十二月の深夜二時、千鶴は夢の温もりの中にいた。それを断ち切ったのは、壁越しに響く鈍い音だった。拳ではなく、開いた手のひらを何度も叩きつけるような音。夫の秀雪が階段の上で叫んだ。「おい、千鶴、起きてくれ。親父がいない。」
義父の重夫は八十六歳。認知症と診断されて一年以上が経っていた。最初は物忘れ程度だったのが、最近では夜中に起き出して台所に立ったり、自分の部屋が地下にあると言い張ったりするようになっていた。先月は一人でコンビニまで出かけて警察に保護された。それから玄関に補助錠をつけていたのに、今夜はそれが外れていた。
千鶴はコートを引っ張り出して外に出た。十二月の深夜、東京の空気は頬を刺すように冷たい。秀雪は反対方向へ、千鶴は駅へ向かった。義父は現役の電車通勤をしていた頃があるから、混乱すると駅に向かう傾向があると、デイサービスの担当者から聞いていた。
角を曲がったところでコンビニの白い光が見えた。その前に人影がある。重夫だった。パジャマの上に古い背広を羽織り、素足にサンダル。ガラスに向かって何かを話している。近づくと、義父は振り向いて言った。「おい、もう時間だぞ。会社に遅刻するじゃないか。」声はしっかりしていたが、目はどこか虚ろで、千鶴を見ても誰だか分かっていないようだった。
千鶴が義父の腕を取ると、自動ドアから制服を着た若い男が出てきた。千鶴は腰を折った。「すみません。本当に申し訳ありません。家族が迷惑をおかけしました。」男は気遣わしげに「大丈夫ですか」と声をかけたが、千鶴はコンクリートに視線を落としたまま、もう一度頭を下げることしかできなかった。
家に帰り、重夫を布団に寝かせると、彼はすんなりと眠ってしまった。混乱が嘘のように落ち着く。それが認知症というものだった。台所に戻ると、秀雪が椅子に座り、テーブルの上に開かれた家計簿を見ていた。千鶴が座ると、秀雪は疲れた声で言った。「見つかってよかった。」千鶴は何も言わなかった。ストーブはつけなかった。電気代のことを考えると、夜中に点ける気になれなかった。
家計簿の数字は、何度も見たものだった。デイサービスの利用料が月六万円超。大人用の紙おむつが一万二千円。秀雪の心臓の薬と医療費が一万五千円。食費と光熱費を足せば十四万円を超える。秀雪の月収は自転車置場の管理員で二十一万円。千鶴はスーパーの売場主任で、フルに入れば十八、九万円。それでも毎月十七万円の赤字だった。その穴は、老後のために少しずつ貯めてきた貯蓄を切り崩して埋めている。
翌朝、スーパーで給与明細を受け取った。今月の支給額は八万五千円。義父の通院のために三回、午後から早退していた。勤務時間が削られ、フルで働けた月は去年からほとんどなかった。
昼休み、同僚の田中が隣に座った。「千鶴さん、もう六十一でしょ。年金の繰り上げ受給考えてないの? 働きながらもらうと、在職老齢年金でカットされる場合もあるらしいよ。千鶴さんくらいの給料なら全額カットになるかもしれない。それなら仕事やめて家で貰った方がマシだよ。」
千鶴は返事をしなかった。田中に悪意はない。だが、胸の奥で何かが固まった。仕事を続けても意味がない。そういうことなのか。休憩室でスマートフォンを取り出し、「在職老齢年金 カット 六十一歳」と検索した。サイトによって書いてあることが微妙に違う。何が正しいのか分からなかった。分かったことは一つだけ。ちゃんとした人間に聞かなければならない。
区の年金事務所で待つこと四十分。窓口の担当者は四十代の男性で、落ち着いた口調で説明してくれた。「現在の基準では、給与と年金の合計が月五十万円を超えた場合に減額の対象になります。千鶴さんの収入であれば、減額も停止も起こりません。」
