「会長、サインしてはいけません。その通訳は嘘をついています」
静寂に包まれた最高級の特別会議室に、少女の声が響き渡った。
その一言で、室内の空気は文字通り凍りついた。日本を代表する総合商社「大輝物産」の役員たち。そして海を超えてやってきたアラブの王族系ファンドの重鎮たち。数十人の視線が、部屋の隅でコーヒーポットを押さえていた、あどけなさの残る18歳の少女に向けられた。
「なんだね、君は? 誰がこんな小娘をこの神聖な場に入れたんだ?」
大輝物産の専属主席通訳である一条が、顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげた。彼は数カ国語を操るエリート中のエリートであり、この場において絶対的な権力を持っていた。一条は少女を鼻で笑い、まるでゴミでも見るかのような目を向けた。
だが、この時、会議室にいた誰も知らなかった。余裕の笑みを浮かべているこのエリート通訳が、わずか数分後、人生で一番後悔する局面に立たされ、大粒の涙を流しながら土下座することになるとは。
時計の針を、ほんの10分ほど前に戻そう。
地上50階。東京の町を眼下に見下ろす大輝物産の本社ビル最上階の特別会議室は、厳重な防音扉に守られた、息が詰まるような重苦しい空気に包まれていた。中央に鎮座する巨大なマホガニー製のテーブル。その上座には、大輝物産を一代で築き上げた伝説の経営者、豪田会長が深い皺の刻まれた顔を険しくして座っていた。今年78歳になる彼は、その剛腕は未だ衰えていないが、年には勝てず、最近は耳が少し遠くなっていた。
テーブルを挟んで向かい側には、白い伝統衣装に頭を覆われたアラブの王族、ハーリド殿下とその側近たちが並んでいる。
今日の会議は、大輝物産にとって、いや日本経済にとっても歴史的な意味を持っていた。中東の巨大なインフラ開発プロジェクト。その総事業費は、なんと1兆4000億円。この契約が成立すれば、大輝物産は向こう数十年の安泰が約束される。まさに社運をかけた、絶対に失敗が許されない最終調整の場だったのだ。
「殿下は我が社が提示した最終条件に大変満足されております。あとはこの契約書にサインをいただくだけで、全ては完了いたします」
滑らかで自信に満ち溢れた声でそう告げたのは、豪田会長の隣に座る通訳の一条だった。仕立ての良い高級スーツを着こなし、髪をポマードで撫でつけた40代の男だ。彼は「魔法の舌を持つ男」と呼ばれ、これまで数々の困難な国際交渉をまとめてきた実績があった。
豪田会長は深く頷いた。
「そうか。殿下も納得いただけたか。我が国の技術が中東の発展に寄与できることを誇りに思うと、殿下にお伝えしてくれ」
「承知いたしました」
一条は恭しく頭を下げると、アラブ側のハーリド殿下に向き直り、流暢なアラビア語で何かを話しかけた。ハーリド殿下は一条の言葉を聞き、鷹のような鋭い目で豪田会長を一瞥すると、わずかに顎を引いて何事かを低い声で返答した。
一条はすぐさま会長に向き直り、満面の笑みで通訳する。
「殿下も、偉大なる豪田会長と共に仕事ができることはアッラーの導きであると、大変お喜びです。さあ会長、どうぞこちらの万年筆でサインを」
一条が差し出したのは、金色の装飾が施された分厚い契約書だった。豪田会長はゆっくりと万年筆を手に取り、キャップを外す。役員たちは息を飲んで、ペン先が紙に触れる瞬間を見守っていた。
だが、部屋の端で来客用のアラビックコーヒーを準備していた新入社員の少女、優衣だけは、震える手でポットを握りしめていた。高卒で雑用係として入社してまだ半年の彼女は、ただのお茶係としてこの部屋に配置されていたに過ぎない。黒髪を後ろで一つに束ねた、どこにでもいる地味な少女。しかし、分厚い黒縁メガネの奥にある彼女の瞳だけは、尋常ではない光を放っていた。
違う。一条さんの言っていること、全然違う。
優衣は耳を疑っていた。先ほどハーリド殿下が口にしたアラビア語。それは一条が通訳したような感謝的な言葉では決してなかったのだ。
『日本の技術は評価するが、違約金の条項がおかしい。我々が全リスクを負うことになっているではないか。このままではサインできない』
殿下は、はっきりとそう言っていた。しかし一条は、その正当な懸念事項を完全に隠蔽し、「満足している」と嘘の通訳をしたのだ。
なぜ一条はそんな嘘をつくのか。優衣の視線が、一条が差し出した契約書に向けられる。その瞬間、彼女の頭の中で膨大な情報がパズルのように組み合わさっていく。
一条さんは、わざと日本側に不利な契約を結ばせようとしている。もし会長がこのままサインすれば、プロジェクトで少しでも遅延が発生した瞬間、大輝物産は1兆4000億円の違約金を一括で支払う義務を負うことになる。会社は倒産する。
優衣は持って生まれた特別な才能を持っていた。IQ212。一度見聞きしたものは決して忘れず、複雑な言語の法則すら一瞬で理解してしまう超人的な頭脳。彼女にとって、アラビア語の微妙なニュアンスを聞き分けることなど、呼吸をするのと同じくらい容易いことだった。
ペン先が契約書に触れようとした、その瞬間。
「会長、サインしてはいけません。その通訳は嘘をついています」
優衣の叫び声が、沈黙の会議室を切り裂いた。
豪田会長の手がピタリと止まる。全員の視線が、部屋の隅に立つ小柄な少女に突き刺さった。一条の顔が、怒りで般若のように歪む。
「貴様、高卒の便所掃除の分際で、この神聖な場で何を無礼なことを言っている。警備員! 早くこの頭のおかしい女をつまみ出せ!」
一条の激しい罵倒が飛び交う中、優衣はギュッと唇を噛みしめ、沈黙した。彼女の小さな肩は小刻みに震えている。しかし、その黒縁メガネの奥の瞳は、決して一条からそらされてはいなかった。まるで、全ての真実を見透かしているかのように。
「警備員! 早くこいつをつまみ出せと言っているんだ!」
一条の怒号が再び最高級の防音室に響き渡った。周囲の役員たちも、我に返ったように一斉に優衣を非難し始める。
「おい、お前、ここは遊び場じゃないぞ。どこの部署の人間だ。上司を呼べ」
「高卒の分際で一兆円のプロジェクトに口を挟むな」
「大事な調整をぶち壊す気か。損害賠償ものだぞ」
高級スーツに身を包んだ、年の離れたエリートおじさんたちの容赦ない非難の嵐。普通なら、18歳の新入社員などその場で泣き崩れてもおかしくない状況だ。しかし優衣は、一言も発することなく、ギュッとポットの取っ手を握りしめ、沈黙を守っていた。
焦っちゃだめ。ここで感情的になっても、誰にも信じてもらえない。
優衣の脳内は、スーパーコンピューターを凌駕する速度で回転していた。
彼女の名前は七瀬優衣。地方の児童養護施設で育ち、高校卒業と同時にこの大輝物産に一般職の雑用係として潜り込んだ。彼女には誰にも言っていない秘密があった。それは、IQ212という異常な知能指数。文字を一度見ただけで写真のように記憶し、音を聞いただけでその言語の構造や文法規則を瞬時に理解してしまう、いわゆるサヴァン症候群に近い特殊能力。彼女は今、独学でマスターした30カ国以上の言語データの中から、ハーリド殿下が先ほど発したアラビア語の非常に特殊な方言を、瞬時に解析し終えていた。
殿下は確かに『日本の技術は評価するが、違約金の条項がおかしい。我々が全リスクを負うことになっているではないか。このままではサインできない』と言った。でも一条さんは『最終条件に大変満足している』と偽った。明らかに意図的な誤訳。このままでは大輝物産はアラブ側から莫大な違約金を請求されるための罠にはめられる。
優衣が黙り込んでいるのを、恐怖で声も出ないのだと勘違いした一条は、ネクタイを少し緩めながら余裕の表情を浮かべた。
「ふん。どうせどこかの三流高校しか出ていない底辺の小娘だろう。アラビア語の『あ』の字も知らない分際で、偉そうに口を挟むな。お前のその安い時給では、この部屋の空気を吸う資格もないんだよ」
一条の口から飛び出す、底の悪い侮辱の言葉。役員たちもそれに同調し、「早くつまみ出せ」「警察を呼べ」と声を荒げる。その騒ぎの中、上座に座る豪田会長が、不精髭の刻まれた顎を撫でた。
「おい、一条、どうしたのだ? その娘はなぜ騒いでいる?」
豪田会長は最近ひどく耳が遠くなっていた。優衣の最初の叫び声は辛うじて聞こえていたものの、内容までは正確に聞き取れていなかったのだ。一条はすぐさま会長の耳元に近づき、口元を隠して悪魔のささやきを吹き込んだ。
「会長、お気になさらず。最近入ったばかりの頭の弱い雑用係が、些細なことでパニックを起こして取り乱しているだけです。すぐに警備員に排除させますので、どうぞサインを続けてください」
「そうか。大事なお客様の前だ。失礼のないようにしろよ」
豪田会長はそう言うと、再び万年筆を握り直した。優衣は焦った。だめだ。会長の耳には届いていない。あの人がサインしたら、全てが終わる。優衣が再び口を開こうとしたその時、重厚な扉が乱暴に開き、2人の屈強な警備員が飛び込んできた。
「おい、君、大人しくしろ」
警備員たちが優衣の細い両腕をがっちりと掴み上げる。
「いや、やめてください。本当にその通訳は嘘をついているんです。契約書の第10条を確認してください」
優衣は必死に叫んだが、大柄な男2人の力には叶わず、ずるずると扉の方へ引きずられていく。
「見苦しいぞ。ゴミめ。二度とこのフロアに顔を出すな。お前は本日付けで首だ。荷物をまとめてさっさと消えろ」
一条が、勝ち誇ったような冷たい声で吐き捨てた。ハーリド殿下は通訳を通さなければ日本語が理解できない。目の前で起きている騒動が理解できず、困惑気味の表情で一条を見つめている。一条はすぐさまアラビア語に切り替え、見事な愛想笑いを浮かべた。
「殿下、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。精神を病んだ清掃員が迷い込んだだけです。すでに排除いたしましたので、ご安心ください」
殿下はわずかに眉を動かしたが、それ以上は深く追求しなかった。
このままじゃ、私の声は誰にも届かない。日本が、大輝物産が騙されてしまう。
扉の外へ押し出されそうになった優衣の目に、絶望の色が浮かぶ。だが、優衣の超人的な頭脳はまだ諦めていなかった。引きずられながらも、彼女の視界の端に、あるものが映り込んだ。それは、ハーリド殿下の斜め後ろに無言で控えていた、一人の白髪のアラブ人老人だった。他の側近たちが騒ぐ中、その老人だけは、先ほどからずっと優衣の目を、まるで何かを確かめるようにじっと見つめ返していたのだ。
あの人は誰?
