村の広場で、血まみれの女中が地面に力なく座り込んでいた。誰も目を合わせない。誰も声をかけない。ただ一人、見すぼらしい薬草取りの男だけが、震える手で有り金をその場に差し出した。周りの者たちは腹を抱えて笑った。あの汚い男が死にかけの女中を身請けするとは正気か、と。だが誰一人知らなかった。この一瞬の決断が、後に一つの土地を救う鍵を引き金になろうとは。
全ての始まりは、山合の小さな村で起きた一日の出来事であった。
昔々、信濃の深い山合に、さちという薬草取りが暮らしていた。年は三十二。まだ嫁を迎えぬ一人者であった。両親は早くに亡くなり、譲り受けたものといえば、今にも崩れそうな一軒の小屋と、草を見分ける腕一本だけであった。手のひらは木の皮のように固く荒れ、顔は日に焼けて赤黒かった。さちは夜明けと共に背負い籠を担いで山へ入る。運が良ければ柴胡や桔梗の根を、さらに運が良ければ人参の一株を掘り当て、それを町の市で売り歩いた。そうして儲けた銭で、ようやくその日の粥を賄っていたのである。
「さち、お前さん今日も収穫は少ないようだな。」
市の隅で、年寄りの薬種屋の吉兵が声をかけた。さちの摘んだ草を情け深く買ってくれる、数少ない相手であった。
「気候が何問かございます。目をつけてくだされ。」
「良い良い。しかしお前さんもいい年だ。そのまま山で朽ち果てる気か。女房の一人でも持ってこそ、人の暮らしというものだぞ。」
さちは答える代わりに、苦く笑うほかなかった。自分一人の口を養うことさえ精一杯の身の上だったのだ。その日は冬越しの米をまとめて買うつもりで、甕の底に貯めていた銭まで懐に入れてきていた。彼は気候の代金をそこに納め、吉兵と別れて市の奥へ足を進めた。物を売る湯気やら魚売りの声やらで、いつも賑わう市であった。だが、小綺麗な身なりの者たちは、彼をちらりと見ては鼻をつまんだ。さちはそんな扱いに慣れきっていた。ただ黙って自分の分を売り、安い米を買って帰ればそれで良かったのである。
その日はことのほか市が騒がしかった。人々が一箇所に丸くなり、騒めいている。さちが首を伸ばして覗くと、人だかりの真ん中に口入れ屋の男が、札を片手に立っていた。
「さあさあ、良い働き手だ。台所仕事も畑仕事もこなす女子だ。札ごと安く譲るぞ。目のある方は早くお声がけを。」
口入れ屋は声を張り上げたが、人々は舌打ちして通り過ぎていく。それもそのはず。引き出された女中の有り様は、目も当てられぬほどのものであったからだ。女中は地面に膝をついて座り、頭を垂れていた。顔と言わず、首と言わず、傷だらけで、かわいそうにしか見えなかった。
「あんなものが引き取れるか。まともな肌が残っておらん。」
人々が囁き合ったところが、不思議なことに、あれほど打たれて引き出されながら、女中は身をよじりもせず、涙一粒も見せないのである。ただ口を固く結び、地面の一点をじっと見つめているだけであった。口入れ屋が女中の背を足先で小突くと、女中はゆっくりと顔を上げた。血にまみれたひどい顔であったが、その両の目だけは違っていた。死んだ目ではない。むしろ静かに鋭く光っていた。まるでこの世の全ての屈辱を心の奥に刻みつけようとするものの目差しであった。
さちはその目を見て、思わず足を止めた。胸の奥が冷やりとした。なぜかは分からない。ただ、あの目差しをこのまま見過ごしてはならぬという、妙な予感がしたのである。
「この女子の札ほどで、譲ってもらえるのか。」
さちが不意に口を開いた。口入れ屋は彼を上から下まで眺め回すと、鼻で笑った。
「ふん。薬草取りの不器量が、銭など持っておろうか。知った風な口を聞くな。」
「札の値は幾らかと聞いたのだ。」
さちの声が低く沈んだ。口入れ屋はしぶしぶ答えた。
「身請け金は三貫だ。厄介払いとはいえ、まだ働ける女子だからな。」
さちは懐から、埃だらけの銭袋を取り出した。冬越しのために貯めてきた、彼の全財産であった。
「三貫しかない。これで、札と引き取らせてくれ。」
その瞬間、市は笑いの渦に包まれた。
「あの薬草取り、頭がおかしくなったんじゃないか。」
「残金あれば米が買えるというのに、あんな死にかけの女中の札を引き取ろうとは。」
「自分の口さえろくに養えぬくせに。」
人々は指を差して勝手に笑った。さちの耳がカーッと熱くなった。だが彼は、口入れ屋が、どうせ他に引き取り手の付かぬ札だと思ったのか、しばし考えると、銭袋をひったくった。
「今日はついてない日だ。女ごと連れて行け。後から銭を返せなどと言うなよ。」
こうして女中は、さちの元で働くこととなった。周囲の笑い声が響く中、さちは女中に歩み寄り、手を差し出した。
「立ちなされ。参りましょう。」
女中はその手を取らなかった。たださちの顔をじっと見上げるばかりであった。どういう了見で自分の札を引き取ったのか、値踏みするような目差しであった。無理もない。男が女子の札を引き取るのには、大抵、よからぬ心があるものだ。さちはその目差しを読み取ったのか、淡々と言った。
「欲はない。ただ、あの目を見過ごして帰れば、一生気がかりになりそうだったのでな。不自由はさせぬようにしよう。それだけのことだ。」
女中はしばらくそうしてさちを見つめていたが、やがて自ら体を起こした。痛そうにしながらも、人の手を借りようとはしない。その姿には、札と引き取られる女中とは思えぬ、不思議な気高さがあった。さちはそんな女中を連れて、山道を登った。日が西に傾きかけていた。
「名は何と言うのか。」
さちが尋ねると、女中はしばらく答えなかったが、やがて低い声でようやく口を開いた。
「おふ、と呼ばれておりました。」
「おふか。ならばおふ、と呼ぼう。」
