夫の光一さんが金婚式の祝いの席で、妹にこう言った瞬間の空気を、今でも覚えているわ。「あなたが欲しいのは、僕ではなく、このビルと毎月300万円の家賃収入ですよね」って。妹の顔から血の気が引いていくのが分かった。1年前、彼女はこの古びた喫茶店の店主との縁談を「貧乏な自営業」と鼻で笑って私に押し付けた。ところが数時間前、夫の正体を知った妹が、突然「光一さんを返して」と言い出したの。「この縁談は最初…

夫の光一さんが金婚式の祝いの席で、妹にこう言った瞬間の空気を、今でも覚えているわ。「あなたが欲しいのは、僕ではなく、このビルと毎月300万円の家賃収入ですよね」って。妹の顔から血の気が引いていくのが分かった。1年前、彼女はこの古びた喫茶店の店主との縁談を「貧乏な自営業」と鼻で笑って私に押し付けた。ところが数時間前、夫の正体を知った妹が、突然「光一さんを返して」と言い出したの。「この縁談は最初...

金婚式の祝いの席で、妹のリサがカップを押しのけて声を張り上げた。

「お姉ちゃんは私の代わりだっただけでしょ。光一さんを返して。」

店中の視線が一斉に集まる。私は返す言葉が見つからなかった。確かにこの縁談は最初からリサに届いた話だった。私は妹の代わりにこの古びた喫茶店の店主のもとへ行ったのだ。

その時、隣にいた夫の光一さんがゆっくりと腰を上げた。穏やかな目のまま、妹をまっすぐに見る。

「あなたが欲しいのは僕ではなく、このビルと毎月300万円の家賃収入ですよね。」

リサの顔から血の気が引いていく。なぜ一度は自分から捨てた縁談を返せと言い出したのか。なぜ夫の口から家賃収入という言葉が出たのか。貧乏な店主に嫁いだはずの私の結婚には、妹の知らない事実がいくつも隠れていた。

話は1年前に戻る。

私の名前はみか。旧姓は田島という。当時48歳で、顕在会社の経理を20年以上続けていた。数字を扱う仕事は性に合っていた。1円のずれも見逃さない几帳面な女だと上司に笑われたことがある。趣味といえば読書くらい。休みの日に文庫本を1冊持って喫茶店で過ごす時間が、私のささやかな贅沢だった。

結婚はしていなかった。できなかったという方が正しいのかもしれない。20代の頃に父が体を壊し、母は膝を悪くした。6つ下の妹のリサは家のことを一切しない。実家の炊事も掃除も母の通院の送り迎えも、気づけば全部私の役目になっていた。付き合っていた人もいたが、家のことを優先するうちに縁が切れた。そんなことを繰り返して48歳になっていた。

「姉ちゃんって生きてて楽しい?」

正月に顔を合わせたリサは開口一番そう言った。

「48歳で独身で、休みの日は親の病院の送り迎えでしょ?私だったら耐えられない。」

リサは当時42歳。化粧も服も派手で、爪の先まで手を抜かない。SNSには高そうな料理やホテルの写真ばかり並べていた。独身なのは私と同じなのに、リサの中では自分だけが選ぶ側らしい。

「リサ、お姉ちゃんにお雑煮のお代わりもらって。」

こたつから動かずにワンだけをこちらへ突き出す。私が黙って受け取ると、リサは笑った。

「やっぱりお姉ちゃんは気が利くわ。一生実家のお手伝いさんでいられるものね。」

おせちの重箱を写真に撮っていたのもリサだった。詰めたのは全部私なのに。投稿には「手作りしました」と書いてあった。指摘する気も起きなかった。父は新聞から顔も上げなかった。

父は昔からリサに甘い。リサが幼い頃から欲しがるものは何でも買い与えてきた。就職してからも車の頭金やら旅行代やら、こっそりと援助を続けている。この正月もリサは帰り際に父から白い封筒を受け取っていた。「バッグの支払いが残っているの」と甘えた声で言えば、父の財布はいつでも開く。私は48年間、一度もそれをしたことがない。

「リサはまだ若いんだから好きにさせてやれ。」

四捨五入を過ぎた妹のどこが若いのか。私にはそう言いながら、家の用事を1つでも断ると露骨に不機嫌になる。去年の暮れに残業で買い出しに行けなかった時は、電話口で1時間近く説教をされた。「長女のくせに」と。

母だけは台所で私にそっと頭を下げた。

「ごめんね。みか、あんたにばっかり苦労をかけて。」

「いいのよ。お母さんは膝を治すことだけ考えて。」

母の膝は年々悪くなっていた。週に1度の通院は私の車が頼りだった。待合室で母と並んで順番を待つ時間は嫌いではない。文句を言うつもりもない。ただ、リサが母を病院へ送ったことは一度もない。その「一度もない」という事実だけが、小さな棘のように胸に残っていた。

「リサちゃんは今日も来ないのね。」

待合室で顔なじみのおばあさんに言われる度、母は曖昧に笑った。その横顔を見るのが私が一番辛かった。帰りの車で母がぽつりと言ったことがある。

「みか、あんたも自分の人生を生きなさいね。うちのことなんか放っておいていいんだから。」

「放っておいたらお母さんが困るでしょ。」

笑って流したが、本当は分かっていた。この生活を続けている限り、私の人生は多分このまま終わる。会社と実家を往復して、休みの日に文庫本を一冊読んで、それが不幸だとは思わない。ただ、喫茶店の窓際で本を読みながらふと思うことはあった。この先の何十年、私は誰と生きていくのだろう、と。

そんな2月の初めだった。夕食の後片付けをしていると、実家の電話が鳴った。相手は土倉英子さん。両親の古い知人で、昔から世話焼きで知られる人だ。受話器を取った母の声が、途中から妙に弾んだ。

「え、お見合いのお話?ええ、それはぜひ。」

電話を切った母は、こちらを振り返り、弾んだ声で言った。

「リサに縁談ですって。駅前でお店をやっている方だそうよ。」

台所で皿を拭きながら、私は他人事のように聞いていた。42の妹に来た縁談。生き遅れの姉には関係のない話。そのはずだった。この一言が我が家の1年をひっくり返すことになる。

縁談の相手は駅前の喫茶店の店主で、名前は青柳光一さん。当時50歳。早くに両親をなくし、祖父が始めた店をついで1人で切り盛りしているという。結婚歴はなし。土倉さんは電話口で「人柄は私が保証します」と繰り返したそうだ。

「駅前でお店をやってる人か?話を聞いたリサはまんざらでもない顔をした。駅前って土地代が高いのよね。もしかして資産家かも。会うだけ会ってあげてもいいけど。」

「あげてもいい」という言い方がリサらしかった。リサは42歳になっても結婚相手の条件を下げなかった。年収は1000万円以上、職業は経営者か医者か士業、都心のマンション、それに清潔感のある外見。結婚相談所に登録した時も希望欄に全部書き並べて、担当者をあ然とさせたと本人が笑い話にしていた。恋人が途切れない時期もあったが、条件に合わないと分かると自分から切ってきた。

「42でその条件は高望みよ。」

母が遠慮がちに言っても、リサは取り合わなかった。

「私は選べる女なの。お姉ちゃんと一緒にしないで。断った男の人の数は誰にも負けない。」

それなのに自分が選ぶ側だと信じて疑わないのだから、ある意味大したものだと思う。その晩のうちにリサは店の名前をネットで検索していた。出てきたのは10年前の口コミが数件と、ぼやけた外観の写真が1枚。リサの眉間にシワが寄っていくのが分かった。

「ホームページもないの?今時ありえない。」

それでも駅前という言葉への未練は残っていたらしい。数日後、リサは正式な見合いの前に相手の店を見ておくと言い出した。

「念のためよ。写真じゃ分からないことってあるでしょう。」

車を出させられたのは私だった。平日の午後、半休を取らされてのことだ。駅前通りの一本裏。年季の入った雑居ビルの1階にその店はあった。純喫茶こもれび。木の看板は日に焼けて色あせ、日よけの布はほつれている。窓越しに見える椅子は座面のビロードがすり切れていた。客は白髪の常連ばかりで、新聞を広げたおじいさんが窓際で居眠りをしている。店の脇の駐車場には古い軽自動車が1台止まっていた。

カウンターの奥に店主らしい男の人が見えた。コーヒー色の前かけに洗いざらしのシャツ。柔らかい物腰で年配の客に何か話しかけ、相手が笑うと釣られたように目尻を下げる。杖をついたおばあさんが席を立つと、さっと来て扉を押さえた。

「いいお店じゃない。」

私は素直にそう思ったけれど、助手席のリサは車から降りもしなかった。窓ガラス越しに3分ほど眺めて、はっきりと顔をしかめた。

「ないわ。まだ会ってもいないじゃない。」

「見れば分かるわよ。こんな古びた喫茶店。絶対に赤字でしょ。」

吐き捨てるように言って、シートに背中を投げ出す。

「朝から晩までコーヒーを運ぶ生活なんて無理。私、ああいう油とほこりの匂いが染みつく場所ってダメなの。」

「土倉さんは人柄は保証するって。」

「人柄でご飯が食べられる?店主だって言っても、ただの貧乏な自営業じゃない。乗ってる車を見てよ。あの軽。」

リサはスマホを店に向けて、1枚撮りを素早く動かした。

「友達に送ってあげるの。こんな縁談が来たのよって。」

笑い物にするために写真を撮る神経が、私には分からなかった。それからリサは鼻で笑い、化粧直しのコンパクトを開いた。

「50歳で結婚歴なしっていうのも怪しいのよね。どうせ女に相手にされてこなかったのよ。帰って時間の無駄だった。」

帰りの車内でリサはもう別の話をしていた。スマホの画面には男の人の写真が映っていた。誰なのか聞いてもふふふんと笑うだけだった。その夜、リサは両親の前で言い放った。

「あの話、断って。正式なお見合いなんてするだけ無駄だから。」

「会いもせずに断るのか。さすがに父も渋い顔をした。土倉さんは父の先輩の娘に当たる人で、義理をかけない相手らしい。母も困り果てていた。

「先方にはもう写真もお渡ししてるのよ。一度だけで待ってくれないと、土倉さんの顔が潰れちゃう。」

「知らないわよ。私の人生でしょ。」

リサは悪びれもせずソファーに寝転がり、スマホをいじり始めた。父が声を荒らげても、聞こえないふりで画面を撫でている。あの父がリサに強く出て、それでも通じないのは珍しいことだった。両親とリサの押し問答は3日続いた。そして4日目の晩、リサはふいに体を起こした。こちらへ視線をよこし、思いついたように言ったのだ。その思いつきが私の人生を変えることになる。

