残業続きで心も体もボロボロだったあの夜、婚約者に「結婚できない」と振られ、公園で捨てるように見知らぬ少女に渡したダイヤの指輪。10年後、目の前に現れたのは、あの指輪をはめた、美しく成長した建築士の女性だった。差し出されたのは、恩返しという名の、革命の火蓋。そして彼女の口から驚きの一言。「全部、森下部長の仕業です」――長年耐え続けたパワハラの末に解雇され、どん底にいた俺の前に、再び現れたのは、…

残業続きで心も体もボロボロだったあの夜、婚約者に「結婚できない」と振られ、公園で捨てるように見知らぬ少女に渡したダイヤの指輪。10年後、目の前に現れたのは、あの指輪をはめた、美しく成長した建築士の女性だった。差し出されたのは、恩返しという名の、革命の火蓋。そして彼女の口から驚きの一言。「全部、森下部長の仕業です」――長年耐え続けたパワハラの末に解雇され、どん底にいた俺の前に、再び現れたのは、...

理不尽な命令は、いつものことだった。今日も森下部長が、分厚い資料の束を机に叩きつける。
「この書類、お前のために残してやったぞ。しっかり働け。」
高卒の俺には、こうして教えてやらないと何もできないんだと、ありがたく思えと言う。これが命令だ。俺は黙って資料を抱えた。隣のデスクの中村さんが、困ったもんだと苦笑しながら、手伝おうかと声をかけてくれた。お前も部長に逆らうなよ、と。
「ありがとうございます。これも経験ですから」
俺の人生は、その頃まさにどん底だった。母を幼い頃に亡くし、高校を出てすぐ、父を少しでも楽にさせたくて入ったこの会社。そして愛する婚約者ののぞみに、プロポーズしようとしていた矢先のことだ。給料三ヶ月分を貯めて買ったダイヤの指輪も、もう手元にあった。

予約したレストランに、緊急の呼び出しで遅れて向かった日のこと。のぞみは、いつもの笑顔がなく、目を伏せていた。重い空気のまま食事を早めに切り上げ、海の見える公園で、俺は意を決して指輪の箱を取り出した。
「のぞみ。結婚してくれないか?」
「私…あなたとは結婚できない」
「どうして…」
「今日は、お別れを言おうと決めていたの。もう私には連絡しないで」
そう言って彼女は駆け出した。俺は動けなかった。月の光だけが、静かに俺を照らしていた。どうやって家に帰ったのかも覚えていない。

気がつけば、幼い頃母とよく来た、なじみの公園のベンチにいた。視線の先に、制服姿の少女がうずくまっている。膝にはすり傷、制服は汚れ、髪には埃。高校生だろうか。
「君、大丈夫?」
怯えた様子で俺を見上げる少女。怪しいものじゃないよ、と言うと、彼女のお腹から小さな音が鳴った。俺は近くのコンビニで、温かい味噌汁と弁当、それに消毒液と絆創膏を買って戻った。少女は一瞬驚いた顔をしたが、そっと手を伸ばし、味噌汁を両手で包み込むようにして、静かに口をつけた。弁当もあっという間に食べ終えた。
「ありがとう」
「膝、見せてくれる?手当てしよう」
少女は頷いた。消毒液を染み込ませた綿を膝に当てると、痛そうに顔を歪める。どうしてこんなところにいるのか、と尋ねると、両親を事故で亡くし、おじさん夫婦に預けられたこと、進路のことで喧嘩になり、三日前に家を出てしまったことを話してくれた。おじさんたちにとって、私の存在は負担なんじゃないかって、ひどい言葉を言ってしまった、と。やがて少女の肩が小さく揺れ、涙が静かに頬を伝った。

何とかしてあげたい。心の底からそう願った。俺はポケットに手を入れ、小さな指輪の箱を取り出した。のぞみに渡せなかった、あのダイヤの指輪だ。
「これ、君にあげるよ」
「え、こんないいもの、いただけません」
「いいんだ。もう俺には必要ない指輪なんだ。本当はこれを渡して喜んでほしい人がいた。でも、うまくはいかなかった。だけど、君の笑顔が見られた。それだけで報われたんだ。人生は思い通りにならないことばかりだ。それでも、大切なことを見失わないで。そして、おじさんたちと仲直りするって約束してくれ」
少女はしばらく黙り、やがてしっかりと頷いた。
「ありがとう。約束する。これ、私の大事な宝物にするね」
その笑顔は、さっきまでとは違っていた。強く、真っすぐな目をしていた。タクシーに乗せてやり、名刺を渡すと、少女は両手で受け取り、深く頭を下げた。翌日、少女から電話がかかってきた。おじさんたちとちゃんと話して、仲直りできました、と。

