ダイニングテーブルの空気が、氷のように凍りついた。
「ねえ、ママ、このおばあちゃん、いつこの家から追い出すの?」
無邪気な、しかし底冷えするような孫の声。翔太は小学三年生だ。
本来なら親が慌てて叱る場面だろう。しかし、私の目の前に座る嫁は、注意するどころか、意地悪な笑みを浮かべた。
「もうちょっとの辛抱よ、翔太。おばあちゃんはね、今、新しい居場所を探している最中だから」
彼女たちは知らなかった。数日後、ハワイ旅行から帰国した彼らを待っているのが、人生最大の絶望だということを。
東京タワーを間近に望む、港区のタワーマンション最上階。ここは、亡き夫と私の長年の努力の結晶であり、終の住処として購入した大切な場所だった。しかし今の私にとって、この豪華な部屋はただの牢獄に等しい。
テーブルの上に並ぶのは、高級な国産和牛を使ったすき焼き。一人息子の光一と嫁の美穂、そして孫の翔太は、湯気の立つ肉を我が物顔に頬張っている。
一方、テーブルの端に座る私の目の前に置かれているのは、昨日の残りの干からびた魚と、少し黄色く変色したご飯だけだった。
「おばあちゃんは、もうお肉なんて胃が持たれるお年でしょ?だから体に優しい和食の残りにしておきましたから。フードロスにもなりますし、感謝してくださいね」
美穂は、美しく整えられたジェルネイルをキラキラと光らせながら、悪びれる様子もなく言い放つ。息子の光一は、スマートフォンの画面から目を離すことなく、私の惨めな食事には見向きもしない。
「ああ、肉うまいな。お袋、変わりはねえか」
彼らがこの家に転がり込んできたのは、半年ほど前のことだった。
「母さん、一人暮らしじゃ寂しいだろう。俺たちが一緒に住んで面倒を見るよ」
夫を亡くして三年。広いマンションで孤独を感じていた私は、息子の優しい言葉に涙を流して喜んだ。しかし、それは地獄の始まりに過ぎなかった。
引っ越してきて数日も経たないうちに、美穂の本性が現れた。
「専業主婦でずっと暇だったんだから、家事くらい全部やってくださいよ。私、子育てと自分磨きで忙しいんだから」
掃除、洗濯、料理。全ての家事を私に押し付け、美穂は毎日エステやママ友とのランチに出かけていく。さらに、私のクローゼットから勝手にブランド物のバッグを持ち出し、自分のもののように使い回す始末。私が少しでも文句を言おうものなら、
「誰が一緒に住んでやってると思ってるんですか?嫌ならとっととボロボロの老人ホームにでも行けばいいでしょう」
と、ヒステリックに怒鳴り散らす。
そして、そんな妻の暴言を、光一は「母さん、みほを怒らせないでくれよ。俺が疲れるんだから」と、見て見ぬふりをしていた。
「ねえ、ママ、僕、ハワイでイルカに乗りたい!」
翔太の声で、私ははっと現実に戻った。
「ええ、もちろんよ。パパのボーナスも出たし、今回は最高級ホテルに泊まってパーっと遊ぼうね」
来週から彼らは一週間のハワイ旅行に行く予定だった。もちろん、私の旅費など出してくれるはずもなく、私はただの留守番役だ。
「あ、そうだ。おばあちゃん」
美穂が、獲物を見つけた蛇のような冷たい目で私を見下ろした。
「私たちがハワイに行っている間、さんの部屋の荷物、全部まとめておいてくださいね。いえ、翔太が大きくなってきたから、おばあちゃんの部屋を翔太の専用プレイルームにしようと思うんです。だからおばあちゃんは、そうね、あの北側の窓のない物置みたいな部屋に移ってください。どうせ寝るだけなんだし、十分でしょう」
私の大切な夫との思い出が詰まった日当たりの良い部屋から、薄暗い物置部屋へ追いやろうというのだ。私は膝の上で拳を握りしめ、ただ黙って俯いた。ここで怒ってはいけない。今、立ち向かっては、私の計画が台無しになる。
私の沈黙を完全な屈服と捉えた美穂は、勝ち誇ったように笑った。
「それから、私たちが帰ってくるまでに、自分の身の振り方もちゃんと考えておいてくださいね。いつまでもこの家に居られたら、私たちも迷惑なんですから」
どこまでも私を見下し、私自身の家から私を追い出そうとする嫁。私はゆっくりと顔を上げ、心からの穏やかな笑顔を作って答えた。
「ええ、分かったわ。あなたたちが帰ってくるまでに、綺麗さっぱり片付けておくわね」
その言葉の恐ろしい真意を、愚かな彼らは知るよしもなかった。
翌朝、マンションは朝から戦場のような騒ぎになっていた。
「ちょっとおばあちゃん、私のシルクのカーディガン、ちゃんとアイロンかけてないじゃないですか。ハワイのディナーで着るって言ったでしょう」
パッキングで散らかったリビングに、美穂の金切り声が響き渡る。彼女はすでに、大きな麦わら帽子に南国を思わせる派手な花柄のワンピースという、浮かれたリゾートファッションに身を包んでいた。
「ごめんなさいね。今すぐにかけるわ」
私がアイロンを出そうとすると、息子の光一がため息をついた。
「もういいよ、母さん。時間がないんだ。向こうでクリーニングに出すから。全く、朝からみほをイライラさせないでくれよ。俺まで疲れるだろう」
光一はそう吐き捨てながら、自分の新しい高級ブランドのサングラスを磨いている。孫の翔太はと言うと、ソファに寝転がって携帯ゲームに夢中で、私におはようの挨拶すらしない。
私は何も言い返さず、ただ静かにアイロンを片付けた。これも今日までの辛抱。あの子たちが家を出るまでの、ほんのわずかな時間の我慢。そう心の中で唱えながら、私は彼らが散らかしたゴミをまとめていった。
なぜ私が自分の家でこんな惨めな扱いを受けているのか、実は息子夫婦は大きな勘違いをしている。
彼らはこの一等地にある一億円を超える高級タワーマンションを、亡き父親が残した遺産で購入したと思い込んでいる。私の夫・誠一は、名の知れた大企業の部長まで務め上げた。だから、その退職金と生命保険でこの家を買ったのだと、光一も美穂も信じて疑わない。
しかし、現実は違う。夫は外では立派なエリートサラリーマンを演じていたが、実は見栄っ張りで浪費家だった。後輩に奢っては毎晩のように飲み歩き、退職金は彼が内緒で作っていた多額の借金の返済でほぼ消えてしまった。私が途方に暮れていた時、私を救ってくれたのは、私自身の秘密の蓄えだった。私は専業主婦として夫を支える傍ら、趣味で始めた投資や、実家から相続した小さな土地の運用を、何十年もかけて地道に続けていたのだ。
夫の死後、私はその資金を元手に、自分自身の老後の安心のためにこのマンションを購入した。つまり、このマンションは100%私、静子の名義なのだ。
しかし、プライドの高かった亡き夫の名誉を守るため、私は光一に「お父さんの遺産で買ったのよ」と嘘をついてしまった。それが、これほどの地獄を招くことになるとは、想像もせずに。
「おばあちゃん、聞いてます?」
突然、顔のすぐ横で美穂が大きな声を出した。
「え、ごめんなさい。何かしら?」
「だから、私たちがハワイに行っている間、勝手に友達とか呼ばないでくださいねって言ってるんです。お年寄りが集まると、部屋中が独特の臭いでくさくなるから、本当に迷惑なんですよ。帰ってきて臭かったら、ハウスクリーニング代、請求しますからね」
顔をしかめながら、鼻をつまむような仕草をする美穂。
「ええ、分かったわ。誰も呼ばないから、安心して」
私がぐっと言葉を飲み込み、沈黙して頷くと、美穂は高らかに笑った。
「それから、さっきも言いましたけど、私のクローゼットには絶対に入らないでくださいね。おばあちゃんの汚い手で、私のブランド品に触られたら嫌ですから。まあ、どうせおばあちゃんには、そんな高級品の価値なんて一生分からないでしょうけどね」
どこまでも人を小馬鹿にした、見下し切った視線。光一はそんな妻を諫めるどころか、
「ほら、タクシー来たぞ。行くぞ」
と、重たいスーツケースを転がし始めた。
「じゃあね、おばあちゃん。早くあの暗いお部屋にお引っ越ししといてね」
翔太が、無邪気に残酷な言葉を投げかけ、三人は玄関を出ていった。
重厚な玄関のドアが閉まり、オートロックの電子音が鳴った瞬間、部屋の中に嘘のような静寂が訪れた。
私はゆっくりと深呼吸をした。胸の奥でずっと抑え込んでいた、どろどろとした黒い感情が、静かに、しかし確実に炎となって燃え上がり始める。
「さて、あの人たちが『価値が分からない』と言った。この家の本当の価値を、思い知らせてあげましょうか」
私はエプロンを外し、ソファーに深くかけた。そして、スマートフォンを取り出すと、アドレス帳の中から、ある人物の名前を探した。それは、普通の主婦なら決して関わりのないであろう、意外な人物の連絡先だ。
「はい、お電話ありがとうございます。井波不動産です」
数回のコールの後、電話の向こうから低く落ち着いた男性の声が聞こえた。
「もしもし、井波さん?お久しぶりです。静子です」
「おや、静子先生、これは珍しい。どうされました?また良い物件でも見つかりましたか?」
「ええ、実は、私に飛び切りの物件を一つ売って欲しいんです」
「先生が、ご自宅を手放すと?」
「はい。条件はただ一つ。最速で現金で買い取ってくれること。一週間以内に、全ての手続きを終わらせてちょうだい」
