「私、慎介さんと交際してるの。」
ある日の午後、小野ミクと名乗る女性が突然訪ねてきた。彼女は夫・慎介の不倫相手だと平然と告白した。
「交際してるってどういうこと?」
「本当に鈍感ね。あのね、これまで散々匂わせてやったのに、全然気づいてなかったわけ?」
ミクはこれまでわざと浮気の証拠となる痕跡を残してきたと言う。香水の匂いも、髪の毛も、写真さえも、すべてミクが仕掛けたものだった。
「普通、あれだけ証拠があれば離婚するでしょ。それなのに、あんたって本当に鈍感すぎて逆に笑えるわ」
私は何も言えなかった。彼女を前に、自分が負けていることを痛感した。ミクは私よりはるかに可愛らしく、強い女だった。思ったことを何でも口にできる彼女に、慎介が惹かれたとしても不思議ではない。その夜、私は仕事から帰ってきた慎介に問いただした。
「ミクさんって人が訪ねてきたわ。あなたと付き合ってるって」
「ああ、不倫してる。ミクと一緒になるつもりだ」
慎介は一瞬黙り込んだが、すぐに認めた。
「どうして?」
「しょうがないだろう。疲れて帰っても、待ってるのがお前みたいな暗い女じゃ、毎日が嫌になる。外に癒しを求めるのは当然だろう」
慎介は浮気の原因が私にあると言い張った。
「大体、お前がもっと楽しい家庭にしてくれてたら、俺は浮気なんてしなかったんだ。全部お前が悪い」
私に話す余地すら与えず、慎介はまくし立てた。
「お前とは離婚する」
彼は記入済みの離婚届を突きつけてきた。
「これは決定事項だ。それから、お前が悪いんだから慰謝料は当然なし。財産分与もいらないな」
一方的に言い放つ慎介に、私は動揺するばかりだった。反論する余地もなく、ただ立ち尽くすしかなかった。
「その離婚届にサインして、3日以内に出て行ってくれ。これ以上話すことはない」
慎介はそのままどこかに出かけてしまった。一人残された私は、どうすればいいのかわからず途方に暮れた。行き場もなく、頼れる親戚もいない。あるのは結婚前に貯めたわずかな貯金だけだった。
私はもう一度慎介と話をしようと思い、家に残ることにした。しかし3日後、帰ってきた慎介に激怒され、わずかな荷物とともに家を追い出されてしまった。やり直すことはできないと痛感し、涙が溢れた。私は一晩中、町を彷徨うしかなかったのだ。
翌日、行く当てもなく歩いていると、物産展の前に人だかりができていた。それを避けて通りすぎようとした時、後ろから声をかけられた。
「あれ、萌子じゃない? 久しぶり」
振り返ると、斎藤マリエが笑顔で手を振っていた。マリエは小学校の時に私が唯一仲が良かった友達だ。結婚を機に田舎へ移住してからは連絡も途絶えていたが、数年ぶりの再会だった。
「仕事の都合で、たまたまこっちに出てきたのよ。ところで、そんなに落ち込んでどうしたの?」
その言葉を聞いた瞬間、私は答えるより先に泣き出してしまった。離婚の経緯をすべて打ち明けると、マリエはひどく怒った。
「ひどい。何その旦那? そんな男、願い下げよ」
彼女が私の代わりに感情をぶつけてくれて、心が救われる思いだった。
「それで、これからどうするの?」
「うん。行くところもないし、どうしようか迷ってる」
「それじゃ、うちに来なよ」
マリエは田舎への移住を提案してくれた。知り合いもいない、仕事もしていない私が東京に縛られる理由はない。気持ちを切り替えるためにも、私はその提案に乗ることにした。
あれから時間は流れ、私は今、児童文学作家になっていた。
あの日、私は東京を離れ、マリエが暮らす田舎で新たな生活を始めた。空き家を格安で購入し、マリエ夫婦や農業仲間たちの助けを借りて家を修繕しながら、彼らに農業を教えてもらう日々。誰かと助け合うことの喜びを、私は初めて知った。
ある日、マリエが家を尋ねてきた。
「そういえば、まだ書いてるの?」
マリエは私が作家になりたいと夢見ていたことを知っている。
「執筆は続けてるよ」
「何かコンクールとか出したの?」
「それは、なかなかね」
かつてコンクールに応募しようと思った時期もあった。しかし自信が持てず、結局応募できなかったのだ。
「もったいない。どんな結果が出るかわからないじゃない。やる前から諦めるのが一番ダメなことよ」
その言葉に、私は頭をハンマーで叩かれたような気分になった。確かに、このまま執筆を続けても自己満足に過ぎない。きちんと評価してもらわなければ、誰かを感動させる作家にはなれないのだ。
以来、私は長年書き止めていた自叙伝の原稿を整理し始め、読み返しながら修正を加え、作品を完成させた。すると、リフォームを手伝ってくれていた仲間の一人が「すごい。こんなにいい物語は初めてだ」と褒めてくれた。
「絶対入賞できるよ」
その言葉に背中を押され、私は思い切って新美南吉児童文学賞に応募することにした。
発表の日。私はマリエたちと一緒に緊張しながら結果を待った。
受賞作品の発表とともに、世界が止まったように感じた。私の作品が、見事に受賞作品に選ばれたのだ。その日のうちに出版社から連絡があり、出版が決定した。家には複数のマスコミが押しかけ、インタビューを受けることになった。
「今のお気持ちを教えてください」
