夕食の並んだリビングで、私はできるだけ穏やかな声を出した。
「ねえ、あなた。さっき市役所に行って、離婚届を提出してきたわよ。」
その瞬間、箸を動かしていた夫・拓也の手がぴたりと止まり、部屋の空気が凍りついた。彼の目は驚きに満ちていたが、どこか私を馬鹿にしたような冷たい光も混じっていた。まさか本当に出すとは思っていなかったのだろう。この25年間、私は彼の言いなりになる従順な女だと思い込まれていたのだから。
でも、彼はまだ気づいていない。私が見つけたのは、ただの離婚届だけではないということに。その一枚が、彼が築き上げてきた輝かしい人生を根底から覆す引き金になるということに。
私はにっこりと微笑んだ。これほど心からの笑顔になれたのは、一体いつ以来だろうか。
私たちの結婚生活は、外から見れば順風満帆そのものだった。大手メーカーで部長を務める拓也は、高収入で家柄もよく、近所でも評判の紳士だった。私はそんな彼を支える専業主婦として、25年間脇目も振らずに尽くしてきたつもりだ。毎日栄養バランスを考えた食事を作り、Yシャツには一点の曇りもなくアイロンをかけ、義両親の介護も文句一つ言わずに引き受けた。それが妻としての幸せであり、誇りだと思っていたから。
しかし、最近の拓也は明らかに様子がおかしかった。急に見目形に気を使い始め、高級な香水を身にまとうようになった。残業や出張だと嘘をついて帰宅が遅くなる夜が増え、私と目を合わせることすら避けるようになったのだ。鋭い女の勘というほどではなくても、何かが決定的に壊れ始めていることは肌で感じていた。
そして今朝、運命の歯車が音を立てて回り出した。拓也が慌てて出勤した後、リビングのソファの隙間に、一冊の黒い革の手帳が落ちているのを見つけた。それは拓也が肌身離さず持ち歩いている、お気に入りの大切な手帳だった。いつもなら勝手に見るなんて非常識なことはしないけれど、その日はなぜか吸い寄せられるように手が伸びた。幸いなことに鍵はかかっていなかった。急いでいたのか、締め忘れたのだろう。震える手でその表紙をめくった瞬間、私の心臓は止まりそうになった。
そこには、私の知らない拓也の世界が広がっていたのだ。手帳のポケットに差し込まれていたのは数枚の写真。そこには20代半ばと思われる若い女性と、満面の笑みを浮かべる拓也。そして、2人の間に座る3歳くらいの小さな男の子が映っていた。遊園地の前で幸せそうに寄り添う3人の姿。その男の子の顔は、若かりし頃の拓也に驚くほど似ていた。それだけではない。写真の裏には、信じられないほど生々しい日付と愛の言葉が綴られていた。そして、その奥から出てきたのが、記入済みの離婚届だった。夫の欄にはすでに拓也の署名と捺印があり、あとは私の名前を書くだけの状態になっていたのだ。
頭が真っ白になった。25年間、私が信じてきた生活は何だったのか。私が尽くしてきた時間は全て、この偽りの幸せのための踏み台だったのか。怒りよりも先に、深い奈落に突き落とされたような絶望が襲ってきた。しかし、その絶望は数分後、冷徹な決意へと変わった。この男は私を捨てて、この若い女と子供と一緒に新しい人生を始めようとしている。私をゴミのように放り出して、自分たちだけが幸せになろうとしている。ならば、望み通りにしてあげましょう。ただし、あなたの思い描くようなハッピーエンドには絶対にしてあげない。
私はその足でペンを握り、自分の名前を記入した。そしてそのまま市役所へと向かったのだ。
今、目の前で呆然としている拓也は、まだ何も分かっていない。自分が何を失ったのか。これからどんな地獄が待っているのか。愛人と隠し子という、彼が隠し通してきた最大の秘密を、私が握っていることも。
ああ、本当にいい気分だわ。25年間の我慢が、今この瞬間から最高のリベンジへと変わる。
「どうしたの? そんなに驚いて。あなたが準備していたものなんだから、喜んでくれると思ったのに」
私の言葉に、拓也の顔が徐々に怒りで赤く染まっていく。
「お前、正気か。勝手に何を……」
「勝手じゃないわよ。あなたが名前を書いていたんですもの。合意の上でしょう」
さあ、反撃の始まりよ。拓也、あなたは今日、人生で一番大きな間違いを犯したことに気づくことになるわ。
リビングに漂う焼き魚の香ばしい匂い。いつもなら食欲をそそるはずのその香りが、今はひどく場違いで、どこか皮肉なものに感じられた。
私の言葉を聞いた拓也は、手に持っていた箸をテーブルに叩きつけた。からんという高い音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
「何をしたと言った? 今、なんて言ったんだ」
拓也の声は低く、血を吐くような怒りに満ちていた。エリート会社員として長年部下を従えてきた彼は、家庭内でも常に絶対君主だった。自分の思い通りにならない事態が起きると、こうしてすぐに威圧的な態度で相手を屈服させようとする。
「だから、離婚届を提出してきたのよ。あなたが手帳に挟んでいたあの記入済みの書類。私が名前を書いて、今日市役所の窓口で受理してもらったわ。これで私たちも他人ね」
私は勤めて冷静に、一文字一文字を噛みしめるように伝えた。心臓は激しく鼓動していたが、不思議と声は震えなかった。25年間、彼の機嫌を伺い、言葉を選び、自分を殺して生きてきた。その反動だろうか、心の奥底で驚くほど覚めた自分が、この状況を俯瞰で見つめていた。
「バカな。お前、あれを勝手に見たのか。人のプライバシーというものがないのか」
「落ちていたのよ。ソファの隙間に。あなたが一番大事にしていた手帳が、鍵もかかってなかったし、中身がはみ出していたから、親切心で片付けようとしただけ。そうしたらあんなに素敵な家族写真が出てくるんですもの。驚いたわ」
私が「家族写真」という言葉を強調すると、拓也の顔からさっと血の気が引いた。隠し子の存在を知られた。その事実が、彼の傲慢なプライドに鋭い楔を打ち込んだようだった。しかし、彼はすぐにいつもの尊大な態度を取り戻し、私を睨みつけた。
「ふん。見たのなら話が早い。そうだ。俺には心から愛している女性がいる。そして、俺の血を分けた息子もな。お前のような、ただ飯を食うだけの何の取り柄もない女とは違う。若くて美しく、俺を立ててくれる最高の女性だ」
拓也の言葉はナイフのように私の胸を突き刺した。ただ飯を食うだけの女。25年間、彼の健康を管理し、義両親の最後を見取り、彼が仕事に打ち込めるように家を守り続けてきた私の人生を、彼はその一言で切り捨てたのだ。
「お前はもう用済みなんだよ。どうせそのうち突きつけてやるつもりだったんだ。だが、勝手に提出するとはな。成績で社会の仕組みも分かっていない女が、勢いだけで動くとどうなるか分かっているのか」
拓也は椅子に深くふんぞり返り、鼻で笑った。
「お前、明日からどうやって生きていくんだ。この家も俺の給料も、お前には一円も渡さないぞ。路頭に迷って泣きついてきても、もう遅いからな。俺はこれから新しい家族と、この広くて立派な家で幸せに暮らすんだ」
この家。それは私が25年前、私の両親から譲り受けた土地に、私の実家の援助をかなり受けて建てたものだった。名義こそ共有にしているが、この家を維持するために私がどれほど心を砕いてきたか、この男は忘れてしまったのだろうか。いや、忘れたのではない。最初から全て自分の手柄だと思い込んでいるのだ。
「そんなに心配しなくていいわ。あなたの新しい家族のことなら、よく知っているもの」
私はバッグの中から、あらかじめコピーしておいた手帳の中身を取り出した。そこには写真だけでなく、拓也が愛人に送った多額の送金記録や、彼女のために借りたマンションの契約書の控えまで、細かに記録されていた。彼は几帳面な性格が災いして、証拠を全て自分の手帳にまとめて保管していたのだ。
「お前、いつの間に……」
拓也が慌てて身を乗り出し、紙を奪い取ろうとしたが、私はそれをひらりとかわした。
「残念だけど、これはコピーよ。原本はもう信頼できる場所に移してあるわ」
拓也の顔が、今度は怒りではなく焦りで歪んだ。彼は私がただ従順に従うだけの便利な家政婦だと信じて疑わなかった。だからこそ、これほどの脇の甘さが出たのだ。
「お前なんかに何ができる? 弁護士でも立てるつもりか? 無駄だ。俺には権力も金もある。お前のような女に何ができるって言うんだ?」
拓也は必死に虚勢を張っているが、その指先はかすかに震えている。私は彼が最も恐れていることを知っていた。それは、彼が築き上げてきた完璧なエリートという仮面が剥がれること。そして、その仮面を剥がす鍵を握っているのは、他でもない。彼が腐るほど見下していた私なのだ。
「そうね。私一人じゃ何もできないかもしれないわ。でも、そうじゃないとしたら?」
私は微笑みながら、スマートフォンの画面を拓也に見せた。そこにはある人物からの着信履歴が残っていた。その名前を見た瞬間、拓也はまるで幽霊でも見たかのように絶句し、その場に崩れ落ちそうになった。
「な、なんで……どうしてお前がこの人と……」
スマートフォンの画面に浮かび上がったのは「桜井会長」という文字だった。拓也が務める大手メーカー、極光電気の創業者であり、現在は絶対的な権力を持つ実質的なトップ。そして何より、桜井会長は極度の愛妻家として知られ、社員に対しても不倫や浮気といった不誠実な行為を何よりも嫌う、厳格な倫理感の持ち主だった。拓也は今まさに取締役の座を争う大事な局面にいる。その審査において、会長の信頼を勝ち取ることが何よりも重要だったはずだ。その会長と、家で家事しかしていないはずの私が繋がっている。その事実が、拓也のプライドを内側から食い破っていた。
「お前、どうして会長の連絡先を知っているんだ? 嘘だろ? 何かの間違いだ」
拓也の声は震え、引きつった笑いを浮かべている。
「間違いじゃないわよ。会長の奥様とは、私がボランティア活動で伺っている施設で、10年来の友人なんですもの。奥様を通じて会長にも何度かご挨拶させていただいたわ。あなたの仕事の愚痴ではなく、あなたがどれほど会社に貢献しているか、妻として誇りに思っていると、いつもお伝えしていたのよ」
私は静かに、しかし断固たる態度で告げた。皮肉なことに、私が会長夫妻と親しくなれたのは、拓也がいつも自慢に語っていた人脈のおかげではなく、私自身の地道な活動と人柄を評価していただいた結果だった。拓也はそれを知らなかった。いや、私が外で何をしていようと、彼にとっては興味の対象外だったのだ。
「ふざけるな。汚いぞ。お前、自分の立場を利用して俺のキャリアを人質に取るつもりか」
拓也は立ち上がり、テーブルを拳で叩いた。
「俺がどれだけ必死になってあの地位まで這い上がったと思っている。お前みたいな社会の荒波も知らない、ぬくぬくと家で守られているだけの女に、俺の苦労の何が分かる」
怒号がリビングに響き渡る。だが、私は一歩も引かなかった。むしろ彼の言葉を聞けば聞くほど、胸の奥が覚めていくのを感じた。
「ぬくぬくと守られていた? 拓也さん、あなたは本気でそう思っているのね」
