高級ブランド店の入り口で、その声は響きました。
「あなたみたいな地味なおばさんには、こういう生活一生無理よね。」
声の主は、夫の腕にすがりつくように立つ若い女性でした。夫の剣一は私をかばいませんでした。それどころか、まるで邪魔なものを見るような冷たい目で、私と隣に立つ10歳の息子を見下ろしていました。
私は怒鳴りませんでした。泣き叫ぶことも、女性に掴みかかることもしませんでした。ただ、息子の小さな手をしっかりと握りしめ、静かにその場に立っていました。
「ほら、け一さん。早く行きましょうよ。空気が悪くなっちゃう。」
女性は剣一の腕を引っ張りました。剣一の顔には、妻を馬鹿にされた怒りなど微塵もありません。むしろ、若い女性に頼られ、自分の財力を誇示できる優越感で満たされているようでした。
私は握りしめていた息子の手に、少しだけ力を込めました。
「ごめんね。こんな場面を見せてしまって。」
心の中で息子に謝りながら、私は視線を下げました。すると、息子が私の手を強く握り返してきました。見上げると、息子は泣いていませんでした。それどころか、信じられないほど冷静な目で、夫と若い女性を交互に見つめていたのです。そして、ふっと小さく笑いました。
「ママ、帰ろ。あの人たち、かわいそうだね。」
10歳の子供とは思えない、静かで冷たい声でした。女性が顔をしかめました。
「ちょっと何よ、この子。」
息子は女性を無視し、私を見上げてにこっと笑いました。
「ママ、プレゼントは僕から渡すからね。明日楽しみにしてて。」
私は無言で頷き、息子を連れてその場を離れました。背後から女性の苛立った声と、剣一の宥めるような声が聞こえました。
夫は、私が何も知らない、何もできない女だと思っています。女性も、見窄らしい妻に勝利したと思っているのでしょう。けれど、この時の2人はまだ知りませんでした。息子が言ったプレゼントの意味を。そして、明日の朝、自分たちが立っている場所が音を立てて崩れ落ちることを。
帰り道、私たちは何も話しませんでした。駅に向かう人混みの中を、ただ黙って歩きました。私は息子の背中を見つめながら、これまでの数ヶ月を思い出していました。夫の帰りが遅くなり始めたのは、半年前からです。
「急な出張だ」「会議が長引いた」
そんな言い訳が増え、週末も家にいないことが多くなりました。夫のスーツからは、いつも先ほどの女性と同じ甘い香水の匂いがしていました。私は気づかないふりをしていました。息子から父親を奪いたくなかったからです。けれど、それは私の身勝手な思い込みでした。息子はとっくに気づいていたのです。
電車の中で、息子は窓の外をじっと見つめていました。
「誠、ごめんね。」
私が小さく声をかけると、息子は振り返りました。
「なんでママが謝るの?」
「だって、パパがあんな…」
「パパはもう、パパじゃないよ。」
その言葉に、私は息を飲みました。息子の目は、悲しみを通り越して、静かな決意に満ちていました。
「ママはずっと我慢してたよね。僕のために。」
私は何も言えず、ただ唇を噛みました。
「でも、もういいんだよ。僕、全部知ってるから。」
息子は自分の小さなリュックサックを両手でぎゅっと抱え込みました。その中には、彼が数週間前からこっそりと集めていた、あるものが入っていることを私は知っていました。
家に帰ると、部屋の中はしんと静まり返っていました。夫のいない週末の家は、皮肉なほど穏やかでした。私はキッチンでお茶を入れ、息子と一緒に飲みました。
「僕、ちょっと部屋でやることがあるから。」
息子はリュックを持ったまま自分の部屋へ向かいました。その背中を見送った後、私は寝室に向かいました。
クローゼットの奥に隠してある小さな金庫を開けます。中には、亡き父が残してくれた会社の書類と一通の契約書が入っていました。父は3年前に亡くなりました。小さな部品メーカーでしたが、父が人生をかけて育てた大切な会社です。夫は父の死後、「俺が社長を継ぐ」と言い出しました。私は夫を信じ、社長の座を譲りました。しかし、会社の株式の8割は私と息子が相続しています。夫はただの雇われ社長に過ぎません。それなのに、夫はいつの間にか会社も財産も全て自分のものだと錯覚するようになりました。
通帳の残高を見つめながら、私は冷たい息を吐きました。夫の個人口座には、毎月不自然な額の金が振り込まれています。会社の経費として処理している証拠は、すでに私の手元にありました。あの若い女性は、夫をお金持ちの優秀な経営者だと信じ込んでいるのでしょう。夫もまた、彼女の前で見栄を張り続けるために、会社の金を使い込んでいたのです。
「あなたには一生無理ね。」
先ほどの女性の言葉が耳の奥で蘇りました。私は通帳を閉じ、静かに目を閉じました。彼女が持っていたあの高級バッグも、私が着ている安い服も、全ては父が残した会社のお金で買われたものです。私は金庫を閉め、鍵を握りしめました。手のひらに、冷たい金属の感触が食い込みました。
夜になっても、夫は帰ってきませんでした。おそらく、あの女性のマンションに泊まっているのでしょう。夜10時を過ぎた頃、私のスマートフォンが短く鳴りました。画面を見ると、私が依頼している弁護士の先生からのメッセージでした。
「準備は全て整いました。明日の午前10時、予定通りにします。」
私は「よろしくお願いします」とだけ返信しました。これで後戻りはできません。夫との18年間の結婚生活が、明日完全に終わるのです。不思議と涙は出ませんでした。ただ、胸の奥にあった重たい石が、少しずつ溶けていくような感覚がありました。
「ママ。」
振り向くと、パジャマ姿の息子が立っていました。その手には、小さな黒いUSBメモリが握られていました。
「これ、プレゼント。」
息子はそう言って、私にUSBメモリを差し出しました。
「パパのパソコンから、僕がコピーしたんだ。パパがあの女の人と一緒にいる写真とか、会社のメールとか、全部入ってるよ。」
私は言葉を失いました。10歳の息子にこんなことをさせてしまった。その罪悪感で胸が張り裂けそうになりました。私が震える手でUSBメモリを受け取ると、息子は私の手を優しく包み込みました。
「泣かないで、ママ。明日は、パパたちが泣く日だから。」
息子の言葉は、あまりにも残酷で、そしてまっすぐでした。私は息子を強く抱きしめました。息子は私の背中に手を回し、とんとんと優しく叩いてくれました。
翌朝、いつもと変わらない時間に私は目を覚ましました。カーテンを開けると、冷たい朝の光が部屋に差し込んできました。キッチンに立ち、お味噌汁の出汁を取ります。どれだけ心が壊れそうになっても、朝は必ずやってきます。そして、母親としての日常も止まることはありません。
「おはよう、ママ。」
目をこすりながら誠が起きてきました。食卓に並んだ温かいご飯とお味噌汁。2人だけの朝食は、いつの間にか我が家の当たり前になっていました。夫がこの席に座らなくなってから、もう何ヶ月が経つでしょう。
夫の裏切りに気づいた時、私はすぐに問い詰めることもできました。離婚届を突きつけて、家から追い出すこともできたはずです。それでも私が黙って耐え続けたのには、理由がありました。それは、亡き父が残した会社と従業員たちを守るためです。父の会社は、小さな町工場から始まりました。油の匂いが染みついた作業着姿で、父は毎日遅くまで機械に向かっていました。父はよく、そのごつごつした手で私の頭を撫でながら言いました。
「この会社は、従業員みんなの家族なんだよ。」
3年前に父が病に倒れた時、夫の剣一はとても優しかったのです。