さちはそれ以上、深く詮索しなかった。呼ばれていたという言葉には、どこか引っかかるものがあったが、人にはそれぞれ、言えぬ事情があるものだと思ったのである。彼は先に立って歩きながら、おふが遅れぬよう歩幅を緩めてやった。山の小屋に着いた時には、すでに薄暗くなっていた。さちはかまどに火を入れ、米の飯を炊いた。塩漬けの山菜が少しあるだけの、実に粗末な膳であった。それでも彼は、飯を茶碗に山盛りにして、おふの前に置いてやった。
「どうぞ、お食べなさい。いくらか食べておらぬようだ。」
おふは茶碗を見下ろすばかりであった。そのうち、大きな目から大粒の涙がこぼれ落ち始めた。あれほど打たれても泣かなかった人だというのに。
「どうなされた。飯が悪かったか。」
さちが慌てて尋ねると、おふは首を振った。
「いえ。ただ、誰かがこうして飯を持ってきてくれたのが、あまりに久しぶりで。」
その言葉に、さちは何も言えず、ただおふが飯を食べる様子を見守った。おふはガツガツとは食べなかった。飢えていたはずなのに、箸を動かす指先が不思議なほど落ち着いていた。さちはそれを見て内心首をかしげた。長らく下働きをしてきた者の手つきではない。飯を食べ終えたおふは、空の茶碗を両手で丁寧に重ねた。そしてさちに向かって静かに頭を下げた。
「拾っていただき、ありがとうございます。」
その挨拶の仕草に、さちはしばし戸惑った。下働きの者がようにへこへこするのではない。まるで客人が主人に礼を尽くすように、背筋を伸ばしたまま頭を下げるのであった。
「礼など良い。ただ飯を一飯、振る舞ったまでだ。」
さちは照れ臭そうに手を振った。その時、ふと、おふの手を見た。打たれてあちこちに痣や傷があったが、指は細く長かった。荒仕事を長くしてきた者の手ではない。さちは不思議に思いながらも、あえて尋ねなかった。人の事情は、むやみに探るものではないからだ。
夜も更けた。
「休みなされ。明日には、傷に効く薬草も探してみよう。」
「薬草を、ご存知なのですか。」
おふが初めて、さちに何かを尋ねた。さちはにっこり笑った。
「それはもう。この山に生える草なら、大抵は分かる。傷によく効くものも、いくつかある。案じるな。」
おふの目がわずかに揺れた。薬草を知るというさちの言葉に、何か思い当たることがあるようであった。だが、その思いを口にすることはなかった。おふはただ、「はい」と短く答えるのみであった。
その夜、さちはおふに部屋を譲り、自分は囲炉裏の前で寝た。山風が隙間から忍び込む寒い夜であった。だが、さちの胸の奥は不思議と温かかった。長らく一人きりであった小屋に、初めて人の温もりが宿った夜であったからだ。
しかし、さちは知らなかった。厄介で札を引き取ったこの女中が、実は町一つをひっくり返すほどの秘密を抱えた者であることを。そして、その秘密が、この山の小屋から少しずつ明かされようとしていることを。
翌朝、さちがいつものように目を覚ますと、台所から微かに音がする。目を擦りながら台所へ出てみると、驚いたことに、おふはすでに起き出し、かまどに火を入れていた。まだ体も十分に癒えぬはずなのに。
「もうすぐ飯が炊けます。」
おふは淡々と答えた。さちは止めようとしたが、やめておいた。おふの手つきが、あまりに堂に入っていて、むしろ自分より暮らし向きに長けているように見えたからである。だが、不思議なことがあった。飯を盛り、葉物や山菜を整える所作が、並の者とは違っていたのだ。足を置く場所一つまで整っており、山菜を盛る小皿一つにも心が込められていた。さちは飯を受け取りながら、思わず尋ねた。
「おふ、お前さんはどこぞの大きな家で、行儀を仕込まれたのか。」
おふの手が一瞬止まった。だが、すぐに何でもない風を装って答えた。
「あれこれ、指図を受けるうちに、身で覚えたのでございます。」
さちはそれ以上、尋ねなかった。だが、心の隅には依然として、解けぬ疑問が残っていた。行儀が良すぎる。さちは山から取ってきた薬草で、おふの傷を心を込めて手当てした。トキを摩り下ろして塗り、ヨモギを煎じて飲ませた。その甲斐あって、おふの背中の傷は日に日に癒えていった。晴れ上がり、引き攣れた肌にも、新しい肌が現れ始めた。
そんなある日、さちが山から早く帰ると、おふが谷川で顔の血の跡を洗い流していた。その下から現れたのは、雪のように白い肌と、秋の水のように澄んだ目差しを持つ、思いもよらぬ美しい顔であった。
「見てはならぬものを。」
さちは顔を真っ赤にして背を向けた。だが、胸のうちにはただ一つの疑問が渦巻いていた。これほど気高い顔立ちが、なぜ女中となって市に出されていたのか。その晩、さちは膳の前で控えめに口を開いた。
「おふ、一つ尋ねてもいいか。」
おふは顔を上げずに答えた。
「お聞かせください。」
「お前さんは、一体どうして女中になったのだ。見たところ、お前さんはただの者ではなさそうだが。」
おふの指が僅かに震えた。沈黙が流れた。さちは、余計なことを聞いたかと後悔が押し寄せた。その時、おふがゆっくりと口を開いた。
「私の話をお聞きになれば、あなた様も私を見放されるでしょう。」
「見放すだと。わしはただの薬草取りだ。そのようなことはありえぬ。」
さちが手を振ると、おふは苦く笑った。
「ご覧の通り、私は打たれて札を売られた身でございます。それ以上は、今は申しません。ただ一つ、私は罪を犯して女中になったのではございません。それだけは、信じてくださいませ。」
さちは、その言葉に込められた重みを感じた。悔しさが染み込んだ、掠れた声であった。彼はそれ以上問わず、頷いた。
「それは分かる。お前さんの目を見れば分かる。罪を犯した者の目ではない。」
