銀行のATMの前で、息子が突然こう言い放ったのです。
「世話になる気はない」
たった今、1500万円を振り込んだばかりだというのに。私は心の中で何かが崩れ落ちるのを感じました。
「え……シンジ、今なんて?」
「だから、もう母さんの世話になる気はないって言ったんだ」
息子の真司は冷たい目で私を見つめました。隣に立つ嫁の美香も、同じような表情をしています。
でもほんの数分前まで、シンジは満面の笑みでこう言っていたのです。
「母さん、本当にありがとう。確かに振り込まれてる」
スマートフォンの画面を確認しながら、美香も感謝の言葉を口にしていました。
「これで念願のマイホームが立てられるわね」
老後の資金として貯めていた退職金を前借りしてまで用意した1500万円。息子家族の幸せそうな顔を見られて、私は本当に良かったと思いました。
しかし、振り込みを確認した途端、二人の態度が一変したのです。
「お金は確かに受け取ったけど、それとこれとは別の話だ。俺たちには俺たちの生活がある。もう親子関係は終わりにしよう」
シンジは言い放ちました。
「お母さんもこれで肩の荷が下りるでしょう」
ATMの画面には、まだ振り込み完了の文字が残っていました。
まさか、お金を受け取った瞬間に絶縁を言い渡されるなんて。
私の名前は三浦京子、63歳。小学校の教諭として37年間、子供たちの成長を見守ってきました。5年前に夫を亡くしてからは、郊外の小さな家で一人暮らしをしています。
息子のシンジが結婚したのは8年前のこと。それ以来、私はできる限りの援助を続けてきました。
「母さん、今月も生活が苦しくて」
そう言われれば、月15万円の仕送りを欠かさず続けました。
「車がないと仕事に出られないんだ」
懇願されれば、200万円を工面して車の購入資金にしました。
孫が生まれてからは、教育費も援助してきました。習い事や幼稚園の学費、全て私が負担しました。
そして3ヶ月前のことです。
「母さん、実は家を建てたいんだけど、頭金があと1500万円足りなくて」
シンジは申し訳なさそうに頭を下げました。
「お願いします。お母さんの退職金を前借りしてでも、なんとか工面していただけませんか?」
美香も必死にお願いしてきます。
「必ず恩返しします。老後は私たちが面倒を見ますから」
その言葉を信じて、私は決断しました。学校に頭を下げ、退職金を前借りし、泣けなしの貯金も全て注ぎ込んで、1500万円を用意したのです。
これまでの援助総額は、2000万円を超えていました。
振り込みをする前日のことを思い出すと、今でも怒りと悲しみで体が震えます。
「お母さん、本当にありがとうございます。お母さんは私たちの恩人です」
美香はそう言いながら、私の手を両手で包み込むように握りました。瞳には涙さえ浮かんでいました。
「老後は必ず私たちがお世話しますから、安心してくださいね」
シンジも深々と頭を下げました。
「母さんがいなかったら、俺たちは家なんて立てられなかった。本当に感謝してるよ」
その時の二人の目は、確かに優しさに満ちていました。
しかし、ATMで振り込みを確認した瞬間、まるで仮面を脱ぎ捨てるように、二人の態度は一変したのです。
「さっきの話の続きだけど」
真司が切り出しました。表情からは温かさが完全に消えていました。
「もう母さんに用はないから、今後は連絡も取らなくていいよ」
用はない。私は言葉を失いました。
美香が冷たく言い放ちました。
「はっきり言わせてもらうけど、お金だけが目的だったの。悪いけど、それが本音よ」
「でも、老後の面倒を見るって……」
私が震え声で言うと、美香は鼻で笑いました。
「本気で信じてたの? 介護なんてする気ありませんから。施設にでも入ればいいじゃない」
「正直、お母さんがいると息苦しいのよね。いちいち生活に口出しされたくないし、孫の教育方針にも干渉されたくない」
「私、そんなに口出ししていましたか?」
「してたじゃない。料理の味付けがどうとか、掃除の仕方がどうとか。私には私のやり方があるの」
シンジが美香を止めようとしましたが、美香は構わず続けました。
「邪魔になる前に縁を切りたいって、前から真司とも話してたのよ。ちょうどいいタイミングだったわ。1500万円もらえたし、これで完全に縁切りできる」
