手首に縄が食い込んでいた。この口の利けない下働きが、若様を毒殺しようと企んでいたのだ——古兵の声が中庭に響いた。だが、地面に膝をついて泣いていたのは、罪人ではなかった。若君がこの男のために頭を下げていたのだ。なぜ死にかけた若君が、下働きのために頭を下げたのか。物語は、あの奇妙な婚礼の日へと遡る。
昔々、江戸時代のある栄えた町に、王将という格式高い家がありました。代々大役を務めてきた家柄で、堂々たる表門、広い中庭、米蔵には米がぎっしりと詰まり、長屋には多くの奉公人が暮らしていました。しかし、この大きな屋敷には暗い影がひとつ差していました。本家の跡取りである若君は、21歳の聡明な顔立ちで遠方にまで名が轟く若き当主。それが、ある時期から原因も分からず体調を崩し、今では床から体を起こすこともできなくなっていたのです。
「奇妙なことだ。薬を用いれば用いるほど、若様がどんどん衰えていかれる」
人々は声を潜めて噂しました。名医が三人も訪れたが、誰一人として病名を突き止められませんでした。その言葉の終わりには、口に出せない恐ろしい疑念が漂っていました。
この本家には、叔父が一人おりました。古兵、45歳。亡き父親の弟に当たる男です。絹の着物をまとい、表向きは慈悲深い顔をしていました。しかし、その仮面の裏には、冷酷な歯が隠されていたのです。古兵は古くからこの本家の家督を乗っ取る算段を立てており、若君を少しずつ毒で衰弱させ、最後には死に至らしめようとしていました。その汚れた役目を担ったのが、手下の吾助です。38歳のがっしりした男で、方に深い刀傷の跡がありました。古兵の影のように従い、夜な夜な若君の薬に毒を仕込むのが吾助の役目でした。
古兵は誰よりも若君を心配しているような振る舞いをしていました。病に伏せる若君を懸命に世話する情の熱い叔父——それこそが古兵の仮面でした。人々はそんな古兵を賞賛しました。ただ一人、老僕の右兵衛だけは、その姿を見るたびに背筋が凍る思いがしていました。60を超えた古参の奉公人で、若君が赤ん坊だった頃からこの屋敷に仕えてきた男です。しかし、一介の奉公人に何ができたでしょうか。ただ口を閉ざし、若君の傍らを守るばかりでした。
この屋敷に、早吉という名の若い者がおりました。18歳。台所の雑用を一心に引き受ける者です。灰色の粗末な着物に、継ぎの当たった前掛けを締め、いつも目を伏せて歩いていました。耳が聞こえず、口が利けない。屋敷で最も身分の低い者と言われていました。しかし、前髪の下から覗くその瞳は、晴れ渡った秋の空のように清らかでした。
そんなある日、屋敷に大きな出来事が持ち上がりました。若君の婚礼が決まったのです。死ぬ前にせめて添い遂げさせてやろうと親族の間で話が持ち上がり、隣町の格式高い家柄の娘・美登利との婚儀が急ぎ取り決められました。古兵は誰よりも先頭に立ってこの話を押し進めました。若君が亡くなった後、その死の責任を誰かに擦り付けるための身代わりが必要だったのです。薬を最も近くで飲ませる妻こそ、その役目にうってつけでした。
ついに婚礼の日がやってきました。中庭に畳席が敷かれ、祝いの膳が整えられましたが、死にかけた花婿のこととて、華やかな賑わいはありません。若君は抱き抱えられるようにしてようやく庭に姿を現しました。血色のない顔、落ち窪んだ姿は、見るに耐えないものでした。
ところが、肝心の花嫁がやってきません。時間が流れても、花嫁の行列の影も形もない。しばらくして戻ってきた奉公人が真っ青な顔で報告しました。
「花嫁が、逃げ出したとのことにございます」
庭がひっくり返るような大騒ぎになりました。夜明け前に荷物をまとめて逃げ去ったのです。美登利は、死にかけた男と契りを交わし早々に後家になるのはごめんだと思ったのです。
人々がどうしていいか分からず慌てふためく中、古兵が我が意を得たりとばかりに進み出ました。
「このまま婚礼を中止にしては恥さらしだ。花婿の身代わりに座らせる者を連れて参れ」
古兵の視線は台所の方へと向けられました。
「どうせなら、口が利けず字も読めぬ下働きが良い」
若君が死んでその罪をなすりつける時、自分の口で弁明すらできない操り人形。古兵は早吉を指差しました。
奉公人たちが駆け寄り、早吉を庭の真ん中へと引きずり出しました。まさにその時でした。支えられて座っていた若君が、ゆっくりと頭を上げ、震える手を持ち上げ、引きずり出された早吉を指差しました。そして、乾いた唇を開き、はっきりと告げたのです。
「あの者を連れて参れ。私の花嫁は、あの者と決めた」
庭中が水を打ったように静まり返りました。
「どうしてよりによって、あの口の利けない下働きなどとおっしゃるのですか?」
しかし、若君の目に迷いはありませんでした。古兵は心の中で歓喜しました。己の足であの下男を選ぶとは、事がより容易になったわ。しかし、表向きはわざとらしく引き止める素振りを見せました。
「御仁、若様……」
若君の声は細かったですが、芯が通っていました。
「私の妻は私が選びます。あの者でなくてはなりませぬ」
若君自身も、自分の心の全てを理解していたわけではありません。しかし、死を目前にした女の目に、あの下働きの何かが飛び込んできたのです。頭を垂れたその姿の中に、決して揺らぐことのない深い佇まいがありました。
