社長室に呼び出されたのは、仕事が一段落した夕方のことだった。
「君のような人間はもう必要ない。首だ」
広々とした社長室で、大和社長は冷たい視線を俺に突き刺した。
「理由は分かってるよな。君の仕事ぶりは非効率すぎる。君が頑張って1つ仕事を終える頃には、他の人は3つこなしてるんだよ」
確かに、俺のイラストは他の人より時間がかかる。でもそれは、魂のこもった作品を作りたいからだ。納得がいくまで現場に足を運び、選手の表情を何度も描き直す。それなのに、社長は俺の身体のことまで言及してきた。
「正直、見ていて気が重いんだよ。お前の不自由な足を引きずって現場に行って、同情でも買おうとしているのか。クライアントだって気を使ってるんだよ。『魂がこもってます』なんて、お世辞に決まってる」
その言葉に、思わず拳が震えた。
「分かりました」
そう言って、俺は会社を追い出された。
—
俺の名前は今野裕二。かつては中学サッカー界で将来を有望視されていたストライカーだった。だが、今は病室のベッドで真っ白な天井を見つめている。
窓から差し込む柔らかな日差しと、遠くから聞こえる子供たちの声が、数週間前の自分を思い出させる。
ベッドサイドの棚には、チームメイトやクラスメートからのお見舞いの品々が並んでいる。でも、一番の親友だった伊達からのメッセージだけは、どこにも見当たらない。
彼は両親と共に見舞いに来てくれたが、俺の顔をまともに見ようとしなかった。
—
伊達との出会いは、中学の入学式の日だった。たまたま隣の席になり、2人ともサッカー好きだと分かった時の喜びは、今でも覚えている。
「おい、今日の放課後、一緒にボール蹴らないか? 」
伊達は超お金持ちの家の息子で、高級なスパイクや最新のウェアを身にまとっていた。でも、そんなことは関係なく、純粋にサッカーを愛していた。
部活が終わった後も、2人でグラウンドに残って特訓するのが日課だった。やがて、俺たちの噂は中学サッカー界に広まり始めた。秋の大会には、スーツ姿の大人たちが観客席に現れるようになった。Jリーグのスカウトだったらしい。
「あの2人、面白いコンビネーションをするね」
「中学生とは思えない動きだな」
そんな声が耳に入ってくるようになった。
ある日の練習後、顧問の先生が俺と伊達を職員室に呼び出した。
「実はな、プロのユースチームから声がかかっているんだ。2人とも一緒に、という条件でな」
俺は思わず息を飲んだ。伊達が俺の腕を掴んで揺さぶってきた。
「すげえ! 今聞いたか? 」
「ああ」
「でも、お前と一緒じゃなきゃ行かないからな」
そう言って、伊達は満面の笑顔で俺の肩を叩いた。
「当たり前だろ。俺たちは最強のコンビなんだから」
来月の大会には、そのユースチームのスカウトも見に来るという。2人の夢は、すぐそこまで手が届いていた。
「よし、もっと練習しようぜ。絶対プロになろうな。2人で」
「ああ、約束だ」
でも、その約束は、残酷な形で果たされなかった。
—
試合会場に向かう途中、道で転んだおじいさんを見かけた。そこへ大型トラックが迫っているのが見え、俺はとっさに飛び出した。おじいさんを突き飛ばすことはできた。だが、俺は大怪我を負い、左足に後遺症が残って選手生命を絶たれてしまった。
医者からの宣告は厳しかった。
「完治は難しい。普通に歩くことはできるようになるだろうが、少し引きずることになる。サッカーは、もうできないだろう」
数日後、伊達が見舞いに来た。彼の目には涙が浮かんでいた。
「試合、負けたよ。お前がいなくなったせいで、チームの調子が狂ってさ。結局、準決勝で散った」
そして、続けた言葉が胸に突き刺さった。
「お前だけでも、ユースに…」
その言葉が終わる前に、伊達は俺の病衣を掴んだ。
「ふざけんな!

