静まり返ったリビングに、義母の鋭い笑い声が響き渡った。テーブルに叩きつけられた一枚の紙。そこには、出張中のはずの夫の署名が乱暴に記されていた。
「あんたみたいなのはもう要らないわ。10分以内にこの離婚届を役所に叩きつけてきなさい。それが唯一の家族孝行よ。おほほ。」
目の前で勝ち誇ったように鼻を鳴らす義母。私の人生をゴミのように扱うその態度に、普通なら絶望して泣き崩れる場面だろう。けれど、この時の私は違った。数分前まで感じていた胸のざわつきは、一瞬で晴れ渡るような解放感へと変わっていた。義母はまだ何も気づいていない。自分の放ったその一言が、自分たちの首を締める最強の引き金になったということに。
そして、この10分後、我が家のパワーバランスは想像を絶する形で大逆転することになる。
遡ること3年前。私、真梨は3歳上の夫・健二と結婚した。大手企業に勤める健二は、外では仕事のできるエリートとして通っていたが、家では絵に描いたような亭主関白だった。その背後には常に、過干渉でプライドの高い義母・静子の存在があった。
「真梨さん、今日の味噌汁、出汁が薄いわね。健二はもっと濃い味が好きなのよ。育ちが知れるわね。」
週末になればアポなしで我が家に上がり込み、重箱の隅をつつくような嫌みを連発する静子。私はその度に、波風を立てないよう黙って頭を下げてきた。健二に相談しても「母さんは悪気がないんだから、お前が我慢しろよ」と取り合ってくれない。むしろ健二は静子と一緒になって私を貶めることを楽しんでいるようだった。
「真梨は専業主婦なんだから、家事ぐらい完璧にこなせよ。俺の稼ぎで食わせてもらってる自覚あるのか?」
それが口癖だった健二。しかし、彼ら親子は決定的な勘違いをしていた。私がなぜ彼らの理不尽な要求に黙って耐え続けてきたのか。そして、私が本当は何者であるのかを。
その日の朝、健二は1週間の海外出張だと言って家を出ていった。
「お土産なんて期待するなよ。仕事で忙しいんだからな。」
そう言い残して去っていった夫の背中を、私は冷めた目で見送っていた。彼が家を出てから数時間後、インターホンが壊れたのかと思うほどの激しい連打と共に、静子がやってきた。その手には、不敵な笑みと共に握りしめられた離婚届があった。
「さあ、真梨さん、今すぐこれにサインして、そして今から10分以内に役所へ行きなさい。」
唐突な要求に、私はわざとらしく驚いたふりをして見せた。
「お義母さん、一体どういうことですか? 健二さんは出張に…」
「白々しいわね。健二はもうあんたとの生活に限界なのよ。出張なんて嘘に決まってるじゃない。今頃彼は、ふさわしい女性と新しい人生の準備をしてるわ。」
静子の口から飛び出した衝撃の事実。夫の出張は嘘であり、不倫相手との旅行であること。そして、この離婚届は健二と準備された計画の一部であること。
「所詮、中卒の貧乏人がうちの嫁でいられたこと自体が奇跡なのよ。ほら、早く書きなさいよ。それとも慰謝料が欲しくてグズグズつもり?」
静子の言葉は、もはや隠そうともしない悪意に満ちていた。彼女は私の家計や学歴を徹底的に下げ、自分たちの優位性を誇示しようと必死だった。しかし、私は沈黙を守った。ただじっと、テーブルの上の離婚届を見つめていた。私のあまりの静かさに、静子はさらに勢いづく。
「何よ? 声も出ないほどショックなわけ? 情けない女ね。あんたの代わりなんていくらでもいるのよ。健二の新しい彼女は資産家の令嬢なんだから。あんたとは月とスッポンなのよ。」
私はゆっくりと顔を上げた。その時、私の瞳に宿っていたのは悲しみではなかった。
「お義母さん、本当にいいんですか? 後悔しませんか?」
私の問いかけに、静子は鼻で笑った。
「後悔? するわけないじゃない。あんたがいなくなることが、我が家にとって最大の喜びよ。さあ、10分よ。10分以内に出してこないと、荷物のまま追い出すわよ。」
「わかりました。そこまでおっしゃるなら。」