こうして奇妙極まる婚礼が執り行われました。早吉は押し出されるようにして若君と向かい合い、三三九度の杯を交わしました。見物していた人々は首を傾げました。これが何の縁だ。三ヶ月ともつまい。誰もこの婚姻を本物だとは思いませんでした。ただ、王将の体面を保つための形ばかりの儀式に過ぎないと考えていたのです。しかし、三三九度の杯を交わしていた早吉の瞳が、その瞬間深く揺れ動きました。頭を垂れたまま、早吉は若君の血の気のない顔をじっと見つめていました。そして、ある一つのことをすでに察していたのです。あの方の病は、決してただの病ではないということを。
婚礼が終わり、早吉は死にかけた妻の夫として奥の間へと入りました。その夜、早吉は初めて若君の部屋に一人静かに座っていました。淡い灯りの下、病に伏せる妻が苦しげに息を荒げて横たわっています。夜更け、障子の向こうから気配が近づくと、早吉は素早く首を垂れ、いつものように何も聞こえないふりをしました。障子がするりと開き、吾助が入ってきました。その手には薬の乗った盆がありました。
「若様の薬だ。邪魔をするな」
吾助は荒々しく言い放ちました。早吉はぽかんと座ったまま、横へ身を引きました。吾助は薬を枕元に置き、懐から小さな紙包みを取り出しました。早吉は眠ったふりをしながら、横目でその様子をはっきりと見届けました。灯りの光に、吾助の手が怪しく動きました。紙包みが広げられ、中から白っぽい粉がさらさらとこぼれ落ちました。吾助はその粉を薬の中へ容赦なく振り落としたのです。
「さあ、今日もひとさじ。旦那様のお達し通り、一歩一歩着実に片付けねばな」
早吉の背筋に氷のような戦慄が走りました。誰かに命じられ、来る日も来る日もこの若君に少しずつ毒を盛っている——その事実に。あの粉の色合い、あの細かく滑らかな質感。あれは人の命をじわじわと奪う毒物でした。吾助は薬を早吉の方へ押しやり、若君に飲ませろと顎をしゃくると、部屋を出て行きました。
障子が閉まった瞬間、早吉は張り詰めていた息を大きく吐き出しました。指先が震えていました。早吉は薬を見つめました。この薬を妻に飲ませるわけには参りません。早吉は部屋の隅の空の器に毒入りの薬を移し替え、代わりに湯冷ましを飲ませる算段を立てたのです。早吉が慎重に薬を持ち上げた、まさにその時でした。障子が音を立てて激しく開いたのです。出て行ったはずの吾助が、突然引き返してきました。
「おっと、空の紙包みを忘れておったわ」
吾助が床をきょろきょろと見回しました。早吉はそのまま凍りつきました。もし吾助がその手元を見たなら、薬をすり替えようとしていたことが一目で露見したでしょう。その場で破滅でございました。早吉は瞬間のうちに頭を巡らせました。持っていた薬をそのまま妻の口元へと運びました。あたかも今まさに飲ませようとしていたところであるかのように見せかけ、若君の唇に杯をそっと傾けました。吾助が顔を上げ、その様子を目にしました。
「薬を飲ませておるのか。よし。そのまま、一滴も残さず飲ませるのだぞ」
吾助は落ちていた紙包みを拾い上げ、満足そうに鼻を鳴らして、今度こそ部屋を去って行きました。早吉は実際には一滴も喉に流し込んではおりません。ただ若君の唇を濡らしただけの巧妙な芝居でございました。障子が閉まると、早吉は全身の力が抜けていくのを感じました。背中にはぐっしょりと汗が滲んでいました。
早吉には、誰にも明かしていない大きな秘密がございました。彼は元々武家に生まれた若者であり、耳が聞こえず口が利けないというのも、全て身を守るための偽りだったのです。父は巧妙な医師として知られ、その技術は並ぶものがないとまで謳われたお方でした。草を知り、薬を知り、人の病の本質を見通す目を持っておられました。早吉は幼い頃から父の傍らで育ち、薬と毒の知識を全て父の背中から学んでおりました。毒を知らねば、人を救う薬も分からぬ。同じ草であっても、使い方次第で人を生かしもすれば殺しもする。父はよくそう言いました。
早吉が16の年を迎えた時、家に恐ろしい厄災が降りかかりました。父がある大名家の権力争いに巻き込まれ、身に覚えのない無実の罪を着せられたのです。誤って人を死に至らしめたという事実無根の咎によるものでした。名家の家は一夜にして崩れました。父は牢に囚われ、過酷な取り調べの末に亡くなりました。母もその悲しみのあまり後を追いました。奉公人たちは散り散りになり、全財産は没収されました。早吉は一夜にして天涯孤独の身となったのです。
死の手から逃れ出た早吉を連れ出してくれたのは、幼い頃から家に仕えていた年老いた下僕でした。老人は早吉に見すぼらしい着物を着せ、その顔に炭を擦りつけ、涙ながらに言い含めました。
「若様、これからは耳が聞こえず、口も利けぬ哀れな者のふりをなされませ。罪人の息子が生きていると知れば、すぐに命を奪われてしまいます。言葉を発すれば育ちの言葉遣いが滲み出ますし、文字を知っていればすぐに正体が知れてしまいます。どうか、何も聞こえず、何も話せぬ者として身を隠しておきなさい」
老人はそう言い残し、早吉を逃すために身代わりとなって亡くなりました。あの日を境に、誇り高き家の息子は、ただの物言わぬ下働きとしての早吉として生まれ変わったのです。