「だったらお姉ちゃんが行けばいいじゃない。」

4日目の晩、リサはソファーから体を起こしてそう言った。居間の空気が止まった。

「私の代わりにお見合いに出るの。それなら土倉さんの顔も立つでしょ。」

「何を言ってるの、リサ。」

「お姉ちゃん、相手もいないんだし。結婚できれば住む場所だけは手に入るでしょ。」

悪気のない顔だった。それがなおよく刺さった。

「古い喫茶店の手伝いなら、お姉ちゃんにもできるんじゃない?実家のお手伝いで鍛えてるんだから。」

父は腕を組んで唸っただけだった。母は何かを言いかけて口をつぐんだ。誰もリサを叱らない。この家ではいつもそうだ。48歳の姉を、断り役の身代わりに差し出す。リサにとって私はその程度のコマなのだとはっきり分かった夜だった。後で知ったことだが、リサは友人に「姉には外れを譲ってあげた」と話していたらしい。

それでも私が店へ足を運んだのは、リサの差し金に従ったからではない。会いもせずに断るという仕打ちがどうしても気になったからだ。写真まで渡しておいて、店を外から3分眺めて袖にする。相手はどれほど傷ついただろう。せめて謝罪だけでもと思った。

週末の午後、私は1人でこもれ火の扉を押した。カウベルが鳴り、コーヒーの香りに包まれる。

「いらっしゃいませ。」

カウンターの奥から光一さんが顔を上げた。私が名乗ると、彼は驚いたように瞬きをして、それから丁寧に頭を下げた。

「わざわざお越しくださったんですか?」

「妹がその、大変失礼なお断りの仕方をしまして。」

言葉を選びながら詫びる私に、光一さんは穏やかに首を振った。

「結婚は無理にするものではありませんから。気になさらないでください。わざわざ謝りに来てくださっただけで十分です。」

怒りも嫌味もなかった。それどころか、「コーヒーを1杯ごちそうさせてください」と席を進めてくれた。窓際の席で、私は店の中を眺めた。杖のおばあさんが席を立つと、光一さんはカウンターを出て荷物を席から入口まで運んだ。一人暮らしだという常連のおじいさんには包みを持たせている。「夕飯にどうぞ」と小声が聞こえた。リクルートスーツの学生にはお代わりを注ぎながら何かを話しかけ、学生は繰り返し礼を言って笑顔になった。レジの前では作業着姿の男の人が光一さんに何か相談していた。

「2階で事務所をやっているのだが、空調の調子が悪い」と聞こえる。光一さんはうなずいて、「明日、業者さんに見てもらいましょう」と請け合っていた。喫茶店の店主がなぜビルの空調の相談を受けるのだろう。その時は大家さんに顔が利くのだろうと思っただけだった。

古い店だったけれど、椅子のすり切れも、アメ色に磨かれたカウンターも、通い続けた人の年月そのものだった。壁には古い写真が1枚だけ飾ってある。開店当時の店の前で、若い男の人が誇らしげに立っている白黒写真だった。

「長い間、たくさんの人に愛されてきたお店なんですね。」

ぽつりと思ったままを口にすると、光一さんの手が止まった。

「そんな風に言っていただいたのは初めてです。皆さん、古い店だねとおっしゃるので。」

照れたように笑う顔が、なんだか少年のようだった。彼は壁の白黒写真へ目をやった。

「祖父が始めた店なんです。この写真の頃から、看板も店の構えもそのままで。だから居心地がいいんですね。時間がゆっくり流れていて。ありがとうございます。祖父が聞いたら喜びます。」

コーヒー代を受け取ってもらえなかったので、私は棚の豆を一袋買って店を出た。帰り道、私は不思議に思っていた。夕飯の包みも学生への励ましも、お金になることではない。あの値段であの豆のコーヒーを出して、商売として成り立つのだろうか。それなのに光一さんには切羽詰まった影がまるでなかった。

数日後、土倉さんから実家に電話があった。

「青柳さんが、お姉様に一度お食事をとおっしゃっていますが、いかがでしょうか。」

受話器を握ったまま、私は自分の胸が高鳴っていることに戸惑っていた。この誘いを受けたことを、リサは後にどれだけ悔むことになるか。この時はまだ誰も知らない。

最初の食事は3月の初めだった。駅裏の小さな洋食屋で、光一さんはハンバーグを頼んだ。気取らない人だと思った。

「みかさんはどんな本を読まれるんですか?」

私がかばんに文庫本を入れているのに気づいて、彼はそう聞いた。そこからの2時間はあっという間だった。光一さんも本の虫だった。店のバックヤードには祖父の代からの本棚が眠っていて、祖父の存命中は常連さんに貸し出していたのだという。

それから私たちは月に何度か会うようになった。美術館を歩き、川を散歩し、閉店後の店で彼の入れるコーヒーを飲んだ。光一さんは自分のお金の話を一切しなかった。店の売上も蓄えも今後の見通しも。私も聞かなかった。年収で人を選ぶリサのやり方をずっと横で見てきたからかもしれない。この人の値打ちはそんなところにはない。それだけは会うたびに確かになっていった。

4月の日曜には、2人で川辺の桜を歩いた。屋台で買った甘酒を回し飲みしながら、光一さんは常連さんたちの話をした。窓際で居眠りをするおじいさんは元教師で、祖父の代の貸し出しノートに名前が残る一人であること。杖のおばあさんは開店当時からのお客で、今も会計係であること。話の中心にはいつも人がいて、お金の話はやっぱり出てこなかった。

「裕福な暮らしはさせてあげられませんが。」

一度だけ、光一さんが申し訳なさそうに言ったことがある。私は首を振った。

「贅沢がしたいなら、こんな年まで独身でいませんよ。」

彼は目を丸くして、それから声を立てて笑った。笑ってから、独り言のように付け加えた。

「お金は道具ですから。誰かのために回ってこそだと、祖父がよく言っていました。」

その時は牧歌的な店の哲学だと思って聞いていた。この言葉の本当の重みを知るのは、ずっと後のことだ。

5月の連休に、その空気を壊す夕食があった。連休の中日、仕事から帰ると実家の前に見慣れない白い車が止まっていた。居間にはリサと初めて見る男の人がいた。

「紹介するね。峰岸拓也さん。会社を経営してるの。」

拓也さんは当時45歳。光沢のあるスーツに、厚みのある腕時計。手土産は有名店の贈り物で、母は恐縮しきっていた。輸入雑貨の会社をやっていて、時期に2号店を出すのだとリサが代わりに自慢した。

「リサちゃんとは真剣なお付き合いをさせてもらってます。」

世辞の上手い拓也さんに、父は上機嫌で酒をついだ。

「いやあ、リサは昔から見る目があるからな。」

「玉の輿だ。」

拓也さんの話は景気が良かった。住まいはタワーマンションの上の方。外の白い車は会社の新型で、700万はしたという。時計の話になると袖をまくって見せ、「これも車が買える値段です」と笑った。リサはその横で料理の写真を撮り、その場でSNSにあげていた。「彼のお家の夕食会」という文字が見えた。ここは実家の居間で、料理を作ったのは母なのだけれど。

「拓也さんの会社って、何を輸入してるんですか?」

私が尋ねると、拓也さんは一瞬だけ間を置いた。

「まあ、雑貨全般ですね。仕入れの細かい話は企業秘密ってことで。」

はぐらかすような答え方が引っかかったけれど、すぐに父の笑い声で流されていった。その流れで、リサがこちらへ矛先を向けた。

「そういえばお姉ちゃん、まだあの喫茶店の人と会ってるんだって。」

箸が止まった。母から聞いたのだろう。リサは拓也さんに聞こえよがしに続けた。

「私が断った縁談なのよ。駅前のぼろぼろの純喫茶。私が捨てた外れを拾うなんて。お姉ちゃん、プライドないの?」

「リサ。」

母がたしなめても、リサは笑みを引っ込めなかった。

「だって本当のことだものね。拓也さんもそう思うでしょ。」

「喫茶店ね。今時、個人経営は厳しいですよ。うちの業界から見ても、ああいう店は5年持たないなあ。」

会ったこともない人の店を、拓也さんは断言した。父も続けた。

「もう48だ。選べる立場じゃないのは分かるが、何も貧乏くじを引くことはないだろう。」

貧乏くじ。この人たちは光一さんの何を知っているのだろう。店の椅子がどうして40年もすり切れるまで使われてきたのか、考えたこともないくせに。言い返す言葉は喉まで来ていたけれど、言えばリサが倍にして返してくる。長年の癖で、私はまた黙ってしまった。

悔しかったのはその後だ。台所で片付けをしていると、リサが入ってきて声を落とした。

「忠告してあげるけど、やめておきなよ。お姉ちゃんが向こうで女中をやらされるのが目に見えてる。で、店が潰れて実家に戻ってくるの。迷惑なのよね、それ。」

女中。実家で二十年近く働きをさせてきた妹が、よく言えたものだ。

「心配してくれてありがとう。でも私のことは私が決めるから。」

「はいはい。強がっちゃって。」

リサは冷蔵庫からデザートの箱を勝手に開けながら、軽く続けた。

「まあいいわ。お姉ちゃんがボロ喫茶の奥さんで、私が社長夫人。並んだ時の格差が楽しみだもの。同窓会のネタにさせてもらうわね。」

妹の目には、私はいつまで経っても引き立て役なのだった。その夜、私は家を抜け出すようにしてこもれびへ向かった。閉店後の店で、光一さんは何も聞かずにコーヒーを入れてくれた。カップを置いた私の顔を見て、彼はぽつりと言った。

「何か辛いことがありましたね。」

その一言で糸が切れた。気がつけば私は泣いていた。48年分の何かが、あの言葉で緩んでしまった。光一さんはカウンター越しに待ってくれた。私が泣き止むまで、慰めもせず、そして湯気の消えたカップを下げながら、こう言った。

「みかさん、私とこの店で一緒に生きていただけませんか?」

プロポーズの言葉に、指輪も夜景もなかった。それが光一さんらしくて、私は笑いながらまた泣いた。

「はい。こちらこそよろしくお願いします。」

声が震えて、それ以上は言えなかった。カウンターの向こうで光一さんが深く頭を下げる。顔を上げた時、彼の目もうるんでいた。四半世紀近くを別々に生きてきた者同士の、静かな婚約だった。

帰宅してから、ふと思い立って拓也さんの会社を検索してみた。教わった社名を打ち込んでも、それらしい会社は出てこない。妙な胸騒ぎがしたが、その時は深く考えなかった。この違和感の正体を、私はやがていやというほど知ることになる。