それからも、森下部長の嫌がらせは続いた。得意先のクレーム対応を押し付けられ、丁寧に対応しても、部長は鼻で笑うだけ。そして、あの日。俺が何日もかけて準備してきた若い夫婦へのプレゼン当日、部長がいきなり「今日の商談、私も同行するからな」と言い出した。俺の時間を潰すためだけに。商談が成立した瞬間、部長が言い放った。
「今後の対応は、私が鈴原から引き継ぎます」
ご夫婦は、残念です、と言い、俺を信頼していたのに、と。俺の言葉を部長が遮り、まるで俺が勝手に抜けるかのように話を進めた。あれだけ手間をかけた提案書。家族の笑顔を想像しながら作ったものだった。それを最後の最後で横取りされた。

気づけばそこから10年が経っていた。34歳になった俺は、転職活動をしていた。あの頃と変わらず、部長の理不尽なパワハラは続き、心身ともにすり減っていたのだ。そんな中、中村さんが、話題の若手建築士がいると名刺をくれた。
「連絡してみろ。新しい案件がもらえるかもしれないぞ」
俺はすぐに電話をかけた。対応したのは、落ち着いた声の男性社長秘書。新規案件でちょうど業者を探していたところだという。商談の日、部長がまた同行すると言い出した。嫌な予感がした。過去の経験が脳裏をよぎる。だが、部長命令には従うしかなかった。

建築設計事務所の会議室。俺と部長が並んで座り、プロジェクトの資料の最終確認をしていると、部長が唐突に俺の資料を乱雑に引き抜いた。
「若手の建築士が相手なら、俺が落としてやる。資料作りしかできない脳なしが。お前は黙って横で頷いてればいいんだ」
その時、ドアが開き、社長らしい男性に続いて、一人の女性が入ってきた。場の空気が変わった。品があり、華やかで、それでいて気取りのない雰囲気。広角がわずかに上がった微笑みは、明るさと知性を兼ね備えていた。
「本日はありがとうございます。社長の天童あずさです」
俺は鈴原匠と名乗った。すると、彼女は一瞬驚いた表情を見せ、次の瞬間、なぜか嬉しそうに微笑んだ。なんだか初対面とは思えない、親しみのある笑顔だった。商談が始まると、彼女はすっと背筋を伸ばし、穏やかな声で話し始めた。俺は静かに頷きながら聞いていたが、ふと彼女の手元に目をやり、息を飲んだ。細く整った指に、小さく光る指輪。あのダイヤの指輪だった。

その場で気持ちを抑えていると、部長が横からずかずかとプレゼンを始めた。彼女の希望とは違う木材を、時代に合った風合いとか何とか言って熱弁し始める。すると彼女は、冷静な声で指摘した。
「その木材は湿気に弱く、今回の立地には不向きでは」
「私がご提案するこちらの木材は、時代にあった風合があります。見た目の割にコストも抑えられますしね」
部長の口調は、あなたは分かっていない、と言わんばかりだった。彼女は納得した様子もなく、まっすぐに俺に視線を向けた。
「鈴原さんはどう思われますか?」
その瞳には信頼と期待が宿っていた。俺は深く息を吸い、感情を落ち着けてから答えた。
「天童社長が今回ご希望されているのは、湿気の多い海沿いという立地を考慮した木材かと思います。でしたら、乾燥性に優れ、香りにも品があるヒノキがよろしいかと。確かにコストは上がりますが、結果として建物の価値や居心地にも大きく貢献します」
そう言いながら、具体的な金額を提示した。彼女はゆっくりと微笑んだ。
「その意見を待っていました」
俺は小さな手応えを感じ、内心拳を握りしめた。部長は黙り込み、窓の外に視線をそらしていた。
「それでは、こちらは正式にご契約ということで」
彼女は静かに首を振り、俺の方を見た。
「はい。ただし、鈴原さんが担当されることが条件です。正式な契約は、日を改めて」

会社を出るなり、部長が俺の胸ぐらを掴んだ。
「せっかくついてきてやったのに、俺の顔を潰しやがって。この役立たずが!」
顔を真っ赤にして怒鳴り、俺を突き飛ばすと、そのまま背を向けて去っていった。手柄を横取りしようとした上に、思い通りにならないと逆切れか。俺は乱れたネクタイを直し、部長の背中を見送った。

