「遺産は全部私たちのもの」
隣の部屋から、夫の声と義母の声が聞こえた。私は配信の休憩中で、イヤホンを外したちょうどその瞬間だった。
「ついに魔王も旅立った。遺産は全部私たちのもの」
何の話をしているのかと扉を開けると、そこには抱き合い、キスをしている夫と義母の姿があった。
「バレたか。実は幸さんの方が相性がいいんだ。アニメの聖女にも似てる」
「そういうことよ。かわいそうだけど、年は私がいいんだって」
「あ、そう。分かったわ」
私はあっさり離婚を承諾した。
「言っとくけど、お父さんの遺産は1円もあげないわよ。1人で寂しく頑張りなさい」
私は相続放棄の証明書を突きつけた。
「随分聞き分けがいいじゃない」
雪野は嬉しそうに笑っている。
「他人はさっさと出て行ってちょうだい」
「それはいいけど、大丈夫?」
その直後、年と雪野は顔を青ざめさせた。
私は緑、38歳。フリーランスのITエンジニアとして働きながら、3歳年下の夫・年と両親の4人で暮らしていた。
年と出会ったのは10年以上前のことだ。当時アニメにはまっていた私は、週末を利用して友人と好きなキャラクターのお披露目イベントに参加していた。コスプレをして同じような人と触れ合うことで、日頃のストレスも発散され、現実世界から離脱できる。まだエンジニアとして駆け出しだった私は仕事で失敗して落ち込むことも多く、週末に現実逃避をする時間が日常を乗り切るためにどうしても必要だったのだ。
ある日、イベント会場で男性から声をかけられた。それが年だったのだ。
年は私が演じていたキャラクターの大ファンだと言い、同じ物語が好きということもあって、私たちはすぐに意気投合した。当時まだ大学生だった年とのデートはとても楽しかった。大人として格好つける必要もない。大好きなキャラクターになりきった会話をしても年は同調してくれ、それだけでも私は癒されていたのだ。
やがて年が大学を卒業し就職したのを機に、私たちは結婚し都内で新婚生活を始めた。年は市役所で公務員として働き、週末は2人でイベントに出かける。この頃には私はITエンジニアとして管理職を任されることになり、仕事もプライベートも順調だった。
平日はスーツを身にまとい、それぞれ会社へと出かけていく。帰宅後はお互いの好きなキャラクターにふんして家事を行い、一緒に食事を食べ、同じベッドで眠る。そんな日常がとても心地よかった。
しかし年は就職したばかりで給料も低く、趣味に費やすお金を考えると生活費の負担が難しい。それでも私の収入があれば何も問題がなかったため、年の給与はそのまま彼に管理を任せていた。
ただ年のめり込みようは私以上だった。女の子の人形を山ほど集め、物語に出てくる本を奇跡を起こす聖書のように大切に抱え、毎日衣装を着てマントを羽織り、魔法を使う練習に明けくれていたのだ。
「日々の鍛錬が大事だ」
と言い、1日も欠かさず魔法の練習をする年は、本当に魔法が使えるようになると信じていたのかもしれないが、さすがに少し引いてしまう。それでも2人でいられることが私は幸せだった。
結婚から3年ほどが経った頃、私に転機が訪れた。ITエンジニアとして独立することが決まったのだ。私の父は若い頃から自身で観光業を営んでおり、国内大手の観光グループにまで成長させた。グループの総帥として君臨する父を見て育った私は、いつか父のように自分の会社を持ちたいと思っていたため、独立が決まったことは私にとって大きなチャンスだった。
しかしフリーになると様々なことが変化した。待っているだけでは仕事の依頼は来ない。会社員時代に担当していた会社でさえも、個人になった私に契約を変えてくれることはなかった。そのためSNSを通じて自身の強みをアピールしながら、小さな仕事から大きな仕事まで時間が許す限り取り組むようになった。
次第に私の中でそれまでとは仕事にかける情熱が変わり、仕事量も増え、少しずつ趣味にかける時間が減っていった。それに加え、私が年齢を重ねたことも相まって、お披露目を卒業することにした。
