消えると思うの?」
私は一歩下がり、工藤弁護士に目配せをした。
「それにね、健二さん。あなたが一番恐れているのは、会社からの訴えじゃないはずよ。ねえ、リカさんには言った? あの契約書のこと。忘れたわけじゃないわよね」
健二の動きが、ぴたりと止まった。
「け、契約? 何のことだ?」
「あら、しらじらしい。リカさんは、ただの愛人じゃなかったはずよ。彼女の後ろにいる協力者についても、私は全て把握しているわ。あなたが彼女を信じて交わした、あの書類。今頃、町の闇金業者たちの間を回っているんじゃないかしら?」
健二の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「な、なんで、お前がそれを……」
「あなたが私を温泉旅行に追い出し、浮かれ気分で女とシャンパンを飲んでいる間、私はあなたのスマートフォンのデータを全て同期し、メールも通話記録も、全てチェックさせてもらっていたの。プロの調査員を舐めないことね」
私は、健二が絶望の縁に立たされているのを確認し、最後の事実を告げることにした。
「健二さん、あなたがこれから立ち向かわなければならないのは、会社でも、私でもない。あなたが自分で招き入れた、本当の悪魔たちよ」
その時、玄関のチャイムが、今度は乱暴に何度も鳴らされた。ドアを叩く音と共に、野太い男たちの声が響き渡る。
「佐藤健二! いるのは分かってんだぞ! さっさと出てきて、約束の分の金を返してもらおうか!」
健二は悲鳴をあげ、リビングの隅へ逃げ込もうとした。しかし、そこにはもう、彼の味方は一人もいなかった。
「さあ、お望み通り、ゆっくりしなさい、健二さん。これから始まる、地獄のような長い時間の中でね」
玄関のドアが、壊れんばかりの勢いで叩かれ続けている。
「佐藤! 開けろ! 逃げられると思ってんのか!」
怒声が家の中にまで響き渡り、健二はガタガタと震えながら、リビングの隅にしゃがみ込んだ。
「ひ、静、助けてくれ! 警察だ! 警察を呼んでくれ!」
さっきまで、私をゴミ扱いしていた男が、今は私の足にしがみつき、涙ながらに命乞いをしている。私はその手を冷たく振り払い、工藤弁護士に頷いた。
「開けてあげて」
工藤弁護士が玄関の鍵を開けると、いかつい体格の男たちが三人、土足でリビングになだれ込んできた。
「佐藤健二さんですね。ほう、随分と賑やかなお集まりだ」
先頭に立つ黒いスーツの男が、不敵な笑みを浮かべた。
「な、なんだ君たちは! 不法侵入だぞ!」
常務の佐藤が、断固とした態度で問いかけるが、男は構うことなく、一通の書類を突きつけた。
「不法侵入? 聞きの悪いことを言わないでください。私たちは、正当な債権の回収に来ただけですよ。佐藤健二さん、あなたが昨夜、港区のバーで署名・捺印した、この契約書。身に覚えがありますよね?」
男が広げたのは、金銭消費貸借契約書。そこには、健二の自筆で、五千万円という数字と、彼の署名・実印が鮮明に押されていた。
「五千万!? そんなバカな! 俺は、リカちゃんに頼まれて、彼女の事業の保証人になっただけだ!」
「ええ、その通り。リカ、本名、村岡リカは、昨夜のうちに弊社から借り入れた全額を持って、姿を消しました。連帯保証人であるあなたには、今すぐこの全額を支払う義務が生じているわけです」
健二は目を見開き、金魚のように口をパクパクとさせた。
「姿を消した? リカちゃんが? そんなはずはない。彼女は俺を愛してるって、一緒に暮らそうって言ったんだ!」
「愛情? おめでたい方だ」
男は鼻で笑った。
「彼女は、あなたのようなプライドだけは高い自称エリートの年配男性を専門に狙う、結婚詐欺グループの一員ですよ。あなたが会社のお金を使い込んでいたことも、奥様に隠れて資産を奪おうとしていたことも、全て彼女たちは把握した上で、近づいたんです」
健二の顔が、今度こそ真っ白になった。
「お、俺を、最初から騙していたのか?」
「その通りよ、健二さん」
私は静かに口を開いた。