私はペンを手に取り、迷うことなく自分の名前を書き込んだ。その筆跡はこれまでになく力強く、そして晴れやかだった。
「はい、書きました。今すぐ役所へ行ってきますね。」
私が笑顔でそう言った瞬間、静子の顔がピクリと歪んだ。想定していた泣き叫ぶ私の姿が、そこにはなかったからだ。
「え、あんた…、何を嬉しそうにしてるのよ。」
戸惑う静子をよそに、私は書類を手に取り玄関へと向かった。その足取りは、まるで長年の重りから解放されたかのように軽やかだった。
「それではお義母さん、これでお別れですね。お元気で。」
私は背後で呆然と立ち尽くす静子を置き去りにし、ドアを閉めた。外の空気は驚くほど美味しく、空はどこまでも青く澄み渡っていた。しかし、静子はまだ気づいていない。この家が誰の名義で、この生活を支えていた本当の資金源がどこにあるのかということ。そして、役所に離婚届が受理された瞬間に、自分たちが何を失うことになるのかを。
私は役所へと向かうタクシーの中で、一台のスマートフォンを取り出した。それは健二や静子には決して見せたことのない、私専用の端末だった。ある番号を呼び出すと、すぐに馴染みのある落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
「お祖父様、お待たせしました。今、終わりました。」
私は窓の外を流れる景色を見つめながら、静かに告げた。これから始まるのは、義理の親子への復讐劇ではない。ただ、奪われていたものをあるべき場所に戻すだけの、簡単な作業だ。
役所に到着した私は、迷わず窓口へと向かった。時計の針は、静子が指定した10分を過ぎようとしている。提出を終えたその瞬間、私のスマートフォンが激しく震え出した。画面に表示されたのは、出張中のはずの夫・健二の名前。一体、何が起きたというのだろうか。
「おい、真梨。お前、何をしたんだ? 説明しろ!」
受話口の向こうから聞こえてきたのは、先ほどまでの余裕などみじんも感じられない、健二の恐慌した叫び声だった。
「お前、さっき離婚届を出したのか? 受理されたっていう通知が、なぜか俺のアプリにも来てるんだよ。どういうことだ? 説明しろ!」
私は窓口から少し離れたベンチに腰を下ろし、穏やかな声で答えた。
「どういうことも何も、お義母さんに言われた通りにしただけですよ。10分以内に役所に出して来いって、あんなに急かされたんですもの。愛する夫・健二さんの願いを叶えてあげただけです。」
「ああ、お袋が…。いや、それより今すぐ取り消してこい! 今すぐにだ!」
「無理です。もう受理されました。私たちは、たった今正式に他人になったんです。おめでとうございます、健二さん。これで不倫相手の方と、堂々と旅行を楽しめますね。」
「なんでそれを…!」
健二が絶句するのが、電話越しに伝わってくる。私はふうと小さくため息をついた。私たちが結婚したのは3年前のこと。当時、中堅の商社マンだった健二は、今の傲慢さからは想像もできないほど優しくて誠実そうな男性だった。
「君を一生守る。苦労はさせない。」
そんな言葉を信じて、私は彼との結婚を決めたのだ。しかし、新婚生活が始まって1ヶ月も経たないうちに、彼の本性は現れた。
「おい、真梨。このシャツ、アイロンのシワが残ってるぞ。専業主婦のくせに、こんな簡単なこともできないのか。」
「夕食に肉がないじゃないか。俺が外でどれだけ神経を削って稼いでると思ってるんだ。お前は俺の金で飯を食わせてもらってる、ただの居候なんだから、もっと感謝の気持ちを持てよ。」
健二は家にいる間、ずっと私を家来か何かのように扱い、ことあるごとに「俺の稼ぎ」を盾にして私を支配しようとした。そして、それに拍車をかけたのが、近所に住む義母の静子だった。静子は週に何度も我が家にやってきては、冷蔵庫の中を勝手にチェックし、掃除の不出来を指摘して回るのが日課だった。
