物置きから漏れる明かりを見つけたのは、夜中のことだった。誰も使っていないはずの物置きに、なぜか灯りがついている。私は不審に思い、確認に行った。そして、そこで見た光景に言葉を失った。物置きの中で、義妹のエリが震えながらうずくまっていたのだ。
「エリ、どうしてこんなところにいるの?」
私は急いでエリを連れ出し、埃を払った。寒い正月の夜に、物置きで寝ていたなんて信じられない。エリは泣きそうな顔で、何かを訴えようとしていた。
「エリ、もしかして母さんと守に何か言われたの?」
その瞬間、エリの体がガタガタと震え始めた。目に涙を浮かべ、必死に私の顔を見つめる。私は確信した。エリは母と弟の名前を聞いただけで、恐怖で体が反応してしまうのだ。
「いいんです。ルールですから。」
「ルールって、どういうこと?」
「お母さんと守るさんは何も悪くないんです。全部私が悪いんです。どん臭くて、家事も要領よくできないので。」
エリが話し始めた内容は、想像を絶するものだった。
私は30歳の朝子。付き合って3年になる彼氏のケ太と一緒に会社を経営している。順調に軌道に乗り、結婚も現実的に考え始めていた。正月に実家へ結婚報告に行くため、久しぶりに帰省したのだ。
実家には、母と3歳年下の弟の守、そして彼の妻であるエリが住んでいる。エリは優しく穏やかで、私にとっても可愛い義妹だった。無口で無表情だった守は、エリと出会ってからまるで人が変わったように明るくなった。そんなエリには、もう一つ感謝していることがある。母の介護をすべて引き受けてくれているのだ。だから私は安心して外で働いていられる。
しかし、最近のエリは様子がおかしかった。声に元気がなく、以前のように庭の花の話もしてこない。帰省した際も、エリの笑顔はどこかぎこちないものだった。
夕飯時、エリが慣れた手つきで支度を始める。その手を見て、私は驚いた。以前は綺麗だった手が、ガサガサに荒れていたのだ。エリが夕飯の支度を始めた途端、守は「仕事があるから」と言って自分の部屋に籠ってしまった。母もリビングのソファで横になったきり、手伝おうとしない。エリは黙々と作業を続け、私にも「お姉さんこそゆっくり休んでいてください」と言う。
夕飯が終わると、母は「いただきます」も言わずに黙々と食べ始めた。守もさっさと食べて、また部屋に戻っていく。その態度に、私はますます不安を募らせた。
夜、エリを自分の部屋に呼び、「何かあったらすぐに言ってね」と伝えた。エリは「はい、ありがとうございます」とだけ言って、部屋を去っていった。
その夜、目が覚めたのは夜中だった。なんとなく外の空気を吸いたくなり、庭に出る。すると、使われていないはずの物置きから明かりが漏れていることに気づいた。
そして、物置きの中で震えて泣いているエリを見つけたのだ。
エリの話を聞き終えた私は、怒りで体が震えた。母と守は、家事をすべてエリに押し付け、自分たちはテレビを見たり、2人で出かけたりしていた。家事が終わっていないと、暴言を吐く。「働けない上にこんなこともできないのか」「使えない嫁なんていらない」という具合に。そして、最悪なのは「夕方までに家事が終わらなかったら物置きで寝なさい」というルールだった。罰を与えれば早く動けるようになるという考えらしい。エリは、そのルールに従い、物置きで寝かされていたのだ。
「エリ、今まで本当にごめんなさい。私、何も知らなくて。エリが苦しんでるなんて知らずに、母の面倒まで見させてしまって。」
エリは私の胸で声を上げて泣いた。私はエリを抱きしめながら、決意した。例え身内であっても、これは許せない。
「エリ、私がどうにかするから、荷物をまとめてくれる?」
エリは一瞬驚いた顔をしたが、覚悟を決めたように力強く頷いた。
次の日の朝、私は実家を出て、エリを自分の家に連れて行った。そして、彼氏のケ太にすべてを話した。ケ太も激怒し、協力を約束してくれた。私はケ太に、守の会社との取引をすべて中止してほしいと頼んだのだ。守の会社は、私とケ太が経営する会社の取引先の一つだった。
数日後、守から電話がかかってきた。
「ちょっと姉ちゃん、どういうことだよ。なんで俺の会社と取引してるって言ってくれなかったんだよ。しかも取引中止って、なんでだよ。」
「あら、そんなの当たり前じゃない。お嫁さんを物置きに寝させる人がいる会社と、なんか取引したくないわ。」
守は何も言えなくなった。しかし、すぐに逆上し始めた。
「なんであいつをかうんだよ。あんな鈍くてどん臭いやつ。家事をさせるために結婚したのに、全然役に立たねえ。母さんの介護させるにはちょうどいい女だったから結婚したのに。」
横から母も口を出す。
「そうよ。あんな女のために、どうして守の会社が取引中止にならなきゃいけないわけ。朝子、さっさと取引を再開しなさい。」
信じられなかった。母と守は、家事と介護をさせるためにエリに優しくして、結婚させたのだ。横で話を聞いていたエリは、涙をボロボロと流していた。
「とにかく、あんたの会社とは一切取引はしないから、そのつもりで。あと、ケ太からあんたの会社の社長さんに伝えてもらったわよ。あなたの会社には、嫁を物置きに寝させるクズ男がいますよってね。」
私の言葉を聞いた途端、守は慌て始めた。
「そんなの、俺が首になるじゃん。どうしてくれるんだよ。大体、母さんがあいつを利用しようなんて言い始めたから、こうなったんだ。」
「なんでそうなるのよ。言い出したのは守でしょ。私のせいじゃないわ。全部、朝子のせいよ。」
反省も謝罪もせず、互いに責任をなすりつけ合う母と守。私は呆れ果てた。
「どっちが言い始めたなんてどうでもいいから、クズなあんたたちにエリは渡さない。あと、私にも2度と連絡してこないで。」
