「親父、これで我慢しろ」…

「親父、これで我慢しろ」...

血の混じった痰を吐き出す時、人間は自分の命がどこまで続くのかを初めて考える。

黒川竜之助は凍結倉庫の裏壁に手をつき、胃の底から上がってくるものを必死に吐き出した。透明なよだれの中に赤黒い筋が何本も混じっていた。それを見下ろしながら、72歳という数字がひどく遠いものに感じられた。まるで他人の話のように。

深夜、冷凍倉庫の第3区画。零下の空気が肺の奥まで刺さってくる。40年近く市の清掃局で働き続けた体は、もうずっと前から限界のどこかに来ていた。

竜之助は左足を引きずりながら棚の列を確認して回った。左足の不具合は、ゴミ収集車の踏み台から飛び降りる作業を何千回と繰り返した末に来たものだった。倉庫の仕事は警備の名目だったが、実際には荷物の確認と温度計の記録が主な業務だった。時給は820円。最低賃金を20円上回るだけの金額だ。

それでも竜之助には必要だった。年金は月に6万円しか入らない。家賃と光熱費と食費を引けば、残るのはほんの少しだった。だから72歳になった今も、こうして夜の倉庫に立っている。

温度計の数値をバインダーに書き込んでいる時、胸の奥から波が来た。最初は小さな咳。それが見るみるうちに膨れ上がり、竜之助は口を抑えながら体をくの字に折った。咳は何度も重なり、ようやく収まった時、手のひらに赤黒いものがついていた。

竜之助はしばらくそれを見つめた。驚くよりも先に、ひどく疲れた気分になった。病院に行くべきだということは分かっている。しかし、健康保険証の裏に書いてある自己負担額のことを考えると、足が動かなかった。

午前6時を少し回った頃、竜之助は倉庫から外に出た。コンビニの前で缶コーヒーの自動販売機を眺めたが、買わずに通り過ぎた。130円という値段が今の竜之助には簡単に出せるものではなかった。

築40年のアパートは外壁のペンキが剥がれ、廊下の手すりは錆びていたが、竜之助にとっては30年近く住み続けた場所だった。妻が生きていた頃から住んでいる。妻が亡くなって11年が経つが、引っ越しは一度も考えなかった。

鍵を取り出しながら玄関のドアの取っ手に手をかけた瞬間、竜之助は止まった。ドアの向こうから物音がする。誰かがいる。

鍵を回してドアを開けると、部屋の中央に男が立っていた。黒川大機。竜之助の息子。45歳。最後に顔を見たのは5年前だった。その時も金の話だった。

大機の右頬には青紫色の痣があった。片方の目の下も腫れている。唇の端が切れていて、乾いた血がこびりついていた。スーツは着ているが、ひどくシワが寄っていた。部屋の隅に黒いボストンバッグが置いてあった。