千鶴は体の中で固まっていた何かが、ゆっくりとほぐれていくのを感じた。減らされない。働き続けても全額もらえる。だが、その安堵はすぐに、より大きな重石に覆われた。年金は減らない。しかし、月十七万円の赤字は何も変わらない。ビルの外に出ると、十二月の夕暮れはもう暗かった。何一つ解決していない。それが、駅前で千鶴の胸の中にはっきりと残っていた。
病院の待合室は、いつも時間の流れが違う。秀雪の定期受診に付き添うようになったのは去年の夏からだ。一度、診察後に気分が悪くなってタクシーで帰ってきたことがあり、それ以来、千鶴は一緒に行くようにしていた。今日も待ち時間は長く、秀雪が診察室に呼ばれて、千鶴は一人ソファに残された。会計の窓口に並んでいると、斜め前に品のいい女性が立っていた。六十代の前半だろうか。その女性が会計を済ませた時、財布から出したのは千円札が一枚だけだった。千鶴の視線に気づいたのか、女性は明るい声で言った。「うちは非課税世帯だから、医療費の負担がほとんどないのよ。介護保険の自己負担も軽減されてるし、今年は国の補助金も入ってきてね。孫に美味しいもの食べさせたくて、なんて買っちゃったわ。」
千鶴は薄く笑い返すことしかできなかった。隣で秀雪がレシートを受け取っていた。今月の負担額は七千八百円。薬を合わせれば一万五千円を超える。それがずっと続く。
エレベーターを待つ間、千鶴はスマートフォンで「住民税非課税世帯 年収基準」と検索した。夫婦二人世帯の場合、収入の合計がおよそ一定額以下であることが目安と出てきた。自分の収入は年間二百万台前半。秀雪の仕事が百三十万ほど。二人合わせれば三百万を超える。基準からはみ出る。しかも、非課税世帯の認定には前年の収入が使われる。例え今年から収入を減らしても、効果が出るのは来年の夏以降だ。
その夜、秀雪の妹の裕子が突然訪ねてきた。年に数回、こうして何の前触れもなくやってくる。手土産の百貨店のケーキを渡し、父親の部屋を軽く覗き、台所でお茶を飲む。そして、話を始めた。「ねえ、千鶴さん。前から思ってたんだけど、仕事やめること考えてないの? 収入を下げれば非課税世帯になれるじゃない。そうしたら医療費も介護の費用も国が持ってくれるのよ。頑張って働いて税金払って自分で全部抱えるより、やめちゃった方が断然楽だと思う。」千鶴はカップを両手で包んだまま言った。「裕子さん、仕事をやめて非課税世帯になるまでに一年近くかかるんです。その間の生活費はどこから出すつもりですか。」裕子は少し目を泳がせた。「そのくらい貯金があるんじゃないの。」
千鶴は黙った。貯金がどれほど残っているか、裕子は知らない。毎月十七万円が消えていく現状で、一年を乗り切れる蓄えがどれだけあるか。考えると喉の奥が塞がれるようだった。裕子は続けた。「父の介護費用のこと、うちも少し考えてみるわ。」そう言って、財布から札を三枚、テーブルに置いた。三万円。重夫の月のデイサービス代は六万円を超えている。裕子は立ち上がり、「そのケーキ、お兄ちゃんと食べてね。仕事やめること、本当に考えてよ。千鶴さん、頑張りすぎよ。」と笑顔で言って帰っていった。
千鶴はテーブルの上の三万円を見た。それからケーキの箱を持ち上げた。小さなケーキが四つ。一つ五百円くらいの計算になる。裕子はこれを選んで、レジに並んで、ここまで持ってきた。それは事実だ。だが、千鶴の中で何かが、静かに音もなくちぎれた。