「待ってくれ。頼むから許してくれよ。これからは家事も介護も手伝うから。だからなんとかしてくれ。2度と連絡するななんて言わないで。ちゃんと謝罪するから。」
「本当におめでたい人たちね。最後の最後まで、自分のことばかり。自業自得よ。」
そう言って、私は電話を切った。
後日、守の悪評は会社内であっという間に広まった。仕事一筋で生きてきた守の評判はガタ落ちになり、左遷された。そして、左遷先でも白い目で見られ、逃げるように会社を辞めたという。守の稼ぎだけを頼りにしていた母は、収入を失い、ボロボロのアパートでギリギリの貯金を崩しながら生活しているらしい。守が母の世話をしているが、喧嘩ばかりの毎日だそうだ。
エリは、なぜ自分の体を犠牲にしてまで、理不尽なルールに耐えていたのかを話してくれた。
「私、守さんに騙されているなんて分からなかったんです。本当に鈍いですよね。でも、最初はとても優しい人だったから、守さんのことを信じたかったんです。それに、私には母がいないので、お母さんのことを本当のお母さんのように思っていたんです。」
自分に暴言を吐き、いびっていた相手でも、エリは家族として信じていたのだ。
「私の家族は本当にひどいことをした。申し訳ない。私はずっとエリを大切にしよう。」
その後、私とエリはまるで本当の姉妹のような関係を続けている。エリは少しずつ立ち直り、自分で仕事を見つけて立派に働いている。エリが好きだったガーデニングも再開し、以前のような可愛らしい笑顔が戻ってきている。
それから、これはまた別の話。私の夫は、今日、実家に愛人を連れてきて、堂々と離婚宣言をした。
「希子、お前価値ゼロだよな。仕事もしていない上に不妊だし。というわけで、今日で離婚だ。不要物は捨てないとな。」
「え?人生も捨てるつもり?愛人の旦那、激怒してたけど。」
夫の修平は、一瞬固まった。隣にいる愛人のミナも、義母も驚きの表情を浮かべている。私は全く動揺しなかった。だって、全て知っているから。修平は何も知らない。愛人のことも、自分の立場も。
「こっちは準備万端よ。覚悟はいいかしら?」
私は静かにスマホを手に取り、画面を確認してから、修平とミナをじっと見つめた。
「ミナさん、旦那さんはお元気かしら?」
「はあ?何を言ってるの?私に旦那なんているわけないでしょ。私には修平さんがいるのよ。さてはあんた、嫉妬してるんでしょ。私が修平さんとの赤ちゃんを妊娠してるから。」
ミナは自分のお腹を誇らしげにさすり、修平に甘い視線を送る。修平も得意げに笑みを浮かべ、義母も満足そうに私に冷たい視線を投げかけた。
「希子さん、あなたにはもうこの家での居場所なんてないのよ。修平も言ってたけど、あなたは役立たずだわ。子供も産めないし、仕事もしていない。それに価値だってろくにできていないじゃない?修平にはね、ミナさんみたいな若くて美しい女性がふさわしいの。あなたはもう修平の人生には必要ないのよ。」
「そうよ、希子さん。修平さんと私はこれから新しい人生を歩むの。だから、あなたがこの家から出て行ってくれれば、私たちはすぐにでも結婚できるわ。」
「ふん、お前は現実が見えていないんじゃないか。最近は小説なんかに夢中になって、頭がどうかしてるんだろう。妄想と現実がごっちゃになってるんだな。そんなお前にはもうついていけないよ。」
修平が軽蔑したように言う。夫の言う通り、私の趣味は小説を読むことと執筆することだった。最近は夫婦の時間がほとんどない状態だったので、小説に関わる時間が多くなっていた。修平はそんな私の趣味を、まるで無価値なもののように馬鹿にしていた。
「本当にバカな人。それが自分の首を締めることになるとも知らないで。」
私は呆れながら、ミナに向き直った。
「ミナさん、あなたはまだ理解していないようね。あなたは既婚者なのに浮気している。それを知った旦那さんが怒っているの。その事実をもう一度、しっかり受け止めた方がいいわよ。」
その瞬間、再びミナの顔に一瞬の硬直が走った。しかし、彼女はすぐにそれを取り繕い、今度は笑みを浮かべた。
「そんな嘘、信じるわけないでしょ。私は修平さんと一緒になるの。あなたの言うことなんて何の意味もないわ。もうさっさと出ていきなさいよ。」
「希子さん、もう無駄な抵抗はやめなさい。あなたが出ていけば、全てがうまくいくの。修平もミナさんと一緒に幸せになれるし、あなたはただの障害なのよ。」
「お前、小説ばっかり読んでるから、妄想が膨らんで現実を見失ってるんだよ。ミナに旦那がいるなんて、お前のただの作り話だろ。全く、不妊の被害妄想は手に負えないな。」
「被害妄想ね。そんなこと言ってられるのも、今のうちよ。」
私は静かに微笑み、バッグの中から1枚の紙を取り出した。そして、彼らに差し出す。
「これは、不妊検査の結果よ。」
その瞬間、3人の表情が一変した。修平は紙を受け取り、驚きと困惑が入り混じった表情でそれを凝視する。不妊の結果は、夫の方に問題ありということだった。ミナも一瞬で態度を硬直させ、義母は目を見開いて信じられないものを見るような目つきで私と紙を交互に見つめている。
「これは本当の話なの?」義母が声を震わせながら尋ねた。
「不妊?何のことだ?不妊検査なんていつやったんだ?」
「半年前よ。覚えていないの?私たち夫婦で検査を受けることを提案したの。でも、あなたは協力的ではなかったわね。だから、私はなんとかしてあなたから検体をもらって検査を受けたの。その結果、あなたが不妊であることが判明したのよ。」
「そんなことありえない。俺が不妊だなんて。そんなバカなことが。」
「いいえ、これは偽造なんかじゃないわ。地元の病院で行われた正式な検査結果よ。あなたたちもよく知っている病院でね。」
修平はその場で立ち尽くし、頭を抱え込んでしまった。
