「そのネックレスはどこで手に入れたんだ?」
七十二歳の天油グループ会長、鈴木誠一の声が震えていた。目の前に立つ十歳ほどの少女が、無邪気な笑顔で首元の貝殻のネックレスに触れた。
「綺麗でしょう。お母さんが、お父さんが亡くなる前にもらったんですって」
「お父さんの名前は何と言うんだ?」
「鈴木正斗です」
誠一は足元がふらついた。それは二十五年前、身分の違いを理由に家から追い出した、我が息子の名前だった。
おじいさん、どこか具合でも悪いんですか?
少女は心配そうに誠一を見上げた。誠一はこの子が自分にとって何なのか、まだ理解できずにいた。この古びたビルで、滞納した家賃を回収に来ただけで、まさか二十五年前に捨てた家族に再会するとは思ってもいなかった。
物語は三週間前に遡る。
雨が止んだ午後、誠一は黒いベンツを降り、古びた雑居ビルを見上げた。七十二歳とは思えない姿勢の良さだが、今日ばかりは肩が重く見えた。
「会長、本当にご自身で賃借人の状況を確認なさるのですか?」
秘書の吉田ミキが慎重に尋ねた。三十八歳の彼女は八年間誠一のそばで働き、その性格を誰よりも知っていた。普段ならこんな些細なことは部下に任せるはずなのに、今日は違った。
「家賃が八ヶ月も滞納していると言ったな」
「はい。合計で七十六万円です。連絡もつきません。法的手続きを踏んではいかがでしょうか」
誠一は建物を見渡した。ペンキが剥げた壁、錆びついた看板、割れた窓ガラス。父の代から受け継いだこの建物が、いつからこんなに見窄らしくなっていたのか。東京・銀座のど真ん中にある華やかな本社ビルとは余りにも対照的だった。
「父の代からある場所だからな。書類だけで処理するには」
誠一は言葉を終えずに階段を登った。古い匂いと湿気が充満するコンクリートの階段。各階に三つずつある小さなワンルームには、庶民の暮らしがあった。
廊下の突き当たり、二〇三号室の前で立ち止まった。ドアプレートには「佐藤ユナ」という名前が古びたテープで貼られていた。
コンコン。誠一がノックすると、中から小さな足音が聞こえた。しばらくしてドアが少し開き、幼い少女が顔を覗かせた。十歳くらいだろうか。大きな瞳が印象的だ。
「どなたですか?」子供の声ははっきりしていたが、警戒の色がにじんでいた。
「この家の大人の人はいるかな?」誠一はできるだけ優しく尋ねた。
「お母さんは病院に行きました。今日は遅くなるって」
誠一の表情がわずかに変わった。八ヶ月も家賃を払えない事情があるのだろうと察した。
ミキが一歩前に出た。「失礼ですが、少し中に入ってもよろしいでしょうか?大家さんから重要なお話がありまして」
少女は一瞬ためらったが、ドアをさらに開けてくれた。一人でも礼儀をわきまえている子だった。
狭いワンルームに入った誠一は、一瞬言葉を失った。十五畳ほどの空間に生活の全てが詰まっていた。部屋の片隅には薬袋がきちんと整理され、食卓の上には水でふやかしたご飯の入った茶碗が置かれていた。おかずの容器にはキムチと小魚の煮物が少しだけ入っていた。
「一人で大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。お母さんがご飯も作って行ってくれました」
少女は泰然と答えた。十歳という年齢が信じられないほど落ち着いていた。厳しい環境の中で早く大人になったのだろう。
その時だった。誠一の視線が少女の首にかかったネックレスに釘付けになった。小さな貝殻のネックレスが蛍光灯の光を受けて微かに輝いていた。
「そのネックレスはどこで手に入れたんだ?」誠一の声はわずかに震えていた。
「綺麗でしょう。お母さんがお父さんが亡くなる前にもらったんですって。お母さんの宝物なんです」
誠一は一歩後ずさった。心臓が激しく鼓動を始めた。そのネックレスは三十年も前に、自分が妻に送ったものだった。結婚十周年を記念して特別に制作したものだ。間違いなかった。
「お父さんの名前は何と言うんだ」
「鈴木正斗です。素敵な名前でしょう。お母さん、お父さんは本当に偉い人だったって言ってました」
誠一は足がよろめくのを感じた。自分が二十五年前、家の体面を守るため、事業の邪魔になるからと、縁を切った息子の名前だった。
「会長、大丈夫ですか?」ミキが心配そうに訪ねたが、誠一は答えることができなかった。
「おじいさん、どこか具合でも悪いんですか?お水を差し上げますか?」
その一言が誠一の胸を突き刺した。この子は自分の孫娘だった。二十五年間、その存在すら知らなかった血。この瞬間まで知らずにいた家族。
「いつからここに住んでいるんだ?」
「私が五歳の時から。その前は違うところに住んでたけど、よく覚えてないんです」
五年前。その頃に息子が亡くなり、嫁がここへ引っ越してきたのだろう。これまでこんな苦しい生活を送ってきたのか。
「お母さんは具合が悪いのかい?」
少女の表情が少し曇った。「時々すごく咳込むんです。病院でお薬ももらってくるんですけど、でもお母さんは大丈夫だって私に心配かけたくないみたい」