優衣の脳内データベースが高速で検索を始める。服装のわずかな違い。立ち位置。そして、その眼差し。その瞬間、優衣の脳内で何かがカチリと音を立てて繋がった。一条の決定的なミス。いや、彼だけではない。大輝物産の役員全員が、致命的な見落としをしていたのだ。
そうか。そういうことだったのね。一条さん、あなたは大きな勘違いをしている。
両腕を掴まれながらも、優衣の口元に微かな笑みが浮かぶ。
そして、優衣は突然、小柄な体のどこにそんな力があったのか、驚愕の馬鹿力で警備員の腕を激しく振り払った。そして、会議室の全員が予想だにしなかった、信じられない行動に出たのだった。
警備員の腕を振り払った優衣は、迷うことなく一直線に歩き出した。その先は、豪田会長でも大輝物産の役員たちでもない。テーブルの向こう側、アラブの王族たちの背後に静かに控えていた、一人の白髪の老人の元だった。
「おい、何をする気だ?」
一条が慌てて声を上げるが、優衣の足は止まらない。彼女は老人の目の前まで進み出ると、深く、そして完璧な作法で一礼した。そして、その小さな口から、誰も予想していなかった言葉を紡ぎ出した。
「偉大なる砂漠の知恵者よ。突然の無礼をお許しください。ですが、このままでは両国の未来に暗い影が落ちます」
それは紛れもないアラビア語だった。しかも、現代の標準的なアラビア語ではない。ハーリド殿下たちが属する王族の中でも、特に高貴な血筋のものだけが使う、古き良き伝統的な方言。IQ212の脳を持つ優衣が、先ほどのわずかな会話の断片から法則を導き出し、完璧に再現して見せたのだ。
その流暢で美しい発音に、ハーリド殿下をはじめとするアラブ側の全員がハッと息を飲んだ。特に話しかけられた白髪の老人は、目を見開き、ユイをまじまじと見つめ返している。
しかし、大輝物産側の人間には、優衣が何を言っているのか全く理解できなかった。理解できなかったからこそ、一条は激昂した。
「貴様! 殿下の御前で何という無礼を! 適当な出鱈目な言葉を並べて、アラブの皆様を愚弄する気か!」
一条は顔を真っ赤にして優衣に歩み寄り、その腕を乱暴に掴もうとした。だが、優衣は鋭い視線で一条を睨み抜いた。
「出鱈目ではありません。一条さん、あなたが一番よくわかっているはずです。私が今、完璧な湾岸地方の伝統方言で話しかけたことを」
図星を指された一条の顔が、一瞬だけ引きつった。なぜだ? なぜ高卒の雑用係があんなマニアックな方言を話せるんだ。一条の内心に、わずかな焦りが生まれる。しかし、彼はすぐにいつもの余裕の仮面をかぶり直した。
「ふん。どこかの安い語学学校で挨拶だけ丸暗記してきたのだろう。底辺のネズミが言葉を覚えたからと言って、調子に乗るな。お前のような学歴も教養もないゴミが、この高度な国際交渉の場に口を出せると思うなよ」
一条の口から、次々と見下すような侮辱の言葉が放たれる。周囲の役員たちも「そうだ。一条君の言う通りだ」「早く警察に突き出せ」と便乗して騒ぎ立てた。だが、優衣は再び沈黙した。一条の罵倒を正面から浴びながらも、彼女の表情には一切の恐怖も怒りもなかった。ただ、冷たく澄んだコップ面のような瞳で、一条の焦りを観察していたのだ。
やっぱり、一条さんは私がアラビア語を理解していることに焦っている。だから、必死に大声を出してごまかそうとしているんだわ。
優衣の沈黙を言い返せないからだと解釈した一条は、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。そして、豪田会長に向かって深々と頭を下げた。
「会長、申し訳ありません。この女はネットか何かで覚えた適当なアラビア語で目立ちたがっているだけの狂人です。私が責任を持って処理します。さあ警備員、今度こそこの女を引きずり出せ!」
再び警備員たちが優衣に近づこうとした、その時だった。
「待ちなさい」
低く、しかし絶対的な威厳を持った声が、会議室に響いた。声の主は、優衣が話しかけた白髪の老人だった。彼はゆっくりと一歩前に出ると、一条を一瞥し、そして優衣に向き直った。
「日本の若い娘よ。お前のその美しい言葉遣い、確かに我が一族の古き言葉だ。お前は先ほど、通訳が嘘をついていると言ったな。それはどういう意味だ?」
老人の口から紡がれた言葉に、一条の顔から完全に血の気が引いた。
「ば、バカな。なぜ、ただの随行員であるはずのあの老人が、自ら口を開くんだ」
一条はこの老人をただの飾りの長老だと思い込み、完全にノーマークだったのだ。優衣は老人の目をしっかりと見据えて答えた。
「はい。この通訳は、殿下が懸念された契約書中の違約金に関する不平等な条件を意図的に隠蔽しました。彼は、殿下は最終条件に満足していると、嘘の通訳を私たちの会長に伝えたのです」
優衣の言葉がアラビア語で響き渡ると、ハーリド殿下の顔色がサッと変わった。アラブ側の側近たちが一斉にざわめき始める。一条はパニックに陥りそうになるのを必死に抑え込み、日本語で怒鳴り散らした。
「騙されるな! この女は頭がおかしいんだ。出鱈目を言っている!」
そして、一条はすぐさまアラブ側に向き直り、必死の弁明を始めようとした。しかし、優衣はそれを許さなかった。彼女は一条を冷ややかに見据え、日本語ではっきりとこう宣言したのだ。
「出鱈目かどうかは、すぐに分かります。一条さん、あなたがわざと誤訳をしたという決定的な証拠、今ここでお見せしましょう」
「証拠だと? はっ、言ってみろ。お前みたいな便所掃除の小娘に出せる証拠があるなら、出してみろ」
一条は思わず鼻で笑った。優衣は静かに頷き、自分の着ている地味な制服のポケットにゆっくりと手を伸ばした。その手から出てきたあるものを見た瞬間、一条は息が止まるほどの衝撃を受けることになるのだが――。
優衣が制服のポケットからゆっくりと取り出したもの。それを見た瞬間、一条の顔から表情が消え、次の瞬間――。
「ぶ、あはははは」
最高級の防音会議室に、一条の耳障りな大笑いが響き渡った。役員たちも一斉に呆れ顔になり、ある者はため息をつき、ある者は失笑した。ユイの手の中にあったのは、大輝物産のロゴが入った使い古しのバインダーと、裏紙を束ねただけのボロボロのメモ帳。そして、100円均一で売っているようなチープなボールペンだった。
「ひー、お腹が痛い。なんだそれは? それが決定的な証拠だと? まさか、お前のポエムでも書いてあるんじゃないだろうな」
腹を抱えて笑う一条に対し、優衣は全く動じず、メモ帳を静かに開いた。そこには、水が滲んだような、しかし規則的な謎の記号と複雑な数式がびっしりと書き込まれていた。
「これはポエムではありません」
優衣の澄んだ声が、一条の笑い声を切り裂く。
「先ほどの殿下のアラビア語を一言一句記録した音声メモ。そして、一条さんが隠蔽した契約中の隠し違約金が発動した場合の、我が社の倒産確率をその場でシミュレーションした計算式です」
優衣の言葉に、周囲の空気が一瞬ピクリと動いた。しかし、一条はすぐに冷淡な笑みを浮かべ、優衣のメモ帳をバシッと叩き落とした。パラパラと床に散らばる裏紙の束。
「ふざけるのも大概にしろよ。このゴミ女が」
一条の声のトーンは、氷のように冷え切ったものに変わった。
「そんな落書きの束が、一兆四千億の国際契約を覆す証拠になるとでも思っているのか。大体、俺はお前のことを知ってるんだよ。七瀬優衣」
優衣の肩が、わずかにビクッと震えた。
「人事部のデータで見たぞ。親の顔も知らないで養護施設で育ったそうだな。しかも、まともな教育も受けられず、不良ばかりの底辺の三流高校をギリギリで卒業。金も学歴もないから、我が社にトイレ掃除とお茶汲み専用の使い捨て要員として拾ってやったんだ」
「一条君、もうその辺りで……」
見かねた一人の役員が声をかけたが、一条は止まらなかった。
「いいえ。こういう底辺の人間には、自分がどれほど身の程知らずなことをしているか、徹底的に教えてやらねばなりません。おい、七瀬。お前みたいな親なしの貧乏人が、IQがどうだの、アラビア語の即興だの? 痛々しい妄想をこじらせているんじゃないぞ。お前の脳みそに入っているのは、せいぜい便器の磨き方くらいだろうが」
一条の口から飛び出す、人間の尊厳を根底から踏みにじるような侮辱の言葉。親がいないこと、施設で育ったこと、学歴がないこと。優衣がこれまで血のにじむような努力で乗り越えてきたコンプレックスを、一条は土足で踏みにじり汚したのだ。他の役員たちも最初は引き気味だったものの、次第に一条の勢いに飲まれていく。
「そうだ。こんな小娘の落書きを信じる馬鹿がどこにいる?」
「ただの妄想癖のある危ない女じゃないか」
「早く警察を呼んでつまみ出せ」
「空気が汚れる」
大人たちの冷淡な言葉の数々が、優衣に突き刺さる。しかし、優衣はただの一言も言い返さなかった。床に散らばった自分のメモを拾うことすらせず、両腕をだらりと下げ、うつむいたまま深い沈黙に落ちていた。
よし、完全に心が折れたな。これで邪魔は入らない。
優衣の沈黙を見て勝利を確信した一条は、ネクタイを直し、再びアラブ側の白髪の老人に向き直った。
「偉大なる長老様。お見苦しいところをお見せしました。あの娘は哀れなことに精神を病んでおりまして、自分のことを天才だと信じ込んでいる妄想狂なのです。どうか、あのような戯言はお忘れください」
一条は満面の笑みで完璧な嘘を並べ立てる。老人は床に散らばったメモ帳の切れ端をチラリと見たが、大輝物産側の異様な空気を察してか、それ以上追求することはなく、静かに目を閉じた。
「さあ、豪田会長。これ以上のタイムロスは殿下の無礼に当たります。すぐにサインを」
一条は万年筆を豪田会長の手に押し付けるようにして渡した。豪田会長は険しい顔で、優衣の方を一度だけ見た。しかし、うつむいて何も言わない彼女の姿を見て、小さく首を横に振った。
「可哀想に。後で十分な退職金を持たせて、病院に連れて行ってやりなさい」
会長はそうつぶやくと、ついに契約書の最終ページにペン先を下ろした。シュッと万年筆が高級な紙の上を走る音が、静まり返った室内に響く。
終わった。一条の顔に、隠しきれない邪悪な笑みが浮かんだ。これで一兆四千億の罠が完成する。そして、自分には莫大な見返りが転がり込むのだ。
誰もが優衣の完全敗北と、契約の成立を確信した。だが、うつむいて沈黙していた優衣の分厚い黒縁メガネの奥で、彼女の瞳は決して死んではいなかった。むしろ、全てのデータが揃い、反撃のアルゴリズムが完璧に構築された瞬間を待っていたのだ。
「会長、そのサインの最後の一画を書き終える前に、どうか私の最後の質問に答えてくれませんか?」