「ああ、そうだ。お前が毎日3食昼寝付きで過ごしている間、俺は頭を下げ、納期に追われ、神経をすり減らして戦ってきたんだ。お前に払っている生活費は、俺の命を削った対価なんだよ。それを恩を仇で返すような真似をしやがって」
彼は私を指差し、唾を飛ばしながら罵倒を続ける。
「いいか、よく聞け。離婚届を受理されたからって調子に乗るなよ。あんなもの、いくらでも無効にできる。俺には優秀な弁護士がついているんだ。不当な手段で提出された書類なんて紙同然だ。お前には慰謝料どころか、家から一歩も出さずに追い出してやる。身一つで放り出されて、のたれ死ぬのがお似合いだ」
拓也の言葉は、25年間の夫婦の絆を粉々に打ち砕いた。彼にとって私は、共に人生を歩むパートナーではなく、金で雇った便利な使用人、あるいは自分の社会的地位を飾るための所有物に過ぎなかったのだ。
私は何も言い返さなかった。ただ静かに彼を見つめ続けた。沈黙は、有無を言わせぬ怒りよりも深く鋭く突き刺さる。彼は私の無言の圧力に耐えかねたのか、さらに声を荒げた。
「なんだ、その目は。何か文句があるなら言ってみろよ。英語の一つも喋れない、資格も何もない、ただの後家際のばばあが、俺なしで生きていけると思っているのか。黙ってろ。それがお前の唯一の取り柄だ」
「大人しく俺の言う通りに、今の発言を撤回して、会長に謝罪の電話を入れろ。そうすれば、あの女とのことは清算してやってもいい。お前をこの家に置いてやる慈悲は残っているんだぞ」
慈悲。その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に切れた。これまで必死に抑えていた感情が、氷のような冷静さに包まれて研ぎ澄まされていく。
「あの女とのことは清算する? 本気で言っているの?」
「ああ、そうだ。子供のことは適当に金を払って解決してやる。俺の将来の方が大事だからな。分かったら、さっさと電話をしろ」
その時だった。リビングのインターホンが激しく鳴り響いた。一度ではない。何度も何度も、まるで外で誰かがパニックに陥っているかのような異常な鳴らし方だった。拓也と私は顔を見合わせた。彼の顔に、再び言いようのない不安がよぎる。
「誰だ? こんな時間に」
私は黙って玄関へ向かい、モニターを確認した。そこには、拓也の手帳に写っていたあの若い女性が立っていた。彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになり、髪も乱れている。そして、その腕には小さな男の子が抱えられていた。
「開けてください! 拓也さん、助けて! 拓也さん!」
スピーカーから漏れ聞こえる彼女の叫び声は、夜の静寂を切り裂いた。私はゆっくりと拓也の方へ振り返った。
「あなたの新しい家族が、清算するんじゃなかったの?」
拓也はガタガタと膝を震わせながら、モニターに映る愛人の姿を凝視していた。だが、事態はこれだけでは終わらなかった。彼女の背後から、もう一台の車が急停車する音が聞こえてきたのだ。
玄関のドアを開けた瞬間、冷たい夜風と共に、安っぽい香水の香りがリビングになだれ込んできた。そこに立っていたのは、写真で見た通りの若い女だった。名前はエミ。拓也の不倫相手であり、彼の新しい家族の母親だ。彼女は腕の中で泣きじゃくる子供を抱え、必死の形相で拓也にすがりついた。
「拓也さん、助けて。急に男の人が何人も家に来て、『ここはもうあなたの住める場所じゃない。即刻出て行け』って言われたの。鍵も変えられちゃうって。私、どうしたらいいの?」
エミの声は裏返り、パニック状態だった。拓也は、私の前で見せていた傲慢な態度を瞬時に消し去り、うろたえた。
「な、なんだって? 立ち退きだと? そんなバカな。あのマンションは俺が……」
そこまで言って、拓也ははっと私を振り返った。私の顔には、相変わらず穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ああ、あのマンションのことね。ごめんなさい。伝えるのが遅くなったわ。あの物件、実は私の親戚がオーナーを務める不動産管理会社の持ち物だったの。あなたが勝手に……いえ、不適切に使用していることが判明したから、契約解除の手続きを済ませてもらったのよ。当然の措置をね、拓也さん」
私が静かに告げると、拓也の顔は一瞬で土色になった。
「お前……どこまで調べてやがったんだ?」
「調べてなんていないわ。あなたの手帳に、住所も契約書のコピーも全部入っていたんですもの。親切に『ここが僕たちの愛の巣です』ってメモまで添えてね。あんなに分かりやすい証拠を放置しておく方が悪いのよ」
拓也は怒りと屈辱で、わなわなと肩を震わせた。愛人の前で、自分が隷属していた妻に手玉に取られている。その事実が、彼の肥大した自尊心をズタズタに引き裂いたのだろう。彼は隣にいるエミのことなど目に入っていないかのように、私に向かって一歩踏み出した。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! お前ごときが! この俺を、誰のおかげでこの25年間、上位ずに生きてこれたと思っているんだ。この恩知らずの寄生虫が!」
拓也の声は、もはや理性のかけらも感じられない怒号となっていた。
「いいか、よく聞け。お前はただの中卒同然の頭しかない、何の価値もないばばあなんだよ。英語の一つも話せず、最新のパソコンも使えない。俺がいなければ、お前はただの初代ゴミだ。掃除と選択だけが取り柄の、動く家政婦なんだよ」
拓也の言葉は、これまでのどんな罵倒よりも残酷だった。彼は私の学歴や、私が家庭を守るために費やしてきた時間を徹底的に踏みにじった。私が外で働くことを許さず、女は家を守っていればいいと言い続けてきたのは、彼自身だったのに。私が資格を取ろうと勉強を始めれば、無駄なことに時間を使うなと教科書を捨てたのも、彼だったのに。
「どうした? 何も言い返せないか? 結局お前は、一人じゃ何もできないんだ。この家だって、俺の名義が入っているんだぞ。半分は俺のものだ。誰を住ませようが、俺の勝手だ。入ってこい。今日からここがお前の家だ。このばばあを追い出して、俺たち3人で暮らすんだよ」
拓也はエミの腕を強引に引き、土足同然の勢いで彼女をリビングへ招き入れようとした。エミは私の冷ややかな視線に怯えながらも、拓也の言葉にすがるようにして一歩踏み出した。彼女の目には、私に対する優越感がかすかに宿っていた。『結局、勝つのは若くて愛されている私なのよ』とでも言わんばかりに。
だが、私は一言も発さず、ただ静かに時計の針を見つめていた。沈黙。それは私が25年間、彼の暴言に耐えるために身につけた唯一の武器だったけれど、今日の沈黙はこれまでとは違う。それは嵐の前の静けさであり、彼らが地獄へ落ちるカウントダウンでもあった。
「何を黙ってやがる。さっさと出て行けと言っているんだ。お前の荷物なんて、全部庭に放り出してやるからな」
拓也がさらに私を突き飛ばそうと手を伸ばした、その時だった。外に停まっていたもう一台の高級車から、一人の女性が降りてきた。その女性は凛とした空気をまとい、ゆっくりと我が家の玄関へと歩み寄ってくる。彼女の姿が玄関の灯りに照らされた瞬間、拓也の動きが凍りついた。エミもまた、その女性の圧倒的なオーラにのまれて息を飲んだ。
「お、桜井……さん」
拓也の口から、かすれたような声が漏れた。そこに立っていたのは、極光電気の創業者一族である桜井会長夫人、桜井静江さんだった。彼女は拓也が最も恐れ、そして最も取り入ろうとしていた人物。静江さんは開いたままのドアからリビングを一瞥し、そして拓也と彼にしがみつくエミ、そして子供を、冷ややかな目で見つめた。
「あら、随分と賑やかね。佐藤部長。いえ、もう部長と呼ぶ必要はないのかしら」
静江さんの声は鈴の音のように美しく、そして冬の氷のように冷たかった。拓也は自分の耳を疑ったかのように硬直している。
「奥様、どうしてこちらに……? これは、その、何かの間違いで」
「間違い? ええ、そうね。あなたが今日まであんなに素晴らしい奥様を騙し続け、会社をも欺いてきたことは、人生最大の間違いだったと言えるでしょうね」
静江さんは私の隣に立つと、優しく私の肩に手を置いた。
「道子さん、お待たせしてしまったわね。準備は全て整ったわ」
私は初めて口を開いた。
「ありがとうございます、静江さん。でも、まだ終わりじゃないんです。彼には知るべき真実がありますから」
拓也は静江さんと私が親密に言葉を交わす様子を見て、絶望の縁に立たされたような顔をしていた。だが、彼が本当に絶望するのはこれからだった。エミが抱えているその子供の正体。そして、拓也が自分の息子だと信じて疑わない存在の背後に隠された、衝撃の事実。
「拓也さん、あなた、その子が本当に自分の子だと思っているの?」
私の問いかけに、エミの顔が今度こそ幽霊を見たかのように真っ白になった。
静江さんの登場によってリビングの空気は一変した。しかし、追い詰められた獣ほど、なりふり構わず牙を剥くものだ。拓也は一瞬絶望に目を見開いたが、次の瞬間には顔を真っ赤にして叫び声をあげた。
「何が準備だ! 会長夫人が何だと言うんだ? これは家庭の問題だ。部外者は口を出すな!」
拓也は静江さんに向かって、あろうことか指を差して怒鳴り散らした。エリートとしての理性が、プライドの崩壊と共に完全に消失したようだった。静江さんは眉一つ動かさず、その下劣な振る舞いを見つめている。
「道子、お前が吹き込んだんだろう。この卑怯者が! 会長の奥様を騙して、俺を落とし入れようとするなんて。お前みたいな無能が、俺のキャリアを邪魔していいと思っているのか」
拓也は私の方へ向き直り、今度は私の腕を強く掴んで揺さぶった。
「いいか? 今すぐ、今の言葉を取り消せ。奥様に『全ては私の嫉妬から出たことでした』と謝るんだ。さもないと、本当にお前を只じゃ置かないぞ」
腕に食い込む指の痛みが、彼の焦りの大きさを物語っていた。25年間、一度も暴力を振われたことはなかったが、今の彼はいつ手をあげてもおかしくないほど逆上している。私はその痛みを受け流すように、ただ静かに彼を見つめ返した。
「黙って逃げるつもりか。何とか言えよ! この役立たず! お前が会長夫人の耳に入れたせいで、俺の取締役への道がどれだけ危なくなったか、分かっているのか。その損害、お前の実家を売っても払いきれないぞ」
拓也の暴言は止まらない。彼は私が何も言い返さないのを怯えていると勘違いしたのか、さらに畳みかけてきた。
「大体、お前が男の子を一人も生めない不妊体質だったから、俺はエミと出会ったんだ。エミは俺に息子を授けてくれた。男として、一族として、俺がどちらを選ぶべきか、そんなの明白だろうが」
その言葉を聞いた瞬間、隣で震えていたエミが、急に強気な表情を取り戻した。彼女は泣き真似をしながら、拓也の背中にしがみついた。
「そうですよ、奥さん。この人、ひどいんです。私たちが住んでいたマンションを追い出そうとするなんて、まるで鬼だわ。この子、拓也さんの大事な息子を、路頭に迷わせるつもりなんですよ」
エミは腕の中の子供を抱き直し、私を勝ち誇ったような目で見つめた。