行く当てもなく流浪の末、飢えと寒さでこの武家屋敷の門の前に倒れていたところを、優しい老僕の右兵衛が救い上げてくれました。こうして2年の月日を、身分を潜めて生きてきた早吉でした。誰にも心を許さず、誰のことにも関わらず、ただ影のように生きてきました。それだけが生き残るための唯一の道だったからです。それなのに、よりによって死にかけている若君の夫となり、あろうことかその若君を毒殺しようとする陰謀をこの目で目撃してしまったのでした。
早吉は眠り続ける妻の顔を見つめながら、心の中で激しく葛藤していました。見逃していれば、それで済むことだ。しかし、次の瞬間、早吉は首を横に振りました。婚礼の庭でこのお方が私を指差した、あの時の眼差し。死にかけながらも、あれほど澄んだ光を放っていたあの瞳。私はどうしても、あの方を救うのだ。東の空が白み始める頃、早吉は固く心を決めました。このお方を、私の手で救って見せると。
翌日から、早吉の密かな戦いが始まりました。吾助が毒入りの薬を持ってくるたび、早吉は吾助の目の前でその薬を口元へと運ぶ仕草を見せました。しかし、実際には一滴も喉に流し込まず、吾助が去るとすぐ毒を別の器へ移し替え、台所仕事の合間に野山で密かに摘んできた薬草から煎じた本物の解毒薬を妻に飲ませたのです。早吉の手際の鮮やかさは、流れる水のように自然で淀みがありませんでした。吾助は、自分が目の前で完璧に騙されているとは気づくことはできませんでした。それから幾日も、吾助が毒を運び、早吉がそれを捨てて薬を変える攻防が続きました。
しかし、早吉とて決して心から安心はできません。いつどの瞬間に、暗闇からこの命の綱が断ち切られるか分からない。台所仕事のわずかな合間を縫っては、人目を盗んで近くの野原へと足を運び、薬草を摘み集めました。誰もその姿に不審を抱くものはおりません。ただの物言わぬ飯使いが野草を摘んでいるのだろうと、高を括っていたのです。しかし早吉が命がけで持ち帰ったのは、体内の毒を消し去り、衰弱した気力を呼び覚ますための尊い薬草の数々でございました。
ところが3日が経過しても、若君の容態は良くなるどころか、むしろ悪化していく一方でした。早吉は胸が締め付けられるような恐怖を覚えました。なぜ逆に悪化してしまうのか。早吉は吾助が捨てていった紙包みの残りの粉を、改めて灯りの光の下で凝視めました。その時、早吉は息を飲みました。この毒は一種類ではなかったのです。もう一種、別の珍しい毒草の汁を乾燥させて混ぜ合わせてありました。二つの毒が互いの効果を補い合い、普通の解毒薬では容易に破れぬようになっていたのです。早吉が最初に用いた薬は、一つの毒だけを狙ったものでした。ゆえに、もう一つの毒が体内に残り、若君の体をさらに激しく苛めつけていたのです。
早吉は唇を強く噛みしめました。敵の悪知恵を侮っていたのです。その夜、一睡もせずに夜を明かし、二つの毒を同時に打ち消す新たな処方を死に物狂いでひねり出しました。そして再び薬草を調合し、夜明け前に新しい薬を作り上げたのです。今度こそ、早吉は祈るような心地で妻の顔色を見守りました。一日が経ちました。土色のようだった顔色に、ほんのわずかですが、確かな血の巡りが戻り始めたのです。早吉はその姿を見て、ようやく深く安堵の息を漏らしました。
しかし、この喜ばしい変化を面白く思わない者が一人おりました。古兵でございます。若君の病状が好転したという知らせに、古兵の顔色は怒りで歪みました。毒を盛らせているというのに、なぜ生きておるのだ。古兵はすぐさま吾助を呼び出し、激しく問い詰めました。それからしばらくして、古兵は吾助に命じました。
「薬の量を増やせ。さらに毒性を強め、今度こそ確実に仕留めるのだ。そして、あの下働きの動きも徹底的に見張れ」
翌日の昼下がり、古兵は奥の部屋へと入ってきました。慈悲深い仮面を被り、親しげな顔で部屋の片隅で頭を垂れて控える早吉に、鋭い視線が走りました。しばらくして、古兵は懐から一文銭を一枚取り出すと、早吉のすぐ背後、畳の上へ密かに落としたのでございます。小さく澄んだ金属音が響きました。普通の人間であれば、驚きのあまり振り返るか、せめて肩を震わせるはずでした。古兵は早吉の後ろ姿を、鷲のような目で凝視めました。部屋の中に、張り詰めた氷のような沈黙が流れました。
早吉は全身の神経を極限まで研ぎ澄ませておりました。一文銭の落ちる音は確かに耳に届いておりました。しかし、決して振り返ってはならない。早吉は息を殺し、ただ目の前の薬を煎じる道具だけを見つめ続けました。背後で何が起きようと、己れには一切関係のない世界のことであるかのように。指先ひとつ、早吉はついに微動だにしませんでした。古兵は床に落ちた一文銭を拾い上げました。鼻で笑い、半信半疑ながらもこれ以上の詮索は無用と判断し、部屋を退散することにしました。
「やはり、本当に耳が聞こえぬ……抜けか」
しかし、古兵は本気で警戒しました。あの男の動きを、今後も徹底的に見張れ。それからというもの、早吉の送る日々はまさに白刃を踏むような心地でございました。吾助は暇さえあれば奥の部屋の周囲をうろつき回ります。早吉はさらに慎重に、さらに大胆に動くことを求められました。
そんなある夜のことでございました。早吉が薄暗い台所で薬草を細かく刻んでおりますと、背後から右兵衛が足音もなく静かに近づいてまいりました。右兵衛は当たりの様子を確かめると、早吉のすぐ傍らに腰を下ろし、今にも消え入りそうな低い声で口を開いたのです。