竜之助は息子の顔から視線を外し、部屋の中をざっと見渡した。取られたものがないか確認するのが先に来た。

「何しに来た?」

大機がテーブルに何かを置く音がした。竜之助が振り向くと、一枚の書類が置いてあった。ローン会社の名前が見えた。聞いたことのない会社だった。

「保証人になってくれ」

大機の声は低く乾いていた。謝罪も前置きもなかった。金額の欄に数字が並んでいる。150万。借入先は消費者金融ではなく、住所の書いていない会社名だった。

「金はない」

「金を貸してくれと言ってるんじゃない。保証人になれと言ってる」

「同じことだ」

竜之助は息子の顔を見た。頬の痣は殴られたものだ。目が合わない。会社はどうしたのかと聞くと、潰れたと答えた。3ヶ月前に。嫁は離婚して、子供を連れて実家に帰った。

「それで俺のところへ来た」

「返す当てはある。もう少し時間があれば立て直せる。今この場をしのげばいい。保証人になってくれればそれだけでいい」

「その会社はどこだ?」

「知らなくていい」

竜之助は台所へ向かい、ヤカンに水を入れて火にかけた。5年間、電話一本なかった。息子がどこで何をしているかも知らなかった。それが今日、こういう形で現れる。

「無視するのか?」

「お前の会社が潰れたのはお前の責任だ。俺には関係ない」

「親父には子供を助ける気はないのか?」

「助ける金はない。保証人になる気もない」

大機の息が荒くなるのが分かった。気配が変わった。

「親父、聞いてるか? 俺は死ぬかもしれないんだぞ」

「その痣は誰につけられた?」

大機は答えなかった。

「取り立てか」

息子はまた視線を外した。それが答えだった。

竜之助はそのまま息子の顔を見た。かつてこの顔は幼かった。しかし今ここにいる45歳の男は、その子供とはもう別のものだった。顔の作りは似ていても、目の奥にあるものが違う。

「帰れ」

「帰れというのか、俺が死んでもいいのか?」

「俺には助ける手段がない」

「この部屋がある。親父名義の部屋がある。これを担保に入れれば金は借りられる。俺が返す。それだけだ」

竜之助は足を止めた。

「ここを担保に入れたら、俺はどこへ行く?」

「一時的なことだ。返したらまた取り戻せる」

「返せなかったら、俺はどこへ行く」

大機は少しの間黙った。その沈黙が答えだった。

「72になった親父がこの先どれだけ生きると思ってるんだ。それだけの年数、この部屋が必要か」

「お前の借金は俺が作ったのではない」

「分かってる。だから保証人だけ頼んでいる」

「その会社が取り立てに来た時、俺に何かできるか?」

大機は答えなかった。

竜之助が答えを出そうとした時、大機が動いた。素早い動きで、テーブルの上の竜之助のカバンを取り、ジャケットのポケットに押し込んだ。

「何をしている?」

「この中に金庫の鍵が入ってる。印鑑と通帳はそこにある。それだけもらっていく」

大機の声は急に落ち着いていた。竜之助は大機の腕を掴もうとしたが、手は空を切った。

「返せ」

「返さない。俺が死んだら親父の後悔になる。そうなる前にやってる」

竜之助は押入れの方を見た。押入れの下の段の奥に小型の金庫を置いていた。扉が少し開いている。中に入っていたのは年金手帳と印鑑と、それから封筒に入れた緊急用の現金だった。

大機はジャケットの内ポケットを叩いた。

「全部入ってる」

大機はボストンバッグを持ち上げ、玄関へ向かいながら言った。

「数日したら連絡する。それまで少し待ってくれ」

「お前は今、俺から何を盗んだか分かっているのか? 印鑑を持っていったら、お前は俺の名前で何でもできる」

「盗んだんじゃない。借りてる」

「分かっていてやっているのか?」

大機はドアを開けた。振り向いた顔には謝罪も後悔も見えなかった。見えたのは、もうここには返す言葉がないという疲れ果てた表情だった。

ドアが閉まった。

竜之助は部屋の中に一人残った。テーブルには息子が置いていった書類だけが残っていた。年金手帳がなければ来月の年金が降りない。印鑑がなければ何の手続きもできない。封筒の現金は今月の薬代のために取っておいたものだった。

竜之助は深く息を吸った。喉の奥で何かが詰まる感触があった。今は咳をしていられなかった。

3日後の昼過ぎ、竜之助が倉庫の夜勤から戻って布団に横になっていると、玄関のドアが音を立てた。鍵を差し込まれる音がした。大機がキャリーケースを二つ引きずりながら入ってきた。右手には竜之助が知らないスペアキーを持っていた。

「合鍵を作ったのか」

「管理会社に頼んだ。緊急連絡先が息子だって言ったら、すぐ対応してくれた」

大機は部屋を見渡した。自分の居場所を確認するような目つきだった。

「ここで何をする気だ」

「しばらく世話になる。年老いた親の面倒を見る。それの何が悪い」

大機は窓を開け、カーテンを左右に引いた。まるで自分の部屋であるかのように。

「出ていけ」

「嫌だ。ここは俺の部屋だ。親父名義の部屋だ。今、俺が管理している。文句があるなら警察でも呼べばいい。息子が親の面倒を見に来た。それだけのことだ。どの警官も追い出せない」