「会社のことは俺に任せてください。弓と誠は俺が一生守りますから。」
病室でそう誓ってくれた夫の手を、父は涙を流して握りしめました。私もその言葉を心から信じていました。だからこそ父が亡くなった後、夫を社長の座につかせたのです。
しかし、社長の椅子に座った途端、夫は変わりました。古い従業員たちを冷遇し、自分の言うことを聞く社員ばかりを優遇し始めました。その1人が、あの香織という女性です。彼女を社長秘書として引き入れた頃から、夫の金遣いは荒くなりました。
「社長の妻なんだから、もっと身なりに気を使え。お前のその地味な顔を見ていると、気が滅入るよ。」
夫の言葉は、日に日に冷たく鋭くなっていきました。それでも私はじっと我慢しました。ここで私が感情的になって騒ぎを起こせば、会社が混乱します。父が守り抜いた会社を、私の手で壊すわけにはいかなかったのです。
けれど、私のその我慢は間違っていました。私が耐えれば耐えるほど、夫の嘘と傲慢さは大きくなっていったのです。そして何より、息子を深く傷つけてしまっていました。
午前7時半、玄関の鍵が開く音がしました。
「おい、俺だ。帰ったぞ。」
不機嫌な声と共に、夫の剣一が家に入ってきました。昨夜から帰っていなかった彼のスーツからは、やはりあの甘い香水の匂いが漂っていました。
「なんだよ、その顔。今日は会社の重要な役員会議なんだ。」
夫は私を一瞥すると、苛立ったようにネクタイを緩めました。
「着替えを出しておけ。俺はシャワーを浴びる。」
それだけ言うと、夫は洗面所へと消えていきました。
シャワーから上がってきた夫は、鼻歌を歌いながらスーツに着替え始めました。鏡の前で髪を整えるその顔には、隠しきれない自信が満ち溢れています。
「今日の会議で、俺の社長就任5周年を祝うことになっている。」
夫は鏡越しに私を見ながら、得意げに言いました。
「お前は家でおとなしくしていろ。どうせ会社のことは何もわからないんだからな。」
「そうですね。」
私は感情を殺し、短く答えました。
「かおり君が、今日のために特別なネクタイピンを選んでくれたんだ。」
夫はそう言って、胸元できらりと光る銀色のピンをつけました。私に聞こえるように、わざと愛人の名前を出したのです。私が嫉妬して泣くのを楽しんでいるようでした。しかし、私はもう泣くような女ではありません。そのネクタイピンに見覚えがありました。息子がパソコンから抜き出した経費のデータの中に、そのブランドの領収書があったからです。
「よくお似合いですよ。」
私がそう言うと、夫は少し拍子抜けしたような顔をしましたが、すぐにまた傲慢な笑みを浮かべました。
「じゃあ行ってくる。遅くなるから、夕飯はいらないぞ。」
その時、部屋から誠が出てきました。
「パパ、おはよう。」
誠が声をかけると、夫は面倒くさそうに振り返りました。
「ああ。お前もっと勉強しろよ。俺みたいな立派な人間になりたいならな。」
夫は息子の頭を撫でることもなく、冷たく言い放ちました。誠は無表情のまま、夫の言葉を聞き流しました。
「言ってらっしゃい、パパ。今日の会議、頑張ってね。」
誠のその声には、子供らしからぬ冷ややかな響きが含まれていました。しかし、自分に酔いしれている夫は、それに気づきません。
重たい玄関のドアが閉まり、夫の足音が遠ざかっていきました。静寂が戻った玄関で、誠が私を見上げました。
「ママ、僕も学校に行くね。」
「ええ、気をつけてね。」
私は息子の肩を優しく抱きしめました。
「ママも頑張ってね。僕のプレゼント、ちゃんと使ってね。」
「もちろんよ。あなたのおかげで、ママは強くなれる。」
1人になった家の中で、私は時計を見上げました。午前8時半。会議の開始まで、あと1時間半です。私はクローゼットから、喪服を思わせるような深い黒のスーツを取り出しました。化粧をし、髪をきれいにまとめます。鏡の中の私は、もう怯えるだけの妻ではありませんでした。バッグの中に、金庫から出した契約書と会社の登記簿を入れます。そして最後に、誠がくれた小さな黒いUSBメモリを内ポケットにしっかりと忍ばせました。
スマートフォンが短く振動しました。画面を見ると、一通の短いメッセージが届いていました。送り主は、父の代から会社を支えてくれている古参の経理部長でした。夫に疎まれ、窓際部署に追いやられていた彼とは、この数ヶ月密かに連絡を取り合っていたのです。
「弓さん、準備は完了しました。いつでもこちらへ。」
その文字を見た瞬間、私の全身からふっと力が抜け、代わりに熱い血が巡り始めました。もう、誰にも私を馬鹿にはさせません。私はバッグを持ち、玄関の扉を開けました。
会社に到着すると、ロビーには香織がいました。彼女は体にぴったりと張りつくような派手なスーツを着て、若い男性社員たちに囲まれています。
「社長ってば、本当に優しすぎるのよ。奥様が全然会社のことを分かってないから、私が支えるしかないの。社長も家では息が詰まるって、かわいそうにね。」
私は柱の影から、彼女の姿をじっと見つめました。彼女は自分がすでに社長夫人であるかのように振る舞っています。
やがて、夫がタクシーで出勤してきました。先に入っていた香織がすぐに駆け寄り、夫の腕を取りました。2人は周囲の視線など気にする様子もなく、エレベーターへと向かっていきました。私は高橋さんと共に、会議室のある階へ向かいました。重厚な木製の扉の向こうから、夫の偉そうな声がかすかに漏れ聞こえてきます。その時、中から香織の声が聞こえてきました。
「社長、あの無能な奥様とは、もうすぐお別れできるんですよね。」
その言葉が、私に最後の覚悟を決めさせました。
役員たちが集まる定例会議の開始時間、午前10時。私は重厚な木製の扉に手をかけ、力を込めて押し上げました。重い音が廊下に響き、中から聞こえていた笑い声がぴたりと止まりました。長いテーブルを囲む役員たちの視線が、入り口に立つ私に突き刺さります。夫の剣一が、驚いたようにこちらを振り返りました。私はゆっくりと一歩だけ、部屋の中に足を踏み入れました。
「弓、お前、なぜここにいる?」
夫の怒声が広い会議室に響き渡りました。私は何も答えず、ただまっすぐに彼を見据えました。
「警備員は何をしている?なぜ関係ない人間を通したんだ?」
関係ない人間。その短い一言が、私の胸の奥に氷の杭のように突き刺さりました。
「奥様、ここは社長たちが会社の大切な未来を話し合う場所です。お家の台所とは違うんですよ。」
香織が、余裕たっぷりに薄く笑いました。私は言い返しませんでした。ここで感情的になっては、彼女たちの思う壺です。
「聞こえなかったのか、弓。今すぐ出て行け。」
夫が再び怒鳴り声をあげようとした時です。私の背後から、静かですが確かな力強い声が響きました。
「関係ない人間ではありませんよ、社長。」
経理部長の高橋さんが、私をかばうように横に並び立ちました。
「佐藤弓様は、この会社の株式の8割を保有する筆頭株主です。」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気が一変しました。夫の顔から、さっと血の気が引くのがはっきりと見えました。
私は会議室の隅にある来客用の椅子へ向かい、背筋を伸ばして静かに腰を下ろしました。
「どうぞ、会議を続けてください。」
私が静かにそう言うと、夫は屈辱に顔を歪めました。会議は重苦しい空気の中で再開されました。最初の議題は、工場長が懸念していた第1ラインの設備投資についてです。
「それは後回しだと言っただろう。今は新しい営業所の開設が最優先だ。古い機械の修理に回す金などない。」