私はシンジを見つめました。息子は目をそらしました。
「シンジ、あなたもそう思っていたの?」
長い沈黙の後、シンジは口を開きました。
「母さん、悪く思わないでくれ。でも正直、母さんも年だし、これ以上面倒を見るのは大変なんだ」
面倒。私が面倒だというの。
「俺たちには俺たちの生活がある。いつまでも親に縛られたくないんだよ」
「縛る? 私があなたを縛ったことがありますか?」
「金銭的な援助を受けてる以上、どうしても母さんの顔色を伺うことになる。それが嫌なんだ。月に一度は顔を見せろとか、電話しろとか」
「月に一度の連絡が、そんなに負担だったの?」
「正直、母さんと話すことなんて何もない。世代も違うし価値観も違う。会話が続かないんだ」
「でも、その援助を求めてきたのは、あなたたちでしょう?」
私が反論すると、真司は開き直るように言いました。
「それとこれとは別だよ。1500万円もらえれば、もう十分だ。これで俺たちは完全に自立できる」
自立。今まで散々援助を受けておいて、その瞬間、心の奥から悲しみが溢れ出しました。この8年間で2000万円以上も援助してきたのに。
「もう母さんに頼る必要はないんだ」
シンジは冷たく言い放ちました。
「俺たちの生活に口出しされたくない。孫の顔を見せろとか、家に来いとか、そういうのも全部なしだ。孫は俺たちの子供で、母さんの子供じゃない」
「孫にも合わせないというの?」
「そうだよ。はっきり言って、母さんの教育方針は古いんだ」
美香が横から付け加えました。
「私たちはお母さんの遺産なんて当てにしていません。どうせ大した額じゃないでしょうし。今回の1500万円でもう十分です」
それから美香は、思い出したように言いました。
「新しい家の敷地には入らないでくださいね。私たちの家ですから」
シンジが最後に言いました。
「母さんも残りの人生を自由に生きて、お互い干渉しない。それが一番いい」
美香がとどめを刺すように言いました。
「もう会うこともないでしょうけどね。今回の1500万円できっぱり終わり。すっきりしたわ」
二人は私を銀行のATMコーナーに残して、さっさと歩き去っていきました。振り返ることもなく。
私は呆然と立ち尽くしました。37年間の教師生活で、多くの親子を見てきました。でも、まさか自分の息子がこんな仕打ちをするとは。
しかし、私にはまだ切り札がありました。それを思い出した時、悲しみは大きな怒りへと変わっていきました。
その日の夜、私は一人で自宅に戻りました。リビングのソファに座り、亡き夫の写真を見つめていました。
「あなたなら、こんな息子をどう思う?」
そう心の中で問いかけていた時、ふと思い出したのです。大切な書類を保管している金庫のことを。
私は書斎に向かい、金庫を開けました。そこには様々な重要書類が並んでいました。その中から、一枚の書類を取り出しました。
土地権利書。
そこには、はっきりと私の名前が記されていました。三浦京子、所有者として。
そうです。息子夫婦が家を建てようとしている土地は、実は私の名義のままだったのです。
3年前、シンジが将来家を建てたいと相談してきた時、私は郊外に所有していた土地を提供することを約束しました。亡き夫の実家から相続した、300坪の土地です。当時の評価額は3000万円でした。
「いずれ名義変更しておくわ」
私はそう言って、手続きを忘れていました。息子も私を信じていたので、せかすこともしてきませんでした。
まさか、こんな形で役立つ日が来るとは。
翌朝、私はシンジに電話をかけました。
「おはよう、シンジ」
「母さん、何の用? 昨日絶縁するって言ったよね」
シンジの声は、明らかに迷惑そうでした。
「ちょっと確認したいことがあってね」
「何? 手短に頼むよ」
「家を建てる土地のことなんだけど」
私は静かに切り出しました。
「土地がどうかした?」
「実は土地の名義、まだ私のままだったの」
電話の向こうで、シンジが息を飲む音が聞こえました。
「え?」
「確認したら、名義変更の手続きをしていなかったのよ。つまり、あの土地の所有者は私、三浦京子のままなの」
長い沈黙が流れました。
「そ、そんなはずは……」
シンジの声が揺れていました。