秀雪に「やめろって」とだけ言った。秀雪の顔から表情が消えた。二人はしばらく黙っていた。秀雪が「ケーキ、開けてみるか」と言った。二人で向かい合って食べた。「美味しいか」と秀雪が聞く。「甘い」と千鶴は答えた。甘さは本物だった。だが、今夜の計算はまだ消えていなかった。
翌朝、千鶴は図書館で印刷してきた介護保険と非課税世帯の資料を広げ、表に二つのコラムを書いた。左に「このまま働き続けた場合」、右に「勤務を大幅に減らした場合」。収入、税負担、医療費、介護費、貯蓄の減り方。数字を並べていくと、ある一点で逆転が起きることが分かった。勤務を減らせば、翌年の夏以降は非課税世帯として軽減を受けられる。だが、そこに到達するまでの一年近く、収入の減少分が貯蓄をどれだけ削るか。手元の数字では、足りるかどうか分からなかった。どちらを選んでも楽な道はなかった。
一月の第二週、千鶴は決断した。答えが出ないまま動かずにいること自体が、もう一つの選択だ。そう思った時、感情を絞り出した後の乾いた諦めのようなものが、胸に落ち着いた。スーパーの店長に申し出た。「家族の介護の都合で、来月から勤務時間を大幅に減らしたい。週三日、午前中だけの範囲で続けさせて欲しい。」店長は少し黙ってから言った。「今のポジションは続けられないけどね。売場主任の仕事は週四日以上の勤務が前提だから、時間を減らすなら役職を外れてもらうことになる。給与も変わる。」「分かっています。」千鶴はそう答えた。二十年来の仕事に誇りがあった。それを手放すのは、ただの時間の調整ではなかった。
二月に入り、給与は一気に三万代になった。赤字の幅は広がった。年金の受給申請はしたが、入金は二ヶ月後。それまでの間、貯蓄の取り崩しが加速する。計算はいつも、「持ちこえれば」のところで止まった。
二月の中旬、昼過ぎ。千鶴が台所で夕食の支度をしていると、上の階から水の音がした。最初は雨かと思ったが、窓の外は晴れている。手を止めて聞くと、流れる音ではなく溢れる音だった。階段を上がると、廊下まで水が流れ出していた。浴室の蛇口は全開で、浴槽から水が溢れていた。千鶴は蛇口を止めた。浴室の床は水浸しで、廊下の木の床が膨らんでいた。重夫は部屋にいなかった。靴を履いて外に出ると、角の植え込みの前に、室内履きのままの義父が立っていた。
家に戻って改めて浴室を見ると、脱衣所の床板が歪んでいる。隣の老夫婦の部屋の天井が下の階にあたる。秀雪が帰ってきて状況を説明すると、二人で隣の家を訪ねた。天井の一部が染みている。千鶴と秀雪は深く頭を下げた。老夫婦は穏やかな人たちで、怒った様子はなかったが、修繕が必要になることは明らかだった。後日、業者の見積もりが来た。上の階の床張り替えと下の階の天井修繕を合わせて、百十二万円。
千鶴は翌日、通帳を確認した。残高は百五十四万円。百十二万円を払えば、残りは四十二万円。毎月の赤字が勤務を減らした分でさらに広がっている。四十二万円では、数ヶ月で底をつく。
三月、千鶴の給与は三万二千円。通帳の残高は三十一万円になっていた。このままなら来月は二十万円を切り、その次の月は一桁になる。その計算は秒で終わった。ある日、秀雪がノートの数字を見て、何も言わずに台所を出た。翌朝から、秀雪の帰りがいつもより二時間遅くなった。「どこ行ってたの?」と聞くと、「ちょっと遅くまで」とだけ答えた。顔は疲れていた。千鶴はそれ以上聞けなかった。確かめれば止めなければならなくなる。止めさせれば、お金がなくなる速度が上がる。三十一万が二十万になり、十万になり、そしてそこをつく。