「おばさん、いい加減に身を引いたらどうですか? 拓也さんには私が必要なんです。若くて、子供も生める、将来のある私がね。あなたはもう、賞味期限切れのただのガラクタなんですよ」
20代の女性から投げつけられた、あまりにも残酷で無遠慮な言葉。拓也はそれを止めるどころか、満足げに鼻で笑った。
「聞いたか? これが現実だ。お前には価値がない。あるのは、俺が与えてやった『佐藤の妻』という肩書きだけだ。離婚届を受理されたのは剣都合がいい。だが、財産分与だの慰謝料だの、甘い夢は見るなよ。お前には、この家から叩き出される権利しかないんだ」
拓也は私を突き飛ばすようにして腕を離した。私はよろけてソファの角に腰を打ったが、痛みよりも悲しみが、そしてその奥から湧き上がる冷徹な怒りが私を支配していた。静江さんが「道子さん、大丈夫?」とかけよろうとしてくれたが、私は手でそれを制した。
「拓也さん、最後に一つだけ聞かせて」
私は震える声を抑え、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたにとって、この25年間、私と過ごした時間は、本当にゴミのようなものだったの? 私たちが一緒に育ててきた思い出も、全部、その場凌ぎの嘘だったの?」
私の問いに、拓也は冷笑を浮かべて言い放った。
「ああ、そうだ。お前といる時間は、ただの忍耐だったよ。家事を完璧にこなす機会としては優秀だったが、女としては、退屈の限りだった。お前との生活に、一度だって心が踊る瞬間なんてなかったね」
「そう。分かったわ」
私は深く、深く息を吐き出した。その呼吸と共に、私の中に残っていた妻としての情が全て消えていくのが分かった。
「道子さん、もういいでしょう。静江さんが静かに、しかし威厳のある声で告げた。この男に、これ以上言葉をかける価値はありません。私たちが用意した贈り物を、そろそろお披露目する時ではないかしら」
静江さんはバッグから一通の封筒を取り出した。それを見たエミの顔が、再び凍りついた。彼女には、その封筒に見覚えがあったのかもしれない。
「な、なんだ。それは何かの書類か」
拓也がイライラしながら封筒を覗き込もうとした。
「これはね、佐藤さん。あなたが『僕の息子』と信じてやまない、そのお子さんに関する、極めて重要な調査結果よ」
静江さんの言葉に、エミが叫び声をあげた。
「やめて! 見ないで、拓也さん! それは嘘よ。その女が私を落とし入れるために作った偽物なの!」
エミは狂ったように静江さんに飛びかかろうとした。だが、その時、開け放たれたままの玄関から、さらに数人の男たちが姿を現した。一人はカメラを回し、もう一人は高級なスーツ姿の弁護士風の男。そして最後の一人は、エミが、そして拓也が、最もこの場で会いたくなかった人物だった。
「エミ。お前、こんなところで何をしている?」
その男の低い声が響いた瞬間、エミは持っていたバッグを床に落とし、ガタガタと膝を震わせ始めた。拓也はその男の顔を見て絶句した。
「君は……取引先の木村君じゃないか」
玄関先に現れたのは、拓也が仕事で取引をしていた広告代理店の若手エリート、木村健太だった。彼はまだ30代前半だが、その仕事ぶりは正確無双で、拓也も一目を置いていた存在だ。その木村が、なぜ今、怒りに満ちた様子でここに立っているのか。そして、なぜエミと、彼女の腕の中にいる子供を凝視しているのか。
「木村君……どうしてここに。エミと知り合いなのか?」
拓也が震える声で尋ねる。木村は拓也を一瞥したが、そこには尊敬の念など微塵もなかった。あるのは軽蔑と、深い悲しみと、そして隠しきれない怒りだけだ。
「知り合いか? 佐藤部長。いや、佐藤さん。この女は、僕の妻ですよ」
「なっ……」
拓也の喉から、空気の抜けるような音が漏れた。
「そして、その子は、僕とエミの間に生まれた、僕の大切な息子だ。エミ、お前、実家に帰ると言って家を出てから一ヶ月。まさか、こんな男と会っていたのか」
木村の叫びに、エミはガタガタと震えながら後ずさりした。
「違うの、健太。これは……その、人助けというか……」
「人助け? この男から毎月の年金を受け取り、高級マンションに住ませてもらっていたのが人助けか? 君の不審な行動を怪しんで、僕は調査を依頼していたんだ。そしたら、とんでもない事実が次々と出てきたよ」
木村は、静江さんが持っていたのと同じ内容の調査報告書を、拓也の足元に投げ捨てた。
「佐藤さん。あなたはこの女に、完全に騙されていたんですよ。この子はあなたの血を分けた息子じゃない。僕の子だ。DNA鑑定も、すでに済ませてある」
拓也は崩れ落ちるように床に膝をついた。彼はエミに渡された偽の鑑定結果を信じ込み、自分には輝かしい未来が約束されていると思い込んでいたのだ。愛する女性と、自分の血を継ぐ息子。それを手に入れるためなら、25年連れ添った妻を捨てることなど、彼にとっては安い代償だったはずだ。しかし、その全てが巧妙に仕組まれた嘘だった。
「嘘だ……嘘だろう。エミ、お前、俺を愛していると言ったじゃないか。あの子は俺にそっくりだって……」
「あはは」
突然、エミが乾いた笑い声をあげた。彼女は憑き物が落ちたような顔で、拓也を見下した。
「どこがよ。こんなふけたおじさんに似るわけないじゃない。そうよ、全部嘘。あなたの自尊心をくすぐってあげれば、面白いように金が出てくるんですもの。接触で一度あった時から、あなたは絶好のカモだったわ」
エミの言葉は、拓也の魂をかち割るまでに叩き潰した。彼女は木村の方を向き、縋るような声を出す。
「健太、聞いて。私はただ、私たちの生活をもっと豊かにしたかっただけなの。このおじいさんが勝手に私に貢いで、勝手に離婚するって言い出しただけなのよ」
「黙れ。見苦しい」
木村はエミの手を振り払い、子供を抱き抱えようとした。修羅場と化したリビングで、私はただ一人、静かにその光景を見守っていた。隣に立つ静江さんが、私の手をそっと握ってくれる。
「道子さん、そろそろ、あなた自身のこともお話ししたら」
静江さんの促しに、私は拓也を見つめた。彼は今、自分が全てを失ったことに気づき、呆然自失としている。地位も名誉も、愛する家族も、そしてこれから気づくはずだった新しい家庭も、全てが幻だったのだ。
「拓也さん。あなたはさっき、私を中卒同然で、英語も話せないクズだと言ったわね」
私は、今まで一度も見せたことのない、冷徹で知的なトーンで話し始めた。
「何が言いたい?」
「私はね、25年前、あなたと結婚するために、あるキャリアを捨てたのよ。覚えているかしら? 私が大学を卒業してすぐ、海外の大学院へ留学する準備をしていたこと」
拓也はかすかに目を見開いた。
「そんな昔のこと、今更何の関係がある」
「私は留学を諦めて、あなたの妻になる道を選んだ。でも、勉強を完全にやめたわけじゃなかったの。あなたが寝静まった後、あなたが『無駄なこと』と切り捨てた教科書を隠れて読み、通信制で経営学の学位を取得し、国際資格もいくつか取ったわ」
私はバッグから、一冊の古いけれど大切に使い込まれた手帳を取り出した。それは拓也のものとは違う、私の25年間の努力が詰まった記録だ。
「そして、私の実家。あなたが『古臭い田舎者』と馬鹿にしていた私の実家だけど、実は極光電気の主要株主の一つである、不動産管理会社の筆頭株主なのよ」
拓也の顔が驚愕で引きつった。
「なんだって……」
「あなたが住んでいるこの家も、私が実家から相続した資産の一部。そして、あなたが今必死にしがみついているその極光電気の役員人事。実は、私の家の一員として、どうにでもなる立場に私はいるのよ」
私は静江さんに微笑みかけた。静江さんは極光電気の創業者一族だが、私の実家とは古くからのビジネスパートナーでもあったのだ。私が普通の専業主婦として振る舞っていたのは、ただ拓也を立て、彼が仕事に専念できるようにという、私なりの愛情と配慮だった。それを彼は無能の証だと勘違いし、私を見下し続けてきたのだ。
「お前……そんな嘘だ。そんな大事なこと、どうして今まで言わなかった」
「言ったところで、あなたは信じなかったでしょう。それに、私はあなたに私の力ではなく、あなた自身の力で成功して欲しかった。だから、ずっと影で支えてきたの。会長にあなたの評判が届くように根回しをしていたのも、実は私だったのよ」
拓也は言葉を失った。自分がどれほど愚かな行為をしてきたのか。自分が手に入れたと思っていた名声やチャンスが、実は自分が蔑んでいた妻の尽力によるものだった。その衝撃は、彼のプライドを粉々に粉砕するには十分すぎた。
「でも、もうそれも終わり。私が根回しをしてあげたのは、私の夫であったあなたに対してだけよ。もう私たちは赤の他人。あなたがこれからどうなるか、想像もつかないかしら?」
私は最後の一撃を加えるために、スマートフォンの録音ボタンを止めた。そこには先ほどまでの拓也の怒号、不倫の告白、侮辱の言葉が、余すところなく記録されていた。
「これ、会長に届けてもいいわよね、静江さん」
「ええ、もちろん。我が社に、これほど品性のかけらもない人間を役員にする席はありませんから」
拓也は幽霊のように真っ白な顔で私を見上げた。その時、玄関の外でまた新たな足音が聞こえてきた。今度は、警察の制服を着た男たちが、二人、部屋に入ってきたのだ。
「佐藤拓也さんですね。別の件で、あなたに同行を願いたいのですが」
「警察……同行? な、何の話だ。私は何もしていないぞ」
拓也の声は裏返り、動揺が隠しきれなくなっていた。先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、制服警官を前にして、彼の顔は見る見るうちに青白くなっていく。
「佐藤拓也さん。あなたが極光電気の不動産管理部門において、架空の修繕費を計上し、多額の裏金を作っていた疑いがあります。すでに会社側から告発状が出ておりましてね」
年配の警官が、事務的に淡々と告げた。その言葉を聞いた瞬間、私は静江さんと顔を見合わせた。静江さんは静かに頷いた。やはり、私の疑いは的中していたのだ。拓也がエミに買い与えていたブランド品の数々、そして都心の高級マンション。部長の給料だけで賄うには、あまりにも明らかに不釣り合いな支出だと以前から感じていた。私は彼が寝静まった後に、こっそりと家計簿と彼の持ち帰った領収書を照らし合わせ、不自然な資金の流れを記録し続けていたのだ。その資料を数日前、静江さんを通じて会社の監査役に手渡していた。
「裏金ねえ。嘘だ! 誰がそんなでたらめを……」
「それに! エミ、お前が欲しいって言ったから、俺は……」
拓也は、自分にすがりついていたはずのエミを指差し、狂ったように叫んだ。しかし、エミはすでに木村の背後に隠れ、冷めた目で拓也を見ている。
「何言ってるのよ、おじさん。私はただ『いい生活がしたいな』って言っただけ。それを勝手にお金を作って持ってきたのは、あなたじゃない。私、そんな犯罪に関わるようなお金だなんて知らなかったわ」
エミの冷淡な言葉が、拓也の胸をえぐる。
「お前、恩を仇で返す気か! 俺がどれだけお前に尽くしたと思っているんだ!」
