「お母さん、ランドセルくらいで恩を売るのはやめてください」
その言葉を聞いた瞬間、私の全身から血の気が引いていくのがわかった。
リビングのテーブルに置かれた薄紫色の美しいランドセル。孫のゆアちゃんの入学祝いに、3ヶ月も前から予約していた特別な品だった。
「ゆアちゃん、これおばあちゃんからのお祝いよ」
満面の笑顔で差し出した私に、息子の嫁・美雪は冷たい視線を向けた。まるで汚いものでも見るかのような目だった。
「10万円ぽっちで親面するなよ」
息子のかずきが吐き捨てるように言った。
震える手で私はランドセルから手を離した。
私は杉本清子、68歳。助産師として40年間、3000人以上の赤ちゃんをこの世に迎えてきた。朝も夜も関係なく、新しい命の誕生に立ち会い続けた日々。地域の人々からは「杉本先生」と慕われ、取り上げた子供たちが成人式を迎えるたびに感謝の手紙が届く。
それなのに、自分の息子への献身は今の一言で全て否定されてしまった。
夫を交通事故で亡くしたのは、かずきがまだ2歳の時。女手一つで育てると決めた私は、必死に働いた。医学部の学費2000万円、結婚資金500万円、マイホームの頭金800万円。通帳の残高が減るたびに、息子の幸せを願った。
「母さん、俺医者になれたよ」
あのかずきの笑顔を信じて、全てを捧げてきた。
それなのに今では、孫の顔さえろくに見せてもらえない。
「お母さん、病院が忙しいでしょうから、無理に来なくていいですよ」
美雪の拒絶の言葉。母の日も誕生日も、まるで私という存在が邪魔物であるかのような扱い。寂しい夕食を一人で済ませながら、孫の写真を眺める日々。
あの子たちにとって、私は一体何なのだろうか。
ランドセルを突き返された翌日、私は気を取り直して息子の家を訪ねた。せめて誤解を解きたい。そんな思いで。
「お母さん、何の用ですか?」
玄関先で美雪が腕を組んで立っていた。
「あのランドセル、ゆアちゃんのために一生懸命選んだの。気に入らなかったなら交換も……」
「10万円のランドセル?」
美雪が鼻で笑った。
「そんな安物、恥ずかしくて使えません。うちの家庭なんですから。私の実家では最低でも30万円のランドセルが常識ですよ」
胸が締めつけられるような痛みを感じた。3ヶ月も前から予約して、私なりに精一杯の品を選んだというのに。デパートへ何度も足を運び、店員さんと相談して、ゆアちゃんの好きな薄紫色を選んだ。あの時間は何だったのか。
奥からかずきが出てきて、さらに追い打ちをかけた。
「母さんの貧乏臭い感覚、俺たちには迷惑なんだよ。医者の家庭にはそれなりの格があるんだ」
貧乏臭い。
私の声が震えた。あなたを医者にするためにどれだけ苦労したか知っているのかと叫びたかった。毎朝5時に起きて朝食と弁当を作り、自分は食パン一枚で済ませた日々。ブランドなど一つも持たず、10年同じコートを着続けた冬。
でも、次の美雪の言葉でその気力さえ奪われた。
「そういえばお母さん、医学部の学費を出したって恩着せがましく言いますけど、親なら当然でしょう。見返りを期待するなんて品性が疑われますよ」
「そうだよ。俺の実力で今があるんだ。母さんは関係ない。医学部だって、俺の成績なら特待生になれたはずだし」
昼は病院で働き、夜は当直のある場合、睡眠時間を3時間に削って貯めたお金。自分の老後の資金も全て息子に注ぎ込んだ。それが「当然」の一言で片付けられてしまった。
せめて孫の顔だけでも見たい。そう願いを込めて言うと、美雪が信じられない条件を突きつけてきた。
「会いたいなら、月30万円の養育費を払ってください」
私は耳を疑った。
「医者の娘にふさわしい教育には、それくらいかかるんです。ピアノはピアニストの個人レッスン。バレエは元プリマの先生。英語はイギリス人のネイティブの家庭教師。全て一流でなければ意味がありません」