「ああ、真梨さん、こんな安物の野菜を買って。健二の体は一流の食材で作られなきゃいけないのよ。あんたの実家が貧乏だからって、うちの息子まで貧相な食事をさせるつもり?」
静子は私の実家を徹底的に見下していた。私が地方の一般家庭の出身であること、そして学歴も大したことがないと思い込んでいることを理由に、ことあるごとに侮辱的な言葉を投げつけてきた。
「中卒同然のあんたを拾ってあげた健二に感謝しなさい。普通ならあんたみたいな女は、うちの家系に近づくことすら許されないんだから。」
実際には、私は海外の大学を飛び級で卒業し、複数の学位を持つ身だったが、健二と出会った時はあえてそれを伏せていた。肩書きや家柄ではなく、私という人間を見てほしい。若さゆえの、そんな青い願いが今の地獄を招いてしまったのかもしれない。静子は私が彼らの暴言に黙って耐えているのを、言い返す言葉もない無能な女だと勘違いし、年々その態度はエスカレートしていった。最近では健二は生活費すら渋るようになり、私に自由な外出さえ禁じるようになっていた。
「お前みたいな世間知らずが外に出ても、恥をかくだけだ。この家の中で、俺たちのために尽くしていればいいんだよ。」
それが健二の口癖だった。けれど、彼は1つ大きな勘違いをしていた。私には、彼らの知らないもう1つの顔があるということを。
「真梨、聞いてるのか? 今すぐ役所に駆け込んで、離婚を無かったことにしろ! そうしないと、俺のブラックカードが使えないんだよ! さっきホテルでチェックインしようとしたら、エラーが出やがった!」
健二の叫び声で、私は現実へと引き戻された。
「ブラックカード? あれは私の家族の家族カードですから。離婚が成立した瞬間に、本会員である私の父が利用を停止したみたいですね。」
「はあ? お前の父親? 何を言ってるんだ。あんな貧乏な…」
「ふふ。健二さん、お義母さんから何も聞いていないんですか? ああ、そうですよね。お義母さんも、まだ何も知らないんですもの。」
私は立ち上がり、役所の出口へと向かった。自動ドアが開くと、目の前には一台の高級黒塗りセダンが止まっていた。運転席から降りてきた黒スーツの男性が、私に向かって深々と一礼する。
「お嬢様、お迎えに上がりました。」
私はその光景を横目に見ながら、スマートフォンに向かって穏やかに告げた。
「健二さん、あなたが今、泊まっているその豪華なホテルも、私たちが住んでいたあのマンションも、誰が本当のオーナーか考えたことはありませんか?」
「はあ? 嘘だろ? おい、真梨、待て! 切るな!」
健二の悲鳴のような声を無視して、私は通話を切った。ちょうどその時、私のスマートフォンに一通のメールが届く。それは自宅に残してきた義母・静子からのものだった。
『真梨さん、早く戻ってきなさい。今すぐよ。部屋の鍵が開かないの。それに、さっきから変な男たちが来て、荷物を運び出そうとしてるのよ。早く追い出しなさいよ!』
文字からも、静子のパニックぶりが伝わってくる。私はふっと口元を緩め、運転手に指示を出した。
「家へ戻ってください。ただし、少し遠回りをして。お義母様が存分に絶望する時間を、プレゼントしてあげたいんです。」
車が滑り出すように走り始めた。これから自宅で繰り広げられるであろう、最高に愉快な光景を想像しながら、私は窓の外の景色を楽しんでいた。静子たち親子が築き上げてきた砂の城が、音を立てて崩れ去ろうとしている。
私が家に戻った時、そこには想像を絶する光景が広がっていた。高級セダンの後部座席で揺られながら、私はスマートフォンの画面を眺めていた。画面には自宅の玄関前に設置した防犯カメラの映像が、リアルタイムで映し出されている。そこには、ボサボサの髪を振り乱し、玄関のドアノブをガチャガチャと激しく回す静子の姿があった。
「開けなさいよ! 何なのよ、これ! どうして鍵が合わないの? 真梨、そこにいるんでしょう! 出てきなさい!」