その言葉は正確だった。竜之助にはそれが分かった。

その日の夕方、大機はテーブルに年金手帳と印鑑を並べた。

「返せ」

「返さない。俺が管理する。親父、正直に話す。俺は今でも借金取りに追われている。もう一度金が必要だ。親父の年金を担保に使う。それだけだ」

「俺の年金は月に6万しかない」

「知ってる。でもそれで回せる。親父は仕事だけしていれば、俺がやりくりする」

「やりくりとはどういう意味だ?」

「生活費を管理するということだ。無駄遣いをなくす。老人は詐欺師に狙われる。俺が管理した方が安全だ」

その言い方は滑らかだった。怒鳴るわけでもなく、謝るわけでもなく、ただ整理された言葉を並べた。それが逆に竜之助には不気味に感じられた。

「俺が自分の通帳を管理できないというのか」

「そういうことだ」

夕食は大機がコンビニで買ってきた弁当だった。一つだけ。大機自身の分だ。竜之助の分はなかった。冷蔵庫に残っていた豆腐と卵が竜之助の夕食になった。

「親父、明かりを落とせ。眩しい」

竜之助はまだ皿を洗っている途中だった。

「もう少しかかる」

「早くしろ」

竜之助は残りの皿を急いで洗い、照明を消した。

翌朝、竜之助が目を覚ますと、大機はすでに起きていた。スーツに着替え、玄関口でスマートフォンに向かって低い声で話していた。数字が聞こえてきた。10万、50万、月末という言葉が断片的に入ってきた。

大機は台所へ行き、竜之助の買い置きのインスタントコーヒーを勝手に使って自分のカップに注いだ。竜之助の分は作らなかった。

「財布を返せ。薬が切れている」

「何の薬だ?」

「咳止めと気管支の薬だ」

「いくらかかる?」

「気管支の薬は3000円ほど。咳止めは1000円ほどだ」

大機はポケットから1000円札を一枚取り出し、テーブルに置いた。

「これで我慢しろ。今日はそれしかない。次の年金が入ったら考える」

ドアが閉まった。テーブルに薄汚れた1000円札が残った。

その夜の夜勤から戻った翌朝、隣の部屋の住人が言った。

「昨日、業者の人が来ていましたよ。大きなものを運び出していた。息子さんでしょうか。一緒にいました」

竜之助は部屋のドアを開けた。最初に気づいたのはテレビがないことだった。次に台所を見ると、電子レンジがなかった。洗濯機もない。全部なくなっていた。

昼過ぎに大機が戻ってきた。

「何をした?」

「売った。2万円になった」

「俺に断りもなく」

「親父のものじゃない。この部屋のものだ。部屋は俺が管理している。売ったものは売った。帰ってこない」

大機はソファに座り、足を組んだ。落ち着いた顔をしていた。

「洗濯機がなければ、仕事着が洗えない。テレビがなければ、夜の時間が何もなくなる。レンジがなければ、温め直しができない。お前は俺の生活を壊している」

「壊してない。不要なものを整理した」

「その2万円はどこへ行った?」

「借金の返済に当てた」

「来月の家賃は出るか?」

「親父の年金が入る。それで払う」

6万円の年金から家賃を払えば、残りは1万5000円前後だ。食費も薬代も光熱費もその中に納めなければならない。

「俺の薬代は後回しだ」

「仕事があるなら死に物狂いで通していろ。飯はコンビニで何か買ってくる。それで我慢しろ。親父は仕事から帰って寝るだけでいい。俺に任せておけ」

竜之助は怒鳴り合いになれば体力を使うと思った。体力は今夜の夜勤のために必要だった。

区役所に相談に行ったが、断られた。息子が同居しており、不動産がある。保護の対象にならない。担当者は申し訳なさそうな顔をしたが、その顔の後ろにこれ以上の話は難しいという意思があるのが見えた。

