「おばさん、もういい加減にしてよ。さっさと離婚届けを書いて消えてくれない」――目の前で勝ち誇ったように笑うのは、幼稚園からの付き合いである55年来の親友・秋。そしてその隣で冷たい視線を向けるのは、35年連れ添った夫のたけし。つい数時間前まで私は幸せな妻であり、親友を持つ幸せな女だと思っていた。でもそれは全て、私への残酷な作り物の世界だったのです。何も言わずに離婚届にサインをした私。二人は「勝…

「おばさん、もういい加減にしてよ。さっさと離婚届けを書いて消えてくれない」――目の前で勝ち誇ったように笑うのは、幼稚園からの付き合いである55年来の親友・秋。そしてその隣で冷たい視線を向けるのは、35年連れ添った夫のたけし。つい数時間前まで私は幸せな妻であり、親友を持つ幸せな女だと思っていた。でもそれは全て、私への残酷な作り物の世界だったのです。何も言わずに離婚届にサインをした私。二人は「勝...

リビングの扉を開けた瞬間、私の世界は音を立てて崩れ落ちた。そこには、私が35年間連れ添った夫のたけしと、幼稚園からの付き合いである親友のはずの秋が、私の大切なソファで抱き合っていた。たけしの手には、私が何年も前から結婚記念日に欲しいと言い続けていたブランドの指輪。秋の指でそれが光っている。私は声も出ず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

「おばさん、もういい加減にしてよ。さっさと離婚届けを書いて消えてくれない」

目の前で勝ち誇ったように笑う秋。冷たい視線を向けるたけし。二人は、私がどれだけ尽くしてきたか、どれだけ二人を信じてきたかなんて、これっぽっちも考えていないようだった。

「お前みたいな面白みのない女とこれ以上一緒にいるのは苦痛なんだ。秋もこう言ってる。頼むから俺たちの幸せを邪魔しないでくれ」

たけしは既に記入済みの離婚届をテーブルに叩きつけた。家も貯金も全部俺のものだ。お前は着の身着のままで出ていけ。そう言い放った。私はただ黙ってその紙を見つめていた。しかし、頭の芯は驚くほど冷えていた。この人たちは本当に何も分かっていないんだわ、と。

私はゆっくりと顔を上げ、二人をまっすぐに見据えた。「分かったわ。二人の気持ちはよく理解した」私の静かな声に、たけしがにやりと笑った。私はペンを手に取り、離婚届に自分の名前を書き込んだ。それを見た二人は顔を見合わせて歓喜の声をあげた。荷物をまとめるから少し時間をちょうだい、と言って私は自室に向かった。背後で「ゴミは残していくなよ」という冷たい声が聞こえた。

部屋に入り、ドアを閉めると、私はスマホを取り出してある番号に電話をかけた。「もしもし、おじさま。ええ、京子です。例の件、お願いします。今すぐ始めてください」電話の相手は、父の代からお世話になっている、この地域一体を仕切るある組織の長であり、たけしが務める会社の筆頭株主。そして私の名付け親でもある人物だった。

その直後、リビングからたけしの悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。「な、なんだって首だと?そんなバカなことが…今すぐ荷物をまとめて出ていけって?どういうことだよ、社長!」たけしは顔を真っ赤にしてスマホを握りしめたまま震えていた。私は部屋の入り口からその様子を静かに眺めていた。彼が今の会社に入社できたのは私の父の紹介であり、昇進のたびに父が裏で取引先に手を回して実績になる案件を流していた。この家も、父から私が相続した土地と資金で建てたもの。たけしは1円も出していない。彼は自分の実力だと思い込んでいたが、実際は父の力で作られたお飾りの地位だったのだ。

「お前、お前のせいか?あ、お前が何か余計なことを言ったんだろ!」たけしが私に詰め寄ってきた。秋も一緒になって私に罵声を浴びせる。「本当におばさんって救えないわね。いい女は愛されてなんぼなのよ。たけしさんに捨てられた腹いせに彼の仕事を奪うなんて」

私は低く落ち着いた声で言った。「言い残したことはそれだけ?」二人は一瞬、怯えたように黙り込んだ。「たけしさん、あなたは私を家の飾りだと言ったわね。でもね、その飾りがなければこの家は一瞬で崩れるのよ。あなたは自分の足で立っているつもりでしょうけど、実際は私の手のひらの上で踊らされていただけ。それに気づかないなんて本当に哀れね」