年はそんな私のことも理解を示してくれた。相変わらず彼はアニメの推しに夢中だったが、私が仕事に手を取られている時は積極的に家事もやってくれる。アニメに出てきたものを参考にしたと作ってくれる料理は絶品で、魔法の修行にもなると言って掃除や洗濯も嫌がることなく手伝ってくれた。
そのおかげもあって、独立して2年も経つと顧客も増えていき、会社員時代よりも多くの収入を得られるようになった。何もかもが順調に見えていた。
しかし、そんな中、実家から電話がかかってきた。母からだ。
母の雪野さんは私の地元の元観光大使で、実の母が病死した3年後、父と再婚した。父と雪野さんは仕事で度々一緒になることがあったそうだが、男手1つで私を育てていくのは大変だろうと雪野さんからアプローチがあったという。
父から再婚しようと思うと話をされた時、正直私はすぐに賛成することができなかった。当時はまだ中学生だった私は母のことが忘れられず、新しい母親は必要ないと思っていた。それでも父の気持ちを考えると絶対に嫌だとも言えず、受け入れるしかなかった。
雪野さんが家にやってきてからというもの、私は居場所がなくなったような気がした。父は仕事が忙しく雪野さんと2人で過ごすことが多かったが、彼女は私に関心を示さず、最低限の家事をするだけで毎日のように外へ出かけていく。だからと言って雪野さんが悪いわけではない。私の方も、母親として受け入れることが難しかったのだ。
大学に進学するのを機に実家を出てからというもの、雪野さんが私に連絡してくることは皆無だったというのに、一体どうしたのだろうか。もしかしたら父に何かあったのかもしれないと不安を感じながら電話に出た。
「陽介さんが突然倒れたの。今病院で検査を受けてるけど、どうなるか分からない。とにかくすぐに病院に来てちょうだい」
父が倒れたと聞き、私は急いで病院へと向かった。到着すると、そこに雪野さんの姿はなく、父は1人で病室で寝かされていた。医師の話によれば、父は脳梗塞だったらしい。救急搬送が早かったため、一命は取り止めたものの、後遺症が残るという。リハビリを重ね、退院できたとしても自力で生活するのは難しいと言われた。
その夜、私は実家を訪ね、雪野さんと今後のことを相談することにした。
「介護なんて私、嫌よ」
「だけどお父さんは自力では生活できないって」
「私は何不自由ない暮らしをさせてやるって言うから結婚したの。介護するためじゃないわ」
雪野さんは何が何でも父の介護はしないと言い張ったのである。退院した後、父は1人寂しく寝たきり生活を送ることになるというのか。父の身を案じた私は、自宅に戻り年と相談することにした。
「お父さんの介護のために実家で同居しようかと思ってるの」
「珍しいな。僕もお父さんとの同居を望んでいたんだ」
驚いたことに、年は二つ返事で了承してくれた。
「地方に移住することになるけど、嫌じゃないの?」
「嫌なもんか。魔法の修行のためにも、ここより落ち着いたところに行きたいって思ってた。それが緑の実家ならなおさらいいことじゃないか」
年は前々から田舎暮らしがしたかったという。理由はどうあれ、実家での暮らしができることに私はほっと胸を撫で下ろしていた。
数週間後、年は実家近くの市役所に勤務することとなり、私たちは移住した。それを機に、私はITエンジニアとして働きながら、地方での働き方を配信する技術系インフルエンサーとしてデビューすることにして事業を続けた。
しばらくして父は退院し、実家に戻ってきた。病院でリハビリを受け、多少回復したが半身不随となり、何をするにも介助が必要な状態だった。
「命が無事だっただけ良かったと思わなくちゃね」
「面倒かけてすまない」
正直なところ、弱っている父を見るのは辛い。私の記憶にある父はいつも自信に満ち溢れ、部下たちに的確に指示を出し、家族を守るため最前線で戦う姿なのだ。その父が自力で動けなくなり、弱気になっている。それでも気持ちを強く持ってほしい。私は父を励まし続けた。