静子の金切り声が、カメラのスピーカーを通じて車内に漏れ聞こえてくる。かつて気高さを気取って私を見下していた、あの姿はどこにもない。そこにいるのは、ただの理不尽な怒りに駆られた老婆だった。マンションの前に車が静かに停車した。私が車から降りると、エントランスの前で数人の作業員たちに詰め寄っていた静子が、こちらに気づいて慌てた様子で駆け寄ってきた。
「ちょっと真梨、あんた、どこに行ってたのよ。それに、何なのよ、その車。どうせ、私がいないのをいいことに、男にでも泣きついて送ってもらったんでしょう。どこまで恥知らずな女なのかしら。」
静子は私の姿を見るなり、開口一番に罵声を浴びせてきた。彼女の背後では、引っ越し業者のスタッフたちが困り果てた表情で立ち尽くしている。共有スペースには、いくつかの大きなダンボール箱が積み上げられていた。
「お義母さん、そんな大きな声を出さないでください。近所迷惑ですよ。」
私が冷静に言うと、静子は顔を真っ赤にしてさらに激昂した。
「近所迷惑? ふざけないでちょうだい。私を締め出したのはあんたでしょう! 10分以内に役所に行けとは言ったけど、誰が家の鍵を変えろと言ったのよ! それに、この人たちは何? 勝手に健二の荷物を運び出そうとしてるのよ。立派な窃盗じゃない!」
静子は作業員の1人を指差し、震える声で叫んだ。作業員のリーダー格の男性が、困ったように私の方を見た。
「お、奥様。ご指示通り作業を進めておりますが、こちらの方がどうしても納得されないようでして…」
私は作業員の方に小さく頷き、再び静子の方へ向き直った。
「お義母さん、誤解しないでください。彼らは窃盗犯ではありません。私が正式に依頼した、不要品回収と引っ越しの業者さんです。」
「不要品? 健二のゴルフバッグや、私が買ってあげた高級な家具をさして、不要品だっていうの? あんた、頭がおかしくなったんじゃないの?」
静子は私の肩を掴んで揺さぶろうとしたが、私はそれをひらりと身をかわして避けた。その仕草がさらに彼女のプライドを傷つけたのか、静子の目は釣り上がり、言葉のナイフが次々と飛んできます。
「いい? 勘違いしないでちょうだい。ここは私の息子・健二の家なのよ。あんたみたいな、規格外の女が勝手なことをしていい場所じゃないの。離婚届を出したなら、もうあんたは他人なんだから、さっさと自分の荷物だけまとめて出ていきなさいよ!」
「お義母さん、1つ訂正させてください。この家は、健二さんの家ではありません。」
「はあ? 何をバカなことを。健二が給料でローンを払ってるんでしょうが。」
私はバッグの中から一通の書類を取り出し、静子の目の前に突きつけた。それは、このマンションの権利書の写しだった。
「よく見てください。所有者の欄。ここには、健二さんの名前なんてどこにもありません。このマンションは、私の父が私の結婚祝いとして一括で購入したものです。つまり、名義も支払いも、全て私側なんです。」
静子は、ひったくるように書類を奪い取り、老眼鏡をかけ直して必死に文字を追った。
「な、真梨、嘘よ。そんなはずないわ。健二は自分が買ったって言ってたわよ。毎月のローンの支払いだって…」
「健二さんがローンの支払いだと言って、毎月口座から引き出していたお金は、全部ギャンブルと不倫相手とのデート代に消えていたんですよ。私が黙って、その分を補填していただけです。」
「なんですって…」
静子の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。しかし、彼女はまだ認めようとしない。震える手で書類を握りつぶし、さらに声を荒げた。
「嘘よ。そんな作り話に騙されないわ。あんたの実家は、地方の寒村じゃないの。こんな都心の一等地のマンションをポンと買えるわけがないわ。健二を貶めるために偽造した書類を持ってくるなんて、どこまで腐った女なの。」
静子の醜さと傲慢さには、呆れるのを通り越して哀れみすら感じた。彼女は私の父が、海外でも広く事業を展開するグループの創業者であることを知らない。私はただ普通の結婚生活を送りたいという願いから、資産については最低限の説明しかしていなかった。それを彼らは勝手に「貧乏な家庭」だと解釈し、私を貶めてきたのだ。