6月、実家での夕食時に告げた。

「光一さんと結婚することにしました。秋には式を挙げます。」

最初に吹き出したのはリサだった。

「嘘でしょ?本当にあの店に嫁ぐの?」

テーブルに肘をついて、芝居がかったため息をつく。

「新婚なのに毎日コーヒーとトースト生活。よくやるわ。」

「私は光一さんと一緒に暮らしたいと思ったの。それだけよ。」

言い返したのはそれだけだった。リサは肩をすくめた。

「あ、いいんじゃない?お姉ちゃんには釣り合いが取れてて。」

「あ、でも言っておくけど。」

人差し指をこちらへ向ける。

「家賃も払えなくなって実家に泣きつかないでよ。あの店の稼ぎで2人暮らしなんて、どうせすぐ行き詰まるんだから。」

父は祝いの言葉の代わりに条件を並べた。

「嫁に行っても、母さんの病院はこれまで通りお前が頼むぞ。リサは忙しいんだから。」

「聞いた?私、近いうちに拓也さんと大事な話になりそうなの。準備で忙しいのよ。」

リサは左手の薬指を撫でて見せた。まだ何もついていない指だった。それからリサは、頼んでもいない要望を次々に出した。顔合わせはあげてほしい。「あんな店の人と親族の席に並ぶのを、友達や親戚に見られたくないから。」もし食事会をやるにしても、自分は呼ばないでほしい。「行く価値がないから。」その代わり、自分と拓也さんの時は盛大にやるから。「お姉ちゃんご祝儀は姉妹価格で多めにお願いね。」

あきれを通り越して笑えてくる。私の結婚を値切って、自分の結婚に上乗せするつもりらしい。それだけでは終わらなかった。数日後、嫁入りの荷物を整理していると、私が自分の給料で買い換えてきた実家の家電に付箋が張ってあるのに気づいた。台所の冷蔵庫、洗面所の洗濯機、電子レンジ。全部にリサの字で「置いていくこと」とある。

「向こうは店をやってるんだから、家電くらいあるでしょ。こっちで使うわ。」

使うのは実家ではなく、リサ自身らしい。買い替えたばかりの洗濯機はそのままリサのマンションへ運ばれていった。文句を言う気力も湧かなかった。早くこの家を出よう。そう思う気持ちの方が強かった。

母だけが後で私の手を握った。

「ごめんね。こんな家で。青柳さんによろしく伝えて。あんたが選んだ人なら、お母さんは信じるから。」

7月に土倉さんの仲介で両家の顔合わせをした。光一さん側の親族は、亡くなったご両親に代わって土倉さんが座った。祖父母もすでに他界していて、彼は本当に一人だった。光一さんは古いが手入れの行き届いた背広で現れ、両親に深く頭を下げた。

「みかさんを大切にします。一生をかけてお約束します。」

飾らない挨拶だった。父は品定めするような目で彼を眺め、悪びれもせずに言った。

「まあ、うちのみかは苦労性ですから、贅沢は言わんでしょう。店の方は、その、食べていけるくらいには回っとるんですか?」

「おかげさまで、細く長くやっております。」

光一さんは穏やかに答えただけだった。料理の品も、派手なものは何もなかった。その席で、リサの椅子は最後まで空いたままだった。「用事がある」とだけ聞いていた。その帰り道、土倉さんが私を呼び止めた。

「みかさん、1つだけおせっかいを言わせてね。」

日傘の下で、土倉さんは声を落とした。

「光一さんはね、昔、結婚の話が壊れたことがあるの。相手の方の事情でね。それはそれは傷ついて、もうご縁はいらないと言っていた人なのよ。」

「そうだったんですか。」

「ええ。だから、あなたのことを聞いた時、私は驚いたの。あの人がもう一度誰かと生きようと思ったんだって。それがどれだけのことか、覚えておいてあげてね。」

結婚の話が壊れた。相手の方の事情。それ以上は土倉さんも語らなかった。帰りの電車で、私はその言葉を反芻していた。あの穏やかな人の過去に、何があったのだろう。

式は9月の末に、店の近くの小さな神社で挙げた。参列者は両親と土倉さんと、店の常連さんが数人。リサは来なかった。「拓也さんと箱根に行く予定が入ったから」と前日に連絡があった。元教師のおじいさんは、この日ばかりは背広にネクタイで来てくれた。杖のおばあさんは涙で、「マスターの花嫁さんを見るまでは死ねないと思っていたのよ」と私の手を握った。式の後の食事会は店を貸し切って開いた。常連さんたちの祝いの声で、古い店は1日中温かかった。

その夜、リサのSNSには箱根の高級旅館の写真が並んだ。露天風呂付きの部屋、会席と和牛の写真。拓也さんと一緒に。姉の結婚式より旅行を選んだことへの言い訳のように、文章が添えてあった。「本物の愛はお金の使い方に出るのよね。私は絶対に妥協しない。」妹の幸せの基準は、写真に撮れるものだけでできている。画面を閉じて、私はギリギリで「いいね」を取り消した。

白無垢の代わりに、母が自分の花嫁衣装を仕立て直してくれた。荷物をまとめて実家を出る朝、母は玄関で深々と頭を下げた。

「長いことありがとうね。」

それだけ言うのが精一杯という顔だった。私も涙をこらえるのに苦労した。

「病院にはちゃんと行くからね。安心して。」

「バカね。新婚さんがこっちの心配なんかしないの。」

そうして私は青柳みかになった。食事会を終えた夕方、光一さんは私の荷物を軽自動車に積んでいった。

「じゃあ、うちに案内します。」

うち。それが店の入っている雑居ビルの最上階だと聞いた時、私は正直身構えた。あの古いビルの店の上に住むのか。日当たりはどうだろう。お風呂は追い焚きができるのだろうか。エレベーターを降りてその部屋の扉が開いた時、私は自分の目を疑うことになる。

エレベーターは6階で止まった。古い雑居ビルだと思っていたから、箱の中が新しいことにまず驚いた。扉が開くと、フロアには一世帯分の玄関しかない。

「さあ、どうぞ。」

光一さんが開けた扉の先に、私は立ち尽くした。窓が大きい。磨かれた板の床が廊下の奥まで続いて、リビングからは駅前の街並みが一望できた。作り付けの本棚が壁一面にあり、台所は使い込まれてはいるが手入れが行き届いている。6階の角部屋で、2方向から夕日が入った。

「ここが、うちですか?」

「祖父が住んでいた部屋なんです。私が引き継いで、水回りだけ直しました。」

寝室が2つに、書斎が1つ。お風呂は檜の香りがして、追い焚きどころか浴室乾燥までついていた。狭い部屋を覚悟していた私は、荷物のダンボールを抱えたまま、しばらく玄関から動けなかった。

その夜は2人で片付けをした。壁一面の本棚に、光一さんの本と私の本を並べていく。彼の棚に私と同じ文庫が3冊もあって、私たちは声を上げて笑った。

「これで安心して貸し借りができますね。」

「返さなくていい貸し借りは初めてです。」

窓の外に駅前の明かりがまたたいていた。この景色を、私はまだ夢のように眺めていた。どう見ても駅前の一等地の、広さも作りも立派な住まいだった。こんな部屋を借りたら、家賃はいくらになるのだろう。15万か20万か。喫茶店の稼ぎでは重すぎるのではないか。おそらく大家さんとの長い付き合いで破格に借りているのだろう。私は勝手にそう結論付けた。だとしたらなおさら、甘えてばかりはいられない。私は会社をやめていない。48まで自分で食べてきたのだ。養われるだけの結婚をするつもりは、最初からなかった。

10月の給料日、私は会社の帰りに銀行へ寄って通帳を眺めながら考えた。家賃の相場は調べてある。駅前徒歩2分、6階角部屋、広さから見て月20万は下らない。全額は無理でも、せめて気持ちの分は出したい。その夜、夕食の後片付けを終えてから、私は貯金通帳を食卓に置いた。

「光一さん、お金の話をさせてください。」

「はい。」

「家賃5万円は私も払います。それから生活費も、できるだけ負担させてください。」

精一杯の誠意のつもりだった。この部屋の家賃が20万なら、5万円は4分の1がやっと。それでも気持ちとして受け取ってほしかった。光一さんはぽかんとした。

「家賃?」

「ええ。この部屋、高いでしょ?大家さんにいくら払ってるのか、私、ちゃんと聞いておきたくて。」

彼は口を開きかけ、閉じ、それから困ったように笑った。

「みかさん、言ってなくてすみません。この部屋の家主は、私なんです。」

数秒、意味が分からなかった。

「家主というのは、私のものなんです。このビルも、下の駐車場も。大家は、私です。」

私は笑ってしまった。

「また、そんな冗談。」

「冗談じゃないんです。ちょっと待っていてください。」

光一さんは部屋を出て、店へ降りて行った。戻ってきた彼の手には、古い革の鞄があった。鞄の底の金庫にしまってあるという、分厚い書類の綴じ込みが出てくる。一番上の書類の表紙にはこう書いてあった。

「全部事項証明書 土地・建物。」

「当規模です。祖父の代からの、この土地と建物の権利の記録です。」

所有者の欄に、青柳光一の名前があった。祖父の名前から父の名前へ。そして光一さんへ。相続の記録が、幾重にも続く字の並びで綴じられている。土地の取得の日付は昭和20年代まで遡っていた。抵当権の欄には「抹消」の文字。借金は1円も残っていないという意味だ。経理を20年やってきた私には、それが本物であることが一目で分かってしまった。綴じ込みの下には、隣の駐車場と裏手の土地の証明書も重なっていた。駅前の一等地が、何筆も全部この人の名義だった。

「そんな。だってあなた、軽自動車に乗って。」

「車は荷物が詰めれば十分ですから。服だって、いつも同じシャツで。洗い替えは3枚あります。」

真顔で答えるものだから、私は力が抜けて椅子に座り込んだ。妹が「貧乏な自営業」と切り捨てた人。父が「貧乏」と呼んだ縁談。その人は、駅前のビル一棟と土地の持ち主だった。

しばらくして、私はようやく口を開いた。

「分かりました。事情は、ゆっくり聞かせてください。でも、1つだけ。」

「はい。」

「家賃の5万円は、それでも払わせてください。私の気持ちの問題なので。」

光一さんは目をしばたかせ、それからおかしそうに、けれどどこか嬉しそうにうなずいた。

「分かりました。では、毎月お預かりします。」

ビルの持ち主に家賃を払う妻。世間から見れば滑稽だろう。それでも彼は笑い飛ばさずに受け取ると言ってくれた。それが、この人らしいと思った。

ちょうどその晩、リサから電話があった。引っ越しから半月も経って、今頃思い出したように「新居はどうか」とからかい半分の声だった。

「あのビルの上に住むんでしょ?6畳一間に2人とか、罰ゲームじゃない?」

「思ったより広いわよ。」

「強がっちゃって。お風呂はついてるの?まさか、銭湯じゃないでしょうね。」

「檜のお風呂よ。」

「はいはい。見栄張り。あのね、うちは今週、拓也さんとレストランの貸し切りだから。シェフが目の前で焼いてくれるお店。お姉ちゃんはコーヒーのお代わりでも楽しんでね。」