その日から私の介護生活が始まった。雪野さんは宣言通りと言うべきか、父の介護を拒否し、毎日エステだ買い物だと贅沢を繰り返している。年は魔力強化を図ると言い、毎日どこかに出かけてしまう。そのため父の介護は私が1人で行った。
仕事の打ち合わせで出かける時はヘルパーさんに来てもらいながら家事と仕事をし、私の日常は多忙を極めた。それでも弱音を吐くわけにはいかない。父がまた元気な姿を見せてくれると信じて、私は毎日自分を奮い立たせながら耐えていた。
ある日、仕事の帰りに夕飯の買い出しに駅前のスーパーへと向かっていると、カフェにいる年を見つけた。そのカフェは全面ガラス張りのため、外からも店内の様子が見て取れる。年の向かいには雪野さんが座っていた。
実家に移り住んでからというもの、年と雪野さんが2人で話しているところを頻繁に見かけるが、カフェで一体何の話をしているのだろうか。
この日、年は朝からアニメのイベントがあると出かけたため、キャラクターのコスプレをしている。よく見ると、一緒にいる雪野さんも同じアニメに登場するキャラにふしていた。まさか2人でイベントに出かけたのだろうか。
雪野さんはいわゆるアニメ好きのオタクと呼ばれる人種を嫌っていた。当然、年の趣味も理解を示していないものと思っていたのだが、心境の変化があったのだろうか。2人は楽しそうに笑いながら何やら話し込んでいるようで、私は一瞬の不安を覚えた。
しかし、考えてみれば、年の妻は私であり、義理の母である雪野さんが特別な関係があるはずがない。私は自分に思い過ごしだと言い聞かせ、家に帰った。
しかしその後も、度々年と雪野さん2人でいるところを見かけた。2人でテレビの前に座り、アニメに夢中になっていたり、新しいイベントの話をしている。
「雪野さんもアニメに興味があるんですか?」
「ええ、年さんに教えてもらって見てみたら面白いと思って、すっかりはまってるわ」
雪野さんは父の妻とはいえ、私と年齢もさほど変わらない。元観光大使という肩書きを自慢するため、エステにも力を入れている成果もあって、見た目年齢で言えば私より若く見える。とはいえ、40歳を過ぎてコスプレにはまるのはいかがなものか。父が知ればきっと激怒するだろう。
そう思った私は、くれぐれも父にバレないようにと忠告した。同時に年にも、雪野さんと過ごすのは控えるように伝えた。しかし、それからも2人は一緒に過ごすことをやめなかった。
数日後、仕事で遅くなり、急いで家に帰ると、リビングから2人の話し声が聞こえてきた。
「早く聖女と一緒になりたい」
「もうしばらく辛抱するのです。まだ魔王は生きています。あなたの魔法で魔王を倒すのです」
また何かのシナリオを演じているのかと、私は半ば呆れながらリビングのドアを開けた。その時、年と雪野さんが咄嗟に離れたような気がした。
「あ、あら、もう帰ってきたのね。思ったより早かったわね」
「またキャラクターのなりきりごっこ?」
「ああ、雪野さんすごくうまいんだ」
年と雪野さんは何食わぬ顔をしているが、どこか怪しい。私が留守の間、2人が何をしていたのかと大きな不安に駆られ、その日から2人の動向を注意深く見るようになった。
しかし、私が家にいる間は2人に怪しい行動は見られない。相変わらず仲がいいようだが、夫と義理の母以上の関係は見られなかった。私の思い過ごしだろうと思ってみても、心のどこかに納得しきれないものが残る。それでも誰にも相談できず、私は1人で不安を抱え込んでいた。
数年後の春、ずっと家のベッドで過ごしている父のために、私は介護タクシーを依頼し、花見に出かけることにした。年と雪野さんも誘い、家族4人で出かけようと思ったのだ。
「寝たきりの老人と一緒に出かけるなんて嫌よ」
あろうことか、雪野さんは自分の夫である父と出かけたくないという。
「俺も花見より魔法の修行をしたい」
年も、せっかくの貴重な休みを父に使いたくないというのだ。
「お父さんにもっと元気になって欲しくないの?」
「寝たきりが治るならともかく、もうお前みたいに動けないんでしょ。そんな人に何をしたって無駄よ」
雪野さんの言葉に、私は怒りを感じた。