私はたけしが叩きつけた離婚届を指先でつまみ上げた。「この離婚届、さっき書いたけどまだ出さないわ」「はあ?何言ってるのよ。工場際が悪いのよ」秋が叫ぶ。「出さないんじゃない。出す必要がなくなったのよ」私は二人の目の前で、その離婚届をビリビリと細かく引き裂いた。二人が目を丸くしたその時、玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。外から勢いよく扉が開けられ、黒いスーツに身を包んだ体格の良い男たちが入ってきた。中央にいたのは、白髪を綺麗に整えた異厳のある老人。私のおじさまだった。

「京子さん、遅くなってすまなかったね。準備は全て整ったよ」おじさまは合図を出し、スーツの男たちが一斉に動き出した。「この家の所有権は1時間前に京子さんから私へと譲渡された。そして私は今この瞬間を持って、この家の立ち入り禁止命令を下す。つまり君たちは今すぐこの家から叩き出されるということだ」

たけしと秋の顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。おじさまは一通の書類を突きつけた。そこには、たけしがこれまで必死に隠してきた事実が記されていた。彼が会社の経費を指摘に流用し、秋との豪遊に使っていたこと。それがバレて首になったこと。そしてその負債を片付けていたのも、私の父が残した基金だったこと。「つまりだ。たけし君は35年間、京子さんとその実家に買われていたに過ぎないんだ。君の実力だと思っていたものは全て、京子さんの父親が用意した中身のないお飾りだったんだよ」

たけしは狂乱したように家具を投げ倒し始めた。「おい、京子!お前何とか言えよ!お前、俺のことが好きなんだろう!俺がいなきゃ寂しくて死んじゃうんだろう!」私は覚めた声で言った。「たけしさん、あなたはさっき私をおばさん、役立たず、家の飾りと言ったわよね。そんなに嫌いな女に、どうして今更助けを求めるの?」「それはお前が俺の妻だからだろ!」「いえ、もう私はあなたの妻じゃない。さっきあなた自身が言ったじゃない。お前とおさらばだ、て」

私は床に散らばった離婚届の破片を拾い上げた。「この紙は破ったけれど、それはやり直すためじゃない。もっとあなたたちが地獄を味わうような方法で関係を終わらせるためよ」おじさまが合図をし、男たちはリビングにある金庫を運び出し始めた。「君が会社の金を横領し、隠し持っていた証拠の数々。そして京子さんの口座から勝手に引き出した金の記録。全て警察と弁護士に提出させてもらう」

秋が生いつばって私の足元にすがりついた。「お願い、私たち友達でしょう。これ全部冗談よね」私は彼女の指に光る指輪を冷たく見つめ、「その指輪、私の父の遺産から出た金で買ったものよ。今すぐ返しなさい」と言い、無理やり引き抜いた。二人は男たちに両脇を抱えられ、玄関へと引きずられていった。ドアが閉まり、家の中に静寂が戻った。私は深く息を吐いた。これで終わりではない。これは彼らがこれから味わう本当の絶望の、ほんの入り口に過ぎないのだ。

翌朝、たけしの弁護士・佐藤から電話がかかってきた。彼は私を精神的虐待で訴えると脅し、父の遺産の不透明な資金の流れを調査すると言い出した。「もし御破算に済ませたいのであれば、この家をたけし君に譲渡し、あなた名義の全財産の半分を彼に足すこと。そうすれば全て水に流そうと言っています」電話は一方的に切られた。さらに追い打ちをかけるように、近所の友人からSNSで変な噂が流れているとメールが届いた。動画にはたけしと秋が男たちに引きずり出される様子が映され、「資産家の妻が夫と親友を深夜に無一問で追い出した」という悪意に満ちた説明文が添えられていた。

どん底の絶望に落ち込んだその時、玄関のインターホンが静かになった。モニターに映った人物を見て、私は目を見開いた。それは私が35年間、一度も連絡を取っていなかった初恋の人であり、大学時代の先輩である健一さんだった。「京子、開けてくれ。全部聞いているよ」健一さんは、私が大学時代に書きためていた建築デザインと経営学のメモを見せてくれた。「君は忘れているかもしれないが、君は大学でトップの成績だった。君の各図面は美しく、経営の分析は誰よりも鋭かった。君をただの家の飾りにするつもりなんて、先生(父)はさらさらなかったんだよ」