私がそう言い切ると、電話の向こうの男は、面白そうに低く笑った。
ハワイの青い海で浮かれている愚かな家族は、これから自分たちを襲う地獄の戦慄が、もうすぐそこまで迫っていることに、まだ気づいていない。
抜けるような青空とエメラルドグリーンに輝く海。ハワイ、ワイキキビーチの高級ホテルのプライベートプールでは、美穂がトロピカルジュースを片手に優雅にデッキチェアに寝そべっていた。
「ああ、最高。やっぱりハワイは空気が違うわね」
高級ブランドの新しい水着に身を包んだ美穂は、うっとりと目を閉じた。
「そりゃそうさ、奮発してスイートルームにしたんだからな」
隣のチェアで冷えたビールを煽っているのは、息子の光一だ。プールの浅瀬では、孫の翔太が浮き輪に捕まって、大声を上げてはしゃいでいる。
「それにしても、あの気持ち悪いババアの顔を見なくていいってだけで、本当にストレスフリーだわ」
美穂は氷をカラカラと鳴らしながら、薄ら笑いを浮かべた。
「おいおい、そんな言い方するなよ。母さんだって、俺たちのために文句も言わずに家事やってくれてるんだからさ」
光一が苦笑いしながら諫めたが、美穂はふんと鼻で笑った。
「何言ってるのよ。あのマンションは元々、お父さんの遺産で買ったんでしょ。つまり、長男であるあなたのものよ。あんなよぼよぼの年寄りが、いつまでも日当たりのいい広い部屋を占領してるなんて、宝の持ち腐れだわ」
美穂はサングラスの奥で、ギラリと目を光らせた。
「ねえ、日本に帰ったら、本格的にリフォーム業者を入れましょうよ。あのババアの部屋の壁をぶち抜いて、巨大なウォークインクローゼットにしちゃうの。ああ、楽しみ!」
一方、その頃、東京のマンションの静まり返ったリビングには、ピンと張り詰めた空気が漂っていた。
「静子先生、本当にいいんですね。この素晴らしい物件を手放してしまって」
高級なオーダーメイドのスーツを身にまとった男、井波がソファーに深くかけながら尋ねた。彼はただの不動産屋ではない。かつて私が趣味で不動産投資のセミナーに参加していた頃、まだ駆け出しの営業マンだった彼に、投資の指南を教え込んだことがあった。今では都内にいくつも土地を所有する、やり手の不動産会社社長だ。私にとって彼は、教え子であり、最も信頼できるビジネスパートナーでもあった。
私は入れたての冷たい緑茶を彼の前に置き、静かに微笑んだ。
「ええ、構わないわ。私一人には広すぎるもの。それに、不要なものは全て断捨離しようと思ってね」
私の言葉の裏にある真意を察したのか、井波は鋭い目を少し細めた。
「なるほど。先生がそこまでおっしゃるなら、深くは聞きません。私としても、先生には昔どん底の時に救っていただいた恩があります。必ずご期待に応えましょう」
井波はアタッシュケースから、分厚い書類の束を取り出した。
「実はすでに、海外の投資家で、港区のタワーマンション最高層ならいくら出しても買いたいという太客に心当たりがあります。彼らなら、相場以上の価格で、しかも即金で話をまとめてくれるでしょう。一週間以内という条件も、全く問題ありません」
「ありがとう、井波さん。頼もしいわ」
その時だった。テーブルの上に置いていた私のスマートフォンが、けたたましい着信音を立てた。画面を見ると、美穂からのLINEメッセージだ。
『おばあちゃん、ちゃんと私の言った通り、北側の部屋に荷物移しました?ついでにリビングのワックスがけもしておいてくださいね。私たちが帰るまでにピカピカにしておくこと』
さらに、立て続けに写真が送られてきた。ハワイの高級ブティックで、両手いっぱいにブランド品の紙袋を抱えてピースサインをする美穂と光一の写真だ。
『パパのボーナスとカードで爆買いしちゃいました。おばあちゃんも、暗い部屋で掃除頑張ってくださいね笑』
私はその画面をじっと見つめたまま、深い沈黙に落ちた。
「先生、息子さんたちからですか?」
井波が軽い調子で尋ねる。
「ええ、とても楽しそうよ」
私はゆっくりとスマートフォンの電源を切り、画面を伏せてテーブルに置いた。これ以上、あの見苦しい言葉をこの目に入れる必要はない。
私は顔を上げ、机の上に広げられた不動産売買契約書に、静かな視線を落とした。
「井波さん、ペンを貸していただけるかしら」
「はい、こちらへ。ご署名と実印を」
私は一切の躊躇なく、滑らかなインクで自分の名前を書き込み、朱肉をつけた実印を力強く押し当てた。
ワン。
静かなリビングに、印を押す音が重く響き渡った。
「これで契約は成立です。これでこの家は、もう私のものじゃなくなったわね」
書類を受け取った井波は、深く一礼した。
「明日には手付金が、そして三日後には残りの全額が、先生の口座に振り込まれます。引き渡しはご指定通り一週間後、全て手配しておきます」
一週間後。真っ黒に日焼けして、両手いっぱいの土産を抱えて帰国する息子家族。彼らを待ち受けているのは、自分たちの家だと思い込んでいた場所が、他人の手に渡り、完全に締め出されるという残酷な現実だ。
しかし、私の計画は、単に家を売って彼らを追い出すことだけではなかった。彼らが私に与えた絶望を、倍返しするための本当の地獄は、これから幕を開けるのだ。
翌日から、私は井波さんが手配してくれた引っ越し業者と共に、自分の荷物だけを密かに運び出していた。息子たちの高級な家具やブランド品、大量の服は、全てそのまま。私が持ち出すのは、夫との思い出の品と私自身の衣類、そしてこの仏壇だけだ。
新しい住まいは、井波さんが見つけてくれた、緑豊かな郊外にある、セキュリティ万全のシニア向け高級マンション。すでにそちらへの移住準備は、驚くほどスムーズに進んでいた。
その時、テーブルに置いていたスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らした。画面には美穂の文字、しかもビデオ通話だ。私は小さくため息をつき、通話ボタンをタップした。
「おばあちゃん、見えますか?」
画面に映し出されたのは、ハワイの高級レストラン。背景には美しいサンセットが広がり、テーブルの上には巨大なロブスターや色鮮やかなカクテルが、ところ狭しと並べられている。
「ええ、見えているわよ。随分と豪華なお食事ね」
「ふふ、すごいでしょう。これだけで何万円もするんですよ。おばあちゃんは、今日も一人で納豆ご飯ですか?」
美穂は意地悪く笑いながら、画面の向こうで大きなエビの身を口に運んだ。隣には、赤ワインで顔を真っ赤にした息子の光一が座っている。
「おい母さん、俺の口座に少しくらい金を振り込んどいてくれないか?カードの限度額に使っちゃってさ。親父の遺産、まだたっぷり残ってんだろう」
光一は、酔った勢いで悪びれもなく金を無心してくる。私は湧き上がる怒りを必死に抑え、静かに答えた。
「そんなお金、もうどこにもないわよ。あなたたちが毎月、湯水のように使っているじゃない」
私の言葉に、光一は苛立った表情を浮かべた。
「なんだよ、ケチくせえな。俺が長男なんだから、俺の金みたいなもんだろ」
すると、美穂が横からスマートフォンを奪い取るようにして、画面に意地悪な顔を近づけてきた。
「まあいいわ。お金のことは、帰ってからゆっくり相談させてもらいますから。それより、おばあちゃん、大事なお願いがあるんです」
美穂の言う「大事なお願い」が、ろくなことではないのは火を見るより明らかだった。
「あそこにある、おじいちゃんの古臭い仏壇。私たちが帰るまでに、粗大ゴミに出しておいてくださいね」
え?私は自分の耳を疑った。
「だから、仏壇を捨てろって言ってるんです。あんなの、リビングにあるだけで薄気味悪いし、風水的に最悪なんですよ。ハワイで翔太のために、すっごく大きい室内用の滑り台を買ったんです。それを置くから、あの仏壇、邪魔なんですよね」
「ねえおばあちゃん、僕の滑り台から、あのお化け屋敷みたいな箱、早く捨ててね」
画面の向こうから、翔太までもが無邪気に残酷な言葉を投げつける。亡き夫の魂が眠る大切な仏壇。それを粗ゴミ扱いし、「お化け屋敷みたいな箱」と笑う嫁。そして、それをヘラヘラと笑いながら見ている、実の息子。
私はスマートフォンを持ったまま、完全な沈黙に陥った。この子たちは、人間の心というものを持っていないのだろうか。
「ちょっと、おばあちゃん、聞いてます?無視しないでくださいよ」
美穂の金切り声が響く。私は何も言わず、ただじっと、氷のように冷たい視線で画面の中の彼らを見つめた。私の尋常ではない無言の圧力に、美穂も光一も、一瞬だけ気圧されたように言葉を詰まらせた。
やがて、私はゆっくりと口を開いた。
「ええ、分かったわ。あなたたちが帰ってくるまでに、仏壇は綺麗になくしておくわ。私の荷物も、全てね。だから、安心して帰ってきなさい」
「最初からそう言って、素直に従えばいいんですよ。じゃあ、部屋のワックス掛けも忘れないでくださいね」
プツッ。一方的に通話が切られ、画面が暗くなった。私は真っ黒になったスマートフォンの画面を見つめながら、静かに立ち上がった。