「早吉よ。お前が若様の命を救っていることを、この老いぼれの目は誤魔化せぬぞ」
その言葉を聞いた瞬間、早吉の手が止まりました。
「驚くことはない。お前を責めたり、通報したりしようというのではないのだ。わしは長年この屋敷に仕えてきた。若様のご両親が流行病で同時に亡くなられた時、わしの胸は張り裂けそうであった。それなのに、今また唯一の後継ぎである若様までがあのような無惨な姿になられて……どうして黙って見ていられようか」
早吉は一瞬激しくためらいました。この2年間、誰一人として信用せず、孤独の中で生きてまいりました。しかし、早吉一人の手で若君を守り続けるには、すでに限界が近づいておりました。長い沈黙の末、早吉はゆっくりと顔を上げました。そして、右兵衛の目をまっすぐに見つめたのです。それはこの2年間、誰の前でも決して見せたことのない、深く強い光を宿した眼差しでございました。右兵衛は驚きで目を丸くしました。早吉はやはり一言も声は発しませんでした。その代わりに、かまどの灰で黒くなった人差し指を使い、土間の土に文字を書き始めたのです。一画一画、丁寧に刻まれていくその文字を見て、右兵衛は思わず息を飲みました。それは下賤な台所働きの下働きなどが、到底書けるようなものではありませんでした。教養ある家の者の筆跡そのものだったのです。
土間にはこう記されておりました。
「若様は毒を盛られています。毎夜運ばれてくる薬に、恐ろしい毒が混ぜられているのです」
右兵衛の両手が激しく震え始めました。
「若様は、病などではなく……毒を盛られておられたのだな」
老僕の深い目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちました。右兵衛は早吉の手を自らの両手で包み込みました。
「お前にどのような過去や事情があろうとも、お前が若様の命の恩人であることに変わりはない。この老いぼれの命、お前のために使おう」
こうして早吉は、この屋敷で初めて本物の味方を得たのでございます。2年の歳月の中で、初めて他人に心を開いた瞬間でございました。二人は頭を寄せ合い、反撃の計画を練り上げていきました。証拠を集めねばならない。早吉は毎夜運ばれてくる毒入りの薬を少量ずつ取り分け、証拠として密かに保管することにしました。一方の右兵衛は、古兵と吾助の動きを監視し、吾助が毒を盛る現場を直接押さえる役目を担いました。そして、若君の体が完全に本調子を取り戻したその瞬間に、全ての真実を明らかにして告発する計画でした。
その夜、早吉は久しぶりに心から安らかな夜を迎えました。布団で静かに眠っている妻の顔を見つめました。血色が戻り、本来の気品を取り戻しつつあるその横顔は、穏やかでございました。もう一人で戦っているのではないという事実が、早吉の背中を強く支えてくれました。一方、右兵衛は古兵と吾助の日常の動きをこれまで以上に厳しく監視し続けました。
ある日、早吉は吾助の慢心が生み出した最大の隙をつくことにしました。これまで以上に輪をかけた愚か者の振る舞いを、吾助の目の前で演じて見せたのです。口元からだらしなくよだれを垂らし、焦点の定まらぬ目で意味もなく床を何度も叩く奇妙な振る舞いを見せました。吾助はその早吉の姿を見て、完全に鼻で笑い、腹の底から見下しました。
「あのような救いのない若造が、毒の匂いなど分かるはずがねえ」
吾助は早吉の前でもはや一切の警戒を投げ捨てて、堂々と毒を盛るようになりました。物置の薄暗い障子の隙間に身を潜めた右兵衛は、その夜、吾助が薬の部屋へと忍び込む一部始終をはっきりと目撃しました。吾助は周囲の静寂を確かめるように不敵な笑みを浮かべると、懐から折り畳まれた紙包みを取り出し、中から鈍く光る粉末を薬の中へと一気に振り落としたのでございます。その決定的な瞬間を目に焼き付けた右兵衛は、あまりの怒りに全身の血が逆流するような衝撃を受けました。
早吉はまた、吾助が去った後、彼がゴミ箱の隅へ投げ捨てていった紙包みを最新の注意を払って拾い上げ、懐に納めました。その折り目には、猛毒の微細な粉末がほんのわずかですが白く付着していたのでございます。これは吾助が確かに毒物を所持し、それを扱っていたという言い逃れのできない決定的な物的証拠でございました。さらに右兵衛が吾助の後を追うと、街外れの寂れた薬屋へと足を踏み入れるのを確かめました。そこが毒の出所でございました。毒の出所から、それを取りに行く足、そして現場まで。古兵へと繋がる全ての陰謀の鎖が、一本の太い線となって浮かび上がりました。
それから数日後のこと、若君が完全に床を離れ、自らの足でしっかりと歩き始めたのでございます。誰の手を借りることもなく、一本の杖さえつかずに、自らの力で中庭へと踏み出してきたのです。それは誰の目から見ても信じがたいほどの劇的な回復ぶりでございました。屋敷内は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。
「若様がお歩きになられたぞ!」
「若様がお起きから立ち上がられた!」