「お義母さん、信じられないなら、健二さんに確認してみたらどうですか? ああ、でも、今の健二さんは自分の心配で手一杯かもしれませんね。先ほども言いましたが、彼が使っていたブラックカードも、今さっき利用停止になりましたから。」
「カードの停止? どうしてあんたに止められるのよ。あれは…」
「あれは私の家族の家族カードですから。離婚が成立した以上、家族ではない健二さんに貸し出しておく理由はありません。」
私が淡々と告げると、静子は言葉を失い、金魚のように口をパクパクさせた。そこに、再び私のスマートフォンが鳴り響いた。今度は健二からではなく、見知らぬ番号からだ。
「はい、真梨ですが。」
電話に出ると、受話口の向こうから聞こえてきたのは、先ほどとは打って変わった情けない鳴き声だった。
「真梨…、頼む、助けてくれ。ホテルを追い出されそうなんだ。それだけじゃない。今、会社から電話があって、俺のこれまでの経費精算に不正があるって、調査が入るって言われたんだよ。真梨。お前、何をしたんだ?」
電話の声は、静子にも聞こえるほどの大きさだった。静子の顔が、恐怖で引きつっていくのが分かる。私は冷たい微笑みを浮かべ、静子の目をじっと見つめながら答えた。
「あら、健二さん、私は何もしていませんよ。ただ、あなたの本当の姿を、あるべき場所に報告しただけです。不正な経費で不倫相手と旅行していたこと。そして、私の父の会社の関連企業であることを利用して、裏口で便宜を図ろうとしていたこと。全て、ね。」
「なあ、お前、会社にまで連絡したのか…!」
「当たり前でしょう。離婚したんですもの。もう、あなたの不祥事を隠してあげる義務はありません。」
健二の絶叫が響きわたる中、私は通話を切った。静子はガタガタと膝を震わせ、今にもその場に崩れ落ちそうだった。
「そ、そんな…。そんなこと許されないわ。健二はエリートなのよ。私の自慢の息子なのよ。あんたみたいな女が、健二の人生をメチャクチャにするなんて…」
「メチャクチャにしたのは、私ではなく、あなたたち親子自身ですよ。」
私は静子に歩み寄った。彼女は怯えたように後ずさりし、積み上げられたダンボール箱にぶつかった。
「お義母さん、思い出してください。あなたは私に言いましたよね。『10分以内に離婚届を出してこい』と。『あんたがいなくなることが我が家にとって最大の喜びだ』と。ええ、そのお望み通り、私はもうあなたの家族ではありません。ですから、この家にある私の資産、家具も家電も、そしてこの家そのものも、あなたたちには1分1秒たりとも貸すつもりはありません。さあ、健二さんの荷物はあちらにまとめました。今すぐそれを持って、ここから立ち去ってください。」
私が指差した先には、使い古された健二のスーツ類やゴルフバッグ、そして静子が勝手に持ち込んでいた私物が乱雑に積まれていた。
「待って、待ちなさいよ。行くところなんてないわよ。健二が帰ってくるまで、ここで待たせて。」
「いいえ。健二さんはここには帰ってきません。というか、帰ってこれません。警察が、彼の帰国を待っているはずですから。」
「警察!?」
静子の叫び声が、エントランスに虚しく響いた。その時、マンションの敷地内にさらにもう一台の車が入ってきた。そこから降りてきた人物を見て、私は少しだけ目を細めた。それは、健二と不倫関係にあり、静子が資産家の令嬢と持ち上げていたあの女性だった。
高級車のエンジン音が止まり、そこから降りてきたのは、派手なブランド品に身を包んだ若い女だった。彼女こそ、健二の不倫相手であり、静子が資産家の令嬢と崇めていた梨華だった。梨華は、エントランス前で立ち尽くす静子と、そして積み上げられた荷物を見て、露骨に顔をしかめた。
「ちょっと、お義母様。何なんですか? この散らかった状況は。せっかく健二さんと新しい生活を始めるためにお祝いを持ってきてあげたのに。」