「尽くした? 笑わせないでよ。自分のプライドを満たすために、若い女を囲って貢いでいただけでしょう。私にとっては、ただの仕事の一部だったのよ。あー、気持ち悪い。あんな偽の鑑定書一枚で、自分の子だって信じ込むなんて、本当におめでたい頭をしてるわね」
エミは吐き捨てるように言った。その言葉は、どんな罵倒よりも重く、拓也の心にとどめを刺した。彼は自分の犯した罪よりも、愛していたと思っていた女からの拒絶に、目を見開いて硬直した。
「さあ、佐藤さん。署の方でじっくりお話を伺いましょうか。奥様……いえ、元奥様ですね。証拠資料の提出、ありがとうございました。おかげで捜査がスムーズに進みそうです」
警官が私に軽く会釈をした。私は黙って、深く一礼した。25年間共に歩んできた夫が、手錠をかけられて連行されていく。その背中は、かつて私が尊敬し、支えようと誓った男の面影は微塵もなく、ただの惨めな初老の男のものだった。
「待ってくれ、道子! 嘘だろう! 冗談はやめてくれ! 俺が悪かった! 謝るから! 離婚届……あれはなかったことにしてくれ! 会長に……会長に行って、告発を取り下げさせてくれよ!」
拓也は警官に両脇を抱えられながら、必死に私に手を伸ばした。その目は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、プライドのかけらも残っていない。
「お前しかいないんだ。俺にはお前しかいないんだよ、道子! 25年も一緒にいたんだろう! 情があるだろうが! 助けてくれよ!」
私は玄関先で暴れる彼を、冷たい風に吹かれながら見つめていた。その言葉が、今の私にはひどく空々しく聞こえる。私が情をかけていた時、あなたは私をクズと呼び、私の尊厳を踏みにじった。私が必死に家庭を守っていた時、あなたは私を動く家政婦としてしか見ていなかった。
「拓也さん。あなたはさっき、私との生活に、心が踊る瞬間なんて一度もなかったと言ったわね。私も今、同じ気持ちよ」
私は自分でも驚くほど穏やかな声で告げた。
「あなたの背中を見送るこの瞬間が、この25年間で一番、心が踊っているわ。さようなら、佐藤さん。もう二度と、私の前に現れないで」
拓也は絶望の叫びをあげながら、パトカーの中に押し込まれた。サイレンの音が遠ざかっていく。夜の住宅街に、再び静寂が訪れた。
リビングに残されたのは、私と静江さん。そして、険悪な空気の中で立ち尽くす木村とエミだった。木村はエミの腕から子供を強引に引き取ると、彼女を一瞥もせずに吐き捨てた。
「エミ。お前とのことは、弁護士を通して話し合う。二度と、俺と息子に近づくな」
「健太、待って! 行かないで! 私、これからどうすればいいのよ!」
エミは泣き叫びながら木村を追おうとしたが、木村は冷たくドアを閉めた。最後に残されたのは、豪華な家具に囲まれた見知らぬリビングで、一人立ち尽くすエミだった。彼女の足元には、拓也から買ってもらった高級ブランドのバッグが無造作に転がっている。
「さて、エミさんだったかしら」
静江さんが一歩前に出た。その瞳には、拓也に向けられたものとはまた違う、鋭い軽蔑が宿っていた。
「あ、あの! 私は騙されていたんです! あの男に無理やり……」
エミは必死に言い訳を始めた。だが、静江さんはそれを遮るように、一枚の書類を突きつけた。
「騙されていた? それはこっちのセリフよ。あなたが拓也さんを通じて、我が社の重要機密である新製品の情報を、ライバル会社に流していた証拠を、しっかり抑えさせてもらったわ」
エミの顔が、今度こそ完全に凍りついた。不倫、詐欺、産業スパイ。彼女が犯した罪は、拓也のものよりもさらに深い闇へと繋がっていた。
「道子さん。この人も、連れて行ってもらえるように手配してあるわ。私たちの本当の仕事は、ここからね」
静江さんの言葉に、私は静かに頷いた。拓也の逮捕は単なる幕引きではない。25年間、私が耐え忍びながら積み上げてきた、ある計画のまだ序章に過ぎなかったのだ。
パトカーのサイレンが夜の闇に吸い込まれ、静まり返ったリビング。数分前まで怒号と鳴き声が渦巻いていた場所とは思えないほど、今はただ、冷ややかな静寂が支配していた。エミもまた、静江さんが手配した警備会社のスタッフに連れられ、事情聴取のために姿を消した。残されたのは、私と静江さん。そして、リビングの床に散らばった、あの黒い手帳だけだった。
「終わりましたね、道子さん」
静江さんがそっと私の隣に立ち、穏やかな声をかけた。
「いいえ、静江さん。これは終わりではなく、ようやく私の人生が動き出すための、大掃除ですわ」
私は床に落ちた拓也の手帳を拾い上げた。25年間、この手帳に書かれた予定に合わせて、私は自分の人生を調整してきた。彼が「大事な会議だ」と言えば深夜まで食事を温めて待ち、「ゴルフだ」と言えば早朝から車を磨き、ウェアを準備した。この小さな手帳は、私にとっての支配の記録だったのだ。
「道子さん。あなたが長年温めてきたあの計画、いよいよ実行に移す時が来たようですね。会長も、そして私の実家のグループも、全面的にあなたをバックアップすると約束しています」
静江さんの言葉に、私は深く頷いた。実は、私はただ耐えていただけではない。拓也が私を無能な主婦として外の世界から切り離そうとしていた間、私はある大きなプロジェクトを水面下で進めていた。これは、私の実家である不動産管理会社と極光電気の物流部門を統合し、地方創生を目的とした新たなコンサルティング企業を立ち上げること。このプロジェクトの核となるスキームを考案したのは、他でもない私自身だった。私は匿名で、静江さんの夫である桜井会長に企画書を送り続け、会長はその類稀なビジネスセンスに惚れ込み、この企画者にぜひ会いたいと熱望していたのだ。それが自分の部下の妻であると知った時の、会長の驚きと喜びようは、今でも忘れられない。
「拓也さんは、私が実家の力を借りて彼を支えていると思っていたようだけど、本当は逆だったのよ。彼が部長になれたのも、取締役候補に残れたのも、私が彼の仕事のミスを裏で修正し、会長にアドバイスを送っていたからなのに」
そう、拓也が「俺の実力だ」と豪語していた数々のプロジェクトの成功。その影には、深夜、彼が泥酔して眠っている間に、私が資料を読み込み、疑点を指摘し、匿名のアドバイスとして彼のメールボックスに送り届けていたという真実があった。彼はそれを「幸運な閃き」だと思い込んでいたが、その天啓を与えていたのは、彼が「中卒同然」と馬鹿にしていた妻だったのだ。彼は最後まで気づかなかった。自分の足元を支えていたのは、自分が見下していた女の知性だったということに。
私は手帳のページをめくった。そこには、不倫の証拠だけでなく、拓也が横領していた資金の振り込み先や、会社の機密情報を持ち出すための連絡先が、彼特有の几帳面な字でびっしりと書き込まれていた。彼はこの手帳を自分の城だと思っていたのだろう。だが、それは彼を破滅させるための、告発状へと姿を変えた。
「道子さん。明日の朝、極光電気の臨時取締役会が開かれます。そこで、佐藤拓也の正式な解雇、そしてあなたの新会社設立に関するプレスリリースが出されることになっています。準備はよろしいですか?」
静江さんの問いに、私は鏡の中の自分を見つめた。25年間、自分を抑え、夫の影として生きてきた佐藤道子の顔。どこか疲れ、諦めに満ちていたその表情が、今は見たこともないほど力強く輝いている。
「ええ。もう、誰かの影でいるのは終わりです。まずは、この家から彼の痕跡を全て消し去ることから始めましょう」
私はクローゼットへ向かい、拓也が大切にしていたブランド物のスーツを次々と引っ張り出した。一着数万円もする、私の実家の金と彼が横領した金で買った虚栄の象徴。それをゴミ袋に放り込んでいると、リビングの固定電話が鳴り響いた。ナンバーディスプレイを見ると、表示されたのは拓也の実家の番号だった。拓也の両親。25年間、私を「子供を産めない役立たず」と攻め立て、家政婦のように扱ってきた義父母だ。拓也が警察に連行されたという一報が、すでに届いたのかもしれない。
私はゆっくりと受話器を取った。
「はい。道子です」
「道子さん! 一体どういうことなの? 拓也が警察に連れて行かれたって、本当なの?」
受話器の向こうから、義母のヒステリックな叫び声が聞こえてくる。
「ええ、義母様。本当ですよ。拓也さんは会社の金を横領し、若い女性と隠し子まで作っていたそうです。いえ、隠し子だと思っていたのは、実は他人の子だったようですけど」
「何を言ってるの? 拓也に限って、そんなことあるはずないでしょう! あなたが何か変なことを吹き込んだんじゃないの! 早く会社に行って、取り消させなさい! 拓也のキャリアに傷がついたら、佐藤家の名誉に関わるわ!」
相変わらずの自分勝手な言い分。私の存在など、この人たちの頭には一切存在しない。だが、今の私にはその言葉すら、心地よい子守唄のように聞こえた。
「義母様。残念ですが、もう手遅れです。拓也さんは本日付けで解雇になりますし、逮捕されたことで退職金も一円も出ません。それから、もう一つ、大切なことをお伝えし忘れていました」
私は窓の外に広がる庭を見つめた。そこには、私が丹精込めて育ててきたバラの花が、月明かりに照らされて美しく咲いている。
「この家、元々は私の両親が、私と将来の子供のために用意してくれた土地に立っているんです。拓也さんが『俺の城だ』と言っていましたが、あいにく、この家の所有権は100%、私の実家の会社に移っています。拓也さんの横領金の補填として、彼の持ち分は全て差し押さえられましたから」
「な、なんですって!?」
「明日、その家にも立ち退きの通知が行くはずです。拓也さんがあなたたちに送っていた生活費も、全て横領金から出ていたものですから、返還義務が生じるかもしれませんね」
受話器の向こうから、義母が絶句する気配が伝わってくる。彼らが誇りに思っていたエリートの息子と、安泰な老後が、音を立てて崩れ去っていく瞬間。25年間の侮辱に対する、これが私からの最初のお返しだ。
「義母様。お体に気をつけて。これからは、あなたたちの自慢の息子さんが、刑務所の中でしっかり反省してくれることを祈っていますわ。ああ、それから、二度と私に連絡しないでください。私はもう、佐藤道子ではないのですから」
私は一方的に電話を切った。胸の奥が、これまでにないほどすっと軽くなるのを感じた。
しかし、その時だった。背後で、静江さんがはっと息を飲む音が聞こえた。
「道子さん、見て。この手帳の最後のページに、何か挟まっていたわ」
静江さんが差し出したのは、手帳の裏表紙の隠しポケットから覗いていた、一枚の写真だった。そこには、拓也とエミ、そしてもう一人。私が全く予想もしていなかった、ある人物が映っていたのだ。その人物の顔を見た瞬間、私の全身に衝撃が走った。
「嘘……どうして、この人が……」
静江さんが手帳の奥底から見つけ出した、あの一枚の写真。そこに映っていたのは、南国のリゾート地で満面の笑みを浮かべる拓也とエミ。そして、その中央で二人と肩を組み、シャンパングラスを掲げている、一人の男だった。その顔を見た瞬間、私の指先から血の気が引いていくのが分かった。