長屋に詰めていた奉公人や使用人たちがこぞって中庭へ駆けつけ、歓声を上げて涙を流しました。右兵衛はあまりの嬉しさに、嬉し涙を拭うのも忘れて肩を震わせておりました。しかし右兵衛は知っておりました。この奇跡のような回復こそ、早吉が命をかけて続けてきた看護の賜物であることを。若君もまた、回復した体の中で、早吉への深い感謝の念が芽生えていることを感じておりました。言葉を交わすことはできずとも、彼が毎夜献身的に注いでくれた看護の温もりは、誰の言葉よりも雄弁に若君の心に届いていたのです。
ある穏やかな春の日のことでございました。若君が中庭に面した縁側に腰かけ、心地よい日差しを浴びながら日向ぼっこをしておりました。そこへ早吉が丁寧に煎じた温かい湯を盆に乗せて、静かに近づいてまいりました。若君は早吉の姿を見つけると、それまでの凛とした表情をすっかり崩し、自分が座っているすぐ隣の縁側をぽんぽんと手で優しく叩いたのです。ここに、私の隣に座りなさい——そういう意味でございました。早吉は一瞬、身分の違いを気にしてためらいましたが、若君の優しい眼差しに促され、おずおずと隣へと腰を下ろしました。二人は何も言わず並んで座り、春の陽光の中でしばらくの間、静かな時を過ごしました。言葉は一切ありませんでしたが、その沈黙の中で、二人の心は確かに寄り添っていたのでございます。
しかし、この屋敷中が湧き返るほどの喜びは、古兵にとっては文字通り天から雷が落ちてきたかのような大衝撃でございました。その頃、右兵衛は若君の体が十分に戻ったのを見届けると、ついに毒の真相を密かに打ち明けました。早吉が毎夜毒をすり替え、自ら煎じた薬で若君の命を繋いできたことも包み隠さず話したのでございます。三人は、古兵が決定的な動きを見せるまで何も知らぬふりを続けることにしました。ただし、万一に備え、証拠の隠し場所だけは早吉一人の胸に秘められていました。
「若君は確かに毒を毎晩欠かさず飲ませていたというのに、なぜあいつが生きて歩いているのだ」
古兵は血が滲むほどに奥歯を噛みしめました。このまま若君が完全に健康な体を取り戻してしまえば、当主の座も莫大な財産も、全てが手から零れ落ちていきます。古兵は、ただ黙って破滅を待つような男ではございませんでした。古兵は吾助を密室へと呼び寄せました。
「もはや悠長な真似はしておれん。今度は一滴で確実に命を奪う猛毒を使うのだ」
その言葉に、吾助の手が一瞬止まりました。
「旦那様、それはあまりにも無茶でございます。自然な死ではなくなってしまいます」
「だからこそ、その鈍い頭を使うのだ」
古兵は蛇のような笑みを浮かべました。吾助を使って若君を殺しつつ、その全ての罪を全く別の者に擦り付ければ済むことではないか。あの素性の知れぬ、口の利けぬ哀れな台所男のように。古兵はまず、これ見よがしに早吉を奉公人たちの前で公然と褒め上げ、若君の薬の担当者として屋敷全体に印象付けました。
「あの口の利けぬ者は、毎朝毎晩若様の薬を熱心に世話しておるではないか。これからも、若様の薬の支度は全てあの者に一任することとする」
古兵はいかにも慈悲深い翁としての偽りの笑みを浮かべて命じました。人々はただその言葉を真に受け、深く感心して頭を下げました。しかし、その賞賛の言葉こそが、早吉を逃れられぬ罠へと引きずり込むための恐ろしい仕掛けだったのでございます。後日、若君が毒で死んだ際、疑いが早吉一人に集中するよう、古兵は事前に外堀を埋めておいたのです。
吾助にとって、早吉の部屋に偽の証拠を仕込めという命令は、一瞬立ち止まるほどのものでした。
「そこまでせねばなりませぬか」
古兵が怒鳴りつけました。
「黙って従え。文句を言う立場ではなかろう」
吾助はそれ以上何も言いませんでした。しかし、その夜、吾助の胸の奥底では、言い知れぬ重さが沈み続けていたのでございます。
その夜更け、いつもとは明らかに様子の異なる薬を、吾助が捧げ持って部屋に入ってきました。早吉はその薬が運び込まれた瞬間、本能的な恐怖と共に直感しました。いつもの薬とは濁りも匂いも明らかに違います。これはこれまでの生殺しではなく、若様を一撃で仕留めるための、本物の死の毒薬だと。早吉は吾助が部屋を出た直後、すぐさまその猛毒の薬をあらかじめ隠しておいた器へと一滴も残さず移し替えました。そして代わりに清らかな煎薬を若君の口元へと運んだのでございます。反撃の準備は整いつつありました。しかし、まさにその勝利への道筋が見え始めた夜、吾助が早吉の部屋を力づくで捜索しようと乗り込んできたのでございます。
一方、古兵は毒を強めても若君が一向に死なぬことに強い疑念を抱きました。そして、ついに早吉を怪しみ、吾助を差し向けたのです。もし証拠が吾助の手に渡ってしまえば、全てが終わります。吾助は早吉の狭い部屋の障子を凄まじい音を立てて蹴り上げ、強引に踏み込んできました。早吉の体を乱暴に突き飛ばすと、棚の荷物を床にぶちまけ、狂ったように部屋をひっくり返し始めました。隠してある全ての証拠が、まさにこの薄い畳のすぐ下に眠っていたからでございます。吾助がその汚れた手で床板を一枚でも剥がせば、全てが終わる状況でした。しかし早吉は極限の恐怖の中にありながらも、その顔に一切の動揺を表にしませんでした。
「どこだ? どこかにおかしな薬草でも隠してやがらねえか」
早吉は一瞬の間に頭を極限まで回転させました。わざと吾助の着物の裾に必死にしがみつくと、焦点の定まらぬ目で彼を見上げ、間抜けな笑みを浮かべながら、だらしなくよだれを垂らして床を何度も叩く奇妙な振る舞いを見せました。吾助は苛立ちを滲ませながら早吉を力任せに引っ張りました。