翌朝、出勤すると、中村さんが声をかけてきた。
「社長がお前を呼んでるらしいぞ」
社長室へ行くと、部長の姿があった。社長は、森下部長の叔父で、愛建設の社長だ。俺が入るなり、低く唸るような声で言い放った。
「取引先の女性を誑かして契約を取ろうとしていたそうじゃないか」
俺の頭は真っ白になった。
「違いません。俺はちゃんと…」
「しかも今回が初めてじゃないみたいだな。後輩の商談を横取りして、自分の成績にしているという噂まである。面接の時は真面目で誠実そうだった。だが、私の見込み違いだったようだ。鈴原、明日からもう会社に来なくていい」
一方的な解雇通告。俺の意見など最初から聞く気がない。部長の差し金だった。俺は何も言い返せず、ただ静かに頭を下げて社長室を後にした。中村さんが駆け寄ってきて、何があったんだと問い詰めたが、俺は首を振るしかなかった。

会社を辞めてから一週間、何もやる気が起きず、時間だけが虚しく過ぎていく。このままじゃ本当に腐ってしまう。そう思い、外の空気を吸おうと出た。気づけば、無意識にあの公園を目指していた。暗がりの中、誰かがベンチに座っている。月明かりを浴びて、柔らかな陰影を浮かび上がらせる女性。近づくと、その輪郭がはっきりしてきた。
「天童さん…?」
「鈴原さん!よかった…やっと会えた」
彼女は駆け寄ってきた。
「どうしてここに?」
「10年前、この公園であなたに助けられた少女は、私なんです。きちんとお礼を言いたくて。あの時は本当にありがとうございました」
「ああ、やっぱりそうか。頭をあげてください。ただ君が困っていたから、あの時俺にできることをしただけです」
「違います。私が鈴原さんにどれほど助けられたか、ずっとお礼がしたかったんです。いつか恩返ししなきゃって。だから、ここで待っていたんです。会社に電話をしたら、もう辞めたって聞いて。それから、毎晩ここに来てたんです。この場所を思い出して、ここに来ればもしかしたら…って」
彼女の瞳は月明かりを吸い込み、今にもこぼれ落ちそうに潤んでいた。俺は胸を締め付けられた。彼女は、どうしてこんなことになったのか、と静かに尋ねた。俺は正直に話した。社長室での出来事、長年の部長の嫌がらせ。全てを。彼女は怒りをにじませながら、静かに言った。
「それはひどすぎます。許せない。今度は私が助けます」
「もういいんだ。今更動いたって…」
「鈴原さんは何も悪くありません!そこで彼女は俺の手を両手で包み込み、力強く握った。見返してやりましょう。あなたはあの時の私を救ってくれた。今度は私があなたを救います」
「でも、どうやって…もう全部終わったんですよ」
彼女は静かに微笑んだ。
「いい方法があります」

彼女の提案とは、宇和島建設との商談の場を利用するというものだった。天童さんは、祖父が経営する倉崎建設の社長、倉崎の姪に当たる人物で、彼女の事務所はその子会社。愛建設が下請けとして倉崎建設と商談する場に、俺と彼女が乗り込むのだという。中村さんにも協力してもらった。中村さんは、部長の不正の証拠を探してくれていた。