「それが証明できる書類があれば、判断が変わるかもしれません。ただ、書類の準備には時間がかかります。今すぐには」

竜之助は立ち上がり、頭を下げて区役所を出た。

アパートに戻ると、部屋の中からタバコの匂いがした。竜之助はタバコを吸わない。妻が嫌がっていたため、この部屋では一度も吸ったことがなかった。大機がソファに座り、タバコを吸っていた。

「タバコは禁止だ。俺は肺が悪い」

「窓開けてる」

「消せ」

「すぐ終わる。少し待て」

力では竜之助は勝てない。それは最初から分かっていた。

大機は言った。

「今月中に状況が変わる。俺に話が来ている。それが動けば金が入る。それまでの辛抱だ」

「今月中とは何日先だ?」

「2週間ほどだ」

「2週間、薬なしで生活しろということか」

「仕事をしながら乗り越えろということだ」

その夜、竜之助は眠れなかった。天井のシミを見ていた。息子が7歳の頃、水族館へ連れて行った日のことを思い出した。帰り道に肩車をした。小さな体だったが、肩の上で手を広げてバランスを取ろうとしていた。その感触を覚えている。あの子供が、今日タバコを吸いながら窓を抑えた。

その朝、竜之助は夜勤明けの足で区役所へ向かった。今日の担当は40代の男性だった。竜之助は最初から話した。息子が同居していること、通帳と印鑑を奪われていること、家電製品が無断で売られたこと、薬が切れていること。

担当者は言った。

「ご状況は理解いたしました。ただ、現状では黒川さんには成人した息子さんがいらっしゃいます。同居されている。資産として登録されているお部屋もある。これらの条件が揃っている以上、生活保護の申請を受理することが制度上難しい状況です」

「息子が俺の年金を管理している。俺の手元にお金がこない」

「それが事実であれば民事上の問題になります。法テラスという機関がございまして、無料で弁護士に相談できます。予約が必要ですが」

前回も同じことを言われた。予約は2週間待ちだと言われた。

区役所を出てアパートに戻ると、部屋のドアの前に男が3人立っていた。全員スーツだった。黒いスーツ。真ん中の男が一歩前へ出た。

「黒川さんですか」

「そうだが」

「少しよろしいですか? 息子さんのことで」

部屋の中に大機がいた。ソファに座っていた。顔が青白かった。真ん中の男が部屋に入ってきた。後の2人も続いた。誰も許可を求めなかった。

「大機さん、お話の続きをしましょう」

大機は立ち上がろうとしたが、男の一人が手を肩に置いた。大機はまた座った。

男はテーブルの橋に腰を下ろした。

「先週、約束した分が入っていませんでした。大機さん、もう少し待ってほしい。話が動いている。毎回そう言っている。もう4回目です」

男は書類をテーブルに置いた。

「今日は別の話をしに来ました。息子さんの借金は、今、元本と利息合わせて1500万を超えています。大機さんには返せる見込みがない。そこで、お父さんに相談させていただきたい」

「俺には関係のない話だ」

「そうは行きません。このご自宅を売却していただければ、うちが仲介して相場価格で買い取ります。売却代金のうち1000万をいただければ、大機さんの借金はそれで終わりにします。残りはお返しします」