「このバカ者め、何をそんなに嫌がってやがる」
吾助が早吉の体を荒々しく突き飛ばしました。その隙に、早吉は部屋の隅の味噌桶の方へと普段の仕草で擦り寄り、わざと体をぶつけてその桶を派手にひっくり返しました。ばりばりと音を立てて桶が倒れ、中から熟成された古い味噌が床一面にどろどろと溢れ出しました。
「わあっ、なんて臭いだ。このバカ者め」
吾助は鼻をつまみ、顔を歪めました。早吉は割れた桶の前で、ただおろおろと怯えるように泣き続けました。吾助はその悪臭と完璧な愚か者の演技に、これ以上部屋を引っかき回す気力を完全に削がれてしまったのです。
「くそっ、威勢が立たねえ。もうたくさんだ」
吾助は鼻を強く押さえたまま、吐き捨てるようにして部屋を出て行きました。床下に隠されたあの証拠も、早吉の機転のおかげで一寸の損傷もなく守られました。
しかし古兵は動きを止めませんでした。翌朝、夜が明けると、王将の広大な敷地は割れるような大騒動に包まれました。古兵が大勢の親族や手下の奉公人どもを中庭に呼び集め、その中心で早吉を鋭く指差しながら叫んだからでございます。
「ああ、その大罪極まる者を、今すぐ縄で縛り上げろ! この口の利けない下賤な台所働きめが、我が愛しい若君を密かに毒殺しようと企んでおったのだ!」
それはまさに晴天の霹靂とも言うべき凄まじい告発でございました。古兵は早吉の部屋の布団の裏から出てきたと言い張る毒の紙包みを高く掲げ、勝ち誇ったように叫びました。それは昨夜のうちに、吾助が早吉の部屋へ密かに忍ばせておいた捏造の証拠でした。
「この下賤な男が、若君の飲む薬の中に毒を入れ続けていたことは、もはや明白である!」
集まった親族たちの間に、不穏な動揺が広がっていきました。本当にあの早吉が若様に毒を? 吾助が鬼のような形相で踊り出ると、容赦なく早吉の体を取り押さえ、その細い手首を荒縄でぎりぎりと無惨に縛り上げました。早吉の手首に縄が食い込みました。集まった人々は、ある者は無表情で、またある者は裏切り者を見るような冷たい目で、その痛ましい光景をただ黙って見守っておりました。
引き立てられながら、早吉はついに一言も発することができませんでした。今すぐにでも声の限りに、これは全て古兵たちの仕組んだ陰謀であり、本物の大罪人は目の前にいる男だと叫びたかった。しかし、ここで声を上げてしまえば、これまで命がけで守り通してきた口の利けない素振りが全て嘘であったことが、その場で露見してしまいます。ここで声を上げれば、2年間守り続けた偽りの姿は崩れる。そして、罪人の息子が生きていたと知れば、父を落とし入れた者たちに再び命を狙われるかもしれません。一方、このまま黙っていれば、当主暗殺の罪人として引き立てられる。どちらを選んでも、早吉に逃げ場はありませんでした。古兵はまさにその早吉の弱みを完璧に見抜いて利用したのです。口の利けない者なら、いかな不利な罪を着せられようとも自らの言葉で弁明することなど絶対にできまい——そう高を括っていたのでございます。
その時、奥から凛とした声が響きました。
「お待ちなさい」
皆が振り向くと、回復した若君が自らの足で中庭へと歩み出てきたのです。一度は死の淵にあった若き当主が、何の支えもなしに背筋をまっすぐに伸ばして立っている。親族も奉公人どもも、驚愕のあまり息を飲みました。
「早吉に何の罪もございません。あの者は罪人どころか、この私の命を救ってくれた恩人でございます」
若君の声は静かでしたが、中庭に満ちる空気を震わせました。そこへ右兵衛が震える声を振り絞って進み出ました。
「私、間近で目撃いたしました。古兵様の手下である吾助は、毎夜若様の薬に毒を忍ばせているのを、私は障子の隙間からこの目でしっかりと見届けたのでございます。毒を盛ったのは早吉様ではありません。毒を盛ったのは吾助にございます。そしてその吾助を裏で操っていた黒幕は——」
古参の節くれだった指が、まっすぐに古兵を指しました。
「まさにあなた様でございます」
中庭は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。しかし古兵はすぐに鼻で笑いました。
「ふん。老いぼれの奉公人が何を戯言を吐くか。身分の低い者の言葉で、私を罪人扱いできると思っているのか? 証拠だ。証拠がなければ、全ては寝言だ」
古兵の声は圧倒的でした。武士や主人の言葉と違い、一介の奉公人の言葉では、当時の理不尽な身分制度の壁がありました。集まった者たちも威圧されている古兵の言葉を容易には信じきれずにいたのです。古兵はその心理を見抜いてつけ込みました。
「者ども、これよ。早くその男と老いぼれを奉行所へ引っ立てていけ」
形勢は再び古兵の方へと有利に傾き始めました。早吉は縄で縛られたままであり、右兵衛の証言は一蹴されました。しかし、身内である古兵を大罪人として奉行所へ突き出すには、若君の言葉だけでは足りませんでした。動かぬ証拠が必要だったのです。
全てが崩れ去ろうとしたその瞬間、若君はついにその場に膝をついたのです。
「御仁上、どうかお願いでございます。早吉の命だけは、助けてやってください。あの者には本当に何も罪はございません。どうしてもというならば、代わりにこの私を処罰してください」