「権利書を見れば分かるわよ。法務局で確認してみたら」
「ちょっと待ってくれ」
電話の向こうで、シンジが美香に説明する声が聞こえてきました。
「どういうこと?」
美香の悲鳴のような声が響きました。
「母さん、今から家に行く」
「どうぞ。でも、他人が勝手に家に来るのは困るんですけど」
私は冷たく言いました。
30分後、息子夫婦が顔色を変えてやってきました。
「母さん、どういうことだよ」
真司は玄関先で詰め寄りました。
「どういうことも何も、事実を伝えただけよ」
私は冷静に応じました。
リビングに通すと、真司はすぐに問い詰めてきました。
「名義変更するって約束だったじゃないか」
「約束? いつ、そんな約束をしましたか?」
「3年前に、土地を使っていいって言ったじゃないか」
「使っていいとは言いました。でも、あげるとは言っていません」
美香が口を挟みました。
「でも私たちはもう建築会社と契約してるのよ。来月から工事が始まるの」
「それは知りませんでした。土地の所有者に無断で」
「無断って、家族じゃない!」
美香が叫びました。
「家族?」
私は首をかしげました。
「昨日、絶縁すると言ったのはあなたたちでしょう。もう家族ではないと」
シンジの顔が真っ赤になりました。
「それは……でも、土地は別だろう」
「なぜ別なんですか?」
「だって俺たちが家を建てる前提で、話が進んでたんだから」
「前提?」
私は立ち上がり、金庫から土地の権利書を取り出してきました。
「これを見てください」
震える手で権利書を受け取った真司は、所有者欄を食い入るように見つめました。確かに「三浦京子」と記されています。
「これは3000万円の価値がある土地です。これを無償で提供すると思いますか?」
「でも、親子だろう!」
シンジが声を荒げました。
「親子? 私は静かに笑いました。あなたは昨日、何と言いましたか? 『もう親子関係は終わりにしよう』と。私はその言葉を尊重しているだけです」
美香が泣きそうな顔で言いました。
「お母さん、お願いします。1500万円も払ったのに」
「払った? あれは家の頭金として払っただけでしょう。土地代ではありません」
「じゃあ、土地はどうするんだ?」
シンジが怒鳴りました。
「賃貸します。月額20万円でいかがですか?」
「20万円!」
「相場より安いですよ。あの立地なら、月30万円は取れます」
「そんな金払えるわけないだろう!」
「でしたら、他の土地を探してください」
真司が突然、私の腕を掴みました。
「今すぐ名義変更してくれ」
「痛い……話して」
「名義変更するまで話さない」
真司の目は据わっていました。
「これは脅迫です。警察を呼びますよ」
私がそう言うと、美香が真司を止めました。
「やめて、余計なことになる」
シンジは舌打ちをして、手を話しました。
「母さん、頼む。土地がないと家が立てられない」
今度は懇願するような口調に変わりました。
「知りません」
「1500万円返すから、土地を譲ってくれ」
「返す? もう建築会社に払ったんでしょう」
シンジと美香は顔を見合わせました。
「それは……できません」
私ははっきりと言いました。
「もう家族ではないので、他人に3000万円の土地を無償で提供する理由はありません」
「母さん……」
「お帰りください」
私は玄関を指差しました。
「これで終わりじゃない。絶対に土地を奪ってやる」
シンジは捨てゼリフを残して出ていきました。
私は震える手でスマートフォンを取り出しました。そして、以前から相談していた弁護士に電話をかけました。
「先生、三浦です。ついに息子が本性を表しました。今すぐ法的措置を取りたいのですが」
弁護士事務所は、駅前のビルの一角にありました。
「三浦さん、お待ちしていました」
顧問弁護士の高橋先生が、温かく迎えてくれました。夫の代から20年以上お世話になっている、信頼できる方です。
「先生、もう我慢の限界です」
私はソファに座ると、すぐに切り出しました。
「電話でお聞きした件ですね。1500万円を受け取った直後に絶縁宣告。そして土地の無断使用。これは看過できない問題ですね」
高橋先生は真剣な表情で言いました。
「息子夫婦を訴えることは可能でしょうか?」