けらけらと笑い声が響く。知らないというのは、こんなにも間の抜けたことなのか。私は部屋の広い窓から夜の駅前を見下ろしながら、「そうね、つましくやるわ」と答えて電話を切った。言わなかったのは意地悪ではない。光一さんがこの事実を隠して生きてきたことには、きっと理由がある。それを聞くまでは、誰にも話すべきではないと思ったのだ。

翌朝、光一さんは食卓に湯気の立つコーヒーを2つ置いて、「話があります」と切り出した。

「隠すつもりはなかったんです。ただ、順番に聞いてほしくて。」

光一さんはコーヒーを一口飲んで、ゆっくり話し始めた。このビルは6階建てで、1階が喫茶こもれび。2階と3階は貸し店舗と貸し事務所。居酒屋に、税理士、学習塾、それに小さな工務店の事務所。4階と5回は賃貸の住宅で8世帯が暮らしている。6階がこの自宅。隣の平面駐車場と裏手の月極めの土地も、青柳家のものだという。

「祖父が戦後に屋台から始めて、こつこつ買い足した土地です。ビルを建てたのは祖父の代で、借入金は祖父の代に返済しています。ですから今は返済のない家賃が、そのまま残ります。」

「あの、参考までに、おいくらくらい。」

経理の性で聞いてしまった。光一さんは湯気の向こうで、少しも自慢げでなく答えた。

「収入は、月に300万円ほどです。」

月に300万。年にすれば3600万。私の年収の何倍という数字が、この古びたビルから毎月生まれている。書類の綴じ込みには賃貸契約の一覧も挟まっていて、部屋番号と賃料が並んでいた。暗算で足し算をしても、確かにその金額になった。

「どうして、それを隠して?」

「先ほどの話の続きです。」

光一さんはカップを置いた。15年ほど前、彼にも縁談があった。見合いで会った人と、結婚の話が進んだ。相手は明るい人で、古い店も面白がってくれた。けれど話が固まりかけた頃、先方が興信所を使って青柳家の資産を調べた。ビルの価値、土地の広さ、家賃の額。それを知った途端、相手の態度が変わった。

「店は畳んでビルを建て替えましょう。喫茶店なんて儲からないでしょう。」

彼女は当然のようにそう言いました。ご両親は結婚前から、部屋を1つ弟さんの事務所に無償で貸してほしいと。

「私が愛されていたのではなく、資産が愛されていたんです。破談にした時、彼女は言いました。『あんな店しかない男。資産がなければ誰が選ぶの』と。」

土倉さんの言っていた「壊れた結婚の話」。相手の方の事情というのは、これのことだったのだ。

「それからは、お見合いの話が来ても全部お断りしていました。今回だって、土倉さんがどうしてもと言うから、写真だけはと。」

「妹は、会いもせずにお断りしましたけど。ええ、正直ほっとしたくらいです。ところがその数日後にお姉さんが謝りに来てくださった。」

光一さんはそこでふっと目元を緩めた。

「店を3分で値踏みして帰る人と、店のために頭を下げに来る人。同じ家で育った姉妹でも、人はこんなに違うのかと驚きました。」

それ以来、彼は資産の話を一切しないと決めていた。店の主人としてだけ生きて、それでも隣に立ってくれる人がいるなら、その人と生きようと。

「みかさんを試したわけではありません。ただ、財産を結婚の判断材料にしてほしくなかった。順番が後になったことは謝ります。」

深々と頭を下げる光一さんに、私は首を振った。この人は嘘をついていたのではない。40年着られる誠実を着て、ただ立っていただけだ。目の前の人柄を見ようとしなかった人たちが、勝手に素通りしていっただけのこと。

「怒っていません。でも1つだけ、聞かせてください。あのお金は、何に使っているんですか?」

光一さんは指を折って数え始めた。ビルの修繕の積み立て。地震に備えた補強工事の費用。店を手伝ってくれる人の給料。景気の悪い年のテナントさんの家賃の減額。いずれ来る建て替えのための蓄え。

「テナントさんの減額ですか?」

「2階の居酒屋さんは、ご主人が入院した年に半年分をなしにしました。塾の先生は開業の時、機材が揃うまで3か月待ちました。皆さん、うちのビルで商売をしてくれている仲間ですから。」

彼は革の鞄からもう1冊ノートを出した。「修繕計画」と書かれた大学ノートには、外壁の塗り替えは何年、給水管の交換は何年と、10年先までの予定と積み立て額が細かい字で並んでいた。「災害用」と書かれた通帳もあった。自信や家事で家族が困った時のためのお金だという。

帳簿を見れば人が分かる。経理を長くやっていると、そう思うことがある。この帳簿の主は、自分のための欄だけが薄かった。空調の相談を受けていたあの日の姿を思い出した。大家に顔が利くどころではない。あの人自身が大家で、そしてこのビルの誰よりも、自分のためにお金を使っていなかった。300万という数字より、その使い道に私は胸を打たれていた。

その週末、光一さんは私をビルの中へ案内してくれた。2階の居酒屋ではご主人が半身を乗り出して出てきた。

「その方が、噂の奥さんですか?」

オーナー。その呼び名に、私の方がまだ慣れない。3階の学習塾の先生は開業の時の恩を私に語って聞かせた。4階の廊下では買い物帰りの住人さんに呼び止められ、5階では赤ちゃんを抱いた若い奥さんに頭を下げられた。彼らは口々に光一さんを褒め、そして深い信頼を寄せていた。

「大家というのは、住民さんの暮らしを預かる仕事です。祖父の受け売りですが。」

月に1度、管理会社の小野寺さんという人が報告書を届けに来ることも知った。当時50代の実直な人で、集金と修繕の窓口を任されている。書類の宛名には「青柳光一様」「オーナー様」と印字されていた。喫茶店のカウンターで、店主は毎月その報告書に目を通し、印鑑を押す。あの光景の意味を、常連さんの誰も知らない。

「働くことは、これからも続けていいですか?私、養われるだけの暮らしは性に合わなくて。」

「もちろん。その代わり、休みの日にたまに店を手伝ってもらえたら嬉しいな。」

最後に、私たちは1つだけ取り決めをした。このことを実家には、私からは言わない。

「みかさんにお任せします。」

「言わないでおきます。お金の話をした途端、態度が変わる人たちなので。自分の家族をそう言うのは情けなかったけれど、光一さんの過去を聞いた後では、それが一番の守りだと分かっていた。彼はうなずいて、コーヒーのお代わりを注いでくれた。

「秘密というより、宿題にしましょう。いつか話しても大丈夫だと思える日が来たら。その日は、結局一番悪い形でやってくるのだけれど。」

こうして私は平日は経理の会社員、週末はこもれびの手伝いという暮らしを始めた。エプロンの結び方から、サイフォンの火加減まで。覚えることは山ほどあった。そして、この店の奥には40年も眠ったままの宝があった。その前に、1つだけ書いておきたいことがある。あの夜の申し出の後、私は宣言通り毎月5万円を光一さんに渡し続けた。ビルの持ち主に家賃を払う滑稽さは分かっていたが、これは私の筋の通し方だった。光一さんは笑いもせず、毎月きちんと受け取ってくれた。そのお金がどこへ行っていたのかを知るのは、ずっと先のことになる。

さて、宝というのは店の奥の物置き部屋だった。祖父の代からの本棚が3本、ほこりをかぶって眠っていた。文学全集に、画集、古い映画の雑誌。貸し出しノートには、何十年も前の常連さんたちの名前が鉛筆で残っている。

「光一さん、これ、店に出しましょう。」

10月の定休日、私は思い切って提案した。物置き部屋を片付けて、読書スペースにする。祖父の本棚を解放して、コーヒー1杯で好きなだけ本が読める席を作る。

「昔の良さは、何も買えません。出すだけです。」

光一さんは腕を組んで本棚を眺め、それから深くうなずいた。

「祖父が喜びます。あの人は、店は町の縁側だと言っていましたから。」

週末ごとに、2人で少しずつ手を入れた。壁には開店当時からの写真を年代順に飾った。白黒の祖父の写真から、昭和の店内、常連さんたちの集合写真まで。古いメニュー表が出てきた時は、2人で声を上げた。クリームソーダに、硬いプリン。ホットケーキは鉄板焼き。

「全部復活させましょう。今、こういうのが逆に新しいんです。」

店を手伝ってくれているパートの絵里ちゃんが目を輝かせた。宮下絵里ちゃん、当時26歳。近所の生まれで、学生の頃からこもれ火でアルバイトをしている子だ。

「奥さん、SNSやりましょう。うちの店、絶対映えます。」

絵里ちゃんが写真を撮り、私が文章を書いた。あめ色のクリームソーダ。鉄板で膨らむホットケーキ。窓際で新聞を読む常連さんの後ろ姿。宣伝というより、店の日記のようなつもりで続けた。効果は晩秋に入る頃から出た。若い女性客がスマホを片手に扉を開けるようになったのだ。

「これが噂の硬いプリンですか?」

「レトロで素敵。」

「この椅子、いつからあるんですか?」

「40年です。」

光一さんが答えると、店の中に小さな歓声が上がる。読書スペースは近くの大学の学生に見つかって、試験前には席が埋まった。土曜の午前には地域の読書会を開き、元教師のおじいさんが司会役に収まった。

「退職してから、立てなかった教壇の分を取り返しとるんですよ。」

おじいさんは冗談めかしたが、課題の本を配る手つきは本物の先生だった。杖のおばあさんは若いお客さんに店の歴史を語る係になり、張り切って通ってくる。「あの椅子はね、仙台がね」と始まると長いのだが、若い人たちは面白がって聞いていた。年末には地元の情報誌が小さな記事にしてくれた。「駅前の純喫茶、60年目の新しい風。」見開きの扱いだったが、記事を読んだという初めてのお客さんが年明けまで途切れなかった。光一さんは記事の切り抜きを、祖父の白黒写真の隣に貼った。

嬉しい再会もあった。年の暮れ、スーツ姿の青年が贈り物を持って現れた。就職活動の頃、光一さんにお代わりを注いでもらっていたあの学生さんだった。

「マスターのおかげで内定をもらえた会社に、春から正式に配属が決まりました。」

「私は何も。あなたが頑張っただけですよ。」

そう言いながら、光一さんはその日一番の顔で笑っていた。青年は今も週に1度、コーヒーを飲みに来る。

読書会には思わぬ効き目もあった。一人暮らしの常連さんたちが、顔を合わせる約束の日を持てたことだ。元教師のおじいさんは課題の本を選ぶのに1週間かけるという。杖のおばあさんは、その日だけ口紅をさしてくる。12月の初めからは、月に1度日曜の夕方に店を解放して、ご近所の持ち寄りの会も始めた。居酒屋のご主人が肉じゃがを、塾の先生が手作りのお菓子を持ってくる。5階の若い奥さんは赤ちゃんを連れてきて、常連のおばあさんたちに代わる代わる抱かれていった。「町の縁側」という祖父の言葉通りの光景が、そこにあった。古い常連さんと新しいお客さんが、同じカウンターで肩を並べる。売上は前の年の倍以上になった。数字よりも嬉しかったのは、店の空気が明るくなったことだ。