無責任なこと言うなよ! あの試合、お前がいなくて俺、全然いいとこなかったんだぞ。パスを出す相手がいなくて、シュートも決められなくて…。なんで、水も知らない人間のために! 俺たちの約束はどうなるんだよ! 」
何も返せなかった。伊達は袖で涙を拭うと、背を向けて去っていった。その背中が、今までで一番遠く感じた。
—
それから、俺は伊達とは別の高校に入学した。半年が経ち、リハビリのおかげで普通の生活には支障がなくなったが、やっぱり完全な回復は望めないらしい。
クラスメートたちは普通に接してくれる。でも、その距離感が逆に辛い。誰も俺がサッカーをしていた頃を知らない。ここではただの、不自由な足を持つ同級生でしかない。
昼休み、教室の窓辺からグラウンドを見下ろす。そこではサッカー部員たちがボールを追いかけている。くそ、と思わず漏れた言葉を、誰も聞いていない。
手元の自分のノートを見つめると、いつの間にか橋から橋まで、たくさんの絵で埋め尽くされていた。サッカーを見ていると、手が勝手に動いて、ボールやシュートを放つ選手の姿を描くようになっていた。最初は殴り書きのような落書きだった。でも、描いているうちに、不思議と心が落ち着くことに気づいた。
蹴った瞬間の足の角度、シュートの軌道、選手の表情。細部にまでこだわって描くようになっていた。
「おお、すごいじゃん」
突然背後から声がした。美術部の山下だ。
「別に、ただの落書きだよ」
「いやいや、これ本気でうまいって。特にこの動きの表現が」
山下は俺のノートを食い入るように見つめた。
「サッカー経験者?
」
その言葉に胸が締めつけられる。
「昔はね」
山下は何かを察したのか、それ以上は追求しなかった。代わりに、1枚の紙を差し出してきた。
「これ、よかったら応募してみない? 高校生イラストコンテスト。テーマは『情熱』だよ」
「コンテスト? 」
「そう、俺も美術部だから応募するんだけど。今度、是非挑戦してみなよ」
断ろうとした瞬間、山下が付け加えた。
「今の絵、見てると胸が熱くなるんだ。きっと君の気持ちとか伝わると思う。少なくとも俺には伝わったよ」
その優しさと共に、コンテストの申し込み用紙を受け取った。
—
その夜、俺は机に向かった。描いたのは、ゴール前でシュートを放つ瞬間。ボールが空を切り裂く軌道、キーパーの一生懸命な姿、観客の息を飲む表情。
でも、どこか足りない気がした。何か決定的なものが。
そうだ。伊達との約束。画面の隅に、もう1人の選手を加えた。完璧なポジションでパスを出す選手。観客からは見えない、確かな笑みを浮かべた選手を。
—
スポーツイラスト部門最優秀賞。「永遠のパートナー」今野裕二。
表彰式で呼ばれた時、信じられなかった。会場にはプロのイラストレーターも来ていて、その人が俺の絵の前で長い間立ち止まっていた。
「君、イラストレーターになる気はない? 」
何人かに言われたその言葉が、俺の中で何かを変えた。
グラウンドでは表現できなくなったサッカーへの思いを、紙の上なら表現できる。選手たちの一瞬の輝きを、永遠に残すことができる。
その日から、俺は絵と向き合い続けた。美術部に入部し、山下や顧問の先生から基礎を学び、土日は町に出てスポーツ観戦のスケッチを重ねた。
足は思うように動かなくても、手は動く。今度は、途中で諦めたりしない。
—
高校2年の冬、県内のイラストコンテストで特賞を受賞した。でも、まだ足りない。もっと大きな舞台で戦いたい。
そんな時、山下が教えてくれた。
「これ見てよ。全国規模のスポーツイラストコンクールだって」
主催は、大手デザイン会社の「クリエイティブビジョン」。締め切りは高校3年の夏、あと半年。
よし。これが、自分の実力を試す最後のチャンスになる。
応募作品は、何度も描き直した。キャンバスの前に立つと、あの日々が蘇ってくる。伊達とのプレイ、チームメイトとの笑顔、観客の歓声。
—
コンクール会場に足を踏み入れると、一際大きなポスターが目に入る。
「第30回 全国スポーツイラストコンクール 主催 株式会社クリエイティブビジョン」
展示されている作品の前で、審査員たちが熱心に話し合っている。その中に、どこか見覚えのある後ろ姿があった。
その人物が振り返った。3年前、あの事故の日、俺が命がけで助けたおじいさんだった。
「おお、君じゃないかね」
名前は佐野さん。俺の入院中にも何度も見舞いに来てくれ、退院の日には車の手配までしてくれた。
「佐野さんは、どうしてここに?