「そんなはずない。俺が不妊だなんて。お前、なんで今まで黙ってたんだ?」
「話すタイミングがなかっただけよ。あなたは浮気に夢中だったからね。」
その言葉に、修平の顔が青ざめた。
「そう、あなたが浮気をしていることを、私は知っていたの。あなたが私を避けるようになったあの日から、帰宅が遅くなり、休日も外に出かけてばかりで、私たちはすれ違うようになったわ。最初は何が起きているのか分からなかったけど、あなたの態度が明らかにおかしかった。それで、あなたを調べることにしたの。探偵事務所に依頼して、あなたの行動を監視してもらったわ。そうして、あなたがミナさんと浮気をしていることが分かったのよ。」
「もう一度言うわね。修平。あなたは不妊よ。」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「ミナさん、その子供、本当に修平の子供なのかい?」
「ミナ、これはどういうことなの?」義母が息を飲みながら、震えた声で問いかけた。
「違う。修平さんが父親に決まってる。そんなの嘘よ。検査結果なんて偽造されているに決まってるわ。」
「偽造されたですって。この検査結果は、あなたたちもよく知っている地元の病院で行われたものよ。もし本当に疑うのなら、今すぐその病院に電話して確認してもらっても構わないわよ。」
その瞬間、ミナの顔は真っ青になり、口を閉じた。
「ミナさん、どうしたの?確認してもらえばいいじゃない。あなたに隠し事なんてないなら、病院に確認するのは簡単なことでしょう。ミナ、どうなんだ?なんで黙ってるんだ?あなたは修平の子供を妊娠しているのよね?他の人の子供なんてありえないわよね。」
ミナはその場で震えながら、何も言えずただ沈黙するしかなかった。
「ミナさん、あなたの旦那さんが激怒していたと伝えたわよね。その意味、分からないかしら。私はすでに、あなたの旦那さんの正雄さんと連絡を取っているの。彼はあなたのことをずっと信じてきたと言っていた。仕事で家を開けることが多くても、いつもあなたのことを気にかけてくれていたらしいじゃない。でも、あなたはその信頼を裏切り、修平と関係を持った。」
「そんなの嘘よ。どうせ作り話でしょ。信じて欲しいなら、証拠を見せなさいよ。」
「証拠が欲しいの?もちろんあるわ。すでに探偵を通じて入手しているのよ。まあ、証拠なんかなくても、逃げ道はないけどね。」
私は静かにスマホを手に取り、画面を見せた。そこには通話中の表示がはっきりと出ている。通話相手は、ミナの旦那の正雄さん。実は、私たちが話し始めたと同時に、こっそりと正雄さんに電話をかけていたのだ。つまり、これまでのやり取りはすべて彼に筒抜けというわけだ。
その瞬間、玄関のドアがゆっくりと開く音が聞こえた。正雄さんが静かに、しかし確実な足取りで部屋に入ってきたのだ。
「な、ミナ。お前というやつは。」
彼の声は低く、しかしその中には怒りが込められていた。ミナはその声を聞いて、一瞬後ずさりした。
「ち、違うの、正雄さん。これは誤解よ。修平さんとはただの遊びだったの。全然本気じゃないのよ。」
ミナは慌てて弁解を始め、正雄さんにすがりつこうとした。涙が頬を伝うが、その涙は懇願のためであり、罪の意識からのものではなかった。しかし、正雄さんの表情は変わらない。冷静な目でミナを見下ろし、彼女の涙にも見向きもしなかった。
「遊びだった。遊びで家族を裏切るのか。寂しかったのよ。正雄さんがいつも仕事でいないから。私は1人で辛くて、それで修平さんと少しだけ。ただの気晴らしだったのよ。」
「君は前に、同じことを言ったよね。ミナ。その時も君は、寂しかったと言って浮気をした。そして、私はその時君を許した。二度としないという約束でね。一度目は許したが、二度目はない。これで終わりだ、ミナ。」
その言葉に、ミナは完全に崩れ落ち、膝をついてその場で泣き崩れた。修平は、そのやり取りを呆然と見つめていた。
「修平、あなたはずっとこのことを知らずにいたの?ミナが既婚者であり、そして浮気を繰り返していたことを。」
「そんなはずはない。彼女が俺を裏切るなんて。」
修平は震える声で呟いたが、その声には力がなかった。
「修平さん、ミナはこれまで何度も同じことを繰り返してきました。あなたも私と同じように、彼女に騙されていたんですよ。」
直後、修平の表情が一変した。これまで傲慢に振る舞っていた彼の、立場をようやく理解したのだろう。彼の顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。今までのプライドは影を潜め、修平は震える声で私に向かって話し始めた。
「希子、すまなかった。俺が間違ってたんだ。ミナとは別れるよ。お前とやり直したいんだ。」
その目には、今まで見せたことのない弱さと後悔が浮かんでいた。しかし、私は冷静に彼を見つめ返した。
「修平、やり直すなんて無理に決まってるでしょ。むしろ、あなたに対して慰謝料を請求させてもらうつもりよ。」
次の瞬間、怒りが修平の表情を歪めた。
「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。家事もまともにできず、子供も産めない。お前が何もできないせいで、俺がどれだけ苦労してきたか。それなのに、お前は生意気にも慰謝料を請求するだと。お前なんかに、そんな権利はない。ミナも正雄も、お前ら全員が俺を罠にかけて、陥れて潰そうとしているんだろ。」
「修平、誰もあなたを落とし入れようとしたわけではないわ。あなたが私を裏切り、ミナと浮気をして家族を壊した。全てはあなた自身の行動の結果なのよ。」
「うるさい。お前は何も分かってない。お前のせいで全てが台無しになったんだ。」