「ええ、仏壇はなくしておくわ。私という人間ごと、あなたたちの前から永遠にね」
それから数日後、ハワイでの遊興を終えた光一たちは、両手で抱えきれないほどのブランド品の紙袋を引きずりながら、成田空港に降り立った。
「ああ、日本はじめじめしてて嫌だわ。早く帰って、おばあちゃんにこき使わせましょう」
「そうだな。カードも止まってるし。帰ったら、母さんの通帳、俺が管理することにするよ」
自分たちがどれほど恐ろしい状況に置かれているかなど、露知らず。彼らはタクシーで意気揚々と、港区のマンションへと向かった。
「ほら、着いたぞ。おい、翔太、おばあちゃんにドアを開けさせろ」
光一の指示で、翔太がインターホンのボタンを乱暴に連打する。ピンポン、ピンポン、ピンポーン。しかし、何度鳴らしても、中からは何の反応もない。
「ったく、あのババア、寝てんのか。仕方ないな」
光一はため息をつきながら、ポケットから自分の鍵を取り出し、玄関の鍵穴に差し込もうとした。
しかし、ん?あれ?光一の動きがぴたりと止まった。
「どうしたのよ?早く開けてよ。重たいんだから」
「いや、おかしいんだ。カギが、鍵穴に入らない」
光一が何度力を込めても、鍵はカチャカチャと虚しい音を立てるだけで、奥へと入っていかない。彼らはまだ気づいていなかった。そのドアの向こう側は、すでに彼らの家ではなくなっているという決定的な事実に。
「どういうことだよ!なんで鍵が開かないんだ!」
港区の高級マンションの最上階。静まり返った内廊下に、光一の怒鳴り声が響き渡った。何度鍵を回そうとしても、ドアはびくりとも動かない。
「ちょっと、どうなってんのよ!重たい荷物もったまま、いつまでここで立たせておく気?!」
日焼けした肌に派手なリゾートドレス姿の美穂が、ヒステリックに叫ぶ。
「おばあちゃん、中で倒れてるんじゃないの?とにかく早く、管理人呼んできてよ!」
光一は舌打ちをしながら、足早に一階のエントランスへと向かった。
「おい、うちの鍵が開かないんだ。母さんが中で倒れてるかもしれないから、今すぐマスターキーを持ってこい」
フロントデスクに駆け寄るなり、光一は初老の管理人に高圧的に命令した。しかし、管理人は慌てるどころか、深く頭を下げて一枚の書類を差し出した。
「光一様。いえ、もうこちらにお住まいではないのでしたね。実は、こちらの最上階のお部屋は、先週、別の方に売却されております。新しい所有者様のご意向で、玄関のシリンダーも全て最新の防犯設備に交換されました」
「はあ?売却?何バカなこと言ってんだ!あそこは俺の家だぞ!」
光一は目を血走らせ、カウンターを強く叩いた。
「いいえ、こちらの所有者は、静子様でございました。静子様は不動産会社を通じて全ての売却手続きを終えられ、三日前に退去されております。あ、光一様たちのお荷物でしたら、近隣のトランクルームへ移されていると伺っております。こちらが、その鍵と地図です」
管理人の言葉に、光一の顔からさっと血の気が引いていった。
「嘘だろ?…あのクソババア、勝手に家を売りやがったのか?」
その頃、緑豊かな郊外にある、セキュリティの行き届いたシニア向け高級マンション。私は新しく買い揃えたコンパクトで美しい仏壇の前に座り、夫の遺影に温かいお茶を備えていた。
「お父さん、これで良かったのよね。私はもう、私の人生を生きるわ」
静かで穏やかな時間。しかし、その平和な静寂は、けたたましく鳴り響くスマートフォンの着信音によって無惨にも破られた。画面を見ると、光一ではない。亡き夫の妹であり、私にとっては義妹にあたる、和子からの着信だった。嫌な予感がしながらも、私は通話ボタンを押した。
「もしもし、和子さん」
「ちょっと、静子さん、あなた、気が触れちゃったの?!挨拶もそこそこに、電話の向こうから、私の鼓膜を破らんばかりの金切り声が飛び込んできた。
「急にどうしたの?」
「とぼけないでよ!今、光一君から泣きながら電話があったわ。あなた、光一君たちをマンションから追い出して、勝手に家を売ったんですって!悪徳業者に騙されたんでしょう?」
「騙されたわけじゃ…」
「言い訳はいいわ!いくら何でも酷すぎるわよ!自分の息子夫婦と、可愛い孫の翔太君まで路頭に迷わせて!亡くなったお兄ちゃんが残した財産を、どうして長男である光一君から奪うのよ!泥棒と同じじゃない!」
和子の怒鳴り散らす暴言の数々に、私は言葉を失った。ふと、スマートフォンの画面を操作してLINEを開くと、親戚一同が参加しているグループトークに、光一から長文のメッセージが投下されていたのだ。
『皆さん、助けてください。母が認知症になり、詐欺師のような不動産屋に騙されて、僕たちの家を勝手に売却してしまいました。ハワイ旅行から帰ったら鍵が変えられており、僕と美穂、翔太は今道端で震えています。母の携帯は繋がらず、お金も全て持ち逃げされました。どうか、お力を貸してください。』
見事なまでの被害者面だった。光一は、自分が「父の遺産」だと思い込んでいるものが、実は私の個人の財産であることや、美穂が私を日常的に虐待し、何度も追いやろうとしていたことは、全て棚に上げて、認知症の母親の暴走という物語をでっち上げていたのだ。
次々と、親戚たちからの着信と、非難のメッセージが滝のように流れ続ける。
『親の風上にも置けないわね。すぐに家を買い戻しなさい。さもなければ、警察に通報するわよ!』
『光一君がかわいそうだ。頭がおかしくなったのね。』
私は深くため息をつき、静かにスマートフォンをテーブルに伏せた。自分の味方は、もう誰もいない。息子夫婦の巧みな嘘によって、私は親族中から「認知症で家を売った狂った老婆」「家族を捨てた冷酷な人間」として、完全に孤立無援の状況に追い込まれてしまったのだ。
しばらくの間、私は一人、静まり返った部屋で沈黙のまま目を閉じていた。胸の奥がちくりと痛むのは、私がまだ彼らに対して、わずかながらも母親としての情を残していたからだろうか。しかし、ゆっくりと目を開けた時、私の瞳に絶望の色は一切なかった。
「ええ、想定通りよ。光一、あなたは昔からそうやって、自分の非を他人のせいにして逃げてきたものね」
私は独り言のように呟きながら立ち上がった。
「でも、今回は絶対に逃さないわよ。あなたがすがっている、その嘘のメッキ、全て剥がしてあげる」
私はキャビネットの引き出しを開け、ある分厚いファイルを取り出した。それは、彼らが私を完全な悪者にでっち上げようとすればするほど、彼ら自身の首を絞めることになる、恐ろしい真実の記録だった。
「くそっ!なんだよ、この狭くて埃っぽい部屋は!」
薄暗いトランクルームの前で、光一の苛立った声が響く。管理人に渡された地図を頼りに辿り着いたのは、高架の下にある、窓も空調もない古びたトランクルームだった。ガラガラと重たいシャッターを開けると、そこには二畳ほどの狭い空間に、彼らの高級ブランドの服や家具が、無造作に、しかし隙間なく詰め込まれていた。
「ちょっと!私の限定品のバッグが下敷きになってるじゃない!あんな認知症のババア、絶対に許さない!」
リゾートドレス姿の美穂が、埃をかぶった自分の荷物を見て、ヒステリックに叫ぶ。
「ママー!僕、疲れた!早くお家帰ってゲームしたい!」
蒸し暑い空間に耐えきれず、翔太も泣き叫び始める。
「うるさい!今、親戚の連中に連絡して、あいつを追い詰めてるんだ。少しは我慢しろ!」
光一は汗だくになりながら、スマートフォンで親戚たちに「かわいそうな自分」をアピールするメッセージを送り続けていた。彼らはまだ信じていたのだ。親戚一同を味方につければ、あの頭のおかしくなった母親を屈服させ、再び優雅な生活を取り戻せると。
一方、その頃、私の新しい部屋のテーブルの上には、一冊の分厚い黒革のファイルが置かれていた。中を開くと、そこには私の半年間の地獄の日々が克明に記録されていた。私はただ黙って、嫁のサンドバッグになっていたわけではない。毎日のように浴びせられた美穂の罵詈雑言。光一が私に金の無心をし、生活費を一切入れなかった事実。それらを全て、日時や状況と共に、日記調で記していたのだ。
さらに、ファイルの中には、一つの黒いUSBメモリが綺麗にファイリングされている。
「録音のスイッチを入れるのは、最初は手が震えたわね」
私は独り言をつぶやきながら、一つのUSBメモリを指先でなぞった。エプロンのポケットに忍ばせた小型のボイスレコーダー。そこには、美穂の「老人ホームに行け」「仏壇を捨てろ」という暴言や、光一の「親父の遺産は俺の金だ」という暴君のような発言が、何十時間分も、クリアな音声で記録されている。私が彼らの前で常に沈黙を守っていたのは、反論できないからではない。彼らの暴言をより確実に引き出し、録音するための罠だったのだ。
しかし、このファイルの最大の秘密は、それだけではない。最後のページに挟まれていたのは、亡き夫が残した多額の借用書のコピーと、その借金を私が自分個人の資産で完済したという債務整理の証明書、そして、港区のマンションの購入資金が全て私の特有財産から支払われたことを証明する、資金の出所証明書や不動産登記簿の写しだった。