」
「ああ、このコンクールはうちの会社が主催なんだよ」
俺はポカンと口を開けた。
「え、じゃあ、佐野さんが…クリエイティブビジョンの社長さん? 」
「そうだよ。このコンクールを初めて、もう30年になるんだ」
俺の目は驚きで見開かれた。クリエイティブビジョンは、業界でも指折りの大手会社で、憧れの存在だった。
「君の作品を見せてもらったが、とても驚いたよ。まさか、あの時の少年が、こんな素晴らしい絵を描くとは」
佐野さんは俺の出展作品の前に立ち止まった。大きなキャンバスいっぱいに描かれた、サッカーの試合の1場面。ゴール前での最後の攻防を、俺なりの解釈で表現した作品だ。
「このシュートを放つ選手の表情。ボールに向かって伸びる指先。キーパーの一生懸命な眼差し。全てが生きている。でもね、今野君、私が1番心を打たれたのは、この躍動感だ」
佐野さんの言葉に、胸が締めつけられる。
「これは、ただサッカーを見て描いた絵じゃない。この中に、君自身がいる。この角度、この緊張感、この高揚感。これは実際にピッチに立った者にしか描けない。君は、今でもここで戦い続けているんだね」
涙が溢れ出した。絵に込めた思いを、こうして理解してくれる人がいることが、ただただ救いだった。
「君がよければ、うちで働かないか」
その提案に、涙が引っ込んだ。
「で、でも、俺はまだ高校生で…」
「構わない。高卒での採用枠があるからね」
「えっと…」
戸惑う俺に、佐野さんは静かに首を振った。
「誤解しないで欲しい。私は命の恩人だから雇うわけじゃない。この絵を見てごらん。君の絵には、そこにいた人間にしか分からない躍動感がある。見る者の心を揺さぶる力がある。それは、紛れもない才能だ」
佐野さんの言葉が、心の奥深くまで染み込んでいく。
「君はまだ、ピッチに立ち続けているんだよ。ただ、表現する方法が変わっただけ。むしろ、あの経験があったからこそ、こんな素晴らしい絵が描けるようになった。これまでの君の戦いは、無駄じゃなかった」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「それと、おめでとう。君の作品が、グランプリだ」
その言葉が、俺の人生を大きく変えた。
—
入社してから5年。俺は「今野さんの絵には魂が宿ってる」と言ってくれるクライアントが少なくなかった。特にスポーツ関連の仕事では、必ず指名が来るようになっていた。
佐野さんは、いつも俺のやり方を支持してくれた。
「今野君の強みは、その経験値だよ。君は実際にあの場所に立っていた。だからこそ、選手の内面まで描ける」
でも、全てが順風満帆というわけではなかった。去年の春、佐野さんが年齢を理由に社長職を退き、専務だった息子の大和が社長に就任した。
それ以来、社内の空気が変わった。
「今野さん、また納期が遅れるんですか? 」
今日も大和社長に呼び出された。
「申し訳ありません。もう少し時間を…」
「他のデザイナーなら、とっくに上がってるはずですよ」
大和社長の冷ややかな視線が胸に刺さる。
「まあ、父の時代とは違いますからね。今は効率が重要なんです。スピーディーな納品。それが求められる時代ですよ。質より量です」
「でも…」
「程よく手を抜いてもらわないと。こっちはビジネスですよ」
大和社長はさらに続けた。
「今野さん、これからは簡略化してください。そんな時間かけなくても、それなりのものは作れるでしょう」
「それなり」、か。
—
デスクに戻ると、新しい仕事の資料が置かれていた。高校野球の広告ポスター。監督と選手たちの思いを形にする、大切な仕事だ。
「今野さん、また現場に行くんですか? 」
隣の席の後輩が、心配そうに声をかけてくる。
「ああ」
確かに、今の会社は効率を重視する。でも、俺には譲れないものがある。現場の空気、選手たちの表情、かける思い。それを描かずして、本物の絵が描けるはずがない。
足を引きずりながら歩く姿を、大和社長はよく思っていない。それも分かっている。でも、この足があるからこそ描ける世界がある。
佐野さんの言葉を思い出す。「君はまだ、ピッチに立ち続けているんだよ」
そうだ。俺は逃げない。今度は絶対に。
—
その日の夜、高校野球の取材から戻ると、また大和社長に呼び出された。
「またフィールドワークですか?