「君が来てくれて、店だけでなく僕の人生まで明るくなった。」

閉店後のカウンターで、光一さんが本音を漏らした。私は洗い物の手を止めずに笑った。

「大げさですよ。」

「大げさなものか。祖父の本棚が、40年ぶりに仕事をしてるんだ。」

夫婦になってから、彼の言葉遣いは時々砕けたものになった。その距離の縮まり方が、私にはくすぐったくて嬉しかった。

一方その頃、リサからは時々メッセージが届いた。「まだお店潰れてないの?」「女中業は順調?」「私は今週も拓也さんとホテルのアフタヌーンティー。」写真付きの近況自慢に嫌味を一さじ添えるのがリサの流儀だ。店のSNSのことは知らないらしい。教える気もないので、順調だった。気になったのは12月の半ばに届いた一通だった。

「拓也さんの新しい事業、私も応援することにしたの。妻になる人間が出資するのは当然でしょう。」

出資。その2文字に、あの夜の検索結果が蘇った。実態の見えない会社。はぐらかされた質問。嫌な予感がして「出資って、何のお金?」と返信したが、リサからの返事はそっけなかった。

「お姉ちゃんには関係ないでしょ。貧乏人は黙ってて。」

関係ないならそれでいい。ただ、この「出資」という言葉が、やがて妹の足元を崩す最初の日びになる。

正月、私は光一さんを連れて実家へ挨拶に行った。玄関を開けた瞬間からリサの独壇場だった。

「見て見てお姉ちゃん。婚約指輪。」

突き出された左手の薬指で、大粒の石が光っていた。拓也さんとは年内に結婚の約束を交わしたのだという。

「1カラットよ。お姉ちゃんは、もらった?」

「はあ。」

「ごめん。喫茶店じゃ指輪は無理よね。豆でも数えてなさいってことね。」

光一さんが隣にいるのに、リサは平気でそれを言った。光一さんは怒るでもなく「おめでとうございます」と頭を下げた。その態度すら、リサには腰の低さの証拠に見えたらしい。

「本当に腰の低い旦那さんね。商売人だから、誰にでもへこへこするんだ。」

おせちの席でもリサは止まらなかった。

「私はお姉ちゃんみたいに妥協しないの。結婚相手で女の人生は決まるのよ。拓也さんの事業ね、今度は都心に店舗を出すの。私も妻になる人間として応援してて。」

おせちを詰めたのは、今年も私だった。嫁いだ後も、結局こうして実家の台所に立っている。母の通院の送り迎えも、宣言通り続けていた。リサは1度も変わらない。それどころか、正月早々こんなことを言った。

「お姉ちゃんがお嫁に行ってから、実家が不便で困るのよね。呼んだらすぐ来られる距離に住んでてよかったわ。」

悪気なく人を気遣わせる才能だけは、年季が入っている。

「そうだ。お母さん。お雑煮、まだ?」

こたつから動かない娘に代わって、膝の悪い母が立ち上がろうとする。私はそれを制して台所へ立った。何も変わらない。この家は、いつまでも何も変わらない。

父は上機嫌で、拓也さんは調子よく事業の話を膨らませた。輸入雑貨の2号店。次はカフェ業界への進出も考えている。投資家仲間からは「利回りのいい案件だ」と太鼓判をもらっている。仲間、案件、利回り。意味のない横文字の言葉が、空気を滑っていく。カフェという言葉のところで、拓也さんはこちらへ目配せをした。

「先輩、コツを教えてくださいよ。ああいう昔ながらの店って、逆に原価が安く済むんでしょ?」

「原価の話は、お客さんの前ではしない主義です。」

光一さんは笑顔のまま、それだけ返した。拓也さんは引き下がらなかった。

「駅前ってことは、あのビルの家賃も相当でしょう。よく回りますね。いくら払ってるんですか?」

「さあ。大家が良い人なので、助かっています。」

嘘は1つも言っていない。私は吹き出しそうになるのをこらえた。拓也さんは張り合いのない相手と見たのか、肩をすくめて父の酌をした。

「お父さんもどうです?うちの事業に一口。身内価格で年利をつけますよ。」

「わしはもう年金暮らしだからな。」

父は笑って濁したが、まんざらでもない顔だった。私は膝の上で拳を握った。年利という言葉を、こんなに軽く口にする人を初めて見た。

台所で洗い物をしていると、母がそっと隣に立った。

「みか、お店、随分繁盛してるんですって。土倉さんから聞いたわよ。若い人がいっぱい来てるって。」

「うん。おかげさまね。」

「お母さん、今度こっそり行こうかしら。」

そこへリサが割り込んできた。

「は、お母さんまであのボロ喫茶の肩を持つのはやめてよね。身内が客のふりして並ぶとか、興ざめじゃない。」

「興ざめってあんた。」

「大体お姉ちゃんもさ、48にもなって休みの日にエプロンつけて手伝って、恥ずかしくないの?私の友達に見られたらどうしよう。『姉は喫茶店の使用人です』って言えばいい。」

女中。使用人。リサの中では、働く人はいつも下働きだ。

「リサ、お店を手伝うのは女中じゃなくて、店主の妻の仕事よ。」

「はいはい。貧乏暇なし。私は結婚したら専業よ。拓也さんが働かなくていいって言うから。」

その拓也さんの財布から、出費が出たところを私は一度も見ていない。帰りに皆で初詣に行った時も、お守り代を出したのはリサの財布だった。彼女のバッグの口からは、見慣れない札束が覗いていた。

帰り道、私は光一さんに小声で聞いた。

「ねえ、事業に出資って、普通は契約書とか事業計画書とかあるものよね。」

「あるべきでしょうね。額にもよりますが。」

「リサ、多分何も見てない。」

胸騒ぎの正体を確かめたくて、私は仕事の昼休みに法務局へ行った。会社の登記なら誰でも取れる。経理の仕事で取引先の信用を調べる時、何十回とやってきたことだ。教わっていた社名で、法人の登記事項証明書を請求した。出てきた紙は、表紙が抜けるほど薄かった。設立は1年半前。資本金は100万円。本店の住所は都心のレンタルオフィス。役員は、峰岸拓也。ただ1人。2号店どころか、支店の登記1つない。

帰りの電車で、私は2つの登記を思い比べていた。昭和から積み上がった我が家の分厚い綴じ込み。ぺらりと1枚切りの拓也さんの法人登記。同じ登記でも、嘘のつけない場所にこそ、その人の正体は出る。登記は嘘をつかない。経理を20年やって、骨身に染みていることだ。

まず母に電話をした。

「出資はやめさせた方がいい。会社の実態が怪しい。」

母は困ったように言った。

「お父さんがね、乗り気なのよ。リサの結婚相手になる人だから、応援してやらんとって。」

「お願いだから、お父さんの金は出さないで。約束して。」

吐息の後、母は「分かった」と小さく答えた。それから本丸に挑んだ。その夜、私はリサに電話をかけた。会社の実態を調べたこと。出資はやめた方がいいこと。できるだけ穏やかに伝えたつもりだった。帰ってきたのは、突き刺すような笑い声だった。

「はあ、お姉ちゃん、拓也さんを調べたの?それって嫉妬でしょ。」

「嫉妬じゃなくて、心配してるの。役員は拓也さん1人だけ。事業の登記もない。せめて出資は、お金が戻る形の契約書を。」

「うるさいなあ。拓也さんは大きな仕事をしてる人なの。書類がどうとか、細かい女は嫌われるのよ。」

「リサ。」

「分かった分かった。自分が貧乏な結婚したからって、人の玉の輿の邪魔しないでくれる?貧乏喫茶の奥さんに心配されることなんて何もないから、もう電話してこないで。」

一方的に切られた電話を、私はしばらく見つめていた。隣で聞いていた光一さんが、低い声で言った。

「言うだけのことは言いましたね。」

「聞かない耳だと分かってても、言わずにいられなくて。それが姉というものでしょう。」

「あとは、本人の宿題です。」

忠告を鼻で笑ったことを、妹は翌月思い知ることになる。

崩壊は2月に音を立てて始まった。最初の知らせは、母からの電話だった。声がおかしかった。

「みか。リサがね、お金のことで拓也さんと揉めてるみたいなの。」

聞けば、年明けから拓也さんからの金銭の相談が増えていたという。2号店の内装費が足りない。取引先への支払いが先に来た。ほんの一時的に200万だけ。リサは言われるまま定期を崩して振り込んだ。それだけではなかった。後から分かったことだが、あの1カラットの婚約指輪も、支払いはリサのカードの分割払いだった。プロポーズの店の会計も、2人の旅行代も、気づけばリサ。彼氏に貢がせる女のはずが、いつの間にか貢ぐ側に回っていたのだ。

「貯金がもうないっていうのよ。あの子、600万はあったはずなのに。」

600万。父が長年封筒で渡し続けてきたお金も含めての600万だろう。それが1年足らずで消えた。

「お父さんは、出してないでしょうね。」

「ええ。あんたと約束したから断ったわ。そしたら急に、うちへ寄りつかなくなって。金にならないと分かった家には、もう用がないということだ。」

分かりやすいにもほどがある。とどめは、その2週間後に来た。リサが結婚の話を具体的に進めようとした夜、拓也さんの態度が急に冷たくなった。式場の見学の約束はすっぽかされ、連絡は途切れがちになり、問い詰めたリサに、彼はこう言い放ったという。

「金がないなら、君と一緒にいる意味もない。」

そして彼は姿を消した。正確には、リサの前から消えて、別の女の人の隣に現れた。SNSに写真が上がっていたのを、リサの友人が見つけた。新しい相手は飲食店を数件持つ会社役員の一人だそうだ。納得できないリサは、湾岸のタワーマンションへ押しかけた。ところが出てきたのは、知らない住人だった。とっくに引き払われていたのだ。管理人に食い下がって分かったのは、あの部屋が短期契約で、名義も拓也さんではなかったこと。連絡先は全て着信拒否。連絡アプリのアイコンも、反応しなくなった。

「電話番号しか知らないのよ、あの子。住所も実家も、本名かどうかすら。」

母の言葉に、私は言葉を失った。1年も結婚を語り合った相手の住民票1つ、確かめていなかったのだ。

残されたものを数えれば、散々たるものだった。拓也さんに渡した出資金は合わせて350万。1年の間に目減りしていた貯金は、定期の200万を崩したところで底をつき、残りの150万はカードローンで工面していた。もちろん契約書の1枚もない。そこへ婚約指輪や旅行や着物の分割払いの残りが300万近く。カードローンと分割、合わせて450万もの借金がリサの身の上に残った。後を追うように、残りのメッキも剥がれていった。白い車は残価設定のローンで支払いが滞り、すぐに引き上げられたと聞く。輸入雑貨の会社は、私が登記で見た通りの空箱だった。2号店の計画など、初めから存在しなかったのだ。あの腕時計だけは本物だったらしいが、それも今頃はどこかの質屋だろう。