「光一。あなたが親戚中にばらまいている嘘なんて、これを見せれば一瞬で吹き飛ぶのよ」
私はスマートフォンを取り出し、アドレス帳の中から「弁護士・勇気」という名前をタップした。勇気先生は、亡き夫が作った借金の整理を手伝ってくれた、若く正義感に溢れる弁護士だ。夫の裏の顔も、私の苦労も、そして、このマンションの真の権利者が私であることも、法的に最もよく知る人物だった。
「はい、勇気法律事務所です」
「あ、静子さん、お久しぶりです」
電話に出た勇気先生の声は、相変わらずハキハキとしていた。
「先生、ご無沙汰しております。以前ご相談していた件、ついに彼らが動き出しました」
「なるほど。息子さん夫婦が、ハワイから帰国したんですね」
「ええ。そして、案の定、親戚中を巻き込んで、私が認知症でマンションを騙し取られたと吹聴しているようです」
私がそう伝えると、電話の向こうで勇気先生が小さく笑う気配がした。
「彼らも本当に愚かですね。静子さんからお預かりしていた証拠資料の精査と、法的な準備はすでに完了しています。いつでも動けますよ」
「ありがとうございます。では先生、そろそろ、第一の矢を放っていただけますか?」
「承知しました。彼らが今最も頼りにしているものから、音を立てて奪っていきましょう」
勇気先生との短い打ち合わせを終え、私は覚めたお茶を一口飲んだ。光一と美穂は、今頃「被害者」であるという物語に酔いしれていることだろう。しかし、彼らがでっち上げたその茶番は、明日には容易く崩れ去ることになる。
私の反撃のターゲットは、光一でも美穂でもなかった。彼らを調子に乗らせ、私を非難している、あの場所から先に崩すことにしたのだ。
その日の夜、光一たち三人は、カードが止められているため、高級ホテルに泊まることもできず、トランクルームの近くにある、壁の薄い格安のビジネスホテルに身を寄せていた。
「何なの、この狭い部屋!ベッドも硬いし、カビ臭いし、最悪!」
美穂は狭いユニットバスから出てくるなり、不満を爆発させた。
「おまけに、コンビニ弁当だなんて!昨日までハワイで最高級のステーキを食べてたのに、信じられない!」
「言うなよ。親父の遺産を取り戻すまでの辛抱だろう」
光一はベッドに寝転がりながら、スマートフォンを必死に操作していた。画面には、親戚一同が参加している「本家グループライン」、総勢十五名のトーク画面が開かれている。義妹の和子を始め、親戚たちはすっかり光一の味方になっていた。
「和子さん、光一君、大変だったわね。静子さん、完全に認知症が進んでるのよ。親族会議を開いて、成年後見人をつけましょう」
「おじさんもそう思う。ボケた老人が勝手にやった不動産売買なんて、裁判を起こせばすぐに無効にできる。マンションは長男のお前が継ぐべきだ」
「和子、私が知り合いの弁護士を紹介するわ。あの泥棒猫みたいな女から、お兄ちゃんの財産を全部取り返してやりましょう」
光一は、ニヤリと下品な笑みを浮かべ、返信を打ち込む。
『光一:ありがとうございます。僕も、母のために精神科の手配をしておきます。母さんは頭がおかしくなったかわいそうな人ですから、僕がしっかり管理してあげないと。』
美穂は、横から画面を覗き込み、意地悪く笑った。
「ふふ、親戚中が私たちの味方ね。お義母さん、今頃どこかで震えてるんじゃない?これでマンションを取り戻したら、すぐにあそこを売り払って、もっと新しい家に引っ越しましょうよ」
「ああ。あのババアは、一生安い精神病院の閉鎖病棟で暮らしてもらえばいいさ」
光一が吐き捨てた、その時だった。スマートフォンの画面に、静子のアカウントから、突然、ピコンと通知が入った。
「ん?母さんからだ」
「え?何?謝ってきたの?」
光一がトーク画面を開くと、そこには長文のメッセージと、数枚の画像ファイルが投下されていた。しかし、その文章は、母親である静子のものではなかった。
『親族の皆様。突然の連絡を失礼いたします。私は静子の代理人を務めております、勇気法律事務所の弁護士、勇気と申します。』
「…弁護士?」
光一の口から、間の抜けた声が漏れた。そして、メッセージは、冷徹な事実を淡々と告げていた。
『本来であれば書面にてご連絡すべきところ、グループラインでの共有が最も迅速であると判断し、本アカウントを利用しております。さて、光一氏から、静子が認知症であり、父親の遺産であるマンションを騙し取られたという虚偽の事実が流布されておりますが、これは完全な虚偽であり、静子への名誉毀損に当たります。ここに、真実を証明する証拠を示します。』
「な、なんだよ、これ…」
光一が震える指で画像を開くと、一枚目は不動産登記簿の写しだった。そこには、所有者として「静子」の名前だけが記載されており、亡き夫・誠一の名前はどこにもない。
『画像一の通り、当該マンションは静子がご自身の特有財産(実家の相続資産及び個人投資の利益)を用いて購入したものであり、亡き誠一氏の遺産ではありません。したがって、静子による売却は完全に合法であり、いかなる方法をもってしても、これを無効にすることはできません。』
「嘘だ…。親父の遺産で買ったんじゃないのか…」
光一の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。さらに、二枚目の画像が開かれた。それは、真っ黒に塗りつぶされた個人情報の下に、恐ろしい金額が記された借用書と、債務整理の合意書の束だった。
『画像二は、亡き誠一氏が残した多額の負債の記録です。誠一氏には遺産どころか、数千万円に上る借金がありました。静子氏はご自身の個人資産を切り崩し、この借金を全て肩代わりして完済されたのです。つまり、光一氏が相続すべき遺産は、最初からマイナスしか存在しませんでした。』
はあ、光一は完全に思考が停止し、スマートフォンを持ったまま固まってしまった。横で見ていた美穂も、絶句している。
「…おじいちゃん、エリートだったのに、借金まみれだったの?」
グループラインの空気は、一瞬にして凍りついた。先ほどまで静子を訴えろと息巻いていた親戚たちのメッセージが、ぴたりと止まったのだ。彼らにとって、誇り高き「本家の長男」であった誠一が、実は多額の借金まみれで、それを嫁である静子に必死に隠していたという事実は、決して受け入れたくない屈辱的な真実だった。
『なお、静子は現在、極めて正常な判断能力を保持しており、認知症の事実は一切ございません。本車椅子に対する根拠のない誹謗中傷や、不当な財産分与の要求を続ける場合、当事務所は直ちに法的措置(名誉毀損及び慰謝料請求)を行います。』
「違う!母さんが、この弁護士とグルになって書類を捏造したんだ!」
光一は錯乱状態になりながら、必死にグループラインに文字を打ち込もうとした。しかし、次に和子から送られてきた短いメッセージが、光一に止めを刺した。
『和子:光一君。その弁護士の勇気先生、お兄ちゃんが借金問題で昔からお世話になってた、本物の弁護士さんよ。私、昔、お兄ちゃんから聞いたことがあるわ。』
『和子:お兄ちゃんが、私たちにはエリートの顔して、裏でそんな真似を…。なんてことだ。』
親戚たちは、弁護士の登場と圧倒的な証拠の前に、一瞬で手のひらを返した。光一が「被害者」を装って作り上げた嘘のシナリオは、勇気弁護士の放った第一の矢によって、こっぱみじんに打ち砕かれたのだ。
「あああああ!」
光一はスマートフォンを取り落とし、薄汚れたビジネスホテルの床にへたり込んだ。しかし、これはまだ、静子が用意した反撃の表紙に過ぎなかった。
格安ビジネスホテルの壁は薄く、隣の部屋のテレビの音までまる聞こえだった。しかし、そんな環境も気にならないほど、光一と美穂は激しい夫婦喧嘩を繰り広げていた。
「どうすんだよ!親戚のグループライン、俺たち強制退会させられたぞ!誰も電話に出てくれないし!このままじゃ、明日からの飯代すらないんだぞ!」
光一はベッドに突っ伏して頭を抱えた。美穂は腕を組み、眉間に深い皺を寄せて光一を睨みつけた。
「私に怒鳴らないでよ!あんたが『親父の遺産で買ったマンションだから絶対大丈夫』って言ったんじゃない!私はそれを信じて、あのババアを追い出そうとしたのよ!なのに、本当は借金まみれの貧乏人の息子!おまけに、家まで追い出されるなんて!私の人生、返してよ!」
「なんだと?お前だって、母さんを酷い扱いして、楽しんでただろうが!」
「うるさい!大体、あのババアが悪いのよ!あんな陰険な弁護士を雇って、私たちを落とし入れるなんて、本当に気味が悪い!」
二人の怒鳴り合いを、壁際で小さくうずくまった翔太が、不安そうに見つめている。
「もういいわ。あんたみたいな甲斐性なしに頼った私がバカだった」
美穂は大きくため息をつくと、スマートフォンを取り出した。
「私のパパに電話するわ。パパに事情を話して、当面の生活費と、新しいマンションの初期費用を出してもらう。うちの実家なら、これくらいのお金、ポンと出してくれるから」
美穂の実家は、地方で複数のスーパーを経営する、それなりに裕福な家庭だった。プライドが高く世間体を気にする両親に甘やかされて育った美穂は、困ったことがあれば、いつも実家の財布を頼りにしていたのだ。