夫が突然声を荒げました。
「社長のおっしゃる通りです。現場の人たちは、すぐに新しい機械を欲しがるんです。」
香織が、得意げな声で相槌を打ちました。
やがて、会議は本日の最大の議題へと移りました。夫の社長就任5周年を記念する、特別な決議です。
「次に、社長の役員報酬の特別引き上げについてですが…」
進行役がそう口にした瞬間、私はゆっくりと立ち上がりました。全員の視線が再び私に集まりました。私は膝の上のバッグから、茶色い封筒を取り出しました。そして、もう1つ。息子の誠が私に託してくれた、あの黒い小さなUSBメモリ。私はそれらを、会議室の大きなテーブルの中央に静かに置きました。
「それは何だ?」
夫の声がかすかに震えていました。私はそのUSBメモリに指を添え、ある言葉を口にしました。
「これは、10歳の息子からパパへの、最後のお手紙です。」
香織はポカンと口を開けた後、鼻でふっと笑いました。
「ちょっと奥様、ここは幼稚園のお遊戯会じゃないんですよ。大体、浮気されたくらいで会社に乗り込んでくるなんて。みっともない嫉妬はやめてくださいな。」
私は怒鳴りませんでした。彼女の安っぽい挑発に乗るほど、私は愚かではありません。代わりに、深く静かなため息を1つだけつきました。
「香織さん、あなたが住んでいる港区のマンション。その家賃は月に30万円ですね。そして先月、あなたの部屋に運ばれたイタリア製の白い革のソファ。200万円でしたね。問題なのは、そのお金の出所です。この200万円、会社の帳簿では第1ラインの機械修理代として処理されています。」
その言葉に、会議室の空気が一気に張り詰めました。役員たちの視線が、一斉に夫へと向かいます。
「出鱈目だ、そんな資料!誰が作った?」
夫が顔を真っ赤にして立ち上がりました。
「社長、その資料は私が銀行で直接発行してもらった取引明細の写しです。間違いはありません。」
高橋さんの冷たく厳しい声に、夫は怯んだように手を引っ込めました。
「剣一さん、あなたは香織さんに自分はお金持ちの優秀な経営者だと嘘をついていたようですね。でも実際は違う。あなたはただ、現場の職人たちが汗水流して稼いだお金を、自分の財布のように盗んでいただけです。」
「違う!俺は社長だぞ!会社のお金をどう使おうと、俺の勝手だろうが!」
夫は叫びましたが、その言葉はあまりにも幼稚で、役員たちの目はさらに冷たくなりました。
「社長、嘘ですよね?あなた、この会社のオーナーなんでしょう?お金なんていくらでもあるって言ってたじゃないですか。」
香織が、震える声で言いました。私は静かに真実を告げました。
「香織さん、彼はこの会社のオーナーではありません。この会社の株式の8割は私と息子が持っています。彼はただの雇われ社長。お給料も世間の平均的な額しか受け取っていません。私の許可がなければ、自分の報酬すら上げられない立場なんですよ。」
香織の顔から、さっと血の気が引き、よろめくように一歩後ずさりしました。
「嘘よ!だって社長は、来月には何億も手に入るって!会社を売れば大金持ちになるって言ったじゃない!」
パニックになった香織が、思わず叫びました。その言葉が響いた瞬間、会議室の空気が固まりました。夫の顔から、全ての表情が抜け落ちました。
「おい、バカ!余計なことを言うな!」
夫が慌てて香織を怒鳴りつけましたが、遅すぎました。
「会社を売る?私もその言葉には強い違和感を覚えました。」
1番古くからいる役員の1人が、低い声でつぶやきました。私はテーブルの上のUSBメモリに視線を落としました。息子が集めたデータの中に、まだ私が見落としていた重大な秘密がある。直感的にそう思いました。
「剣一さん、あなたは会社をどうするつもりだったの?」
私が低く問い詰めると、夫は額に脂汗を浮かべ、視線を激しく泳がせました。私はUSBメモリを指先で持ち上げ、会議室の隅にあるプロジェクター用のパソコンへと歩き出しました。誰も私を止めることはできません。私はパソコンにUSBメモリを差し込みました。スクリーンに映し出されたのは、誠が丁寧に整理してくれたフォルダーの数々でした。その中から、私は「会社譲渡に関する覚え書き」と名付けられたフォルダーを開きました。ファイルを開くと、夫の個人的なメールアドレスと、ある外資系ファンドの担当者とのやり取りが、大きなスクリーンに映し出されました。
「現在の筆頭株主である妻からは、株式の取り扱いに関する全ての権利を移譲されています。来月末には、私の一存で譲渡契約にサインできるはずです。工場の土地は売却し、古い設備と従業員は全て解雇という条件で問題ありません。」
その文字を読んだ瞬間、会議室の中にどよめきが起こりました。提示されていた買収金額は、およそ5億円。父が人生をかけて育て上げた会社を、夫は5億円で手放そうとしていたのです。
「剣一さん、あなたは父が残したこの会社を、5億円で手放すつもりだったの?」
私が震える声で尋ねると、逃げ場を失った夫はついに狂ったように喚き始めました。
「そうだ!それの何が悪い!小父さんは俺に会社を任せると言ったんだ!だからこの会社は俺のものだろうが!俺は毎日頭を下げて営業してきたのに、株の8割はお前と息子のものだ。俺はいつまで経っても、ただの雇われ社長じゃないか!」
夫の言葉には、長年抱え込んでいた劣等感と、亡き父への逆恨みが溢れていました。
その時、それまで壁際で青ざめていた香織の表情が、すっと冷たく変わりました。
「ちょっと待ってよ。じゃあ、あなた本当は自分のお金なんて1円も持ってなかったの?」
香織の冷ややかな声が部屋に響きました。
「か、かおり君、違うんだ。来月には5億円が入る。そうしたら、君が欲しがっていたあの海外の別荘も買ってあげられるし…」
「馬鹿にしないでよ!」
香織が突然、金切り声をあげました。
「私、あなたが本当の社長だと思って付き合ってたのよ!奥さんの実家の会社に乗っかってるだけの、ただの雇われおじさんだったなんて、聞いてない!」
香織の罵倒は、容赦のないものでした。彼女が愛していたのは、夫の人間性でも優しさでもなく、夫が会社のお金で作り上げていた嘘の財力だけだったのです。
「ふざけないで!私、こんなけち臭い横領事件に巻き込まれるなんてごめんだわ。気持ち悪い!」
香織は吐き捨てるようにそう言うと、デスクへと向かい始めました。
「待ちなさい、香織さん。あなたにはまだ、この場所にいる義務があります。」
私は、逃げ出そうとする香織の背中に向かって、静かで冷たい声を投げかけました。
「何よ?私は騙されてただけです!これ以上、私に何を言うつもり?」
「あなたは昨日、私に言いましたね。『あなたみたいな地味なおばさんには、こういう生活一生無理よね』と。でも、その高級バッグの代金がどこから出ていたのか、あなたは本当に知らなかったのですか?」
私はスクリーンから目を離さず、マウスを操作してある音声ファイルを開く準備をしました。それは、夫のパソコンのゴミ箱フォルダーから復元してくれた、1本の録音データでした。
「剣一さん、あなたが会社を売却する準備として、私の実家の土地と建物の権利書を出したのか。そして、私と息子の名前を使って、裏でいくらの借金を作ろうとしていたのか。ここで全員に聞いてもらいましょう。」
その言葉を聞いた瞬間、夫の両膝が崩れ、彼は床にへたり込みました。香織の顔からも、完全に血の気が引きました。しかし、床に崩れ落ちた夫は、突然低く不気味な笑い声を上げ始めました。