誠一は食卓の上の書類を見つめた。薬の名前が書かれた紙がびっしり貼られている。呼吸器疾患関連の薬がほとんどだった。かなり深刻な状態である可能性が高かった。
ふと、階下から足音が聞こえた。階段を登ってくる音だ。
「お母さんだ!」少女は嬉しそうに叫んだ。
いよいよ二十五年ぶりに嫁と対面する時が来た。誠一は無意識に拳を握った。
玄関のドアが開き、一人の女性が姿を現した。四十六歳の佐藤ユナだった。かつては美しかった顔に、疲れの痕跡が深く刻まれていた。痩せた体と青白い顔色が、どれほど苦しい時間を過ごしてきたかを物語っていた。
ユナは誠一に気づいて動きを止めた。しばらく何も言えなかった。時間が止まったかのようだった。
「お母さん、このおじいさんが大家さんだって」少女が無邪気に駆け寄り、ユナの手を握った。
ユナは娘の頭を撫でながら、ゆっくりと顔を上げて誠一を見つめた。「お義父様」声が震えていた。二十五年の月日が流れてもなお、義理を忘れない嫁の姿だった。
「君だったのか。ここに住んでいたのは」誠一の声も普段とは違って力がなかった。
ユナは静かに頷いた。「息子さんが亡くなられてもう五年になります」
その言葉を聞いた瞬間、誠一の手が震えた。二十五年間連絡を断っていたため、息子の死を知らずにいたのだ。
「じゃあ、あの子は」
「はい。息子さんが残してくださった孫娘です。美世と言います」
誠一は息が詰まった。自分の血を引く孫娘がこんなに近くにいたのに、全く知らなかったという事実。
ユナは娘に行った。「美世、お部屋で宿題していてくれる?お母さん、お客さんと大事な話があるから」
「うん、お母さん」少女は素直に返事をし、奥の部屋に入っていった。ドアが閉まると、リビングには重い沈黙が流れた。
「正斗はいつ亡くなったんだ?」
「五年前の秋です。工事現場の事故でした」
誠一の胸は崩れ落ちた。息子が工事現場で働いていて死んだという。かつて有名大学を出て将来を嘱望されていた息子が、そんな場所で働かなければならなかったとは。
「なぜ……なぜ連絡しなかったんだ?」
「連絡などできたでしょうか?お義父様が私たちを家から追い出された時、何とおっしゃいましたか?」
ユナの声には、長年抑圧されてきた感情が滲んでいた。
誠一は二十五年前のあの日を思い出した。当時、自分は息子の結婚に猛反対した。ユナは平凡な家庭の出身で、特別な財産も背景もなかった。天油グループの後継者の妻としては不十分だと考えたのだ。
「うちの家柄に平凡な女を迎え入れるわけにはいかん。家の格式が落ちる」
それが当時の誠一の言葉だった。息子が泣きながら懇願したが、聞き入れなかった。結局、息子はユナと共に家を出て、その日以来連絡が途えたのだった。
「二十五年間、こうして生きてきたのか」
「最初は大変でした。正斗さんもなかなか仕事が見つからなくて。でも幸せでした。子供が生まれてからはもっと一生懸命働きました。正斗さんが昼も夜も働いて、この家も手に入れて」
ユナは言葉を止めた。失った夫への思いがまだあるようだった。
「病院には何で通っているんだ?」
「大したことではありません。風が長引いているだけです」ユナは何でもないように言ったが、誠一は部屋にあった書類を思い出した。呼吸器の治療薬がほとんどだった。単なる風ではない可能性が高い。
「正確には何が問題なんだ」
「お義父様にご心配いただくようなことではございません」
ユナの強張った返事に、誠一はそれ以上問いただすことができなかった。
その時、奥の部屋から美世の声が聞こえた。ユナが立ち上がろうとした時、突然咳が込み上げてきた。激しい咳がしばらく止まらない。手で口を覆ったが、音を隠すことはできなかった。
「大丈夫か?」誠一は驚いて立ち上がった。
「はい、大丈夫です」しかしユナの顔はさらに青白くなっていた。息を整えるのも苦しそうだ。
誠一は複雑な心境だった。二十五年前に捨てた家族の現実があまりにも衝撃的だった。
三日後、誠一は吉田ミキに調査を命じた。
「吉田君、あの家についてもう少し調べてくれ。二〇三号室の佐藤さんのことだ。正確にどんな状況なのか把握してくれ」
二日後、ミキが調査結果を持ってきた。
「佐藤さんは三年前から肺線維症を患っています。現在かなり進行した状態です。また消費者金融などからの借入が三件以上確認されました。合計で約四百五十万から五百万円ほどになります。治療費が重く、複数の場所からお金を借りたようです。現在の主な債務は三百万円ほどです」
誠一の顔が強張った。肺線維症となれば命に関わる病気だ。
「まだあります。娘さんの美世さんも、昨年心臓の手術を受けたとのことです。先天性疾患で、その時の手術費用のためにさらに大きな借金を負ったそうです」
誠一は椅子によりかかり、目を閉じた。孫娘まで病気だったとは。
一時間後、誠一は再び二〇三号室の前に立っていた。ドアをノックすると、美世が出てきた。