「十分可能です」
高橋先生は力強く頷きました。
「まず、詐欺罪での告訴が考えられます。老後の面倒を見るという虚偽の約束で金銭を詐取した。これは立派な詐欺です」
「さらに、強迫未遂の疑いもあります。そして土地については、明け渡し請求ができます。無断で建築計画を進めているなら、差し止め請求も可能です」
「本当ですか?」
「ただし、証拠が重要です。何か証拠はお持ちですか?」
「実は……」
私はバッグから、分厚いファイルを取り出しました。
「これまでの援助の記録を、全て残してあります」
高橋先生は驚いた表情でファイルを開きました。
「素晴らしい。通帳のコピー、振り込み明細書、全て揃っていますね」
「8年間で、総額2000万円以上援助してきました」
「これだけあれば十分です」
「他には……お金を振り込んだ日の会話を録音してあります」
私はスマートフォンを取り出し、録音を再生しました。
『もう母さんに用はないから』『お金だけが目的だったの』『介護なんてする気、最初からありませんから』
高橋先生の表情が、険しくなっていきました。
「これはひどい。完全に計画的な詐欺です」
「メールもあります」
私はスマートフォンでメールを見せました。
「『お母さんのおかげで幸せな家庭が築けます』『老後は必ず私たちがお世話します』。全て、1500万円を要求してきた後の感謝と恩返しを約束する内容でした」
「完璧です」
高橋先生は確信を持って言いました。
「これだけの証拠があれば、確実に勝てます」
「でも、息子たちはどんな反撃を……」
「大丈夫です。法律は正義の味方です」
高橋先生は立ち上がりました。
「まず、内容証明郵便を送ります。土地の使用禁止と、1500万円の返還請求です」
「返還請求もできるんですか?」
「詐欺による契約は無効です。ただし、相手が素直に応じるとは思いません。そこでもう一つ、提案があります」
「何でしょうか?」
「明日、息子さんの職場に行きましょう」
「職場に?」
私は驚きました。
「はい。正式な法的手続きとして、職場で通告するんです。執行官も同行させます」
「それは……シンジが……」
「三浦さん」
高橋先生は真剣な目で私を見つめました。
「息子さんは、あなたに恥を欠かせたんですよ。銀行で、人前で、絶縁を宣告した。それなら、同じように人前で責任を取らせるべきです」
確かに、そうかもしれません。
「真司さんの会社は、上場企業ですよね」
「はい。営業部の課長をしています」
「なら、なおさら効果的です。会社のコンプライアンスも関わってきます。社員が詐欺で訴えられるとなれば、会社も無視できません」
高橋先生は続けました。
「さらに、建築会社にも通知を送ります。土地の所有者が建築を認めていないことを、正式に伝えるんです」
「建築会社も巻き込むんですか?」
「必要です。無断で他人の土地に建築することは違法です」
「はあ……」
私は深く息を吐きました。
「三浦さん、悩むお気持ちは分かります。でも、理不尽に負けてはいけません」
「はい。やります」
私は決意しました。
「分かりました。では、今から準備を始めましょう」
高橋先生はすぐに行動を開始しました。
「秘書、書類の作成を指示してください。内容証明郵便、土地使用差し止め請求、詐欺罪での告訴状、全て同時に準備します。執行官の手配もお願いします」
秘書は頷いて、部屋を出ていきました。
「三浦さん、明日の朝、ここで待ち合わせましょう。執行官と一緒に、息子さんの会社へ向かいます」
「分かりました」
「服装は、きちんとした格好で。あと、これも持っていてください」
高橋先生は名刺を渡しました。
「私の名刺を、建築会社にも渡してください。土地の件で弁護士に相談していると伝えれば、相手も慎重になるはずです」
事務所を出る時、高橋先生が言いました。
「三浦さん、明日で全てが変わります。覚悟はいいですね」
「はい」
私は力強く頷きました。
翌朝、ついに決行の時が来ました。朝早く、私は高橋弁護士、そして執行官と共に、シンジの会社へ向かいました。
大手企業のビルは、都心の一等地にそびえ立っていました。ガラス張りの立派なエントランスには、多くのビジネスマンが行き交っています。
受付で来意を告げると、シンジが顔色を変えて降りてきました。