」
社長室に入ると、彼は窓際に立っていた。振り返る表情には、いつもの皮肉な笑みが浮かんでいる。
「はい。選手たちの練習風景を見てきました」
「うん。まあ、そういうこだわりは分かりますけどね」
大和社長は高そうな椅子に腰を下ろすと、机の上の書類に目を落とした。
「今野さん、知ってます? うちの新入社員、美咲さんのこと。あの美大でデザイン学科主席だったとか。彼女、今回のポスター案、もう3案も出してきてるんですよ。現場にも行かずにね」
その言葉に込められた意味が、胸に突き刺さる。
「それにね」
大和社長は机を叩きながら話し始めた。
「今回の高校野球のポスター、他の広告代理店にも発注が出てるんですよ。競合なんです。分かります? 」
ゆっくりと視線を上げる大和社長。その目には、今までにない冷たさが宿っていた。
「今野さんみたいに、不自由な体で現場に行って時間をかけて…。それって、正直非効率的なんですよ。私の視点で見ても、あなたの作品に、効率を犠牲にしてまでフィールドワークが必要だとは思えません」
「社長。確かに時間はかかっていますが…」
「今野さん」
大和社長は静かに言葉を継いだ。俺は黙って頷く。この先に何が来るのか、うすうす感じていた。
「正直に言いましょう。父はあなたを、恩で採用したんでしょう。でも、ビジネスに善意は不要です。恩で入社された方が、いつまでも特別扱いを求めるのは、いかがなものかと」
「違います! 」
思わず声が大きくなる。
「自分は絵で勝負したんです。コンクールで優勝して、佐野さんは俺の実力を認めてくれて…」
「今野さん」
大和社長は冷ややかな目で俺を見た。
「正直、見ていて気が重いんですよ。足を引きずって現場に行って、同情でも買おうとしているんですか?
クライアントだって、気を使って褒めているだけでしょう。『魂がこもってます』なんて、お世辞に決まってる。本音は、この人を切るに切れないって思ってるはずですよ」
その言葉に、思わず拳が震えた。
「他のデザイナーは効率的に仕事をこなしている。でも、あなたはその体で無理して現場に行って…。見てる方が痛々しい。周りに迷惑をかけているって、本当に分かってないんですね」
その言葉の1つ1つが、刃物のように胸をえぐっていく。
「見苦しいですよ。その体で、頑張ってますって見せつけるの。慈善事業じゃないんですから」
その言葉が、最後の引き金になった。
—
翌日、人事部から呼び出され、解雇通知を渡された。理由は「業務効率の著しい低下」「期日遵守の意識の欠如」。
俺は呆然としながら、会社を後にした。
退職から3ヶ月。履歴書を携えて、同業他社の面接を数十社受けた。でも、どこも同じだった。
「申し訳ありませんが…」
面接官の言葉は、いつも途中で止まる。これまでの実績を話しても、受賞歴を見せても、同じ反応だった。
やがて分かってきた。大和社長の影が、業界中に広がっていること。デザイン業界は狭い。大手のクリエイティブビジョンの評判は、確実に響いていた。
貯金は底を突きかけ、家賃の支払いも厳しくなってきた。それでも、スケッチブックだけは手放せなかった。
—
面接に向かう電車に揺られながら、窓に映る自分は随分と疲れた顔をしていた。
次の面接先は、小さな制作会社「アートブレイン」。
エレベーターを降りると、少し狭いオフィスが目に入った。デスクは数台しかない。壁には過去の作品が貼られているが、色褪せている。
「はい。どちら様でしょうか? 」
振り返ると、30代後半くらいの女性が立っていた。落ち着いた佇まいで、知的な雰囲気を漂わせている。
「面接に…」
「ああ、今野さんですね。私が社長の白田です」
まさか、最初から社長面接なのか。
「ポートフォリオをご提出いただけますか? 」
差し出したスケッチブックを、白田社長はゆっくりとめくっていく。時折、小さく頷きながら、1枚1枚丁寧に見ていった。そして、ある1枚で手が止まった。
「これは…高校野球ですか? 」
「はい。先日の県予選です」
「選手の表情が、生きていますね。まるで、その場にいるような」
「はい。実際に現場に行って、選手たちの声を聞きながら描いています」
白田社長の目が、真剣な表情に変わる。
「そういった取材は、いつもされるんですか?