「おじいちゃん、また来てくれたんだね」少女は嬉しそうに笑ったが、顔は以前より痩せて見えた。
「お母さんはどこだ?」
「ベッドで休んでるの。すごく具合が悪そうで」
誠一は胸が詰まった。美世の案内で奥の部屋に入ると、ユナがベッドに横たわっていた。息をするのも苦しそうな様子が見て取れた。
「お義父様、なぜまた……」ユナは体を起こそうとしたが、力が入らないようだった。
「そのまま寝ていなさい。少し話がしたい」
誠一はベッドの横の椅子に腰かけ、テーブルの上を見た。病院の請求書と借金の督促状が混在していた。
「美世の手術費のために、闇金にまで手を出しました。もう何も残っていません。家賃も払えず、治療費も滞納し……」ユナの声は力なかった。
「いくら必要なんだ?」
「え?」
「金のことだ。正確にいくら必要なのかと聞いている」
ユナは戸惑った表情を浮かべた。あまりに突然の質問だった。
「治療費が二百万円、借金が三百万円。合わせて五百万円ほどです」
誠一は頷いた。自分にとっては大金ではないが、この家族にとっては到底払えない金額だ。
「でも、美世だけは助けたいんです」ユナは目を閉じた。母親としての最後の切なる願いがこもった言葉だった。
「あの時、お前が俺の息子を連れて行ったんじゃない。俺がお前たちを捨てたんだ」
誠一は黙って頭を下げた。二十五年前の過ちがこうして帰ってきたのだ。自分の頑固さと偏見のせいで家族は離散し、ついには息子が死に、嫁と孫娘がこんな苦しみを味わっている。
「すまなかった。本当にすまなかった。二十五年間、こんなに苦労させて」
ユナは涙を流した。長い間抑え込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
その夜、誠一はミキに指示した。「あの入居者の治療費を全額支援しろ。借金も全て整理してやれ。私の名前は絶対に出すな。匿名で処理しろ」
しかし、問題はそれで終わらなかった。
二日後、二〇三号室の前で騒ぎが起きていた。誠一が現場に到着した時、借金取りの男二人がユナと対峙していた。
「金がねえなら、うちの債務は別だぞ」一人が叫んだ。四十代前半に見える男だった。
「お願いします。もう少しだけ時間をください」ユナは震える声で懇願した。
「時間だ?もう三ヶ月も遅れてるんだぞ。何が時間だ」
「子供を巻き込まないでください。私に言ってください」
「借金は家族全員で責任を負うもんだろ。うちは別の業者だ。片方返しても、もう片方は別なんだよ」
借金取りがユナを突き飛ばすと、彼女は壁にぶつかって倒れ込んだ。体が弱っている状態では衝撃は大きかっただろう。
「お母さん!」美世が泣きながら駆け寄った。
その時だった。誠一が階段を上がってきた。
「ここで何をしている?」誠一の声には威圧感が漂っていた。
借金取りたちが振り返った。「あんた誰だ?首を突っ込むな」
「この建物の大家だ」
借金取りたちの表情が変わった。大家となれば無視できない存在だった。
「未成年者に対する脅迫発言を全て録音した。直ちに警察に通報する」誠一はスマートフォンを取り出して見せた。
「玄関の防犯カメラの映像もバックアップ済みです」ミキが前に出た。
借金取りたちの態度が急変した。
「百五十万円だったな。今すぐ清算してやるから、とっとと消えろ」誠一は財布からカードを取り出した。
「本当ですか?本当に返してくれるんですか?」
「私が嘘を言う理由があるか?」
ミキがその場で送金手続きを行った。借金取りたちは入金を確認すると、呆然とした表情で立ち去っていった。
「じゃあ、これで終わりですね。二度とこの家の前に現れるな」
誠一の冷たい声に、借金取りたちは慌てて姿を消した。
ユナは床に座り込んだまま涙を流していた。美世が母親をしっかり抱きしめていた。
「なぜ……なぜ私たちを助けてくださるのですか?」
誠一は答えられなかった。どう言えばいいのか分からなかった。
「治療費もすでに手配済みだ。もう心配するな。匿名の支援者がいると病院から連絡があったはずだ」
誠一がその場を立ち去ろうとした時、美世が駆け寄ってきて彼の服の裾を掴んだ。
「おじいちゃん、ありがとう」
孫娘の純粋な言葉に、誠一の心は揺さぶられた。この瞬間だけは、本当の祖父になったような気がした。
しかし、この全ての出来事を見つめている、もう一つの視線があった。天建設の田中孝太・常務だった。彼は会長の奇妙な行動を注意深く観察していた。
「会長はなぜあんな場所に頻繁に通うんだ」
そして、その疑問はやがてより大きな問題へと繋がっていくのだった。
借金取りが去ってから一日が過ぎた。誠一は会社でも集中できなかった。特に美世が自分を「おじいちゃん」と呼び、感謝してくれた瞬間が忘れられなかった。
「会長、本日の午後は天建設の役員会議がございます」ミキがスケジュールを伝えた。
「吉田君、二〇三号室の様子を確認してくれ。なんだか胸騒ぎがする」
誠一の直感は外れていなかった。