「弁護士さんには相談したの?」

母の声は疲れきっていた。

「でもね、出資はリサが自分の意思でした振り込みだから、騙し取られたと証明するのは難しいって。返してもらう約束の書面もないし、裁判をしても、あの人に財産がないんじゃ、用がないでしょうって。」

法律は、眠っている人を助けてくれない。悔しいが、それが現実だった。

「私が悪いんじゃない。騙した男が悪いんだって。そればっかり。」

「仕事はどうしているの?」

「派遣の契約が、年度末で切れるのに。更新の手続きもしてないみたい。」

返済の当てなど、どこにもなかった。確かに一番悪いのは拓也さんだ。それでも、思わずにはいられなかった。編集と車と時計で人を選んだ結果が、これなのだ。リサは拓也さんの中身を一度も見ようとしなかった。外側だけを愛して、外側だけの男に選ばれて、外側が剥がれたら捨てられた。店の外観だけを見て光一さんを切り捨てた時と同じ目でしか、人を見てこなかった。

「お姉ちゃんは言ったからね。忠告したからね。」

そう言ってやりたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。けれど母の憔悴した声を聞いていると、その言葉は飲み込むしかなかった。

「お母さん、ご飯、ちゃんと食べてる?」

「ええ。でもね、みか。お父さんがすっかり疲れちゃって。」

「お母さんまで倒れたら、元も子もないでしょ。今度の通院の時、うちの店に寄って。美味しいものを食べさせてあげる。」

「あんたって子は。妹の借金の話をしてるのに。」

「妹の借金の話だからよ。お母さんが背負う話じゃないもの。」

電話の向こうで、母が小さく鼻をすする音がした。父は拓也さんを玉の輿と持ち上げた自分を恥じているらしい。娘の心が動いた一瞬があっただけに、なおさらだろう。リサのSNSは、2月の半ばを最後に更新が止まった。最後の投稿は、いつかのホテルのアフタヌーンティーの写真の使い回しだった。あの華やかな画面の裏で、預金残高だけが静かに底をついていたのだ。

電話を切ってから、光一さんに一部始終を話した。彼は腕を組んで黙って聞き、最後に一言だけ言った。

「お金は、人を映す鏡ですね。」

「私、忠告したのよ。それでも、こんなにあっけなく。」

「人は、見たいものしか見ませんから。特に、鏡の中の自分が一番綺麗に見える場所ではね。」

光一さんの言葉は、時々怖いくらいに的を射る。15年前、彼自身が資産という鏡に群がる人たちを見てきたからだろう。

3月に入って、母から改めて連絡が来た。両親の金婚式の祝いを、こもれびでやらせてもらえないかという。

「50年の記念だから、家族で祝いたいの。リサも呼ぶけど、いいかしら。」

断る理由はなかった。ただ、あの妹が今のこもれ火を見た時、何が起きるのか。予感めいたものがなかったわけではない。その予感は、最悪の形で当たることになる。

金婚式の祝いは、3月の最後の日曜に開いた。店は昼過ぎから貸し切りにした。両親と土倉さん。それに両親のたっての希望で、常連のおじいさんおばあさんも数人加わった。祝いの相談をしていた時、母が「もしや」と膝を打ったのだ。50年前、結婚の日に2人でコーヒーを飲んだのが、確か駅前の純喫茶だったという。店の名前までは覚えていなかったが、下見に来た母は一目で思い出した。「この時の店だ。」母の記念日の思い出の店が、娘の嫁ぎ先になっていた。「そんな縁もあるのか。」土倉さんがしみじみ言った。絵里ちゃんが腕によりをかけて、鉄板のホットケーキに「50」の字をチョコレートで描いた。私は母の好きな桜餅を和菓子屋に頼み、光一さんは50年前と同じ配合の深煎りのブレンドを再現した。「当時の豆の銘柄が残っていましたから。」祖父の蔵帳面は、こういう時によく働く。

母は店に入るなり口元を押さえた。

「まあ、まあ。素敵じゃないの?」

壁の写真を1枚ずつ眺め、読書スペースの本棚に感激し、硬いプリンに目を細めた。父は最初居心地が悪そうだったが、コーヒーを一口飲んで「うまいな」と小さく言った。光一さんへの、あの人なりの詫びなのかもしれなかった。

リサは1時間遅れて現れた。黒いコートに、見覚えのある1カラット。手放したはずだと思ったが、まだ指にあった。売るに売れないのか、意地なのか。

「何これ?パーティー?」

店内を見回したリサは、ふんと鼻を鳴らした。

「改装したんだって。ちょっと綺麗になっただけで、古い喫茶店には変わりないじゃない?よくこんなところで50年のお祝いなんてやる気になるわね。」

「リサ、座りなさい。」

父にたしなめられ、端の席に着いた。近くで見ると、化粧の下の顔色はさえなかった。爪の飾りも、根元が伸びている。それでも、リサは意地を張ったままだった。

「私、コーヒーは苦手なの。もっとちゃんとした店の、酸味のあるやつしか飲めないのよ。」

「では、紅茶を入れますね。」

絵里ちゃんが細やかに流す。リサは返事もせず、運ばれたホットケーキを写真だけ撮って、一口も食べなかった。

「ねえ、お姉ちゃん。いつまでこの店続けるの?若い客なんて、どうせ一時のブームでしょ。飽きられたら終わりよ。」

「そうならないように、みんなで工夫してるの。」

「ふうん。ま、頑張って。私、こういうしけた商売見てるだけで、気が滅入るけど。」

祝いの席でこれなのだから、大した一貫性だ。祝いの間も、リサはスマホから顔を上げたのは数えるほどだった。

ケーキの前に、両親が並んで頭を下げた。

「50年、ありがとうございました。」

母が言い、常連さんたちが拍手をした。父は50年前と同じ深煎りを一口飲んで、目をしばたかせた。

「ああ。この味だ。おやじさんの入れたやつだ。」

「配合帳の通りに入れました。祖父も喜んでいると思います。」

光一さんの言葉に、父は何か言いかけて、黙って2口目を飲んだ。

いい祝いだった。この後に起きたことさえなければ、完璧な日だった。夕方近く、店の扉が控えめに開いた。

「お楽しみのところ、恐れ入ります。オーナー、月次のご報告だけ置かせてください。」

小野寺さんだった。月末の報告をその月のうちに届ける取り決めで、祝いの席とは知らずに来てしまったらしい。光一さんはカウンターの端で書類を受け取り、いつものように目を通して判を押した。そのやり取りを、リサの目が追っていた。書類はクリップで止められ、カウンターの端に置かれた。一番上の紙の、太字の一行が見える位置だった。「今月の家賃収入合計 約300万円」。リサの席はちょうど、その斜め向かいだった。スマホを持つ手が止まる。細めた目が、紙の上を2度3度と往復する。

折しも、2階の居酒屋のご主人が、祝いの花を持って降りてきた。

「オーナー、奥さん、お邪魔します。ご両親の50年、おめでとうございます。いや、うちもこのビルには30年もお世話になりっぱなしで。」

「オーナーって、誰のこと?」

リサの声はかすれていた。ご主人はぽかんとして、カウンターの光一さんを手のひらで示した。

「こ、これって、マスターですよ。このビル丸ごと、青柳さんの持ち物だもの。駐車場も裏の土地もね。この辺で青柳さんを知らないのは、もぐりだ。」

店の時計の音が、やけに大きく聞こえた。リサはゆっくりと首を回し、光一さんを見た。古びた前かけの、質素な店主を。それから壁の白黒写真を、磨かれたカウンターを、窓の外の駅前通りを、じんぐりと見た。目の色が、見る間に変わっていった。膝の上のスマホが、せわしなく動き始める。盗み見るつもりはなかったが、隣の席からは嫌でも見えた。検索の窓に「駅前、ビル、青柳」と打ち込まれていく。地図が出て、路線図か何かの画面が出て、指の動きが止まった。リサは電卓の画面を開いた。桁の多い数字を打っては消し、打っては消している。あの綴じ込みを見た日の私と、やっていることは同じだった。ただ、浮かべている表情だけが決定的に違った。私は動けなくなったのに、妹は下の者の値踏みをするような顔をしていた。

やがてリサは席を立ち、「お手洗い」と言って奥へ消えた。戻ってきたのは10分も経ってからだった。その間に裏で何をしていたのかは、後で分かることになる。私はその一部を、嫌な汗と一緒に見ていた。

「ねえ。」

リサが椅子を鳴らして立ち上がる。口元だけで笑って、猫なで声を出した。

「光一さんって、呼んでもいいかしら。」

その瞬間、私は悟った。この祝いの日は、もう祝いの日では終わらない。

「光一さんって、本当に素敵な方よね。私、初めて会った時からそう思ってたの。」

初めて会った時とは、正月に面と向かって「腰の低い旦那さん」と放ったあの日のことだろうか。誰もが耳を疑う中、リサは臆面もなくカウンターへ近づいていった。

「お兄さんなんて、他人行儀よね。光一さん。疲れでしょ?私がお酌でもしましょうか?あ、ここ、コーヒーの店だっけ?」

光一さんの腕に伸びかけた手は、彼が盆を置く自然な動きでかわされた。光一さんはカウンターの中から出てくると、私の隣の椅子に腰を下ろす。それでもリサはめげない。テーブルの脇まで追ってきて、声を一段甘くした。

「さっきの書類の方、管理会社さん。ふーん。そういう方がいらっしゃるのね。ビルの管理って大変でしょ?私、そういう事務のお仕事、得意なのよ。」

さっきまで「しけた商売」と言っていた口が、「事務のお仕事、得意なのよ」である。常連さんたちはあきれ顔になり、絵里ちゃんは盆を抱えたまま固まっていた。

「本当は、私、最初から光一さんのことが気になってたのよ。ほら、縁談の話が来た時、真っ先に私が下見に行ったでしょ。あれって、気になってた証拠じゃない?」

「下見」という名の寝巻きだったことは、この場の全員が知っている。常連さんたちが顔を見合わせ、父の眉間にしわが寄った。

「ねえ、光一さん。言いにくいんだけど、正直に言うわね。お姉ちゃんより、私の方がこの店に似合うと思わない?接客業って、花があるでしょ?私、昔から人に注目される側だったから。」