優衣がぽつりとこぼしたその言葉は、絶望の縁から上がるような、恐ろしく冷たく、そして静かな響きを持っていた。
「最後の質問だと?」
豪田会長の万年筆が、紙の上でわずかに止まる。一条は顔色をサッと変え、すぐさま警備員に向かって激しい怒号を浴びせた。
「貴様ら何をしている? さっさとその狂人の口を塞いで外へ放り出せ! これ以上、殿下と会長の御前を汚すな!」
「はいっ! おい、大人しくしろ!」
屈強な警備員たちが慌てて優衣の両腕を後ろにねじり上げた。関節がしめられる痛みに優衣は顔を歪めたが、その鋭い視線は決して豪田会長からそらさなかった。
「会長、契約書の第18条を確認してください!」
優衣はねじり上げられながらも、必死に叫んだ。
「日本語版には、不可抗力による遅延は免責されるとあります。ですが、殿下が先ほど言及したアラビア語版では、いかなる理由であれ遅延した場合は、大輝物産が全責任を負担するとすり替えられています。これは悪質な罠です!」
その具体的な指摘に、室内が大きくざわついた。役員の一人が慌てて手元の日本語版契約書のコピーをめくる。確かに日本語版には免責条項があると書いてあるが、役員たちの間に動揺が走る。しかし、一条は冷や汗を拭いながらも、すぐに大げさなため息をついて見せた。
「馬鹿馬鹿しい。皆様、どうか冷静になってください。そのアラビア語の翻訳は、この私が責任を持って行い、現地のトップ弁護士たちとトリプルチェックをした完璧なものです。高が高卒の便所掃除が、無料の翻訳アプリでも使って聞きかじった知識で、私と国際弁護士の仕事を否定するつもりですか?」
一条の自信満々で堂々とした態度。それに比べて、ボロボロの制服を着て警備員に抑えつけられている小柄な少女。権威と肩書きを重んじる役員たちは、瞬時にどちらを信じるべきか判断した。
「なんだ、やっぱりただの言いがかりか」
「一条君を疑うなんて、どうかしていたよ」
「すまない、一条君」
「早くその女をつまみ出せ。警察に威力業務妨害で突き出してしまえ」
完全に空気は一条の味方に戻った。優衣は必死に訴える。
「違います。一条さんはわざと誤訳を……」
「黙れ」
一条が優衣の顔のすぐ近くまで歩み寄り、蛇のような冷淡な目で彼女を睨みつけた。そして、周囲には聞こえないような低い声で、耳元に悪意たっぷりに吐き捨てた。
「お前のような底辺のウジ虫が、俺の完璧な計画に……いや、神聖な契約に泥を塗ろうとするなど、100年早いんだよ。お前は今日で首だ。それだけじゃない。この歴史的な調整を妨害した損害賠償として、お前には一生かかっても払えない数億円の請求書を送り付けてやる。自己破産して、一生泥水でもすって生きるんだな」
社会的な抹殺宣告。優衣はねじり上げられた腕の痛みに耐えながら、深く息を吐き、再び沈黙した。
だめだ。誰も私の言葉なんて信じてくれない。
優衣の心に、暗い絶望が影を落とす。いくらIQ212の頭脳があっても、いくら真実を知っていても、学歴も肩書きもないただの雑用係の言葉は、このエリートたちにとっては単なる雑音でしかないのだ。
「もう良い。一条、すまなかったな。変な邪魔が入ってしまった」
豪田会長も完全に優衣への興味を失い、冷たい声でそう言い放った。会長は再び万年筆を握り直し、今度こそサインの最後の一画を書かんとペン先を紙に落とす。
「さあ、失礼した。歩くんだ」
警備員に無理やり引きずられ、優衣の体が会議室の重厚な防音扉の外へと押し出されていく。ズルズルと安いローファーが高級な絨毯を擦る音が響く。視界の端で、一条が勝利の笑みを浮かべているのが見えた。
本当に、これで終わってしまうの? 大輝物産は一兆四千億の負債を抱えて倒産する。私が今まで、あの人のために必死に生きてきた意味は、ここで潰えるの?
優衣の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。彼女が親の顔も知らず養護施設で育ちながらも、決して腐らず、その異常な才能を隠してまで、この大輝物産に底辺の雑用係として潜り込んだ、本当の理由。防音扉がゆっくりと閉まり始める。豪田会長のペンが、サインの最後の文字を描き出そうとしていた。優衣は引きずられながらも、最後に渾身の力を振り絞って、鼓膜が割れるほどの声で叫んだ。
「おじいちゃん、サインしないで!」
その一喝。会長でも、豪田さんでもなく、「おじいちゃん」という言葉が響いた瞬間、ピタリと豪田会長の万年筆が完全に止まった。ペンの先からインクがにじみ出し、高級な契約書に黒い染みを作っていく。室内の空気が、先ほどまでの騒ぎとは全く違う、異様な緊張感に包まれた。一条は自分の耳を疑い、間抜けな声を出した。
「は、はあ? 今、こいつは何と言った?」
閉まりかけていた扉の隙間から、豪田会長がゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るような目で優衣を見つめ返していた。
「おじいちゃん、サインしないで!」
鼓膜を震わせるような優衣の悲痛な叫びが、重厚な防音扉の隙間から会議室全体にこだました。あまりにも突拍子もないその言葉に、優衣を抑えつけていた2人の警備員も思わず動きを止めてしまった。室内にいる全ての人間が、時が止まったかのように硬直する。その静寂を最初に破ったのは、やはり通訳の一条だった。
「ぶ、あはははははは!」
一条は腹を抱え、下品な笑い声をあげた。
「おいおいおい。ついに頭のネジが完全に吹き飛んだか。お前のような底辺の便所掃除が、日本経済のトップである豪田会長のお孫さんだと? 三流の昼ドラでも、もう少しましな筋書きを作るぞ」
一条の言葉に、周囲の役員たちも「ハッタリか」「君が悪い」「完全な狂人だ」と囁き始めた。
「さあ警備員、早くその狂った女を放り出せ。会長の御前でこれ以上の無礼は許されん!」
一条が勝ち誇ったように命令を下し、警備員たちが再び優衣の細い腕に力を込めた。
「つうっ……」
だが、優衣を引きずり出そうとした、その時。
「待て。話してやれ」
しわがれた、しかし威厳に満ちた低い声が響いた。上座に座っていた豪田会長が、ゆっくりと立ち上がったのだ。彼は手に持っていた万年筆をテーブルにコトリと置き、杖をつきながら、一歩また一歩と優衣の方へ歩み寄ってくる。
「か、会長……」
一条の顔から、スッと笑みが消えた。豪田会長は優衣の目の前まで来ると、その深い皺の刻まれた顔を近づけ、彼女の黒縁メガネの奥にある瞳をまじまじと見つめた。耳が遠い会長だが、先ほどの「おじいちゃん」という叫びだけは、魂に直接響くかのようにはっきりと聞こえていたのだ。
「お前は……その目は……」
会長の震える手が、ゆっくりと優衣の方に伸びる。
「さおり……さおりの娘か」
その名前が出た瞬間、大輝物産の重役たちの顔色が変わった。さおり。それは、豪田会長が目に入れても痛くないほど溺愛していた、一人娘の名前だった。しかし、彼女は20年前、身分の違う男との結婚を反対され、家を飛び出したまま行方不明になっていたのだ。
優衣の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「はい。母は10年前、病気で亡くなりました。亡くなる直前まで、『お父さんに迷惑をかけたくない』と言って、決して連絡しようとしませんでした」
優衣は養護施設で育った。母が死んだ後、親戚のいない彼女は、施設に入るしかなかったのだ。しかし、彼女は母が残した日記と、大切に保管されていた豪田会長の切り抜き記事を読み、自分の祖父がどんなに偉大な人物であるかを知っていた。IQ212の超人的な頭脳を持つ優衣が、なぜ一流大学に行かず、高卒の雑用係として大輝物産に入社したのか。それは、高齢にも関わらず会社の最前線で戦い続ける、唯一の血縁者である豪田会長を、一番近くで影ながら支えたかったからだ。決して名乗るつもりはなかった。豪田会長の孫という肩書きが周囲に知れれば、社内に無用な派閥争いや混乱を招くことが分かっていたからだ。優衣はただの歯車として、おじいちゃんの会社が平和に回るのを、底辺から見守れればそれでよかった。
しかし、今日だけは別だ。このままでは、おじいちゃんが人生の全てをかけて築き上げた会社が、一条という悪魔の罠によって粉々に破壊されてしまう。
「そうか……さお、りは、死んだか……」
豪田会長の目から、一筋の涙が頬を伝った。
「なぜ、今まで名乗り出なかったのだ。一人で、苦労をかけたな……」
感動的な祖孫の再会。しかし、その美しい空気を、一条のヒステリックな金切り声が引き裂いた。
「会長、騙されないでください!」
一条が血走った目で、2人の間に割って入った。
「こんな女の作り話を信じるなんて、正気の沙汰ではありません。顔が少し似ているからと言って、会長の資産を狙って近づいてきた悪質な詐欺師に決まっています。こいつの経歴は完璧な底辺です。会長のお孫さんが、便所掃除なんかするわけがないでしょう!」
一条は焦っていた。もし優衣が本当に会長の孫であれば、彼女の発言力は底辺の雑用係から、トップの血縁者へと跳ね上がる。自分の計画が、根底から覆されてしまう。
「うるさい! さおりの娘かどうかは、私が一番よくわかっている」
豪田会長が一括したが、一条も引かなかった。
「いいえ、ここは会社です。私情を挟まないでください」
一条は周囲の役員たちに向かって叫んだ。
「皆様も目を覚ましてください。殿下をお待たせしているのですよ。こんな出鱈目な少女の妄想のせいで、一兆四千億円の契約を不意にするおつもりですか?」
「殿下をお待たせしている」という言葉は、役員たちにとって魔法の呪文だった。
「会長、感動の再会は後にして、まずはサインを。このままでは、アラブ側から契約を破棄されます」
再び空気が一条の味方へと傾き始める。ハーリド殿下も、通訳が機能せず放置されている状況に苛立ちを感じ始めたのか、険しい顔で何かを側近に呟いている。
クソ、クソ、クソめ。後で絶対に社会的に殺してやる。
一条は心の中で優衣を呪いながら、強引に豪田会長の腕を掴み、テーブルの契約書の前に引き戻そうとした。
「さあ、会長、サインを。この契約が結ばれれば、全てが丸く収まるのです」
優衣は警備員に再び腕を掴まれながら、絶望の縁に立たされていた。いくら孫だと名乗り出ても、今この瞬間に一条が嘘をついているという決定的な証拠を突きつけなければ、強引にサインさせられてしまう。どうすれば、あのメモ帳は否定された。日本語の契約書には罠が隠されている。どうすれば、一条さんの嘘をこの場で完全に暴ける?