「でも、私はもうそんな余裕は……」
「じゃあ、合わせられませんね」
美雪が冷たく言い放った。
「貧乏な祖母なんて、ゆアにとって恥ずかしいだけですから。学校で『おばあちゃんは何してるの?』って聞かれた時、『ただの助産師です』なんて言えませんもの」
かずきがさらに追い打ちをかけた。
「正直に言うよ、母さん。俺の同僚は皆、親が会社経営者なんだ。母さんみたいな貧乏人が俺の母親だって、恥ずかしいんだよ。この前の医局のパーティーにも、恥ずかしくて呼べなかった」
心臓を掴みにされたような痛みが走った。私が必死に育てた息子が、私を「貧乏人」と蔑んだのだ。
「そうそう」
美雪が思い出したように付け加えた。
「お父さん、早く亡くなってよかったですね。貧乏が2人もいたら本当に最悪でしたから。トラック運転手でしたっけ? 恥ずかしい職業ですよね」
亡き夫まで侮辱された瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れた。
夫は家族のために必死に働き、事故で命を落とした。その夫を「恥ずかしい」と言うなんて。
もう限界だった。
怒りで体が震えたが、不思議なほど頭は冷静になっていた。
「わかりました。もう二度とお邪魔しません」
私は静かに振り返って帰った。
その時、私の中である決意が固まった。
――あなたたちが知らない、本当の私の姿を見せてあげる時が来たのだと。
3日後の午後。私は忘れていた診察券を取りに、もう一度息子の家を訪れた。前回の訪問で玄関に落としてしまったようだ。
車があるので在宅のはずなのに、インターホンを押しても応答がない。仕方なく、いつも使っていた合鍵で静かにドアを開けた。
すると、リビングからかずきと美雪の会話が聞こえてきた。
「あのババア、しつこくてうざいよな」
かずきの声だった。
私は息を殺して廊下の影に身を潜めた。
「ランドセル10万円で恩着せがましくされて、本当に迷惑だったわ。あんな安物、速攻でメルカリに出品したら8万円で売れたわよ」
え?
私は思わず息を漏らした。ゆアちゃんのために選んだランドセルを売ってしまったというのか。あの薄紫色の美しいランドセルを。
「でも、まだ利用価値はあるだろう」
かずきが計算高い口調で続けた。
「あのババアの退職金、まだ手つかずのはずだ。いくらくらいある?」
「助産師で40年勤務なら、最低でも2000万はある。それを狙おう」
「どうやって?」
「簡単さ。ゆアを使えばいい。ゆアが会いたがってる、ゆアが病気で入院したとか言えば、感情的になって金を出すよ。あのババア、孫には甘いからな」
私は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。録音機能をオンにして、会話を記録し始めた。
「でもお母さん、そんなにお金持ってるかしら? 見るからに貧乏そうじゃない」
「表面上は貧乏に見せてるけど、絶対に隠し財産があるはずだ。あの性格ならコツコツ貯めてるよ。それに親父の生命保険金もあったはずだ」
「いくら?」
「確か3000万。あの時俺はまだ子供だったから手をつけられなかったけど、今なら理由をつけて引き出せる。医療費がかかるとか、ゆアの教育費とか、適当に言えばいい」
「賢いわね、あなた」
「じゃあ、もう少し優しく接して油断させましょうか」
「いや、それは無理だ。俺、あのババアの顔を見るだけで吐き気がするんだよ。貧乏臭くて、見窄らしくて、いつも同じような地味な服を着て化粧もしない。センスがねえんだよ」
聞いていて苦しかった。自分の服は我慢して、息子にはいつも新しい服を買ってあげた。その息子が、私のみすぼらしい姿を嘲っているなんて。