「あなたがリカさんと出会った、あのゴルフコンペ。あれを仕組んだのも、彼女たちのグループよ。あなたは自分が持てると思い込んでいたけれど、彼女たちにとって、あなたはただの餌食でしかなかったの」
「なんで、お前がそんなこと……」
「私は、あなたが会社のお金に手をつけ始めた二年前から、ずっとあなたの動きを監視していたわ」
私の言葉に、健二だけでなく、常務や真紀も、驚きに目を見開いた。
「あなたが夜中にこっそりパソコンを叩いて、架空の請求書を作っていたこと。それをリカさんとのデート代に当てていたこと。全部、私の耳に入っていた。あなたが少しでも罪悪感を感じて、私に謝ってくれるのを、待っていたのよ。でも、あなたは最後まで私を蔑み、ついには両親の形見まで燃やした」
私は、黒スーツの男に向き直った。
「黒田さん、この男には、一円の支払い能力もありません。今この瞬間を持って、彼は会社を解雇され、全財産を差し押さえられますから」
「なんだと? 佐藤健二、お前、金がないのか?」
黒田と呼ばれた男の目が、一瞬で険しくなった。
「この立派な家はどうした? 土地だってあるだろう」
「残念ながら、この土地と家は、私の所有物です」
私が冷たく告げると、黒田は健二の胸ぐらを掴み上げた。
「おい、佐藤! 話が違うじゃねえか! 嫁を追い出せば、この家も土地も入ってくるって言ったよな! だから、五千万もの貸し付けの保証を認めてやったんだぞ!」
「ひ、ひっ! ま、待ってくれ! 金なら! 金ならあるんだ! こいつは、一ノ瀬キャピタルの会長なんだ! 五千万くらい、こいつにとっては……。静! 払ってくれ! 頼む! 夫婦だろう!」
健二の叫びに、部屋中の視線が集まった。私は深呼吸を一つして、ゆっくりと健二の目を見つめた。その瞳には、もはや怒りすらない。ただ、深い、深い諦めだけが宿っていた。
「健二さん、一つ、大きな勘違いをしているわね」
「な、なんだよ」
「私が一ノ瀬キャピタルを動かしているのは、あなたを助けるためじゃない。あなたのような人間が、二度とこの社会で誰かを傷つけられないようにするためよ」
私は鞄の中から、もう一通の書類を取り出した。それは、健二が今までひた隠しにしてきた、さらに恐ろしい真実を証明するものだった。
「常務。彼が会社から横領していたのは、四千万円だけではありません」
「え?」
常務の声が震えた。
「健二さん、あなたが十年前、先代の社長が亡くなった際に、役員の委任状を偽造して、引き出したあの資金。どこに消えたのか、今ここで説明してくださる?」
健二の顔が、土色を通り越して、まるで死人のような色に変わった。
「な、なぜ、それを……」
「あなたが一番隠したかった真実。そして、私が三十年間、あなたを許せずにいた、本当の理由よ。さあ、全てのカードは、揃ったわ」
健二の混乱は、もはや頂点に達していた。彼が信じていた、自分の優位性が、音を立てて崩れ落ちる。
「十年前? 何を言っているんだ? そんな昔のこと。俺は、何も、何も知らないぞ」
健二は、掻きむしるような手つきで空をかき、必死に否定した。しかし、その顔色は、もはや人間のものではなく、灰色に変色している。額からは大粒の汗が流れ落ち、リビングの絨毯に染みを作っていた。
「喋らなくても無駄よ、健二さん。あなたが当時の経理部長と結託して、先代社長の遺産の一部と、社員の厚生年金基金、合わせて一億円を私的に流用したこと。私は全て知っているわ」
私の言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。常務の佐藤は、あまりの衝撃に椅子から立ち上がり、健二を凝視している。
「な、なんだと? 一億円? あの時の『事故不明金』騒動は、結局『処理ミス』ということで片付いたはずだ。それを、君が……」
「ええ、そうです。処理ミスなんかじゃなかった」
私は冷徹な声で続けた。
「健二さんは、その金で、当時通い詰めていた銀座のクラブの女にマンションを買い与え、残りを自分の隠し口座に分散させた。でも、その穴を埋めたのが誰だったか、覚えている?」