そう、私はたけしも秋も知らない顔を持っていた。父は私にある秘密の仕事を任せていた。父が経営していた不動産管理会社の実質的なコンサルティング業務。私は表には出ず、ペンネームを使って会社の投資先を選定し、経営戦略を練っていたのだ。そして健一さんは、今や国内でも有数の企業の顧問を務める伝説的な弁護士になっていた。その時、佐藤弁護士から再び電話があった。私はわざと震える声で怯えたふりをした。「そんな不貞行為なんて身に覚えがありません。お願いです。これ以上、父や家族を傷つけないでください」

電話の向こうで秋の勝ち誇った声が聞こえた。「あはは、京子、情けないわね。結局はただの泣き虫おばさんじゃない」私はすっと震えていた声を戻し、冷徹で凜とした本来の私の声で言った。「たけしさん、秋。1つ大きな間違いを指摘してあげるわ。あなたがさっき言った不貞行為。その証拠は捏造されたものでしょうけど、皮肉なことに本当の証拠は私の手元にあるのよ。あなたが会社の経費で秋と泊まったホテルの領収書、秋に買い与えたブランド品の購入履歴。そしてあなたが会社の機密情報を競合他社に売ろうとしていた、そのメールのコピー。全て私がこの数年間、静かに記録していたものよ」

電話の向こうが一瞬で静まり返った。「たけしさん、あなたが務めていた会社の社長室に、今頃一通の封筒が届いているはずよ。中身はあなたが横領を隠すために細工した裏帳簿の原本。これが警察に渡ったらどうなるか、分かるわね?」「お、おい、嘘だろう。そんなのどこで手に…」「あなたが酔いつぶれて寝ている間に、鞄の中を見させてもらっただけよ。役立たずの専業主婦を甘く見すぎたわね」私はそのまま通話を切った。

しかし、事態は私の予想もしなかった方向へ動き始めた。家の外でパトカーのサイレンが鳴り響き、玄関の向こうから秋の金切り声が聞こえてきた。「おまわりさん、この家です!この家の中に私の財産を盗んだ泥棒がいるんです!」ドアを開けると、警察官2人を連れた髪を振り乱した秋と顔を真っ赤にしたたけしが立っていた。「この女が、留守の間に鍵を変えて、中にあった私の宝石や現金を持ち出したんです。数千万はくだらないわ!」私は何も答えず、ただ静かに二人を見つめた。その時、奥の部屋から健一さんが静かに姿を現した。「失礼。その金庫ですが、中身を確認される前にこちらの書類を見ていただけますか?」

健一さんが差し出したのは、詳細な財産目録だった。そこには、秋が自分のものと言い張っていた宝石の一つ一つが、私の母から受け継いだものであることが写真付きで記されていた。「さらに、こちらをご覧ください。たけし氏がこの数年間で会社から横領し、この女性の口座に還流させていた資金の全容です。盗んだのは京子さんではありません。会社資産を横領し、他人の遺産を私物化しようとしている、そちらの2人です」警察官の目つきが一瞬で変わり、たけしと秋は連行されていった。

だが、これで終わりではなかった。私たちは父が眠る古い墓地へ向かった。しかしそこで私たちを待っていたのは、秋の母親である芳江さんだった。「どうしてですって? 京子さん、あんたは本当に何も分かっていないのね。あんたの父親がうちの家族をどれだけ苦しめてきたか、その恨みを晴らしに来たのよ」芳江さんは、父が夫の土地を不当に買い叩いたと主張し始めた。健一さんは静かに一通の古い封筒を取り出した。それは父が亡くなる直前に彼に託していたもう一つの遺言状だった。

「芳江さん、あなたの旦那さんが亡くなった本当の理由。そしてなぜあなたの家が守られたのか。真実を知る覚悟はありますか?」健一さんは、芳江さんの夫が地元の闇金業者から借りていた莫大な借金の記録と、父が毎月、夫の口座に振り込んでいた生活援助金の領収書を差し出した。「先生が買い取ったのは土地ではありません。あなたの旦那さんが闇金に流してしまった借金そのものです。先生は闇金から追い込みを受けていたあなたの家族を守るために自らその負債を片付け、あなたの旦那さんのプライドを傷つけないよう、土地の売買という形にして、実は相場よりもはるかに高い金額を裏であなたの口座に振り込み続けていたんです。旦那さんはそのお金を全てギャンブルに使い込み、死ぬ間際、その恥ずかしさに耐えきれずあなたに嘘をついたんです。自分の不祥事を先生のせいにしたんだ」