おふは初めて、さちをまっすぐに見た。その目に、涙の膜が張った。長い年月、誰も自分の言葉を信じてくれなかったのに、この山の男は、無条件に信じてくれるのであった。
そうして、さらに幾日か過ぎると、おふの体もすっかり良くなった。傷が癒え、顔に血の色が戻ると、元々の凛とした気品がはっきりと現れた。さちは山から降りてきて、庭先で洗濯をするおふの姿を見て、思わず手を止めて見惚れることがあった。そして、おふと目が合うと、慌てて顔をそらし、咳払いをした。
「うむ。蕎麦を少し摘んできた。夕飯に焼いて食べよう。」
「はい。洗ってまいります。」
おふが微かに笑って答えた。その微笑みを見るたび、さちの胸は訳もなく高鳴った。さちは、そんな自分の心が自分でも不思議であった。それまで一人で暮らし、女に心を寄せたことなど、一度もなかったのだから。夕方になると、二人は囲炉裏端に向かい合って座り、蕎麦を焼いて食べた。小屋には途切れることなく、他愛のない会話が響いた。いつしか、二人の間には言葉では言い尽くせぬ温かな情が芽生えていた。
翌日から、おふは本格的にさちの薬草仕事を手伝い始めた。ある日、さちが取ってきた草を前に頭を悩ませていた。それが何の薬草か、どう使うものか分からなかったのである。それを見たおふが、静かに近寄ってきた。
「それは当帰でございます。血を補い、体を温めるのに用います。根を乾かして煎じれば、婦人にことのほか良いのです。」
さちは驚いた。
「お前さん、どうしてそれを知っているのだ。」
「以前、医書を少し詠んだことがございます。」
おふはそう答えるのみであったが、さちはこれ以上尋ねず、いつか自ら語る日が来ると信じて待つことにした。おふの薬草の知識は驚くべきものであった。
「この柴胡は、そのまま売れば二文です。しかし、それを丁寧に乾燥させ、上等なものとして出せば、数倍の値が付きます。体を冷やす熱に効くというので、武家のお屋敷でも求める方が多いのです。」
おふの言う通りにしてみると、なるほど薬草は数倍の値で売れた。さちが気候の束を市に並べると、通りがかった武家の使用人がすぐに買い求めた。
「これはいい。どこで手に入れたのか。我が家の薬園にちょうど良かろう。ある分だけくれ。」
さちは面食らった。いつも二文、三文で手放していた草が、これほど大事にされようとは。その日、さちは空のではなく、ずしりと重い銭袋を下げて山を登った。市でさちを笑っていた者たちも、目を丸くした。
「あの薬草取り、近頃、品物が良くなったな。何か秘訣があるのか。」
「さあな。少し前までは見窄らしかったが、近頃はまるで別人だ。」
さちの暮らし向きは見る間に良くなっていった。甕の底に銭が積もり始め、膳に魚の一匹が並ぶ日も出てきた。
「おふ、お前さんのおかげで、わしも人らしい暮らしができるようになった。これもみな、お前さんのおかげだ。」
さちが嬉しそうに笑うと、おふも穏やかに微笑んだ。だが、二人の関係が深まるほど、おふの心の奥底には、未だ拭い去れぬ影が差していたのである。夜になると、おふは密かに懐から何かを取り出しては見つめていた。古い布に幾重にも包まれたそれを、おふは大切そうに撫でていた。そして、歯を食い縛りながら、誓うように呟くのであった。
「お父上様、今しばらくお待ちくださいませ。私は必ず、必ずこの汚名を晴らしてご覧に入れます。」
おふの両の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙には、深く染みついた恨みと、必ずやり遂げるという硬い決意が込められていた。
一方、おふが札を売られたその土地には、桑原伝兵衛という大官がいた。表向きは清廉な役人を装っていたが、内実は在民を苛み、力なき者を踏みにじるものであった。伝兵衛はこの日も役所で手下たちを呼び集め、密かに差し図をしていた。
「あの女中を探し出せ。父が残した証のありかを知っているのは、あの女だけだ。あの女が生きている限り、わしは枕を高くして眠れぬ。見つけ次第、証を奪わせ、誰にも知られず始末せよ。分かったな。」
伝兵衛の目に、凶光が閃いた。だが、その訳を知る者は、未だ誰もいなかった。山の小屋のさちも、世間の誰一人としても。
そんなある日、さちが久しぶりに薬種屋の吉兵を尋ねると、思いがけぬ知らせが待っていた。良い薬草が取れたので、良い値をつけてもらう心算であったが、吉兵はさちの顔を見るなり、ただならぬ様子で彼を店の隅へ連れて行った。
「さち、お前さん。近頃、女中を連れて暮らしているという噂を耳にしたが、誠か。」
「ええ。市で打たれていた女子の札を、一つ引き取りました。それがどうかしたのですか。」
吉兵は辺りを伺ってから、声を落とした。
「気をつけろ。この辺りを、役所の者が人を放って、ある女中を探しているという話が回っておる。新しく来た大官の伝兵衛殿が、ひどく気にしているそうだ。もしや、お前さんが連れてきたその女ではないかと思ってな。」
「役所の者が人を放つとは、それはどういうことですか。」
「さあな。表向きは商人や旅の者を装いながら、あちこちの村を回って、その女中の行方を嗅ぎ回っているという話だ。少し前にも、見知らぬ男が我が店に立ち寄り、若い女中を見かけなかったかと、しつこく尋ねてきた。わしは知らぬ顔を通したがな。」
さちの背筋に、冷たいものが走った。
「大官が、なぜ女中一人を探すのですか。」
「わしにも分からぬ。ただ、尋常のことではないのだけは確かだ。役所がそこまで人を放つほどなら、何か大きな企みがあるに違いない。お前さん、くれぐれも身を慎しめよ。」
さちは重い心持ちで山を登った。おふが只者でないことはとうに察していたが、大官が探すほどの事情があるとは、思いもよらなかったのである。小屋に戻ったさちは、おふと向かい合って座った。