「ひ、仁……」
私の口から、絞り出すような声が漏れた。そこに写っていたのは、私のたった一人の弟、佐藤仁だった。仁は、私の実家である不動産管理会社の専務を務めている。父が亡くなった後、経営の大部分を彼に任せていた。私は拓也の妻として家庭を守る道を選びつつも、影で彼を支えてきたつもりだった。彼が会社の資金繰りが厳しいと言えば、私は自分の貯金を切り崩して貸し出し、新しい事業を始めたいと言えば、会長夫人の静江さんとの縁を繋いであげたこともある。全ては亡き父が守ってきた会社のため、そして唯一の弟である仁のためを思ってのことだった。
だが、写真の中の仁は、私の夫の不倫相手であるエミと、親しげに笑っている。それどころか、エミの肩を引き寄せているその手つきは、単なる知人以上の親密さを物語っていた。
「道子さん。これは、どういうことかしら? 仁さんも、この不正行為に関わっていたということを?」
静江さんの鋭い声が、私の思考を現実へと引き戻した。
「おそらく……そうだと思います。それだけではありません。拓也さんが会社の金を横領できたのも、不動産管理の専門知識を持つ仁の助けがあったからではないでしょうか」
震える手でスマートフォンを取り出し、私は仁の番号を呼び出した。深夜にも関わらず、仁はすぐに応答した。受話器の向こうからは、どこか上ずった、酒の入っているような陽気な声が聞こえてくる。
「もしもし。姉さん? こんな夜中に珍しいね。まさか、また義兄さんの愚痴でも言いたいのかい? 大人しく家を守るのが、姉さんの仕事だろう」
仁の言葉には、私を馬鹿にしたような響きがあった。25年間、彼は私を世間知らずの専業主婦と決めつけ、ことあるごとに見下してきたのだ。
「仁。今、どこにいるの?」
「どこって? 接待だよ。忙しいんだ。こっちは、要件がないなら切るよ」
「今、警察が家に来たわ。拓也さんが連行されたのよ。横領と、不適切交際の疑いでね」
電話の向こうで、一瞬、空気が凍りついたのが分かった。
「わ、わあ……警察? 何を言ってるんだ、姉さん。そんな冗談、笑えないよ」
「冗談じゃないわ。今、目の前にある拓也さんの手帳を見ているところ。そこには、あなたと拓也さんが裏で繋がっていた証拠が、山ほど挟まっているのよ。リゾートで撮った写真もね」
「なっ……」
仁の息を飲む音が聞こえた。さっきまでの余裕たっぷりの声は消え、激しい動揺が伝わってくる。
「お前……勝手に義兄さんの手帳を見たのか! 触るなと言っただろう! その手帳には触るなと言った!」
「私にそんなことを言った覚えはないわよ。仁。あなた、拓也さんを使って、実家の会社の資産を横流ししていたわね。エミという女性を彼に引き合わせたのも、あなたじゃないの」
私の問いかけに、仁はついに逆上した。
「黙れ黙れ黙れ! お前みたいな、家事しかできない女が、余計な口を挟むな! 姉さんは黙って、俺たちが作った金を享受していれば、それでよかったんだよ! 中卒同然の頭で、経営の何が分かる! 俺はこの会社をさらに大きくするために、必要なことをしただけだ!」
仁の言葉は、拓也のそれと驚くほど似ていた。二人とも、私を一人の自立した人間としてではなく、自分たちの利益のために利用し、都合が悪くなれば「無能」というレッテルを貼って黙らせようとする。その傲慢さが、私をどれほど傷つけ、そして今、どれほどの怒りとなって燃え上がっているか。
「中卒同然? あなたも拓也さんと同じことを言うのね。でもね、仁。あなたが手柄だと思ってやってきたことは、ただの犯罪なのよ。そして、私が黙って何も知らずにいたと思っているのは、あなたの最大のミスだわ」
私は冷徹に、あらかじめ用意しておいたもう一つの事実を突きつけた。
「あなたがここ数年進めていた海沿いの開発プロジェクト。あれ、実家の名義じゃなくて、あなたの個人会社に利益が出るように仕組んでいたわね。でも、残念ながら、その土地の所有権は、昨日の時点で、私が代表を務める別会社に移転を完了させておいたわ」
「何だと! そんなことができるはずがない! 役員の承認が必要なはずだ!」
「ええ、必要よ。だから、私以外の役員全員の合意を取ったわ。あなたの不正の証拠を全て提示した上でね。彼らはみんな、あなたの放漫経営と傲慢な態度に愛想を尽かしていたのよ」
仁の声が、ガタガタと震え始めた。
「嘘だ……嘘だろ! 俺は専務だぞ! 後継ぎの息子なんだぞ! 姉さんごときに、そんな権限があるわけがない!」
「あるのよ。お父様の遺言書。あなたは、姉さんには家と土地、弟には会社と、分けてもらったと思っていたでしょう? でも、本当の遺言書には、続きがあったの。『仁に経営の資質なしと判断された場合、全ての議決権を道子に委ねる』という一言がね」
私は静江さんの隣で、微笑みながら続けた。
「明日、あなたの解任を決議する臨時株主総会が開かれるわ。警察も、拓也さんの供述次第では、すぐにあなたの元へ向かうでしょうね」
「待って! 待ってくれ、姉さん! 悪かった! 俺が悪かったんだ! 全部、拓也さんにその気にさせられたんだよ! 俺はただ、会社をよくしたかっただけで……」
「さっき、私のことを何て言ったかしら? 『家事しかできない女』だったかしら。そんな女に助けを求めるなんて、随分プライドがなくなったものね」
私は女を切り上げようとした。
「あ、待て! 切るな! 道子! お願いだ! 助けてくれ! 俺たち、兄弟だろう!」
「いえ。だからこそ、あなたが犯した罪の報いは、しっかりと受けてもらうわ。それが、姉としての最後の情けよ」
私は通話を切った。仁の叫びが消えたリビングに、再び静寂が戻る。しかし、その静寂を破るように、玄関のインターホンが再び鳴った。今度は誰だろうか。拓也の逮捕、仁の失脚。事態は私が想像していたよりも、さらに大きな渦となって、周囲の人間を巻き込み始めていた。
玄関のモニターを確認した静江さんが、少しだけ驚いたような顔をして私を見た。
「道子さん。意外な人が来ているわよ」
まさか、このタイミングで彼が現れるなんて。モニターに映し出されていたのは、私が25年前、ある事情で別れることになった、あの人だった。
モニターの向こう側に立っていたのは、一人の紳士だった。白髪混じりの髪を整え、仕立ての良いスーツを着こなしている。その目元には、優しさと揺るぎない知性が宿っていた。
「慎司……?」
私の唇が、無意識にその名を刻んだ。藤代慎司。25年前、私が愛し、そして私の実家が傾きかけた時に、苦渋の決断で振り切った人。当時の私は、実家を救うために、高額な支援を申し出てくれた拓也との結婚を選んだのだ。慎司さんは、涙を流す私に「君が幸せなら、それでいい」とだけ言い残し、海外へと旅立っていった。
玄関を開けると、慎司さんは穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
「お久しぶりです。道子さん。いえ、今はもう、みち子さんと呼んでも差し支えないのでしょうか」
「慎司さん……どうしてここに? ずっと海外にいらしたはずでは……」
「極光電気の桜井会長に招かれたのです。顧問弁護士として。そして、今回の特別監査の責任者としてね」
慎司さんの言葉に、私は言葉を失った。彼は日本に戻り、会長の片腕として、拓也や私の弟である仁の不正を暴くための調査を指揮していたのだ。
「中に入ってください、慎司さん。ちょうど、全てのゴミを片付け終えたところですわ」
静江さんに促され、慎司さんはリビングへと足を踏み込んだ。彼は散らかった書類や、拓也が残していった虚栄の残骸を見つめ、静かにため息をついた。
「道子さん。あなたが、この25年間、どんな思いでこの家にいたのか、全て伺いました。本当に、よく耐えられましたね」
慎司さんの優しい声に、私は一瞬、込み上げてきた涙が溢れそうになった。だが、今の私には涙よりも先に、知るべきことがあった。
「慎司さん。あなたが調べてくださった真実を、私に教えてください」
慎司さんは真剣な表情になり、一冊の古いファイルをテーブルに広げた。そこには、25年前、私の実家の会社が経営難に陥った時の、詳細な記録が綴られていた。
「当時、お父様の会社を経営難に追い込んだのは、実は拓也さん本人だったのです」
「いえ……?」
私は耳を疑った。
「彼は極光電気の担当者という立場を利用して、あなたの実家の取引先に圧力をかけ、取引を止めさせました。そして、会社が倒れそうになった絶妙なタイミングで、『僕なら救える』とヒーローの顔をして現れた。全ては、あなたを自分の所有物にするために、彼が仕組んだ自作自演だったのですよ」
あまりの衝撃に、私は沈黙した。激しい目眩がした。私は、自分の実家を壊した張本人を、命の恩人だと信じ込み、その男に尽くすために、慎司さんとの愛を捨て、25年もの歳月を捧げてきたというのか。
「そんな……じゃあ、父が亡くなる間際に、『拓也さんに感謝しなさい』と言っていたのも、全ては彼の嘘の上に……」
静まり返ったリビングに、時計の秒針の音だけが響く。私は何も言えず、ただ握りしめた拳を震わせていた。拓也は、「お前のような無能な女を救ってやったのは俺だ」と、呪文のように言い続けてきた。だが、現実は、私を籠の中の鳥にしたのは、他でもないあの男だったのだ。
「道子さん。まだあります。弟の仁さんのことです」
慎司さんの言葉に、私は顔を上げた。
「仁さんは、拓也さんの不倫相手であるエミさんと、実は古くからの知り合いでした。それどころか、エミさんが拓也さんに近づいたのは、仁さんの指示だったのです。仁さんは、拓也さんを操り、会社の金を横領させ、その証拠を仁さんが握ることで、拓也さんを一生、自分の言いなりにするつもりだった」
「仁が……?」
「しかし、誤算がありました。拓也さんが予想以上にエミさんにのめり込み、勝手に離婚届まで用意してしまった。そして、何よりの誤算は――道子さん、あなたが想像以上に賢く、強かったことです」
仁は拓也を支配しようとして、逆に自分も破滅の淵に立たされたのだ。姉を無能、役立たず、と蔑み、道具として使っていた弟の、あまりにも浅墓な計画。真実が見えるにつれ、私の中の悲しみは、透明な殺意にも似た静かな怒りへと変わっていった。
「慎司さん。私に、そのファイルを預けていただけますか?」
「もちろんです。これこそが、彼らに引導を渡すための、最大の武器ですから」
私はファイルを受け取り、その重みを噛みしめた。25年分の私の人生の重み。それを今から、彼らの頭蓋骨に叩きつけてやる。
「道子さん。一つ、確認しておきたいことがあります」
慎司さんはまっすぐに私を見つめた。
「あなたは本当に、これで全てを終わらせるつもりですか? 彼らは今、必死に保身のために動いています。おそらく、最後の悪あがきをしてくるでしょう」
「ええ、分かっていますわ。でも、無駄よ」
私はリビングの壁にかかっている、拓也の肖像画を見上げた。彼が自分の成功を記念して描かせた、傲慢な笑顔の肖像が。彼らが何をしようと、もう私を傷つけることはできない。だって、私はもう、あの男の妻ではないのですから。
その時、私のスマートフォンが激しく震えた。発信者は、逮捕されたはずの拓也が雇った弁護士からだった。