IQ212の頭脳が、限界を超えて回転する。その時だった。優衣の視線が、再びアラブ側の白髪の老人と交差した。老人は、一条がヒステリックに叫び散らす様を、まるで底辺の虫けらを見るような、氷のように冷たい目で見つめていたのだ。その瞬間、優衣の脳裏に、とんでもないひらめきが走った。
あっ……もしかして、あの老人の正体って……。
優衣の口元に、微かな笑みが浮かぶ。一条の嘘を一瞬で粉砕する、最強のカード。
優衣は警備員を睨みつけ、低く澄んだ声で言い放った。
「一条さん。あなたが本当にアラビア語の完璧な通訳であるなら、これから私がする質問を、殿下たちにそのまま通訳してみてください」
「はあ?」
一条は、優衣の言葉の意味が理解できないというように、困惑した顔で聞き返した。
「私がこれからする質問を、そのまま通訳しろだと? お前、自分が今どういう立場にいるのか分かっているのか? ただの妄想狂の底辺女が、この私に命令するな」
しかし、優衣は両腕を警備員に掴まれたまま、まっすぐに一条を見据えていた。
「通訳のプロとしてのプライドがあるなら、できるはずですよね? それとも、私の言葉を通訳すると、何かまずいことでもあるんですか?」
「ふざけるな!」
一条の顔が怒りで真っ赤に染まる。周囲の役員たちも「いい加減にしろ」「一条君をこれ以上侮辱するな」と優衣を非難した。しかし、一条は優衣の挑発的な目を見て、ふと邪悪な笑みを浮かべた。
なるほど。この女、最後まで自分を天才だと思い込んでいるらしいな。いいだろう。こいつの狂った妄想をそのままアラブ側に伝えてやれば、完全に精神異常者として扱われる。会長も、こんな狂った女を孫だと認めることはできなくなるはずだ。
「いいだろう」
一条はネクタイを締め直し、余裕たっぷりに両手を広げた。
「そこまで言うなら、お前のその痛々しい質問とやらを、殿下の御前に通訳してやろう。ただし、その結果アラブの皆様が激怒し、国際問題に発展したとしても、全てはお前の責任だ。さあ、言ってみろ」
優衣は小さく深呼吸をすると、静まり返った会議室に響くよう、はっきりと日本語で告げた。
「では、殿下にこう聞いてください。『殿下、なぜあなたほどの身分の方が、その後ろに静かに控えておられる。今回のプロジェクトの真の出資者であるファハド殿下を差し置いて、このような不平等な契約を結ぼうとしているのですか?』と」
その言葉が響いた瞬間、会議室にいる大輝物産の役員たちは、ポカンと口を開けた。
「はあ? ファハド殿下だと?」
一条は自分の耳を疑った。そして、吹き出すのを堪えきれずに大笑いした。
「ぶ、あははははは! ファハド殿下だと! おいおい、お前、アラブの王族の家系図でもネットで齧ってきたのか。ファハド殿下といえば、アラブ一の権力者であり、ハーリド殿下の叔父にあたる最高指導者だぞ!」
一条は笑い涙を拭いながら、優衣が視線を向けている白髪の老人を指差した。
「お前、まさかこのヨボヨボのじいさんがファハド殿下だとでも言いたいのか? ただの荷物持ちの随行員を捕まえて、最高権力者だなんて、はは、お腹痛い。やっぱりお前は完全な狂人だ」
大輝物産の役員たちも、一条の言葉に同調して失笑を漏らした。
「なんて恥ずかしい娘だ」
「妄想もそこまで行くとはな」
「我らがファハド殿下が、お忍びでこんな従者のような格好で来るわけがないだろう」
豪田会長でさえ、困惑した表情で優衣を見つめていた。しかし、優衣は一切表情を崩さなかった。
「笑うのは後にして、早く通訳してください、一条さん」
「ふん、いいだろう。お前のその滑稽な妄想を、アラビア語で全世界に恥として晒してやる」
一条は勝ち誇った顔でハーリド殿下に向き直ると、わざとらしく咳払いをし、アラビア語で話し始めた。
「殿下、お耳を汚して失礼いたします。この頭のおかしい女が、なんと殿下の後ろにいるその老いぼれた随行員を、ファハド殿下だと抜かしております。日本の底辺労働者の無知蒙昧な妄想です。どうかお気になさらず、大きな心でお笑いください」
一条は、最高のジョークを言ったつもりだった。大輝物産の役員たちも、アラビア語は分からないが、一条の余裕のある態度を見て、うまく取り成してくれたのだろうと安堵していた。
だが、一条の通訳が終わった瞬間、アラブ側の座席から、一切の物音が消えた。先ほどまで苛立たしげにしていたハーリド殿下の顔から、スッと血の気が引いた。殿下の周りに立っていた屈強な側近たちの表情が、恐怖と驚愕に凍りつき、彼らの目は一斉に、背後に立つ白髪の老人へと向けられた。
「え……?」
一条は、アラブ側の異様な空気に気づき、顔に張り付いていた笑みをピクピクと引き攣らせた。
「な、なんだ? なぜ、誰も笑わないんだ? なぜ、殿下はあんなに青ざめているんだ?」
空気がおかしい。重く、冷たく、そして圧倒的なプレッシャーが、テーブルの向こう側から押し寄せてくる。静寂の中、ゆっくりと、これまで沈黙して状況を見守っていた白髪の老人が、一歩前に出た。その瞬間、ハーリド殿下をはじめとするアラブ側の全員が、まるで弾かれたように椅子から立ち上がり、老人に向かって深く、深く頭を下げたのだ。それは、絶対に逆らうことのできない絶対者に対する、最上級の敬意だった。
「なああ……」
一条の喉から、間の抜けた、カエルが潰されたような声が漏れた。大輝物産の役員たちも、突然立ち上がって、たった一人の随行員に頭を下げるアラブ王族たちの姿に、何が起きているのか全く理解できず、パニックに陥った。
「どういうことだ、一条君! 殿下たちは、なぜあの老人に頭を下げているんだ!」
豪田会長が驚きで目を見開いて叫んだ。一条はガタガタと全身を震わせながら後ずさりした。
「ば、バカな……まさか、そんな……」
あんな地味な服を着た老人が、本物の……。
老人は、平伏するハーリド殿下たちを一瞥すると、鋭い鷹のような目で一条を睨みつけ、そして重々しいアラビア語で、静かに、しかし雷鳴のように恐ろしい声で口を開いた。
「日本の通訳よ。貴様は今、私を『老いぼれた随行員』と呼んだな」
その言葉を理解した瞬間、一条の顔面は死人のように蒼白になり、膝から崩れ落ちそうになった。そして、この最悪のタイミングで、優衣が冷たい声で止めの一撃を放ったのだ。
「偉大なるファハド殿下。この男は、あなたを老いぼれた随行員と侮辱しただけではありません」
静まり返った会議室に、優衣の流暢で後期なアラビア語が響き渡った。一条の顔から、完全に血の気が引いている。優衣は両腕を掴んでいた警備員たちが呆然と力を緩めた隙をつき、彼らの手を振り払った。そして、ファハド殿下に向かって、まっすぐに視線を向けた。
「この通訳は、先ほどハーリド殿下が指摘された『違約金の条項がおかしい。我々アラブ側が全リスクを負うことになっている』という正当な懸念を、私たちの会長には『最終条件に大変満足している』と逆の通訳をしました。両国の信頼関係を根底から破壊する、極めて悪質な嘘です」
その言葉を聞いた瞬間、ファハド殿下の鋭い眼光が、ハーリド殿下、そして一条へと突き刺さった。ハーリド殿下は慌てて太陽光の足元に膝をつき、声を震わせた。
「叔父上、私は誓って日本側を騙そうなどとはしておりません。私はただ、契約書のリスク情報について確認を促しただけで……」
「分かっておる」
ファハド殿下は静かに手を上げ、ハーリドを制した。その上で、蛇のような冷たい目で、ガタガタと震える一条を見下ろした。
「日本の通訳よ。お前は私を『老いぼれた随行員』と呼び、私の一族の誠実な言葉を『満足している』と偽った。我が一族と、誇り高き大輝物産を同時に愚弄した罪、万死に値するぞ」
その言葉はアラビア語であったが、その底知れぬ怒りと迫力は、言葉の壁を超えて、大輝物産の役員たちにもひしひしと伝わってきた。
「ひっ……ば、バカな……なぜ、最高権力者のファハド殿下が、お忍びでこんな極東の島国なんかに来ているんだ! これでは、私の完璧な計画が……」
一条はパニックに陥りながらも、持ち前の高慢さでなんとかこの場を乗り切ろうと足掻いた。彼は一気に日本語に切り替え、豪田会長に向かって叫んだ。
「会長、大変です! アラブ側が、突然契約を白紙に戻すと言い出しました! この狂った女が、出鱈目なアラビア語で暴言を吐いたせいで、彼らを激怒させてしまったのです。全てはこの女の責任です! 早く警察を呼んで……」
「黙れ、一条!」
豪田会長の怒号が、一条の言い訳を真っ向から切り裂いた。会長は杖を強く床につき、般若のような剣幕で一条を睨みつけた。
「わしは耳は遠いが、目はまだ節穴ではない。お前は先ほど、あの老人を『ただの随行員』だと笑い飛ばしたな。だが、今、誇り高きアラブの王族たちが、あの老人に対して一斉に平伏しているではないか。それは、どういうことだ?」
「そ、それは……」
一条は言葉に詰まった。周囲の役員たちも、次第に一条を見る目を変え始めていた。
「そうだ。どう見ても、あの老人はただの随行員じゃない」
「王族が膝まずくほどの人物となると……優衣君の言っていた通り、本当に出資者のファハド殿下なのか?」
「一条君は、一体何を訳していたんだ?」
役員たちの間に、疑念が渦巻き始める。先ほどまで一条を盲信し、「底辺のゴミ」と優衣を嘲笑っていた彼らの態度が、180度変わり始めたのだ。
「ち、違います! 皆様、騙されないでください!」
一条は必死に周囲を見回し、顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
「この女は、親の顔も知らない施設育ちの底辺です! 学歴もない、ただの便所掃除ですよ! そんなどこの馬の骨とも分からない女の言葉と、この大輝物産で首席通訳を務める私と、どちらを信じるというのですか?」
一条の口から、再び強烈な侮辱の言葉が飛び出す。しかし、その見苦しい悪あがきは、もはや誰の心にも響かなかった。優衣は、一条の罵倒を無表情に聞き流し、静かに一歩前へ出た。