「おふ、もうお前さんの話を聞かせてもらわねばならぬ。役所がお前さんを探しているという。大官の、桑原伝兵衛という者がな。」
伝兵衛という名を聞いた瞬間、おふの顔は蝋のように白くなった。
「あの者が、ついに私を探し当てたと申しますか。」
「知っておるのか。」
「存じております。私をここまで追い詰めたのは、あの男でございます。」
「ならば、話してくれ。さもなくば、わしはお前さんを守れぬ。」
おふはしばらく躊躇っていたが、ついに固く閉ざしていた口を開いた。長い年月の奥に埋めていた話が、堰を切ったように溢れ出し始めた。
「私の父は、この土地の大官、桐山兵衛でございました。」
さちは自分の耳を疑った。
「父は清廉なことで知られ、貧しい者には蔵を開いて分け与える、情け深い法執でございました。ところが、まさにその情けが災いの種になったのでございます。伝兵衛は、本来、父の下にいた一介の手代に過ぎませんでした。表向きは真面目を装っておりましたが、内心では父の座を狙っておったのです。あの者は密かに役所の米を横流しし、その罪を父に着せ、盗んだ米の一部を元に上役へ賄賂を送って、自ら大官の座に収まったのでございます。」
「何と、腑甲斐ないやり方だ。米を盗み、その盗んだ金で己れの出世まで買うとは。」
さちは思わず拳を握りしめた。
「上役が内密に調べに入ったこともございましたが、伝兵衛が前もって手を回していたため、父は身の潔白を証明せぬまま、罪人に落とされました。大袈裟に言えば、米を横流しした罪人として、役目を剥ぎ取られ、遠島へ流されたのでございます。財産は全て没収され、私は一夜にして罪人の娘となり、札を売られる身の上となりました。」
「だが、伝兵衛はどうして今なお、お前さんを探し続けるのだ。すでにお前さんの父上を失脚させれば、それで済んだはずではないか。」
おふは懐から古い布を取り出した。幾重にも包んだそれを慎重に解くと、中から古びた證文一通と、小さな印判が現れた。
「これは父が教えてくださった隠し場所から、私自身が密かに取り戻したものでございます。伝兵衛が米を横流しした証と、その罪を余すところなく記した密書でございます。そして、この印判は、伝兵衛が帳簿を偽造する際に用いた、偽の役印でございます。」
さちの目を見開いた。
「では、それさえあれば、お前さんの父上の無念を晴らせるということではないか。」
「左様でございます。ただ、これをむやみに差し出せば、私の命はおろか、父の命さえ危うくなります。伝兵衛はこの土地の大官として、上役にまで賄賂を送り、容易には手出しのできぬ立場を築いております。生半可に訴え出れば、逆に証を奪われ、私だけが殺されましょう。それゆえ、私は機を待っておりました。」
「必ずこの無念を晴らせる。その日をおふは待っていたのか。」
「はい。伝兵衛が私を探すのも、まさにこれ故でございます。この証が表に明るみに出る日、あの者は終わりでございますから。それゆえ、私を探し出し、これを消し去り、私自身も消し去ろうというのでございます。ですが、この証だけでは足りませぬ。」
おふが涙を拭いながら言った。
「どうして足りぬのだ。伝兵衛の罪が、ここに余すところなく記されておるではないか。」
「これは父の筆による密書に過ぎませぬ。伝兵衛は、罪人が恨みを晴らそうと作り上げた偽りだと言いはるでしょう。ですから、この密書の内容が真実であることを裏付ける、別の者による証拠が要るのでございます。例えば、伝兵衛が米を横流ししており、その手伝いをした者たちの証言、のようなものが。」
さちは頷いた。おふの頭の中には、隙のない筋道がすでに組み立てられていた。なるほど、医書を読み、暮らし向きを切り盛りしてきた聡明さが、こういう時にこそ現れるのであった。
「ならば、その証人を探せば良いのだな。伝兵衛の手伝いをした者たちの中にも、良心が咎める者が一人くらいは居よう。」
「まさにそれでございます。しかし、そのような者を探し出すのは、容易いことではございませぬ。伝兵衛の目を避けて、密かに動かねばなりませぬから。」
「わしに任せてくれ。」
さちが胸を叩いた。
「わしは学はないが、この辺り一帯を薬草を売って歩いてきた。市で探れば、何か手がかりが見つかるかもしれぬ。」
おふは、さちの頼もしい言葉に、少し心が軽くなった。一人で背負っていた重荷を、今は分かち合える者ができたのである。さちはしばらく黙って座っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「わしは無学な薬草取りだが、正しいことと間違ったことの見分けはつく。お前さんの父上は、罪などない。その無念、必ず晴らさねばならぬ。何があろうと、わしが手伝う。」
おふは、思いがけぬ言葉に、さちを見つめた。
「どうして、私のために、そのような危ない橋を渡ろうとなさるのですか。」
「わしには難しいことは分からぬが、あの日の、お前さんの目を見れば分かった。罪を犯した者の目ではない。」
その言葉に、おふはとうとう涙を溢れさせた。その日から、二人は心を一つにし、伝兵衛の悪業を世に暴くための、険しい道を共に歩むと決めたのである。
その夜、さちは小屋の戸締まりを固く施した。おふには何も知らせなかった。無用に怖がらせたくなかったのである。だが、彼の手には、いつしか小さな刀が握られていた。
「おふ、これからは昼間も、むやみに外へ出てはならぬ。水はわしが組んでこよう。もし見知らぬ者が来たら、裏口から山へ身を隠すのだ。」
「分かりました。」
おふは、さちの張り詰めた顔を見て、何かただならぬことを感じ取った。
「何か、ございましたか。」