」
「はい。その場の空気を、絵に落とし込みたいんです」
「時間はかかりますよね」
その言葉に、俺は息を飲んだ。また同じことを言われるのか。効率が悪いと。
でも、白田社長の次の言葉は予想外だった。
「素晴らしいです。こういう仕事の仕方こそ、私たちの理想なんです」
白田社長は立ち上がると、窓際に歩み寄った。
「正直に申し上げます。うちは今、風前の灯火のような状態です。大手との競争で、どんどん仕事を失っている。でも、私は諦めたくない。薄利多売の仕事はしたくない。1つ1つの仕事に、魂を込めたい。そのために経営が危ういことは、分かっています。でも、ただのビジネスだけで済ませたくないんです」
その言葉が、胸に響いた。
「今野さん、あなたの給料は前職の5倍出させていただきます」
「えっ? 」
突然の提案に、耳を疑う。
「でも、それだけの覚悟を持って働いていただきたい。うちの命運は、今野さんの腕にかかっています。時間はかかっても構いません。でも、魂のこもった仕事。それが、私の求める仕事です」
気がつけば、俺は深く頭を下げていた。
「よろしくお願いします」
—
その日から、アートブレインでの新しい生活が始まった。最初の仕事は、地元のプロバスケットボールチームのポスター制作。
普段通り、練習に足を運び、選手たちと話をする。
「え、いつもこんな詳しく取材してるんですか? 」
練習後、若手のフォワードが驚いた声をあげた。俺のスケッチブックには、彼のシュート場面が何十枚も描き込まれている。一連の動作を、コマ送りのように細かく。
「毎回こんなに時間をかけて…。普通の取材なら、写真を数枚撮って、選手に2、3個質問して終わりなんだがな」
確かに、他の広告会社のスタッフは、1時間もしないうちに引き上げていく。でも、俺にはそれじゃ物足りない。
「これ、昨日の練習の時の俺たちじゃないか。毎日来てたんだ」
選手たちの驚きの声が重なる。
「でも、なんでそこまで? 」
キャプテンが不思議そうに尋ねる。その問いに、少し考えてから答えた。
「魂の入った絵を描きたいんです。それには、皆さんの一瞬一瞬の思いを、確実に掴み取らないと」
選手たちは黙って頷いた。そして、キャプテンが突然笑顔になる。
「よし、じゃあ俺たちも協力しようぜ。今野さん、明日もここに来るんでしょ?
」
帰り際、キャプテンが肩を叩いてきた。
「俺たちの思いを絵にしてくれて、ありがとう」
その言葉に、涙が込み上げてきた。かつてピッチに立っていた時と同じように、チームの一員として認められた気がした。
完成したポスターは、街中で評判になった。SNSでは「選手の表情が生きている」「チームの思いが伝わってくる」といった声が溢れた。それをきっかけに、少しずつ仕事が増えていく。
—
ある日、白田社長が俺を呼んだ。
「実は、重要な案件が来ているの」
差し出された資料には、全国規模のスポーツユニフォームのロゴが踊っていた。
「大規模なキャンペーンですね。でも、なぜうちに? 」
「あなたの作品を見て、直接指名よ」
白田社長の顔には、誇らしげな表情が浮かんでいた。
「今野さんの描く選手たちの表情に魅力を感じた、と」
その言葉に、目頭が熱くなった。
数週間後、大手のコンペに参加することになった。新ブランドの企画案を提出する、重要な案件だ。テレビCM、全国の駅広告、スポーツ専門誌の一面広告、そしてSNSでの展開まで、全てを一社で担当することになる。予算規模も桁違いだった。