「もしもし、パパ?私!ちょっと聞いてよ!光一の母親がおかしくなっちゃって、勝手に家を売って、私たちを追い出したの!今、ホテル暮らしで大変なのよ!すぐにお金、振り込んでくれない?」
美穂はここでも、「自分はかわいそうな被害者」という顔をして、泣きついた。
しかし、
「お前、よくも抜け抜けと電話なんてかけてこられたな!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、心配する父親の声ではなく、鼓膜が破れそうなほどの激しい怒号だった。
「え、パパ?どうしたの?そんな大声出して」
「とぼけるな!今日、うちの会社に、弁護士から内容証明郵便が届いたんだぞ!お前、義理のお母様に向かって、なんて恐ろしいことをしていたんだ!」
美穂の顔から、さっと血の気が引いた。
「な、内容証明?何のこと?」
「静子さんの弁護士からだ!お前がこの半年間、静子さんのクローゼットから、高級着物やブランドバッグ、貴金属を無断で持ち出し、フリマアプリで転売していたという証拠書類が、分厚いファイルで送られてきたんだよ!その額、ざっと見積もっても、三百万以上だ!」
美穂の喉から、短い悲鳴が漏れた。彼女は「どうせおばあちゃんには価値なんてわからないから」と、私が大切にしていたブランド品を勝手に持ち出しては、自分の小遣い稼ぎのためにネットで売りさばいていた。しかし、私はそれら一つ一つの型番や特徴を全て記録し、勇気弁護士を通じてフリマアプリの運営会社に情報開示請求を行い、美穂の転売アカウントと売上記録を完全に特定していたのだ。
「それだけじゃない!静子さんに生活費を一切入れず、残り物の粗末な食事をさせていたという、録音データまで送られてきた!お前は、人間のクズだ!」
「し、違うの、パパ!それは誤解で…」
「言い訳は聞かん!静子さんは、時限に応じないなら、お前を窃盗と横領で刑事告訴すると言っている。スーパーの社長の娘が泥棒で逮捕されたなんてことになったら、うちの会社は終わりだ!お前なんてもう、娘じゃない!二度と、実家の敷居をまたぐな!慰謝料はこっちで払ってやるから、お前たちは一生、顔を見せるな!」
ガチャ。ツーツーツー。
「パパ!ちょっと、パパ!」
美穂が何度叫んでも、電話が繋がることは二度となかった。
「おい、美穂。今、親父さんなんて言ってた?窃盗?横領?」
光一が、青ざめた顔で尋ねる。美穂はその場にへたり込み、ガタガタと震え始めた。
親戚に見放され、最後の頼みの綱であった実家からも絶縁され、挙げ句の果てには、警察に逮捕されるかもしれないという恐怖。彼らはようやく、自分たちがどれほど恐ろしい怪物を踏みつけてしまったのか、理解し始めたのだ。
一方、その頃、郊外のマンションのベランダで、私は優雅にハーブティーを傾けていた。夜風が心地よく肌を撫でていく。
「ふふ。美穂さん。私が見て見ぬふりをしていた沈黙を、自分への許可だと思っていたのね」
親戚を味方につけようとした光一の目論見は砕け散り、実家に逃げ込もうとした美穂の退路も、完全に断ち切った。しかし、これで終わりではない。
「さて、次はあなたの番よ」
私はスマートフォンを手に取り、勇気弁護士に次の指示を送るためのメッセージを打ち込み始めた。彼らが一番大切にしている、そのプライドを、社会的な立場ごと、音を立てて奪い去るための、決定的な第二の矢を放つために。
「亡くなったお前の実家がケチで冷たいだけだろ!俺たちには、まだ俺の稼ぎがあるじゃないか!」
ビジネスホテルのカビ臭い部屋で、光一は虚勢を張るように大声をあげた。美穂はベッドの端で、化粧の剥げた顔を手で覆いながら、すすり泣いている。
「俺は、業界でも名の知れた中堅企業のエース営業マンだぞ!来月には夏のボーナスも出る!こんな底辺みたいなボロホテル、すぐに抜け出してやるよ!あのババアが何をしようと、俺の社会的地位までは奪えないんだからな!」
光一は、自分に言い聞かせるようにそう叫ぶと、埃だらけになったスーツの襟を正した。彼にとって、会社での「エリート」の仮面だけが、今や唯一残されたプライドの拠り所だった。
翌朝、光一は寝不足で充血した目を擦りながら、這うようにして会社へ出社した。オフィスに入ると、彼はいつもの余裕のある先輩の顔を、無理やり作り上げる。
「おはようございます。いやー、ハワイの時差ぼけがまだ抜けなくてね」
光一はわざとらしく大きな声で言いながら、デスクに座った。隣の席の若手社員が、気を使って声をかけてくる。
「光一さん、ハワイ旅行ですか?いいですね!港区の最上階にお住まいで、海外旅行だなんて、本当にお金持ちで羨ましいです」
その後輩の言葉に、光一はニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「まあな。お前らみたいに、親からの援助も何もない連中は、せいぜいジメジタを這いずり回って、安い給料で働くんだが、俺は生まれつき運命が違うからさ。あ、そうだ。今日のランチ、お前が奢ってくれないか?ハワイで現金使いすぎちゃってさ」
後輩をバカにした挙げ句、昼食までたかろうとする光一。その時だった。
「光一君、ちょっといいかね」
後方から、低く厳しい声が響いた。振り返ると、そこには鬼の形相をした人事部長が立っていた。
「あ、部長、おはようございます。ハワイのお土産、後でお持ちします。マカダミアナッツの…」
「土産などいらん。今すぐ、応接室に来なさい」
部長は有無を言わせぬ口調でそう言い捨てると、スタスタと歩き出した。周囲の社員たちが、何事かとひそひそとささやき合っている。光一は嫌な予感を覚えながらも、愛想笑いを浮かべて応接室へと向かった。
応接室の重厚なドアを閉めた瞬間、部長が机の上に、ばさりと一枚の書類を投げ出した。
「光一君、これは一体、どういうことだ?」
「え?書類ですか?」
光一が震える手でその書類を手に取ると、そこに書かれていた文字に、全身の血が凍りついた。『給与及び賞与の差し押さえに関する通知』。差し出し人は、勇気法律事務所。債権者は、母・静子だった。
「な、差し押さえ?なんでこんなものが、会社に?」
「それは、こっちが聞きたい。昨日の夕方、会社宛てに内容証明郵便で届いたんだ。君、お母様から個人的に多額の借金をしているそうじゃないか。その返済が長期間に渡って滞っているため、法的措置として、君の給与の四分の一と、来月のボーナスの全額を差し押さえるという通達だ」
「ち、違います!これは借金じゃありません!親父の遺産を、長男である俺が正当に受け取っただけで…」
光一は必死に取り繕おうとしたが、部長の目は氷のように冷え切っていた。
「嘘をつくな。同封されていた借用書のコピーを見たぞ。君は、港区のタワーマンションの維持費だとか言って、毎月、お母様から数十万円を無心していたらしいな。しかも、そのタワーマンションは、君の所有ではなく、お母様個人の持ち物だという証明書まで入っていた。君は、私たちに『自分の親の遺産で買ったタワマンだ』と嘘をついて、家を張っていたじゃないか!」
「あ、いや、それはその…」
光一は言葉に詰まり、額から脂汗が滝のように流れ落ちた。さらに、部長の追撃の手は緩まない。
「それだけじゃないぞ。君は去年から、『母親の介護が必要だ』と言って、会社から特別介護手当と、週三日のリモートワークの許可をもらっていたな。だが、この通知書には、こう書かれている。『静子は完全な健康体であり、介護の事実は一切ない。むしろ、光一氏から生活費を奪われ、日常的な嫌がらせを受けていた』と」
光一の喉の奥で、ヒュッと息が鳴った。
「虚偽の申告で、会社から手当てを騙し取ったとなれば、これは立派な詐欺及び横領だ。すでにコンプライアンス室を立ち上げ、過去の経費精算も徹底的に調査することになった」
「部長、ください!これは全部、あの婆…いや、悪徳業者に騙された母が、私を落とし入れようとして…」
光一は机にすがりつき、苦しい言い訳を口走った。しかし、部長は静かに首を横に振った。
「言い訳は、調査委員会で聞く。とりあえず、君は今日から自宅待機だ。ああ、そうだったな。君は昨日、そのタワマンから追い出されて、今は格安ホテル暮らしだったか」
部長の軽蔑し切った視線が、光一の全身を貫いた。
「会社に給与の差し押さえまでされるような、金にだらしない人間を、うちのような会社が営業として外に出すわけにはいかない。懲戒解雇も覚悟しておきたまえ」
「ちょ、ちょっと待ってください!懲戒解雇だけは…!」
光一はその場に崩れ落ちた。親戚。実家。そして、最後の砦であった、会社でのエリートの地位。これまで他人を見下すために使っていた、全てのメッキが、音を立てて剥がれ落ちていくのを、彼はただ絶望の中で聞いているしかなかった。
その頃、私は勇気弁護士からの「会社への通知、完了しました」という報告を受け、静かに微笑んでいた。
「光一。これで、あなたは完全に裸になったわ」