若君は魂を振り絞るように懇願しました。しかし古兵の口元に浮かんだのは、冷徹極まりない嘲笑だけでございました。それどころか古兵は、若様はあの下賤な台所働きに骨抜きにされ、完全に正気を失っておられる、と周囲に向かって高らかに吹聴しました。
早吉は引きずられていきながら、若君の姿を見つめていました。格式高い家柄の当主である若君が、自分のために地面に膝をつき、涙を流して懇願している。その痛ましい姿に、早吉の胸は千々に引き裂かれる思いでございました。自分のせいで、若様までがこのような窮地に追い込まれてしまった。早吉は一切の希望を捨ててしまいたくなりました。口の利けない男に、証拠などあるはずがない。形勢は再び古兵の方へ傾き始めました。
この絶望の底で、早吉の耳の奥に、かつて父が生前に言い聞かせてくれた言葉がふっと蘇ってまいりました。
「誠の言葉というものは、口から出るのではない。相手の耳と、真実を見極める目から生まれるものなのだよ」
早吉ははっと悟りました。自分はこれまで、ただ口を閉ざし、素性を隠し、沈黙することが生き延びる唯一の道だと信じ込んできました。しかし、沈黙が常に正しい答えではない。時には、自ら口を開き、命を懸けてでも真実を叫ばねばならぬ瞬間がある。今こそが、まさにその時なのではないか。たとえ正体が暴かれ、命を落とすことになろうとも。早吉の心は決まりました。
古兵がなおも大声を張り上げていました。
「証拠だ。証拠がなければ、全ては寝言だ」
その声が中庭に響き渡った瞬間でした。
「お待ちください」
中庭が凍りつきました。それは、荒縄で縛られた早吉の口から発せられた言葉でした。2年間、ただの一言も発したことのない、口が利けないはずの男の口から。古兵が弾かれたように振り向きました。その顔が見る間に蒼白になっていきました。集まっていた全ての者が息を飲んで、早吉を見つめました。
「証拠なら、ございます」
早吉の声は静かでしたが、中庭の隅々まで届きました。2年間封じ続けた声は、鈴の音のように澄んでいました。早吉は縛られたまま、顎で自分の長屋の方を示しました。
「私の部屋の床下をお調べください。そこに証拠を隠してございます」
奉公人たちが走っていき、床板の下から包みを取り出しました。早吉が密かに集め続けた毒の粉末と、吾助が投げ捨てた毒の紙包みが、丁寧に油紙に包まれて出てきたのです。
「これが証拠でございます。吾助が薬の中に混ぜておったものと同じ毒。右兵衛殿がその行為を目撃した夜のものでございます。そして、街外れの薬屋もすでに突き止めてございます。お調べになれば、毒の出所も明らかになるはずです」
右兵衛が力強く頷きました。
「間違いございません。私は確かに、この目で見届けました」
集まった親族と奉公人どもの視線が、一斉に古兵へと注がれました。古兵の顔は、またたく間に土色へと変わっていきました。
「こ、この野郎、気が狂ったか! どこでそんな出鱈目を……」
しかし、場の空気はすでに取り返しのつかないところまで来ておりました。早吉の澄んだ声と動かぬ物的証拠の前では、古兵の言い訳はあまりにも見苦しく、苦し紛れの悪あがきにしか聞こえませんでした。そして、2年間も声を封じて生きてきた男が、若君を救うためついにその沈黙を破った。その事実が、中庭に集まった全ての者の胸を強く打ったのでございます。
まさにその時でございました。吾助が、きたりと足を止めたのです。吾助は縄でぎりぎりと縛り上げられた早吉の細い手首を見つめました。そして、地面に膝をついて泣いている若君の姿を見つめました。そして、勝ち誇って大声を張り上げている古兵の、見苦しい顔を見つめました。吾助の胸には、これまで押し殺してきた罪悪感が重く沈んでいました。毒を盛ることにも、無実の早吉へ罪を着せることにも、耐えきれなくなっていたのです。そして今、当主である若君が一介の下働きのために膝をつく姿を見て、ついに心の鎧が崩れました。
吾助はゆっくりとした足取りで古兵の前へと歩み進めました。そして、中庭に集まった全ての者が見守る真ん中で、どさりと両膝を地面についたのです。
「申し上げます。この場にて、全ての罪をここに白状いたします。若様の薬に毎夜毒を混ぜておったのは、早吉様ではありません。この私にございます。そして、その恐ろしい指令を命じ、裏で糸を引いていた張本人は、そこにいらっしゃる古兵様でございます。早吉地様の部屋から見つかった毒の包みも、全ては古兵様のお指図により、私が昨夜早吉様の部屋に密かに仕込んだ偽の証拠にございます。早吉様はその包みが何であるかさえ知らなかったのです。あの毒薬は、町の外れの薬屋から密かに買い入れたものにございます。私は何ひとつ嘘偽りなく、全てをお話ししております」
吾助は地面に額を擦りつけ、涙をはらはらと流しながら謝罪しました。
「これ以上の悪行には、私の良心がもう耐えられませぬ。何の罪もない早吉様や右兵衛様に、これ以上濡れ衣を着せることなど、どうしても私にはできません」
陰謀を直接その手で実行した者の、生々しい告白でした。これ以上の確かな証言はありませんでした。古兵の顔は、またたく間に死人のように変わり果てました。古兵は躍起になって飛び上がり、必死に疑惑を否定しましたが、もはや誰一人として聞く耳を持ちませんでした。古兵は見て表門へ向かって、脱兎のごとく逃げ出そうとしました。