芳江さんは震える手でその領収書を手に取り、その場に力なく膝をついた。その時、彼女のスマホが鳴った。警察に連行されたはずの秋からだった。スピーカーから漏れてきた声は恐怖で震えていた。「お母さん、助けて!佐藤弁護士が捕まったの!あいつ、たけしさんの横領の証拠をネタにさらに会社を強請ろうとして、芋づる式に私たちのことも警察にばらしたのよ!検察が私の家にも向かってるって!今すぐ逃げなきゃ!」「秋、もう無理よ。全部終わったのよ」芳江さんはそう言うと、スマホを地面に落とし、両手で顔を覆って泣き崩れた。

その時、墓地の入口に止まった黒い車から、たけしが降りてきた。彼は狂ったような目で、右手にライターとポリタンクを握りしめていた。「京子!お前のせいだ!お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!」強烈なガソリンの匂いが鼻をつく。彼は父の墓石に火を放とうとしていた。その時、松の木の陰から一人の男性がゆっくりと歩み寄ってきた。「そこまでだ、たけし君。見苦しいぞ」それは、たけしが務めていた建設会社の社長、松村さんだった。「君を告訴することに決めた。会社は君に対して数億円規模の損害賠償を請求する。君がこれから歩む道は、栄光のキャリアではなく、鉄格子の中と、一生かかっても返しきれない借金の地獄だ」たけしはその場に崩れ落ち、警察官に連行されていった。「京子!待ってくれ!やり直そう!俺が悪かった!お前を愛してるんだ!」遠ざかる叫び声を背に、私は父の墓石の前に立ち、静かに手を合わせた。

しかし、まだ本当の真実が残っていた。健一さんの言葉に私はハッとした。「秋は、君の家の地下室に向かっている」私は急いで家に戻った。地下室では、泥だらけになった秋がバールで鉄の扉を壊そうとしていた。「この中にあるんでしょう。あなたの父親が隠した莫大な裏金が」私は懐から小さな鍵を取り出し、ゆっくりと鉄の扉に近づいた。重い扉が開くと、秋は黄金の輝きを期待して身を乗り出した。しかし、そこにあったのは金塊でも財産でもなく、いくつもの古い箱と山のような手紙の束だった。

秋が狂ったように箱をひっくり返すと、中から彼女が小学生の頃に無くしたと言って泣いていたお気に入りのブローチが出てきた。横には父のメモが添えられていた。「秋ちゃんへ。京子が君がこれを無くして悲しんでいるのを見て必死に探していたよ。道端で見つけたけど、京子が直接渡すと君が気にすると思ってね。私が預かっておくことにしたよ。いつか君が本当に大切なものを見失いそうになった時、これを返してあげようと思う」他にも、秋が家賃を払えなくなった時に匿名の寄付として彼女を救った領収書や、彼女の母が病気になった時に最先端の治療を受けられるよう手配した病院からの手紙。その全てに、父の名前と「京子には内緒で」という言葉が記されていた。

「父はね、あなたのことを本当の娘のように思っていたのよ。そして、あなたがどれだけ私たちを憎んでいるかも、薄々気づいていた。父は言っていたわ。秋ちゃんの中にある憎しみは、彼女自身のせいじゃない。周りの環境が彼女をそうさせてしまったんだ。だから京子、お前だけは彼女を最後まで信じてやりなさい、て」秋はブローチを床に叩きつけ、叫んだ。「バカじゃないの? 本当にバカじゃないの? あなたの父親。こんなのただの自己満足じゃない。私はね、こんな施しが欲しかったんじゃないの! 私は、私は…あなたになりたかったのよ! 愛されて守られて、何も知らないまま幸せに笑っている、あなたそのものになりたかったの!」