クライアントのオフィスに入ると、思いもよらない人物の背中が目に飛び込んできた。クリエイティブビジョンの大和社長だった。
彼は俺を見ると、意外そうな顔をする。
「おや、今野さん。お久しぶりですね」
会議室を出る時、大和社長が俺の耳元で呟いた。
「無駄な努力はしない方が身のためだぞ。結果はもう決まっているんだからな」
その言葉に、疑念が確信に変わった。出来レースだろう。でも、諦めるわけにはいかない。白田社長との約束がある。
「絶対勝とうね」
白田社長が言った。その一言に、背筋が伸びる。
「必ず勝ちます」
—
翌日から、ヒアリングに臨んだ。相手は大手スポーツメーカーの営業統括部長だという。
会議室のドアを開けた瞬間、俺は息を飲んだ。
そこに座っていたのは、伊達。かつての親友で、サッカー部のエースストライカーだった伊達だった。
「…久しぶり」
伊達の声は冷たかった。高校を卒業してから一度も会っていなかったが、彼は営業の世界で、若くして大手スポーツメーカーの幹部になっていたらしい。
「まさか、お前が来るとは思わなかったよ」
その言葉には、明らかな嘲笑が含まれていた。
打ち合わせが終わり、会議室を出ようとした時、「ちょっといいかな? 」と伊達に呼び止められた。
「随分と道を変更したみたいだな。イラストレーターか。夢を諦めて、逃げた先が、それか」
「違う」
俺は静かに、でもはっきりと言った。
「俺は逃げてなんかいない。今の仕事に誇りを持ってる」
「ふん。口では何とでも言えるさ。結局は行動だよ」
伊達の目が鋭く光る。
「お前のせいで、俺たちの夢は潰えた。プロサッカー選手になるっていう、あの約束は」
「…だて」
「今度は、俺が教えてやるよ。夢を諦めるってことが、どういうことなのかを」
その言葉には、明確な敵意が込められていた。
—
オフィスに戻る道すがら、白田社長が心配そうに声をかけてきた。
「今野さん、大丈夫? 」
「すみません、社長。今回は、勝てないかもしれません」
「どうして?
」
「担当者が…伊達って言うんです。昔の親友で、今は俺のことを恨んでいて」
白田社長は、優しく微笑んだ。
「あなたの強みを、忘れてるんじゃない? あなたの絵には、魂が宿ってる。それは、誰にも否定できない」
その言葉が心に響いた。
「例え相手と因縁があっても、私たちにしかできない仕事があるはずよ」
そうだ。伊達が俺を恨んでいようと、この仕事にかける思いは本物だ。スケッチブックを開く手が、少し震えていた。
—
1ヶ月が経ち、コンペの最終選考が近づいていた。最後まで残ったのは、クリエイティブビジョンと、俺たちの会社だけだった。
「あと少しね、今野さん」
深夜のオフィスで、白田社長は嬉しそうに微笑んだ。疲れた顔が、蛍光灯の光に照らされて、妙に綺麗に見えた。
「このプロジェクトが決まったら、私たちもっと大きなオフィス借りられるかもね。新しい人も採用できるし。あ、今野さんのチームも作れるわ」
「チームですか? 」
「そう。今野さんみたいな、魂のこもった仕事ができる人たちを育てていくの」
白田社長は腕を大きく広げて見せた。
窓の外では、東京の夜景が輝いている。オフィスには2人きり。なんだか心臓の鼓動が、少し速くなる。
「ねえ、今野さん。私ね、…」
その時、白田社長の携帯が鳴った。
「はい、アートブレインの白田です。えっ? 」
白田社長の表情が、みるみる硬くなっていく。
電話を切った白田社長の顔は、血の気が引いていた。
「どうしたんですか?