「はい。……承知いたしました。ええ、今から伺います」
通話を終えた私は、慎司さんと静江さんに向かって、小さく頷いた。
「拓也さんが、接見室で私に会いたいと言っているそうです。『話がある』んですって。自分をここから出す方法について」
「行くのですか?」
静江さんの問いに、私は穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ。最後のご挨拶に伺います。彼がどれほど混乱し、絶望しているか、この目で確かめたいんですもの」
接見室に向かう私の足取りは、羽が生えたように軽かった。だが、その場所で待っていたのは、私の想像を絶する、悪意の罠だった。
冷たいコンクリートの壁と、かすかに漂う消毒液の匂い。警察署の接見室。分厚いアクリル板の向こう側には、昨夜までの余裕が全くないほどに、やつれ、髪を振り乱した拓也が座っていた。私の顔を見るなり、彼は身を乗り出し、アクリル板を拳で激しく叩いた。
「道子! 遅いじゃないか! 一体、何時間待たせるつもりだ!」
第一声がそれだった。逮捕され、社会的信用を全て失った今でも、彼は私を、自分に従うべき所有物だと思っているらしい。その事実に、私は驚きを越えて、ある種の哀れみさえ感じた。
「何の御用かしら、佐藤さん。弁護士さんを通じて、急ぎの用だと伺ったけれど」
私が極めて冷静に、他人行儀な声で応じると、拓也の顔が怒りで引きつった。
「佐藤さんだと? お前、誰に向かって口を聞いている? 俺は夫だぞ!」
「ほら、すぐにその弁護士に金を払って、示談の準備をさせろ。会長にも、お前から電話して、『あれは全て夫婦喧嘩の延長だった』と言えば済むことだ」
拓也は、まるでレストランで注文でもするかのように、傲慢な口調で命じた。
「いいか、よく聞け。俺がここから出られなければ、お前の生活だって立ち行かなくなるんだぞ。お前みたいな、自分一人じゃ何もできない、英語の単語一つまともに読めない無能な女が、俺なしでどうやって生きていくんだ。この俺が哀れみで助けてやると言っているんだ。感謝して、さっさと手続きをしろ」
頭の中に混ぜ込まれた、歪んだ優越感。彼はまだ、自分が置かれた状況を、そして私が何者であるかを、微塵も理解していないのだ。私は何も答えず、ただ静かに彼を見つめ続けた。沈黙。その静寂が、拓也の焦りを煽っていく。
「な、なんだよ。おい! 黙ってないで返事をしろ! お前、まさか本当に俺を見捨てる気じゃないだろうな! 25年間、俺に寄生して生きてきた分際で、そんな不義理が許されると思っているのか! おい、道子! 聞いているのか! この脳なしが!」
拓也はアクリル板を激しく叩き、叫び続けた。その姿は、かつて極光電気の部長として賞賛を浴びていた男とは、到底思えないほど見苦しく、浅ましいものだった。
私はゆっくりとバッグから、慎司さんに預かったあのファイルを取り出した。
「拓也さん。あなたが私に寄生していたというのなら、この25年間の真実を、今ここではっきりさせましょうか」
私はファイルをアクリル板に押し当てるようにして開いた。そこには、25年前、彼が私の実家の取引先に圧力をかけ、経営破綻に追い込んだ証拠のメールや、取引を止めさせた金融機関との密約が、克明に記録されていた。
「これ……なんだ?」
拓也の表情から、一瞬にして余裕が消えた。
「あなたがヒーローを演じるために仕組んだ、卑劣な自作自演の記録よ。あなたは私を手に入れるために、私の父を死に追いやり、私の家族の幸せを粉々に砕いた。それを知らずに、私は25年間、あなたを恩人だと信じて尽くしてきたの」
「そ、そんな……捏造だ! 誰がそんなでたらめを!」
「捏造かどうかは、警察と裁判所が判断するわ。慎司さん、藤代弁護士が、全ての裏付けを取ってくださったの。あなたが隠していた海外口座の動きも、エミさんとの密約も、全てね」
拓也は、今度こそ幽霊を見たかのような顔をして絶句した。
「ふ、藤代……! なぜ、あいつの名前がここで! 彼は今、会長の命令を受けて、あなたのこれまでの余罪を全て洗っているわ。あなたが腐るほど見下していた私が、その彼と協力して、あなたを地獄へ送る準備を整えたのよ。皮肉なものね、拓也さん」
その時、接見室のドアが開き、拓也の弁護士が入ってきた。彼は拓也に駆け寄ることもなく、私の横に立ち、深く一礼した。
「佐藤拓也さん。残念ながら、先ほど極光電気の監査役より、正式にあなたを刑事告訴する旨の通知が届きました。また、道子さんの代理人である藤代弁護士より、過去の悪質な詐欺行為についても、徹底的に追及するとの申し入れがありました」
弁護士の言葉に、拓也はガタガタと震え始めた。
「ま、待てよ! お前、俺の味方だろう! 金は払う! だから何とかしろ!」
「金ですか? あなたの資産はすでに、横領金の返還と賠償金の支払いのために、全て凍結されています。私への着手金も、実はお支払いが完了していないのですよ。道子さんからのご好意で、今のこの面会時間を設けていただいたに過ぎません」
弁護士は冷たく言い放つと、私の顔を見て静かに頷き、接見室を後にした。拓也は、たった一人の味方だと思っていた人間からも見捨てられ、完全な孤独の中に放り出された。
「嘘だ……こんなこと、あっていいはずがない。俺は佐藤だぞ! 完璧な人生を歩んできた、選ばれた人間なんだ!」
拓也は泣き叫び、床に崩れ落ちた。だが、混乱はこれだけでは終わらなかった。
「あら、拓也。随分と情けない姿ね」
聞き慣れたけれど、ひどく冷たい女性の声が、接見室の入り口から響いた。拓也が顔を上げると、そこには彼の母親、私の義母が、警察官に付き添われて立っていた。
「母さん! 母さん、助けてくれ! 道子が……道子が俺を落とし入れたんだ!」
拓也は母親にもすがる思いで叫んだ。しかし、義母は拓也に駆け寄るどころか、顔を背けた。
「助ける? 冗談はやめてちょうだい。あなたが会社の金を使い込んで逮捕されたせいで、実家の土地まで差し押さえられそうになっているのよ。恥さらしもいいところだわ。道子さん、このことは、もう縁を切りましたから、私には一切責任を問わないでちょうだいね」
実の母親からも切り捨てられた拓也。彼は信じられないといった表情で、義母を見つめた。家族も、社会も、妻も、母親さえも、今は全てが彼を拒絶している。
「あ、ああ……!」
拓也は言葉にならない叫びをあげ、自分の頭を抱えてのた打ち回った。プライドだけで生きてきた男の精神が、音を立てて崩壊していく。
私は立ち上がり、最後に一言だけ告げた。
「拓也さん。あなたがこれから過ごす牢獄での日々。そこでじっくりと考えてみて。あなたがゴミのように捨てた、私の25年間の重みを。そして、あなたが踏みにじってきた、全ての人々の怒りをね」
私は背を向け、接見室を出た。最後に拓也が何かを叫んでいたが、その声はもう、私の心には届かない。外に出ると、慎司さんが待っていてくれた。
「道子さん、大丈夫ですか?」
「ええ。でも、慎司さん。まだ、もう一つ片付けるべき問題が残っていますわ」
私の脳裏に浮かんだのは、弟の仁の顔だった。彼はまだ、自分が生き残れると信じて、最後の悪あがきを画策しているはずだ。だが、彼が握っていると思っていた最後のカードこそが、彼を地獄の底へ突き落とす最大の事実になることを、彼はまだ知らない。
警察署を後にした私は、慎司さんの運転する車で、亡き父が残した不動産管理会社、佐藤地所の本社ビルへと向かった。本社とは名ばかりの、地方の古い雑居ビルの一室だ。しかし、そこには私の実家が代々守り抜いてきた膨大な土地の権利書と、そして弟が自分のものだと思い込んでいる、会社の心臓部がある。
「道子さん、準備はいいですか? 仁さんは今、会社の口座から残された資金を全て引き出し、海外へ逃亡する準備を整えているようです」
慎司さんがタブレットの画面を見せながら言った。そこには、仁が管理しているはずの隠し口座から、不自然な送金が繰り返されている記録が、リアルタイムで表示されていた。
「ええ。彼が最後の悪あがきをすればするほど、彼の罪は重くなる。それも、私の計算通りですわ」
私はビルの入り口を見上げた。25年前、私が拓也との結婚を決めた時、父はこのビルの前で、私に頭を下げた。「道子、すまない。お前の人生を犠牲にして、この会社を守らせてしまう」と。父のあの時の涙を、私は一度も忘れたことはない。そして、その父を死に追いやったのが、恩人だと思っていた夫と、甘やかされて育った弟だった。その事実を突き止めた今、私に迷いは微塵もなかった。
エレベーターを降り、専務室のドアを勢いよく開ける。そこには、机の上に置かれた数台のノートパソコンを必死に操作し、電話で何者かに怒鳴り散らしている仁の姿があった。そして、その隣には、なぜか釈放されたばかりのような、やつれた姿のエミが立っていた。
「仁、早くしてよ! お金、まだ入らないの? 私、もうあんな警察署に戻りたくない!」
「黙ってろ! 今、最後の送金手続きをしてるんだ! これさえ終われば、お前と一緒に南の島で……」
「あら。随分と楽しそうな旅行計画ね、仁」
私の声が室内に響くと、二人は弾かれたようにこちらを振り返った。仁の顔は、怒りと恐怖が入り混じった、言葉では言い表せないほど醜いものに歪んでいた。
「お、お前……道子! なぜここに! 警察にでも行ったんじゃなかったのか!」
「いえ。拓也さんとは、もうお別れを済ませてきたわ。次は、あなたの番よ」
私は慎司さんと共に、部屋の中へと進んだ。
「ふざけるな! お前に何ができる! 姉さんみたいな、ただ鍋を振ることしか能のない女が、俺の邪魔をするな!」
仁は立ち上がり、机を蹴り上げた。
「いいか。この会社は俺のものだ! 親父が残した、佐藤家の後継ぎである俺の城なんだよ! お前みたいな、他所に嫁いだ女には、一坪の土地だって渡してやるもんか!」
仁の口からは、拓也と全く同じ、女性を蔑む言葉が次々と飛び出す。
「英語も話せない、経営の知識もないばばあが、専務である俺に意見するな! さっさと家に帰って、掃除でもしてろ! それとも何だ? 離婚して帰る場所がなくなったから、俺に泣きつきに来たのか?」
エミも、仁の腕にすがりながら、私を嘲笑った。
「そうよ、おばさん。拓也さんはもうおしまいだけど、私には仁さんがいるの。仁さんはあなたと違って、お金も才能もあるんだから。負け犬は、さっさと消えてちょうだい」
私はその二人の言葉を、一言も遮らずに聞いていた。静まり返った部屋に、パソコンの冷却ファンの音だけが虚しく響く。私が何も言い返さないのを見て、仁は勝利を確信したかのように、下品な笑い声をあげた。
「なんだ、やっぱり言い返せないか。頭が空っぽなんだろうさ。さあ、邪魔者は消えた。俺たちはこれから忙しいんだ」
「仁。一つだけ、あなたに大切なことを教えてあげるわ」
私は慎司さんが持っていた黒いブリーフケースを開けた。
「な、なんだ。それは。遺言書か? そんなもの、俺が持っているものが本物だ!」
「いいえ。遺言書よりも、もっと重要な。この会社の、最大の真実よ」
私は一通の極秘資料を机の上に放り出した。そこには、佐藤地所が長年隠してきた、ある秘密が記されていた。