「いや、用心しようというだけだ。」
さちは無理に笑って見せたが、その胸の内には雲が垂れ込めていた。吉兵の言葉が、絶えず耳の奥で響いていたのである。そして、まさにその頃、伝兵衛が放った密偵が、ついにさちの小屋がある山の裾に足を踏み入れようとしていた。古びた笠を被ったその男は、麓の村をこう訪ね歩いていた。
「その山に住む薬草取りが、少し前に若い女中を連れてきたと聞いたが、その小屋はどの辺りか。」
数日後、さちは薬草を売りに山を降り、思いがけぬ知らせを耳にした。見知らぬ男が村を回り、自分の小屋を探し回っているというのである。さちは胸が凍りついた。吉兵の言っていた密偵に違いなかった。さちは急いで山を登った。幸い、小屋に着くと、おふは無事であった。だが、さちの顔を見るなり、おふはすぐさま何かが起きたと察した。
「密偵が、近くまで来ておる。もう、ここも安全ではない。」
おふの顔が青ざめた。
「ならば、私が去りましょう。私ゆえに、あなた様まで災いに巻き込まれるわけには参りませぬ。」
「何を言う。お前さん一人で、どこへ行くというのだ。密偵に捕まれば、それまでだ。ここにいても、いずれ見つかる。共に逃げるぞ。」
さちは断固としていった。
「この山を越えれば隣の国だ。そこに、知り合いの者が一人住んでおる。しばらく身を寄せられよう。さあ、荷物をまとめなされ。」
二人は急いで荷物をまとめた。その時であった。さちが荷物をまとめるうち、古い布に包んだ品を一つ、落としてしまった。転がり出たのは、梅の紋が彫られた小さな根付であった。おふはそれを見て、その場に凍りついた。
「その根付、どこで手に入れたのですか。」
おふが震える声で尋ねた。
「数年前、わしの命を救ってくれた旅人が、残していったものだ。」
おふは震える手で、その根付を拾い上げた。おふの両の目から、涙が溢れ出した。
「これは、これは父の根付でございます。この梅の紋は、我が家の家紋にございませぬ。」
今度は、さちが凍りつく番であった。数年前、川に飲まれて死にかけていたさちを、一人の学者風の男が命がけで救い上げた。男は数日間、傷の手当てを自分の家で施し、別れ際に、この根付を握らせて、こう言った。
「わしがお前に望むことは何もない。ただ、いつか本当に助けが要る者に出会った時、この根付をくれた者のことを思い出してくれれば、それで良い。」
その学者こそ、おふの父、桐山兵衛、その人だったのである。
「なんということだ。こんなことがあって良いものか。」
さちは全身に鳥肌が立った。自分の命を救ってくれた、あの恩人の娘を、自分は何も知らぬまま、札を引き取っていたとは。
「これが、どうして偶然と言えましょうか。父があなた様の命をお救いしたのですね。そして、あなた様が私を救ってくださったのですね。」
おふがすすり泣きながら言った。
「これはきっと、天のお導きでございます。」
もはや、さちにとって、おふを救うことは、ただの情けではなかった。命を救ってくれた恩人への、果たすべき恩返しとなったのである。
「わしは、命に代えても、必ずおふの父上の濡れ衣を晴らして見せる。」
さちの両の目に、硬い決意が燃え上がった。
「どうか、お嬢様などとお呼びにならないでくださいませ。以前のように、おふと。」
おふがそう言うと、さちはふっと笑った。
「そうか。ならば、おふ。」
その夜、二人は密偵の目を避けて山を越えた。隣の国に着くと、さちは知り合いの老人の家におふを預け、再び蓑と笠を身につけた。
「どちらへ参られるのですか。」
おふが驚いて尋ねた。
「商人を探しに参る。伝兵衛が米を横流ししており、それを手伝った者たちのことだ。おふが言ったであろう。密書だけでは足りぬと。あの密書の内容を裏付ける、生きた証人が要るのだ。」
「ですが、見つかる前に、あなた様が捕まってしまわれたら。」
「案じるな。わしはただの薬売りに過ぎぬ。誰がわしを疑おう。むしろ、おふはここに息を潜めておられよ。必ず、良い知らせを持って戻る。」
さちはおふを安心させると、旅立った。その足は、伝兵衛が治める土地へと向かっていた。虎を捕らえるには、虎の穴へ入らねばならぬ。さちは危険を承知の上で、敵の懐へ飛び込もうとしていたのである。
伝兵衛の土地に着いたさちは、以前のように薬草の束を背負い、市を回った。表向きはただ品物を売る風を装いながら、それとなく人々の話に耳を済ませた。数日、そうして慎重に聞き回るうち、さちはある老人から、耳寄りな話を聞くことができた。
「昔、役所の倉役をしていたという者が、急に役所をやめて、山裾の外れた村に引きこもって暮らしておるという話だ。」
倉役であれば、伝兵衛が米を横流しした一件に、必ず関わっていたはずである。さちは数日かけて、慎重に足取りを探りながら、その鄙びた村へと足を急がせた。村には、果たして惣介という男がひっそりと暮らしていた。今にも崩れそうな粗末な小屋で、病んだ体で、細々と命をつないでいた。
「薬草など要らぬ。帰ってくれ。」
初め、惣介はさちを極度に警戒したが、さちがしばらく真心を持って世話をするうち、固く閉ざしていた心も少しずつ開き始めた。
「どうして、このような山奥に隠れ住んでおられるのだ。」
さちがそれとなく尋ねると、惣介の顔に暗い影が差した。
「罪を犯したのだ。洗い流せぬ罪をな。」
しばらく躊躇っていたが、ついに思い切って口を開いた。