「分かった。そんなに嫌なら無理に来てくれなくていいわ」
私は父と2人で出かけることにした。
当日、ヘルパーさんにも手伝ってもらい、父を連れ出すと、父はとてもいい笑顔を見せてくれた。
「いい風が吹いている。こんなに気持ちいい空気は久しぶりだよ。緑、ありがとう」
「これからも毎年お父さんと一緒に桜を見に行きたい。だから長生きしてくれなきゃ怒るからね」
父の体調を考え、2時間ほどの外出だったが、久しぶりに外の空気に当たって疲れたのだろう。その日、父はいつもより早めに寝てしまった。
その夜、私が書斎で仕事をしていると、隣の部屋から年の声が聞こえてきた。
「聖女よ。我はどうすればいいのだ。もう苦しくて仕方ない」
またアニメごっこをやっているというのか。年の趣味は理解しているが、35歳にもなってまだ中二病のような彼に呆れてしまう。朝から晩まで家事と仕事と介護に追われている私は、いつの間にか年に対して不満を抱くようになっていた。せめて家事だけでも手伝ってくれたら少しは楽になるのだが、この頃には年は家事も私に丸投げで、雪野さんと異世界ごっこをすることに夢中だった。
この日は父の外出にも付き合い、疲れていたせいか、私は苛立ちが抑えられず年の部屋を訪ねた。
「ちょっといい加減にしてくれないかしら?」
年に文句を言いながらドアを開けると、驚いたことに雪野さんの姿まである。
「2人で何してるの?」
「ちょっと話をしてただけよ。それよりそんなに怒ってどうしたの?」
妻とはいえ、母が娘の夫の部屋で過ごすことがあるだろうか。仲がいいのはいいことだとは思うが、私の目を盗むように夫の部屋を訪ねる雪野さんにも、それを受け入れている年にも疑念が湧き起こる。
「もう夜も遅いので、そろそろ寝てください」
私はそれ以上の言葉が出なかった。雪野さんと年がただならぬ関係ではないかと感じて仕方なかった。
しばらく経ったある日、私と雪野さんを父が呼び出した。父は自分の命は長く持たないと思い、遺産のことをちゃんと伝えておきたいというのだ。遺産と聞き、雪野さんは浮かれながら父の部屋に向かった。
「俺の全財産は妻である雪野に譲る。緑には一銭も残さん」
「まあ、それじゃ介護してくれてた緑さんに悪いわ」
雪野さんは白々しい演技をしているが、以前からこそこそと父に私の悪口を吹き込んでいたことを私は知っている。
「私のことなら気にしなくてもいいわ。元々父の財産を当てにしてないから」
「そう。それじゃ遠慮なく相続させてもらうわね」
父の部屋を出た瞬間、雪野さんは全財産を独占できると大喜びしていた。
父が亡くなることなど考えたくはないが、寝たきりになってからというもの、父はどんどん元気をなくしている。体力が落ち、話す声にも張りがなくなり、何より父自身の気力が下がっていた。それでも1日でも長く生きてくれることを私は願っていた。
しかし、それから1ヶ月も経たないうちに父は亡くなった。最後は肺炎を患い、治療の甲斐も虚しく息を引き取った。
あまりにもあっけない最後が、父らしいとも思える。父はどんな時も潔い人だった。長い闘病生活からようやく解放された父は、天国で羽を伸ばしてくれるだろう。そう願いながら、私は父を見送った。
父の葬儀には多くの人が参列してくれ、67歳という早すぎる死を悼んでくれた。しかし、葬儀が終わった直後、親戚たちが引き上げたのを確認した雪野さんは香典を数え出した。
「たくさん集まったわね。当然このお金も私のものよ」
あろうことか、父が亡くなったばかりだというのに、雪野さんはほくそ笑んだのである。そればかりか、翌日には父の遺品を換金し、ブランド品を買い漁っていた。父の遺産の全てを相続するとはいえ、四十九日も待てない雪野さんに不審感が湧き起こる。
数日後、私は普段通り動画配信を開始した。父のことがあり、久しぶりの配信となったが、多くの視聴者が集まってくれている。この日のテーマは「ネットを使った事業で自分らしい生活スタイルを確立させる」というもの。ITエンジニアとしての経験と地方で暮らす利点を折り混ぜながら話をし、15分の休憩を取ることにした。その間に視聴者からの質問を募集し、再開後に答えていくというスタイルだ。