その瞬間、彼は拳を振り上げ、私を殴ろうとするかのような仕草を見せた。しかし、その行動はすぐに止められた。義母が必死に修平の腕を掴んだのだ。
「修平、やめなさい。希子さんも、少しは我慢しなさいよ。修平だって、ミナさんに騙されていたんだから。」
「お母さんは何を言ってるんですか?修平は私を不妊と罵り、浮気して捨てようとしたんですよ。その結果、自身も騙されただけ。私に責任を押し付けるのは筋違いです。そもそも、お母さんにも責任があるんじゃないですか?修平にはミナさんがふさわしいと言って、後押ししていたんですから。」
「え、いや、それは私も何も知らなくて。」
義母は何か言おうとしたが、その言葉は次第に弱くなり、黙り込んだ。
「希子、絶対に許さないからな。俺をコケにしたことを、後悔させてやる。」
修平は怒りのまま、ドアへと向かって歩き出した。義母も修平を追いかけるように慌てて後を追い、2人は玄関のドアを開けて外へと消えていった。私はその背中をじっと見送りながら、一言も言葉を発しなかった。
「彼らを追いかけなくていいの?」
「はい。あのまま行かせましょう。もう何も変わらないでしょうから。それに、放っておいても修平は終わりです。」
私は深呼吸をし、心の中で呟いた。修平、後悔するのはあなたよ。
その後、夫とは弁護士を通じて離婚が成立し、慰謝料の請求も無事に済んだ。私の生活は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
しかし、そんな日々の中、ある日突然修平が私の前に現れた。かつてのエリート然とした彼の面影はどこにもなく、顔は痩せ、服装も見すぼらしくなっていた。目の下には濃いクマがあり、髪も乱れていた。見るからに生活が荒れていることが伺える状態だった。
「希子、話がある。」
修平は弱々しく言いながら、私の前に立ち尽くしていた。
「俺は仕事を失ったんだ。正雄さんが経営する会社が、俺の勤めていた会社にとって大事な取引先だったんだ。正雄さんは俺の不倫の件で会社に苦情を入れて、それが原因で社内で調査が始まった。その結果、色々と明るみになってしまって。俺は元々会社で評判が良くなかったんだ。若手社員や女性社員から嫌われていて、パワハラの常習犯だとか言われてさ。実際、部下を酷使してたこともある。俺が結果を出すために、彼らを犠牲にしていたんだ。解雇されてから再就職を試みたけど、どこも受け入れてくれなかった。俺の評判はすでに業界中に広まっていて、どこへ行っても扉が閉ざされているんだ。」
修平が見下していたのは、私だけではなかったというわけだ。
「それだけじゃない。家の中でも問題が増えた。家事なんて全然できないから、ずっと母さんに頼りっぱなしだった。でも、母さんともうまくいかなくなって、毎日喧嘩ばかりだ。全てがうまくいかなくなって。今の俺は完全にどん底だ。そうなって初めて気づいたんだよ。希子の大切さに。お前がいれば、俺はここまで落ちぶれなかったかもしれない。頼む。もう一度やり直させてくれないか?お前が俺を支えてくれるなら、俺はきっとまた立ち直れるんだ。お前がいれば、俺はまた元のエリートに戻れる。」
そう言って深々と頭を下げるが、私の心は1ミリも動かなかった。絶対に許さない。後悔させてやると言っておきながら、自分が追い詰められれば簡単に手のひらを返す。そんな人の言葉を信じられるわけがない。
「希子、お前が1人で暮らしていくのは大変だろ。心を入れ替えて働くから、許してくれよ。」
修平はさらに食い下がってきた。私はその言葉に少し微笑んだ。そして、ここで彼が知らない事実を明かすことにした。
「修平、あなたが知らないことがあるわ。私は離婚する直前から、本格的に小説の執筆に取り組んでいたの。あなたがあの時、私のことを馬鹿にしていた小説ね。それがネットで話題になり、書籍化も決まったわ。今の私の収入は、会社員時代のあなたの収入を超えているのよ。」
「は?何言ってんだ?そんな嘘をついてまで、俺を遠ざけたいのか?俺は本当に反省しているのに、なんで分かってくれないんだよ。」
「そうやって私のことを信じないから、痛い目に会うのよ。ほら、通帳を見せてあげるから、確認しなさい。」
通帳を手に取った修平は、これでもかと目を見開いた。そこには、私の言葉が本当であると分かる金額が表記されていた。ブルブルと震える修平に、呆れを通り越して笑ってしまう。小説ばかり読んでるから変な妄想をするんだと笑い飛ばしていた彼が、今になって私の成功に驚いている。なんとも皮肉なものだ。
「なんでだ?なんで言ってくれなかったんだ?最初から知ってたら、役立たずなんて言わなかった。もっと希子を大事にしたのに。」
「笑わせてくれるわね。お金を稼いでいるから大事にするの?私たちは夫婦だったのに、そんなものが基準になるの?そもそも、あなたが浮気をせずに私を見てくれていたら、気づけていたはず。価値ゼロだと見下して捨てようとしていたくせに、今更やり直したいなんて言わないで。」
修平は沈黙し、何も言えなくなっていた。彼が自分の過ちに気づいたことは、その表情からも明らかだった。そして、私は最後の一言を彼に告げることにした。
「修平、あなた私に、不要物は捨てると言ったわよね。私も同じ。もう私の人生に、あなたは必要ないの。」
彼は何も言えないまま私を見つめていた。最後に深くため息をつき、黙ってその場を立ち去った。その姿には、かつてのエリート然とした姿はなく、ただ一人の敗北者が立ち尽くすだけだった。
ミナは無事に子供を出産した。しかし、それは彼女にとって喜びではなく、さらなる試練の始まりとなった。出産後すぐ、彼女は正雄さんから離婚を言い渡され、子供の親権も正雄さんが持つこととなった。