三月の末、朝七時過ぎ。千鶴が朝食を用意していると、見知らぬ番号から電話が入った。「お宅の秀さんのご家族の方ですか。近くの交差点近くの駐輪場で秀さんが倒れまして、救急車を呼んでいます。病院はどちらに連絡すれば…」千鶴はそこから先を断片的にしか思い出せなかった。病院名を聞き、義父のデイサービスに緊急連絡を入れ、重夫に「今から出かける」と伝えた。重夫は朝食の途中だったが、分かっているのかいないのか、千鶴の顔を見てまた箸を持った。
病院に着き、処置室のカーテンの外で待った。しばらくして医師が出てきた。「狭心症の発作でした。今は落ち着いていますが、今夜は入院して経過を見たい。寒い中での作業が続いたことが引き金になった可能性があります。」千鶴の頭は「寒い中での作業」という言葉で止まった。駐輪場の仕事は早朝から始まる。三月の朝の冷え込みを、千鶴は知っている。秀雪が夜遅く帰ってくる日が続いていたことも知っている。なぜ遅くなっていたのか確かめなかったのは、千鶴の方だった。
カーテンが引かれ、秀雪の顔が見えた。ベッドに横になり、酸素チューブをつけ、胸に電極を貼られている。「心配かけた」と秀雪はかれた声で言った。千鶴は何も言えなかった。秀雪の左手が毛布の上に出ていた。千鶴はその手を両手で包んだ。冷たかった。「どうして話してくれなかったの」と千鶴は言った。声は思ったより静かだった。「話したら、千鶴が止めるから。」「止めてよかったのに。」秀雪は黙った。どちらが正しいのか、答えは出せなかった。通帳の残高は三十一万円。百十二万円は消えた。秀雪が夜遅くまで働いていた理由は、その数字を少しでも補おうとしていたからだ。分かっていた。千鶴はもう一度、秀雪の手を握った。何かを言うつもりはなかった。ただ握った。
四月になっても秀雪の退院は伸びた。心臓に負担のかかる生活が続いていたことは明らかで、自宅で安静が取れるかどうかが問題だと言われた。千鶴は「はい、取れます」と答えた。現実に可能かどうかは別として、そう言うしかなかった。四月の中旬に退院し、しばらくは外出を控えてもらった。駐輪場の仕事は当面休むと連絡してある。収入の穴は開いたが、今はそれを考えていられる状態ではなかった。
五月の連休明け、政府から住民税非課税世帯への十万円給付の話がニュースで流れた。千鶴は箸を止めた。今の通帳の残高は十九万円を切っている。十万円入れば、もう一ヶ月分の余裕ができる。だが、申請の案内は来なかった。六月、区からようやく封書が届いた。給付金の案内だったが、対象世帯の確認のためのチェック表が入っていた。主な要件は「令和六年分の住民税が非課税であること」。千鶴は頭の中で計算した。令和六年はまだフルに近い形で働いていた年だ。スーパーの主任として年間二百万近く稼いでいた。秀雪の収入と合わせれば三百万を優に超える。その年の住民税が非課税なわけがない。勤務を減らしたのは今年の二月からだ。それが住民税に反映されるのは来年。今回は対象にならない。
その日の夕方、裕子から電話があった。「給付金届いたのね。私のところにも来たわ。」「裕子さんは非課税世帯なんですか?」「まあ、そういうことになってるの。うちは夫の収入を会社に移してあるから、個人の所得としては少ないように見えるのよ。だから書類の上では非課税世帯に入るのよね。十万円、久しぶりに美容院に行こうかしら。」千鶴は電話を切った。ちゃんと相槌を打って「またね」と言って切った。礼儀は守った。