「わしは、幾星霜か前、この土地の役所で倉役をしていた。その頃の大官様、桐山兵衛様は、誠に清廉で情け深い方であった。ところが、その下に伝兵衛という手代がいてな、その者がひどく横暴な男であった。伝兵衛がわしを脅したのだ。村の米を密かに横流しする手伝いをしろと。断れば、家族の命が危ないと脅されて、どうにも仕方がなかった。わしは伝兵衛の言いなりに、夜な夜な米を運び出しては別の場所に移し、帳簿を偽り、まるで初めから米などなかったかのように取り繕った。ところが伝兵衛は、その罪を全て、兵衛様に着せてしまった。あの情け深い方が、大袈裟に言えば米を横流しした罪人として、流罪にされてしまったのだ。わしはそれを見ていながら、伝兵衛が恐ろしくて、我が命が惜しくて、口を噤んだ。その罪の意識に、夜も眠れず、とうとう病まで得て、このあり様よ。」
惣介は両手で顔を覆って、泣き崩れた。
「あの情け深いお方を罪人にしたのは、他ならぬこのわしだ。この罪を、どう洗い流せば良いのか。」
さちは、惣介の肩を掴んだ。
「旦那。その罪を洗い流す道がある。」
「なんと申された。あの大官様の無念を晴らす道があると申すのか。」
「旦那が、証人として名乗り出てくださるならば、必ず。」
惣介は驚愕した。
「お、お前は、一体何者だ。」
さちは自分が何者であり、おふが生きて父の無念を晴らそうとしていることを、一つ残らず打ち明けた。惣介は長らく無言であったが、ついに顔を上げた。
「やろう。証人として名乗り出よう。死ぬ前に、その罪だけでも洗い流さねば、あの世であの方に合わせる顔がない。」
さちは惣介の手を固く握った。
「片付けない。誠に、片付けのございます。旦那。」
こうして、さちは決め手となる証人を得たのである。さちは惣介を助け起こしながら、隣の国へと向かった。病んだ体ゆえ、歩みは遅かったが、さちは惣介を労わりながら山道を急いだ。さちの胸には、ようやく一条の望みが見え始めていた。これで良い。密書と印判に、惣介の証言まで加われば、伝兵衛もいよいよ逃れられまい。兵衛様も、間もなく濡れ衣を晴らしてお戻りになろう。さちの足取りは、これまでになく軽かった。全てが順調に運ぶように思われた。
隣の国に着いたさちは、老人の家で心配しながら待っていたおふと再会した。
「ご無事でございましたか。私がどれほど案じたことか。」
おふが走り寄ってきた。さちは明るく笑いながら、惣介を差し示した。
「おふ、この方が、伝兵衛の罪を証言してくださる証人でござる。役所で倉役をしておられ、伝兵衛が米を横流しするのを、共に手伝わされたお方でございます。」
惣介はおふを見るなり、その場にがっくりと膝をついた。
「おお、お嬢様。拙者は、死んで詫びるべき罪を犯しました。拙者が、あの方を罪人に仕立てた張本人でございます。どうか、どうか、この拙者をお許しにならず、この命で罪をお詫びくださいませ。」
惣介は地に額を擦りつけて、泣き崩れた。おふは、思いがけぬ光景に、しばし言葉を失った。父を罪人に仕立てた者が、目の前にいるというのに。だが、おふは彼を恨むどころか、むしろ手を差し伸べて、助け起こした。
「旦那様、お立ちくださいませ。過去を悔い、今からでも真実を明らかにしようとしてくださるなら、それで良いのでございます。旦那様の証言こそ、父の無念を晴らす、最後の鍵でございます。」
おふの広い心に、惣介は一層激しく泣いた。その夜、三人は囲炉裏を囲みながら、今後の算段を練った。もはや証拠も証人も揃った以上、残るはこれをどこに、どう訴えるかであった。
「伝兵衛はこの土地の大官でございます。この土地の役所に訴えても、無駄でございましょう。」
おふがはっきりと言った。
「伝兵衛より上の、巡行様に直に訴え出る他ございません。ちょうど、間もなく巡行様がこの地方を巡回なさるという噂がございます。その折を狙い、巡行の御前で、直に証を差し出すのです。」
さちと惣介は、おふの隙のない策に感嘆した。さすがは、情け深い大官の娘であった。三人は、巡行様が回られる日を待つことにした。ようやく道が開けたかに思われた。だが、まさにその時、全てを覆す恐ろしい影が忍び寄っていたのである。さちが惣介を連れてくる道すがら、伝兵衛の放った密偵が密かに跡をつけ、ついにおふの隠れ場所まで突き止めてしまったのであった。
「見つけたぞ。あの女は、あの家に隠れておったか。すぐさま頭領にお伝えせねば。」
密偵はほくそ笑みを浮かべ、闇の中へ消えていった。三人が勝利を確信しながら眠りに着いたその夜、危機は音もなく、彼らの目前まで迫っていたのである。
その夜が更けた頃であった。突如、外で松明が燃え上がった。伝兵衛の放った手下たちが、老人の家を、行く行くも取り囲んだのである。
「この家に罪人が隠れておる。一人も逃すな。残らず捕らえよ。」
手下たちの怒号に、三人は眠りから覚めた。さちは跳ね起き、窓の隙間から外を窺った。家はすでに、完全に包囲されていた。
「おふ、早く裏口から身を隠しなされ。密書と印判を持っていけ。」
さちが慌てて叫んだ。だが、すでに裏口にも手下が待ち構えていた。逃げる道は、どこにもなかった。手下たちが戸を破って踏み込んできた。もはや抗う術もなく、三人は捉えられ、縄をかけられてしまった。そして、その後ろから、伝兵衛がいやらしい笑みを浮かべて、姿を現した。
「ほう。これはこれは、鼠どもを一網打尽にしたわ。」
伝兵衛はおふを見ると、嘲弄を込めた笑みを浮かべた。
「久しいな。人の娘。生きておって、このようなことを企んでおったとは。父親に似て、実に恐れ知らずよな。」
「天罰が下るぞ、伝兵衛。お前が犯した罪を、天が見ておらぬはずがない。」
おふが縄に縛られたまま、伝兵衛を睨みつけて叫んだ。
「天罰だと。この土地では、わしこそが天よ。それより、お前がそれほど大事に隠し持っておったものは何だ。見せてもらおうか。」
伝兵衛の手下がおふの懐を探り、密書と印判を取り出した。それを受け取った伝兵衛の顔が、初めて歪んだ。