「一人では何もできませんでした。ここに来て仲間と出会い、助け合う大切さを知って、応募する勇気をもらったんです。本当に感謝しかありません」
インタビューに答えながら、涙が止まらなかった。これまでとは違う、嬉しい涙だった。私の夢が叶ったのだ。
それからというもの、私は次々と作品を世に送り出し、児童文学作家として注目を集めるようになった。
半年後、都内で私のサイン会が行われることになった。多くのファンが集まり、交流を楽しんでいると、そこに慎介が現れたのだ。
彼は見る影もなく痩せ細り、みすぼらしい格好をしていた。
「頼む、助けてくれ」
慎介はファンを押しのけ、私の前に土下座して懇願してきた。聞けば、私が家を出ていった後、ミクと入籍して一緒に暮らしていたらしい。しかしミクは浪費癖がひどく、慎介の給与だけでは賄えなくなった。ミクと別れたくなかった慎介は貯金を切り崩しながら彼女の要望に応えていたという。だが半年も経たないうちに、ミクは別の男を作って逃げてしまったらしい。散々搾取された慎介は貯金も使い果たし、無一文で捨てられたのだった。
「やっぱりお前が一番だ。もう一度やり直そう」
私はその姿を見て、呆れてしまった。
「お金目当ての人とやり直すつもりなんてないわ」
慎介はミクとの不倫が会社で噂になり、退職を余儀なくされていた。その後も就職は叶わず、生活に困窮しているようだった。そんな時、私のことをSNSで見たのだろう。
「助け合いが大切なんだろう? だったら俺を助けてくれ」
慎介は私がインタビューで答えた言葉を引用して、自分を助けろと迫ってきた。
「私が苦しかった時、あなたは助けてくれた? 都合のいいこと言わないで」
私は冷たく言い放った。
「あなたに、不貞行為の慰謝料を請求するわ」
「待ってくれ。もう過去のことだ。今更そんな請求できるわけないだろう」
「不貞行為による離婚の場合、3年以内であれば慰謝料を請求できるわ」
「今の俺にはそんな金なんてない」
「じゃあ、裁判所に申し出て、きちんと手続きを取らなきゃいけないわね」
私は慰謝料請求の訴訟を起こすと宣言した。
「お前が陰気で家事も手を抜いたから離婚したんだ!」
追い詰められた慎介は、その場で私の悪評を広めようと大声で叫び出した。しかし、その内容はどれも事実ではないことばかり。そこへ、私の担当編集者から連絡を受けた警備員がやってきた。
「なんだ、お前らは。俺はこいつの夫だ」
「いいえ。私に夫はいないわ」
警備員は慎介を取り押さえ、会場の外へと放り出した。最後まで大声で喚いていたが、もう私には関係のないことだった。
その後、私は弁護士を通じて慎介に慰謝料を請求した。無一文の彼に支払う能力はないが、私の前に現れたら多額の慰謝料を払うことになるとわかってくれれば十分だった。しかし、何を思ったのか慎介は執着心を一層強め、私が暮らす村へと移住してきたのだ。
毎日家に来ては、私の行く先々に現れ、やり直そうと迫ってくる。そのしつこさに仕事にも支障が出るほどだった。警察に訴えて接近禁止命令を取り付けても、彼の暴走は止まらなかった。
しかし数日後、事態は急展開を迎えた。慎介が警察に逮捕されたのだ。慎介は移住の際に役場から紹介された仕事も初日でやめてしまい、毎日食べるものにも困っていた。空腹に耐えかねた彼は、近所の畑に実っている野菜を盗みに入り、巡回中の駐在警官に逮捕されたという。小さな村のこと、慎介の悪評は一晩のうちに知れ渡った。警察から厳重注意を受けて釈放された慎介だったが、村民の白い目に耐えきれなくなったようだ。私に助けを求めようとしたようだが、村の屈強な男たちが毎日日替わりで私の護衛についてくれ、自宅前をうろつく慎介を追い払ってくれたのだ。
これにより、慎介は村から完全に追放されることになった。その後、彼がどうしているのかは私にはわからない。
ようやく本当の平穏を手に入れた私は、自分が精神的に強くなったことを実感していた。あれほど人とのコミュニケーションが苦手だったのに、今では誰の前でも堂々と話せる。すべて、私を家族のように支えてくれる仲間たちのおかげだった。
「そろそろ実家のご両親に連絡してみれば?」
ある日、マリエがふと言った。テレビで両親も私の活躍を見聞きしているだろう。もう反対していた作家だが、今なら認めてくれるかもしれないという。正直なところ、怖さはある。しかし、今の私ならきちんと自分の意見を伝えることができるだろう。私は勇気を振り絞って、実家に電話をかけてみた。
「もしもし、萌子だけど……」
「萌子! 萌子なのね!」
母は涙ぐみながら、私からの連絡を喜んでくれた。電話の向こうで、父が大喜びしている声も聞こえた。聞けば、私が実家を離れた後、両親は反対したことを後悔したらしい。「我が子の夢を応援してやれずにすまなかった」と謝罪してくれたのだ。
そして今、私は実家へと向かっている。私の児童文学が翻訳され、海外でも出版されることが決まり、近々発売される予定なのだ。その報告も兼ねて、両親に会いに行くことにした。
両親の喜ぶ顔を思い浮かべながら、私の心は春のように温かい。これからは両親のことも大切にしながら、私らしく生きていこう。そう心に誓っている。



