リビングに戻ると、春彦ががっくりと肩を落とし、ソファーに体を預けていた。
「お帰り。今日も仕事は楽しかったか?」
俺の言葉を聞いた途端、春彦の両目いっぱいに涙が溢れた。
俺はすぐに春彦の隣に腰を下ろした。
「どうした?春彦、一体何があったんだ?」
春彦はたどたどしく話し始めた。今日の昼、営業部のオフィスで同僚たちとの食事会が開かれたこと。しかし、春彦の弁当だけが用意されていなかったこと。
どうやら今日から営業部の部長になった東野という男に、「中卒社員にはそれで十分だ」と言われ、嫌がらせを受けたらしい。
全く、なんてひどい人間だ。
春彦から一部始終を聞いた俺の心は、怒りでいっぱいになった。
俺の名前は北口総一郎。今年で76歳になる、どこにでもいる普通のじいさんだ。
子供の頃から様々な苦労を経験してきた。家庭は貧しく、食べていくのも一苦労だった。一日の糧を得るため、子供の頃からいろんなことをやってきた。しかし、それを無駄だと思ったことは一度もない。どんな経験も自分にとってプラスにしかならないと思っているからだ。
人より余分に苦労してきたので、粘り強さには自信がある。それはこの年になっても変わらない。
今は仕事はほとんど引退した状態だが、なんだかんだと忙しい毎日を送っている。
人間、忙しいうちが花である。俺は退職後にようやくその言葉の意味を実感することができた。
そんな俺にとって最も大切なもの、それは家族だ。数年前に妻を亡くしてからは、孫の春彦と二人で暮らしている。春彦は俺の一人娘の息子で、今年で19になる。
孫のことをあまり褒めると、じいバカなんて言われてしまいそうだが、春彦は顔立ちも穏やかな、とても温厚な青年だ。現在春彦はサウスフラワーの本社で働いている。その会社がうちから近いこともあり、この家で暮らしているのだ。
サウスフラワーは生花の配達販売を行っている会社だ。業界ナンバーワンの売上を誇る、花の一大企業の傘下として知られている。企業としても各地に支社を持っており、そこそこ大きい方だ。
近くの畑で色々な作物を趣味で育てていた俺の影響で、春彦は子供の頃から植物が大好きだった。だからサウスフラワーへの入社が決まった時には、いつになく喜んでいたっけ。
そんな孫の姿は、祖父である俺にとっても何だか嬉しいものだ。
実は春彦は、小学校の途中からとある理由で不登校になってしまった。中学も一日も登校することなく卒業した春彦は、高校への進学も拒否した。あの時は娘がヒステリーを起こして、なだめるのが大変だった記憶がある。
親としては、せめて高校くらいは出て欲しかったのだろう。その気持ちは確かに分からないでもない。しかし、全ては春彦が決めたことだ。彼自身の意思を尊重することこそが最も重要だと俺は思った。だから俺は春彦の味方になったのだ。
それは俺の亡き妻も同じだった。
16歳から春彦はアルバイトをしながら、独学で植物関係の勉強を開始。そして今年、サウスフラワーに入社したのだ。
春彦は優しい男だが、真っ直ぐな志を持っている。それは決して折れることのない信念だ。俺は春彦のそんなところも気に入っている。
初出社の日、春彦はガチガチに緊張していた。お腹が痛くなるほどの緊張を、俺の渾身の親父ギャグでほぐしてやったのが、つい数ヶ月前のことだ。あまりの寒さに春彦がプッと吹き出してくれたのを覚えている。
そんな春彦も今では職場にも慣れて、ひたすら一生懸命仕事をしているようだ。
若者が頑張る姿というのは、俺みたいな爺にとっては眩しくもあり、また少し羨ましくもある。俺も負けないようにもっと頑張らなければ。そんな気持ちにさせてくれる春彦は、俺にとっては自慢の孫である。
外はうだるような暑さが続いている中、今日も春彦は仕事だ。話を聞くと、どうやら春彦が所属している営業部の部長が、本日付けで交代になるらしい。春彦は前の部長に随分と可愛がられていたようで、別れを惜しんでいた。
俺は「新しい部長にも可愛がってもらえよ」と春彦を送り出す。そんな俺の言葉に春彦は頷きながら会社へ向かっていった。
その夜のことだ。
俺はキッチンで夕飯を作っていた。今夜のメニューはカレーだ。春彦の大好物である。隠し味の蜂蜜とチョコレートを入れた頃、うちの玄関のドアが開く音がした。
きっと春彦が帰ってきたのだろう。