「おい、おい、弓。お前、自分が勝ったとでも思ってるのか?」
夫はゆっくりと立ち上がり、自分の席に置いてあった高級なレザーの鞄から、1枚の書類を取り出しました。
「お前は昔からそうだ。世間知らずで、人を疑うことを知らない。だから、俺みたいな人間に足元を救われるんだよ。」
夫はそう言って、その書類をテーブルの中央に叩きつけました。
「それを見てみろ。そして、自分の馬鹿さ加減に絶望するんだな。」
私は無言のまま、テーブルの上の書類に目を落としました。それは銀行の融資に関する連帯保証人の契約書でした。署名欄には私の筆跡で「佐藤弓」と書かれ、実印が押されています。融資金額は、3億円。私は息を飲みました。
「思い出したか?3年前、小父さんが死んで俺が社長になった直後だよ。お前に相続の税金対策のために必要だと説明して、サインさせた書類だ。」
夫は勝ち誇ったように続けました。
「あれは税金対策なんかじゃない。俺が自分の新しい事業のために、この会社を担保にして銀行から引っ張った3億円だ。もちろん、事業は失敗して金は焦げ付いたがな。」
会議室にどよめきが走りました。
「3億だと?社長、そんな莫大な借金、我々役員は誰も聞いていないぞ!」
小林さんが顔色を変えて怒鳴りましたが、夫は鼻で笑いました。
「お前らみたいな古い頭の連中に、新しい事業が理解できるわけないだろうが。だから、俺が1人で進めてやったんだよ。」
夫は私を指差し、残酷な声で言い放ちました。
「弓、よく聞け。お前が俺をこの会社から追い出そうとするなら、勝手にすればいい。だがな、その瞬間、この3億円の借金は、全て連帯保証人であるお前のものになるんだぞ。俺がさっきのファンドにこの会社を5億円で売却すれば、3億の借金をチャラにして手元に2億残る。俺にとっても、お前にとっても、それが1番得な選択なんだよ。だから、お前は黙って俺の言う通り、会社の売却手続きに同意すればいいんだ。そうすれば、お前と息子の路頭に迷う未来だけは回避してやる。」
夫の脅迫に、会議室の空気は再び重く沈み込みました。すると、状況の変化を最も敏感に察知した香織が、ほっとしたように大げさなため息をつきました。
「なんだ、びっくりさせないでくださいよ、社長。もう、社長ったら人が悪い。そういうことは、早く言ってくださいよ。私、本気で心配しちゃったじゃないですか。」
彼女は余裕たっぷりの声で夫の腕にすがりつき、私に向かって勝ち誇ったような視線を送りました。
「ねえ、奥様。結局のところ、奥様は社長に助けてもらうしかないんじゃないですか?偉そうに乗り込んできた割には、なんだか可哀想ですね。」
夫も香織の言葉に満足そうに頷き、私を見下しました。
「分かったら、その生意気な態度を改めろ。そして今すぐ、そこにある証拠やらを持って家に帰れ。俺は忙しいんだ。」
私はテーブルの上の3億円の契約書をじっと見つめていました。手がかすかに震えました。しかし、それは絶望や恐怖によるものではありません。夫という人間の底知れぬ卑劣さに対する、激しい怒りの震えでした。
「剣一さん、あなたは私と息子が3億円の借金を恐れて、あなたに泣きつくと、本当にそう思っているの?」
私の静かな問いかけに、夫は眉をひそめました。
「強がるな。専業主婦のお前に、3億なんて返せるわけがないだろう。現に今、お前の手は震えているじゃないか。」
「ええ、震えています。でも、それはあなたを恐れているからではありません。あなたがここまで愚かで救いのない人間だったことに、怒りが収まらないからです。」
「何だ、と?」
「あなたは3年前、私に相続の税金対策だと嘘をついて、この書類にサインさせましたね。」
「それがどうした?サインしたのはお前自身だ。法的には何の問題もない。」
私は静かに目を閉じ、今朝の息子の顔を思い出しました。「ママ、頑張ってね。僕のプレゼント、ちゃんと使ってね。」
私は目を開き、夫の目をまっすぐに見据えました。
「剣一さん、あなたは経営者としても、夫としても、そして父親としても、完全に失格です。」
「黙れ!負け犬のくせに、偉そうな口を叩くな!」
夫が激怒し、テーブルを蹴り飛ばそうとした時でした。コンコンと、会議室の分厚い扉が控えめに、しかし力強くノックされました。全員の視線が扉に向けられました。扉は外側から静かに開かれました。そこに入ってきたのは、白髪混じりの髪をきちんと整え、品のある雰囲気を持つ60代の男性でした。彼が現れた瞬間、夫の顔色から、今度こそ完全に血の気が引き、幽霊でも見たかのように後ずさりしました。
「な、なぜ、あなたがここに…」
古くからの役員たちが、すぐに立ち上がり深く頭を下げました。
「松本先生、ご無沙汰しております。」
彼こそ、亡き父の代からこの会社を支えてきた顧問弁護士の松本先生でした。
「弓さん、お忙しいところ申し訳ありません。」
「いいえ、先生。父からの頼みですから、私が来ないわけにはいきませんよ。」
松本先生は、テーブルの上に叩きつけられた3億円の連帯保証人の書類に目を落としました。夫は慌ててその書類を自分の手元に引き寄せようとしましたが、先生の手の方が一瞬早く、その書類を拾い上げました。
「返せ!それは俺と銀行の正式な契約書だ!弓がサインした。法的に有効な書類だぞ!」
夫は声を荒げましたが、先生の目を見ようとはしませんでした。
「剣一君、あなたが弓さんにサインさせたこの書類。確かに筆跡は弓さんのものです。実印も押されています。しかし、あなたは1つ大きな勘違いをしています。この書類は弓さんを縛るものではありません。あなた自身を完全に破滅させるための、決定的な証拠なんですよ。」
その言葉に、夫の顔がさらに青ざめました。
「3年前、弓さんがサインをした翌日、私はすぐにこの銀行の頭取に直接面会に行きました。この書類に記載されている融資元は、確かに実在する銀行です。しかし、融資の目的として書かれている新規事業の運転資金、その実態を調査させてもらいました。剣一君、あなたが3億円を注ぎ込もうとしていた新規事業とは、一体何ですか?会社には、そのような事業計画書は一切存在していません。役員会でも承認されていないですよね、小林さん。」
「はい。我々役員は、新規事業など全く聞いておりません。もちろん、3億円もの融資についても初耳です。」
「では、その3億円はどこへ消えたのか。弓さんを連帯保証人にしてまで、あなたが手に入れたかったお金の行方です。あなたはその3億円を自分のペーパーカンパニーに流し込み、そこから海外の怪しげな投資ファンドに横流ししていましたね。つまり、会社の名前と妻の信用を使って、個人のマネーゲームをしていたわけだ。」
その事実が明かされた瞬間、会議室の空気は凍りつきました。
「借金の返済に焦ったあなたは、手っ取り早く現金を手に入れる方法を考えた。それが、先ほど弓さんが暴いた会社の売却計画です。会社を5億円で売り払い、3億円の借金を清算する。残った2億円を懐に入れて、愛人と一緒に海外へ逃亡する。それが、あなたの思い描いていたシナリオの全貌ですね。」
全てを暴かれ、夫は膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえていました。
「だが、な、先生。俺の計画がどうであれ、この連帯保証人のサインは本物だ。会社がどうなろうと、弓が3億円の借金を背負うことに変わりはないんだぞ!」
夫は最後の悪あがきのように叫びました。しかし、松本先生は涼しい顔でゆっくりと首を振りました。