私は手元の黒革のファイルを、パタンと閉じた。しかし、私が用意したシナリオのクライマックスは、まだ先にある。全てを失い、追い詰められた人間が最後にすがるもの。それを、一番残酷な形で奪い去るための、最大の一手が、すでに彼らを待ち構えていたのだ。
「ふざけるな!なんで俺が、こんな目に!」
昼下がりの格安ビジネスホテル。会社から自宅待機を命じられ、事実上の首宣告を受けた光一は、ボロボロになって部屋に逃げ帰ってきた。ベッドに倒れ込むなり、彼は壁を力任せに殴りつけた。
「ちょっと、何やってるのよ!昼間から帰ってくるなんて、まさか?」
コンビニの袋を下げて戻ってきた美穂が、不機嫌そうに眉を潜める。
「会社に、あのクソババアの弁護士から、差し押さえの通知が行ったんだ…。俺はもう、おしまいだ。給料もボーナスもゼロ。コンプライアンス室にかけられて、懲戒解雇になるかもしれない…」
光一の絶望的な告白に、美穂の顔から、すっと表情が消えた。
「はあ?!懲戒解雇?!給料ゼロ?!」
美穂の声は、氷のように冷たく、低く響いた。
「ああ…。でも、大丈夫だ。裁判を起こして、あのババアがボケてるって証明できれば…」
「バカじゃないの?!」
美穂の凄まじい金切り声が、狭い部屋の空気を震わせた。
「証明できるわけないでしょ!あのババア、何ヶ月も私たちの音声を録音して、私の実家にまで内容証明を送ってきたのよ!完全な健康体で、頭もキレッキレじゃない!ボケてるのは、あんたの方よ!」
美穂は光一に詰め寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「あんたが『親父の遺産でマンション買った』なんて、見栄を張るから!私はそれを信じて、あのババアを追い出そうとしたのよ!なのに、本当は借金まみれの貧乏人の息子!おまけに、会社も首!あんたみたいな無能で無一文の男に、用はないわ!すぐに、離婚よ!」
自分が一番苦しい時に、支えるどころか、真っ先に見捨てようとする妻。光一の中で、何かが、ぶつんと音を立てて切れた。
「ふざけんな!お前こそ、俺の金でブランド品を買い漁って、毎日遊び歩いてただろうが!大体、お前みたいな金に汚い女、俺だって最初からうんざりしてたんだよ!」
光一は美穂を乱暴に突き飛ばした。
「俺にはな、お前なんかよりよっぽど若くて、優しくて、俺を尊敬してくれる癒しがいるんだよ!会社の後輩のユナだ!彼女のマンションに転がり込めば、こんなカビ臭いホテルとも、お前みたいなヒステリック女ともおさらばだ!」
「はあ?!あんた、浮気してたの?!この甲斐性なしの最低男!」
部屋の中で、物を投げ合う凄まじい夫婦喧嘩が始まった。部屋の隅では、翔太が「パパ、ママ、やめて!」と泣き叫んでいるが、二人はそれに目もくれない。親戚という外堀を埋められ、社会的地位を失ったことで、彼らを繋いでいた「お金」と「見栄」というメッキが、剥がれ落ちたのだ。残ったのは、自己中心的な欲と憎悪だけ。これが、彼らの家族の真実だった。
その時、光一のスマートフォンが、無機質な着信音を鳴らした。画面を見ると、「勇気法律事務所」の文字が光っている。二人ははっとして動きを止め、光一が恐る恐る電話に出た。
「も、もしもし」
「光一さんですね。勇気です。さて、現状は十分にご理解いただけたかと思います。静子氏から、一度だけ、直接会って、今後の最終的な清算についてお話をしたいとの申し出がありました。明日の十四時、私の事務所までお越しください。美穂さん、翔太君も、同席でお願いします」
電話を切ると、光一の目に、一筋の下卑た光が宿った。
「おい、美穂。とりあえず離婚は保留だ。明日、あのババアと直接会うことになったぞ」
「会うって?慰謝料でも請求されるんじゃないの?」
「違うね。俺には分かる。母さんは昔から、なんだかんだ言って、俺に甘いんだ。それに、一人息子の翔太のことは、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。きっと、やりすぎたことを後悔して、示談金を払うとか、新しい家を用意するとか言い出すに違いない」
光一の言葉に、美穂の顔にも、打算的な笑みが戻った。
「なるほどね。あんな年寄り、結局は孫の顔を見たら、すぐに頷くわよ。翔太、明日は、あのババ…おばあちゃんの前で、思いっきり泣くのよ。『お家がなくてかわいそう』って。分かったわね?」
「うん」
彼らは、全てを失ってもなお、他人の情を利用しようとする、浅ましい罠を張り巡らせていた。それが、最後のチャンスだと信じて。
翌日。光一、美穂、翔太の三人は、都内の一等地にある高層ビルの、勇気法律事務所の重厚なドアを開けた。
「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」
勇気弁護士に案内され、広い応接室に通される。そこには、高級感のある黒いスーツを凛と着こなし、背筋をピンと伸ばして座る、静子の姿があった。以前のような、よれよれのエプロン姿で俯く「おばあちゃん」の面影は、微塵もない。その圧倒的な威厳に、光一と美穂は呑まれた。
「母さん…」
光一がか細い声を出して、近づこうとした、その時だ。
「おや、揃ったようね」
静子が、ゆっくりと顔を上げた。光一たちは、静子の隣に座っている人物に気づき、その場で釘付けになった。
「…え?」
光一の口から、間の抜けた声が漏れる。静子の隣に座っていたのは、紺色のブラウスを着た、二十代半ばの若い女性だった。その顔を見て、光一は全身から冷や汗を吹き出した。
「…ユナ?!なんで、お前がここに?」
そう、静子の隣に座っていた意外な人物。それは、昨日、光一が美穂との喧嘩で名前を上げたばかりの、浮気相手であり、会社の後輩でもある、ユナだった。
「どういうことだ、ユナ?!なぜ、母さんと一緒にいるんだ?!」
光一がパニックに陥り叫ぶが、静子は氷のように冷たい沈黙を保ったまま、ただ光一を哀れむように見つめていた。そして、ユナは光一に向かって、針のように鋭く、汚いものを見るような、軽蔑し切った視線を向けた。
「光一さん。私、お義母様から、全て聞きましたよ。自分たちが仕掛けようとしていた、孫を使った泣き落としという、卑劣な計画も含めてね」
ユナは、しず子が雇った調査員によって、かなり早い段階で特定されていた。静子はユナに接触し、光一の真実の姿を全て開示した。同時に、ユナが不倫による慰謝料請求の対象になり得ることも、勇気弁護士を通じて、冷静に突きつけていたのだ。聡明というよりは、損得感情の鋭いユナは、一瞬で悟った。将来性のない嘘つき男よりも、圧倒的な財力と証拠を握っている「お義母様」につくのが正解だ、と。ユナは静子に全面的に協力し、光一から聞き出した「美穂を追い出して、マンションを売却し、二人で山分けしよう」という卑劣な計画の録音データまで、提供していたのだ。
「光一!あんた、私と翔太を捨てて、この女とあの家を乗っ取るつもりだったの?!」
美穂が、怒り狂って光一の胸ぐらを掴む。
「自分が一番可愛がっていた孫を、プレイルームにするからって、追い出そうとしたのはあんたじゃないか!なのに、自分だけ若い女と…!」
「うるさい!お前だって、母さんのブランド品を勝手に売ってただろうが!どっちもどっちなんだよ!」
応接室は、地獄のような争いの場と化した。「お前が悪い」「あんたのせいだ」と、責任をなすりつけ合う夫婦。その醜悪な姿を、私はただ、沈黙したまま、冷ややかな目で見つめていた。
「これが、私が命をかけて守り、育ててきた家族の、在り得る姿の果てなのね」
私の心には、もはや悲しみすら湧いてこなかった。あるのは、ただ深い空しさと、これで全てを終わらせるという、冷静な決意だけだ。
「パパ、ママ、やめてよ!」
部屋の隅で、翔太が顔を覆って泣きじゃくっている。本来なら、孫の涙を見れば、私の胸は締め付けられただろう。しかし、あの日、翔太が放った「おばあちゃん、いつ追い出すの?」という、無邪気な残酷さを、私は忘れることができない。子供は親を映す鏡。この子をこう育ててしまったのも、光一によって。そして、甘やかしてしまった私の責任なのかもしれない。
「静かにしなさい」
私が、低く冷たい声で一喝すると、騒ぎ立てていた二人は、びくっとして動きを止めた。
「光一、美穂さん。あなたたちに、言い訳をする権利はありません」
私はテーブルの上に、また別の書類を並べた。ユナさんへの慰謝料請求。美穂さんの実家への損害賠償。光一への、これまで私から奪った生活費と立て替え金の返還請求。そして、私は最後の一枚を、ゆっくりと彼らの方へ押し出した。
「これに、署名と捺印をしなさい」
そこには、これまでの金銭的・精神的虐待に対する全面的な謝罪と、今後一切私に近づかないという、親族関係の断絶を条件とする、極めて厳しい内容の合意書が記されていた。
「こ、こんなの、飲めるわけないだろう!俺は、あんたの息子なんだぞ!」
光一が、泣くように叫んだ。
「息子?いいえ。私はもう、あなたという人間を、息子だとは思っていません。私にとっての息子は、あの日、私を何度も追いやろうとした時に、死んだのよ」