「本当よね。生きてる価値なんてないのに。遺産もろくにないくせに、図々しく生きてる。さっさと死んでくれればいいのに」
胸が引き裂かれるような痛みが走った。
「まあ、退職金を絞り取ったら完全に縁を切るさ。施設にぶち込んで二度と会わない。面会なんて絶対に行かない。死んだ連絡が来ても葬式には出ない」
「当然よ。10万で親面されるのも今日で最後ね。あんな貧乏人、親戚だと思われたくないもの。私の実家の人たちに知られたら、恥ずかしくて死にそう」
さらに衝撃的な内容が続いた。
「そういえば、この家の権利書、まだ母さんの名前になってるんだよな」
「え? この家、お母さんの?」
「頭金800万は母さんが出したから、共同名義になってるんだ。早く名義変更させないと、このままじゃ俺たちの財産にならない」
「どうやって? お母さん、そう簡単にサインしないでしょう」
「認知症だと診断書を偽造すればいい。医者の俺なら簡単にできる。判断能力がないってことにして、成年後見人を俺にすれば、全財産を自由にできる」
私は全身の血が凍りつくような恐怖を感じた。息子が私を認知症扱いして、財産を奪おうとしているなんて。
「でも、バレたらまずくない?」
「医者免許剥奪とかになったら」
「大丈夫だ。俺の大学の同期に精神科医がいる。金を握らせれば診断書くらい書いてくれる。それにあのババアに、俺たちの計画を見破る頭なんてない」
「あなた、本当に頭がいいわ」
「医者の頭脳を、あんな低学歴のババアが理解できるわけがない。助産師なんて、医者の指示通りに動くだけの下働きだろ。そんな奴が俺に勝てるわけがない」
私は看護師の端だ。
私の誇りである助産師の仕事まで侮辱された。3000人の命を取り上げ、母親に寄り添ってきた40年間。不眠不休で新しい命を守り続けた日々を、「医者の指示通りに動くだけの下働き」と言われたのだ。
「ねえ、お母さんから全部奪ったら、ハワイに別荘買ってくれる?」
「ああ、約束するよ。あのババアの全財産を使って、俺たちは優雅に暮らすんだ。ゆアは全額の学校に入れて、完全に自由になろう」
「素敵。お母さんには悪いけど、自業自得よね。貧乏人のくせに医者の家族に這い上がろうなんて、身の程知らずだったのよ」
まるで悪魔のような二人の高笑いが響いた。
私はゆっくりと立ち上がった。もう十分だった。録音も完璧に取れた。
静かに家を出ると、私の心には硬い決意が宿っていた。
――かずき、美雪。覚悟しなさい。あなたたちが知らない本当の私を、これから見せてあげるから。
もう我慢する必要はない。40年、骨を惜しんで働いてきた私の本当の力を、あの恩知らずたちに思い知らせる時が来たのだ。
自宅に戻った私は、まず寝室のクローゼットの奥から、亡き夫が残してくれた古いダイヤル式の重い金庫を引き出した。
カチャリと金庫が開くと、そこには息子が知らない私の本当の姿があった。
最初に手に取ったのは10冊以上の通帳。各大手銀行にそれぞれ分散して預けていた定期預金の総額は、8000万円を超えていた。
――かずき、あなたは私を貧乏だと決めつけていたけれど。
私は静かに呟いた。助産師の給料を40年間ほとんど使わずに貯めていたのだ。朝5時に起きて弁当を作り、服は10年同じものを着続け、美容院にも行かず旅行も我慢した。全ては息子のため、そして自分の老後のために。
でも、その息子は私を「貧乏臭い」と蔑んだ。
次に取り出したのは証券会社の運用報告書。20年前から少しずつ始めた投資信託と株式投資。リーマンショックも乗り越えて、今では評価額が5000万円になっていた。病院の先輩に教えてもらいながら、こっそりと勉強して増やしてきた資産だった。
――医者の頭脳じゃないと、取り替えできない。
私は苦笑した。助産師だって、資産運用くらいできるのだ。