「もう君を信じることはできない。君が浮気をしたこと、そしてその後の行動全てが、私の期待を裏切ったんだ。君との再スタートはもう考えられない。子供は私が引き取る。子供には、しっかりした家庭で育ってもらいたい。」
ミナはその言葉に何も言えず、ただ呆然と立ち尽くした。正雄さんの冷たい視線は、かつての彼女に対する愛情のかけらすら感じさせなかった。ミナはその場で崩れ落ち、やっとのことで涙をこぼしたが、その涙は正雄さんを引き止めることはなかった。それから、彼女は実家に戻ることになった。しかし、実家に戻ったからと言って、彼女の生活が楽になるわけではなかった。むしろ、ミナの家族は彼女の行いに激怒し、彼女を攻め立てた。ミナの母親は彼女の浮気を知り、周囲の親族もまた彼女を非難した。
「あなた、一体何を考えていたの?子供を産んだばかりだというのに、どうしてこんなバカなことをしてしまったの?あなたがしていることは、全く理解できない。」
親族たちもミナに対して冷ややかな態度を取り、彼女を厳しく監視するようになった。ミナがかつて求めていた自由は完全に失われ、彼女は実家での厳しい生活に耐えながら、親族の目を気にする日々を送ることになった。
「自由なんてない。私は一体、何のためにこんなことをしたんだろう。」
彼女がかつて望んでいた自由。それは男たちとの関係に溺れ、やりたい放題に振る舞うことだった。しかし、その結果彼女は全てを失った。家族との信頼も、正雄さんとの関係も、そして自分自身の自由さえも失ってしまったのだ。今や彼女は、実家という狭い枠の中で厳しく管理される存在となり、かつての自由は夢のように遠いものとなった。
一方、私は再び正雄さんに会う機会を得た。彼の腕には、まだ幼い赤ちゃんがすやすやと眠っている。正雄さんは私に微笑みを浮かべながら、赤ちゃんを優しく見つめた。その表情には穏やかな父親の姿があり、彼の心の中には新しい命に対する深い愛情が込められているのが分かった。
「改めて、感謝を伝えたいと思っていました。あなたが助けてくれなければ、私は今こんな風に落ち着いて生活することはできなかったでしょう。本当にありがとうございます。」
「いや、希子さんが強かったんだ。私が助けたというより、あなたが自分で立ち上がったんだよ。だからこそ、今こうして穏やかに過ごしているんじゃないかな。」
私はその言葉に微笑み返しながら、赤ちゃんを見つめた。赤ちゃんは無邪気な顔を見せており、その小さな寝顔は愛おしく感じられた。正雄さんはその様子を見て、少し真剣な表情になりながら言った。
「実を言うと、私がどうして修平やミナを許さなかったのか、もう一つ理由があるんだ。それは、彼らが不妊のことを軽々しく扱ったことだ。出産や妊娠って、当たり前のことじゃないんだよ。」
「そうですね。簡単なことではありませんよね。」
「出産というのは命がけの出来事だ。新しい命が誕生するということは、簡単に手に入るものじゃない。私も子供ができるまで、いろんな苦労をしてきたし、妊娠や出産の大変さを身近で見てきた。だからこそ、不妊を馬鹿にするようなことは許せなかったんだ。」
その言葉には、彼自身の経験に基づいた深い思いが込められていた。私も彼の言葉に深く共感し、出産や妊娠がいかに特別で大切なものかを改めて感じた。
「あなたの赤ちゃん、本当に可愛いですね。命の大切さを、改めて感じました。」
正雄さんは穏やかに頷き、赤ちゃんをそっと抱きしめた。
「この子を守るために、私はこれから頑張るつもりだよ。どんな困難があっても、家族を守るために。」
この言葉に、私は心が温まる思いを抱いた。正雄さんの決意と優しさが伝わり、彼の家族に対する深い愛情を感じた。私もまた、自分自身の人生を新たな視点で見つめ直すことができた。これからは過去に縛られることなく、自分の道をしっかりと歩んでいくつもりだ。
そして、これはさらに別の話。夫の涼介は、今日、実家に親族を10人ほど集めた。私が退院した翌日に、出産と退院祝いという形で。しかし、夫は産後の私を気遣うことはない。それどころか、「親族に申し訳ないから早く飯を作れ」と言うのだ。
「若子、さっさと飯の準備しろ。嫁のくせに休むな。せっかく親族が集まってくれたのに、申し訳ないだろ。」
「えっと、一応確認するけど、今日は私の退院祝いよね。親族の皆さんを集めてくれたのは嬉しいけど、私、産後よ。もう退院したんだから大丈夫だろ。それに、女が子供を産むのなんて当たり前のことだし、出産は病気じゃない。産後とか言い訳すんな。早く飯作れ。」
夫の言動は本当に吐き気がするものだったが、それは今に始まったことではなかった。だから、私はあくまで冷静に夫に再確認する。
「涼介、出産は病気じゃないけど、産後は大変なのよ。妊娠中と同じで、産後の体はとてもデリケートだし、今も体の痛みがある。それでも、あなたは私にご飯を作れっていうの?私のことはどうでもいいの?」
「どうでもいいなんて思ってない。若子は大げさなんだよ。お前が入院中、俺は毎日見舞いに行ってやったじゃないか。それにさっきも言ったけど、女が出産するのは当たり前のことだ。俺は家族を養うために必死に働いてるんだから、お前は嫁の仕事をちゃんとこなせよ。」
今、私と夫はキッチンにいるので、親族たちは周りにいない。それをいいことに、夫はいつもの調子で強がっている。もうこれ以上、夫に何を言っても無駄だ。入院する前から覚悟はしていたが、もう夫とは終わりにしないといけない。そう決意し、私は夫にこう告げた。
「分かったわ。涼介、嫁の仕事はちゃんとこなす。でも、実はご飯はできてるの。今日のために、私の知り合いが作ってくれたから。あなたもよく知っている人よ。今から呼ぶわね。」
数分後、その人物を招き入れると、夫が目を丸くして驚いた。
「へ、なぜあなたがここに?」