「ここを売ったら、俺はどこへ行く?」

「それはご自分でお考えください」

「俺に売る理由はない」

男は少し首を傾げた。

「理由はあります。息子さんの家族、つまりお父さんには扶養義務があります。法的に直接請求はできませんが、我々にはいくつかの方法があります」

言葉は丁寧なままだった。しかし「いくつかの方法」という部分の言い方が他と少し違った。

大機がソファの上で身を縮めていた。

男たちは出ていった。部屋に竜之助と大機だけが残った。

「1500万か」

「金融業者だ」

「闇金か」

「グレーだ。法的にはギリギリ問題ない。そういう会社だ」

「1500万を、お前はどうやって作った?」

「何度も借金を繰り返した。返すために借りた。そのうちに膨らんだ」

「あの男たちの言う『いくつかの方法』とは何だ?」

「わからない。あいつらは直接は出さない。でも嫌がらせはする。近所に噂を流すとか、郵便受けに何かを入れるとか」

「お前はこれからどうするつもりだ?」

「分からない」

「仕事を探したか?」

「ハローワークには3回行った。俺の年齢と経歴で雇う会社はない」

「やってみなければ分からない」

「親父には分からない。45で会社が潰れた人間を、どこが雇うか。親父は40年同じ仕事を通してきた。転職というものを知らない」

竜之助は反論しなかった。それは事実だからだ。

「それでも俺には、ここを売る気はない」

「分かった」

その返事が簡単すぎた。竜之助には何かが引っかかった。しかし追い打ちをかける気にもなれなかった。

3日後、竜之助が郵便受けを開けると、封筒が一通入っていた。差出人の名前がなかった。中に一枚の紙が入っていた。プリンターで印刷された文字だった。

『黒川さん、息子さんの借金のことはご存知ですか? 詳しいことはこちらまで』

電話番号が一つ書いてあった。竜之助は紙を畳んでポケットに入れた。証拠として取っておく気持ちが少しあった。

その夜の倉庫はいつもより気温が低かった。三列目に入った時、胸の奥から波が来た。今日の波は違った。最初から大きかった。竜之助は棚に手をついた。懐中電灯が床に落ちた。息が薄いレキの中で発作が来ると、こういうことになる。気管支の薬があれば5秒で収まる。しかし、それが今手元にない。

竜之助はゆっくり口を開けて息を吐き出した。吐き出してからゆっくり吸い込む。急いではいけない。急ぐと余計に閉まる。それは40年で覚えたことだった。

2分ほどかかった。波が少し引いた。完全には収まっていなかったが、歩けるくらいにはなった。

アパートに戻ると、大機はまだいた。竜之助は大機の肩を揺すった。

「朝早く薬を買う金をくれ」

「朝一番にその話か。いくらだ?」

「3000円あれば気管支の薬が買える」

「3000円はない」

「昨夜発作が来た。倉庫の中で薬がなければ対処できない。今夜も同じことが起きたら、倒れるかもしれない」

大機はしばらく黙った。何かを計算しているような目だった。

「今日、何とかしてみる。夕方までに連絡する」

「夕方まで待てるか分からない」

「待つしかない」

大機はまたソファに横になった。

「それまで無理に倉庫へ行くな。今日は休め」

「休んだら金が入らない」

「1日くらい休んでも死なない」

竜之助は休むわけにはいかなかった。シフトを無断で休めば、次のシフトがなくなるかもしれない。あの仕事は代わりがすぐに見つかる。竜之助の年齢では、次の仕事を見つけることの方が難しい。

昼過ぎ、大機が戻ってきた。手に何かの書類を持っていた。

「親父に話がある。今日、不動産の人間に会ってきた。この部屋の査定をしてもらった」

「俺は売らないと言った」

「聞いてくれ。このまま行けば、あいつらはここへまた来る。今度は書類だけじゃない。俺もそれは分かってる。で、一つ考えた。売却して別の安い場所を借りる。2人で移れば、引っ越し先の敷金・礼金は俺が出す。それで借金の一部を片付けて、あいつらの圧力を減らす」