午後二時頃、誠一とミキがビルに到着すると、異様な物音が聞こえてきた。二階から怒鳴り声と何かを叩く音が響いていた。
二人が急いで階段を駆け上がると、二〇三号室の玄関のドアが完全に破壊されていた。ドア枠が外れ、鍵も壊されていた。
誠一が中に入ろうとした瞬間、荒々しい声が聞こえた。
「借金も返せねえくせに、ここで何粘ってるんだ」
昨日とは違う借金取りたちだった。より乱暴で暴力的な雰囲気の男たち。一人は五十代前半に見える大柄な男、もう一人は四十代後半の鋭い目つきの男だった。
「やめてください。昨日、全て整理してもらったはずです」ユナの震える声が聞こえた。彼女は隅に追い詰められ、美世を腕の中に抱いて泣いていた。
「うちは別の業者だ。それぞれの債権は別なんだよ」大柄な男が叫んだ。
「治療費のため、あちこちから借りたんだろう。うちの債務は別口だ」鋭い目つきの男が付け加えた。
「お母さん、怖いよ」美世が泣きじゃくっていた。
「金がねえなら、この家だけでも明け渡しな。ここで商売でもしてやるよ」鋭い目つきの男がテーブルを蹴り飛ばした。その上にあった美世のノートと色鉛筆が床に散らばった。
「やめてください。子供がいるのに。なぜこんなことを」ユナが必死で止めに入ったが、弱った体では力の差は歴然だった。
その時だった。誠一が玄関から入ってきた。
「ここで何をしている?」誠一の声には冷たい怒りが宿っていた。
借金取りたちが振り返った。「あんた誰だ?家族か?」
「この家の大家だ。やめろ」誠一は一歩ずつ中に入ってきた。七十二歳とは思えない威圧的な雰囲気を放っていた。
「大家だ?それなら滞納の借金も責任取るべきじゃねえのか」大柄な男が嘲った。
「この建物は私のものだ。今すぐ出ていけ」
「俺たちがなんで出ていかなきゃならねえんだ。金を取りに来ただけだ」
「警察を呼ぶか」誠一の冷たい言葉に、借金取りたちは一瞬ためらった。しかしすぐに態度を改めた。
「警察?いいぜ。呼びなよ。借金の取り立てが何の罪になるってんだ」鋭い目つきの男が誠一に近づいた。「じいさん、年寄りは余計なことに首を突っ込むなよ。怪我するぜ」
彼は誠一の肩を乱暴に押した。誠一が後ろによろめいた。
「会長!」ミキが驚いて駆け寄ったが、誠一は手で制した。
「今の発言と行動、全て録音と録画で確保した。直ちに警察に引き渡す」誠一はスマートフォンを掲げて見せた。ミキも防犯カメラの映像がバックアップ済みであることを伝えた。
借金取りたちの表情が急変した。暴力と脅迫が全て証拠として残ることを悟ったのだ。
「いくらだ?借金はいくらだと言っている」
「百五十万円だ。利子を入れたら百八十万円だな」
「分かった。私が払ってやるから、とっとと行け」
借金取りたちは顔を見合わせた。昨日と全く同じ状況だった。
「本当ですか?また払ってくれるんですか?」
「条件がある。二度とこの家に来るな。そして他の業者も来られないようにしろ」
大柄な男は首をかしげた。「他の業者?それは俺たちにはどうしようも――」
「警察を呼ぼう」誠一の断固たる態度に、借金取りたちはついに折れた。ミキがその場で口座振り込みを済ませると、彼らは慌てて去っていった。
しかし、最後に一言残していった。
「じいさんよ、こんな風に払い続けるつもりかい。この女の借金は一つや二つじゃねえぜ」
ドアが閉まった後、部屋には重い沈黙が流れた。ユナは床に座り込み、涙を流していた。
「申し訳ございません。本当に申し訳ございません」
「立ちなさい。床は冷える」誠一はユナを立たせた。彼女の手は冷たく冷え切っていた。
「借金はあとどれくらいあるんだ?」
「分かりません。病院で急にお金が必要になるたびに、あちこちから借りてしまって」ユナの声は絶望に満ちていた。
「正確に把握する必要があるな。吉田君、専門業者に依頼して彼女の借金を全て調査してくれ」
その時、美世が誠一に近づいてきた。「おじいちゃん、私たちのせいで大変だよね」
子供の純粋な問いに、誠一は胸が詰まった。「いいや、全く大変じゃない」
誠一は美世の頭を撫でた。初めて孫娘に触れた瞬間だった。
その夜、誠一は会社に戻り、重要な決断を下した。
「あのビルの再開発計画を全面中止する」
役員が集まる会議室で、誠一が発表した。全員が驚愕した。
「会長、あのビルは地価再開発の核となる土地です。予想利益は数十億円に上ります」田中が反対した。
「カワンリフォームに方針転換する」
「リフォームですか?それでは利益が十分の一に減ってしまいますが」
「まず人を救うのが先だ。利益は後回しだ」
誠一の断固たる言葉に、会議室は騒然となった。これまでの経営方針とは全く異なる決定だったからだ。
「会長、何か特別な理由がおありなのでしょうか?」別の役員が慎重に尋ねた。
「ただ、そうしたくなっただけだ」
誠一はそれ以上説明しなかった。しかし心の中でははっきりと分かっていた。「これは贖罪だ。二十五年間家族を捨てた罪、息子を失わせた罪、嫁と孫娘を苦しませた罪に対する贖罪だ」
会議が終わった後、田中が誠一の執務室を訪ねてきた。