「あなた、この会社に価値があると思っているでしょう? でも、この佐藤地所という箱の中身は、10年前の時点で、すでに空っぽだったのよ」
「はあ? 何を言っているんだ、お前!」
仁の眉が、深い皺に動く。
「お父様が亡くなる直前、会社の多額の借金を肩代わりし、有料な土地資産を全て買い取った別会社があるの。あなたは知らないでしょうね。お父様が、放蕩息子のあなたに会社を継がせれば、すぐに食いつぶされることを見抜いていたから」
私は資料の最後にある、買い取り主の署名欄を指さした。そこには、仁が逆立ちしても勝てない人物の名前が記されていた。
「この会社の本当の所有者。つまり、あなたの大家さんはね――私なのよ」
「なっ……」
仁の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「あなたが今まで『俺の資産だ』と思って横流ししていた金は、実は私が管理している預かり金に過ぎなかったの。あなたが不当に引き出した資金も、全て足がつくように仕組んであるわ。そして、何より衝撃的なのは――」
私は震え始めたエミを見据えた。
「エミさん。あなた、この人と一緒に逃げるつもりだったみたいだけど。あなた、仁さんの本当の正体を知っているの?」
「正体? 何言ってるのよ? 仁さんは佐藤家の長男で、将来の社長で……」
「いいえ。違うわ。仁は、お父様の子じゃないのよ。お母様が外で作った、血の繋がらない連れ子。いえ、お父様が情けで引き取っただけの、赤の他人なのよ」
これこそが、私だけが知っていた、佐藤家の最大の秘密だった。仁は、父の血を引いていない。父はそれを知りながら、彼を息子として育て、そして同時に、彼に会社を渡さないための完璧な防壁を築いていたのだ。
「う、嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ! 俺は親父の息子だ! 佐藤家の正当な後継ぎなんだ!」
仁は狂ったように叫び、資料を破り捨てた。しかし、その時、エミが冷徹に宣告した。
「DNA鑑定の結果も、ここにあるわ。仁さん。あなたは、佐藤家とは何の関係もない。そして、あなたが主張していた相続権も、最初から存在しないんです。あなたが会社から引き出した金は、単なる横領ではなく、窃盗罪として……」
エミの顔が、これまで見たこともないほどガクガクと震え始めた。何か、とんでもない事実に気づいたようだった。いや、彼女は気づいてしまったのだ。頼りにしていた最後の希望である仁が、実は金も権力も、そして家柄すらも持たない、ただの他人だったという真実に。彼女の顔から表情が消え、絶望がその瞳を覆い尽くした。
「仁……あなた、私に嘘をついていたの? 社長になれるって。お金はいっぱいあるって……」
「黙れ! お前だって、俺を利用していたんだろうが!」
仲間割れを始める二人を、私は冷ややかに見下ろした。だが、逆転劇はこれだけでは終わらなかった。エミが持っていたスマートフォンの画面が明るくなり、そこに一通のメッセージが表示されたのだ。それを見た彼女は、今度こそ悲鳴をあげて、その場に崩れ落ちた。
「ひ、仁! なんで……どうして! 警察がもう、そこに……」
ビルの下から、複数のサイレンの音が近づいてくる。だが、そのサイレンは警察のものだけではなかった。
「道子さん。来たようですわ」
静江さんが、いつの間にか部屋の入り口に立っていた。彼女が連れてきたのは、警察官。そして、もう一人。彼らが最も恐れていた、あの人物だった。
サイレンの音がビルの直下で止まり、複数の足音が廊下に響き渡る。専務室の重厚な扉が左右に開かれ、そこに姿を表したのは、威厳に満ちた白髪の老人だった。
「会長……! 桜井会長! なぜ、ここに!」
仁が声を裏返らせて絶叫した。そこに立っていたのは、極光電気の絶対的トップ、桜井会長その人だった。その後ろには、数人の屈強な刑事と、さらに一人の、見慣れない初老の男性が控えている。桜井会長は部屋の中に散らばった書類や、慌てふためくエミを一瞥すると、深く、重みのあるため息をついた。
「佐藤仁君。君が、我が社の部長であった拓也君と共謀し、不当な利益を得ていたことは、すでに把握している。だが、君が最後にすがろうとした、ライバル会社への機密流出。これについては、私から紹介しておかなければならない人物がいる」
会長が、傍らに立つ男性を促した。
「初めまして、佐藤専務。いや、元専務と言うべきかな? 私は、君が機密情報を流していた、大日不動産の代表、加藤だ」
加藤と呼ばれた男性が、冷ややかな笑みを浮かべて前に出た。
「大日不動産の社長……なぜ……」
仁が膝をガクガクと震わせ、机の端を掴んで何とか立っている。
「君、及びそこのエミという女性。君たちは、極光電気の土地開発計画を私に売れば、莫大な報酬が得られると信じていたようだが。残念ながら、我が大日不動産は、30年も前から桜井会長の極光電気とは、強固な業務提携を結んでいる、パートナーシップ企業なのだよ」
「なっ……」
仁の喉から、ヒュッという空気が漏れた。
「つまり、君たちが機密だと思って必死に横流ししていた情報は、最初から我々と桜井会長が、君たちの不正を炙り出すために用意した、偽情報だったのだ。君が個人口座に移したという資金も、実は我々が追跡するために用意した、出所証明済みのマーキングされた資金だ」
加藤社長の言葉は、仁にとって死刑宣告にも等しいものだった。君たちが頭を使って優位に立っていると思っていた間も、巣の上で絡め取られていただけなのだ。
「そんな……嘘だ! 俺は選ばれた人間なんだ! 姉さんみたいな無能を尻目に、この世界を支配する側になるはずだったんだ!」
仁は狂ったように叫び、机の上のパソコンを床に叩きつけた。
「お前だろう、道子! お前が仕組んだんだろう! この裏切り者のばばあが! お前さえいなければ、俺の人生は完璧だったんだ!」
仁はもはや理性を失い、私に向かって突進してこようとした。刑事たちが瞬時に動き、彼の両腕を抑え込む。
「離せ! 離せよ! 俺は佐藤家の後継ぎなんだぞ! 親父の後継ぎなんだ!」
「身の程をわきまえなさい、仁さん」
私は抑え込まれて床に蹲る仁の目を、まっすぐに見つめた。
「あなたは、佐藤家の長男でもなければ、後継ぎでもない。お父様があなたに何も残さなかったのは、あなたが不適格だったからじゃないわ。あなたがお父様の愛を一度も理解しようとせず、ただ金と権力だけを求めていたからよ」
私はゆっくりと、加藤社長の隣に並んだ。
「加藤社長。今回、私の提案に乗ってくださって、本当にありがとうございました」
加藤社長は私に向かって、深く敬意を込めて一礼した。
「道子さん。あなたのあの完璧なスキーム案がなければ、これほど鮮やかに裏切り者を一網打尽にすることはできませんでした。桜井会長がおっしゃっていた通りだ。あなたこそ、この極光電気グループと佐藤地所を背負って立つにふさわしい経営者だ」
「ええ……」
仁の動きが止まった。エミも、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、信じられないものを見るような目で私を見つめている。
「佐藤仁。君が『家事しかできない』と蔑んでいた姉の道子さんはね。君が大日不動産に送っていた資料の矛盾を全て指摘し、逆に我々を有利に導くための対抗策を立案した。今回のプロジェクトの、真の責任者なのだよ」
桜井会長が、仁にとどめを刺すように告げた。
「君の義兄であった拓也君も、彼女の手のひらの上で転がされていただけだ。君たちは自分たちが捕食者だと思っていたようだが。本当の捕食者は、君たちが最も軽蔑していた、この女性だったのだよ」
「あ、ああ……」
仁の口から、魂が抜けたようなくぐもった声が漏れた。隣で震えていたエミも、もはや言い訳一つできないほどに絶望し、床に伏して震えることしかできない。
「道子さん。君に、佐藤地所の全ての権限と、極光電気の特別顧問への就任をお願いしたい。これは、私個人としての願いでもあるのだ。拓也という男を部下にした私の責任を、君の力を借りて果たさせてほしい」
桜井会長の言葉に、部屋の中にいた全員が息を飲んだ。25年間、ただの無能な専業主婦として夫から、義実家から、そして弟から侮辱され続けてきた私が、一瞬にしてこの地方経済のトップに立つ立場へと逆転したのだ。私は窓の外に広がる夕焼けを見つめた。25年前、あの男と結婚するために捨てたはずの、私の夢。経営学を学び、父の会社を大きくしたいと願っていた若き日の私の情熱。それは死んでいなかった。冷たい氷の下で、いつか春が来るのをじっと待っていたのだ。
「謹んでお受けいたします。ただし、一つだけ条件がございますわ、会長」
私は床に這いつくばる仁と、警察官に腕を掴まれているエミを見据えた。
「彼らの罪は、一切の慈悲もなく、法律の限界まで追求していただきたいのです。私が受けた25年分の屈辱、そして、お父様が彼らのために流した涙の分まで」
「もちろん。さあ、連れて行きなさい」
会長の合図で、刑事たちが仁とエミを引き立たせていく。
「道子姉さん! 悪かった! 助けてくれ! 姉さん!」
仁の叫び声が廊下に虚しく響き、やがて遠ざかっていった。静まり返った部屋で、慎司さんが私の肩に手を置いた。
「終わりましたね。道子さん」
「いいえ。慎司さん。これから始まるんです。私の、本当の人生が」
私は机に残された拓也の手帳を、ゴミ箱に放り投げた。もう、誰かの予定に縛られる必要はない。誰かの顔色を伺って、自分を殺す必要もない。
しかし、その時。刑事の一人が立ち止まって、私に手招きをした。
「道子さん。実は、先ほど連行した佐藤拓也から、あなた宛てに緊急のメッセージが入っています。これは伝えないわけにはいかないと思いまして」
そのメッセージの内容を聞いた瞬間、私の表情から勝利の余韻が消え、別の種類の衝撃が走った。拓也さんからのメッセージ。一体、何かしら。私は刑事の言葉に、わずかな警戒心を抱きながら問い返した。刑事は少し困惑したような表情を浮かべ、小さなメモ帳を読み上げた。
「『母さんの寝室の床下にある金庫を見ろ。そこにはお前が逆立ちしても手に入らない、佐藤家の真の財産が隠されている。それをお前にやるから、俺をここから出す、示談に応じろ』……だそうです。よほど必死だったのでしょうが、取り調べで何度もそう叫んでいました」
私はその内容を聞いた瞬間、思わず吹き出しそうになるのを堪えた。佐藤家の真の財産? そんなものが残っているはずがない。欲深く、プライドだけは高い義母と、その息子である拓也。彼らが代々受け継いできたはずの宝石や貴金属は、拓也の不倫資金や、仁の裏金として、とっくの昔に質に入れられていることを、私は知っていたからだ。
「そうですか。ご苦労様でした。『真の財産』。私がじきじきに確認しに行ってまいりますわ」
私は慎司さんと静江さんに目配せをし、警察署からそのまま義実家へと向かった。拓也が最後に見せた傲慢な取引。それが彼にとって、どれほど無惨な自爆に終わるのか。私はその幕引きを、自分自身の目で見届ける必要があった。