「だから、あなたは勘違いをしていると言っているのです、剣一君。3年前、弓さんがサインをした直後、私はこの銀行の頭取に直接会いに行き、ことの経緯とあなたの不審な動きを全て説明しました。結果として、この3億円の融資は実行されていません。」
「な、馬鹿な!」
夫の悲鳴のような声が響きました。
「融資が実行されていない?じゃあ、俺が毎月返済していたあの金は…」
「ええ、あなたが返済だと信じ込んで振り込んでいた先は、銀行ではありません。ペーパーカンパニーを装った悪質な詐欺グループの口座です。あなたはまんまと投資詐欺に引っかかっていたんですよ。」
松本先生の言葉は、あまりにも残酷な真実でした。夫は会社を裏切り、妻を騙し、愛人を侍らせて自分が1番賢いと信じ込んでいました。しかし、実際には全くの赤の他人に騙され、架空の借金に怯えながら会社の金を横領し続けていた、ただの愚か者だったのです。
「嘘だ…嘘だ…」
夫は両手で頭を抱え、床にうずくまりました。それを見ていた香織は、あまりの展開に言葉を失い、壁際に後ずさりしていました。
その時、松本先生は持ってきた黒い鞄を机に置き、金具を外しました。
「さて、剣一君、あなたの愚かな投資詐欺については、警察が調べることになるでしょう。しかし、今日私がここに来た本当の目的は、別にあるのです。」
先生は鞄の中から、1冊の古びた手帳を取り出しました。それは、間違いなく亡き父がいつも作業着の胸ポケットに入れていた手帳でした。それを見た瞬間、夫の顔に浮かんだ恐怖は本物でした。
「け、剣一さん、あなたの嘘は、これだけではありませんね。」
先生の冷たい言葉に、夫は息を呑みました。しかし、夫はその恐怖を無理やり振り払うように、顔を歪めて笑い出しました。
「はっ、なんだよ、それ。ただの薄い手帳じゃないか。死んだじじいの遺品が、法的に何の役に立つって言うんだ?」
夫はそう吐き捨てると、再び自分の鞄からクリアファイルに入った数枚の書類を取り出し、高々と掲げました。
「甘いんだよ、お前ら。俺が何の準備もせずに会社を売る計画を進めていたとでも思ったか?」
夫は勝ち誇ったような目で、私と松本先生を交互に見下ろしました。
「よく見ろ。俺とお前の離婚届だ。そして、もう1枚は財産分与と株式の議決権譲渡に関する誓約書だ。」
その言葉に、役員たちが一斉に息を飲みました。
「弓、お前、3年前の正月に、俺が生命保険の更新書類だと言ってサインさせたのを覚えているか?あの時、お前は中身もよく読まずにサインして、実印を押したよな。あの書類の間に、この誓約書を挟んでおいたんだよ。」
私はテーブルの上の書類を見つめました。確かに私の筆跡でサインがあり、実印がはっきりと押されています。夫は3年前から、すでに私を裏切る準備を着々と進めていたのです。
「この誓約書には、離婚した場合、お前が持っているこの会社の株式の議決権を、全て俺に譲渡すると書かれている。つまり、お前が俺を首にしようとした瞬間、俺はこの離婚届と誓約書を役所に出す。そうすれば、お前はただの無職の女になり、俺は合法的にこの会社のオーナーになるってわけだ。」
夫は完全に自分が勝利したと確信していました。すると、壁際にうずくまっていた香織が、急に立ち上がりました。彼女は夫の言葉を聞いて、再び形勢が逆転したと思ったのでしょう。
「やっぱり社長はすごい!私、信じてました!私、社長について行きます!会社を売ったお金で、2人でやり直しましょうよ!」
香織は猫撫で声で夫の腕にすがりつこうとしました。しかし、夫は冷たい目で香織を見下ろすと、その腕を力強く振り払いました。
「触るな、バカ女。さっき、俺のことを見下したよな。お前みたいな金当ての女、もう用はない。俺は1人で何億円も手に入れて、もっといい女を抱くんだよ。」
香織は信じられないという顔で口を開けました。彼女のプライドは完全に打ち砕かれ、ただ床に座り込んだまま言葉を失っていました。
「さあ、弓。敗北を認めて、さっさと消えろ。」
静まり返った会議室。役員たちも、夫が握っている誓約書という強力な盾の前に、反論の言葉を見つけられずにいました。誰もが、これで私の反撃も終わったのだと思ったはずです。しかし、私は一歩も下がりませんでした。
「剣一さん、あなたは本当に哀れな人ですね。」
「何だ、と?負け惜しみを言うな!」
「あなたは自分のことしか見ていない。だから、1番身近にある、1番恐ろしいものに気づかないんです。」
私はゆっくりと、スクリーンを映し出しているパソコンへと歩み寄りました。
「あなたは、10歳の誠がただ私のために領収書の画像をコピーしただけだと思っていたのでしょう?でも、違います。誠は、あなたが思っているよりもずっと賢く、そして、あなたに深く傷つけられていたのです。」
私はパソコンの画面に並んだフォルダーの中から、1番下にある小さなフォルダーを開きました。そのフォルダーの名前は、「本当のプレゼント」となっていました。私はその中に入っていた、1つの音声ファイルをクリックしました。会議室のスピーカーから、ざっというノイズと共に、夫の声が流れ出しました。それは、数日前の夜中、夫がリビングで電話をしている声でした。誠が自分の部屋のドアの隙間から、スマートフォンで録音していたものです。
「ああ、弓のやつは本当にバカだからな。3年前の誓約書のことなんて、微塵も疑ってないようだ。実印だって、あいつが寝ている間に俺が金庫から持ち出して、勝手に押したんだ。サインは生命保険の書類からトレースした。完璧な偽造だよ。」
その言葉が流れた瞬間、会議室の空気が一気に沸騰しました。
「社長、いや、剣一!貴様、実印を盗んで偽造したというのか!」
小林さんが激しい怒りを込めて、机を叩きました。しかし、音声はまだ続きます。
「あの、おいぼれじじいが死んでくれて、本当に助かったぜ。あんな脂臭い工場、俺には似合わないからな。子供?ああ、誠のことか。あんなの、長持ちするわけないだろ。どうでもいいよ。会社を売ったら、弓と一緒に捨ててやる。俺の人生の邪魔だからな。」
音声が終わりました。部屋の中は、恐ろしいほどの静寂に包まれていました。私はマウスから手を離し、ゆっくりと夫の方を振り返りました。夫は顔面を蒼白にし、全身を小刻みに震わせていました。
「剣一さん、これが、息子からあなたへの最後のお手紙です。あなたは私を騙しただけでなく、父を侮辱し、自分の息子を邪魔だと言い捨てた。その言葉を、10歳の息子が、部屋の暗闇の中で1人で聞いていたんです。」
夫は何も言えませんでした。
「剣一君、これであなたがドヤ顔を出した誓約書が、無効なゴミ切れであることが証明されましたね。」
松本先生が、冷ややかな声でとどめを刺しました。
「あなたの負けです。完全にね。」
夫はよろめき、テーブルに手をついて必死に身体を支えました。しかし、追い詰められた人間は、時に信じられない行動に出るものです。
「ふざけるな!ふざけるな!」
夫は突然、獣のような叫び声をあげました。そして、テーブルの上の自分の鞄をひったくると、狂ったような目で周囲を睨み回しました。
「こうなったら、会社の金庫にある現金だけでも、全部持って逃げてやる!俺はまだ終わってないぞ!」
夫が会議室の出口へ向かって走り出そうとした、まさにその時でした。バタンと、会議室の扉が勢いよく開かれました。そこに立っていた人物を見て、夫は完全に足を止め、絶望に目を丸くしました。そして、私も思わず息を飲みました。そこに立っていたのは、地味なグレーのカーディガンを羽織り、少し背中を丸めた初老の女性。私の義母でした。義母は、膝が悪く普段は杖をついている人です。その義母が、息を切らし、杖も持たずに会議室の入り口に立っていました。