「会長、本当に再開発を断念されるのですか?」
「そう言ったはずだ」
「あのビルに何か特別な意味でも?」田中の目には疑いの光が宿っていた。
「常務が気にすることではない。下がりなさい」
誠一の冷たい命令に、田中は仕方なく引き下がった。しかし、彼の疑念はさらに深まっていた。
その夜、田中の執務室は暗闇に包まれていた。深夜にも関わらず、彼はパソコンの前に座っていた。画面には天グループの株価チャートと再開発プロジェクトの損失予想表が表示されていた。
「数十億円だぞ。数十億円を簡単に無駄にするとは」田中は苛立っていた。十五年間で築き上げてきた手柄と利益が、会長の突然の行動一つで水の泡になろうとしていた。
田中は電話を取った。相手は協力会社の社長だった。「あの女一人のせいでプロジェクトが止まったんです。会長の判断力にも問題があるようです」
そして田中は机の引き出しから封筒を取り出した。中には報道機関の記者の名刺が入っていた。「そろそろ使う時が来たようだな」
翌朝、インターネットのポータルサイトのトップに衝撃的な記事が掲載された。
「天グループ鈴木誠一会長、不正資金で特定の入居者を支援か」
記事の内容は具体的だった。会長が個人的に入居者の借金を肩代わりしたこと、会社の資金を私的に流用した可能性、そして再開発プロジェクトを感情的に中止させたことへの批判まで書かれていた。コメントは瞬く間に数千件に達した。
「やっぱり財閥はこれだからな」
「個人の感情で会社を左右するのか」
「株主の金で遊んでるんじゃないだろうな」
誠一は朝のニュースを見て険しい表情を浮かべた。予想していたことではあったが、これほど早く表沙汰になるとは思わなかった。
「会長、どのように対応されますか?」ミキが心配そうに訪ねた。
「ひとまず弁護士を」
しかし状況は急速に悪化した。午後には四十八時間以内の臨時株主総会の通知が届いた。
臨時株主総会の会議室は殺伐とした雰囲気に包まれていた。七人の取締役のうち五人が出席していたが、全員が深刻な表情をしていた。
「会長、今朝の記事はご覧になりましたね。事実ですか?個人的な感情で会社の資金を――」
誠一はしばらく沈黙した。否定することもできたが、嘘はつきたくなかった。「会社の資金ではない。私の個人資産だ」
「では再開発プロジェクトの中止はどう説明されますか?」別の取締役が鋭く追及した。
「事業上の判断だ」
「事業上の判断ですか?数十億円の損失を出すことが事業上の判断だと仰るのですか?」
「金より重要なものがある」
誠一の答えに、取締役たちは顔を見合わせた。これまでの誠一とは全く違う姿だったからだ。
「会長の感情的判断が企業経営に介入したとなれば、重大な問題です。株主や投資家たちにどう説明なさるおつもりですか?」
誠一は黙って全ての非難を受け止めた。弁解するつもりもなかった。
その時だった。誠一のスマートフォンが鳴り響いた。発信者は美世だった。
「もしもし。おじいちゃん、お母さんが急に倒れたの。救急車を呼んだけど、今病院に向かってて」
誠一の顔が真っ白になった。「どこの病院だ?」
「大学病院です。おじいちゃん、お母さん、息が苦しそうで」
誠一は電話を切り、席から勢いよく立ち上がった。「取締役は後で続ける」
「会長!まだ重要な話が――」
しかし誠一はすでに会議室を出て行っていた。二十五年ぶりに見つけた家族が危険に晒されているのに、会社の仕事が重要であるはずがなかった。
病院の救急治療室に到着した時、美世が椅子に座って泣いていた。十歳の子供が一人でこの状況に耐えているのだ。誠一の胸は張り裂けそうだった。
「美世ちゃん」
「おじいちゃん!」美世は駆け寄って誠一にしがみついた。小さな体が震えていた。
「お母さんはどこにいるんだ?」
「あそこの救急室の中に。お医者さんが入っちゃだめだって」
一時間後、医師が出てきた。「保護者の方ですか?」
「はい、そうです」
「肺線維症が急性増悪を起こしました。当面は集中治療室で人工呼吸器と機関外の投与が必要です。長期的には移植リストへの登録をお勧めします」
医師の言葉に、美世は再び泣き崩れた。
「面会は可能でしょうか?」
「ご家族の方のみ、十分ほど可能です」
誠一は美世の手を握り、集中治療室へと向かった。ユナは酸素マスクをつけ、ベッドに横たわっていた。顔は青白く、全く意識がなかった。
「お母さん」美世がそっとユナの手を握った。冷たい手だった。
誠一はベッドのそばに立ち、ユナを見つめた。二十五年前、初めて会った時の姿が脳裏に浮かんだ。あの頃、彼女はどれほど美しく明るかっただろう。
「ユナさん」誠一が静かに呼びかけた。ユナのまぶたが微かに震えた。
「私はまだ許されていない。だが、どうか生きてくれ」
生涯強く生きてきた七十二歳の老人が、初めて誰かに懇願していた。
集中治療室から出た誠一と美世は、一晩中待った。夜は更けていったが、誠一は病院を離れるつもりはなかった。美世は誠一の膝によりかかって眠り込んでいた。