秋は、部屋の奥にある最後の一箱に手をかけた。他のものとは違う厳重な封印がなされた箱。私が「やめて、秋。それだけは開けちゃだめ」と叫んだのと同時に、秋はその封を引きちぎった。中から一通の古い茶封筒が滑り落ちた。その中身を目にした瞬間、秋の叫び声が止まった。そして、今までに見たこともないような真っ白な顔で私を見上げた。「京子、あなた、知ってたの?」私がその文書を覗き込んだ時、私の世界もまた音を立てて崩れ去った。そこには、60年前、私たちが生まれた病院でのある事故について記されていた。看護師の不注意によって、2人の赤ん坊が入れ替わってしまったというのだ。本来、資産家の家に生まれるはずだったのは秋。そして、苦労の耐えない貧しい家に生まれるはずだったのが私。

「返してよ! 私の人生を返してよ! あなたが優雅にお茶を飲んでいる間、私はボロ家で親の喧嘩を聞きながら育ったのよ! 全部あなたが盗んだのよ、この泥棒!」秋は私を激しく突き飛ばし、床に散らばった父の手紙を足で乱暴に踏みつけた。「お父様? ふん、笑わせないで。この男は自分の本当の娘を放置して、他人の子供を可愛がってた偽善者よ!」私はゆっくりと立ち上がり、床に落ちた父の手紙を拾い上げた。「秋、あなたは1つだけ大きな勘違いをしているわ。父はね、全てを知っていたのよ。私が実の娘ではないことも、あなたが本当の娘であることも。それでも父は私を育て、あなたを見守り続けた。父が最後に残したこの手紙にはこう書いてあるわ。『京子、お前は私の誇りだ。血が繋がっていようが、お前は私の最愛の娘だ』」

その時、地下室の入り口に人影が現れた。健一さんと、そしてもう一人、憔悴しきった様子の芳江さんが立っていた。「秋、もうやめなさい。全部私のせいなのよ」芳江さんは崩れ落ちるようにその場に座り込み、涙ながらに告白を始めた。「あの書類はね、私たちがあの人を脅すために作った偽物だったのよ。60年前、私は京子さんの家と自分の家のあまりの差に絶望していた。同じ日に同じ病院で生まれたのに、片方はお姫様、片方は貧乏人の娘。それが許せなかった。だから私は当時の看護師を買収して、嘘の証言を書かせたのよ。そしてそれを京子さんのお父様に突きつけたの。あなたの娘はうちの娘と入れ替わっているかもしれない、て」

しかし、父は最初からこれが嘘だと見抜いていた。父は警察に突き出す代わりに芳江さんにこう言ったという。「芳江さん、あなたがそこまで追い詰められているなら、私はあなたを助けましょう。ただしこの嘘は墓場まで持っていきなさい。秋ちゃんには絶対に話してはいけない。彼女が自分の人生を呪うようになるから」それこそが、父が匿名で行っていた援助や過剰なまでの優しさの正体だったのだ。「嘘よ! 嘘嘘嘘嘘嘘! 信じないわよ!」秋は絶叫し、自分の母親に掴みかかった。「あんたがバカだから! あんたが中途半端な嘘をつくから! 私は、自分があの家の娘だって信じて、あいつの人生を奪うことだけを支えに生きてきたのに! 私の55年は何だったのよ!」

「もう分かったでしょう」私は低く力強い声で言った。「あなたは被害者なんかじゃない。あなたは自分の母親が作った妄想に逃げ込んで、私の幸せを壊すことを楽しんでいただけの、ただの犯罪者よ」しかし秋は床に落ちていたバールを手に取り、私に向かって構えた。その目は完全に座っていた。「全部壊してやる。この家も、あんたのプライドも、この地下室にある思い出も全部!」秋がバールを振り上げたその瞬間、階段から複数の足音が聞こえてきた。「そこまでだ、秋さん。全部録音させてもらったよ」健一さんと、そして数人の警察官が現れた。「君の口から語られる動機。それがこれまでの嫌がらせの重要な証拠になると思っていたんだ」秋は警察官に取り押さえられ、暴れ狂いながら連行されていった。芳江さんも、娘の逮捕を目の当たりにしてその場に崩れ落ち、連行されていった。

静かになった地下室で、私は健一さんに肩を抱かれていた。「終わったよ、京子。君を苦しめてきた全ての嘘が」しかし、私は父が残したあの偽物の書類を見つめながら、疑問を抱いた。なぜ父はこれを捨てなかったのか。「先生はね、君が本当の強さを手に入れることを信じていたんだと思う。家柄や財産なんてものに頼らなくても、自分の足で立ち、悪を断ち、大切なものを守れる人間に。この書類は、君への最後の試練だったのかもしれないね」