夫が驚くのも無理はないだろう。その人物とは、夫の会社の取引先社長である立花大介という男性だ。
「いやあ、涼介君、いつも世話になってるね。突然だが、お邪魔させてもらうよ。」
「ちょっと状況が掴めていないのですが、なぜ立花社長が?」
「若子さんとは以前から連絡を取り合っていてね。今日退院されると聞いて、準備していたんだよ。私の妻も会社経営をしているから、なかなか家に帰ってこなくてね。いつの間にか料理が得意になっていたんだよ。」
「あ、はあ、そうなんですね。わざわざありがとうございます。」
苦笑いを浮かべた夫は、私に耳打ちをしてキッチンの隅に連れて行く。ひどく混乱した様子だ。
「どういうことだよ。お前が立花社長の知り合いって、なんでだ?あと、なんで親族の集まりに呼んだ?どう考えてもおかしいだろう。」
「私と立花社長のことについては、後で話すわ。親族の集まりに呼んだのは、立花社長からの要望でね。どうしても親族の皆さんに話したいことがあるそうよ。」
「は?話したいことって何だ?立花社長と親族たちに接点ないだろう。」
「その理由も後で話すから、ひとまず立花社長を親族の皆さんに紹介してよ。ほら、立花社長もお待ちかねよ。」
夫が立花社長の方を向くと、ニッコリと爽やかな笑みが返ってきた。夫は明らかに戸惑いながらも、立花社長を親族たちの前に連れて行く。当然、親族たちも見知らぬ男性の登場に全員が戸惑っていた。
「えっと、こちらは立花社長です。僕の会社の取引先社長で、大変お世話になっている方でして。今日は皆さんと話をしたいということで、若子が招待したと先ほど聞きました。」
夫自身も状況が掴めていないので、たどたどしい様子だ。親族たちがざわざわとする中、義父が口を開く。
「わざわざご足労いただき、ありがとうございます。息子が大変お世話になっているようで。それで、話をしたいというのは?」
「実はですね、私の娘についてなんですよ。いやあ、本当に出来た娘でして、目に入れても痛くないほど可愛いんです。今日は写真も持ってきていますので、確認していただけますか?」
「え、は、はあ、分かりました。」
義父も夫と同じようにたどたどしい返事だ。それもそうだろう。親族たちにとって立花社長は初対面であり、そんな立花社長から突然娘の自慢をされれば、当然の反応だ。ただ、親族たちは立花社長から受け取った写真を見たことで、その意味を知ることになった。
「立花社長、この写真に映っている女性は娘さんで間違いないのでしょうか?うちの息子が隣に映っているのですが。」
「はい。間違いありません。娘の名前はエリと言います。あなたの息子さんは、私の娘と浮気しているんですよ。」
その瞬間、親族たちは騒然とした。夫を見ると、小刻みにブルブルと震えていた。まるで病人のように顔面蒼白で、滝のように汗をかき始めた。義父は信じられないといった様子で、写真を何度も見返している。しかし、何度見ても写真に映っているのは自分の息子だ。写真の内容は、夫とエリさんが親しげに腕を組みながらホテルに入るシーンや、キスをしているシーンなど、明らかに浮気だと分かるものだった。
「皆さん、混乱させてしまい申し訳ございません。しかし、私はどうしても許せなかったんです。若子さんと子供を作っておきながら、私の娘をたぶらかしているこの男。皆さんにも、その事実を知ってもらうべきだと思いました。そこで、私は若子さんに協力したんです。」
立花社長は深々と頭を下げながら、胸の内を明かした。未だに親族たちは騒然としている。そして、夫が浮気をしているということを信じられないといった様子だった。というのも、夫は親族たちに絶大な信頼を得ていた。夫は一流大学を卒業し、一流企業に就職。仕事で結果も残し、社内での評判もいい。いわゆるエリートだが、偉ぶることもなく、いつも謙虚な姿勢で親族たちと接していた。そんな夫に、義両親を始め親族たちの評価も高い。結婚して子供もできて順風満帆。羨望の眼差しを向けている人もいた。だが、夫の本性は全く違う。女が子供を産むのは当たり前、産後とか言い訳するな。そんなことを平気で言ってしまう人間であり、妻を妊娠させておきながら浮気をしてしまう人間なのだ。
「涼介、何かの間違いだよな。お前が浮気をするなんて、どうしても信じられない。若子さんが出産したばかりなのに、そんなことできるはずがないんだ。」
「父さん。あ、当たり前じゃないか。俺が浮気なんてするわけないよ。この写真に映っている人物は、他人の空似さ。俺は立花社長の娘さんのことは知らないし、当然会ったこともないよ。俺が愛しているのは、若子だけ。そうだよな。若子。」
夫が私の方に向き直り呼びかけると、親族たちの視線が一気に集まった。夫は私をまっすぐと見て、無言の圧力をかけてくる。俺を裏切ったらどうなるか分かってるよな、という圧力が顔に描いてあった。いつも私はそんな夫に従ってきた。優秀な夫に比べて、私は平凡で何もない。それに、夫は交際中や結婚当初は私に優しかった。子供ができれば変わってくれると期待した。でも、夫は何も変わらなかった。
「涼介、私を愛しているなんて嘘つかないで。ずっと私のことをいびっていたくせに。さっきだって、こう言ってたわよね。女が子供を産むのは当たり前。産後とか言い訳するな。早く飯作れって。私が出産しても、体のことなんて気遣ってくれない。それに何より、赤ちゃんのことも興味ないじゃない。」
「何言ってんだよ。そんなこと言ってないし。お前のことも赤ちゃんのことも、気にしてるよ。皆さん、若子の言っていることは間に受けないでくださいね。産後で精神的に不安定なんですよ、きっと。」