午前二時頃、担当医の山田医師が現れた。「患者さんの状態は深刻です。緊急処置と集中治療の一時費用として約七十二万円が発生します」
誠一の顔が強張った。「最善を尽くしてください。それで、失礼ですが、患者さんとはどのようなご関係で?」
誠一は一瞬ためらい、そしてきっぱりと答えた。「彼女は私の家族です」
誠一は治療費の支払いのために一階へ降りた。カードを渡した瞬間、後ろから声がした。
「会長」
振り返るとミキが立っていた。夜遅くに病院まで駆けつけたのだ。
「吉田君、どうしてここまで?」
「心配で参りました。患者さんのご容態は――」
「緊急処置が必要な状態だ」誠一は支払いを済ませ、ミキと共に病院のロビーに座った。
「会長、会社で大変なことが起きました」
「なんだ?」
「田中が逮捕されました。会社資金の横領容疑です。検察が今夜、緊急逮捕しました」
誠一の目が光った。実は誠一は数日前から田中の奇妙な行動に気づいていた。再開発プロジェクトに執着しすぎる様子。マスコミに情報をリークしたのも田中の仕業だと確信していた。
「調査の結果、五年間で総額三億円を横領していたことが判明しました。協力会社と共謀し、架空の契約書を作成して資金を横領していました。再開発プロジェクトもその一部です」
「三億だと」
誠一は鼻で笑った。田中が自分を攻撃した理由が明確になった。再開発プロジェクトが中止になれば、自分の不正が発覚する危険があったのだ。
「会長に罪を着せようとしていたのですね」
「人の欲は、結局人を滅ぼすものだ」
午前八時、ついに集中治療室のドアが開いた。山田医師がマスクを外しながら出てきた。
「緊急処置は成功しました」
誠一は安堵のため息をついた。しかし医師は続けた。「ただし、リハビリと経過観察が必要です。最低でも三週間は入院治療を受けていただくことになります」
「承知いたしました」
誠一は頭を下げ、涙を流した。生涯でほとんど泣いたことのない彼が、病院の廊下で声を上げて泣いていた。
「おじいちゃん、どうして泣いてるの?」美世が目を覚まして尋ねた。
「嬉しくてな。お母さんが助かったんだ」
「本当?本当に?」
「本当だ」
美世も涙を流した。しかし今回は喜びの涙だった。
数日後、ユナが意識を取り戻した。誠一は病室で彼女を見守っていた。
「お義父様」それがユナの第一声だった。
「目が覚めたか」
「美世はどこにいますか?」
「学校に行ったよ。心配するな」
ユナは酸素マスクの向こうから誠一を見つめていた。まだ話すのは辛そうだったが、目ははっきりしていた。
「なぜ私たちを助けてくださるのですか?」
誠一はしばらく答えられなかった。二十五年間抑圧してきた感情が喉を塞いでいた。
「すまなかった。本当にすまなかった。正斗を行かせてしまってすまなかった。お前たちを苦労させてすまなかった。全てが本当にすまなかった」
ユナの目から涙がこぼれ落ちた。
「今更すまないと言っても、許してくれとは言わない。そんな資格はない。ただ、残された時間でお前たちを守りたいんだ」
その夜、誠一は病室の窓を開け、夕焼けを眺めていた。西の空が赤く染まっていた。
「正斗よ、私が遅すぎたな。お前が心から愛した人たちを、今頃になって知るとは。本当に遅すぎたが、せめてこれからは見守らせてほしい」
数日後、ミキが病院を訪ねてきた。
「会長、会社の状況が整理されました。田中の件で全ての疑惑が晴れました。むしろ会長に対する世論は好転しています」
「そうか」
「会長が個人資産で困窮した入居者を助けたという事実が知れ渡り、企業の社会的責任として賞賛する記事が出ています」
誠一は気のない表情を浮かべた。世論がどうであろうと関係なかった。
「そして、再開発プロジェクトの代わりに進めることになったリフォーム計画が大きな反響を呼んでいます。環境保護と既存の住民を追い出すことなく強化するモデルとして、政府からも関心が寄せられています」
誠一は意外そうな表情を浮かべた。感情的に下した決断が、結果的に良い結果をもたらしたのだ。
「時には、正しいことが利益をもたらすこともあるのですね」ミキの言葉に、誠一は頷いた。
しかし、まだ全てが終わったわけではなかった。田中は起訴され裁判中だが、その背後にはさらに大きな勢力がいる可能性が高い。そして誠一が家族を守ろうとする気持ちが強まるほど、彼らを狙う視線もさらに危険なものになるだろう。
ユナが意識を取り戻してから四日が過ぎた。誠一は毎日病院に通い、彼女のそばに付き添っていた。
「会長、会社の方はよろしいのですか?」ユナが慎重に尋ねた。酸素マスクを外してからは、声もだいぶ良くなっていた。
「会社よりここが重要だ」
誠一の答えに、ユナは複雑な表情を浮かべた。二十五年前とは全く違う姿だったからだ。
その時、ユナがベッドの横の引き出しを開けた。「お義父様、これをお渡ししなければ」
彼女は小さなベルベットの箱を取り出した。指の大きさほどの古びた箱だった。