そして3日後、俺と天童さんは、とある企業の会議室にいた。そこには愛建設の社長、森下部長、そして腰巾着の難波が着席していた。俺たちが入室すると、空気が一変した。社長は俺の顔を見るなり叫んだ。
「どうしてお前たちがここにいるんだ?お前は首にしたはずだろう」
「確かに、あなたに解雇されました。ですが、今日はそれとは別の理由があってここに来ました」
俺がそう言うと、部長がけな顔で眉を寄せた。
「一体何の話だ。商談を邪魔するなら…」
「まず、現在報道されている天童さんの設計違反のニュースについてですが、これは全て愛建設の森下部長の仕業です」
俺は証拠資料のファイルを会議机の上に広げた。
「あの日、商談の際に模型を確認するため、俺と天童さんは隣の部屋へ移動しました。その時、部長は一人だけ会議室に残っていましたよね。その間に、机に置かれていた天童さんの設計資料を盗み見て、スマホで撮影した。そして、それを意図的に改ざんし、報道機関にリークしたんです」
「一体何を言っているんだ?くだらん妄想だ。証拠でもあるのか?」
声は強気だが、明らかに震えていた。天童さんが静かにプロジェクターを起動させた。
「以前事務所に泥棒が入ったことがあって、念のため監視カメラを設置していたんです」
スクリーンに映し出されたのは、俺たちが席を外した直後の会議室の映像。そこには、慌てた様子で資料に手を伸ばし、スマホで撮影する部長の姿が、はっきりと映っていた。部長は見る見る顔面が青ざめていく。
「こちらが撮影された元の資料。そして、これがニュース映像に使われた資料です。数字や構造の記述が明らかに改ざんされています」
倉崎社長は無言で両方を見比べ、ゆっくりと頷いた。
「確かに違う」
「そんな!何かの間違いだ!部長がそんなことをするはずがない!そうだろう、啓介!?」
焦った岩尾社長が反射的に叫ぶが、部長は何も言い返せず、汗をにじませながら俯いていた。
「それだけではありませんよ、岩尾社長。さらにもう一点」
俺は中村さんが調査してくれた資料を倉崎社長に差し出した。
「こちらは愛建設が倉崎建設から受注しているプロジェクトの建設費の明細です。特に材料費の項目をご覧ください。不自然なほど高騰しています。これは明らかに水増しです」
倉崎社長の表情がどんどん険しくなっていく。
「確かに…数ヶ月前から請求額が急に跳ね上がっていた。気になってはいたが、まさか水増しだったとはな」
「ま、待ってください!確かに材料費は高騰していますし、記録上のミスがあった可能性も…」
「材料費の高騰があるとしても、不自然なくらいに金額が毎月上がっている。これだけ高額な請求をしておきながら、計算を間違うなど、おかしい。信用問題に値する」
倉崎社長の言葉に、岩尾社長の顔からは完全に血の気が引いていた。部長は沈黙し、額から大粒の汗が一筋流れ落ちる。そんな中、ノックの音が響き、一人の女性と白髪まじりの年配の男性が入室してきた。倉崎社長が立ち上がり、紹介する。
「こちらは、弊社と協力関係にある諸星工務店の社長、諸星洋司さん。そして、そのお嬢さんで、会社の経営に携わっている諸星のぞみさんです」
俺はその女性の顔を見て、思わず目を見開いた。それは、10年前に別れた恋人、のぞみだった。のぞみは少しだけ目を伏せたが、すぐに顔を上げ、落ち着いた表情に戻る。諸星社長が俺の目をじっと見つめた後、深々と頭を下げた。俺はその仕草を不思議に思いつつも、会釈を返す。
「本日は、倉崎社長から愛建設について話が聞きたいと連絡をいただきました。弊社は愛建設と共に多くの案件を受け負っておりますが、その中で明らかに不正が行われていることに気づきました」
そう言って諸星社長は資料を取り出し、会議机の上に置いた。
「こちらが実際の材料発注書。そして、こちらが愛建設が提出している請求書の控えです。ご覧の通り、価格が大きく掛け離れています」
倉崎社長の目に、明らかな怒りが宿った。さらに諸星社長の報告は続く。
「さらに、現場から深刻な苦情が上がっています。建設の一部関係者が、作業員に対して乱暴な態度を取り、思い通りにならないと怒鳴りつけたり、物を投げたりすると」
諸星社長は数枚の写真を差し出した。その一枚には、作業員の太ももに大きな傷ができている写真が映っていた。
「これはパイプを投げつけられた際にできた傷です。加害者は、そこにいる難波だと現場から報告を受けています」
突然名指しされた難波は、顔を引きつらせ口を開いた。
「そ、それは…間違って投げたんです…」
声には説得力がなかった。もはや言い逃れができないと悟ったのか、部長は存在感が気配になり、消え入りそうだった。倉崎社長の低く鋭い声が響く。
「倉崎建設との取引は、ここで完全に打ち切らせてもらう。そして、今までの不正行為と暴行に関しては、相応の責任を取ってもらう。逃げられると思うな」
その言葉に、岩尾社長の顔から血の気が引いていく。
「ど、どうかお待ちください!倉崎社長に見捨てられたら、会社の売上の7割が消し飛ぶんです!私はこの会社を、弟の息子である部長の啓介に譲るつもりで準備してきたんです!どうか考え直していただけないでしょうか!」
岩尾社長は突如、床に膝をつき、土下座を始めた。
「俺は悪くない!俺は会社を大きくするためにやったんだ!」
部長の苦しい言い訳が会議室に響く。その瞬間、難波が突然立ち上がり、部長の胸ぐらを掴んだ。
「話が違うじゃないか!俺を次期部長にしてやるって言っただろう!だから俺は、何でもお前の言う通りにやってやったんだぞ!」
「やめろ!俺に逆らうんじゃない!」
部長が突き離すと、難波はその場に崩れ落ち、膝をついて泣き出した。岩尾社長が席を立ち、必死の形相で俺にすがりついた。
「君を首にしたのは、私の間違いだった!私はこんなことになっているなんて、全く知らなかったんだ!啓介には必ず責任を取らせる!君も復職させると約束する!だからどうか、君からも倉崎社長に説明してくれないか!頼む!」
俺は静かに首を横に振った。俺の意見など、最初から聞く気がなかったのはあなたの方だ。あなたは自分の思い通りになれば、真実などどうでもいい。その考えが、今の現状を招いている。岩尾社長は今度は部長に向き直り、怒鳴りつけた。
「全部お前のせいだぞ!お前も謝れ!」
部長は、明らかに怯えた様子で、しぶしぶ土下座し、低く謝罪の言葉を口にした。しかし、その場にいた誰一人として、彼を擁護するような目を向ける者はいなかった。会議室には、難波のすすり泣く声だけが虚しく響いていた。こうして、俺と天童さんの潔白は完全に証明されたのだった。