健二は、ガタガタと歯の合わないほど震え、言葉にならない声を漏らした。
「私が、父から譲り受けていた個人資産を投げ打って、匿名で会社に寄付したのよ。社員たちの老後の資金が消えるなんて、あってはならないことだと思ったから。あなたが犯した罪を、私が肩代わりしたの。家族のため。そして何より、あなたの息子と娘の未来を信じていたからよ」
私の告白に、真紀は「お母さん、そんなことまでしてたの?」と声を詰まらせた。一方で、健二は、救いのない自白を晒らしていた。
「じ、じゃあ、あの時の金は、お前が出したのか? なんだ! だったらいいじゃないか! お前の金は俺の金だろう! 夫婦の間で、金が動いただけじゃないか! それを今更、罪だなんて!」
健二の口から、信じられない言葉が飛び出した。自分の傷を、妻が金で解決したのだから、問題ないと宣ったのだ。
その言葉を聞いた瞬間、リビングにいた黒田たちも、呆気にとられたように鼻で笑った。
「おいおい、佐藤さんよ。あんた、どこまで救いようのないクズなんだ。奥さんの優しさを、都合のいい『金』としか思ってねえのか。俺たちみたいな、ヤクザの人間でも、そこまで下劣な真似はしねえよ」
黒田は健二の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「いいか、佐藤。あんたが署名した、この五千万の契約。そして、奥さんが言っている十年前の横領。これが表沙汰になれば、あんたは一生、塀の中から出てこれねえぞ。それとも、なんだ? 今すぐこの場で、指の数本でも置いていくか?」
「ひっ! 助けて、静!」
健二はもはや言葉を失い、赤ん坊のように泣き叫んだ。しかし、彼の混乱は、これで終わりではなかった。工藤弁護士が、鞄からもう一束の資料を取り出した。
「佐藤健二さん。あなたの混乱に、さらに追い打ちをかけるようで心苦しいのですが、あなたがリカさんに貢いでいた資金。それから、今回の五千万の借金。これらは、全て、ある特定の人物が、裏で糸を引いていました」
「裏で、糸?」
健二は、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。
「十年前、あなたが横領した金でマンションを買い与えた、銀座のクラブの女性。彼女の名前は、村岡リカ。そして、今回あなたを騙して姿を消した、リカ。本名、村岡リカ。この名前、見覚えはありませんか?」
健二の瞳が、驚愕に見開かれた。
「む、村岡、リカ……。リカ? まさか、親子?」
「その通りです。村岡リカさんは、あなたが横領した金でマンションを手に入れた後、別の男と再婚しました。しかし、その生活も長くは続かず、彼女は数年前に病死しています。娘のリカさんは、母を道具のように使い捨てにしたあなたを、ずっと恨んでいた。今回の結婚詐欺は、彼女による、十年越しの復讐劇だったのですよ」
リビングに、冷たい衝撃が走った。健二が愛だと思っていたものは、彼が捨て去った女の、娘が仕掛けた、残酷な罠だったのだ。
「そ、そんな……。リカちゃんが、俺を恨んでいた? あんなに優しくしてくれたのに。俺の才能を認めてくれると言ったのに……」
「愛? 笑わせないで」
私は冷たく言い捨てた。
「彼女は、私に接触してきたわ。『お母さんを苦しめた、あの男を地獄に叩き落としたい。その手伝いをして欲しい』ってね。私は、彼女の計画を全て知った上で、あえて泳がせておいたのよ。あなたが自ら破滅の道を選ぶかどうか。最後の最後まで、見極めるために」
健二は頭を抱え、床に何度も頭を打ち付け始めた。
「うわあ! 嘘だ! 全部嘘だ! 俺はエリートなんだ! 部長なんだぞ! こんな惨めな最後、認められるか! お前らが仕組んだんだ! 俺を落とし入れるために!」
精神が崩壊したかのように、健二は意味不明な言葉をまき散らし、部屋の中の家具を蹴り倒した。私が大切にしていた花瓶が、床で砕け散り、部屋に花の匂いが立ち込める。