「俺が今の家賃以下の部屋に引っ越せる保証があるか?」

「ある。もっと郊外に行けば、家賃3万以下の部屋はいくらでもある」

「郊外に引っ越せば、今の仕事場まで通えない。仕事を失う」

「仕事は別のを探せばいい」

「俺は72だ。倉庫の夜勤でさえ、今の職場が俺を雇ってくれている。別の仕事が見つかるとは限らない」

大機は黙った。その沈黙は長かった。

「今日の薬はどうなった?」

「今日は無理だった。明日には何とかする」

「昨日も『明日には何とかする』と言った」

大機は答えなかった。

翌日の昼、竜之助が夜勤から戻って横になっていると、ドアをノックする音がした。先日と同じ3人が立っていた。

「本日は具体的なご提案をお持ちしました。入っていいですか?」

男は鞄から分厚い書類を取り出した。

「売買契約書の草案です。ご確認ください」

竜之助は書類を受け取った。ページを開くと、売主欄に自分の名前が印刷されていた。

「俺はこれにサインする気はない」

「まあ、読んでから判断してください」

「読まなくていい。売る気がない」

男はテーブルの上に両手を置き、竜之助の顔を見た。

「黒川さん、息子さんはもう限界です。今週中に一部でも返済がなければ、我々は次の段階へ進みます。次の段階とは何か、今は言えません。しかし、お父さんのご生活に支障が出る可能性はある」

「俺は売らない。お前たちが何をしてくるとしても、それは俺が対処する」

男は書類を回収し、立ち上がった。

「残念です。また来ます」

3人は出ていった。

それから数日後、管理会社から書面が届いた。無届けの同居者がいるという通報があったため、状況を確認したいという内容だった。来週中に連絡するか来社するようにと書いてある。

竜之助は管理会社に行くことにした。大機が同行すると言ったが、外で待つと言った。

「俺が行けば不法同居者として話が進む。親父が行って、息子が一時的に身の回りの世話に来ているという形で説明すれば、まだ交渉の余地がある」

管理会社の担当者は言った。

「正直に申し上げますと、今回の状況は管理会社として看過できないレベルに来ています。他の入居者の方への影響も出始めていますし、もし今後も同様のことが続くようでしたら、退去のお願いをせざるを得なくなります。猶予は2週間です」

またこの数字が来た。

その夜、倉庫で竜之助はシフト担当の管理者に呼ばれた。

「先日の夜、第3区画で体調が悪くなったとのことですが、冷凍倉庫での体調不良は安全管理上、報告していただく必要があります。お医者さんの診断書などはありますか?」

「診断書…薬を処方されたのは1年前だ。今の状況で病院に行けていない」

「黒川さん。率直に言います。72歳で冷凍倉庫の夜勤というのは、会社としても安全面でリスクが高い。今後もし体調に問題が生じた場合は、業務を続けていただくことが難しくなる可能性があります。一度、健康診断を受けていただいて、問題がなければ継続ということでいかがでしょうか?」

「わかりました。近いうちに受けます」

竜之助は頭を下げた。健康診断。その結果次第では、この仕事がなくなる。

夜勤明けの朝、アパートに戻ると、大機がキャリーケースを引き出していた。

「出ていくのか?」

「知り合いのところへしばらく厄介になる。ここにいるとあいつらがまた来る。それが親父に迷惑をかけている。少し距離を置いた方がいいかもしれないと思って」

「それで借金はどうなる?」

「俺が動く。少し動き方を変えてみる」

「年金手帳を返せ。お前が出ていくなら、俺が持っておく必要がある」

大機は立ち上がり、ジャケットの内ポケットを探った。年金手帳と印鑑を取り出し、テーブルに置いた。

竜之助はテーブルへ行き、年金手帳を手に取った。1ヶ月近くになかったものが戻ってきた。薄い冊子が、今日は妙に重く感じた。

大機はキャリーケースを持ち、玄関へ向かいながら途中で立ち止まった。振り向かずに言った。

「親父。悪かった」

竜之助はその言葉を聞いた。どこまでの範囲の話か分からなかった。3週間のことか、それ以前のことか。しかし、今聞き返すことでもなかった。

大機はドアを開け、出ていった。キャリーケースのキャスターが廊下を転がる音が聞こえた。その音が遠ざかり、やがて消えた。

部屋が静かになった。

大機が出ていった翌朝、竜之助は初めて一人で目を覚ました。ソファに誰もいない。台所に誰もいない。自分の部屋が、自分だけのものになった。

竜之助は銀行へ向かった。通帳を差し込み、繰越ボタンを押した。残高は2342円だった。引き出し履歴には、大機が来た翌日から毎週のように引き出しがある。1万円、2万円、5000円。総額で7万8000円。今月の年金とその前の月の金を合わせた額が、ほぼ消えていた。