「学歴や育ちでしか人を判断できないあなたには、一生理解できないでしょうね。一条さん、あなたが私を『底辺』と見下していたからこそ、私はあなたの仕掛けた一兆四千億の罠の全貌に気づくことができたんです」
「わ、罠だと? 何の証拠があって、そんな出鱈目を……」
一条が必死に虚勢を張る。優衣は、先ほど一条に叩き落とされ、床に散らばっていたメモ帳の切れ端を一枚拾い上げた。
「証拠なら、ここにあります。私は先ほど、あなたが殿下の言葉を隠蔽したと言いました。でも、あなたの本当の狙いは、そこではありませんよね」
優衣の分厚い黒縁メガネの奥で、IQ212の瞳が鋭く光る。
「あなたは、日本語の契約書には『大輝物産が免責されると』書き、アラビア語の契約書には『アラブ側が全リスクを負うと』、互いに都合の良い嘘の翻訳をしていました。では、契約違反が起きた場合、その莫大な違約金は、誰の懐に入るように仕組まれていたのでしょうか?」
その瞬間、一条の顔から完全に表情が抜け落ちた。全身から滝のような冷や汗が吹き出し、震える手で自分のネクタイを力強く握りしめる。
「な、なぜ、お前がそれを……」
「アラビア語の契約書の第18条。極めて難解な古代アラビア語の言い回しで巧妙に隠されていましたよ。この契約が破綻した際に、一兆四千億円の違約金が流れ込む先として指定された、ダミー会社の名前が」
優衣の言葉に、豪田会長も役員たちも、そしてファハド殿下も、息を飲んだ。優衣は冷淡なまでに論理的な声で、一条の心臓を的確に突き刺した。
「一条さん。そのダミー会社の代表取締役の名前は、あなたの奥様の旧姓ですよね?」
「の、のり……?」
一条の口から、間抜けな、カエルが潰されたような声が漏れた。先ほどまで彼を包んでいたエリート特有の絶対的な自信と余裕は、今や完全に消え去っていた。額からは滝のような脂汗が吹き出し、ポマードで撫でつけた髪がパラパラと乱れ、高級なイタリア製のスーツがジットリと濡れていく。
「な、何を馬鹿な! 出鱈目だ! こんな小娘の言うことを信じるんですか? アラビア語の契約書に、なぜ私の妻の名前が出てくるんだ!」
一条は裏返った声で叫び、必死に取り繕おうとした。しかし、優衣は一切の感情を交えず、氷のように冷たく、そして正確な声で事実を並べ立てた。
「ダミー会社の名前は『アル・ハマ・ホールディングス』。税制優遇で有名なケイマン諸島に登記されています。そして、代表者名は『さゆり・サワダ』。一条さん、あなたの奥様の旧姓は、沢田ですよね? 先ほどの一瞬の問答の際、私はアラビア語の特殊な発音記号の羅列から、その名前を完全に特定しました」
その言葉に、役員の一人がハッと息を飲み、声をあげた。
「沢田さゆり……間違いない! 一条君の奥さんの名前だ! 君は数年前、部長に昇進した時のスピーチで、奥さんの旧姓を自慢げに話していたじゃないか!」
「ま、まさか、本当に一条君が会社を裏切って、一兆四千億もの違約金を自分のダミー会社に横領しようと……」
周囲の役員たちが、一斉に一条から距離を取る。先ほどまで「一条君の言う通りだ」と彼を持ち上げていた大人たちが、今はまるで恐ろしい感染症でも見るかのような、強烈な軽蔑の視線を向けていた。
「ち、違う! これは陰謀だ!」
一条は顔を真っ赤にして、首がちぎれるほど激しく振った。そして、血走った目を優衣に向けた。
「大体、なぜお前が私の妻の旧姓を知っている? 調べたな! この女が私を落とし入れるために、勝手に会社のデータベースをハッキングして、出っち上げたんだ! そうだ! お前は、ただの便所掃除の分際で、私の地位や才能を妬んで……」
一条の口から、もはや論理のかけらもない、見苦しい侮辱の言葉が滝のように溢れ出す。自分が追い詰められた途端、手当たり次第に相手の身分や育ちを攻撃し始める。その姿は、エリートのかけらもない、あまりにも滑稽で哀れなものだった。
優衣は、そんな一条の錯乱を、ただじっと無言で見つめていた。彼女の沈黙は、激昂する一条と残酷なまでのコントラストを描き、一条の異常さをさらに浮き彫りにしていた。やがて、優衣は静かに口を開いた。
「ハッキングなどしていません。3ヶ月前、私が人事部でシュレッダーのゴミ袋を交換していた時のことです。裁断された書類の切れ端が、床に落ちていました。それは、あなたの家族手当申請書のコピーでした。私のIQ212は、たった数秒で、その裁断された紙切れの束を脳内でパズルのようにつなぎ合わせ、記載されていた情報を完全に記憶してしまったんです。『底辺のゴミ掃除』だからこそ、知ることができた真実ですよ」
「は、化け物め……」
一条は後ずさりし、今度は豪田会長に向かってすがりつくように叫んだ。
「会長、信じてください! 私は大輝物産に人生を捧げてきた男です! こんな親の顔も知らない施設育ちの狂人の言葉より、長年あなたに尽くしてきたこの私を……」
「黙れ、一条」
豪田会長の怒号が、雷鳴のように会議室に轟いた。
「お前のその見苦しい言い訳と態度が、何よりの証拠ではないか。自分の保身のために、私の大切な孫娘をこれ以上侮辱することは、絶対に許さん」
豪田会長の絶対的な怒りを前に、一条はビクンと肩を震わせ、ヘナヘナと座り込みそうになった。
クソ……こうなったら、証拠隠滅だ。あの契約書さえ処分してしまえば、アラビア語の隠し情報を読める者はこの部屋には……
極限の焦りの中で、一条の脳裏に悪魔のようなひらめきが走った。彼は血走った目で、テーブルの中央に置かれている分厚い契約書を睨みつけた。そして、狂った獣のように雄叫びを上げながら、契約書に向かって両手を伸ばして飛びかかったのだ。
「こんなものがあるから、上手くいかないんだ! ビリビリに破いて、燃やしてやる! そうすれば、証拠はゼロだ!」
「あっ、一条!」
役員たちが慌てて止めに入ろうとするが、間に合わない。一条の汗まみれの手が、契約書の表紙を掴み取ろうとした、まさにその瞬間だった。
「無駄な真似はおやめなさい。一条さん」
重厚な防音扉がゆっくりと開き、驚くほど落ち着き払った声が、会議室に響き渡った。その声の主を見た瞬間、一条だけでなく、豪田会長も大輝物産の役員全員も、信じられないものを見たかのように目を大きく見開いた。そこに立っていたのは、一条が絶対にこの場に現れるはずがないと確信していた、あまりにも意外な人物だったのだ。
「さ、サイード! なぜ、お前がここにいるんだ!」
重厚な防音扉を開けて入ってきた人物を見た瞬間、一条の口から、引きガエルが潰されたような悲鳴が漏れた。契約書を破り捨てようと伸ばしていた手は、空中でピタリと硬直している。そこに立っていたのは、頭に真っ白な伝統的なクーフィーヤを巻き、知的で鋭い顔立ちのアラブ人男性だった。彼こそが、ハーリド殿下たちが来日するにあたり、アラブ側が用意していた専属のスーパー通訳、サイードだった。
本来ならば、今日の調整には彼が同席し、アラビア語と日本語の契約書の最終チェックを双方が行うはずだった。しかし、一条は自分の一兆四千億横領計画を成功させるため、最大の邪魔者であるサイードを、汚い罠にかけて排除したのだ。サイードは、今朝の朝食で激しい腹痛を起こし、都内の病院の特別室でベッドに縛りつけられているはずだった。
「一、一条君は、今、自分で彼に毒を盛ったと自白したな」
豪田会長が、血の通わないような低い声で睨みつけた。一条は思わず自分の口を押さえたが、時すでに遅し。もはや手遅れだった。
サイードは静かに歩み寄り、冷淡な目で一条を見下ろした。
「一条さん、あなたが私のルームサービスのアラビックコーヒーに、強力な下剤と睡眠薬を混入させたことは分かっています。私は意識を失い、あなたが手配した悪徳業者の病院に、監禁されていました」
「だ、だったら! なぜ、ここに来られたんだ! あの病院は、俺が金を握らせて、完璧に……」
「私を助け出してくれた、御人がいたからです」
サイードはそう言うと、部屋の隅で静かに佇む優衣に向かって、深く一礼したのだ。
「御人だと?!」
一条だけでなく、大輝物産の役員たちの視線も、一斉に優衣に集まる。優衣は分厚い黒縁メガネを中指でクイッと持ち上げ、一切の感情を交えない淡々とした声で語り始めた。
「サイードさんが来日してから、私は彼の警護を支援するため、周辺情報を収集していました。そして、昨日、私はあなたがサイードさんの宿泊するホテルに、奇妙な薬の空き瓶をゴミ箱に捨てているのを見つけました」
優衣の脳内には、その空瓶のラベルに書かれた化学成分表が、瞬時に写真のように焼きついていた。それは、中東の特定の地域でしか手に入らない、地元産の強力な睡眠薬だった。さらに、一条のデスクの上にあったメモ帳の筆跡の痕跡から、彼がサイードさんを『常南第三病院』に隔離するよう指示した内容を読み取ったのだ。
「筆跡の痕だと? ふざけるな! 紙の上のわずかなへこみなんか、普通は読めるわけがないだろうが!」
一条が血走った目で吠える。優衣は、そんな一条の怒鳴り声を無表情に見つめ返した。
「普通の人には無理でしょうね。ですが、私のIQ212の頭脳にとっては、紙の凹凸が作るミクロの影から筆跡を復元することなど、大きな文字の本を読むのと同じくらい簡単なことです。私は急いで病院へ向かい、清掃員に変装して警備の目を盗み、サイードさんを救出しました。私が、この会議室にお茶を運んでくるのが少し遅れたのは、そのためです」
優衣の口から語られる、あまりにも完璧な救出劇。全ては、一条が「底辺のゴミ」と全く警戒していなかった、雑用係の少女の手によって、完璧に計算され尽くしていたのだ。
「ば、バカな……そんな漫画みたいな話があるか!」
一条は後ずさりし、壁に背中を打ち付けた。サイードは手にした黒のアタッシュケースをテーブルの上に置き、中から分厚い書類の束を取り出した。
「一条さん、あなたが契約書を破り捨てても無駄だと言った理由。それは、私がアラビア語版契約書の、あなたが改ざんする前の本物の原本と、あなたがサインしたダミー会社への送金指示書を、こうして持ってきたからです」