「さ、あなた、何を言ってるの?」

私が割って入ると、リサはくるりとこちらを向いた。さっきまでの猫なで声が、一段低くなった。

「お姉ちゃんこそ、何よ。大体、おかしいと思ってたのよね。」

そして、あの言葉が来た。

「その縁談は、最初から私に来たものよ。」

金婚式の祝いの席に、自分の席のカップを押しのけた妹の金切り声が響いた。

「お姉ちゃんは私の代わりだっただけでしょ。光一さんを返して。」

返して。人ではなく、物の言い方だった。母が腰を浮かせ、土倉さんが息を飲む。私は返す言葉が見つからなかった。確かにこの縁談は、元々リサに届いた話だった。その事実だけを盾に、妹は1年で結婚を横取りしに来たのだ。

「リサ、あなた、何てことを。」

母が悲鳴のような声を上げた。父も立ち上がりかけたが、リサは聞く耳を持たなかった。

「だって順番の話をしてるだけよ。縁談は私に来た。私が先。お姉ちゃんは代打。代打がのさばってんでしょ。」

「野球なら、代打はとっくにホームランを踏んでいる。指名した本人が寝ている間に。」私は内心で思った。リサは畳みかける。

「お姉ちゃんは元々おまけなんだし。あ、それとね、4回か5回、空いてる部屋あるでしょ?私、今ちょっと住むところに困ってるの。家族なんだから、無料で出してくれてもいいわよね。それと、当面の生活のこともね、家族会議しましょうね。光一さん。」

「リサ、いい加減にしないか?」

父の声も、もうリサには届かない。彼女は指を折って数え上げた。

「あとね、細かいことだけど、私、ちょっと立て替えてるお金があるの。悪い男に騙されたのよ。かわいそうでしょ。家族になるんだから、そういうのも相談に乗ってもらえるわよね。ね、大家さんなんだし。それくらい。」

部屋、生活費、借金、ついでに夫。妹の頭の中で、算盤の玉が景気良く弾いているのが見えるようだった。夫を取り替え、部屋をただで手に入れ、借金を片付けさせる。あの報告書の数字を見てから、まだ1時間。その間にここまで描いたのだ。ある意味、天才的ですらあった。

その時、隣にいた夫の光一さんがゆっくりと腰を上げた。穏やかな目のまま、妹をまっすぐに見る。

「あなたが欲しいのは、僕ではなく、このビルと毎月300万円の家賃収入ですよね。」

リサの顔から、血の気が引いていく。

「何のことだか。」

「先ほどからあなたの目は、私ではなく、あの報告書ばかり見ています。」

光一さんはカウンターを回り、レジの下の金庫から古い革の鞄を取り出した。分厚い書類の綴じ込みが、祝いのテーブルの上に開かれる。全部事項証明書。土地、建物。元教師のおじいさんが眼鏡を持ち上げ、杖のおばあさんが小さく息を飲んだ。常連さんたちにとっても、マスターの正体を目の当たりにするのは初めてのことだった。

「当規模です。ご覧の通り、このビルと土地は、祖父の代から我が家のものです。あなたが1年前に車から降りもせずに値踏みして捨てた、古びた喫茶店の店主。それが私です。」

リサは紙の上の名義の欄を、食い入るように見つめた。青柳光一。青柳光一。青柳光一。何枚めくっても、同じ名前が続く。

「嘘でしょ、こんなの。素人を騙す商売なのね。」

部屋の隅から、遠慮がちな声がかかった。まだ帰りそびれていた小野寺さんだった。

「あの、管理会社の者として申し上げますが、小社は青柳オーナーの所有です。私どもが50年、管理を預かりしていますので。」

「それに、登記は法務局で誰でも取れるのよ。疑うなら、自分で取ってみなさい。」

そう付け加えたのは、私だった。

「お姉ちゃんも、書類の味方なら経理の姉の方が年季が入ってるわよ。」

「嘘だって。あんた、軽自動車に乗って。」

「車は、荷物が詰めれば十分ですので。」

半年前の私と同じ問答を、妹は蒼白な顔でなぞっていた。ただし、私の時と違って、光一さんの目は笑っていなかった。

「それで、今、何とおっしゃいましたか?『返して』と聞こえましたが。」

店の空気が張り詰めた。リサの唇が震えて、言葉にならない音を漏らす。

「わ、私は、その。」

「あなたは1年前、私に会いもせずに縁談を断った。それ自体は構いません。ご縁とは、そういうものです。ですが、伺いたい。」

光一さんは登記の綴じ込みを、とんと指で叩いた。

「あなたが返してほしいのは、会ったこともなかった私ですか?それとも、たった今知ったこの財産の中身ですか?」

答えられるはずがなかった。答えは、この場の全員がとっくに知っていた。その沈黙の中で、椅子を引く音が1つした。土倉さんが立ち上がっていた。

「英子さん、私の口から言わせていただいてもいいかしら?」

土倉さんの声は穏やかで、それだけに逃げ場がなかった。

「1年前、あなたはこの縁談をお断りになった。それは構わないの。ご縁は、無理するものではないから。でもね、あなたが私によこしたお断りの言葉を、私は一言一句覚えていますよ。」

土倉さんはリサを見据えたまま、ゆっくりと言った。

「『古びた喫茶店の男なんて、貧乏に決まっている』。そうおっしゃいましたね。それから、こうも。『姉がいないから、あんな店でも喜ぶはず。あれはお姉ちゃんにちょうどいい』と。」

店の中がざわめいた。母が両手で顔を覆う。リサは目を泳がせた。

「言ってない。そんな言い方はしてない。」

土倉さんは着物のたもとから、使い込んだ手帳を取り出した。老眼鏡をかけ、ページをめくる。

「2月16日、夜8時過ぎ。リサさんからお電話。以下、そのまま読みますよ。『古びた喫茶店の男なんて、貧乏に決まってる。正式に会うだけ時間の無駄。あんたなら相手がいないから、あんな店でも喜ぶはず。あれはお姉ちゃんにちょうどいい』以上。」

「書いたからって、証拠になんて。」

「電話を切った後、あまりに悔しくて、書き留めたの。仲介業を30年やってて、あんなお断りは初めてでしたからね。それにね、リサさん。」

土倉さんは老眼鏡を外し、まっすぐにリサを見た。

「あなた、今、この場で、一体何様の話をするお立場かしら?ついさっき、みんなの前で何をおっしゃったか、もうお忘れ?」

土倉さんは続けた。断られた話をそのまま伝えれば光一さんが傷つく。だから言葉を選んで伝えたこと。それでも光一さんは察していたこと。その上で謝りに来た姉の方の人柄に触れて、「もう一度だけ人を信じてみる」と言ったこと。

「あなたが捨てた縁談を、お姉さんが拾ったんじゃありませんよ。あなたが投げ捨てた人の値打ちを、お姉さんだけが見抜いたの。それだけの話です。」

仲介業を30年勤めた人の言葉には、判決のような重みがあった。そこへ、盆を胸に抱えた絵里ちゃんが、声を絞り出すように口を開いた。

「あの、私からもいいですか?」

絵里ちゃんはリサを指差しそうになる手を抑えて、震える声で言った。

「さっき、台所で、私、その方に言われました。『私は本当はここの奥さんになるはずだった女なの』って。『空いてる部屋を使わせてもらうから、鍵の場所を教えて』って。それから、小寺さんにも同じことを言って、家賃の額をしつこく聞いてたって。」

小寺さんが、気まずそうにうなずいた。祝いの席の裏で、リサはもう住人気取りで動き回っていたのだ。

「違うの。あれは、その、冗談で。」

「絵里ちゃんは、笑っていませんでしたよ。台所の隅で、真っ青になって立っていました。」

私が言うと、絵里ちゃんは目を潤ませてうなずいた。26歳の子を脅すように窓際へ追い込んで、鍵の場所を吐かせようとした。それが、妹の言う「冗談」だった。

「リサ、あなたって人は。」

父がうめいた。母は椅子に沈み込むように座って、口元をハンカチで押さえていた。50年の祝いの日に、末娘の正体を最前列で見せられている。2人の姿から目をそらしたくなるほど、それは残酷な光景だった。

リサは追い詰められた顔で店内を見回し、最後に私を睨んだ。

「何よ。みんなして私を悪者にして。お姉ちゃんが黙って男を取ったのが先でしょ。」

もう限界だった。私は妹の正面に立った。48年間、一度も言えなかった言葉を、1つずつ口に出した。

「私は、あなたから光一さんを奪っていない。あなたが店の外観だけを見て、会いもせずに自分から断ったの、忘れたの?『私に代わりに行けばいい』と言ったのは、あなたよ。『相手もいないんだし、場所だけは手に入るでしょ』って。」

「それは、だってあの時は。」

「あの時は、価値がないと思ったのよね。だから捨てた。価値があると分かったから、返せという。あなたにとって人は、ずっと値札のついた品物なのよ。」

リサの目が泳ぐ。私は一歩も引かなかった。

「教えてあげる。光一さんの値打ちは、1年前から何ひとつ変わってない。変わったのは、あなたに見えている値札だけ。」

「うるさいわね。綺麗事ばっかり。」

「綺麗事で言ってるんじゃないの?私は、あの登記を見る前に、この人と結婚を決めたの。あなたは、登記を見た後で、返せと言い出した。それが全部よ。」

店の中は静まり返っていた。私は最後の言葉を口にした。

「今、あなたが惜しんでいるのは、光一さんじゃない。このビルと、月300万でしょ。」

図星を刺されて、リサの顔が真っ赤に染まった。

「そうよ。それの何が悪いのよ。」

開き直りの叫びが、店中に響いた。

「姉のくせに、地味で、取り柄もなくて、私の引き立て役だったくせに。私より幸せになるなんて、許せない。」

ああ、と思った。これが42年間の、妹の腹の底にあったものだ。悲しいくらいに、すとんと腑に落ちた。

「言いたいことは、それで全部?」

私は驚くほど冷静だった。込み上げるものはあったが、声は震えなかった。48年分の言葉が、順番待ちをしていた。

「さ、あなた。お母さんの病院に、一度でも付き添ったことがある?月に一度よ。週に一度、20年、全部私。実家の炊事も掃除もおせちも。あなたが『姉は便利だ』と言っていた時間のひとつひとつが、私の人生だった。」

「そ、それは、お姉ちゃんが勝手に。」

「そうね、勝手にやってきた。家族だから、姉だからって。でもね。」

私は息を吸った。

「今日で、『姉だから』という理由で我慢するのはやめる。あなたの借金の肩代わりも、送り迎えの当てにされるのも、引き立て役も、今日でおしまい。これから先、私たち夫婦の生活には、一切関わらないで。」