私は、勇気弁護士に目配せをした。
「光一さん、美穂さん。この合意に応じないのであれば、直ちに窃盗及び詐欺での刑事告訴に踏み切ります。そうなれば、光一さんは失職も絶望的ですし、美穂さんのご実家も、完全に破滅することになるでしょう」
勇気弁護士の言葉は、逃げ場のない死刑宣告のように響いた。
「…ああ…」
光一は、ガタガタと震えながら、用意されたペンを手に取った。隣で美穂も、魂が抜けたような顔で、震える指を、判に置いている。自分たちが他人を追い詰めるために使っていた力が、今、自分たちを完全に粉砕している。その事実を突きつけられ、彼らのプライドは、跡形もなく崩れ去った。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。この後、一緒にサインをしたことで、彼らが失うのは、お金や家だけではないということを。私が最後に用意していたのは、彼らが想像もしなかった、人生で最も重い代償だったのだ。
「先生、あちらの準備も、全て整っていますか?」
私が尋ねると、勇気弁護士は静かに頷いた。
「はい。今、この瞬間から、始まります」
その言葉と同時に、応接室の重厚な扉が、再びゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、彼らがこの世で最も恐れ、そして、最も見下していた、ある集団だった。
「…え?和子さん…。それに、本家のおじさんまで…」
光一の顔が、見る見るうちに土気色に変わっていく。扉の影から現れたのは、先ほどまでグループラインで自分を擁護し、静子を「認知症のボケ老人」と罵っていた、親族一同だった。義妹の和子を筆頭に、本家の当主である叔父、さらには遠縁の親戚まで、総勢七名が、まるで葬列のような重苦しい沈黙をまとい、一列に並んで光一と美穂を見つめた。その目は、哀れみすら通り越して、ただひたすらに、不潔なものを見るような、冷徹な光を放っている。
「どうして…。どうして、皆さんがここに…?おばさん、助けてください!母さんが、母さんが僕を…!」
光一がすがりつくように声を上げ、和子に歩み寄ろうとした。しかし、和子は氷のような手付きで、その腕を激しく振り払った。
「近寄らないで、光一。あなたの声を聞くだけで、虫唾が走るわ」
和子のあまりの変貌ぶりに、光一は足をもつれさせて、床に崩れ落ちた。
「和子さん、何をおっしゃっているんですか?私たちは被害者なのよ!おばあちゃんに騙されて、家を追い出されたの!」
美穂が必死に叫ぶが、本家の叔父が、重厚な声でそれを遮った。
「見苦しいぞ、美穂。我々は、全てを見て、そして、聞いたのだ」
叔父の手には、一台のタブレット端末があった。そこには、静子が弁護士を通じて親族たちにリアルタイムで配信していた、この応接室の映像と音声が流れていた。先ほど、この部屋で光一と美穂が繰り広げた、あまりにも見苦しい責任のなすりつけ合い。ユナとの浮気の話。翔太を道具にして金を騙し取ろうという、卑劣な相談。そして、何より、静子に対して放った「クソババア」「ボケ老人」という罵詈雑言の全てが、親族たちの目の前で、一点の曇りもなく明らかにされていたのだ。
「…静子さん。本当に、申し訳なかった」
本家の叔父が、静子に向かって、深く、深く頭を下げた。
「我々も、光一の言葉を信じて、あなたを傷つけるようなことを言ってしまった。この如き、愚か者たちの本性を見抜けなかった。親族を代表して、心からお詫びする」
親族たちが、次々と静子に謝罪する様子を見て、光一は絶望の中、叫んだ。
「嘘だ!はめられたんだ!母さんが、母さんが僕たちを嵌めるために、仕組んだんだ!」
「そうよ。仕組んだわよ」
私は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、床に這いつくばる息子を見下ろした。
「あなたが、私の沈黙をいいことに、どれだけ私を足蹴にし、侮辱し、笑いものにしてきたか。それを、あなたたちが一番、顔を汚したくないと思っている、親族の皆さんに、一番残酷な形で見てもらうことに決めていたの」
私は、テーブルの上に、最後の一枚。最も重要な書類を置いた。
「光一。これが、あなたに突きつける、最大の事実よ」
その書類の表紙には、端正な文字で、こう書かれていた。『推定相続人廃除の申立書』
「…相続人…廃除?」
「押したでしょう。廃除。あなたは、法律的に、私の息子ではなくなるのよ」
「は?廃除って、何だよそれ?」
光一が震える指でページをめくると、そこには、法的に裏打ちされた、絶望的な通告が並んでいた。『申立人は、被申立人(光一)に対し、著しい虐待、侮辱、及び不当な財産侵害を行われた。よって、被申立人の推定相続人たる資格を廃除することを申し立てる。』
「あなたは、私に対して、著しい虐待を加え、侮辱し、さらには、私の財産を不正に奪い続けました。私はすでに、家庭裁判所へ、あなたの相続権の廃除を申し立て、受理されました。これは、あなたが、私の遺産を将来一円とも受け取れないだけでなく、法的に、私の息子としての権利を、全て剥奪されることを意味するわ」
「な、そんなの、認められるわけがないだろう!俺は、一人息子なんだぞ!」
「いいえ。認められるわ。ここにいる勇気先生が、あなたが私に対して言った、半年間の虐待の記録、音声、映像、そして、会社から手当てを騙し取った証拠、全てを、完璧な資料として提出済み。裁判官も、この状況を見て、あなたの味方をするはずがないわ」
光一の目から、力が抜け落ちていった。相続権の廃除。それは、彼がこれまで、心のどこかで頼りにしていた「最悪でも、母の死後には、あのタワマンの売却益と遺産が手に入る」という、最後の一幕が、永遠に、そして物理的に断たれたことを意味していた。
「それだけじゃないわ。光一。和子さんたち親族一同も、すでにある合意に達しているの」
和子が、静かに口を開いた。
「本家としても、あなたのような不始末者を、一族に置いておくわけにはいかない。本日を持って、光一、美穂。あなたたち二人を、一族から永久追放します。今後、親族の冠婚葬祭への出席は、一切禁じます。もし、勝手に現れたり、誰かに金の無心をしたりすれば、すぐに警察へ通報するよう、全員に徹底させました」
光一は、声を失った。港区のタワーマンションに住む「成功者」を演じてきた彼にとって、一族からの追放は、彼のアイデンティティそのものを抹消されるに等しい、屈辱だった。
「さあ、光一、美穂さん。契約書には、サインしたわね。ここにある、謝罪文と接触禁止の誓約書にも、親族の皆さんの前で、改めて、指印を押しなさい」
私は、朱肉を、彼らの目の前へ突き出した。
「これが、私への最後の手向けよ。これを終えたら、二度と、私の前に現れないで」
光一は、ガタガタと震えながら、真っ赤な朱肉に指を押し当てた。その指が紙に触れる度、彼のこれまでの華やかな生活、プライド、そして未来が、一つずつ消えていく音が聞こえるようだった。美穂もまた、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、指印を押した。彼女が一番恐れていた「世間体」と「裕福な生活」は、今、自分の手で完全に葬られたのだ。
全てが終わり、ペンを置いた時、窓の外からは、夕暮れのチャイムが遠く響いてきた。しかし、この応接室のドラマは、まだ終わっていなかった。静かに、しかし確然とした足取りで、私の前へ歩み寄ってきた人物がいた。
「…おばあちゃん」
それは、今まで親たちの喧嘩に怯え、隅で泣いていた、翔太だった。光一と美穂が、最後の希望として利用しようとしていた、翔太。彼が口にした言葉は、親たちの期待を無惨に裏切る、さらなる衝撃の宣告だった。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
静まり返った応接室に、翔太の震える声が響いた。その目からは、大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちている。
「翔太、ほら、何を言ってるの?!『おばあちゃんにお家がなくてかわいそうだから、また一緒に住もう』って言うんでしょ?ほら、早く言いなさい!」
美穂が、必死な形相で翔太の肩を強く揺さぶった。もはや、その姿に、母親としての愛情はなく、ただ自分たちの生活を立て直すための「道具」を急かしているだけの、浅ましい女の姿だった。
しかし、翔太は美穂の手を振り払い、私の方へと一歩近づいた。
「おばあちゃん。僕、嘘をついてたんだ」
「…嘘?」
「ハワイに行く前、おばあちゃんに『いつ出ていくの?』って言ったこと。あれ、ママに言わされてたんだ」
え?私は、思わず目を見開いた。
「『おばあちゃんをいじめれば、おばあちゃんが自分から出ていく。そうすれば、おばあちゃんの広いお部屋を、僕の遊び場にできるから。毎日おばあちゃんをバカにしなさい』って。パパもママも、僕がそういうのを、横で笑って見てたんだ」
「…」