夫の剣一は、義母の姿を見た瞬間、呆然と目を丸くしました。しかし次の瞬間、地獄に仏を見つけたような安堵の表情を浮かべました。
「母さん!ちょうどいいところに来てくれた!弓がおかしくなったんだ!俺を社長の座から引きずり下ろそうとして、嘘の証拠まででっち上げて!」
夫は義母の肩を掴み、私を指差して叫びました。まるで、母親に言いつける小さな子供のような姿でした。義母は何も言いませんでした。息を整えながら、ゆっくりと部屋の中を見渡しました。そして、最後に私と松本先生に視線を向けました。私は申し訳なさで胸がいっぱいになり、深く頭を下げました。
「お母さん、申し訳ありません。こんなことになってしまって…」
私が謝ると、義母は小さく首を横に振りました。
「母さん!早くあいつらを追い出してくれ!俺は被害者なんだ!」
夫が再び耳障りな声で叫んだ、その時でした。パチン!という鋭い音が、会議室に響き渡りました。義母が振り上げた右手で、夫の頬を思いきり張り倒したのです。夫は、自分が母に叩かれたことが信じられないという顔で、義母を見下ろしました。義母の手は真っ赤に腫れ上がり、小刻みに震えていました。
「三文芝居もいい加減にしなさい!」
義母の低く、しかし力強い声が、部屋の空気をぴたりと止めました。
「母さん、なんで俺を叩くんだよ!悪いのは弓だぞ!」
「まだ嘘をつくのかい。」
義母は、夫の胸倉をつかまんばかりの勢いで、一歩前に出ました。
「今朝、誠から電話があったんだよ。」
その名前に、私ははっと顔をあげました。
「弓さん、ごめんなさいね。あの子、学校に行く途中の公衆電話から、私に電話をかけてきたの。『おばあちゃん、パパがおじいちゃんの大切な会社を壊そうとしてる。ママが1人で戦ってるから、パパを叱ってあげて』って。」
義母は声を震わせながら、誠の言葉をなぞりました。
「あの子、泣いていなかったわ。とても静かな声で、10歳の子供とは思えないほど、しっかりとした声で、私にお願いしたの。自分が証拠を集めたんだって。自分がママを守るんだって。」
私は胸が締めつけられる思いでした。誠は私にUSBメモリを渡すだけでなく、最後の切り札として、義母を呼んでくれていたのです。
「あんな小さな孫に、こんな悲しい決断をさせて、あんたは父親として恥ずかしくないのかい?」
義母の言葉が、夫の心臓を貫きました。
「俺は…俺は、ただ会社を大きくしようと…」
夫が後ずさりしながら言い訳を口にすると、義母はさらに冷たく言い放ちました。
「お前の父親も、小さな町工場の職人だった。油にまみれて、手はいつも黒く汚れていたけれど、私はあの真っ黒な手を誰よりも誇りに思っていたんだよ。弓さんのお父様が、どれほど苦労してこの会社を育てたか。お前はそれを継がせてもらっただけじゃないか。それなのに、現場の職人さんたちを馬鹿にし、会社の金を盗み、外で女を作り、挙げ句の果てに会社を売ろうとするなんて。」
義母は夫の目を見据えました。そこに、息子への甘さは微塵もありませんでした。
「お前は、私の息子じゃない。弓さんの人生を盗み、誠の心を殺した、ただの恩知らずの泥棒だよ。」
泥棒。実の母親から投げつけられたその一言は、どんな証拠よりも鋭く、夫の心を完全に破壊しました。
「ああ…」
夫は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちました。もう、言い訳の言葉すら出てきません。彼は床にうずくまり、ただ子供のように肩を震わせて泣き始めました。
ふと、壁際で小さくなっていた香織が、こそこそと立ち上がりました。彼女は自分のバッグを抱え、誰にも気づかれないようにドアへ向かおうとしていました。しかし、義母はそれを見逃しませんでした。
「あんたもだよ。」
義母の冷たい声に、香織はびくっと肩をすくめました。
「人の家庭を壊しておいて、自分だけ無傷で逃げられると思わないことだね。あんたのしたことは、一生あんたについて回るんだよ。」
香織は顔を青ざめさせ、そのまま床に座り込みました。
松本先生が静かに時計を見ました。時計の針は、午前11時半を回っていました。その時です。会議室の開け放たれた扉の向こうから、若い受付の女性が遠慮がちに顔を出しました。
「あの、重要な会議中に申し訳ありません。社長宛てに、郵便局からお荷物が届いているのですが。受け取りのサインが必要だそうです。差出人は、東京国税局となっています。」
その言葉が響いた瞬間、床にうずくまっていた夫は、びくっと体を跳ねさせました。そして、幽霊でも見たかのような目を向き、そのまま白目を向いて床に突っ伏しました。
「あ、あの、救急車を呼びましょうか?」
受付の女性が震える声で尋ねると、松本先生が静かに手を上げました。
「大丈夫です。ただの貧血でしょう。そのお荷物は、代理人である私が受け取ります。」
松本先生は女性から分厚い茶色い封筒を受け取りました。そして、ペーパーナイフで封を切りました。中から出てきたのは、赤い印鑑が押された数枚の公的な書類でした。
「やはり、来ましたか。強制調査の事前通知です。剣一君のペーパーカンパニーを通じた不審な資金の流れ、そして会社の経費の私的流用。これらについて、国税局の査察部が本格的に動いたようです。」
その言葉に、役員たちの顔からさらに血の気が引きました。
「強制調査が入るというのですか?」
「ええ。剣一君は、詐欺で騙し取られた3億円の穴を埋めるために、会社の帳簿を徹底的に改ざんしていました。架空の取引を作り、莫大な赤字を計上して、税金を逃れようとしたのです。さらに、香織さん。彼があなたに買い与えた高級マンションの家賃や、家具、ブランド品の数々。あれらは全て、会社の接待交際費や設備投資費として処理されていました。会社の経費で個人の愛人を囲い、不当に利益を享受する。これは明らかな脱税行為です。」
「わ、私には関係ありません!」
香織がヒステリックな金切り声をあげました。
「私は何も知らなかったんです!社長が勝手にお金を出していただけでしょう!私を犯罪に巻き込まないでください!」
「関係ないで済むはずがありませんよ。」
私が静かに口を開くと、香織は怯えたように私を見ました。
「あなたは先ほど、自分で言いましたよね。『昨日買ってくれようとしたバッグだって、どうせ会社の経費で落とすつもりだったんでしょう』と。つまり、あなたは彼が会社のお金を使っていることを、薄々知っていた。知っていて、その贅沢を受け取っていたんです。そして、あなたが受け取った数千万円分の品物は、本来、現場の職人さんたちが命がけで働いて稼いだお金です。会社として、あなたに不当利得の返還請求を行います。」
「返還請求…数千万円?」
香織は足から崩れ落ち、会議室の床にへたり込みました。
「そんな…私にそんな大金、あるわけないじゃない…私、貯金なんてゼロなのに…」
彼女は両手で顔を覆い、すすり泣き始めました。昨日、高級ブランド店の前で私を見下して笑っていた若い愛人の姿は、もうそこにはありません。ただの欲に目がくらんで自滅した、哀れな女性が泣いているだけでした。
床で倒れていた夫が、うめき声をあげて目を覚ましました。彼はぼんやりとした目で周囲を見渡し、松本先生の手に握られた国税局からの書類を見て、全てを思い出したようでした。
「嫌だ!捕まりたくない!刑務所なんて嫌だ!」
夫は這う這うの体で私の足元にすがりついてきました。