竜之助は管理会社に電話をかけた。

「息子は出ていきました。今後、同様のことは起きない。電気代の支払いが一時的に遅れている。家賃については、来週の年金が入り次第すぐ払う」

担当者は少し間を置いてから言った。

「息子さんが出られたのであれば、同居の問題は解決ということで記録します。ただ、取り立てと思われる方の出入りについては、今後も続くようであれば改めてご連絡をお願いします。家賃については、来週中であれば今回は猶予を設けます」

一つ片付いた。しかし、片付いたのは形式の上だけだった。問題の中身は変わっていなかった。

竜之助は近所の薬局へ行った。処方箋なしで買える気管支の薬を聞いた。1800円から2500円の範囲だという。財布の中には1000円札が2枚と小銭があった。合計で2300円ほどある。1800円の薬であれば買える。レジで1800円を払った。残りは500円になった。

その日、遅い時間に電話が鳴った。大機の番号だった。

「親父、あいつらから連絡が来た。今週中に親父の部屋に来ると言っている。何か気をつけた方がいいことがあればと思って」

「気をつけることは何もない。来たら来たで対処する」

大機は少し黙ってから言った。

「面接の結果が出た。採用になった」

「そうか」

「日雇いだが、来週から始まる」

「それは良かった」

「また連絡する」

電話が切れた。天井のシミが目の前にあった。大機が仕事を見つけた。それは一つの事実だ。しかし、それが竜之助の状況を変えるかどうかは別の話だった。

翌朝、竜之助が倉庫から出て帰り道を歩いていると、スマートフォンが鳴った。番号に心当たりがなかった。あの男たちのうちの一人だった。

「黒川さんですか? 今日の午前中に伺います。10時頃、いらっしゃいますか?」

竜之助は少し考えた。夜勤明けで10時まで2時間もない。

「いる」

10時を少し過ぎた頃、ドアをノックする音がした。今日は2人だった。先日来た4人のうちの真ん中にいた男と若い男だ。今日は薄いファイル一冊だけだった。

男はファイルを開き、一枚の紙を取り出した。それは売買契約書ではなかった。別の書類だった。『債権譲渡通知書』と上に書いてある。

「説明します。息子さんの借金について、我々は別の会社に債権を譲渡しました。つまり、今後の取り立ては別の会社が行います。我々の役割はここで終わりです」

「俺にはどういう関係がある?」

「直接の関係はありません。ただ、お父さんにも一応通知をということで参りました。今後、別の会社から息子さんに連絡が行くかもしれません。ご家族への連絡が来る可能性もあります。その点だけご承知おきください」

男はファイルを閉じ、立ち上がった。玄関へ向かいながら、振り向かずに言った。

「お父さん、一つだけ。息子さんは日雇いで仕事を始めると聞きました。それ自体は別に関係ありませんが、借金の額からすれば焼け石に水です。その点はご理解ください」

2人は出ていった。部屋に一人残った。問題が消えたわけではない。別の会社に移っただけだ。しかし、とりあえず今日、あの顔たちは来なくなった。

数日後、年金が入った。竜之助は銀行で通帳を確認した。6万200円が入っていた。その足で電力会社の窓口へ向かい、電気代を払った。3200円。次に家賃を振り込んだ。6万2000円を超える金額が消えた。残りは数千円になった。

帰り道に薬局に寄り、処方箋を持って気管支の薬を正規に買いたいと聞いた。処方箋がなければ出せないと言われた。病院に行く必要がある。しかし、初診料と処方料を合わせると3000円近くかかる。今の残金では厳しかった。先日買った市販薬がまだある。それで今週はしのげるかもしれない。来月の年金が入ったら病院に行く。そういう順番で考えるしかなかった。