「健二さん、もういい加減にしなさい」
私の静かな一言が、錯乱する健二を止めた。
「あなたが燃やした、父の手紙。そこには、こう書いてあったのよ。『人を許すことは強さだが、悪を正すことは愛である』と。私はあなたを三十年愛し、十年前には許した。でも、あなたはその愛を踏みにじり、許しを当然の権利だと勘違いした。だから、今、私はあなたを正すことにしたの。法と、現実という名の審判によってね」
その時、玄関の外に、パトカーのサイレンが鳴り響いた。一台ではない。何台もの赤い光が、リビングの窓を不気味に照らし出す。
「な、なんだ? 警察? 警察が来たのか?」
「ええ。常務が通報されたわ。十年前と今回の、二重の横領容疑。そして、黒田さんたちが持ち込んだ、闇金融への不法な署名行為。全て、法の裁きを受ける時間よ」
「待て! 静、待ってくれ! 俺は、俺はまだ!」
警官たちが家の中に入ってくると、健二は必死に私の足元へ這い寄ろうとした。しかし、その手は虚しく空を切り、警官たちのたくましい腕によって抑え込まれた。
「佐藤健二さん、同行願います」
「嫌だ! 離せ! 俺は筆頭株主の夫だぞ! 静、言ってくれ! こいつらに、命令してくれ!」
健二の叫びが夜の町に響き渡る中、私は一度も目をそらすことなく、連行されていく彼の背中を見送った。しかし、彼の絶望は、これで終わりではなかった。連行される間際、黒田が健二の耳元で、最後の止めを刺した。
「おい、佐藤。一つ言い忘れてたぜ。あんたが『俺の子じゃない』と決めつけて、蔑んでたあの息子さん。ああ、今、俺たちの組織のトップと取引してるぜ。あんたを、一生暗い場所から出さないようにってな」
健二の瞳から、最後の光が消えた。彼が捨てた家族の絆が、すでに彼を死地へと追いやっていた。パトカーの赤い回転灯が、住宅街の闇を不気味に切り裂いていた。
数週間後、私は拘置所にいる健二と、最後の手続きのために面会した。かつて私を顎で使っていた男の姿は、そこにはなかった。無精髭が生え、頬はこけ、目はうつろ。高級スーツの代わりに与えられた、グレーのスウェット姿は、彼がこれまでで最も似合わない、哀れな姿だった。
「し、静、来てくれたのか。やっぱり、お前は俺を見捨てないと思ってたよ」
健二は震える声で、すがりつくように私を見た。
「なあ、聞いたぞ。お前、あの家の土地だけじゃなく、仲介業者を通じて、俺が担保に入れていた株まで、買い取ろうとしてるんだって? さすがは、一ノ瀬の娘だ。だったら、俺のことも助けられるだろう? 保釈金を払って、告訴を取り下げさせてくれ。そうすれば、俺はまたお前の夫として……」
私は、健二が話し終えるのを、一言も発さずに待った。何も言わず、ただ無表情に彼を見つめる。その沈黙が、健二には耐え難い恐怖だったようで、彼は次第に言葉をつまらせ、視線を泳がせた。
「な、なんだよ、その目は。お前、俺をバカにしてるのか? 中卒の小娘の分際で、俺を哀れんでるのか?」
答えが出せなくなった健二が、突然、以前のような傲慢な口調で叫んだ。
「気に食わねえな! お前が金を持ってるのは、全部、父親の遺産のおかげだろうが! お前自身の力じゃない! 俺がいなきゃ、お前はただの価値のないババアなんだよ!」
健二の罵倒が、面会室に響き渡った。警官が静止しようとしたが、私は手でそれを遮り、口を開いた。
「健二さん、最後くらい、もう少しマシな言葉が出てくるかと思ったけれど。本当に、底が浅いのね」
私はバッグの中から一通の手紙を取り出し、アクリル板に押し当てた。
「これ、誰からの手紙か分かる?」
健二は目を細めて文字を読み、一瞬で顔色を変えた。
「リカ!? あの女、どこにいるんだ? 俺の金を返せ!」
「彼女、今頃は南の島でバカンスを楽しんでいるわよ。この手紙には、あなたへの最後のメッセージと、私への感謝が綴られているわ」
「感謝だと? どういうことだ?」
「健二さん、あなたが『運命の出会い』だと思っていたあの夜。彼女があなたに近づいたのは、彼女自身の復讐心もあったけれど、実は、私が彼女のグループを雇ったから、なのよ」