「母さん、何しに来たんだ?」
シンジは私を見るなり怒鳴りました。その声の大きさに、ロビーにいた人々が一斉にこちらを振り返りました。
「正式な法的手続きのためです」
高橋弁護士が冷静に答えました。
「執行官の立ち合いのもと、書類をお渡しに参りました」
「ここは俺の職場だぞ!」
シンジの顔は、怒りで真っ赤になっていました。
「存じております。だからこそ、確実にお渡しできると判断しました」
執行官が前に出ました。制服姿の執行官の登場に、周囲がざわめきました。
「三浦真司さんですね。土地の明け渡し請求書、及び詐欺罪による告訴状をお渡しします」
朝の出社時間で、ロビーには多くの社員が行き交っていました。皆が立ち止まり、この異様な光景を見つめています。中には、スマートフォンを取り出す者もいました。
「詐欺だって!?」
信司の声が響き渡りました。
「はい」
高橋弁護士が書類を広げました。
「虚偽の約束により1500万円を詐取した疑いです。また、他人の土地に無断で建築を計画した不法行為についても、追求します」
「課長、どうしたんですか?」
シンジの部下らしき社員が、心配そうに近寄ってきました。
「いや、これは誤解なんだ」
シンジは言葉に詰まりました。額には油汗が浮かんでいます。
「三浦課長」
上司らしき年配の男性が現れました。
「部長、どういうことだ?」
「執行官まで来て……」
部長は厳しい表情で信司を見ました。
「お母様とのトラブルですか?」
高橋弁護士が説明しました。
「三浦真司氏は、母親から1500万円を詐取し、さらに3000万円相当の土地を無断で使用しようとしています」
「なんだと」
部長の顔色が変わりました。
「これは会社のコンプライアンス委員会に報告しなければならない案件だが」
「部長、違うんです。家族間の問題で」
シンジが必死に弁解しようとしました。
「家族間でも、詐欺は詐欺だ。後で詳しく聞く。とりあえず会議室へ」
私たちは会議室に通されました。そこで正式に書類が手渡されました。
「72時間以内に、土地から完全撤退すること。建築会社との契約を即座に解除すること。1500万円を7日以内に返還すること。従わない場合は、刑事告訴の手続きに入ります」
執行官が読み上げました。
真司の顔は、真っ青でした。手が震えています。
「そんな……建築会社には手付け金を500万円も……」
「それはあなたの問題です」
私は冷たく言いました。
「他人の土地に家を立てようとした、その責任を取ってください」
会議室を出ると、フロア中の視線が真司に集まっていました。
「詐欺罪って聞こえたけど」「執行官まで来てたよ」という噂話が聞こえてきます。
シンジは顔を真っ赤にして、俯いていました。
会社を出た後、私たちは建設予定地へ向かいました。そこには、すでに建築会社のトラックが止まっていました。
「おい、どういうことだ?」
現場監督らしき男性が、真司に詰め寄りました。
「土地の所有者から、工事中止の通達が来たぞ」
美香も現場に駆けつけていました。
「お母さん!」
美香は私を見るなり叫びました。
「どういうつもりですか? もう基礎工事の準備まで進んでいるのに」
「どういうつもりも何も、私の土地です」
私は土地の権利書を見せました。
「所有者の許可なく、建築はできません」
そこへ、建築会社の社長が到着しました。
「三浦真司さん、説明してもらえますか?」
「社長、これは……」
「母が急に……」
「土地の名義が、あなたじゃないって本当ですか?」
「それは……いずれ変更する予定で……」
シンジは言葉に詰まりました。
「契約違反です」
社長は怒りを露わにしました。
「土地の所有権を偽って契約したんですか? これは重大な背信行為だ」
社長は部下に指示しました。
「すぐに損害を計算しろ」
「はい。手付け金500万円は違約金として没収。設計費用150万円。建築確認申請費用50万円。資材の手配費用100万円。人件費で100万円。合計で900万円の損害です」
美香が悲鳴をあげました。
「そんな金額……」
「詐欺! お母さんが詐欺師よ! 私たちを落とし入れようとして!」
美香が叫びました。
「詐欺?」
私は美香を見つめました。