私は地下室を後にし、リビングで朝日が差し込む窓の外を見つめた。35年の結婚生活、55年の友情。全ては嘘にまみれた虚構の世界だった。でも窓の外に広がるこの庭も、父が守ってきたこの土地も、そして私の心にある父の愛も、それだけは本物だった。私は、ある決断を下していた。この家の下には、金塊などよりもはるかに価値のあるものが眠っていた。それは温泉だった。父は、その利権を狙うハイエナたちからこの静かな町を守るために、あえてその存在を隠し続けていたのだ。私はその土地を全て児童福祉施設の建設用地として寄付し、家を取り壊すことにした。そうすれば、誰も私を狙わない。

面会所で、たけしは泣き叫んだ。「京子、頼む、考え直してくれ。俺が悪かった。全部あの女に騙されたんだ。離婚届は取り下げてくれ。俺にはお前が必要なんだ」私は冷え切った目で彼を見つめ、告げた。「たけしさん、あなたは私が必要なんじゃなくて、私の背後にあるお金と家が必要なだけでしょう。でも残念ね。あなたが死に物狂いで手に入れようとしたあの家は、もうすぐこの世から存在しなくなるわ。あの土地は全て、この町の児童福祉施設の建設用地として寄付することに決めたの」そして、彼が長年私の実家の会社から搾取していた不正不明金の総額3億5千万円を、全額損害賠償として請求すると伝えた。「あなたはこれから出所しても、一生借金取りに追われながら、最低賃金で働き続けることになるわ。それが、私を役立たずのおばさんと呼んだ代償よ」

次に、秋に会いに行った。秋は鉄格子越しに真っ赤な顔で叫んだ。「お母さんが言ったことは全部嘘よ! 私はやっぱりお嬢様なのよ! あんたが金を払ってお母さんに嘘をつかせたんでしょう!」彼女はまだ、自分が作り上げた妄想の世界から抜け出せずにいた。「秋、もういいわよ。そんな惨めな嘘、誰も信じない」私は静かに彼女を見つめ、最後通告を突きつけた。「あの土地には、あなたの人生を何千回もやり直せるくらいの価値があった。でもあなたは自分の欲と嫉妬のせいで、そのチャンスを全てドブに捨てたのよ。自らの手で、自分が輝くはずだった未来を焼き払ったのよ」私は、彼女が後悔の叫びをあげる前に、その場を立ち去った。

それから半年後。かつて私が家と呼んでいた場所には、新しい福祉施設が完成していた。私は大学時代に取得しながらも、たけしの「女に学歴は不要だ」という言葉に縛られて眠らせていた一級建築士の資格を再び手に取り、自分の手で施設の設計を行った。駅前の大型ビジョンには、華やかなドレスに身を包んだ私の姿が映し出されていた。「本日、この町の新しいシンボルとなる福祉センターが開館いたしました。設計を担当したのは、一級建築士の資格を持ち、長年この町の景観を見守ってこられた、こちらの京子さんです」たけしは、その映像を見つめながら屈辱と後悔で顔を歪めていた。画面の中の私は、こう言っていた。「私にはかつて家族だと思っていた人たちがいました。でも本当の家族とは、血の繋がりや時間ではなく、お互いを敬う心で繋がるものだと気づいたんです。私はこの場所で本当の絆を育んでほしい。父の遺産を、未来への希望に変えたかったんです」

式典の後、私はおじさまと健一さんと共に、完成したばかりの足湯に浸かっていた。「京子、本当によくやったね。お父様も天国で喜んでおられるよ」その時、私のスマホに一通の通知が届いた。たけしが最後にすがろうとしていた闇金の業者からだった。「京子様、たけしという男が逃げようとしたので捕まえておきました。こいつ、あなたの名前を出して『あいつが金を払う』と言い張っております。どういたしましょうか?」私はそのメッセージを1秒だけ眺め、迷わずブロックした。私は立ち上がり、新しい施設の入り口を見上げた。そこには元気に走り回る子供たちの姿があった。私は今、かつてないほどの自由を感じていた。誰かの妻でもなく、誰かの親友という役割に縛られることもなく、私は私として生きていく。