健二の時が、止まった。
「お前が、雇った?」
「ええ。あなたが会社のお金を使い込み、私を裏切り続けている証拠は揃っていたけれど、私は、あなたに自ら、全てを吐き出させる必要があると思ったの。だから、彼女たちに依頼したのよ。『佐藤健二という男の虚栄心を煽り、本性を剥き出しにさせて、最後には全財産を差し出させるように仕向けて欲しい』ってね」
健二は、壊れたおもちゃのように首を横に振った。
「嘘だ……嘘だ……。リカちゃんは、俺を愛してた……」
「愛してたのは、あなたの背後にあった、私のお金よ。彼女は私の指示通り、あなたにあの五千万の保証人契約を結ばせた。そして、あなたが知らない、最大の事実はね。その五千万の債権を、今、誰が持っているか、ということよ」
私は、工藤弁護士から受け取った、債権譲渡通知書を見せた。そこには、健二が署名した、あの借金の新しい債権者として、私の運営する投資会社の名前が記されていた。
「健二さん、あなたがリカさんのために背負った五千万の借金。そして、会社への損害賠償額。それら全ての債権は、今、私が握っているわ。あなたはこれから先、一生、私に対して借金を返し続けなければならない。刑務所を出た後も、あなたが手にするわずかな賃金は、全て私の口座に自動的に吸い上げられるの」
健二は椅子から転げ落ちそうになりながら、アクリル板を拳で叩いた。
「お前、どこまで残酷なんだ! 俺を一生、奴隷にするつもりか!」
「残酷? 侮辱ね。私はただ、あなたが私に言った通りにしているだけよ。私は身を乗り出して、健二の目をまっすぐに見つめた。
「あなたは言ったわね。『寄生虫は、俺の稼いだ金で飯を食わせてもらってるんだから、死ぬまで感謝して暮らせ』って。あなたが私に敷いた、その三十年間を。今度は、あなたが味わう番よ」
「あ、ああ……!」
「あ、そうそう。あなたが『俺の子じゃない』と否定した、達也と真紀だけど。彼ら、私の会社の役員に就任したわ。あなたの借金の管理、彼らが担当することになったから、楽しみにしていてね」
「うわああああ!」
健二は発狂したように叫び、自分の髪をかき毟った。自分が最も見下していた妻と子供たちが、自分の債権者になった。プライドだけで生きてきた健二にとって、これ以上の地獄はなかった。
「では、もう一つ。『全財産を持って消えてやる』と言ったけれど、あれ、冗談じゃないのよ」
私は立ち上がり、止めを刺した。
「あなたが愛したこの町での『佐藤健二』という男の社会的地位、信用、人脈、そして未来。それら全て、私が買い取って、跡形もなく消し去ってあげたわ。今のあなたは、戸籍上に名前があるだけの、空っぽの抜け殻。いえ、もうすぐ、健二さん、二度とその名前で呼ばれることもないでしょう」
面会終了のベルが鳴り響いた。警官に引きずられていく健二の背中は、まるでゴミ袋のように、小さく、惨めだった。彼が最後に残した言葉は、聞き取れないほどの、情けない嗚咽だけだった。
私は面会室を出て、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。建物の前には、達也が運転する車が停まっており、真紀が笑顔で手を振っていた。
「お母さん、終わった?」
「ええ、全て終わったわ」
私は車に乗り込み、一度も振り返ることなく、その場を後にした。真実を、そして自分自身の人生を。誰にも邪魔されない、自由という名の新天地へと運ぶために。
あの嵐のような出来事から、一年が経った。私は今、伊豆の海を一望できる、小さな丘の上に立っている。一年前、健二が私を追い出すために用意した、偽りの温泉旅行。結局、私はあの旅館に泊まることはなかったが、今、私の目の前には、それよりもはるかに美しく、穏やかな景色が広がっている。
「お母さん、お茶が入ったわよ」