六月の末、スーパーから呼び出しがあった。店長はパソコンの画面を見ながら話し始めた。「会社全体の方針で、六十歳以上のパートタイム雇用の更新条件が変わることになった。勤務時間が一定数を下回る場合、雇用の継続が難しくなる。」「つまり、私のシフトでは次の契約更新ができないってことですか。」「七月末で契約が終わることになります。」正確には契約満了。だが、二人ともその言葉の意味を分かっていた。実質的な意味において、それは解雇だった。千鶴は「分かりました」とだけ言った。二十年近く使ってきたロッカーを見て、中のエコバッグとサンダルを見た。七月末にここを引き払うことになる。
その夜、秀雪が就寝した後、千鶴は台所でノートを開いた。七月末で仕事が終わる。給与三万代がゼロになる。代わりに年金が月に数万円。通帳に残っているのは、十七万円を切っていた。十七万円。最初に出てきた赤字の数字が、今度は残高として出てきた。
翌日の夕方、千鶴は外に出た。義父の世話を済ませ、秀雪も眠った後、台所に座り続けることができなかった。どこへ向かうともなく歩き、川沿いの道に出た。堤防に上がると、夜の川の匂いがした。黒い水面が光を受けてゆっくり動いていた。給付金は来ない。仕事は終わる。通帳は底をつく。重夫の世話は続く。秀雪はまた無理をすれば倒れる。裕子は十万円で美容院に行く。二十年間積み上げてきたものが、一つずつ剥がれていった。
千鶴は欄干に手をかけた。鉄が冷たかった。雨上がりの夜で、金属が濡れていた。その冷たさを感じながら、しばらくそこに立っていた。どこまでも疲れていた。川は音を立てて流れていた。風が来て、髪が顔にかかった。手で払った時、自分が泣いていることに初めて気づいた。いつから泣いていたのか分からなかった。家に帰らなければならない。重夫がいる。秀雪が一人で寝ている。千鶴が手を離し、川を背にして歩き始めた。家に近づくにつれて、足は少しずつ早くなった。
玄関を開けると、重夫の部屋の電気がついていた。ドアを覗くと、義父は布団の中に座って壁を見ていた。「お父さん。」千鶴が声をかけると、重夫は振り向いたが、目は定まらなかった。千鶴は布団を敷き直し、義父を横にさせた。呼吸がゆっくりになっていくのを確認して、電気を消した。廊下に立って自分の手を見た。川の欄干に触れていた手。重夫の布団を直した手。どちらも同じ手だった。明日のことを考えた。仕事の残り期間、仕事を探すこと、通帳の残高、秀雪の薬の補充日、重夫のデイサービスの予約確認。一つずつある。台所で水を飲んだ。冷たくて、それだけで少し落ち着いた。ノートは開かなかった。今夜はもう数字を見たくなかった。台所の時計が動いていた。明日になれば、また一日が始まる。それだけが今夜の千鶴に残っていることだった。
秀雪が千鶴を見つけたのは、川沿いの道だった。退院してから、秀雪は夜中に目が覚めることが多くなっていた。その夜も二時過ぎに目が覚めると、隣に千鶴がいなかった。玄関の靴が一足ない。秀雪は上着を羽織って外に出た。千鶴がよく外を歩く時、川の方向に向かうことを秀雪は知っていた。堤防の上に上がると、遠くに人の影が見えた。近づいていくと千鶴だった。欄干のそばに立って、川を見ていた。「千鶴。」振り向いた顔が濡れていた。秀雪は何も言わなかった。千鶴の肩に手を置いた。それだけだった。千鶴は少しの間、秀雪の顔を見ていた。それから、秀雪の胸の辺りに額をつけた。秀雪は千鶴の背中に両手を回した。川の音がしていた。どのくらいそうしていたか分からなかった。千鶴が先に体を離した。「帰ろう。」声が少しかれていた。「ああ。」帰り道、二人は並んで歩いた。手は繋がなかった。ただ並んで、同じ方向に歩いた。