サイードはその書類を、ファハド殿下と豪田会長の前に、恭しく差し出した。ファハド殿下は書類を一瞥し、静かに頷いた。
「間違いない。これが、我々が合意した本来の契約書だ。そして、この送金指示書にあるサインは、紛れもなく、この日本人通訳の筆跡だな」
真実は完全に白日のもとにさらされた。逃げ道は、もはやどこにも残されていなかった。大輝物産の役員たちは、一条への怒りで顔を真っ赤にし、一斉に彼を取り囲んだ。
「一条、お前という奴は! 会社を、いや、日本を売る気だったのか!」
「この恩知らずのクズめ!」
「自分がどれほど恐ろしいことをしたか、分かっているのか!」
「警察を呼べ! 今すぐこいつを横領未遂と傷害罪で逮捕させろ!」
役員たちからの容赦ない糾弾の嵐。積み上げてきたエリートとしての地位も、名誉も、全てが音を立てて崩れ去っていく。普通なら、ここで心が完全に折れ、土下座して命乞いをするだろう。優衣も、サイードも、そして豪田会長も、一条が観念するのを待っていた。
だが、他人を見下すことでしか自己を保てない一条の、異常に肥大化したプライドは、自らの完全な敗北を絶対に認めようとはしなかった。
「ふ、ふはははははは!」
突然、一条は顔を覆っていた手をどけ、口の端から泡を飛ばし、狂ったような高い笑い声をあげ始めた。
「狂ったか、一条!」
役員の一人が咎めるが、一条の目は異様な光を放っていた。
「証拠の原本が? それがどうしたと言うんだ!」
一条はスーツの懐に手を突っ込み、何かを取り出して高く掲げた。
「俺を舐めるなよ、ゴミども! 俺が、こんな施設育ちの底辺娘や外国人に詰められて終わるような無能な男だと思っているのか? まだだ! 俺には、まだ最後の一手があるんだよ!」
一条が握りしめていたその最悪のカードを見た瞬間、これまでどんな絶望的な状況でも冷静な沈黙を貫き、完璧な計算で動いていた優衣の表情が、今日初めて、明らかな驚愕と焦りに歪んだのだった。
「俺を舐めるなよ、ゴミども!」
一条がスーツの懐から取り出し、高く掲げたもの。それは、黒光りする最新型のスマートフォンと、一本の赤いUSBメモリだった。
「これを見ろ! このUSBメモリには、大輝物産が長年、中東の反政府過激派に対して裏金を提供していたという、極秘の資金援助データが入っている!」
その言葉が響いた瞬間、会議室の空気が完全に凍りついた。豪田会長の顔色から血の気が引き、役員たちは息を呑み、悲鳴に似た声を上げた。アラブの王族であるファハド殿下やハーリド殿下も、明らかな嫌悪感と警戒心を表情に浮かべ、側近たちがサッと彼らを囲うように前に出た。彼らにとって、過激派組織への資金援助疑惑など、絶対に関わってはならない最大のタブーだからだ。
「も、もちろん、そんなものは私が作り上げた完璧な偽造データだ。だがな、本物のアラビア語の公文書を切り張りして作ったこのデータを、今このスマホから全世界の主要メディアと国際捜査機関に一斉送信したら、どうなると思う?」
一条は血走った目で、ニタリと邪悪な笑みを浮かべた。
「偽造だと証明されるまでに、何年もかかるだろうな。だが、疑惑が出た時点で、大輝物産の株価はストップ安だ。銀行は融資を引き上げ、世界中から取引を停止される。一瞬のうちに、大輝物産という会社は、粉々に消え去るんだよ!」
「一条! 貴様、自分の保身のために、そこまで会社を……」
豪田会長が杖を震わせながら叫んだが、一条は狂ったように笑い飛ばした。
「うるさい! 私をこんな状況に追い込んだのは、お前たちだ! さあ、私の要求を聞け! 今すぐ、会社の金庫から現金50億円を用意し、裏口に逃走用の車を用意しろ!」
そして、一条の濁った眼玉が、ギロリと優衣に向けられた。
「おい、そこの底辺女、お前だ! お前が余計な真似をしたせいで、俺の完璧な計画が台無しになったんだ! 許して欲しければ、今すぐここで、土下座して詫びろ! 俺の革靴を舐めながら、『許してください、一条様』と泣き叫べ!」
「優衣にそんなことをさせるわけがないだろう!」
豪田会長が立ちふさがろうとするが、一条はスマホの画面に親指を突きつけ、ヒステリックに怒鳴った。
「やれ! あと10秒で、送信ボタンを押すぞ! 10、9……」
極限のカウントダウンが始まる。優衣の分厚い黒縁メガネの奥で、瞳が激しく揺れ動いていた。今日初めて見せる、明らかな焦りだった。
どうしよう。私のIQ212の脳でも、データが送信された後のダメージコントロールは不可能。あのデータが世に出れば、おじいちゃんの人生の結晶であるこの会社が、本当に終わってしまう。
「8、7、6……どうした、底辺女! 大切なおじいちゃんの会社が吹き飛んでもいいのか!」
一条の怒号が会議室に響く。優衣はギュッと唇を噛みしめ、拳を白くなるほど強く握りしめた。
そして、優衣は……。
「やめなさい、優衣! そんな男に屈してはだめだ!」
豪田会長の悲痛な叫びを背に受けながら、優衣はゆっくりと膝を曲げ始めた。私が屈辱を受けるだけで、おじいちゃんの会社が守れるなら……。優衣の膝が、高級な絨毯に触れる。
「ははっ! そうだ! そのまま俺の靴を舐めろ! それが、親なしの施設育ちで、学歴もない底辺のウジ虫に一番お似合いの姿だ!」
一条は狂喜乱舞し、優衣の目の前に、自分の汚れた革靴を突き出した。役員たちは誰も目を合わせられず、サイードも悔しそうに顔を背けている。エリート通訳の卑劣な罠の前に、天才少女が完全に敗北した瞬間。誰もがそう思った。
優衣が、一条の靴の前に額を擦りつけようと深く頭を下げた、その時。彼女の視界に、ある異常が飛び込んできた。優衣の顔のすぐ近くにある、一条のスーツのズボンの裾。そこに付着していた、ほんのわずかな白い粉。そして、彼が握りしめているスマートフォンの背面に貼られた、小さな警告シール。その瞬間、優衣の脳内にストックされていた膨大な知識と記憶のデータが、凄まじい速度で火花を散らし、一つの完全な事実を導き出した。
あ……。
優衣の動きが、ピタリと止まった。そして、彼女の顔から、焦りや絶望の色が、波が引くようにスッと消え去っていった。代わりに浮かび上がったのは、絶対零度のように冷たく、そして一条を心の底から哀れむような、不気味なほどの静かな微笑みだった。
「おい、どうした? 早くなめろと言っているだろうが。送信ボタンを押すぞ」
一条が苛立たしげに叫ぶ。優衣はゆっくりと立ち上がった。そして、自分の膝についた埃を軽く払いながら、冷え切った声でこう言い放ったのだ。
「一条さん、あなた、もしかして、昨日から一睡もしていないんじゃないですか?」
「はあ?」
突然の的外れな質問に、一条は目を丸くした。
「何を訳の分からないことを。俺が寝てようが寝てまいが、関係ないだろうが」
「関係、大有りです」
優衣は分厚いメガネを指で押し上げ、一条の顔をまっすぐに見据えた。
「なぜなら、あなたは今、自分がとんでもない勘違いをしていることにすら気づけないほど、思考力が低下しているんですから」
「勘違いだと? ハッタリを言うな! 俺がこの送信ボタンを押せば、全てが終わるんだぞ!」
一条が親指に力を込めようとした瞬間、優衣が氷のような声で、一条の最大の事実を突きつけた。
「最大の事実?」
優衣の氷のような声に、一条の顔がピクッと引きつる。しかし、彼はすぐにいつもの下劣な笑みを貼り付け、優衣を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「はっ、なんだ、命乞いの次はハッタリか。底辺のゴミがIQ212だの何だのと天才ぶって、私を動揺させようとしても無駄だぞ。俺の頭脳は完璧だ。ミスなど一つもない」
一条はそう叫ぶと、親指にギリッと力を込めた。
「終わりだ! お前のおじいちゃんの会社は、今この瞬間に粉々だ!」
ポチッ。一条の親指が、スマートフォンの送信ボタンを、無慈悲にも押し込んだ。
豪田会長が絶望に顔を覆い、役員たちが悲鳴を上げて頭を抱えた。一条は「あーはっは! やったぞ! これで全世界のメディアに大輝物産の裏金データがばらまかれた!」と狂喜乱舞し、万歳するように両手を突き上げた。
しかし、10秒経っても、20秒経っても、一条のスマートフォンからは、送信完了を知らせる通知音は鳴らなかった。それどころか、役員たちのスマホや、部屋の隅にある緊急の直通電話すら、一切鳴る気配がない。静まり返った特別会議室に、一条の空虚な笑い声だけが、虚しく響いていた。
「あれ?」
一条は困惑した顔をして、自分のスマートフォンの画面を覗き込んだ。そして、その顔から、スッと血の気が引いていく。画面の中心で、送信中を示すグルグルとしたアイコンが、ただ虚しく回り続けていたのだ。
「な、なんだ、これ? なぜ送信されない? バグか? クソ、動け!」
一条は血走った目で画面を何度もタップし、スマホを激しく振った。その滑稽な姿を見て、優衣は深いため息をついた。
「だから言ったじゃないですか。あなたは、疲労で思考力が低下し、とんでもない勘違いをしていると」
「黙れ! 何をした、お前! 俺のスマホに何か細工をしたな!」
「私が細工などできるわけないでしょう。ずっと警備員に抑えつけられていたんですから」
優衣は冷淡な目で、一条のズボンの裾を指さした。
「あなたのズボンの裾に付着している白い粉。それは、海外製の強力なカフェイン錠剤を噛み砕いた際に出る粉末です。サイードさんへの毒盛り、偽造データの作成、そして今日の調整の準備。あなたは昨夜から一睡もせず、薬に頼って脳を無理やり覚醒させていた。そのせいで、あなたの脳は限界を迎え、最も初歩的で致命的なことを、すっぽりと忘れてしまったんですよ」
「初歩的なことだと?」
一条はガタガタと震えながら、優衣を睨みつけた。
「ええ。あなたが今握りしめているそのスマホ、背面に小さな赤い警告シールが貼ってありますよね。それは、大輝物産の機密エリア専用端末である証拠です」
優衣はゆっくりと、会議室の天井を指さした。