「弓、頼む!助けてくれ!お前が社長の妻として、国税局にうまく説明してくれれば、何とかなるかもしれない!俺たち、家族じゃないか!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして懇願する夫。私は、自分の足首を掴む夫の手を、冷たく振り払いました。
「家族。あなたの口から、その言葉が出るとは思いませんでした。あなたは息子を『邪魔だ』と言った。私を借金の身代わりにしようとした。父の会社を売り飛ばそうとした。そのどこに、家族への愛があったのですか?」
「ち、違うんだ!弓!あれは…ほんの出来心で…」
「言い訳は、警察と税務署でたっぷりとしてください。私には、あなたの言葉を聞く義務は、もうありません。」
私の冷たい声に、夫は絶望の表情を浮かべました。そして、最後の望みを託すように、義母の方を振り向きました。
「母さん!母さんからも弓に言ってくれ!実の息子を見捨てるのか!」
しかし、義母は静かに目を伏せ、首を横に振りました。
「私は、今日、あんたを勘当したんだよ。あんたのような卑怯な息子を持ったことが、私の人生の最大の恥だ。しっかり、自分の罪を償ってきなさい。」
実の母親からの完全な拒絶。それが、夫にとって最後の死刑宣告でした。夫はそのまま床にうつ伏せになり、子供のように声を上げて泣き喚きました。
私はバッグの中から、最後の1枚の書類を取り出しました。それは、臨時株主総会の決議書です。私はそれを、会議室のテーブルの中央に置きました。
「会社の株式の8割を保有する私と息子の名において、本日この時刻を持って、佐藤剣一を代表取締役社長、並びに取締役から解任します。これは、法的に有効な決定です。」
夫の目が、限界まで見開かれました。
「か、解任?俺が、首だと?」
「ええ。あなたはもう、この会社の社長ではありません。ただの横領犯であり、詐欺の被害者であり、そして3億円の借金を抱えた無職の男性です。」
「さらに、これも追加しておきましょう。」
松本先生は、決議書の下からもう1枚の書類を提示しました。
「会社から剣一君個人に対する、特別背任罪及び業務上横領罪の刑事告訴状です。すでに警察には相談済みであり、被害届が受理されるのは時間の問題でしょう。被害額が数千万円に上る以上、逮捕は免れません。」
夫の口から、魂が抜けたような掠れた声が漏れました。
「待ってくれ、弓。いくら何でも、やりすぎだ。俺は確かに間違えたかもしれない。少し、会社の金に手を出したかもしれない。でも、この会社のために営業を頑張ってきたのも、事実じゃないか!俺が社長として接待をして、夜遅くまで頭を下げて、新しい契約を取ってきたんだぞ!あの金だって、会社を大きくするための必要経費だったんだ!俺がいなくなったら、この会社は終わりだぞ!」
しかし、その言葉に、何の力もありませんでした。
「まだ、そんな寝言を言っているのか。」
小林さんが、血を吐くような低い声で一括しました。
「貴様が接待で取ってきたという新しい契約は、どれも利益率の低い、赤字覚悟の物ばかりだった。現場の職人たちが、血の滲むような努力をしてコストを削って、なんとか赤字を防いでいたんだ。貴様の力などではない。貴様が社長室でふんぞり返り、高いスーツを着て偉そうにしている間、現場の人間がどれだけ苦労してきたか。貴様は1度でも、工場の機械の油汚れを、自分の手で拭いたことがあるのか?」
夫は、小林さんの言葉に縮み上がり、完全に言葉を失いました。私はゆっくりと歩み寄り、床にうずくまる夫の目の前に立ちました。
「剣一さん、あなたは自分の見栄を張るために、父が残した会社を利用しました。それだけではありません。あなたは、私たち家族の日常も、完全に壊したのです。息子がどんな気持ちで、あなたの嘘の証拠を集めていたか、分かりますか?あなたが甘い香水の匂いをさせて帰ってくるたび、誠は自分の部屋でじっと耳を塞いでいました。私が泣かないように、わざと明るく振る舞ってくれていたのです。10歳の子供にそんな悲しい思いをさせてまで、あなたが手に入れたかったものは何ですか?」
「弓…俺は…俺は、ただ認められたかったんだ。」
夫は掠れた声で、ようやく本音のようなものをこぼしました。
「小父さんにも、お前にも、俺はいつも見下されているような気がしていた。俺は…入社したての頃、後継ぎのいない工場に拾われただけの男だって。だから、俺の力で会社を大きくして、すごい社長になって、見返してやりたかったんだ。」
劣等感。それが、夫を狂わせた本当の原因でした。
「父は、あなたを見下してなどいませんでしたよ。」
私のその一言に、夫ははっと顔をあげました。
「父は亡くなる直前、病室で私にこう言いました。『剣一は不器用で見栄っ張りなところがある。でも、家族を思う気持ちは本物だ。あいつを信じて、支えてやってくれ』と。」
夫の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちました。
「父はあなたを信じていた。だからこそ、私はこの3年間、どんなに辛くてもあなたを信じようと努力してきたのです。でも、あなたは自らの手で、その信頼を全てドブに捨てました。」
私は静かに夫の胸元に手を伸ばし、彼の高級なスーツの襟元についていた会社の社章を外しました。そして、机の上に置かれていた社長専用のスマートフォンも回収しました。
「今日を持って、あなたは会社とは無関係の人間です。今すぐ、この建物から出て行ってください。」
私がそう宣告すると、夫は完全に泣き崩れました。
「うわああ!ごめん、弓!ごめんなさい!」
子供のように泣き叫び、床に突っ伏してお尻を抜かしました。松本先生が合図をすると、入り口に控えていた警備員が静かに入ってきて、夫を両脇から抱え、連れ出していきました。部屋の隅で震えていた香織も、高橋さんに声をかけられ、しぶしぶバッグを置いて、足早に部屋を飛び出していきました。
2人が去った会議室には、奇妙な静けさが残されていました。長い嵐が過ぎ去った後のような、冷たく澄んだ空気です。私は深く息を吸い込み、ゆっくりと振り返りました。そして、部屋の最も奥にある、大きな革張りの椅子を見つめました。亡き父が座り、夫が汚した、社長の席。これからは、私がその重責を担わなければなりません。私はその椅子には座らず、くるりと振り返り、会議室に残った役員たちに向き直りました。そして、腰を深く折り、深々と頭を下げました。
「皆様、この3年間、本当に申し訳ありませんでした。父が大切にしていた会社を、このような事態に巻き込んでしまい、心からお詫び申し上げます。剣一が社長になってから、皆様には辛い思いばかりさせてしまいました。それなのに、誰もこの会社を見捨てず、必死に守り抜いてくださった。いくら感謝してもしきれません。」
「何をおっしゃるのですか、弓さん。」
小林さんが、目を赤くしながら言いました。
「我々の方こそ、仙台の娘である弓さんに、全ての重荷を背負わせてしまった、不甲斐ない役員たちです。」
「いいえ。皆様が現場で踏ん張ってくださったからこそ、今日、私はこうして真実を明らかにすることができたのです。これより臨時の株主総会で承認いただいた通り、私が代表取締役に就任いたします。私は経営のプロではありません。足りない点もたくさんあると思います。ですが、父が愛したこの会社を、もう2度と誰にも私物化させません。どうか皆様、私に力を貸してください。」
小林さんが、1番に深く頭を下げました。
「喜んで。我々は、弓社長の背中を全力でお支えします。仙台の娘さんがトップに立ってくださる。これほど心強いことはありません。」
他の役員たちも、次々と立ち上がり、頭を下げました。