施設の事務室に戻ると、デスクの上に一通の古い封筒が置かれていた。父の力強い筆跡で「京子が本当の自由を手に入れた時に開けること」と書かれている。風を切ると、中から3枚の便箋と小さな古びた写真が出てきた。それは、私と若かりし頃の父、そして幼い頃の健一さんが一緒に映っている写真だった。父の手紙にはこう書かれていた。「最愛の娘、京子へ。この手紙を読んでいるということは、お前はもうあの窮屈だったたけしという男との生活から解き放たれたのだな。そして秋ちゃんとの偽りの友情からも卒業したのだな。お前は私が思うよりもずっと強くて美しい女性に成長してくれた。それが私の一番の誇りだ。最後にもう1つだけ伝えておかねばならんことがある。お前の隣にいるであろう健一君のことだ。実は彼を呼び戻したのは私だ。もし京子が道に迷い、全てを失うようなことがあったら、その時はお前が彼女の光になってやってくれと彼に託しておいたのだ。健一君はお前との約束をずっと守り、今日まで一人でいてくれた。京子、お前はもう十分すぎるほど頑張った。これからは誰かのために自分を殺すのではなく、自分のために、そして心から信頼できる人のために、その笑顔を使いなさい」

私は顔を上げ、健一さんを見つめた。彼は照れ臭そうに頭をかきながら、私のそばに歩み寄ってきた。「先生から手紙が来た時は驚いたよ。でも、君のことを1日も忘れたことはなかった。京子、遅くなってごめんね」私は静かに微笑んだ。「健一さん、あなたはずっと待っていてくれたのね。35年という長い年月。私は自分の居場所を必死に守っているつもりでしたが、実は一番大切な場所を、自分から閉ざしていたのかもしれません」その時、事務室の窓から外を見ると、オレンジ色の夕焼けが街を包み込んでいた。すると、入り口の辺りで何やら騒がしい声が聞こえてきた。見ると、そこにはボロボロの格好をしたたけしの姿があった。警備員に取り押さえられながら、彼は必死に紙を振り回していた。「京子! いるんだろ! 頼む! この手紙を読んでくれ! 反省文を書いたんだ! もう1度だけチャンスをくれ!」私は事務室の窓を静かに開け、彼に向かって一言だけ告げた。「たけしさん、その手紙は警察に提出なさい。あなたのこれまでの横領の追加の証拠として役に立つでしょうから。警備員さん、その方を不法侵入でつまび出してください」「な、なあ、京子! 冷たすぎるだろう! 俺たちは35年も一緒にいたんだぞ!」「ええ、その35年をゴミ箱に捨てたのは、あなたよ。さようなら、たけしさん。あなたの名前は、私の人生の記録から今この瞬間に完全に削除されました」私はきしゃりと窓を閉めた。

数日後、秋の母親である芳江さんが静かに息を引き取ったという知らせが入った。彼女は最後まで、娘の秋には会いたくないと言い残したそうだ。自分のついた取り違えという嘘が、結果として娘を怪物に変えてしまった。その罪の意識が、彼女の命を縮めたのかもしれない。秋は、その事実を伝えられても、泣くことも悔やむこともなく、ただ一晩中独房で「私はお嬢様なのに」とつぶやき続けていたそうだ。彼女の心は、自分たちが作り上げた偽りの物語の中に、永遠に閉じ込められてしまったのだろう。

1ヶ月後、私は健一さんと共に父の墓前に立っていた。「お父様、私は今、とても幸せです」隣では、健一さんが優しく私の手を握ってくれている。55年間親友だと思っていた人は消え、35年間夫だと思っていた人も消えた。でも私の手の中には、もっと暖かくて確かな絆が残っている。「さあ、これから2人で新しい思い出を作っていこう。まずは君が設計したあの足湯に、一緒に入りに行かないか」「ふふ、いいですね。でもその前にお父様の好きだったあのお店のケーキを買って帰りませんか?」「賛成だ。お腹も空いてきたしね」私たちは笑い合い、ゆっくりと墓地を後にした。私の人生は60歳にしてようやく幕を開けたのだ。これまでの苦しみも悲しみも、全てはこの日のための布石だった。嘘をついた者は闇へ。真実を求めた者は光へ。それが、この世界にある一番シンプルな正義なのだと思う。私は深く息を吸い込み、未来へと続く一歩を踏み出した。私の周りには、もう嘘はない。ただ穏やかな風と、愛する人の温もりと、そして父が見守ってくれているという安心感だけがあった。

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