「一条さん。ここがどこだか、まさか忘れたわけではありませんよね。ここは本社50階の最高機密特別防音会議室。国家レベルの極秘プロジェクトや、今回のような一兆円規模の国際交渉を行うための、完全な密室です」
その言葉を聞いた瞬間、ハッと気づいたように、豪田会長が顔を上げた。優衣の容赦ないロジックが続く。
「この部屋には、外部への情報漏洩を完全に防ぐため、軍事レベルの電波遮断システム、いわゆるジャミング装置が、全面に張り巡らされているんです。この部屋の中では、どんな最新型のスマホだろうと、外部との通信は一切不可能。つまり、完全な圏外なんですよ」
「あっ……!」
一条の口から、間抜けな声が漏れた。彼は震える手で、スマホの画面の上部を見た。そこには、電波のアンテナマークが一つもなく、「圏外」の文字がはっきりと表示されていた。普段なら絶対に気づくはずの、あまりにも初歩的な空間のルール。しかし、睡眠不足と極度のプレッシャー、そして「底辺の少女」に追い詰められたという焦りが、彼のエリートとしての冷静な判断力を、完全に奪い去っていたのだ。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
一条は発狂したように叫び、スマホを高く掲げて部屋の中を走り回り始めた。
「電波、電波を探せ! 窓際なら届くはずだ! 送信させろ! 動け、動け!」
窓ガラスにスマホを押し付け、必死に電波を拾おうとする一条。しかし、分厚い防弾・防電波ガラスは、彼の悪あがきを冷淡に跳ね返した。その惨めで滑稽な姿に、役員たちはもはや怒りすら忘れ、冷淡な、そして強烈な軽蔑の視線を向けていた。
「もうやめろ、一条」
豪田会長が、氷のように冷たい声で言い放った。
「お前のその醜態は、大輝物産の歴史に残る汚点だ。これ以上、アラブの皆様の御前でみっともない真似をさらすな」
「い、嫌だ! 俺は負けない! 俺はエリートだ! こんな高卒の便所掃除なんかに、俺の完璧な人生が……」
一条はスマホを床に叩きつけ、両手で頭を掻きむしりながら、その場にヘタリ込んだ。もはや脅迫のカードは失われ、完全な敗北が確定した。役員の一人が外に待機していた警備員を呼び、一条の身柄を確保するよう命じた。全てが終わった。誰もが安堵し、豪田会長がファハド殿下とハーリド殿下に向かって深い謝罪の言葉を述べようとした、その時だった。
「まだです」
優衣の静かな、しかし力強い声が、再び会議室に響いた。
「優衣、もういいんだ。十分だ」
豪田会長が優しく声をかけるが、優衣は首を横に振った。そして、床にヘタリ込んで悪態を繰り返している一条を見下ろした。
「一条さん。あなたが裁かれるべき罪は、横領未遂とサイードさんへの傷害だけではありません。あなたは、もっと恐ろしい裏切りを、まだ隠していますね」
「え?」
一条が、虚ろな目を優衣に向けた。役員たちも、何事かと再び優衣に注目する。優衣の分厚いメガネの奥で、瞳が鋭く光った。
「先ほど、あなたは『大輝物産が反政府組織に資金援助している偽造データを作った』と言いましたね。本当に、それは偽造ですか?」
本当に、それは偽造ですか? 優衣の放った静かな一言に、一条の顔から、完全に血の気が引いた。
「はあ? な、何を言っているんだ? 偽造に決まっているだろう! 俺が昨日、テロ組織に見せかけるために徹夜で作ったんだ!」
一条は裏返った声で必死に否定する。しかし、優衣は分厚い黒縁メガネの奥で、冷淡かつ論理的な光を放つ瞳を、彼に向けた。
「嘘ですね。あなたには、たった一晩で国際捜査機関を騙せるほど精巧な偽造データを作るような才能はありませんよ」
「な、なんだと? 俺の才能を馬鹿にするな!」
「馬鹿にしているのではなく、事実です。あなたは、一から架空のデータを作ったのではなく、自分の手元にあった本物のデータを流用し、宛先だけを書き換えたんです」
優衣はゆっくりと歩み寄り、床に散らばった一条のスマホを指さした。
「一条さん、あなたがUSBメモリに入れ、スマホにコピーしていたそのデータ。ベースになっているのは、あなたが過去5年間に渡って大輝物産の海外プロジェクトから、少しずつ資金を抜き取っていた、本物の横領記録ですよね?」
その言葉が響いた瞬間、豪田会長と役員たちの顔色が、一変した。
「横領記録だと?!」
一条はガタガタと震え出し、聞きガエルが潰れたような声を出した。
「ち、違う! 出鱈目だ! そんな妄想を、誰が信じるか!」
優衣は、一条の叫びを完全に無視し、静かに目を閉じた。そして、彼女のIQ212の頭脳にアクセスし、膨大な数字の羅列を、まるで歌を歌うように滑らかに暗唱し始めたのだ。
「2021年4月、ドバイ公共開発プロジェクト、資材発注費の架空計上により、2億4000万円が『アル・ハマ・ホールディングス』に。2022年9月、カタールのパイプライン事業、コンサルタント料の名目で、3億1000万円が同社へ。2023年……」
優衣の口から次々と飛び出す、具体的なプロジェクト名、日付、そして1円単位まで正確な金額。それは、大輝物産の経理部長でさえ、机上には出てこない完璧な極秘決済データの羅列だった。
「な、なぜ、お前がその数字を知っているんだ!」
一条は幽霊でも見るかのように後ずさりした。優衣は目を開き、淡々と一条を見下ろした。
「3ヶ月前、あなたが経理部のゴミ箱に捨てた、黒く塗り潰された数十枚の請求書の控え。私は清掃中にそれらを拾い集め、光の透かし具合と紙圧のわずかな凹凸から、黒塗りの下にある数字を全て読み取り、記憶しました。そして、その資金の行き先が、あなたの奥様の旧姓であるダミー会社に繋がっていることを、突き止めていたんです」
「ば、化け物め! お前は人間じゃない!」
一条が恐怖に顔を歪めて叫ぶ。
「人間ですよ。ただ、あなたのように、自分の私服を肥やすために嘘をつく人間とは、少しだけ脳の作りが違うだけです」
優衣は容赦なく、言葉の刃を突き立てた。
「あなたは今日、この調整で一兆四千億という桁外れの横領を成功させるつもりでした。しかし、万が一計画が失敗した時の脅迫用の保険として、自分が過去に行ってきた横領記録の宛先を、アラビア語で反政府組織に書き換え、会社を脅すための『偽造データ』として持ち込んだ。自分の罪の記録を、会社を脅す武器に使うなんて、本当に愚かで浅はかな考えですね」
役員の一人が、床に落ちていた一条のスマホを拾い上げ、画面に表示されたままになっていたデータの詳細を確認した。
「会長、優衣君の言う通りです! 送金先の一部がアラビア語で書き換えられていますが、元のプロジェクト名と日付は、我が社の過去の決済記録と完全に一致しています。一条の奴、何年も前から、会社を内部から食い物にしていたんです!」
「一条、貴様という男は……!」
豪田会長が、杖を握る手をワナワナと震わせた。信じていた部下の、あまりにも深い裏切りと、底知れぬ悪意。一条は、もはや言い逃れができないことを悟り、膝から崩れ落ちた。
「俺は……俺は、ただ自分の才能に見合った報酬が欲しかっただけだ! こんな安い給料で毎日アラブの砂漠を飛び回って、俺がいなければ、大輝物産はここまで大きくならなかったんだぞ!」
なおも自分の罪を正当化し散らす一条。そんな彼に、優衣は静かに近づき、今日一番の冷たく、そして重い一言を放った。
「一条さん。あなたは私を、『親のない底辺』『学歴もないゴミ』と、何度も侮辱しましたね」
その言葉に、会議室が水を打ったように静まり返った。優衣は、一条の濁った目をまっすぐに見据えた。
「確かに、私は施設で育ちました。立派な学歴もありません。でも、私は自分の能力を、誰かを騙したり、おじいちゃんの会社を傷つけたりするためには、絶対に使いません」
優衣の声は、怒りではなく、深い哀れみに満ちていた。
「会社の金を盗み、人に毒を盛り、保身のためにテロ組織の名前まで利用する。私から見れば、そんなあなたの魂の方が、よっぽど貧しく、救いようのない『底辺』ですよ」
IQ212の天才少女が下した、完璧な死刑宣告。その言葉の重みに、一条の肥大化したプライドは、完全に打ち砕かれた。彼は「ああ……ああ……」と低いうめき声を上げながら、その場に力なく両手をついたのだった。
その静寂を破るように、アラブ側の専属通訳であるサイードが、冷淡な声で告げた。
「一条さん。あなたにもう一つ、絶望的なお知らせがあります」
サイードは手元のスマートフォンを操作し、一枚の画面を一条に向けた。
「私が、優衣さんに救出され、ここへ向かう車の中で、ファハド殿下の名において、国際金融当局に緊急の通報を行いました。あなたのダミー会社である『アル・ハマ・ホールディングス』は、テロ資金供与の疑いにより、たった今、全世界で完全凍結されました」
「凍結……?」
一条の濁った目が、ピクッと動いた。
「あなたが過去5年間に渡って大輝物産から盗み出し、溜め込んでいた数十億円の裏金は、全て電子の海へ消えました。一円とも、あなたやあなたの家族の元には戻りません。あなたの資産は、完全にゼロになったのです」
「ゼロ? 俺の、俺の金が……」
一条の顔が、恐怖と絶望で激しく歪む。その時だった。重厚な防音扉の向こうから、ドタドタという複数の荒々しい足音が近づいてきた。扉が勢いよく開かれ、制服姿の警察官たちが、数名、会議室になだれ込んできたのだ。
「警視庁捜査二課です。大輝物産の役員の方から、大規模な業務上横領と監禁傷害の疑いで通報を受けました。一条という男は、どこですか?」
役員の一人が、床にいる一条を無言で指差した。警察官たちが鋭い目つきで一条を取り囲む。
「一条さんですね。署までご同行願います」
パチン。手錠の冷たい金属音が鳴り、一条の手首に拘束がかけられた。その冷たい感触に、一条はついに現実を理解した。全てを失った。エリートとしての地位も、金も、名誉も。これから待っているのは、国際的な大事件を引き起こした大罪人としての、何十年にも及ぶ暗い刑務所生活だ。
「い、嫌だ! 刑務所なんて嫌だ! 俺はエリートなんだ! こんなところで終わる人間じゃないんだ!」