後ろから明るい声がした。振り返ると、テラスのテーブルにハーブティーを並べている、真紀の姿があった。一年前、家の中で怯えるように過ごしていた娘の姿は、もうどこにもない。彼女は今、私が設立した「一ノ瀬女性自立支援財団」の事務局長として、生き生きと働いている。
「ありがとう。本当に、いい風ね」
私は真紀の隣に座り、海を見つめた。健二の怒声に震え、シンクの汚れを落とすことだけに追われていた日々が、遠い前世のことのように感じられる。あの後、健二には厳しい判決が下された。横領、闇金融との不適切な契約、そして十年前の余罪。それらが積み重なり、彼は現在、冷たい塀の中で服役している。彼が刑務所の中で行う作業の報酬は、全て、損害賠償の返済に当てられていると聞いた。
先日、工藤弁護士を通じて、健二から一通の手紙が届いた。そこには「すまなかった。やり直したい」という、身勝手な言葉が並んでいた。でも、私はその手紙を、読み終える前に、静かにシュレッダーにかけた。許さないことが、私の復讐ではない。彼の存在そのものを、私の人生から綺麗に消し去ること。それが、私なりの決着だったから。
「母さん、お待たせ。役所の手続き、全部終わったよ」
達也が坂道を登ってきた。彼は今、私の資産管理だけでなく、若手起業家を支援するエンジェル投資家としても活躍している。
「ご苦労様。これで、ようやくおじいちゃんの願いが叶うわね」
私たちが今いるこの場所。ここは、かつて父が「いつか引退したら、静と一緒に暮らしたい」と言って購入していた土地だった。健二に燃やされてしまった父の手紙。でも、その内容は、私の記憶の中にしっかりと刻まれていた。私たちは、この地に小さな施設を建てた。名前は「一ノ瀬メモリアルハウス」。家を追われた女性や、家族の絆に傷ついた人々が、次の人生へと踏み出すための準備をする場所だ。私が健二から全財産を奪い返したのは、自分だけが贅沢をするためではない。彼のような人間によって踏みにじられた、人々の尊厳を取り戻すために、その資金を使いたかったのだ。
「お母さん、あの時、お父さんに言ったよね。『全財産を持って消えてやる』って。で、今なら、その意味がよく分かるよ」
真紀が、私の手を握った。
「お母さんが持っていったのは、お金だけじゃなかった。おじいちゃんの意志、私たちの未来、そしてお母さん自身の誇り。お父さんが一番欲しがっていたのに、一番理解していなかったもの。全てを守り抜いたんだね」
達也も、力強く頷いた。
「あの人は、数字に見えるものしか信じなかった。でも、本当に価値のある資産は、目に見えない絆や、人を思いやる心なんだ。母さんは、それを僕たちに教えてくれた」
子供たちの言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。三十年間の苦労は、決して無駄ではなかった。あの忍耐の日々があったからこそ、私は今のこの自由の尊さを、心から噛みしめることができる。そして、子供たちがこんなにも立派に育ってくれた。それこそが、私が手に入れた、最大の財産なのだと確信している。
太陽がゆっくりと海に沈み始め、空が美しい茜色に染まっていく。私は鞄の中から、一冊の新しい日記帳を取り出した。一年前、健二に燃やされた日記の代わりに、新しい人生を綴り始めるための、真っ白なページ。その最初のページに、私はこう記した。
「人生は、何度でもやり直せる。自分を信じる勇気と、守るべき愛がある限り」
私は、今日から、私自身の物語を、私だけの足取りで歩んでいく。海を見つめる私の横顔には、もう迷いも、悲しみもない。あるのは、穏やかな微笑みと、明日への確かな希望だけ。かつて「価値のない女」と呼ばれた一人の主婦は、今、「一ノ瀬静」という一人の人間として、最高の幸せの中にいる。
「さあ、夕飯にしましょうか。今日は、お父さんが大好きだった、あの里芋の煮っ転がしを作ったのよ。もちろん、私たちの口に合う、優しい味付けでね」
笑い声が、潮風に乗って、丘の上に広がっていく。それは、どんな宝石よりも輝かしく、どんな資産よりも尊い、幸福のメロディだった。私の新しい人生は、今、始まったばかりです。