」
「…主要取引先の山田広告から、突然の契約解除通知が」
その瞬間、会社の電話も鳴り始めた。次々と舞い込む、契約解除の連絡。
「これは、どういうことですか? 」
焦る俺に、白田社長は震える声で説明した。
「どうやら、アートブレインの信用に関わる噂が、業界内で広まっているらしいの。納期遅延や品質トラブルといった、事実無根の情報が…」
まさか。携帯を手に取り、業界関係者に確認の電話を入れると、驚くべき事実が次々と明らかになった。
「クリエイティブビジョンの営業が、さりげなく…」
「複数の取引先が、同じような証言を…」
さらに決定的だったのは、友人から送られてきたメールだった。
「昨日、クリエイティブビジョンの社長が部下たちに指示してたらしいよ。『アートブレインの悪評を流せ』って。俺が通りかかったのは、気づかなかったみたいだけど」
これは、確実に大和社長の仕業だ。証拠を集めながら、俺は拳を握りしめた。相手の弱みに付け込むような、汚い手を使いやがって。
翌朝、最悪の知らせが届いた。伊達の会社からのメールだった。
「この度は誠に申し訳ございませんが、今回のブランドキャンペーンコンペについて、御社との取引を保留とさせていただくことになりました」
白田社長は、悲鳴に似た声をあげた。
—
「こんなの、ひどすぎる」
白田社長の声が震えている。今まで一生懸命築き上げてきたものが、一瞬にして崩れ去ろうとしている。
「社長、少し休憩しましょうか」
会議室のテレビのリモコンに手を伸ばす。せめて気を紛らわせたかった。
画面がつき、経済ニュースが流れ始めた。その時だった。
「緊急記者会見のお知らせです。大手スポーツメーカー『伊達商事』の伊達部長による、緊急記者会見が行われます」
画面には、スーツ姿の伊達が映し出された。懐かしい顔。
「本日は、重要なご報告がございます」
伊達の声が、会議室に響く。
「弊社の新ブランドキャンペーンについて、デザインを手掛けていただく会社を慎重に検討してまいりました。本日、正式に決定いたしました。株式会社アートブレインにお願いすることに、決定いたしました」
「えっ? 」
白田社長が、思わず立ち上がる。
「そして、もう1つ重要な発表があります」
伊達の表情が、さらに引き締まる。
「クリエイティブビジョンの大和社長による、他社への組織的な嫌がらせ行為が発覚いたしました」
記者たちがざわめく。
「具体的には、事実無根の噂を流布し、取引先との契約を不当に妨害する行為。これは明確な業務妨害であり、法的措置も検討しております」
「これは、どういうことなの? 」
困惑する白田社長に、俺は小さく呟いた。
「すみません、白田社長。実は…昨日の夜、彼から連絡があって」
—
俺は昨晩の記憶をたどりながら、静かに話し始めた。
駅前の喫茶店。待ち合わせ場所に指定した伊達は、長い間黙っていた。コーヒーの湯気が立ち上る中、重い沈黙が続く。
そして、ようやく口を開いた時、第一声はこうだった。
「…ごめん」
その一言に、俺は耳を疑った。
「俺、ずっとあの日のこと後悔してたんだ。お前が事故にあった日、あんな冷たい言い方しかできなくて。『なんで知らない人のために』なんて、そんな言葉しか」
拳を握りしめる伊達の手が、小刻みに震えている。
「1番辛かったのは、お前だったはずなのに。夢を諦めなきゃいけなかったのは、お前なのに。なのに俺は、自分のことばっかり」
目をそらす伊達の瞳が、潤んでいた。
「お前は、人を助けた。それなのに、俺はお前を責めた。最低の親友だよな」
「…最初、お前を見た時は、正直腹が立った。サッカーを諦めて、逃げたんだって思ってた」
コーヒーカップを見つめながら、伊達は続ける。
「でも、今回の企画書を見て、やっと分かったよ。お前、ずっとピッチに立ち続けてたんだな。この中にある思い、全部サッカーじゃないか。選手の気持ち、観客の熱気、あの瞬間の高揚感。お前は、それを絵で表現してる」
伊達の目が、真剣に俺を捉えた。
「他の会社の提案は、どれも同じようなものばかりだった。派手で綺麗だけど、魂が入ってない。でも、お前の案は違った。選手たちの表情、1つ1つの動き、全部が生きてる。これを見た瞬間、『これだ』って思った」
伊達は深いため息をつくと、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「でも、コンペ後の社内の空気は最悪だった。佐野社長を推している役員たちが、露骨にクリエイティブビジョンの案を押してくる。まるで出来レースみたいに」
「どういうことだ?