そして何より価値があるのは、亡き両親から相続した土地の権利書だった。東京都心の一等地にある200坪の土地。現在の評価額は2億円を超えていた。
――これは絶対にかずきには渡さない。
私は決意を新たにした。両親が苦労して守ってきた土地を、あんな恩知らずに渡すわけにはいかない。
全ての書類を確認すると、私の総資産は3億円を優に超えていた。質素な生活を送っていた助産師が、実はこれだけの資産を持っていたなんて、息子夫婦は夢にも思わないはずだ。
私は録音データをUSBメモリーにコピーすると、重要書類を鞄に詰めて、市内で最も信頼できる法律事務所へ向かった。
重厚な扉を開けると、初老の弁護士・高橋先生が迎えてくれた。以前、病院の医療訴訟でお世話になった方だった。
「杉本さん、お久しぶりです。今日はどのようなご用件で?」
「遺言書を作成したいんです」
私は深く息を吸った。
「そして、息子を相続から完全に排除したいんです」
高橋先生の表情が引き締まるのが分かった。
「それは重大な決断ですね。理由をお聞かせください」
私は録音データを再生した。息子夫婦の冷酷な会話が、静かな事務所に響いた。高橋先生の顔が次第に険しくなっていった。
「これは……ひどい」
録音が終わると、先生は深いため息をついた。
「重大な侮辱に該当します。相続排除の申し立ては十分可能です」
「お願いします。私は頭を下げた。全財産を、新生児医療の発展のために寄付したいんです」
高橋先生は私の目をじっと見つめた。
「本当によろしいんですか? 3億円という大金ですよ」
「はい。私は迷いなく答えた。私は3000人以上の赤ちゃんを取り上げてきました。その経験を生かして、もっと多くの命を救いたいんです。息子に侮辱された助産師の仕事ですが、私にとっては世界で最も尊い仕事です」
高橋先生は深く頷いた。
「わかりました。遺言書を作成しましょう。これなら法的効力は完璧です。それと、相続排除の申し立ても家庭裁判所に提出します」
手続きは迅速に進められた。
「杉本さん」高橋先生が真剣な表情で言った。「念のため、医療法人の設立も検討されてはいかがですか? 杉本記念新生児事業基金として、永続的に新生児事業を支援できます」
「素晴らしい提案です。是非お願いします」
2時間後、全ての書類が完成した。
私の全財産3億2000万円は、新生児事業の発展のため医療法人に寄付する。息子のかずきには、重大な侮辱を理由として一切の財産を相続させない。
遺言書には明確に記されていた。
「これで完璧です。高橋先生が言った。明日、家庭裁判所に相続排除の申し立てを行います。録音データという確実な証拠がありますから、認められる可能性が高いでしょう」
私は深くお礼を述べて、事務所を後にした。
外に出ると、夕日が町を小紅色に染めていた。
――かずき、美雪。私は空を見上げて呟いた。10万円のランドセルを笑ったあなたたちは、3億円の愛を失うのよ。
明日、息子夫婦に全てが通知される。その時の顔を想像すると、不思議と心が軽くなった。
これは復讐ではない。正義の実現なのだ。
翌朝8時、息子夫婦の家にレターパックが届いた。差出人は高橋法律事務所。
その日の午後、私の携帯電話が鳴り響いた。
「母さん、これは何の冗談だ?」
かずきの怒鳴り声が響いた。
「冗談ではありませんよ。全て本気です」
「相続排除だ? 3億円? 母さんがそんな金を持ってるわけないだろ」
「あら、あなたは私を貧乏人だと言っていたじゃない。だったら、関係ないでしょう」
電話の向こうで美雪の叫び声が聞こえた。
「3億2000万円? 嘘でしょ?」
「私は冷静に続けた。助産師を40年、質素に暮らせばそれくらいになるのよ。あなたたちが知らなかっただけ」
「待って。話し合おう」
かずきの声が急に低くなった。