「1500万円もらって、用はないと言った。どちらが詐欺師ですか?」
美香は言葉を失いました。
「測量を始めます」
執行官が測量士を呼びました。測量の結果、すでに基礎工事の準備で土地を整地し、杭まで打っていたことが判明しました。
「現状回復費用、約200万円ですね」
測量士が見積もりを出しました。
「200万円……」
シンジは、膝から崩れ落ちました。
「母さん、お願いだ」
突然、真司が土下座しました。アスファルトの上に額を擦りつけています。
「許してください。俺たちが間違っていました」
美香も慌てて土下座しました。
「お母さん、お願いします。全部で1100万円以上の損害になってしまいます。破産してしまいます」
「破産?」
私は見下ろしました。
「私が受けた精神的苦痛に比べれば、安いものです」
「母さん!」
シンジが顔をあげました。涙で顔がぐしゃぐしゃになっていました。
「本当に申し訳ありませんでした。絶縁なんて、本気じゃなかったんです」
「本気じゃなかった?」
私は録音を再生しました。
『もう母さんに用はない』『お金だけが目的だった』『介護なんてする気ない』『邪魔になる前に縁を切りたい』
シンジと美香の声が、現場に響き渡りました。
建築会社の社長が、呆れた顔をしました。
「これはひどい。親にこんなことを言うなんて、人として最低だ」
現場監督も首を振りました。
「こんな人間とは、関わりたくないな」
「違うんです!」
美香が必死に弁解しようとしました。
「これは、その時は感情的になって……」
「感情的?」
私は美香を見つめました。
「8年間で2000万円以上も援助を受けながら、計画的に1500万円を騙し取ったんでしょう」
高橋弁護士が、メールの証拠も提示しました。
「『老後の面倒を見る』『一生恩返しする』。全て嘘でしたね」
社長は首を振りました。
「三浦真司さん、7日以内に900万円を支払ってください。払えない場合は、法的措置を取ります」
社長は部下を連れて、帰って行きました。
「母さん、助けてくれ」
シンジが、すがるような目で見上げてきました。
「私たち、もう他人でしょう」
私はシンジの言葉を、そのまま返しました。
「他人を助ける義理はありません」
「でも、親子じゃないか!」
「親子? あなたが絶縁したんです」
私は言い返しました。
「母さん、お願いします!」
シンジと美香の叫び声が背後から聞こえましたが、私は振り返りませんでした。
その日の夕方、シンジから電話がありました。
「母さん、会社を首になりそうだ」
「そうですか」
「コンプライアンス違反で、懲戒委員会にかけられる」
「自業自得です」
「美香と離婚することになった」
「それも、あなたの問題です」
私は電話を切りました。
こうして、全てが終わりました。息子夫婦の人生は完全に破綻し、私は完全な勝利を手にしたのです。
あれから3ヶ月が経ちました。私の生活は、驚くほど充実したものになっていました。
私はのんびりとコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいます。以前ならこの時間は、シンジからの無心の電話に怯えていた時間でした。でも今は、誰にも邪魔されない静かな朝を楽しんでいます。
「京子さん、おはよう」
窓の外から、隣の佐藤さんが声をかけてきました。
「今日のフラワーアレンジメント教室、楽しみね」
「ええ、とても楽しみです」
私は微笑みました。
そう、私は新しい趣味を始めたのです。フラワーアレンジメント。夫を亡くしてから長い間諦めていたことを、今は思う存分楽しんでいます。
あの1500万円は、全部自分のために使うことにしました。
「京子さん、フラワーアレンジメント教室、すごく楽しいわね」
「ええ。自分で稼いだお金は、自分のために使うべきよ」
「当然よ」
佐藤さんは力強く頷きました。
「自分で稼いだお金は、自分のために使うべきよ」
そして、私はあの土地を訪れました。更地になった300坪の土地には、今、美しい花畑が広がっています。
「綺麗ですね」
通りかかった若い夫婦が、立ち止まりました。
「ありがとうございます」
私は嬉しくなりました。
「コスモスや桔梗、バラ。季節ごとに違う花を植えて、地域の人々に楽しんでもらっています」