「僕、本当は、おばあちゃんのこと、大好きだったのに。おばあちゃんが作ってくれる卵焼き、本当はすごく美味しかったのに。おばあちゃんに意地悪するの、ずっと、苦しかったんだ…」
翔太は、堰を切ったように泣きじゃくりながら、これまで溜め込んできた苦しみを吐き出した。
「何言ってるのよ、翔太!変なこと言わないで!」
美穂の顔が、恐怖で引きつる。
「それだけじゃないんだ。パパとママ、昨日、ホテルで『おばあちゃんの前で泣けば、おばあちゃんはバカだから、すぐにお金くれる』って話してた。僕、もう、あんなパパとママ、大っ嫌いだ!一緒にいたくない!」
「翔太!お前、誰に口を聞いてるんだ?!」
光一が逆上して、手を振り上げた。
「おやめなさい」
私は、凛とした声で、光一の動きを止めた。そして、すでに勇気弁護士と叔父が、翔太を守るように、彼の前に立ちはだかっていた。
「光一、美穂さん。あなたたちは、自分の子供にまで、そんな汚い嘘を仕込んでいたのね」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。しかし、その奥底には、母親として、そして一人の人間として、彼らへの完全な絶望が込められていた。
「静子さん。これは、あまりにも酷い話だ。自分の実の親を売らせ、さらに、その子供にまで、嘘をつかせるとは…!」
本家の叔父が、震える拳を握りしめて、光一を睨みつけた。
「光一!お前は、もう、人間ではない!鬼だ!」
「違うんだ!翔太が勝手に言ってるだけで、僕はそんなこと…」
光一の言い訳は、もはや、誰の耳にも届かなかった。
「さて、光一さん、美穂さん。これで、全てがはっきりしましたね」
勇気弁護士が、冷徹に最後通告を突きつけた。
「翔太君本人が、あなたたちの虐待と共謀を証言しました。これにより、静子様が提出している相続人廃除の申し立ては、まず間違いなく認められるでしょう。そして、もう一つ。静子様からの提案があります」
「…提案?」
光一が、藁にもすがるような顔で私を見た。
「ええ。美穂さんのご実家のご両親と、すでに連絡を取ってあります」
私がそう告げると、美穂ははっと顔を上げた。
「あなたのご両親は、あなたのしたことを心から恥じ、そして、翔太君のことを深く心配していらっしゃる。ご両親は、自分たちの育て方が間違っていた。せめて、孫だけは、まともな人間に育て直したいとおっしゃって、翔太君を引き取ることを承諾されました」
「え?!翔太を?!パパたちが、そんなこと…」
「ええ。翔太君も、おじいちゃんとおばあちゃんのところへ行きたいと言っています。もちろん、あなたたち二人には、翔太君との接触も、今後一切禁止するという条件でね。あなたたちが署名した合意書には、すでにその条項も含まれています」
「そんな…!翔太は、私の子供よ!」
美穂が叫ぶが、そこに母親としての愛情やプライドは、微塵も感じられなかった。彼女が失いたくないのは、子供ではなく、実家との唯一の繋がりだったのだ。
「あなたたちに、翔太を育てる資格はないわ。光一、美穂さん。あなたたちは、自分たちが散々バカにして、追い出そうとした『おばあちゃん』を失っただけじゃない。今日、この瞬間、たった一人の息子。あなたたちの未来さえも、自分たちの手で、完全に手放したのよ」
私の言葉に、光一と美穂は、まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。親戚。地位。名誉。財産。不倫相手。そして、子供。これまで自分たちのプライドを満たすために使ってきた、全てのピースが、皮肉にも、自分たちのついた嘘によって、一つ残らず奪われていったのだ。
「さあ、行きましょう、翔太君」
勇気弁護士が、優しく翔太の手を引いた。
「おじいちゃんたちが、下まで迎えに来てくれていますよ」
「うん…」
翔太は、最後にもう一度、私の方を振り返って、深くお辞儀をした。
「おばあちゃん、バイバイ。本当に、ごめんなさい」
私は、ただ静かに、微笑んで頷いた。翔太が勇気弁護士と共に部屋を出ていくのを見届け、私は深呼吸をした。
夕日に染まる応接室で、私は親族たちと、今後のことを穏やかに話し合った。窓の外には、東京の夜景が広がっている。かつては執着していたこの景色も、今の私には、ただの背景にしか見えなかった。
「静子さん。我々こそ、本当にすまなかった。今後も、何か困ったことがあれば、いつでも言ってくれ」
本家の叔父が、再び深く頭を下げる。私は、ただ静かに頷いた。
数日後、私は、以前からの約束通り、美穂さんの実家へと向かった。そこは、都心から遠く離れた、静かな田舎町。美穂さんのご両親が経営する、スーパーの裏手にある、立派な日本家屋だった。玄関先で私を待っていたのは、美穂さんのご両親、かつての義理の両親だ。
「静子さん。この度は、本当にうちの娘が、とんでもないご迷惑を…。深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げるご両親に、私は優しく首を振った。
「いいえ、もう、過ぎたことです。それより、翔太君はお元気ですか?」
すると、奥の部屋から、バタバタと元気な足音が聞こえてきた。現れたのは、真っ黒に日焼けした翔太だった。
「おばあちゃん!」
以前のような、どこか大人を小馬鹿にしたような目はどこにもない。そこには、田舎の自然の中で育つ、無邪気さと力強い生命力が宿っていた。
「翔太君、大きくなったわね。元気そうで、よかった」
「うん!僕、おじいちゃんのお店の手伝いをしてるんだ!ダンボールを運んだり、お野菜を並べたりするんだよ!働いた後に食べるご飯って、すごく美味しいんだ!」
翔太は、誇らしげに、自分の少し硬くなった手のひらを見せてくれた。美穂さんのご両親は、翔太に「楽をして手に入れる幸せ」ではなく、「汗を流す喜び」を教えてくれていたのだ。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
突然、翔太が真剣な表情になって、私を見つめた。
「ごめん?何が?」
「僕、この前、パパとママに言われて、おばあちゃんに酷いこと、いっぱい言ったでしょ。あれ、本当は、すごく嫌だったんだ。それなのに、おばあちゃんに『いつ出ていくの?』なんて言って、本当にごめんね」
目に涙をためながら謝る翔太に、私は優しく微笑んだ。
「いいのよ、翔太君。あなたは、何も悪くないわ。あなたは、ただ、優しい子なのね。これからは、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に、たくさんいい思い出を作っていきましょうね」
「うん!…ねえ、おばあちゃん。僕、大きくなったら、おばあちゃんに、美味しいご飯を食べさせてあげる。だから、それまで、元気でいてね」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から、温かいものが溢れ出した。あの日、港区のマンションで「おばあちゃん、いつ追い出すの?」と冷たく言い放った孫。しかし、その幼い心に植えつけられていた悪意の種は、環境が変わり、大人の愛情を正しく受けることで、こんなにも美しい希望の花へと変わったのだ。
私は、翔太をしっかりと抱きしめた。
秋の夕暮れ。帰り道、私は最寄りの駅までの土手を、ゆっくりと歩いた。足元には、名もない花が咲き、川面が夕日に照らされて、きらきらと輝いている。
かつての私は、港区の豪華なマンションこそが、自分の成功の証だと思っていた。高い場所から見下ろす夜景。高級家具。有名ブランドのバッグ。しかし、それらは全て、私を守ってはくれなかった。むしろ、それらに固執する心が、私を孤独の檻に閉じ込めていたのだ。
今の私にあるのは、小さなスーツケース一つに収まるほどの荷物と、自分を大切にしてくれる数少ない友人。そして、自分の足で人生を歩んでいるという誇りだけ。でも、今の私は、これまでの人生のどの瞬間よりも、満たされている。夫が残した借金を返し、わがままな息子を育て上げ、全ての義務を果たした今、私はようやく、一人の「静子」という女性として、この世界に立っているのだ。
ふと、足を止めて、空を仰いだ。
「お父さん…。私、やっと自由になれたわ」
亡き夫の顔を思い浮かべると、不思議と責める気持ちは湧いてこなかった。彼もまた、見栄という呪縛に苦しんでいた、一人の弱い人間だったのだろう。でも、私はもう、その呪縛からは解き放たれた。
一歩、また一歩と踏み出す足取りは、驚くほど軽やかだった。これから先、どんな困難が待ち受けているかは分からない。年老いていく体。衰えていく体力。でも、私の心は、誰にも奪わせることはない。私は知っている。幸せとは、誰かに与えられるものではなく、自分自身の心の中に、一歩ずつ積み上げていくものだということを。
「おばあちゃん、いつ追い出すの?」。あの残酷な言葉は、私の古い人生を追い出し、新しい自由への扉を開けてくれる、最後の鍵だったのかもしれない。私は、夕焼けに染まる道を、鼻歌を歌いながら歩き続けた。私の第二の人生。その本当の物語は、今、ここから始まったばかりなのだから。