一条は発狂したように叫びながら、警察官の腕を振り払い、這うようにして、ある人物の足元へすがりついた。彼が助けを求めた相手。それは、つい先ほどまで自分が「底辺のゴミ」と罵り、土下座を強要した相手だった。
「ゆ、優衣ちゃん! いや、優衣様! 豪田会長のお孫様!」
一条は、優衣の安いローファーに額を擦りつけ、大粒の涙と鼻水を垂れ流しながら、醜く叫び始めた。
「俺が悪かった! 俺が全部間違っていた! 君は天才だ! 俺なんかより、ずっと素晴らしい人間だ! だから頼む! 会長やアラブの王族に口利きをして、被害届けを取り下げるように言ってくれ! 頼む! 俺には妻も子供もいるんだ! 靴でも何でも舐める! これからは君の奴隷として、便所掃除でも何でもするから、どうか、どうか助けてくれ!」
先ほどまでの高圧的な態度はどこへやら。床に額を擦りつけ、必死に命乞いをするその姿は、あまりにも滑稽で、そして哀れだった。まさに、完全なる土下座である。会議室に響き渡るエリート通訳の号泣と命乞い。役員たちは冷淡な目を向け、誰も彼を助けようとはしなかった。
優衣は、自分の足元で泣き叫ぶ一条を、ただ静かに見下ろしていた。その瞳には、怒りも復讐の喜びもなかった。ただ、どこまでも静かで、深い哀れみだけが浮かんでいた。やがて、優衣はゆっくりと口を開いた。
「一条さん。あなたは先ほど、私にこう言いましたね。『この調整を妨害した損害賠償として、一生かかっても払えない数億円を請求してやる。自己破産して、一生泥水でもすって生きろ』と」
自分の吐いた呪いの言葉をそのまま返され、一条はビクンと肩を震わせた。
「言葉には、責任が伴います。特に、自分の利益のために他人の人生を踏みにじろうとした言葉には、相応の罰が下るんです。あなたが私に突きつけたその未来は、今、あなた自身のものになりました。しっかりと、自分の罪と向き合ってください」
優衣の言葉は、決して感情的ではなかった。だからこそ、それは一条にとって、どんな罵詈雑言よりも重く、冷淡な最後通告として響いた。
「あ、ああ……」
警察官たちが、一条の両脇を抱え上げ、強制的に引き立てた。
「さあ、歩け。見苦しいぞ」
「嫌だ! 助けてくれ! 俺はエリートなんだ!」
扉の外へと引きずり出されていく一条。その悲痛な叫び声は、分厚い防音扉が重々しい音を立てて閉まると同時に、完全に遮断された。会議室に、再び深い静寂が戻ってきた。大輝物産を内部から食い物にしていた巨大な悪は、一人の高卒の少女の、底知れぬ才能によって、完全に排除されたのだ。
役員たちは深く息を吐き、ある者はヘナヘナと椅子に座り込んだ。しかし、安堵するにはまだ早かった。大きな爆弾が、まだテーブルの中央に残されているのだ。豪田会長が、重い足取りでハーリド殿下、そしてファハド殿下の前へと進み出た。そして、日本経済の頂点に立つ男が、深く、深く頭を下げたのだ。
「ファハド殿下、ハーリド殿下。我が社の愚かな社員が、あなた方に信じられないほどの無礼を働き、騙そうとしたこと。会社のトップとして、心よりお詫び申し上げます」
豪田会長の震える声が響く。
「この一兆四千億円のインフラ契約は、我が社のような不義理を働いた者が請け負うべきではありません。大変無念ではありますが、本契約は、我が社の方から辞退させていただきます」
その言葉に、役員たちが絶望の表情を浮かべた。仕方がない。王族を騙そうとしたのだ。契約どころか、国際問題にならなかっただけでも幸運である。大輝物産は、最大のチャンスを永遠に失ったのだ。誰もがそう思った、その時だった。
「誰が、契約を辞退して良いと言った?」
ファハド殿下の威厳に満ちたアラビア語が、静かに、しかし絶対的な力を持って、会議室に響いた。通訳のサイードが、それを驚いたような顔で日本語に訳す。豪田会長が、ハッと顔を上げた。
「ええっ?」
ファハド殿下は、ゆっくりと立ち上がると、豪田会長を通り越し、部屋の隅に立っていた優衣の目の前まで歩み寄った。そして、信じられないような優しい微笑みを浮かべ、アラビア語でこう告げたのだ。
「日本の若き天才少女よ。我がアラブの王族は、決して恩を忘れない。この一兆四千億円の契約。私は、ある一つの条件で良ければ、今すぐこの場で喜んでサインしよう」
ファハド殿下が優衣に突きつけた「ある条件」。それを聞いた瞬間、豪田会長も役員たちも、そして優衣自身も、ド肝を抜かれることになるのだった。
「我がアラブの王族は、決して恩を忘れない。この一兆四千億円の契約。私は、ある一つの条件で良ければ、今すぐこの場で喜んでサインしよう」
アラブの最高権力者、ファハド殿下の口から出た予想外の言葉。大輝物産の役員たちは、息を呑んで殿下の次の言葉を待った。ファハド殿下は、優衣の分厚い黒縁メガネの奥にある澄んだ瞳をまっすぐに見つめ、ゆっくりと告げた。
「条件は一つ。この一兆四千億円のインフラ開発プロジェクトの、日本側最高責任者。これを、この少女に据えることだ」
「ええっ!?」
優衣は思わず素頓狂な声を上げた。豪田会長も、役員たちも、全員が耳を疑い、口をあんぐりと開けた。
「た、殿下、お待ちください」
役員の一人が慌てて前に出た。
「彼女は、我が社の新人であり、会長のお孫様でもあります。しかしまだ18歳の新入社員で、実務経験が全く……」
「経験など、後からいくらでもついてくる」
ファハド殿下は、威厳に満ちた声で役員を制した。
「私が評価しているのは、彼女の底知れぬIQ212の頭脳だけではない。権力に媚びず、我が一族の些細な懸念から巨大な悪意を見抜き、身の危険を顧みずに真実を叫んだ、圧倒的な勇気と誠実さだ」
殿下は、優衣に向かって深く温かい微笑みを向けた。
「ビジネスにおいて最も重要なのは、決して裏切らないという信頼だ。この少女とならば、私は我が国の未来を安心して預けることができる。豪田会長。いかがかな?」
通訳のサイードからその言葉を聞いた豪田会長は、目から大粒の涙をこぼした。そして、杖をつきながらゆっくりと優衣の前に歩み寄り、その小さな両肩を、皺だらけの手でしっかりと包み込んだ。
「優衣。お前は今日、大輝物産を、何千人もの社員の生活を、そして何より、この不肖な祖父を救ってくれた。おじいちゃん。これまで、一人で苦労をかけたな。これからは、私がお前に全てを教えよう。さおりが残してくれた、この世界一の宝物を、私が責任を持って、大輝物産を背負って立つ、立派な人間に育て上げる」
豪田会長の力強い宣言に、役員たちも一斉に深く頭を下げた。もはや、優衣を「高卒の雑用係」と見下す者は、この部屋には一人もいなかった。全員が、彼女の才能と人格に、心からの敬意を払っていたのだ。
優衣の目から、堪えていた涙が、止めどなく溢れ出した。親の顔も知らず、施設で孤独に生きてきた少女。ただ遠くから祖父の会社を支えたいと願い、トイレ掃除やお茶汲みを、文句一つ言わずにこなしてきた日々。その全てが、今、最高の形で報われたのだ。
優衣は涙を袖で拭うと、分厚いメガネを外し、凛とした表情でファハド殿下と向き合った。メガネの奥から現れたその素顔は、かつて豪田会長が溺愛した娘、さおりに瓜二つだった。優衣は、完璧で美しいアラビア語で、深く一礼して答えた。
「偉大なるファハド殿下。その身に余る光栄、謹んでお受けいたします。私のIQ212の頭脳を、これからの人生の全てをかけて、両国の未来のために尽力することを、お約束します」
その堂々たる宣言に、ファハド殿下は満足そうに大きく頷いた。ハーリド殿下も、側近たちも、満面の笑みで拍手を送った。
「さあ、おじいちゃん……いや、豪田会長。サインを」
優衣は、サイードが持参した本物の契約書をテーブルの中央に広げ、先ほど一条が叩き落とした高級万年筆を拾い上げ、会長に手渡した。
「ああ、ありがとう、優衣」
豪田会長は万年筆を受け取ると、今度こそ迷うことなく、契約書の最終ページに力強くサインを書き入れた。ハーリド殿下もそれに続き、流れるようなアラビア文字でサインをする。一兆四千億円の中東インフラプロジェクト。悪意に満ちた罠を乗り越え、真の信頼関係によって結ばれた、歴史的な契約が、ここに成立したのだ。最高機密の特別防音会議室は、割れんばかりの歓喜の拍手に包まれた。
それから半年後。大輝物産の本社ビル50階の役員会議室には、かつての地味な制服姿から一変、仕立ての良いオーダーメイドのスーツをビシッと着こなし、堂々たる態度でプレゼンテーションを行う優衣の姿があった。
「以上が、ドバイにおける次世代スマートシティ開発の第一フェーズにおける、コスト削減のシミュレーションです。私の計算では、現地の資材調達ルートを最適化することで、さらに300億円の利益を生み出すことが可能です」
完璧なアラビア語と日本語を交えた、理路整然とした完璧なプレゼン。役員たちは感嘆のため息をもらし、必死にメモを取っている。今や彼女は、大輝物産中東プロジェクト統括本部長として、誰もが認める若きリーダーとなっていた。
会議が終わり、役員たちが退出していく中、上座に座っていた豪田会長が、嬉しそうに目を細めて優衣を見た。
「素晴らしいプレゼンだったぞ、優衣。お前がいてくれるおかげで、わしも安心して引退できそうだ」
「何言ってるのおじいちゃん。まだまだ現役で頑張ってもらわないと困るわよ。私のIQ212でも、おじいちゃんの長年の経営者の勘には、まだ勝てないんだから」
優衣がいたずらっぽく笑うと、豪田会長も「はっはっは」と豪快に笑った。窓の外には、雲一つない青空と、どこまでも広がる東京の街並みが輝いている。かつて「変人」と見下され、孤独だった天才少女は、自らの勇気と誠実さで未来を切り開き、かけがえのない家族と共に歩む幸せを手に入れた。
「さ、次の中東出張の準備をしなくちゃ。ドバイのみんなも待ってるわ」
優衣は資料を抱え、軽やかな足取りで未来へと歩き出す。彼女の顔には、もう分厚い黒縁メガネは必要なかった。その真っ直ぐで澄んだ瞳は、どんな困難な壁も、どんなに複雑な未来も、はっきりと見据えているのだから。