「これは誤解だ」
「誤解?」
私は録音の一部を電話越しに再生した。
「あのババア、早く死ねばいいのに」
というかずきの声が響いた。
「これが誤解なの?」
電話が切れた。
30分後、息子夫婦が私の家に押しかけてきた。インターホンが激しく鳴らされ、ドアを叩く音が響いた。
「母さん、開けてくれ。話がある」
私はドアチェーンをかけたまま、少しだけドアを開けた。そこには顔面蒼白のかずきと、目を泣き腫らした美雪が立っていた。
「お母さん、お願いです」
美雪が必死の表情で訴えた。
「誤解なんです。本当に誤解」
「10万円のランドセルを売ったのも誤解?」
美雪の顔が凍りついた。
「それは……メルカリで8万円で売れたんでしょう?」
「ゆアちゃんのために選んだランドセルを」
かずきが土下座を始めた。玄関先で、医者としてのプライドを捨てて、額を地面に擦りつけていた。
「母さん、本当にすみませんでした。俺が間違っていました」
「何が間違っていたの?」
私は冷たく問いかけた。
「全てです。母さんを侮辱したこと、恩を忘れたこと。全てです」
「ああ、そう。私は無感動に答えた。でも、もう遅いのよ」
美雪も隣で土下座した。高級ブランドの服が汚れることも気にせず、必死に頭を下げていた。
「お母さん、ランドセル。本当は嬉しかったんです。ゆアも喜んでいました」
「嘘ね。私は断言した。売ったくせに」
「買い戻します。今すぐ買い戻します」
美雪が叫んだ。
「もういいわ。私は首を横に振った。ゆアちゃんには、もっとちゃんとした両親が必要ね。あなたたちみたいな親に育てられるより、施設の方がましかもしれない」
かずきが顔を上げた。その目は充血し、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「母さん、お願いだ。考え直してくれ。俺たちにはゆアの教育費が必要なんだ」
「教育費? 私は鼻で笑った。ハワイの別荘の間違いでしょう」
二人の顔が真っ青になった。会話を全て聞かれていたことを、今理解したようだった。
「母さん、あの時は……」
かずきが言い訳を始めた。
「あの時は?」私は問い詰めた。「私を認知症扱いして財産を奪う計画を立てたの」
かずきは言葉を失った。
「助産師を下働きと侮辱したのは?」
「それは……その時は……」
「早く死ねばいいと言ったのは?」
沈黙が流れた。
美雪が泣きながら訴えた。
「お母さん、私たち、本当は感謝してるんです」
「感謝? 私は嘲笑した。『10万で親面するな』と言った人が、よく言うわ。あれが本音でしょう」
私は断言した。
「相続排除の申し立て書は提出済みよ。来月には受理されると思うわ。異議申し立てはできるけど、あなたたちが来ても来なくても、結果は変わらないでしょうね」
かずきが絶望的な声をあげた。
「母さん、俺には医者としての地位がある。でも、母親から相続排除されたなんて知られたら……」
「自業自得ね。私は冷たく言い放った。医者の頭脳があれば、分かるでしょう」
美雪が最後の手段に出た。
「お母さん、ゆアが……ゆアがおばあちゃんに会いたがってるんです」
「あら、月30万円払わないと合わせないんじゃなかった?」
「それは……取り消します。いつでも会いに来てください」
「もう結構。私はきっぱりと断った。ゆアちゃんを金ずるとして利用する親の元にいるより、ちゃんとした環境で育った方がいい」
「金ずるなんて……」
「『ゆアを使えば金を出す』って言ってたじゃない」
私は録音の別の部分を再生した。
かずきと美雪の顔が絶望に染まった。
「母さん」
かずきが最後の訴えをした。
「血のつながった親子じゃないか」
「親子? 私は静かに笑った。あなた自身が言ったのよ。『もう他人だ』って。だから、その通りにしただけ」