「な、何それ?姉妹でしょ?家族でしょ?」

「『家族』という言葉は、あなたが得をする時だけ出てくるのね。」

リサが何か言い返そうとした時だった。それまで黙って聞いていた光一さんが、一歩前に出て、妹に向き直った。

「リサさん。まず、お伝えしておきます。」

光一さんの声は低く、静かだった。怒り声よりも、よほど重かった。

「1年前、あなたに断られたことを、私は恨んでいません。むしろ、感謝しています。おかげで、みかさんと出会えましたから。」

リサの顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。それを見届けてから、光一さんは続けた。

「ですが、財産を知った途端に手のひらを返し、妻を追い出して自分が収まろうとする人を、家族として受け入れることはできません。」

「手のひらなんて返してない。私はただ、その。」

「『部屋を無料で使わせろ』『家賃の額を教えろ』『私は本来ここの奥さんのはずだった』。今日1日で、あなたが従業員と管理会社に行って回った言葉です。」

「何よ。ちょっと部屋の話をしただけじゃない。冗談も通じないの?」

「冗談かどうかは、この1年のあなたの言葉が教えてくれます。『貧乏に決まっている』『あれはお姉ちゃんにちょうどいい』『コーヒーとトースト生活』『しけた商売』。よく覚えています。隣で直接聞いたものもあれば、妻の顔色から察したもの。今日この場で明かされたものもありますが。」

光一さんは一息置いて、こう続けた。

「実は、拓也さんの一連の出来事を伺ってから、こうなる日が来るかもしれないと考えていました。お金に困った方が、身内の資産を知った時、何が起きるか。私は一度、経験していますので。」

そして彼は、1枚の書面をテーブルに置いた。祝いの席には似合わない、事務的な文字が並んでいた。日付は3日前。顧問弁護士の名前が欄外に記されていた。先回りは、この人の得意だった。

「警告では心もとないので、書面でお渡しします。今後、あなたの当店及びビルへの立ち入りをお断りします。妻と従業員との皆さんへの接触も、ご遠慮ください。万一、事実と異なる話を言い広めたり、営業を妨害するようなことがあれば、顧問をお願いしている弁護士を通じて、正式に対応いたします。」

立ち入り禁止。接触禁止。法的対応。1つ読み上げるごとに、リサの顔から表情が抜け落ちていった。ほんの1時間前まで「しけた商売」と見下していた店から、正式な書面で締め出される。皮肉というには、あまりにもできすぎた結末だった。

「何よ、それ?大げさよ。たった1度、縁談を断っただけで、そこまでするの。」

最後の抵抗のつもりか、リサは目に涙を溜めた。被害者の顔は、妹の一番の得意技だけれど、光一さんには通じなかった。

「断ったことが問題なのではありません。はっきりと言います。今この瞬間も、みかさんの幸せを奪おうとしていることが、問題なんです。」

店の中の、誰もリサをかばわなかった。父も、母も、土倉さんも。42年間、必ず誰かがかばってくれた妹にとって、それは生まれて初めての景色だったと思う。

「お父さん、お母さん、何とか言ってよ。私、追い出されるのよ。」

すがる先を、間違えていた。父は腕を組んだまま目を閉じ、母は畳んだハンカチを握りしめて首を横に振った。

「リサ。今日という今日は、母さん、あんたが恥ずかしい。」

その一言が、とどめだった。リサはコートをひったくるように掴んで、扉へ向かった。閉まる寸前、捨て台詞だけは忘れなかった。

「覚えてなさいよ。みんなに言いふらしてやるから。」

カウベルが乱暴に鳴って、静かになった。誰かのため息が聞こえた。杖のおばあさんが、誰にともなく言った。

「マスター、奥さん。うちの孫にもね、ああはなるなよって言い聞かせますよ。」

張りつめていた空気が、それでようやく緩んだ。両親は光一さんに何度となく頭を下げ、光一さんはその度に「金婚式の日に申し訳ありませんでした」と逆に詫びた。誰も悪くない詫び合いほど、切ないものはない。

その言葉通り、リサは数日のうちに親戚や友人へ電話をかけまくったらしい。「姉が私の婚約者を奪った」「本来は私がビルオーナーの妻になるはずだった」「騙されたのは私の方だ」と。最初の数日は、間に受ける人もいた。おばから私に「あんた、それは本当なのかい」と探りの電話が来たくらいだ。「婚約者を奪う」という筋書きは、尾ひれが付きやすいから。だが、嘘は長持ちしなかった。親戚には、両親と土倉さんが本当の経緯を説明して回ってくれた。とどめは、リサ自身の古いメッセージだった。縁談の当時、リサが友人に送っていた文面を、呆れた友人がみんなに見せたのだ。「姉にはボロ喫茶店の男がお似合い。私はもっと金持ちを選ぶから。」写真付きだった。あの日、車の中から撮ったこもれびの外観と一緒に。「友達に送ってあげるの」と笑っていた1枚が、1年後に本人の首を絞めた。日付も残っていた。縁談を断った、まさにその週のものだった。自分から捨てた相手が資産家だと知って、姉から奪おうとした女。リサの評判は、1週間でそこまで落ちた。仲の良かった友人にまで「あなた、昔から人を金で見るところがあったものね」と痛んばされたという。被害者面を装うことすら、妹にはもうできなくなった。

4月の初め、リサは実家に泣きついた。450万の借金を、何とかしてほしいと。カードの引き落としが立て続けに来て、督促の封筒が郵便受けに並び始めていた。これまでの両親なら、黙って通帳を出しただろう。車の頭金も、バッグのローンも。そうやって何食わぬ顔で消えてきた。だが、今度ばかりは違った。金婚式の祝いの席で、両親は末娘の正体を見てしまっていた。その場には、母の進めで土倉さんも同席したという。「身内だけでは、また甘やかして流されるから」と。

「リサ。みかに姉の働きを押し付けたつもりでいたのは、お前だ。」

父はそう言ったそうだ。

「外れだと思った相手に、今度は媚びて、姉から奪おうとした。その結果まで、みかや私たちに背負わせるな。自分で作った借金は、自分で返しなさい。」

母も、初めて首を縦に振らなかった。リサは泣き、怒鳴り、最後は昔のように甘えた声を出したそうだ。それでも、2人は動かなかった。ただし、突き放すだけでもなかった。父は区役所の債務相談の窓口を調べて紙に書き、母は米と味噌を持たせた。「生活は取り上げない。ただし、金銭的な援助はもうしない。」それが両親の出した答えだった。長年リサのために崩れてきた両親の貯蓄は、これからの2人の老後のために使う。そう決めたのだと、後から電話で聞いた。

「今まで、あんたにばかり我慢をさせてきたから。」

電話口の母の声は、詫びと決意が半分ずつだった。こうして妹は、生まれて初めて誰の助けもなしに、自分の後始末と向き合うことになった。

それから聞こえてくる妹の消息は、全部が伝聞だ。5月には都心のマンションを引き払い、郊外の古いアパートに移ったという。ブランドのバッグも、家具も、あの1カラットの指輪も、買い取り店に持ち込んだらしい。区役所の相談窓口で組み直した返済の計画は、月々5万円ずつ。何年も先まで続くそうだ。昼はジムのパート。夜と週末は、飲食店の厨房で働いていると聞く。華やかだったSNSのアカウントは、いつの間にか消えていた。写真に撮れるものだけでできていた幸せは、写真ごと消えてしまった。親戚付き合いからも、友人の輪からも、リサの名前は聞こえなくなった。

「古い喫茶店で働くなんて、惨め。」かつてそう笑った妹が、油の匂いのする厨房で頭を下げて、皿を洗っている。誰かが仕組んだ罰ではない。妹が自分で選び続けた道の、行き着いた先がそこだった。

1度だけ、絵里ちゃんが見たと教えてくれた。閉店間際の夕暮れ、仕事帰りらしいが、店の前で足を止めていたという。窓の中の明かりを眺めて、入口に手を伸ばしかけて、やめて、帰って行ったと。「立ち入り禁止」を思い出したのか、それとも窓に見えた景色のせいか。外れと呼んで捨てた場所が、大勢の人の笑い声で溢れている。その意味を、妹は歩道の影でどう飲み込んだのだろう。確かめる術は、もうない。それでいいのだと思っている。妹の人生の宿題は、妹が解くしかないのだから。

その頃のこもれ火は、いつも人手でいっぱいだった。読書会は月2回に増えた。持ち寄りの会は、商店街の恒例になった。絵里ちゃんの発案で始めた日替わりランチは、開店前から並ぶ人が出るほどになった。古い常連さんと若いお客さんが、同じ椅子で笑っている。妹が3分で値踏みしたこの店は、こんなにも多くの人に愛される場所になった。母は月に1度、通院の帰りに店へ寄るようになった。窓際の席で桜餅と紅茶を頼み、杖のおばあさんとすっかり友達になっている。父も時々ついてきて、居心地悪そうにコーヒーを飲んで帰る。「うまいな」の一言だけは、毎回置いていく。

「あんたの顔を見に来てるのよ。本当はね。」

母は笑ってそう言った。実家との縁は、妹を除いて、前よりずっと風通しが良くなった。

秋の初め、光一さんが1冊の通帳を私の前に置いた。

「これ、君に返さないと。」

通帳の名義は、私だった。結婚してすぐ「手続きがあるから」と銀行の窓口に付き合わされた日があった。あの時作った積み立て口座の通帳を、彼はずっと預かっていたのだ。開くと、毎月5万円の入金が、あの申し出の月から一度も欠かさず並んでいた。私が意地で払い続けた家賃を、彼は1円も使わず、私名義で積み立てていたのだ。

「最初に家賃を払うと言ってくれた時、分かったんです。君は、財産ではなく、僕と一緒に生活しようとしてくれているんだ、と。だから、このお金は使えませんでした。」

「じゃあ、これ、どうするんですか?」

「2人の旅行代にしませんか?京都の、本の多い宿がいいな。」

笑い合ってから、光一さんは真顔になっていった。

「僕にとっての一番の財産は、このビルではなく、君だよ。」

ずるい人だ。こういうことを、前かけ姿で言うのだから。

「私もね、光一さん。妹の代わりとして始まった縁談だったけど、今の私は、誰かの代わりじゃない。」

「知っています。自分で選んだ人と、自分で選んだ人生を歩いてる。それが、今一番の自慢なの。」

「では、これからも家賃はお預かりします。2人の旅行積み立てとして。」

「よろしくお願いします、大家さん。」

そんな冗談を言い合える夜が、48年待った私のところへ、ちゃんと来てくれた。

翌朝も、こもれびはいつも通りに開く。光一さんが鍵を開け、私が表の看板を出す。日に焼けた木の看板は、祖父の代から同じ場所で朝日を浴びてきた。妹が値踏みした色あせも、ほつれた日よけもそのままだ。変わったのは、店の外側ではなく、ここに集まる人の数と、私の人生の方だった。

磨き込まれた木の上を、指でそっと撫でる。

「いらっしゃいませ。」

最初の客は、杖のおばあさんだ。「おはよう」の声とコーヒーの香りで、店の1日が始まる。今日は読書会の日で、午後には母も通院帰りに寄るはずだ。窓際の席に、秋の柔らかな朝日が差し込んでいる。

この店の看板を、これからも2人で出し続けていきたい。

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