誠一が箱を受け取って開けると、中には小さな貝殻のネックレスが入っていた。しかし美世がつけていたものとは形が違う。まるで何かの欠片のようだった。
「これは義母様からいただきました」
ユナの言葉に、誠一の手が震えた。
「義母が?」
「はい。亡くなる前に私を尋ねてこられました」
誠一は箱を見つめながら過去を思い出した。三十年も前のことだ。結婚十周年を記念して妻に送った特別なネックレスだった。一つの貝殻を二つに分けて作ったペアのネックレス。妻が片方をつけ、自分がもう片方を持っていた。
「私たちが家を出てから半年ほど経った頃でした。義母様が一人で私たちの家を尋ねて来られたんです」
誠一は妻がそんなことをしていたとは全く知らなかった。当時、妻はガンと闘病中だった。体が辛い中、嫁に会いに行ったのだ。
「何と言っていた?」
「最初は何もおっしゃらず、しばらく泣いておられました。それからこのネックレスを私の手に握らせて……『誠一さんが本当の心に気づいたら、これを返してあげて』と」
誠一は息が詰まった。妻が自分の心をそこまで深く理解していたとは。
「そして、もう一つ何とおっしゃったかご存知ですか?」ユナの声に温かみがにじんでいた。「『正斗をよろしくお願いしますね。あの子は表向きは強く見せているけれど、本当は弱い子だから』と。そして『いつか誠一さんが自分の過ちに気づく時が来ると』おっしゃっていました」
誠一の目から涙がこぼれた。妻は死ぬ間際まで家族を心配していたのだ。
「お義父様もお持ちですよね」
誠一は頷いた。自分のネックレスは書斎の引き出しの奥深くにしまってある。妻が亡くなってから、見るに忍びなく隠しておいたのだ。
「明日持ってくる。そうすれば美世がつけているネックレスと合わせて三つが揃いますね」
「三つ?」
「はい。義母様はネックレスを二つくださったんです。一つは私に、もう一つは美世に」ユナは微笑んだ。「おそらくペアのペンダントの他に、いつか会える日のために同じ貝殻で小さなペンダントをもう一つ、注文しておかれたのだと思います」
誠一は胸が熱くなった。妻は死ぬ前に、すでに全てを計画していたのだ。いつか家族が再開する日のために。
「義母様が亡くなる直前、正斗さんにも手紙を送っておられました。正斗さんはその手紙を読んでひどく泣いていました。『お父様に連絡したかったけれど、勇気が出なかった』と」
誠一に後悔の念が押し寄せた。息子が連絡したがっていたのに、自分があまりにも頑固すぎたのだ。
「その手紙の内容を知っているか?」
「はい。正斗さんが私に読んでくれました」ユナはしばらく目を閉じ、記憶をたどった。「『息子へ。お父さんは今怒っていますが、いつか必ず後悔するでしょう。その時までユナさんと幸せに暮らしなさい。そして子供が生まれたら、必ずお父さんに見せてあげなさい。お父さんは孫を見れば、きっと心が変わるはずだから』と書かれていました」
誠一はしばらく言葉を発することができなかった。妻が全てを予見していたのだ。
「息子さんも、最後まで私たちのことばかり心配していました。亡くなる前に、『父さんにすまなかったと伝えてほしい。自分のせいで家族がバラバラになった』と」
誠一は首を横に振った。「違う。間違っていたのは私だ」
その時、病室のドアが開き、美世が駆け込んできた。「お母さん!おじいちゃん!」
「美世、学校はどうだった?」
「楽しかったよ。友達がお母さんが早く良くなるようにって、お手紙書いてくれたの」美世はランドセルから色紙で作られた手紙を取り出した。「それと、おじいちゃん。先生がおじいちゃんの話を聞かせてって」
「私の話?」
「うん。おじいちゃんがどんな人なのか知りたいんだって」
誠一に笑みがこぼれた。十歳の子供が祖父を誇りに思ってくれていることが、これほど嬉しいとは知らなかった。
「美世、こっちへおいで」誠一は美世を呼び寄せ、ネックレスの箱を見せた。「これはおばあちゃんがくれたんだ。お前の首にあるのと対になっているんだよ」
美世は自分のネックレスに触れ、不思議そうな顔をした。「本当?じゃあ、おばあちゃんも私たちのこと愛してくれてたの?」
「もちろん。おばあちゃんはお前たちを一番愛していたよ」
誠一はネックレスの二つのかけらを合わせてみた。完全な一つの形が出来上がった。
「これで完全になったな」誠一は呟いた。母の思いも、息子の心も、今やっと理解できた。
ユナは誠一を見つめ、涙を流した。「お義父様、これで本当に家族になれたのでしょうか?」
「もちろん。最初から家族だったんだ。私が気づかなかっただけで」
翌日、病院で三つのネックレスが揃った。誠一のもの、ユナのもの、そして美世のものだ。
「わあ、本当に一つになった」美世は不思議そうにネックレスたちを合わせてみた。
誠一はその姿を見ながら悟った。家族とはこういうものなのだ。離れていても心は一つで、時が流れても愛は変わらないものなのだと。
