あの日、手術台に向かう夫の顔を見つめながら、私は世界で一番幸せな女だと思っていた。完璧な夫、愛する我が子、そして輝く未来。でも、ストレッチャーを押す看護師が私の耳元で囁いた。「手術室に入ったらダメです。今すぐ逃げてください。」血の気が引くとはこのことだった。夫の優しい笑顔が、一瞬で恐ろしい仮面に見えた。私は信じるべき人を選ばなければならなかった。もしもその警告が本当なら、私は夫に殺される。で…

あの日、手術台に向かう夫の顔を見つめながら、私は世界で一番幸せな女だと思っていた。完璧な夫、愛する我が子、そして輝く未来。でも、ストレッチャーを押す看護師が私の耳元で囁いた。「手術室に入ったらダメです。今すぐ逃げてください。」血の気が引くとはこのことだった。夫の優しい笑顔が、一瞬で恐ろしい仮面に見えた。私は信じるべき人を選ばなければならなかった。もしもその警告が本当なら、私は夫に殺される。で...

あの日、私は手術台で命を奪われるところだった。完璧だと思っていた夫の手によって。

分娩室へ向かうストレッチャーの上、私は夫・佐藤ケントの顔を見つめていた。結婚3年、妊娠10ヶ月。彼はこの間、私を誰よりも大切に扱ってくれた。女王様のように。彼の深い瞳を見つめると、この世のすべての幸せがそこにあると思えた。

だが、ストレッチャーを押す看護師が私の耳元で囁いた。

「手術室に入ったらダメです。今すぐここから逃げてください」

その言葉は、私のピンク色に輝く世界を一瞬で粉々に砕いた。

あの看護師の瞳には狂気ではなく、恐怖と必死さが宿っていた。本物の警告だった。

私は混乱した。夫を信じるべきか。それとも見知らぬ女の警告を信じるべきか。

ケントは私に最高の生活を与えてくれた。妊娠がわかってからは、毎朝ベッドに温かいミルクと栄養満点の朝食を運び、夜はむくんだ足を丁寧にマッサージしてくれた。私が夜中に地方のお菓子が食べたいと言えば、何時間も車を走らせて買いに行ってくれた。お腹の赤ちゃんに毎晩童話を読み聞かせていた。あれが嘘なはずがない。

でも、手術室の扉が半分開いた時、過去の「事故」が頭をよぎった。

妊娠5ヶ月の時、階段から滑り落ちそうになった。あの日、私は階段の最上段で足を滑らせた。キッチンにいるはずのケントが、まるで瞬間移動のように現れて私を抱き止めた。床に透明な食用油がこぼれていた。彼は「俺のせいだ」と泣きながら謝った。私は彼をヒーローだと思った。

妊娠後期、浴室で古いドライヤーがショートし、強烈な電流が腕を走った。またもやケントが即座に飛び込んできて、私を助けた。「古い家電は危険だ」と言って、最新式のドライヤーに替えてくれた。私は彼の愛情に感動した。

でも、あの看護師の警告をきっかけに、これらは「偶然の事故」ではなく「失敗した殺人未遂」だったのではと思い始めた。2度の危機、2度の救出。できすぎた偶然。そして今、麻酔で無防備になる手術台こそ、彼にとって3度目の正直になるかもしれない。

いや、あってはならない。私は愛を信じる。ケントは私を愛している。
必死にそう自分に言い聞かせた。あの看護師は何か勘違いしているのだと。

だが、開かれた手術室の扉の向こうで、私を待ち受けるのは死の罠かもしれない。私は決断した。

「トイレに行きたいんです!お腹が割れるように痛い!」

私はありったけの声で叫んだ。陣痛も極度の恐怖も混ざり合い、本物の苦痛となって顔を歪ませた。看護師たちが慌てる。夫も駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか?」

その顔には深い心配が浮かんでいる。しかし、今の私にはそれが吐き気をもよおすほど恐ろしい仮面にしか見えなかった。

トイレに案内され、個室の鍵をかけた瞬間、私は動いた。最高所の換気窓。私は自分の重い体を持ち上げ、窓枠を掴み、プラスチックの網戸を突き破り、外のコンクリート床へと落下した。