私は若い夫婦に説明しました。
「以前はここに家を立てる予定だったんですが、白紙になって。今はこうして花を育てています。こちらの方が、ずっと幸せです」
花の手入れをしていると、スマートフォンが鳴りました。古い友人の田中さんからでした。
「京子、聞いた? あなたの息子さんのこと。何かあったんですか? 会社を首になったって」
田中さんの声には、驚きが混じっていました。
「コンプライアンス違反で諭旨解雇。退職金も出ないらしいわよ」
「そうですか」
私は淡々と答えました。
「それだけじゃないの?」
田中さんは続けました。
「奥さんと離婚したって。慰謝料も払えなくて、裁判になってるらしいわ」
「因果応報ですね」
私は鉢に水をやりながら言いました。
「因果応報。人を裏切れば、自分も裏切られる。それだけのことです」
電話を切った後、私は亡き夫の写真に向かって話しかけました。
「あなた、見ていますか? 私は負けませんでした」
写真の中の夫は、優しく微笑んでいるように見えました。
夕方、フラワーアレンジメント教室で、私は仲間たちと楽しい時間を過ごしました。
「京子さん、最近本当に生き生きしてるわね」
講師の先生が言いました。
「ええ、やっと自分の人生を取り戻せた気がします」
「素敵。私たちの年齢になって、やっと自由になれるなんて」
「でも、遅すぎることはないんです」
私は力を込めて言いました。
「何歳になっても、理不尽と戦う勇気さえあれば、人生は変えられます」
その夜、私は日記を書きました。
「今日も充実した一日でした。シンジと美香のことを思い出すこともありますが、もう心は痛みません。彼らは、彼らの選んだ道を歩んでいるのです」
聞いた話では、シンジは今アルバイトで生計を立てているそうです。美香は実家に戻ったものの、両親から見放されたとか。
1500万円という大金に目がくらみ、親子の情を捨てた報いです。
でも、私は彼らを恨んでいません。むしろ感謝しているくらいです。あの出来事がなければ、私は一生、都合のいい財布として使われ続けていたでしょうから。
今の私は、本当に幸せです。誰にも縛られず、誰の顔色も伺わず、自分のペースで生きています。
毎月の15万円の援助がなくなったおかげで、貯金も増えました。その分を、自分の趣味や健康に投資できるようになりました。友人も増えました。援助のことで頭がいっぱいだった頃は、人付き合いする余裕もありませんでしたから。
そして何より、自分の尊厳を取り戻せました。
あの土地には、もう憎しみも怒りもありません。ただ、新しい命が美しく咲いているだけです。
私は今、心から言えます。理不尽な要求に屈しなくて、本当に良かったと。
もしあなたが今、家族からの金銭的な搾取に苦しんでいるなら、声を大にして言いたいです。我慢する必要はありません。年齢は関係ありません。親だから、祖父母だからという理由で、全てを犠牲にする必要はないのです。
自分の財産は、自分で守る権利があります。自分の人生は、自分で決める権利があります。そして、理不尽には断固として立ち向かう勇気を持ってください。
金銭的な繋がりだけの家族関係は、お金が切れれば終わります。本当の家族なら、お金ではなく心で繋がっているはずです。
当然と思い、感謝の気持ちを忘れた子供たち。彼らは、親の愛情を金銭と勘違いしているのです。
でも、それは親の責任でもあります。無制限に与え続けることが愛情だと勘違いしていた、私のような親の責任でもあるのです。
だからこそ、時には毅然とした態度を取ることが必要です。それが、本当の愛情なのです。
シンジと美香は、今頃それを理解しているでしょうか?
いいえ、理解していなくても構いません。それも、彼らの人生です。
私は、私の人生を生きます。
63歳からの再出発。遅すぎることなんて、ありません。
1500万円で買った自由。高い買い物だったかもしれません。でも、後悔は一切ありません。
なぜなら、今の私は人生で一番幸せだからです。
理不尽に屈しなかった人だけが手にできる、本当の幸せを噛みしめながら、私は今日も前を向いて歩いていきます。
あなたも、必ずこの幸せを手にすることができます。勇気を出して、一歩踏み出してください。