夫の動揺が明らかに大きくなった。その動揺する姿に、親族たちの目が変わっていく。夫が浮気をするのは信じがたい。しかし、証拠となる写真がある上、立花社長が直接話をしに来た。そこまでしてわざわざ嘘をつく理由もない。そう考えると、夫が嘘をついている可能性が高いと判断したのだろう。親族たちの変化を感じ取った夫は、ますます焦り始めた。
「待ってくださいよ。皆さんは他人の言うことを間に受けるんですか?立花社長の用意した写真だって、合成の可能性もあるでしょう。若子が嘘をついてる可能性だってある。今までの僕を見てきた皆さんなら分かるはずです。僕は嘘なんてつきません。」
夫は危機迫る表情で必死に訴えかけた。とにかくこの場をなんとかしなくては、そう考えているのか、なかなか認めようとしない。しかし、夫が嘘をついているのは明白であり、他にも嘘をついているということを、私と立花社長は知っていた。
「皆さん、涼介は嘘をついていないと言っていますが、全く逆です。涼介は他にもたくさん嘘をついています。そうですよね。立花社長。」
「ええ、その通りです。涼介君は私の娘と浮気していましたが、既婚者ということを隠していました。娘は涼介君と真剣に交際しているつもりだったんです。本人に確認しましたので、間違いありません。そして、もう一つとんでもないことが明らかになりました。皆さん、これも見ていただけますか?」
そう言って、立花社長は鞄から分厚い封筒を取り出した。中身を取り出し、親族たちに見せ、内容を説明する。その内容を私はすでに知っていたが、本当に信じがたいことだった。
「私は探偵事務所に浮気調査を依頼しました。しかし、これは娘の浮気調査ではありません。涼介君は、他の女性とも浮気していたんです。そして、その女性は、私の妻でした。」
直後、実家全体が揺れるほど親族たちがどよめいた。その揺れと一緒に、夫は力なくへたり込む。驚くのも無理はないだろう。私も本当に驚いた。立花社長は続ける。
「妻も私と同じように会社経営をしているので、家に帰ることも少なかったのですが、それをきっかけに私は浮気を疑うようになりました。それで浮気調査をすることにしたのですが、その結果、涼介君が妻と浮気をしていた。その後、娘とも浮気していたと分かったというわけです。」
立花社長が料理を得意になったのは、奥さんが家に帰ってこなくなったから。その原因が仕事が忙しかったのではなく浮気だったと知って、立花社長は大きなショックを受けたと話してくれた。さらに、娘も騙されていたとなれば、立花社長の怒りは測り知れないものだろう。
全てを知られていると分かった夫は、ようやく自分の立場に気づいたようだ。義父にすがりつき、勢いよく土下座した。
「申し訳ございませんでした。知らなかったんです。まさか、僕の浮気相手が立花社長の奥様と娘さんだったとは。2人と知り合ったのは本当に偶然で、とても魅力的な女性だったものですから。立花社長のご家族だと知っていれば、こんなバカなことは。」
その瞬間、夫の体が宙に浮いた。立花社長が夫の胸ぐらを掴み、持ち上げたのだ。
「私の家族と知っていれば浮気はしなかっただと?浮気自体、許されることではないだろうが。それに、貴様どこまで嘘をつけば気が済む?取引を有利に進めるために、私の家族に近づいたんだろう。正直に言え。」
「お、お願いします。本当に知らなかったんです。本当です。」
「貴様のような人間、信じられんな。妊娠中の奥さんをいびり倒し、出産後もないがしろにする。子供のことは1つも気にかけない。何が女は子供を産むのが当たり前だ、産後が言い訳するな、だ。子供のこと何も知らないくせに、偉そうに語るな。」
大激怒する立花社長は、今にも夫を殴り飛ばしてしまいそうだった。しかし、親族たちは誰も止めることができない。夫の本性を聞いて、味方をする方が難しいだろう。そんな中、とっさに義父が立花社長の前で土下座した。
「大変申し訳ございませんでした。」
義父は謝罪することしかできず、何度も何度も繰り返し謝った。そんな義父に、追い詰められた夫が助けを求める。
「父さん、なんとかしてくれよ。謝っても無駄だって。早く立花社長を止めてくれ。」
「涼介、俺もできることなら止めたいよ。でも、お前がしたことは、俺も許せないんだ。立花社長を止めることが、どうしてもできない。お前は、その報いを受けなければいけない。」
「そんな。俺が悪かったから、頼むよ。なあ、本当に悪かった。浮気してたことは謝る。本当にごめん。マジで反省してるから、立花社長を止めてくれ。」
小犬のようにガタガタと怯えながら懇願する夫を見て、私は改めて思った。どこまで行っても、夫は自分のことしか考えていないと。ただ、私も夫の言いなりになってしまって、何も言えなかった。結婚当初、夫は優しかったから、信じたいという気持ちがあったのかもしれない。でも、それは間違いだった。間違っていることを間違っていると言うことができなかった私も、自分のことしか考えていなかったと思う。赤ちゃんのためにも、私は強くならないといけない。だから、どんなに詫びられても、夫とは別れるべきだ。そう思いながら、私は夫に問いかけた。
「涼介、立花社長の奥さんと娘さんとは、偶然知り合ったって本当?もう嘘はついてない?」
「ああ、本当だよ。ここまで来て、嘘をつくはずがないじゃないか。」
「そう、分かったわ。あなたは本当にバカだってことが。涼介が嘘をついてることは、簡単に分かるのよ。本人に聞けばね。」
そう言って、私はスマホを掲げた。スマホの画面は通話中であり、スピーカー状態だ。
「おい、若子。まさかお前?」
「ええ、その通りよ。これまでの会話は、立花社長の娘さんであるエリさんに聞いてもらっていたわ。エリさんはあなたのことを信じていたみたいだから、事実を知ってもらおうと思ってね。さて、涼介は偶然であったと言っていますが、本当でしょうか?」
スマホに向かって私がエリさんに問いかけると、彼女はおずおずと口を開いた。