「この密書。これを持ち出しておったか。今の今まで、これを隠し持ってわしを狙っていたというわけか。」
伝兵衛は密書と印判を握りしめ、ぶるぶると震えた。だが、すぐに残忍な笑みを取り戻した。
「しかし、もはやこれも無駄なことよ。この証を焼き捨てて、お前たち三人を消してしまえば、それで終わりだ。死人に口なし、と言うではないか。」
伝兵衛は手下たちに命じた。
「この三人を牢へ入れておけ。そして、誰にも知られず処分する用意をせよ。この証は、わしが自らこの手で焼き捨てる。」
伝兵衛はその場で、密書を火鉢へ投げ込み、紙が黒く炭になるまで見届けた。さらに、偽の印判も金槌で叩き割り、破片を火鉢へ放り込んだ。
「これでもう、案ずることは何もない。後は、静かに始末をつけるだけよ。」
全てが、自分の思い通りに運んだと思っていたのである。だが、その油断こそが、やがて自分の首を絞めることになろうとは、伝兵衛は夢にも知らなかった。
一方、三人は役所の真っ暗な牢に押し込められてしまった。密書は焼かれ、偽の印判も砕かれた。せっかく集めた証拠も、何の役にも立たなくなったかのように見えた。牢の中で、惣介は絶望に泣き崩れた。
「もはや、終わりでございます。伝兵衛のあの者に、どうして勝てましょうか。」
さちも、また辛い心持ちであった。
「すまぬ。わしが惣介殿の行方を探したばかりに、密偵に跡をつけられ、このようなあり様になってしまった。全て、わしのせいだ。」
だが、おふは静かに首を振った。
「いいえ。まだ終わってはございませぬ。伝兵衛は、密書を焼き、印判まで壊せば、全て終わったと思っていることでございましょう。ですが、まだ最後の一手がございます。私はこれまで、夜な夜な父の密書を開き、何度も読み返し、その内容を一文字も違わず暗誦しております。密書が焼かれてしまうとも、私の頭の中には、その全てがそのまま残っております。」
さちと惣介は、驚いておふを見つめた。
「惣介殿。あの、お前さんが押した帳簿は、本当に全て焼かれたのでございますか。」
惣介はハッとした顔になった。
「いや、一冊だけ、蔵の床板の下へ隠しました。どうしても焼くことができなかったのです。」
「それがあれば、まだ戦えます。」
おふの声に力が戻った。
「巡行様が回られるその日、私たちがこの牢を抜け出し、御前で出ることさえできれば、私の暗誦と惣介殿の証言、そして、あの偽の帳簿さえあれば、伝兵衛は逃れられませぬ。」
ただ、問題はこの頑丈な牢を、いかにして抜け出すかということであった。その時、牢を見張る牢番の一人が、そっと近づいてきた。
「お嬢様。拙者の父が流行病で死にかけた時、大官様が蔵を開いてお救いくださいました。拙者は、その恩を片時も忘れたことがございませぬ。あの方のお嬢様が、このようなところに囚われておられるとは。拙者がお助けいたします。」
牢番は密かに、牢の鍵を渡してくれた。
「片付けない。この恩は、忘れませぬ。」
おふの両の目に涙が浮かんだ。牢番に導かれ、三人は見回りの足音に息を潜めながら、暗い役所の裏手を抜けて、蔵へと忍び込んだ。惣介が震える手で床板の下を探ると、しばらくして、指先に古びた帳簿の束が触れた。
「これでございます。伝兵衛があの時、偽って記した帳簿は、まさにこれでございます。」
さちは、その帳簿を懐の奥深くに仕舞い込んだ。三人は闇に紛れて、役所を抜け出した。
翌朝、三人の脱獄と帳簿の紛失を知った伝兵衛は、居ても立ってもいられず、手の者を放った。三人は山中に身を潜め、逃亡と飢えが重なり、さちの体も限界に近づく中、追手を避けながら、気力を振り絞り、巡行様が来るその日をひたすら待ち続けた。残るは、巡行様の御前で、伝兵衛の罪を白日のもとに晒すことだけであった。
巡行様が来る日の夜明け前、三人は旅人の装いに紛れて山を下り、おふは深く笠を被って、道中に集まる人々の中へ身を潜めた。ついに、巡行様がこの地方を回る日が来た。巡行様とは、諸国を巡って役人たちの善悪を見定める、大官よりもはるかに高い役目であった。その行列が通る大通りには、見物に出た民衆で、余地もないほどであった。
その時であった。おふが人垣を掻き分けて飛び出し、巡行様の駕籠の前に身を投げ出した。
「巡行様、無念の訴えがございます。どうか、この罪人の娘の申すことを、お聞き届けくださいませ。」
駕籠が止まり、護衛がおふを引きずり出そうとした。だが、巡行様が手を上げて、それを制した。
「よい、控えよ。いかなる事情か、聞いてみようではないか。面を上げよ。」
おふは顔を上げ、はっきりとした声で訴え始めた。
「私の父、桐山兵衛は、以前この土地の大官を務めておりました。清廉にして情け深い役人でございました。ところが、父の下に仕えておりました伝兵衛という手代が、役所の米を横流しし、その罪を父に着せて、流罪に追い込んだのでございます。私は今日、この無念を晴らすため、御前に罷り出ました。」
見物していた民衆が、ざわめいた。巡行様を出迎えるために控えていた伝兵衛は、おふの姿を見るなり、顔色を失った。
「士様、あの娘は罪人の娘で、恨み言を申して偽りを申しておるのでございます。あのような、正気を失った娘の言葉を、どうしてお信じになりましょうや。」
伝兵衛が慌てておふを非難すると、巡行様が眉を潜めて尋ねた。
「では、そなたの申すことが誠だという証はあるのか。ただの言葉だけでは、罪は問えぬぞ。」
まさにその時、さちが前に進み出た。
「証はございます。巡行様。」
さちは懐から、偽の帳簿を取り出し、両手で捧げ出した。
「これは当時の役所の帳簿でございます。押されておる印は、伝兵衛の役印を似せて作られたものでございますが、よく見れば、紋の一部がわずかに異なっております。惣介殿によれば、伝兵衛が帳簿を偽るために掘らせた印とのことでございます。」