家に着くと、秀雪がお茶を二杯入れてテーブルに置いた。二人で向かい合わせに座り、それを飲んだ。台所の時計が動いていた。外は静かだった。何も決まっていなかった。通帳の残高も、仕事のことも、義父のことも、何も解決していなかった。だが、今夜はもうその話をする必要はないと、秀雪は思っていた。千鶴もそう思っているように見えた。布団に入ると、千鶴はすぐに寝息を立て始めた。秀雪はしばらく天井を見ていた。川のそばで千鶴を見つけた時の顔を、もう一度思い出してから、目を閉じた。
翌朝、千鶴は普段通りに起き出した。重夫の朝食を作り、デイサービスのバスに乗せた。それから台所に戻って、秀雪と向かい合って座った。昨夜のことは、どちらも口にしなかった。代わりに、千鶴がノートを出した。「家のことを話し合おう。」秀雪は頷いた。ノートには、通帳の残高、毎月の赤字、年金の受給額、重夫のデイサービスの費用が並んでいた。千鶴がスーパーを七月末で辞めることも、この場で正式に話した。秀雪は黙って聞いていた。話し合いは一時間近く続いた。このまま今の家に住み続ける場合、義父を施設に入れる費用と自分たちの生活費の両方を年金だけで賄うことはできない。貯蓄はもうそこをついていた。千鶴がもう一つの選択肢を出した。「家を売る。」秀雪はすぐには返事をしなかった。この家は秀雪の父親が建てた家だった。秀雪が子供の頃から住んでいた家で、千鶴が嫁いできたのもこの家だった。重夫がしっかりしていた頃、縁側でよく日向ぼっこしていた。そういうことを秀雪は思い出した。だが、今この家の維持費が自分たちを圧迫している。固定資産税、修繕費、光熱費、そしてあの百十二万円の支払い。この家に住み続けることが、自分たちを壊していた。「わかった。」秀雪は窓の外を見た。庭の木が風に揺れていた。その木は秀雪が子供の頃からあった木だった。「うん。」秀雪はもう一度言った。
不動産業者に連絡したのは、その週のうちだった。査定額を聞いて、千鶴は心の中で計算した。重夫の施設費用と二人の生活費と秀雪の医療費を賄えるかどうか。できなくはない、という結論が出た。「売却の手続きを進めてください。」売却が決まるまでに二ヶ月かかった。その間、千鶴はスーパーを退職した。最終日、田中が小さな花束をくれた。「千鶴さんには本当にお世話になりました。またどこかで。」千鶴は「ありがとうございます」と言って花束を受け取った。二十年近く通った道を、最後に自転車で走った。
重夫の施設を探すのは、千鶴がやった。いくつかの施設に見学に行き、費用と内容を比較した。最終的に選んだのは、電車で三十分ほどの距離にある民間の有料老人ホームだった。月の費用は高かったが、重夫の年金と家の売却代金の一部を当てれば当面は払えるという計算になった。施設に入る日、千鶴は重夫に綺麗なシャツを着せた。重夫は素直に腕を通した。千鶴が襟を直すと、義父はじっと千鶴を見た。誰だか分かっているのかいないのか、その目は定まらなかった。だが、千鶴の手が襟に触れている間、重夫は動かなかった。施設の玄関でスタッフに引き渡した。重夫は特に抵抗しなかった。廊下を歩いていく後ろ姿を、千鶴と秀雪は並んで見ていた。重夫は一度だけ振り返った。何かを言おうとしたのか、音に反応しただけなのか分からなかった。義父はすぐに前を向いて、廊下の奥に消えていった。施設の外に出ると、秀雪が少し目を赤くしていた。千鶴は何も言わなかった。秀雪も何も言わなかった。駅まで並んで歩いた。