「偶然ではないはずです。涼介さんと初めて会ったのは、父の会社の前でしたし。それに、涼介さんは最初から私の名前を知っていました。母と知り合いだと聞いていましたし、母からも涼介さんのことを教えてもらったので、その時は疑問に思わなかったのですが。まさか、独身だと嘘をついた上に、母とも浮気しているとは。知らなかったとはいえ、大変申し訳ございませんでした。」
シーンと静まり返った実家に、エリさんの落胆した声が響いた。夫は言葉を失ったようで、一瞬で大人しくなる。夫の胸ぐらを掴んでいた立花社長は手を離し、夫に問いかけた。
「涼介君、なぜこんなことをした?どんな理由があっても許されることではないが、教えてくれ。」
立花社長の問いかけに、夫はしばらく答えなかったが、親族たちを見渡した後、ゆっくりと口を開いた。
「実は、僕は会社で全くと言ってほど結果を残せていません。同僚たちが優秀で、僕はチームとして評価されているだけでした。学生時代もそうです。なんとか志望校に合格しましたが、大学に入学してから全くついていきませんでした。でも、親族たちの期待を裏切りたくなくて、本当のことが言えずにいたんです。そんな時、立花社長の奥様と出会ったことで、思いついてしまいました。取引を有利に進めるために、利用できるんじゃないかって。エリさんに近づいたのも、同じ理由です。」
夫は小刻みに震えながら、消え入りそうな声で話す。親族たちは夫のことを優秀な人物だと思っていたので、真実を聞かされて絶望していた。
「立花社長、本当に本当に申し訳ございませんでした。こんなことをするのが、親族たちへの裏切りだと分かっていたんです。でも、歯止めが効かなくなってしまって。」
「涼介君、周囲の期待を裏切りたくないのは、私も分かるよ。だが、君が一番に考えないといけないのは、若子さんと赤ちゃんのことだろう。」
「おっしゃる通りです。若子、本当にすまなかった。俺、心を入れ替えるから、どうか許してくれ。この通りだ。」
夫は額を床に擦りつけ、誠心誠意の土下座をした。夫は本気で反省をしている。そう思える言動ではあった。でも、私はどうしても夫を許すことができない。なぜなら、涼介のしたことは取り返しのつかないことなの。もうやり直すことなんてできないわ。それに、あなた嘘をついているからね。
「え、若子、何を言って?」
その直後、私は立花社長に向き直り、こう告げた。
「本日、立花社長がお越しになられる前、涼介はこんなことを言っていました。お前が入院中、俺は毎日見舞いに行ってやったじゃないかと。確かに涼介は、私の入院している病院に毎日来ていました。ですが、その理由は、病院のスタッフに会うためです。涼介は立花社長の奥様やエリさんだけでなく、他にも浮気相手がいるんです。」
そう言って、私はスマホの再生ボタンを押す。そこから、夫と病院スタッフの会話が流れ出した。その会話の内容は、夫が独身だと偽ってデートに誘っているというものだった。
「もしかしたら、涼介は社内の人間にも言い寄っているかもしれません。残念ですが、まだまだ調べる必要がありそうです。こんな人のこと、信じる方が難しいですよね。だから、私は涼介のことを一生許すことはできないと思います。」
再び家はシーンと静まり返った。さっき夫が立花社長に謝罪しながら打ち明けた話も、全て嘘なのかもしれない。夫は嘘に嘘を重ねたことで、全員からの信用を失った。もう誰も、夫の話を聞く人はいないだろう。
「涼介、あなたは女が出産するのは当たり前のことだと言った。立花社長もおっしゃってたけど、何も知らないくせに偉そうなこと言わないで。そんな人に、父親になる資格はない。私はあなたと離婚します。」
そう言って私が離婚届を渡すと、夫は無言で震えながら受け取ったのだった。
翌日、私は改めて義両親の元へ向かう。今回の件で謝罪をするためだ。
「お父さん、お母さん、ご相談できずに混乱させてしまい、大変申し訳ございませんでした。私一人では涼介に逃げられるかと思い、こんな形を取ってしまいました。」
「希子さん、本当に驚いたよ。親族たちも混乱していたのは間違いない。ただ、涼介には一生忘れられない日になっただろう。こんなこと、二度とあってはいけない。」
「その前に、私たちからも謝らせて。希子さん、気づいてあげられなくてごめんなさい。私たちが親として、涼介をしっかり見ておくべきだったわ。」
義両親は本当に申し訳ないと言って、頭を下げてくれた。もちろん、私は義両親を恨んでいない。夫が親族10人を集める際、真っ先に動いてくれたのは義両親だった。きっと心から孫の誕生を喜んでいてくれたに違いない。それだけに、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そんな私に、義両親は「何かあったらいつでも頼りなさい」と言葉を残してくれた。本当に感謝しかなくて、自然と涙が溢れてきた。
その後、私は夫と離婚し、慰謝料と養育費も請求した。そして、立花社長も奥様と離婚し、今はエリさんと2人で暮らしているそうだ。一方、元夫はと言うと、会社を辞め、地元も去ってしまう。親族全員から見放され、あっという間に悪評も広まり、離れるしかなかったようだ。今は多額の借金を抱え、毎日ボロボロになりながら働いているらしい。私だけでなく、他の浮気相手からも訴えられ、どん底に落ちてしまった。それでも、元夫のしたことを考えれば、足りないと思う。家族を騙したこと、何より赤ちゃんをないがしろにしたのだから。
出産することは、当たり前なんかじゃない。それが分からない限り、元夫はこれからも孤独のままだろう。すやすやと眠る赤ちゃんを見ながら、私はそう思った。そして、この子は私が守ると、改めて誓ったのだった。