」
「役員の中に、佐野社長と昔からの付き合いがある連中がいるんだ。彼らはこのキャンペーンを、彼に流そうとしている。でも、それじゃあ公平な判断じゃない」
窓の外を見つめる伊達の横顔に、苦悩の色が浮かんでいた。
「佐野社長は、業界内で相当な力を持ってる。彼と繋がりを持つことで、うちの役員たちも様々な利権を得てきた。だから、彼らは一生懸命になって佐野社長の味方をする」
「それで、俺たちに何をして欲しいんだ? 」
「佐野社長の不正な取引関係を暴きたい。それには確かな証拠が必要なんだ。今、彼は一生懸命になってお前たちの会社を潰そうとしている。この機会を使って、彼らの違法行為を炙り出したい」
伊達の声が震えた。
「もう調査は始めている。でも、決定的な証拠を掴むには、もう少し時間が必要だ。その間、お前たちには辛い思いをさせることになる」
「分かった」
俺は即答した。伊達が驚いたように目を見開く。
「そんなに簡単に…」
「簡単なことじゃないのは、分かってる」
俺はまっすぐに伊達を見た。
「でも、俺はお前を信じてる。こんな不正がはびこる業界を、一緒に変えていこう」
伊達の目が潤んでいた。
「本当に、すみません。そして、ありがとう」
別れ際、伊達が差し出した手を、しっかりと握り返した。それは、新たな戦いの始まりを告げる、硬い握手だった。
—
記者会見から1週間、業界は大きく揺れていた。
クリエイティブビジョン佐野前社長の辞任。伊達商事の組織改革。アートブレインの過去最大規模の契約獲得。
新聞やニュースサイトには、連日そんな見出しが並んだ。
大和社長の不正取引は想像以上に深刻だった。記者会見の後、次々と新たな証拠が出てきた。不正な利益供与、取引先への嫌がらせ工作。業界の闇が、一気に白日のもとにさらされた形だ。
伊達商事でも大きな動きがあった。大和社長と繋がりのあった役員たちが次々と辞任を表明。祝辞も言える大規模な人事異動が行われた。
「当然の結果だよな」
伊達から、そんなメールが届いた。
「正直、もっと早くやるべきだった。でも、これでようやくまともな会社になれる。お前のおかげだ」
返信しようとした時、速報が入った。
「クリエイティブビジョン佐野前社長、刑事告訴…背任容疑で」
画面を見て、かつての同僚たちの顔が頭をよぎった。でも、これは必要な痛みだった。業界が健全になるための、避けられない通過点なんだ。
—
それから1年。アートブレインは社員数50名を超える中堅に成長し、「魂の入った仕事」は業界の新しい標準になりつつあった。
「お前さ、やっぱりすごいよ」
休日、伊達と居酒屋で話していた時のことだ。彼の声には、かつて聞いたことのない温かみがあった。
「昔からそうだったよな。どんな状況でも諦めない。むしろ、逆境を力に変える。サッカーができなくなった時も、新しい道を見つけた。しかも、その道で誰よりも輝いている」
ビールジョッキを見つめながら、伊達は続けた。
「これからも、変わらないでくれよ。俺の…永遠の相棒として」
「いや、俺が言うのもおこがましいか」
その言葉に、胸が熱くなる。高校時代、一緒にボールを追いかけた日々。そして今、違う形で夢を追いかける仲間として。
「そんなことない。これからも、よろしく頼む」
それから、休日には一緒にスタジアムへ足を運ぶようになった。かつて自分たちが立っていたピッチを眺めながら、2人で熱く語り合う。
「あの選手の動き、絶対書きたいな」
「お前なら、あの瞬間の躍動感、完璧に表現できるだろう」
スタジアムの座席に腰を掛けながら、かつての親友と語り合う。昔みたいに、夢を共有できる時間。
「そういや」
ビールを飲み干した伊達が、ニヤリと笑った。
「お前、社長とどうなってんの? なんか雰囲気変わってたぞ」
「…別に」
「隠すなよ。お前、右手の薬指に指輪してるじゃん」
思わず右手を握りしめる。伊達の目は、昔から鋭かった。
「…まだ、内緒なんだけど」
「おいおい、親友に黙ってたのかよ」
「だって、タイミングが…」
「お前、相変わらず不器用だよな」
伊達が懐かしそうに笑う。
「でも、おめでとう。白田さん、いい人だもんな」
「…ありがとう」
笑い合う2人の声が、スタジアムに響いた。
人生に、終わりなんてない。どんな挫折も、新しい始まりになり得る。大切なのは、諦めないこと。そして、自分の信じる道を、まっすぐに歩み続けること。
時には、うまくいかないことだってあるはずだ。でも、それは当然のことかもしれない。むしろ、その1つ1つが、また新しい可能性を開く鍵になる。
俺は、これからも描き続ける。魂を込めて。