義実家の門をくぐると、そこには荒れ果てた庭と、電気が止まったのか薄暗い玄関先で、呆然と座り込む義母の姿があった。彼女の周りには、差し押さえの赤い封が貼られた家具がいくつか放り出されている。かつては私を顎で使い、横暴な言葉を浴びせてきたあの威厳は、もうどこにもなかった。
「あら、義母様。随分と賑やかなお引っ越しですこと」
私の声に、義母は弾かれたように顔を上げた。その瞳には、私への憎悪がこれでもかと燃え盛っている。
「道子! よくも……よくも私の家を! この泥棒猫が! 恩知らず! 拓也があなたを拾ってあげなければ、今頃どこかでのたれ死んでいたくせに!」
義母は立ち上がり、震える指で私を指差した。
「いいか、今すぐこの差し押さえを解きなさい! この家は、代々続く佐藤家のものよ! あんたみたいな、子供を一人も生めない役立たずの女が、土足で踏み込んでいい場所じゃないのよ!」
相変わらずの、古臭い価値観に基づいた罵倒。私は何も言い返さず、ただ静かに彼女の横を通り抜け、寝室へと向かった。
「ちょっと、どこへ行くのよ! 泥棒! 警察を呼ぶわよ!」
「警察なら、もうすぐここへ来ますわよ。義母様。拓也さんの指示でね」
私は寝室の隅にある思い箪笥を、慎司さんに手伝ってもらって動かした。そこには、拓也が言っていた通り、古い床板が剥がれかかっている場所があった。板を外すと、埃を被った小さな手提げ金庫が現れる。
「これね。拓也さんが『真の財産』と豪語していたものは」
私は義母の目の前で、金庫の蓋をゆっくりと開けた。義母は、その中身を見た瞬間、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ほら、見たことか! それは、佐藤家に伝わる代々の家宝、金塊よ! それを売れば、すぐに拓也は釈放されるし、私はまた豪華な暮らしができるんだから!」
だが、私が金庫から取り出したのは、金色に輝く重厚な塊ではなく、ただの金メッキが剥がれた分銅と、一通の手紙だった。それを見た慎司さんが、苦笑混じりに鑑定用のルーペを片付けた。
「道子さん。これは、ただの鉛ですよ。表面を薄くメッキしてあるだけの、安物の工芸品です。資産価値は……数百円といったところでしょう」
「な、なんですって? 嘘よ! そんなはずないわ! 代々様が、これは万が一の時のための佐藤家の宝だと……」
義母は金庫にすがりつき、分銅を何度も爪で引っかいた。剥がれたメッキの下から、無機質な灰色の鉛が顔を出す。それが、佐藤家という虚勢のプライドの象徴そのものだった。私は金庫の底に残されていた手紙を広げた。そこには、亡くなった義父の、悔恨に満ちた走り書きがあった。
「『玲子。お前たちの振る舞いによって、佐藤家の財産は全て尽きた。この金庫が最後に開かれる時、お前たちがまだ欲深に溺れているのなら、それが佐藤家の終焉だ。道子さん。もし君がこれを読んでいるのなら、すまない。どうか、自分の人生を歩んでほしい』」
義父は、死ぬ間際に全てを悟っていたのだ。自分の妻と息子が、どれほど愚かな人間であるかを。そして、自分が唯一信頼できたのが、こうして妻の座にあった私だけであったこと。
「義母様。これが、あなたの愛した佐藤家の真実」
私は手紙を、義母の足元に落とした。
「『代々数億円の金塊』なんて、どこにもない。あるのは、あなたたちが積み上げてきた嘘と、見栄と、そして高額の借金だけ。拓也さんは、このガラクタと引き換えに、自分の自由を買おうとしたのよ。笑えるでしょう?」
「あ、ああ……」
義母は文を抱えたまま、その場に崩れ落ちた。
「嘘だわ……こんなの、悪夢だわ……私は、佐藤家の奥様なのよ! みんなに羨ましがられる、気高い身分なのよ!」
私は床に伏して泣きじゃくる義母を、冷たく見下ろした。かつて、私が彼女から浴びせられた数々の侮辱を思い出す。『お前みたいな育ちの悪い女は、うちの床を这いつ配って掃除しているのがお似合いだ』『英語も喋れない、教養のない女と結婚してあげた拓也の慈悲に感謝しなさい』。
「義母様。いえ、佐藤玲子さん。あなたが私を這いつくばらせようとしたこの床は、もうあなたの家ではありません。ここは今日から、地域の子供たちのための複合施設として、改築されることが決まっています」
「複合施設? 私の家を、そんなガキどもの遊び場にするっていうの!?」
「ええ。『子供を生めない役立たず』と私を蔑んでいたあなたが、最後に残した唯一の貢献が、未来を担う子供たちのための場所になる。最高に皮肉で、スカッとする結末だと思いませんか?」
私は、静江さんに手配してもらった作業員たちに合図を送った。彼らは容赦なく、義母がしがみついていた家具を運び出し、ゴミ捨て場へと積み上げていく。
「やめて! 触らないで! それは置き中のソファなのよ! 何百万円もしたのよ!」
「残念ですが、そのソファも、あなたが拓也さんの裏金で買った贅沢品の一部として、没収されますわ。さあ、慎司さん。行きましょう」
私は一度も後ろを振り返ることなく、車へと向かった。最後に、義母が「返して! 私の人生を返してよ!」と狂ったように叫び続けていたが、その声は空に溶けて消えていった。
車に乗り込むと、慎司さんが静かに言った。
「道子さん。これで、本当に全てが清算されましたね」
「いえ。でも、慎司さん。最後にもう一人だけ、会っておかなければならない人がいるわ」
「引き金が解けた。あの、エミさんですか?」
「いいえ。彼女はもう、警察と裁判所に任せればいい。私が会いたいのは、拓也さんの裏金の本当の流れ先を知っている、あの人物よ」
私はスマートフォンの画面に地図を表示させた。そこは都心から少し離れた、静かな高級住宅街の一角。そこには、拓也が秘密裡にし、エミさえも知らなかった、佐藤家の最後の一枚のカードが隠されていた。
慎司さんの運転する車が止まったのは、緑豊かな高台にある一軒家の前だった。拓也が愛人のエミにも隠し、秘密裏に送金を続けていた場所。そこには、拓也が25年前に踏みにじった、もう一つの人生が、静かに生きていた。庭先で花に水をやっていた一人の女性が、私たちの姿を見て手を止めた。彼女の名は、山崎彩子さん。25年前、拓也が私の実家を救うために潰したとされる取引先の社長、山崎さんの一人娘だ。
当時、彼女の父親を絶望に追い込み、その混乱に乗じて、私の実家を支配下に置いた。そして、彼は罪滅ぼしのふりをして彩子さんに近づき、彼女の名前を、隠し口座の名義人として利用し続けていたのだ。
「道子さんですね。いつか、あなたがここへ来るような気がしていました」
彩子さんは私を見て、穏やかに微笑んだ。彼女の瞳には、かつての不幸を乗り越えた強さと、深い知性が宿っていた。私は慎司さんから預かった真実の記録を、彼女に手渡した。
「彩子さん。拓也さんは、あなたを助けているつもりで、実はあなたを利用し続けていたのよ。あなたの名義で多額の裏金を隠し、有事の際にはあなたに全ての罪を被せようとしていた。これが、その証拠です」
彩子さんは書類を読み進めるうちに、目から一滴の涙をこぼした。
「父が亡くなった後、拓也さんが差し出してくれた手助けを、私はずっと恩義に感じていました。でも、どこかで違和感があったんです。私の人生が、誰かの手のひらで転がされているような……。今日、ようやく霧が晴れました」
私は、彼女の手をそっと握った。
「拓也さんがあなたに渡したお金は、元々あなたのお父様の会社から不当に奪われたものの一部です。残りの資産も、私の手で整理し、正当な持ち主であるあなたにお返しできるよう手配しました。これは、私の罪滅ぼしでもあるんです。私が彼の正体を見抜けなかったばかりに、あなたを長く苦しめてしまった」
「いいえ。道子さん。あなたは、何も悪くないわ。あなたも、被害者だったんですから」
彩子さんは、私の手を握り返してくれた。その温もりに、私の中で25年間凍りついていた何かが、静かに溶け出していくのを感じた。復讐のために走り続けてきたけれど、最後に私を救ってくれたのは、憎しみではなく、温かい心の交流だった。
夕暮れ時、私たちは彩子さんの家を後にした。車を走らせる慎司さんが、バックミラー越しに私を見て微笑んだ。
「道子さん。これから、どうされますか? 佐藤地所の社長就任、極光電気の顧問としての仕事。あなたはこれから、地方経済を動かす、多忙な日々を送ることになります」
私は窓の外を流れる美しい夕焼けを見つめた。空は燃えるようなオレンジ色から、深い藍色へと移り変わろうとしている。その景色は、私の人生の第二章の幕開けを祝ってくれているように見えた。
「そうね。まずは、仕事を全力で頑張るわ。でも、慎司さん。私には、もう一つやりたいことがあるの」
「やりたいこと?」
「いえ。あなたがかつて私に教えてくれた、あのイギリスの庭園を見に行きたいわ。誰の影でもなく、私自身の足で、自分の目で、その美しさを確かめたいの。もし、よろしければ、ガイドをお願いしてもいいかしら?」
慎司さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに、今日一番の優しい笑顔を見せた。
「ええ、喜んで。25年もお待たせしてしまったのですから。世界中で一番贅沢な旅をご案内しますよ。道子さん。これからは、あなたの自由です。誰にも邪魔されない、あなただけの時間を歩んでください」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から自然と涙が溢れ出した。悲しみの涙ではない。長かった冬を越え、ようやく訪れた春を祝う、喜びの涙だ。
後日。拓也と仁、そしてエミには、厳しい判決が下された。拓也は横領罪と過去の詐欺行為を全て暴かれ、長期間の禁固刑を余儀なくされた。プライドだけで生きてきた彼は、刑務所の中で誰にも相手にされず、日々、自分の犯した愚かさを呪いながら過ごしているという。義母の玲子も、豪華な邸宅を追われ、今はこぢんまりとした質素なアパートで、かつて自分が見下していた普通の人々に助けられながら、細々と生きている。
私は、佐藤地所の新しいオフィスに立っていた。そこにはかつての暗い雰囲気はなく、若く元気な社員たちが、生き生きと働いている。窓の外には、改築が終わったばかりの佐藤記念複合施設が見える。そこから聞こえてくる、子供たちの楽しげな声が、何よりの報酬だった。私は机に置かれた、自分自身の名前が刻まれた新しい名刺を手に取った。佐藤道子ではない、実家の姓である、山田道子。そこには、そう記されている。25年前、一人の男によって奪われた名前。それを、ようやく自分の力で取り戻したのだ。
「社長。桜井会長がお見えです」
秘書の明るい声に、私は姿勢を正した。
「ええ、すぐに行きますわ」
私は一歩一歩、確かな足取りで部屋を出た。廊下の鏡に映った自分の顔は、かつてのような従順な表情ではない。一人の自立した女性の顔だった。これからは、自分のために笑い、自分のために泣き、自分のために生きていく。失われた25年は戻ってこないけれど、これからの25年を、私は誰よりも輝かせて見せる。空はどこまでも高く、雲は立っている。私の新しい人生は、今、始まったばかりなのだから。