巡行様が帳簿を受け取り、随行の役人に、役印の控えと照らし合わせるよう命じた。果たして、帳簿に押された印は、正式な役印とは微妙に異なっていた。巡行様の顔が、険しくなった。
「これは、どう説明するのだ。」
伝兵衛の顔が、真っ白に凍りついた。彼はてっきり、惣介がその帳簿を焼き捨てたものと思い込んでいたのである。
「それは偽りのものでございます。この者どもが、拙者を落とし入れようと企んで作り上げたのです。」
「その帳簿が偽りでないことは、拙者が証言いたします。」
今度は、惣介が病んだ体を引きずって進み出た。
「拙者は、その当時、役所の倉役を務めておりました。拙者こそが、伝兵衛の脅しに屈して、米を横流しし、帳簿を偽った張本人でございます。伝兵衛は、その罪を、情け深い兵衛様に着せたのでございます。」
惣介の証言に、伝兵衛は、その場で凍りついた。
「この者、よくも出たらめを。」
「出たらめではございませぬ。」
再び、おふが進み出て、父の密書の内容を、日付と場所と米の量まで、一文字も違わず暗誦して見せた。
「伝兵衛がその密書を奪って焼き捨てましたが、私はすでに、その内容を全て記憶しておりました。」
おふの淀みのない証言に、巡行様も居並ぶ者たちも、大いに驚いた。
「伝兵衛。それでもまだ、申し開きをするのか。今すぐ、この者の屋敷を徹底的に調べよ。」
巡行様の命に、手下たちが伝兵衛の屋敷を隅々まで改めると、隠し箱の奥から、商人との取引を記念して、後生大事に捨てられずにいた裏帳簿が見つかった。横流しした米の量と代金は、惣介とおふの証言通りに記されていた。おふの証言が事実であったことが、これで証明されたのである。
「これでも、申し開きがあるか。伝兵衛。」
巡行様が一括した。伝兵衛は、ようやく全てが終わったことを悟った。その足が、がくがくと震えた。もはや、言い逃れのしようもなかった。証拠が揃うと、伝兵衛の側に立っていた手下たちも、為す術なく、一人また一人と、次々に悪事を認め始めた。
「伝兵衛とその一味を、残らず捕らえよ。」
巡行様の厳しい下知が飛んだ。伝兵衛は、大袈裟に言えば米を横流しし、清廉な役人を陥れた罪により、厳しい罰を受け、遠い島へ流され、二度と戻ることはなかった。見物していた民衆は、胸のすく思いで手を打ち、あちこちで涙を流して喜ぶ者もいた。
そして、ついに理不尽に流罪となっていた桐山兵衛が、無罪を言い渡され、解き放たれることとなった。おふはその胸を撫で下ろし、奪われた役目と家財を、全て返してもらった。父が戻ってきた日、おふは裸足のまま駆け出し、父の胸に飛び込んだ。
「お父上様、お父上様。」
「おお、我が娘よ。生きておったか。大きくなって、この父の無念まで晴らしてくれたのだな。」
父娘は、一目も憚らず抱き合って泣いた。見守っていた者たちも、皆、目頭を熱くした。兵衛は、さちの手を固く握り、深く頭を下げた。
「そなたが、我が娘を救ってくれたそうだな。そして、我が無念まで晴らしてくれた。この恩を、どう返せば良いものか。」
さちは慌てて手を振った。
「とんでもございませぬ。あなた様は数年前、溺れて死にかけていた拙者の命をお救いくださいました。拙者は、ただその恩をお返ししたまででございます。」
その時、初めて、兵衛は目の前のこの薬草取りが、あの時、谷で救い上げた若者であったことに気づいた。
「おお、あの時の若者が、そなたであったか。何という報いであろうか。わしが蒔いた小さな種が、こうして巡り巡って、我が娘を救い、そして、わし自身をも救ってくれたのだな。誠に、天の配剤は妙なるものよ。」
兵衛はさちに厚い褒美を与え、役目まで用意しようとした。だが、さちは丁重に辞退した。
「拙者は、ただ山で薬草を採って暮らすのが性に合っております。」
すると、おふが父の前に進み出た。
「お父上様。私は、この方と共に生きとうございます。この方は、私が最も汚く貶められていた時、何の見返りも求めず、私を拾ってくださった方でございます。」
兵衛は、娘の心を汲み取り、満足げに頷いた。
「人の本性を見抜くとは、それは下賤な身分より尊いものだ。二人の縁を正式なものとするため、兵衛は上役へ願い出て、さちが医師として取り立てられるよう取り計らった。」
「そなたならば、娘を信じて託せよう。」
兵衛は静かにそう告げた。こうして、さちは医師としての身分を受け、正式に夫婦の契りを結んだ。二人は、兵衛の勧める華やかな屋敷での暮らしではなく、さちが長らく暮らしてきた山の小屋へと戻っていった。そこで、薬草を取り、困った隣人を助けながら、粗末ではあるが温かな暮らしを営んでいった。おふは、父から学んだ医学と薬草の知識を持って、麓の村の病人たちを、心を込めて診た。金のない者には代金を取らず、生き場のない者は家に入れて、飯を食わせた。かつて、自分が誰にも顧みられなかった日々を、決して忘れてはいなかったのである。さちもまた、これまでと変わらず、困り事を見れば、決して素通りすることはなかった。
人の本性は、泥にまみれたからと言って失われるものではない。誰もが顔を背け、指を刺して笑う中で、たった一人でも、その奥にあるものを見抜き、信じてくれる者がいれば、人の運命は、そこから変わっていく。そして、誰かに差し出した小さな善意は、いつの日か、思いもよらぬ形で巡り巡り、自分や大切な者の元へと帰ってくるのである。
山の小屋には、今日も薬草を煎じる匂いが、静かに立ち上っている。その中で、二人が交わす笑い声が、山風に乗って、遠く遠くまで広がっていった。厄介で始まった縁が、こうして美しい物語として残り、いつまでも人々の口の端に登り続けたのである。