会議を出たところで、のぞみが俺に声をかけた。
「ごめんなさい」
彼女は目を伏せ、静かに口を開く。
「10年前、あなたがプロポーズしてくれた時、父の会社が倒産寸前で、あなたを巻き込みたくなかった。それでも、あなたを傷つけたこと、ずっと後悔してた」
彼女の声は震えていた。
「あの時、倉崎社長に助けられて、今は父と二人で力を合わせてやってる。今回、倉崎社長からあなたが窮地にいると聞いて、どうしても力になりたかったの。こんなことで過去を許されるわけじゃないと分かってる。でも、どうしても謝りたかった。ごめんなさい」
彼女の頬を涙が伝う。俺は胸を締め付けられながらも、ハンカチを差し出し、微笑んだ。
「そうか。それで俺は振られたのか。もういいんだ。俺こそ、君が辛い時に力になってあげられなくて悪かった。今日、ようやく胸のつっかえが取れたよ」
のぞみは涙を拭い、微笑んだ。
「ありがとう」
その様子を少し離れたところで見ていた天童さんは、ふんわりと頬を膨らませていた。ぷいっと視線をそらすその仕草は、まるで拗ねた子猫のようだった。
「べ、別に気にしてないけどね!」
口を尖らせながらも、耳までほんのり赤く染まっていた。俺はその姿に思わず笑ってしまった。こんな彼女を守りたいと思わずにはいられなかった。

その後、森下部長と岩尾社長は詐欺罪により起訴され、倉崎建設への損害賠償請求にも応じることとなった。難波は暴行罪で罰金刑と会社解雇処分を受ける。愛建設は今回の件を大きく報道されて信頼を失い、半年後に倒産した。数日後、倉崎社長が俺の元を訪れ、深く頭を下げてこう言った。
「10年前、娘のあずさを助けてくれてありがとう。あの時、鈴原さんが声をかけてくれなかったら、今のあの子はなかったかもしれない。私たちにとって、かけがえのない娘なんだ」
俺はゆっくりと笑って答えた。
「困っていたから助けただけです。でも、再会できて幸せそうで良かったです」
それから俺は倉崎建設に招かれ、正式に採用された。天童さんの事務所は、報道が虚偽だったと証明されたことで評判がさらに高まり、彼女が手掛けた近代的な商業施設は大成功を収め、売上は10億円を超えた。

そして2ヶ月後、俺たちは初めて出会ったあの公園にいた。空が赤色に染まり、爽やかな風がそっと頬を撫でる。ベンチに並んで腰を下ろした俺は、静かに深呼吸を一つしてから、天童さんの手をそっと包んだ。彼女の手は少しひんやりしていて、それでもどこか安心する温もりがあった。
「これからも、俺の隣にいてくれませんか?」
彼女は一瞬だけ目を見開いて、それから息を飲むように小さく声を漏らした。
「え?」
驚きに揺れた瞳が、ゆっくりと潤んでいく。やがて彼女は、まるで抱きしめずにはいられないように、俺の胸に飛び込んできた。
「もちろん…嬉しい」
俺の肩に額を寄せながら、彼女は小さく震える声でそう言った。夕日の光を受けて、彼女の左手の薬指に輝く指輪が、キラリとまたいた。あの日、俺と彼女の人生を繋いだ、ダイヤの指輪が。様々な困難を乗り越え、その絆は強く深く結ばれていく。笑顔も涙も、未来も、変わらない思いと共に、永遠に二人で歩いていく。

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