俺はエプロン姿のままリビングに戻る。するとそこには、落ち込んだ表情の春彦がいた。がっくりと肩を落とし、ソファーに体を預けている。春彦はいつもならすぐに部屋着に着替えるのだが、どうやらそんな元気もないといった風だ。
俺は春彦に「お帰り。今日も仕事は楽しかったか」と伺うように尋ねた。すると春彦は途端に、両目いっぱいに涙を貯めてしまったではないか。
一体どういうことだろう。
俺はすぐに春彦の隣に腰かけ、「どうした?春彦、何があったんだ」と問いかけた。すると春彦は、今日の昼に営業部のオフィス内で共に働くみんなとの食事会が行われたこと。しかし、春彦の弁当だけ用意されなかったことをたどたどしく明かしてくれる。
どうやら今日から営業部の部長になった東野という人間に、「中卒社員にはそれで十分」と嫌がらせをされたらしい。全く、なんてひどい人間だろうか。
春彦からの一部始終を聞いた俺の心は、怒りでいっぱいになった。
春彦は「僕、やっぱり大学。いや、せめて高校だけでも行っておけばよかったのかな」とつぶやいた。その表情は随分と辛そうだ。目からは涙が今にもこぼれそうである。
言っておくが、春彦は決して泣き虫なんかではない。むしろどんな逆境でも常に笑顔を作ってきたくらいの強いハートの持ち主である。そんな春彦から弱音を聞くことになるなんて、俺は思ってもみなかった。
俺はとにかく今は春彦を慰めることが先決だと思い、春彦に風呂に入ってゆっくり休むよう促した。春彦は力なく立ち上がると、風呂場へとうつむきがちに向かっていった。
廊下から春彦の啜り泣く声が聞こえている。かわいそうに。あの春彦と変わってやれるものなら、すぐにでも変わってあげたい。春彦の辛さを全て俺が背負い込むことができればいいのに。
俺は春彦の泣く声を聞いて、そんなことを思った。しかし、さすがにそれは不可能だ。
大丈夫。本当に強いのは春彦のことだ。きっと今回の不条理も乗り越えることができるだろう。
リビングに残った俺は、一人で考える。
うちの大事な孫をあんなにもひどい目に合わせるなんて、許せることではない。こんな時、祖父である俺にできることは一体何だろうか。
俺はしばし思案した。
それにしても、営業部長の東野はとんでもない人間だ。どうしてそんな意地悪な男が営業部長なんて重要なポストにつくことができたのだろうか。考えれば考えるほど、その謎は深まるばかりだ。
春彦はパッと見は線が細く、物腰も柔らかいので、きっと攻撃のターゲットにされてしまったのだろう。
俺は孫が不憫でならない。せっかく念願の会社で楽しく働いていたのに、一人の上司のせいで途端に台無しにされてしまうなんて。
春彦は明日、ちゃんと会社に行けるだろうか?もしかしたら小学校時代のように、また部屋に閉じこもってしまう可能性も否めない。こんなどうしようもない状況で、あの東野という男はどう責任を取るつもりなんだ?
俺はそれを思うと、居たまらない気持ちになった。
ああいう質の悪い連中というものは、他人を傷つけたことをまるで覚えていない。ただ自分の一時の快楽のためだけに相手を攻撃するのだ。全く、なんてろくでなしだろうか。
そもそも、いい歳をこいて部下に嫌がらせをするなんてありえない。営業部長ともあろう人間が、一体何を考えているのだろうか。いや、きっと東野は何も考えていないのだろう。奴は目先の楽しみだけを望んで、春彦にひどいことをしたに違いない。
それにしたって、意地悪にも程があるというものだ。
誰かの上に立つ立場であれば、部下には最大限の注意を払って接することが望ましい。そんな当たり前のことすら、東野には分かっていないのだろう。何とも呆れた奴だ。
自分勝手な人間は、他人への気遣いなど眼中にない。他人をないがしろにする人間というものは、いつの時代もいるものだ。
こういう人間に対してできることはただ一つ。反撃あるのみだ。
しかし、春彦自身は今は落ち込んで、それどころではないだろう。ここはやはり、祖父である俺の出番だ。
そう思った俺は、あまり使い慣れていないスマホを操作する。そしてある男に電話をかけた。
「もしもし、俺だが。話したいことがあるんだ。今、時間いいか」
俺は切り出し、そして今回春彦が東野から受けた所行を、洗いざらい電話の向こう側の相手に伝えた。
電話の相手はひどく恐縮しながら、そして同時に驚いた様子で俺の話を聞いていた。全てを話し終えた俺は電話を切る。
東野だけは、このままにしておくわけにはいかない。俺の怒りの炎はメラメラと燃え上がっていく。そしてその炎は、決して消えることがなかった。