一ヶ月が過ぎた。秋が深まる東京。足立区のその古いビルの前には、新しい看板が掲げられていた。白い背景に緑の文字で書かれた「希望の家 地域健康相談所」という文字が、温かい日差しを浴びて輝いていた。
美世は長いモップを手に、看板を丁寧に拭いていた。十歳の少女はもうすっかり大人びて見えた。母と共に相談所の仕事を手伝っていたのだ。
「おじいちゃん、お母さんがまたお医者さんの仕事に戻ったよ」美世は明るく笑いながら誠一に駆け寄った。
誠一はビル前のベンチに座り、孫娘の姿を満足そうに眺めていた。「ああ、それこそが本当の回復というものだ」
ユナは週に数回、医療ボランティアチームと共に地域住民の健康診断を行えるようになった。緊急処置の後はリハビリを受けながら、慎重に医療活動を再開していた。
相談所は誠一が建物を改装し、一階を中心にリフォームして作った場所だった。一階は健康相談所、二階はユナと美世が暮らせる清潔な住居スペースに改築された。もう家賃の心配をすることなく暮らせる安心の地だった。
「おじいちゃん、今日もお年寄りの人がたくさん来てたよ」美世が誇らしげに行った。
一ヶ月でこの界隈の人々の間で口コミが広がり始めていた。経験豊富な医療スタッフと温かい相談員が無料で健康相談に乗ってくれるという噂が広まったのだ。
「お母さんは大活躍だな」
「うん。でもお母さん、すごく幸せそうだよ」
美世の言う通りだった。ユナは住民の相談に乗り、医療スタッフとの連携を図る中で、本当のやりがいを感じていた。お金のために治療を諦める人がいなくなること。それが彼女の夢だったからだ。
その時、相談所のドアが開き、ユナが出てきた。清潔な白衣をまとった彼女の姿は一ヶ月前とは全く違っていた。生気に満ち、自信に溢れていた。
「お義父様、今日もお越しくださったのですね」ユナは誠一に丁寧に頭を下げた。今では自然に「お義父様」と呼ぶようになっていた。
「ここが私の仕事場だからな」誠一は笑って答えた。彼はこの建物の一階の一角に小さなオフィスを設けていた。天油グループの社会貢献事業を自ら管理するためだった。
「今日の相談者は何人だったかね?」
「二十人ほどです。お年寄りの方が多かったのですが、皆さんとても感謝してくださいました」ユナの声には誇らしさが滲んでいた。
その時、吉田ミキがオフィスから出てきた。「会長、本日の新聞はご覧になりましたか?」ミキが新聞を手渡した。
一面に目を引く見出しがあった。「大家の家賃七十六万円が、一人の財閥の人生を変えた」
誠一は記事を読んだ。自分のこと、そして家族の物語が詳細に書かれていた。もちろん個人情報は全て匿名で処理されていたが、内容は正確だった。ある財閥の会長が偶然出会った入居者家族を助ける中で、人生の真の意味に気づかされたという感動的なストーリーだった。
「良い記事ですね」ユナが記事を読みながら言った。「こういう話を読んで、人々が希望を持ってくれたら嬉しいです」
誠一は新聞を畳み、頷いた。重要なのは他人がどう評価するかではなく、自分が本当に意味のあることをしているかどうかだった。
「おじいちゃん、田中のおじさんはどうなったの?」美世が不思議そうに尋ねた。
「今起訴されて裁判中だ。おそらく長く刑務所に入ることになるだろう」
「悪いことをしたら、バツが当たるんだね」
「そうだ。だからいつも正しく生きなければならないんだ」誠一は孫娘の頭を撫でた。
日が暮れようとしていた。西の空が赤く染まり、美しい夕焼けを作り出していた。誠一はネックレスを指先でなぞりながら呟いた。
「人は失っても、愛は残る」
「正斗さんもきっと喜んでくれているはずです」ユナは誠一の言葉に頷いた。
「そうだろうな。息子が一番望んでいたのは、きっとこんな光景だっただろうから」
誠一は空を見上げた。どこかで息子が見守ってくれているような気がした。
美世が二人の間に割って入った。「私たち、もう本当の家族だよね」
「当たり前じゃないか。最初から家族だったんだ」
誠一の答えに、美世はパッと明るく笑った。ユナは一瞬ためらった後、慎重に口を開いた。
「お義父様」
「うん?」
「もう本当に、お義父様と呼んでもよろしいでしょうか?」
誠一は胸が熱くなった。二十五年ぶりに、再び「お義父様」という呼び名を聞くことになったのだ。
「ああ、もちろん。そう呼んでくれ」
「では、これからはお義父様と呼ばせていただきます」ユナの声には真心がこもっていた。
夕焼けの光が三人の手の甲に降り注いだ。温かいオレンジ色の光が彼らを包み込み、平和な雰囲気を醸し出していた。
「おじいちゃん、明日も来てくれるよね」美世が尋ねた。
「もちろん。ここが私の家だからな」
誠一の答えに、美世とユナは笑った。家族はこうして再び一つになった。失われた二十五年の歳月を取り戻すことはできないが、これからの時間は共に築いていくことができる。そして、それだけで十分だった。
誠一は最後に建物を見上げた。「希望の家」という看板が夕焼けに照らされて輝いていた。本当に希望に満ちた家になった。本当の家族としての始まり。新しい始まりだった。