私は二人を見下ろした。地面に額をつく息子夫婦の姿は、哀れでもあり滑稽でもあった。
「3億円、全て新生児医療の発展のために使われます。私は淡々と告げた。未来の命を救うために」
「そんな……」
美雪が泣き崩れた。
「私たちには……1円も?」
「1円も。私は確認した。あなたたちは10万円のランドセルを笑った。その代償は、3億円の相続権の喪失よ」
「母さん、お願いだ」
かずきが鼻を啜りながら懇願した。
「せめて、一部だけでも……」
「無理ね。私は首を横に振った。もう書類は全て整った。来週には医療法人の設立も完了する」
「訴えてやる!」
美雪が突然叫んだ。
「詐欺だ! 息子に黙って財産を隠していたなんて!」
「どうぞ。私は微笑んだ。でも、侮辱の証拠は全て揃ってる。録音も暴言の証人もいる。医者が母親を侮辱していたなんてスキャンダルね」
かずきの顔が土色になった。病院での立場を失うことを、今理解したようだった。
「それに、私は付け加えた。あなたたちの計画、認知症診断書の偽造の件も警察に相談済みよ」
「なんだって?」
かずきが飛び上がった。
「医者免許、大丈夫かしら?」
完全に打ちのめされた二人は、よろよろと立ち上がった。
「出ていきなさい。私は最後通告した。二度と私の前に現れないで。赤の他人でしょ」
かずきが振り返った。その顔はもはや私の知る息子ではなかった。憎しみと後悔と絶望が入り混じった、醜い表情をしていた。
「覚えてろ」
かずきが捨て台詞を吐いた。
「あら、脅迫? 私は冷静に答えた。それも録音させてもらったわ。また証拠が増えたわね」
二人は何も言えず、とぼとぼと去っていった。
私は静かにドアを締め、深く息をついた。
40年間の愛情を踏みにじった報いを、息子夫婦はこれから受けることになるでしょう。でも、私の心に後悔は微塵もなかった。
3ヶ月後、私は都心の高級マンションの最上階で朝のコーヒーを楽しんでいた。大きな窓から見える東京の景色は、まるで新しい人生の始まりを祝福しているようだった。
テーブルの上には一通の感謝状が置かれていた。
「杉本清子様。あなたの3億円のご寄付により、新生児集中治療室が完成しました。これにより、年間500人以上の新生児の命が救われます」
私は感謝状を手に取り、優しく微笑んだ。10万円のランドセルを笑った息子夫婦は知らないでしょう。その3億円が、どれだけ多くの命を救うことになるのかを。
インターホンが鳴った。モニターを見ると、懐かしい顔が映っていた。
「杉本先生、お久しぶりです」
訪ねてきたのは、20年前に取り上げた双子の母親、佐藤さんだった。あの時は在胎30週で、二人とも1500グラムしかなかった。
「まあ、佐藤さん。お元気でしたか?」
「双子ちゃんたちは? おかげ様で二人とも大学生になりました。医学部に進学したんです。先生みたいに命を救う人になりたいって」
リビングに通すと、佐藤さんは深々と頭を下げた。
「先生の寄付のことを新聞で知りました。本当に素晴らしいことをされましたね」
「いいえ。私は首を横に振った。私にできることをしただけです」
佐藤さんは大きな花束と、分厚い封筒を差し出した。
「実は、先生に取り上げていただいた子供たちで『感謝の会』を開きたいんです。もう300人以上が参加表明してくれています。これは皆からのメッセージです」
封筒を開けると、たくさんの手紙が入っていた。どれも心のこもった感謝の言葉で溢れている。
「杉本先生は私の命の恩人です」「先生がいなければ、今の私はいません」「第二の母としてずっと尊敬しています」
私の目に涙が浮かんだ。血のつながった息子には捨てられたが、心でつながった家族がこんなにいたなんて。
「先生」佐藤さんが続けた。「私たちにとって、先生は本当の家族です。これからもずっと慕わせてください」