「逃すな。捉えよ!」
若君が鋭く一喝しました。その声に弾かれたように、奉公人たちが一斉に飛びかかり、古兵を地面に組み伏せました。陰謀の首謀者が、ついに無惨な姿を現した瞬間でございました。若君はすぐさまこの一件を奉行所へ訴えました。奉行が待ち外れの薬屋を調べると、そこから毒薬の売買を記した裏帳簿が見つかりました。吾助の自白、右兵衛の証言、早吉が密かに集め続けた毒の証拠、そして薬屋の裏帳簿。これら全てが奉行所へ提出されると、古兵の罪は明らかとなりました。薬屋の主人も取り調べの場で全てを白状しました。
「古兵様のお指図だと言って、強い毒薬を何度も買い求めていきました」
奉行が歯切れのよい、厳しい声で言い渡しました。
「ここでよく聞け。古兵よ。貴様は王将の家督を我が物にするため、毒を以て若君を毒殺しようと企てた。その上、己の罪を隠すため、無実の者に濡れ衣を着せて罪を擦り付けようとした。その強欲極まる所行、断じて許し難し」
古兵は罪を認めようとはしませんでしたが、もはや一歩も逃げ出す隙間は残されていませんでした。古兵はその財産をことごとく没収され、遠島の刑に処されることとなりました。古兵の財産を強欲に手に入れようとした者が、皮肉にも全ての身分と財産をはぎ取られ、一人の惨めな罪人として生涯を終えることになったのです。強欲に積み上げてきた砂の城が、一瞬にして音を立てて崩れ去った瞬間でございました。
一方、自らの罪を包み隠さず自白した吾助は、その態度と真実を明らかにした功績が考慮され、減刑一等と相なりました。吾助は涙を流してその判決に深く頭を下げ、これからは心を入れ替えて生き直すことを固く誓いました。若君もまた、その罪をなかったことにはせず、それでも最後に真実を語った吾助の改心を静かに受け止めました。
こうして長く苦しい戦いが終わり、名門の屋敷にはようやく本来の穏やかな日々が戻ってまいりました。春、晴れた日の午後、若君は早吉を静かに書院へと呼び寄せ、二人は一対一で向かい合いました。
「全てが終わった今、ようやくお前に聞くことができる。お前は、どこの誰なのだ。そして、あれほど見事な医術の心得を、一体どこで身につけたのだ」
早吉は長い間、じっと俯いたままでおりました。もはやその素性を隠し続ける理由は、どこにも残されていませんでした。それでも、2年も自らの命を守るために閉ざしてきた心の扉を開くことは、早吉にとって容易ではありませんでした。早吉はゆっくりと息を吐き、今度は自らの過去を語るために口を開きました。若君の救済を告げた時とは違い、今度は自分自身の身の上を明かすための言葉でございました。その声は静かで、しかし一言一言に深い重みが宿っておりました。
「私の父は、巧妙な医師でございました。しかし、ある大藩の権力争いに巻き込まれ、身に覚えのない無実の罪を着せられ、牢の中で亡くなりました。母も、その悲しみのあまり後を追いました。私は家を失い、下僕に助けられて逃げ延び、耳が聞こえず口も利けぬ者のふりをして生きてまいりました。それが2年前に、このお屋敷の門の前で倒れていたところを、右兵衛のじい様に救っていただいたのです」
若君は、早吉のあまりにも過酷な告白に、呼吸することさえ忘れてじっと耳を傾けておりました。無実の罪で家族を失い、家を追われ、2年間もの長い間、自らの素性も声も封じて生きてきた歳月。その孤独と苦痛の深さは、到底他人が推し量れるようなものではありませんでした。二人は沈黙の中で、しばらく向かい合っておりました。
やがて、若君はゆっくりと口を開きました。
「お前が武士の生まれだから、夫と認めるのではない。何もかもを失い、身分さえも失っていたあの日、私はすでにお前を選んでいた」
早吉の目から、大粒の涙が静かに溢れ落ちました。この2年間、素性を隠し、口の利けないふりをして息を殺すように生きてきた過酷な日々。たった一人で耐え忍んできたその孤独と恐怖が、若君の言葉によってまるで春の雪解けのように、一瞬で溶け去っていくようでした。早吉は深く、深く、何度も頷きました。
「私も、生涯あなた様のお傍を離れませぬ」
後日、若君は奉行所に、早吉の父の件を申し立てました。かつてその父を落とし入れた悪徳役人はすでに失脚して久しく、残されていた当時の帳面や診療の記録が改めて調べ直されました。父に着せられた罪には重大な矛盾があることが判明し、父の無実は認められ、お家の名誉はようやく晴れました。こうして早吉の父と一族の名誉は、ようやく取り戻されたのでございます。こうして、二人は真の夫婦となったのでございます。周囲に無理やり押し付けられる形で始まった形ばかりの縁が、ついに天が結んだ本物の尊い縁へと生まれ変わったのでございました。
強欲な叔父の影は屋敷から消え去り、再び明るい笑顔と活気が戻ってまいりました。若君は当主として家督をみごとに継ぎ、早吉は父から受け継いだ医術を生かし、身分の上下を問わず人々の病を救い続けました。かつて毒に侵され、明日をも知れぬ命だった若き当主と、誰もが見下していた口の利けない下働きの若者。過酷な運命に翻弄された二人が手を取り合って築き上げたその家は、その後も末長く平穏と繁栄を保ったのでございます。真実は、声の大きい者のものではない。身分もなく、声さえ失った時に、何を為したか。人の真価は、その行いの中にこそ現れるのでございます。