家の引き渡しは、それから三週間後だった。引っ越し業者を頼む余裕はなかったから、二人で荷物を運んだ。新しい住まいは、電車で二駅先の外れにある小さなアパートだった。一LDKで、今までの家の三分の一もない広さだった。白い壁、古い畳、小さな台所。窓から見える景色は、隣の建物の外壁だった。これがこれからの場所だと千鶴は思った。秀雪が電気ポットを棚の上に置いた。それがなぜかおかしくて、千鶴は小さく笑った。引っ越しが終わったのは十一月の末だった。新しい部屋で最初の夜、二人は並んで古い座布団に座り、コンビニで買ってきたおにぎりを食べた。部屋に暖房がなかったから、上着を着たままだった。「寒いな」と秀雪が言った。「そうね」と千鶴は言った。それだけで、またしばらく黙った。秀雪がお茶のペットボトルを開けて一口飲み、千鶴に渡した。千鶴が受け取って一口飲んだ。それだけのことだった。
十二月に入って、千鶴は仕事を探し始めた。ハローワークで条件を相談し、清掃の仕事に絞っていくつか応募した。面接は二つ受けた。一つ目はオフィスビルの夜間清掃。深夜割り増しが加算されて、月に手取りで六万円ほどになると説明された。千鶴はその場で承諾した。秀雪も動いていた。しばらく休んでいた駐輪場の仕事に、週四日の範囲で復帰させてもらえた。医師からも無理のない範囲であれば構わないと言われていた。二人の年金と仕事の収入を合算し、義父の施設費用を引いた残りで家賃と生活費が払えるかどうか、千鶴はノートで計算した。月によって変わるが、以前のような深刻な赤字ではなくなっていた。綱渡りであることは変わらなかった。だが、以前のように毎月確実に穴が広がっていく感覚は、なくなっていた。
十二月三十一日の夜。千鶴は仕事から帰ってきた。大晦日の夜間シフトを終えてアパートに戻ったのは、深夜の一時前だった。秀雪はまだ起きていた。「お帰り」「ただいま。」台所で手を洗っていると、テーブルの上にコンビニの袋が二つあることに気づいた。「何?」秀雪が袋を開けると、中から少し高い洋菓子の名前が入った紙カップのプリンが二つ出てきた。「正月だからさ。」秀雪は少し照れたような顔をした。千鶴はしばらくそのプリンを見ていた。このプリンを買うのを、千鶴はずっと後回しにしていた。コンビニの棚で何度か目にしながら、「今日じゃなくていい」と思って通り過ぎていた。それを、秀雪が買ってきた。二人で古い座布団を敷いて向かい合わせになった。千鶴はプリンの蓋を開け、スプーンを入れた。一口食べた。甘かった。甘さの中に卵の味がした。丁寧に作られた甘さだと思った。「うまいな」と秀雪が言った。「うん」と千鶴は言った。外から遠くで除夜の鐘の音がした。煩悩の数だけ鳴らすと言われている。千鶴はその音を聞きながらプリンを食べ続けた。今年一年にどれだけの煩悩があったか数えようとしたが、途中でやめた。数えられるものではなかった。
プリンを食べ終わって、秀雪がお茶を入れてきた。二人で飲んだ。除夜の鐘がまだ聞こえていた。今年は終わる。千鶴は思った。明日になれば、また新しい年が始まる。仕事がある。施設に重夫がいる。秀雪がここにいる。それ以外に確かなことは何もなかった。何かが劇的に変わるわけでもなかった。来年も清掃の仕事をして、年金をもらって、計算して、足りない月は何かを削る。そういう日々が続くだろう。だが、今夜プリンがあった。それだけのことが、今の千鶴にはちゃんとあった。「眠いか」と秀雪が聞いた。「少し。」秀雪が立ち上がって電気を消した。暗くなった部屋の中で、除夜の鐘の音がまだ続いていた。千鶴は布団に入った。天井を見た。新しいアパートの天井は、以前の家より低かった。綺麗な白い天井だった。秀雪の寝息が聞こえた。千鶴は目を閉じた。体の芯がまだ少し温かかった。プリンの甘さが、まだ口の中に残っていた。除夜の鐘が、遠くでまだ鳴っていた。千鶴はその音を聞きながら、眠りに落ちた。