水分補給をしようとイヤホンを外し席を立つと、隣の部屋から年と雪野さんの会話が聞こえてきた。
「ついに現世の魔王を追放する時ぞ」
「聖女よ、共に理想郷へ参ろうぞ」
「あら、魔王さんも旅立った。遺産は全部私たちのもの」
いつもの妄想ごっこかとも思ったが、その内容に私は引っかかってしまった。私は2人が何の話をしているのかと扉を開けた。
部屋では、年と雪野さんが抱き合いキスをしている。年は衣装とマスクで仮装し、雪野さんは胸が大きく開いた聖女姿をしていた。2人は扉が開いたことにも気づいていないのか、何度も唇を重ね合わせ、愛を囁き合っている。
「何してるの?」
私の声に驚いた顔を見せた2人だが、すぐに開き直ったようだ。
「バレたか。実は雪野さんの方が相性がいいんだ。アニメの聖女にも似てる」
「そういうことよ。かわいそうだけど、年は私がいいんだって」
やはり、年は雪野さんと不倫していたのだ。
「僕は雪野さんと一緒になる。だから緑とはさよならだ」
「あ、そう。分かったわ」
私はあっさり離婚を承諾した。
「本当にいいのか?」
「ええ、何の未練もないわ」
あまりにも私が素直に受け入れたことに年は驚いているが、この時にはすでに彼への愛情など消え去っていた。
「言っとくけど、お父さんの遺産は1円もあげないわよ。1人で寂しく頑張りなさい」
「そんなものいらないわ」
私は相続放棄の証明書を突きつけた。
「ついでに言っとくけど、財産分与はなしってことで」
「あら、それは殊勝な心がけね」
雪野さんはしばらく海外旅行を楽しんでくると嬉しそうに語っている。それに同調するように、年も異世界ファンタジーの世界を堪能してくると大喜びしている。
「欧州の古い街並みを異世界だなんて、いつまでごっこ遊びやってるの?」
「いいじゃない。あなたは他人なんだから、さっさと出ていってちょうだい」
「それはいいけど、でも大丈夫?」
2人は私の言葉の意味が分からず、首をかしげている。
「今、生配信中よ」
私は2人とのやり取りが全てライブ配信されていたことを明かした。雪野さんは慌てて顔を隠し、侵害だと喚き散らしたが、配信中にただならぬ会話を始めた2人が悪い。
「仕事の配信中だったのよ。冗談じゃないわ」
「それより」
私は書斎の棚から複数の書類を持ち出し、雪野さんに突きつけた。その書類は、亡き父の観光グループが巨額の負債を抱えていた事実を証明している。
「何よ、これ。どうして言わなかったのよ」
父が資産家だと思っていた雪野さんは、負債の額を見て激しく取り乱した。
「全国の人が知ってることだから、きっとあなたも知ってるものだと思ってたわ」
父の観光グループが破綻の危機的状況にあることは、数年前から全国紙でも繰り返し報じられていた。知らない方がおかしい。しかし雪野さんは自分の美容と遊ぶお金にしか興味がなく、ニュースにも無関心だった。SNSでも倒産の噂は流れていたが、彼女は「どの業界にも成功者を妬むアンチはいるもの」と気にしていなかった。
父が過労で倒れたのは、巨額の負債を抱え、資金繰りや返済で無理をしすぎたためだった。どれだけ負債を抱えても、父は会社を倒産させたくないとギリギリのところで踏ん張っていた。そんな父の気持ちを案じ、倒れてからは私が代わりに返済を続けてきた。
「でも、相続放棄したし、もう私が支払う義務はないわね」
実は、最初に相続放棄を提案してきたのは亡き父だった。父は自分が倒れた際、会社の存続を諦め、弁護士を呼び破産手続きを行った。しかし会社の負債は全て父が連帯保証人になっているため、遺産を相続すればその借金も追うことになる。私に迷惑をかけたくないと、父は放棄することを勧めてくれた。しかし、年と雪野さんの関係に気づいていた父は、雪野さんにその事実を伝えなかったのだ。
「だったら私も相続放棄するわ。マイナスの遺産なんていらない」
「それは無理よ。雪野さんはすでに父の遺産を換金し、不倫旅行の予約をし、ブランド品まで購入している。つまり、雪野さんは遺産の相続を単純承認してしまっているの」