その翌日。
俺はある人物たちを家の中で待っていた。12時を少し過ぎた頃に家のインターホンが鳴る。俺は訪ねてきた相手をリビングに通した。
うちに来た人物、それはサウスフラワーの社長、南。そして南に連れられてきたのは、昨日の主犯である東野だ。東野は俺とは初対面である。
南は「お久しぶりです、北口さん」と深く頭を下げた。その一方で東野といえば、なぜ南にこんな老人の家まで連れてこられたのか、さっぱり理解していないらしい。その証拠に、東野はあちこちキョロキョロとしながら軽薄な表情をしていた。俺のこともいぶかしげな目で、まるで品定めでもするかのように見ている。
俺は前置きは口にせず、手短に今回の件について伝えた。
「今日うちまで二人を呼んだのは他でもない。南には昨日も電話したように、孫の春彦の件についてなんだが」
俺が次の言葉を発する前に、東野がこう続けた。あろうことか、でかい声で叫んだのだ。
「北口?春彦?ああ、あの中卒の生意気な社員か」
俺はそのセリフを聞いた途端、東野をギロッと睨んだ。俺の鋭い目差しに気がついた東野は、「ああ、何だよ、爺いさん。あんた、もしかしてあの中卒社員のじじか?この俺に何の用だ」と挑発する。
それを慌てて止めたのは南だ。
「おい、君、やめないか。何て言葉遣いをするんだ」と南が間に入った。
東野は「だって、こいつ中卒社員のじじなんでしょ?そんな相手にペコペコすることなんて、何もないじゃありませんか」と反論する。
南はそれを聞いて「バカ野郎」と一括した。そして南は俺を指差しながら、言った。
「こちらの北口さんはな、うちの親会社である花の一大企業の最高顧問を務めていらっしゃる方だぞ。少しは口を慎しめ」
そう、俺は花の一大企業で長年働き、会長職まで勤め上げた後、今は最高顧問という立場にあるのだ。もっとも、最高顧問と言っても名誉職で、ほとんど仕事はなかったりもするのだが。
それを聞いた東野の顔は、見る見るうちに真っ青に変化していった。そばから見ているこちらにもそれが分かるくらいだ。その様は何とも滑稽である。
東野は「ま、まさか、この爺いさんが花の一大企業の最高顧問なんて」と、口をポカンと開けて呆然とした。
南は再び「だから、君が爺さんなんて呼んでもいいような方じゃないんだよ。北口さんは」と注意する。
俺は言った。
「それで、昨日孫にした嫌がらせについてだが、お前たちは一体どう責任を取るつもりだ?覚悟はできているんだろうな」
南は即座に頭を下げ、「大変申し訳ございません。まさか最高顧問のお孫さんがうちの会社に入社していたとは、存じ知らずでございました」と言った。
一方、東野といえばまだ呆然と突っ立っている。
南は東野に「おい、君も謝りなさい。早く」と促した。しかし俺は、次に発せられた東野の言葉に思わず耳を疑った。というのも、奴はありえない方向に話を切ったのだ。
東野は頭を下げることなく、「わ、私はそんなことしてません。嫌がらせなんてとんでもないですよ」と、あろうことか嘘をつき始めたのである。
どこまでも呆れた男だ。
東野は「北口君が何か勘違いしたのではないでしょうか。そうだ。きっとそうに決まっていますよ」と作り笑顔を浮かべながら言った。その表情の気持ち悪いことと言ったら、言葉では言い表せない。奴と比べれば、お化け屋敷のお化けの方がよっぽどマシだ。東野の顔面には、奴の見にくい心がそのまま反映されているのだ。
東野は「これは何かの間違いです。いや、むしろ陰謀だ」と、わけのわからないことを口走っている。なんてとんでもないろくでなしだろうか。
俺は呆れ果ててしまった。こんなひどい男がうちの傘下の企業に、というかそもそもこの世に存在していること自体が許せない。
「お前は俺を嘘つき扱いしているが、一体どういうつもりだ」と、俺は顔をしかめながら東野に尋ねた。
東野は「そ、そういうわけでは」と慌てふためいている。
南も俺と同様、東野の言動に顔を歪めていた。そして南は東野に対し、「君も困ったものだ。頭を下げることすらできないなんて。その上嘘をつくなんて、人として最低の行為だ」と言い放った。
東野はどんどん慌てて、「いや、そういうつもりじゃないんです。そうじゃなくて」と南にすがろうとした。