その言葉に、私の心は温かさで満たされた。
一方、息子夫婦のその後は悲惨なものだった。相続排除の件が病院に知れ渡り、かずきは医局で完全に孤立。「母親を侮辱した」というレッテルを貼られ、患者からの信頼も失った。さらに、認知症診断書偽造計画が医会でも問題となった。正式な処分は下されなかったが、かずきの評判は地に落ちた。
3ヶ月後、居心地が悪くなったかずきは自主退職を余儀なくされた。美雪との関係も破綻。遺産を当てにしていた美雪は、それが消えた途端、かずきに愛情を注がなかったようだ。
「あなたのせいで3億円を失った」
美雪は離婚届を突きつけた。離婚協議の末、親権は美雪が持つことになったが、養育費の支払いでかずきは経済的に追い詰められた。医者を辞めたかずきに、高額な養育費を払う余裕などなかった。
ある日、高橋弁護士から連絡があった。
「杉本さん、息子さんから謝罪の手紙が届いています。どうしても読んで欲しいと」
「読む必要はありません。私は即座に答えた。もう他人ですから」
「実は、高橋先生が続けた。息子さん、今は地方の小さなクリニックで働いているそうです。月収は以前の3分の1だとか」
「自業自得ですね。私は冷静に答えた」
高橋先生は深く頷いた。
「あなたの決断は正しかったと思います。愛情を踏みにじるものに、財産を渡す必要はありません」
本当にその通りだった。
新生児ICUの開設式の日、私は来賓として出席した。真新しい医療機器が並ぶ病室で、小さな命が懸命に生きようとしている姿を見て、私は確信した。
――これが、私の本当の遺産なのだと。
保育器の中で、500グラムで生まれた赤ちゃんが小さな手を動かしていた。その姿を見守る若い母親に、私は声をかけた。
「大丈夫。この子は強い子です。きっと元気に育ちますよ」
母親は涙を流しながら頷いた。
式典で、病院が私を壇上に招いてくれた。
「杉本清子さんは、40年間で3000人以上の赤ちゃんを取り上げて来られました。そして今、その経験と愛情を、未来の命のために捧げてくださいました」
会場から温かい拍手が起こった。その中に、かつて私が取り上げた子供たちとその家族の顔が、たくさん見えた。みんな、私を温かく見つめていた。
私はマイクを持って話し始めた。
「実は、10万円のランドセルをプレゼントした時、息子から『10万円で親面するな』と言われました」
会場がひそやかにざわめいた。
「でも、私は親面なんてしていません。ただ、愛情を注いだだけです」
会場が静まり返った。
「親の愛情に値段なんてつけられません。10万円のランドセルも3億円の遺産も、数字でしかありません。本当に大切なのは、その背後にある思いです」
私は深呼吸をして続けた。
「息子は私を見捨てました。でも、そのおかげで私は気づいたのです。本当の家族とは、血のつながりではなく心のつながりだということに。私の願いは、これからもこの病院で新しい尊い命を守り続けて欲しい。そして、それが何年も続いていくこと。これが私の本当の幸せです」
私は深く一礼した。割れんばかりの拍手が響いた。多くの人が立ち上がり、スタンディングオベーションを送ってくれた。
夕方、マンションに戻ると窓から美しい夕焼けが見えた。一人でいることに、もう寂しさは感じなかった。
私には3000人の子供たちという大きな家族がいる。そして、これからも新生児医療を通じて多くの命と関わっていけることを誇りに思う。
――かずき。私は空に向かって呟いた。あなたは10万円のランドセルを笑った。でも、そのおかげで私は本当の幸せを見つけたの。ありがとう。
人生の最後の章を、私は誇りを持って生きていきます。助産師として、そして一人の人間として。理不尽な仕打ちに屈しない強さ。それが私の誇りです。