「社長!」
その力強い声の重なりに、私の胸の奥で熱いものが込み上げてきました。
会議の後、私は1階の工場へ足を運びました。重たい鉄の扉を開けると、油と鉄の混じった懐かしい匂いが鼻をくすぐりました。作業着姿の職人たちが、汗水流して鉄の部品と向き合っています。私が通路を歩いていくと、機械を操作していた工場長が気づき、急いで機械を止めました。
「弓さん…いや、社長!」
工場長は、油で黒く汚れた手で作業服を脱ごうとしました。私は慌てて首を振りました。
「工場長、朝はロビーで嫌な思いをさせてしまって、すみませんでした。」
「とんでもねぇです!役員会議の話は、高橋さんから聞きました。社長が俺たちを守ってくれたって。」
周囲の職人たちも、次々と作業の手を止め、私の方を振り向きました。工場長は、真っ黒な手を差し出そうとして、慌てて作業着でごしごしと拭きました。それでも落ちない油汚れを見て、少し照れ臭そうに笑いました。
「先代が亡くなってから、俺たちはただの機械みたいに扱われてきました。でも、今日からまた、人間の血が通った会社に戻るんですね。」
私は、工場長のその手を、両手でしっかりと握りしめました。ごつごつして、硬くて、温かい手。亡き父と同じ、真面目に生きてきた人間の手でした。
「この汚れが、会社の宝です。皆さんのこの手が、父の会社を支えてくれました。これからは、私が皆さんを守ります。古い機械の修理も、すぐに手配します。だから、これからもどうか、力を貸してください。」
工場長の大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちました。
「はい、喜んで働かせてもらいます。」
職人たちから、拍手と歓声が上がりました。皆の笑顔を見て、私の胸にようやく深い安堵が広がりました。
夕方、秋の短い日が暮れかかり、空はきれいなオレンジ色に染まっていました。私は会社を出て、駅前のスーパーで、誠の大好きなハンバーグの材料を買いました。マンションの前に着くと、部屋の窓に温かい明かりが灯っているのが見えました。エレベーターを降り、玄関の前に立ち、鍵を開けようとして、ふと深呼吸をしました。18年間の結婚生活。その大半は、見えない鎖に縛られているような日々でした。けれど、今日、私は自分の手でその鎖を断ち切りました。ドアに手をかけ、ゆっくりと扉を開きます。
「ただいま。」
私がそう声をかけた時でした。リビングのドアがぱたぱたと開き、満面の笑みを浮かべた誠が飛び出してきました。
「ママ、お帰りなさい!」
誠は私に抱きつこうとして、ふと立ち止まりました。そして、私の顔をじっと見つめました。
「ママ、泣いてるの?」
私は、自分の頬が濡れていることに、その時初めて気がつきました。夫に裏切られたと知った時も、あの愛人に馬鹿にされた時も、決して流さなかった涙です。全ての戦いが終わり、息子の顔を見た途端、張り詰めていた糸が切れてしまったのです。
「ううん。違うの。これはね、嬉しい涙よ。」
私が涙を拭おうとした時、誠の背中越しに、廊下の奥に置かれたものが見えました。そこには、大きなスーツケースが2つ、きれいに並べて置かれていたのです。
「誠、これ、どうしたの?」
私が驚いて尋ねると、誠は得意げに笑いました。
「僕の荷物と、ママの荷物、もう準備してあるよ。」
その言葉に、私は思わず息を飲みました。
「だって、パパはもう帰ってこないんでしょう?なら、この家にはもういられないかなって思って。」
10歳の息子は、私よりもずっと先を見ていました。このマンションは、夫が自分の見栄のために買ったものです。住宅ローンは夫の名義ですが、支払いは会社の経費から落ちていました。明日からは、全てが差し押さえの対象になるでしょう。
「僕の大事なものと、ママの大事な服とか、全部入れたよ。足りないものある?」
誠のその言葉に、私はまた涙がこぼれそうになりました。
「ううん。足りないものなんて、何もないわ。ありがとう。」
私はスーツケースの横にしゃがみ込み、誠を強く抱きしめました。
「ママ、これからどこに住むの?」
誠が、私の背中に腕を回しながら聞きました。
「おじいちゃんのお家よ。ずっと誰も住んでいなかったけど、あそこなら2人で静かに暮らせるわ。」
「うん!僕、おじいちゃんのお家、大好きだよ!」
誠の明るい声が、冷たかったマンションの空気に、温かく響きました。
「誠、ご飯にしようか。今日は、誠の大好きなハンバーグだよ。」
「僕、お腹ペコペコだよ!」
私たちはキッチンに立ち、2人で夕食を作りました。夫がいた頃は、こんな風に笑いながら料理をすることなど、ありませんでした。出来上がったハンバーグを2人で食卓に並べます。
「いただきます!」
誠は満面の笑みで、ハンバーグを大きく頬張りました。
「おいしい!ママのハンバーグ、世界一だよ!」
その言葉だけで、私は胸がいっぱいになりました。食後、私は自分の左手から結婚指輪を静かに外しました。18年間、1度も外したことのなかった小さな銀色の指輪。私はそれを、夫がいつも座っていた席のテーブルの中央に、こつんと置きました。もう、この指輪に縛られることはありません。
それから数週間後、夫の剣一は警察に逮捕されました。特別背任と業務上横領の容疑でした。国税局の査察も入り、彼の悪事は全て白日の下にさらされました。愛人だった香織も、会社からの不当利得返還請求により、莫大な借金を背負うことになりました。彼女は今、昼夜を問わず働きながら、少しずつ会社に返済を続けているそうです。
義母は約束通り、夫と完全に縁を切りました。先日、私と誠で義母の家に遊びに行くと、義母は手作りの煮物を用意して、笑顔で迎えてくれました。
「弓さん、誠。これからは、本当の親子だと思って、いつでもおいで。」
その義母の言葉に、私は思わず涙をこぼしてしまいました。血の繋がりがなくても、人を思いやる心があれば、家族になれるのだと知りました。
そして今日、新しい朝の光が、私の実家の古い窓から差し込んできました。遠くから、とんとんとんという規則正しい音が聞こえます。木の枝に止まった鳥のさえずりと、町工場から響く機械の音。私は洗面所の鏡の前に立ち、紺色のスーツの襟元を整えました。
「地味なおばさん」と馬鹿にされた私ですが、今は少しだけ違います。背筋を伸ばし、まっすぐに前を見つめる私の顔には、もう迷いも怯えもありません。
「ママ、おはよう!」
リビングに行くと、ランドセルを背負った誠が、元気よくご飯を食べていました。
「おはよう、誠。今日も元気ね。」
「うん!僕、今日学校で図工があるんだ。楽しみだな!」
誠の笑顔は、以前よりもずっと明るく輝いていました。私は微笑みながら、部屋の奥にある仏壇に向かい、線香に火をつけ、静かに手を合わせました。写真の中の父は、少し不器用に、けれど優しく微笑んでいました。
「お父さん、会社はもう大丈夫です。職人の皆さんも、元気に働いてくれていますよ。」
心の中でそう報告すると、線香の煙が、ふわりと温かく私を包んでくれた気がしました。
「ママ、そろそろ行こう!遅刻しちゃうよ!」
玄関から、誠の元気な声が聞こえました。
「ええ、今行くわ。」
私はバッグを持ち、新しい靴を履きました。ドアを開けると、すがすがしい秋の風が吹き込んできました。
「行ってきます!」
誠が駆け出し、私もその後を追って歩き出しました。長い夜は終わり、新しい人生の朝が始まりました。もう、誰にも私たちの未来を奪わせはしません。私はしっかりと前を向き、1歩ずつ、力強く歩いていきました。