生活費として認められ、承認したとはならない可能性はあるが、雪野さんは高額な買い物ばかりしている。単純承認と見なされてもおかしくない。
「そんな借金、どうやって返していくのよ」
「我に恐れるものは何もない」
年は裏返った声で雪野さんを励まそうとしているが、地方公務員の給料で多額の返済ができるわけがない。
「いや、普通に無理でしょう」
私は、年が給与の全てを趣味のフィギュアに使い果たしている事実を告げた。それに加え、高額なフィギュアの購入のため借金も抱えている。
「私と別れたら返済はおろか、日々の生活も厳しい状況となるのは間違いない」
「お前の小賢しい魔法など、我には聞こえぬ」
この後に及んでも、年はまだ中二病を続けるつもりのようだ。
「マジで考えていってるの? 説得力ゼロなんだけど」
雪野さんは、公務員をしている年であれば将来は安泰だとでも思っていたのだろう。興味もないコスプレにはまるふりをしてまで年を手に入れたというのに、実際は現実逃避しかしない債務者だったのだ。
「そういうことだから、さようなら」
私は2人を残し、家を後にした。
翌日、年が務める市役所には、配信を見ていた視聴者からのクレームが多数寄せられたらしい。それにより年の不倫が市役所でも問題となったようで、彼は公務員を解雇されてしまった。
数日後、雪野さんの元には銀行と債権者が押し寄せた。5億円を1人で返済することになった雪野さんだが、無職の彼女に返済などできるはずがない。それでも相続してしまった負債が消えることはなく、雪野さんは自己破産を選んだようだ。しかしそれにより、雪野さんが相続した財産は全て差し押さえられることとなった。その結果、雪野さんと年は実家から強制退去させられ、雪野さんの所持していたブランド品たちも全て没収されてしまった。
慌てて安アパートに身を寄せた2人だったが、すぐに生活は困窮したそうだ。
数日後、困り果てた年は私に泣きついてきた。
「これは魔族の陰謀だ。我は操られていたんだ」
「つまり何が言いたいわけ?」
どこまで行っても現実世界の話ができない年に、私は呆れてしまう。
「洗脳されてはならぬ。我の本心は緑にある」
「本当にいい加減にしたら」
私は年に不法行為の慰謝料を請求すると告げ、その後の連絡を全て無視することにした。その上で弁護士を通じて慰謝料請求を行い、その結果、年は大好きなフィギュアたちを差し押さえられることとなり、専門業者に買い叩かれてしまったようだ。
その後、再就職を試みたようだが、SNSで年の言動が暴露されてしまったことで、誰もまともに話を聞いてくれなかったらしい。それでも借金の返済は容赦なくやってくる。日に日に重なる借金の取り立て電話に怯え、現実から逃げ出したくなった年は、
「これが我が究極の魔法だ」
などと叫んでは、目に見えない不思議な力を操る真似に明け暮れているのだとか。その姿に呆れた雪野さんは「もうバカには付き合ってられない」と家を飛び出し、そのままどこかに行方を晦ましてしまった。
1人残された年は家賃を支払うこともできず、しばらくしてアパートからも追い出されてしまったらしい。その後は公園で寝泊まりをしながら意味の分からない妄想を繰り返し、近くを通る人から異端者として奇異の目で見られているようだ。
私はと言うと、裏切った夫と義母、そして父の巨額の返済地獄から解放され、伸び伸びと羽を伸ばしている。一連の騒動を見ていた視聴者からの励ましもあり、今でもフリーのITエンジニアとして活動する傍ら、自慢の田舎暮らしを配信している。
実は、実母が亡くなった時の遺産を私は使わずに取っておいた。近々、その遺産を使って自身の会社を立ち上げるつもりだ。父の観光グループは全世界的に蔓延した感染症のせいで倒産にまで追いやられてしまったが、私のITエンジニアとしてのスキルを活用して再起できればと思っている。
亡き父が最後に見せてくれた誇りを胸に、私はこれからも逞しく生きていく。もう誰にも私の人生を邪魔させるつもりはない。