南はそれをかわし、「君がどうしても北口さんに謝罪しないというのであれば、こちらにも考えがある。親会社の最高顧問とうちの営業部長。どちらが私にとって重要な存在か、君には分からないのか」と言った。
さらに南は、とどめのような言葉を言い放った。
「それに昨日、君が部下に対して高圧的な態度を取っていたという報告が営業部の人間から上がっているんだ。証拠は揃っている。それでもまだ見苦しい言い訳を続けるつもりか」
それを聞いて、さすがの東野もとうとう観念したらしい。東野はボソッと、「ちっ、営業部の奴らめ。余計なこと告げ口しやがって。絶対に後でひどい目に合わせてやる」と呟いた。
本当にこの男は救いようがない。俺も長年生きているが、これほどまでのクズを間の当たりにしたのは初めてである。長生きはしてみるものだな。
東野はすっかり開き直った態度で、ふてくされたようにこう言った。
「ああ、もういいや。めんどくせえ。そうだよ。このじじの孫にいたずらしたのは俺だ。でも、あの程度のことで社長まで出てくることになるなんて、マジでありえねえな」
俺は奴の「いたずら」という言葉が引っかかった。
春彦が受けた仕打ちは、いたずらで済むような生易しいものではない。現に今日も春彦は落ち込みながらも、頑張って出社していったのだから。春彦の気持ちを思えば、胸が張り裂けるような思いだ。そのことをこの男は全く理解できていないらしい。理解しようともしないのだから、もうどうしようもない。こんなクズを前にしてできることは、かなり限られている。
南は東野に「何だ、君、その態度は。最高顧問に向かってそこまでの無礼を働くなんて、許すわけにはいかないぞ」と言った。
東野はすっかり口調を変え、先ほどと同様、敬語を使うことすらやめてこう言った。
「ふん、こんな雇われ爺が何だって言うんだ。大体、こんな老いぼれが最高顧問だなんて、笑わせるなよな。ああ、ところでもう話は済んだのか。こんなところにいつまでもいたくないんだがな」
俺は南に目配せする。それに気がついた南は、東野に言った。
「君には解任でうちの営業部長の座から降りてもらう。そのつもりでいなさい」
東野はケタケタと気味の悪い笑い声をあげた後、「ふん。好きにしやがれ、バカ野郎どもが」と吐き捨て、そのままうちから出ていった。
本当に、考えられないほどひどいやつだ。
南は俺に何度も何度も頭を下げ、「ただひたすらに申し訳ございません。あんな男を営業部長にしてしまったのは、全て社長であるこの私の責任です」と謝罪の言葉を口にし続けていた。
別に南自身が春彦や俺に何かをしたわけではない。俺は顔を上げるよう南を促した。
顔を上げた南の表情と言ったら、なんだか可哀想になってくるほど疲れている。社長というポストは、何かと苦労の絶えないものだ。俺も経験者なのでよく分かるのだ。
そうして俺たちは、そのまま東野の処分についてじっくりと話し合うことにした。南は憔悴した顔で俺の話を聞いている。俺は測らずもとんでもない部下を持ってしまった南が、少し気の毒に思えた。
その後、間もなく東野はサウスフラワーを解雇された。俺と南が話し合った結果の処分である。
職を失った東野は、自暴自棄になり、あちこちで喧嘩を引っかけては警察沙汰を繰り返したらしい。そしてついには、暴行の容疑で逮捕されてしまった。取り調べでも東野は警察官に対して不服そうな態度を貫いているようだ。
どうせ貫くなら、もっと何かいいことを貫いて欲しいものである。自分自身を改めることのできない人間は、結局のところ落ちるところまで落ちることしかできない。東野はそれをまさに体現している。
東野自身が自分の悪業に気がつく日は、果たして訪れるのだろうか。今のところ、その兆候は全く見られないと言っていいだろう。
一方、春彦といえば、会社から東野がいなくなったことで、すっかり元気を取り戻してくれた。今まで通り一生懸命通勤している。その様子に安心して、俺もほっと胸を撫で下ろした。
東野に変わって新たに営業部長になった人は、部下にも気遣いを忘れないようなかなりの人格者らしく、俺としても一安心だ。
何よりも毎日楽しそうな春彦の姿が、俺の生きがいなのだ。もちろん、俺も花の一大企業の最高顧問として目を光らせている。春彦に負けないように、もっと頑張らなくては。
そんな具合で、孫の存在がいい刺激になっているのだ。歳を重ねても、まだまだ老け込むわけにはいかない。俺はこれからも春彦と共に、穏やかな毎日を送っていきたい。