竜之助は手帳をテーブルに置いた。窓の外を見た。空が少し明るくなっていた。今日は珍しく晴れそうだった。

洗濯機がない生活が続いていた。手洗いで済ませるか、コインランドリーへ行くかのどちらかだ。今週は手洗いにした。コインランドリーの300円が惜しかった。

台所のシンクに水を張り、作業着を沈めた。手で揉みながら洗う。指の腹に力を入れて汚れを落としていると、40年間の仕事のことが思い出された。ゴミ収集の仕事では、手を洗うことが癖になっていた。1日に何十回も洗った。それでも汚れと匂いは完全には落ちなかった。

シンクを洗いながら、竜之助は今の自分の生活の細部を確認した。電気はある。水はある。食べ物は少しある。薬は一時的なものがある。仕事はある。部屋はある。全部ある。

夕方、作業着が乾いたかどうか確認しようとして廊下に出ると、隣の女性がちょうど仕事から帰ってきたところだった。

「息子さん、もう戻られないのですか?」

「出ていきました。しばらくは一人です」

「そうですか。…最近、変な手紙が来ていまして。差出人のない封筒で。黒川さんのところの息子さんについて書いてあるような内容で、捨ててしまいましたが」

「あなたのところにも届いたのですか? …ご迷惑をかけました」

「いえ。ただ、捨てたので気にしていないのですが、他の方にも行っていると思ってお知らせしようかと思いました」

手紙が複数の部屋に届いていた。あの男たちが言っていた「周知」というのが、こういう形で動いていた。

夜勤の前に横になった。眠れなかった。天井のシミを見ていた。

大機が来た朝、金庫が開けられていた朝、テレビがなくなっていた朝、区役所の窓口で断られた日、男たちが4人で来た日、管理会社に呼ばれた日、健康診断の話をされた日、大機がキャリーケースを持って出ていった朝、2342円という通帳の残高。こういうことが72歳の人間に起きた。

竜之助は、これを誰かのせいにしたいかどうか自分に聞いてみた。答えはどれも完全にはならなかった。大機のせいではある。しかし、大機だけのせいではない。あの男たちは確かに問題を大きくした。しかし、そもそもの借金は大機が作った。区役所は制度の通りに動いた。それを責めるのは難しい。

起きたことは起きた。これからどうするかの方が、誰のせいかよりも大事だった。

年金が月6万円入る。倉庫の夜勤が健康診断の結果次第で続くかどうか決まる。大機は日雇いで働き始めた。借金は別の会社に移った。部屋はまだある。72歳の人間が倉庫の夜勤をしながら、一人でこの部屋で生きていく。それが今の答えだった。華やかさも誇りもない答えだったが、今日の竜之助が出せる答えはそれだった。

時計を見た。夜勤の開始まで30分を切っていた。起き上がり、作業着に着替えた。昼間手洗いしたもので、今日は乾いている。ジャンパーを羽織った。懐中電灯の電池を確認した。問題なかった。

玄関で靴を履いた。立ち上がった時、ふと部屋を振り返った。テレビのない壁、電子レンジのないカウンター、洗濯機のない窓、ソファの橋のわずかなへこみ。それだけが残っている。しかし、部屋はある。明日も、今夜の仕事がある。

竜之助はドアを開けた。廊下の電球がまだ切れたままだった。暗い廊下を歩いた。階段を降りた。外に出ると、夜の空気が来た。冷たかったが、今夜は風がなかった。

歩き始めた。左足を少し引きずりながら、駅へ向かった。空を見上げた。今夜は雲が少なかった。星がいくつか見えた。この町では珍しかった。

竜之助は歩きながら、それを少しの間見ていた。見える時はある。それだけのことだ。だが、今夜は見えた。

竜之助は前を向いて歩き続けた。

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