病院の裏手の物陰に身を潜めると、夫の怒声と複数の足音が迫っていた。

「見つけ出せ!あの腹で遠くへ行けるはずがない。全ての出口を封鎖しろ!」

私は捕まると思った。その時、背後から声がした。

「佐藤さん、こちらへ」

あの看護師だった。彼女は私を医療廃棄物運搬トラックへと導いた。その中に隠れ、病院のゲートで停車された時は心臓が止まるかと思った。

「この中身は全て感染性医療廃棄物です。血液の付着したガーゼや注射針です。開けて万が一のことがあったら誰が責任を取るんですか?」

彼女の機転で、私たちは脱出に成功した。安全な場所で、彼女・田中ひなは全てを語った。

数日前、非常階段で夫と麻酔科部長の会話を偶然聞いたという。「今回も頼みますよ。全ては前回のシナリオ通りに。極めて稀な合併症による大量出血に見せかけて」

前回のシナリオ。3年前、この病院で私と同じように帝王切開中に亡くなった女性がいた。彼女の夫も佐藤ケントだった。

嘘よ。そんなはずない。

だが、彼女の言葉は続く。亡くなった女性は伊藤ユナ。彼女にも不自然なほど高額な生命保険がかけられていた。受け取り人は夫。その金額、5億円。

5億円。彼の完璧な愛も、女王のような扱いも、全てがこのための壮大な演劇だったのか。

私は親友の鈴木さおりのもとへ逃げ込んだ。彼女は大手新聞社の調査報道記者。私の唯一の家族とも言える存在だ。

さおりは冷静に状況を聞き、怒りに燃えた。「あのクズ。必ず地獄に叩き落としてやる」

彼女の調査は容赦なかった。夫の会社はペーパーカンパニー。過去10年の保険金支払い記録を調べ上げ、同じ犯罪パターンを見つけ出した。

最初の犠牲者は7年前、高橋恵。夫の運転する車で深夜の高速道路を走行中、ガードレールに激突して死亡。保険金8000万円。

2番目は5年前、木村さ子。海外のリゾートで遊泳中に溺死。保険金1億2000万円。

3番目は3年前、伊藤ユナ。医療事故による死亡。保険金1億5000万円。

全ての共通点は、「美しく、家族との関係が希薄で、死に疑問を持つ者がいない」女性だった。

そして私、4番目のターゲット。保険金額は過去最高の5億円。

さおりは伊藤ユナの実家を見つけ出した。両親は娘の死を悲しみ、ケントに感謝さえしていた。彼は1000万円を渡して「娘の代わりに親孝行したい」と泣き崩れていたのだ。私たちはユナの両親に真実を話し、協力を取り付けた。

裁判で確実に有罪を勝ち取るには、彼自身の自白が必要だった。単なる状況証拠では、雇った弁護士に何とかされてしまうからだ。そこで私たちは罠を仕掛けた。

まずユナの両親がケントに電話し、新聞記者が訪ねてきたと揺さぶりをかけた。動揺したケントは共犯者たちに連絡を始めた。彼が混乱している隙に、私は彼にメッセージを送った。

「全てを知っています。伊藤ユナのこと、高橋恵みのこと、木村さ子のこと。明日午後8時、横浜の倉庫で。1人で来てください。交渉しましょう。来なければ、全ての証拠を警察に渡します」

彼が食らいついた。返事は「分かった」の一言だけ。

約束の時間、私は倉庫に1人で立っていた。胸には証拠のマイクを隠し、さおりと刑事たちは周囲に潜んでいた。

彼は高級セダンで現れた。完璧に整えられたスーツ。だが、その顔から優しい夫の面影は消え去っていた。捕食者の目だった。

「俺の証拠はどこにある?渡せば、生かしておく道も考えてやらなくもない」

私は反撃した。「あなたが伊藤ユナさんや高橋恵さん、木村さ子さんに与えた『道』のことかしら?それとも、あの手術台の上で私に与えようとした『道』のこと?」

彼の顔色が変わった。そして、開き直ったように笑った。「それがどうした。お前は今日ここから生きては帰れない」

彼はポケットから注射器を取り出した。「高濃度の塩化カリウムだ。一滴でも血管に入れば心臓は即座に停止する。世間は、悲しみに耐えかねた母親が自殺したと思うだろう。完璧なエンディングだ」

彼が注射針を振りかざして突進してきた、その瞬間。

「動くな!警察だ!」

闇から数十人の刑事が飛び出した。ケントは驚愕し、逃げようとしたが、すぐに床に叩きつけられた。死の直前、私は夫を罠にかけた。いや、私は自身と息子の命を守るために、正義を取り戻したのだ。

翌朝のニュースは日本中を震撼させた。3人の女性を保険金目的で殺害し、4人目を殺害しようとした連続殺人犯。国民的エリートの仮面が剥がれ落ちた。彼と共犯者は緊急逮捕された。

半年後、裁判が始まった。法廷には遺族たちが立ち、涙ながらに罪を訴えた。私たちの隠しマイクには、彼自身の自白が克明に記録されていた。

そして、判決の日。裁判長の声が法廷に響いた。

「被告人、佐藤ケントを死刑に処する」

法廷は感情の爆発に包まれた。

あれから5年。私は今、海辺の小さな町で、5歳になった息子と穏やかな日々を送っている。夫からの暴力や経済的搾取に苦しむ女性たちを支援するNPO法人を立ち上げた。私の絶望が、誰かの希望を育むための土壌となった。

窓の外では塩風に揺れるオリーブの木が銀色に輝いている。悪魔との戦いに終止符を打った今も、私は息子の無垢な笑顔の中に、未来への強さを見つけている。長く続いた嵐の夜は、ついに明けた。

Thumbnail