梨華は手に持った高級シャンパンのボトルを振りかざしながら、スタスタと歩み寄ってきた。静子は救い主を見つけたかのように、梨華の腕にすがりついた。
「梨華さん。ああ、梨華さん、助けてちょうだい。この女、真梨が急に暴れ出して、私たちを追い出そうとしてるのよ。」
梨華は静子の言葉を聞くと、私を頭の先から爪先まで下品な目で見つめた。
「ふうん。あんたが健二さんを縛りつけていたっていう、あの冴えない奥さん? 噂には聞いてたけど、本当に地味で貧相ね。その格好、スーパーの特売にでも行くつもり?」
梨華の言葉に、静子が勝ち誇ったように追随する。
「そうなのよ。育ちが悪いから、上品さの欠片もないの。梨華さんみたいな一流のお嬢様とは、大違いだわ。」
私は何も言わず、ただ黙って彼女たちのやり取りを見つめていた。その沈黙を、勢いがないと勘違いしたのか、梨華はさらに言葉を荒げる。
「ねえ、聞いてる? 健二さんはもうあんたに愛情なんて微塵もかけてないの。これからは私がこの広いマンションで、健二さんとお義母様を支えていくのよ。あんたみたいな低学歴の女が住んでたせいで、部屋の空気が濁ってる気がするわ。さっさと消えてくれない?」
梨華は鼻をつまむような仕草をして、クスクスと笑った。
「お義母様から聞いたわよ。実家はド田中の農家なんですって。都会の暮らしは大変だったでしょう。あんたには、泥にまみれて土でもいじってるのがお似合いよ。このマンションの価値も分からないような女に、ここに居座る権利なんてないんだから。」
梨華の侮辱は止まらない。彼女は私が持っていたバッグを指さし、さらに嘲笑を重ねた。
「何よ、そのバッグ。本物だと思ってるの? 健二さんに買ってもらったのかしら。まあ、健二さんも優しいから、ゴミみたいな女に同情して、偽物でも与えておいたんでしょうね。かわいそうに。」
静子も梨華の勢いに乗り、私を指差して高笑いした。
「キーッタ、真梨さん、これが本物の教養と余裕よ。あんたみたいに夫の稼ぎに依存して、最後は家まで乗っ取ろうとする卑怯者とは大違いね。さあ、梨華さんの言う通り。さっさとド田舎の実家に帰りなさい。」
2人の罵声がエントランスに響き渡る中、私はただ時計をじっと見つめていた。彼女たちの言う「資産家の令嬢」という肩書き。そして梨華が乗ってきた車。全てが嘘っぱちで、私は笑いをこらえるのに必死だった。
「どうしたの? 悔しくて声も出ない? それとも、自分の惨めさにやっと気づいたのかしら。」
梨華が私の顔を覗き込むようにして、勝ち誇った顔をした。私はゆっくりと口を開いた。
「梨華さんとおっしゃいましたっけ? 1つ伺いたいのですが、そのお車、レンタカーですよね。それも、かなり古いモデルの。」
梨華の表情が一瞬で凍りついた。
「はあ? 何をバカなこと言ってるの? これは私のパパが買ってくれた…」
「我が社の関連企業であるリース会社から、昨日借り出された記録があります。名前は梨華ではなく、別の偽名を使われていたようですけどね。そして、そのバッグも、ロゴの配置が少しずれています。本物を見たことがない方は、気づかないかもしれませんが。」
「な、あんた…!」
梨華の声が裏返った。私は彼女の動揺を逃さず、今度は静子の方を向いた。
「お義母さん、あなたが資産家の令嬢と信じている彼女の本当の正体、ご存知ですか? 彼女は、私の実家が運営している奨学金制度の対象者リストに載っていた、ただのフリーターですよ。それも、多額の借金を抱えて行方をくらましていた。」
静子の顔が、今度は土色に変わった。
「い、いえ、嘘よ。梨華さんは、代々続く不動産業の…」
「彼女の実家が営んでいたのは、地方の小さな清掃業です。それも、数年前に倒産しています。健二さんに近づいたのは、彼の商社マンという肩書きと、私が彼に持たせていたブラックカードに目がくらんだからでしょうね。」
「黙れ! 黙りなさいよ、この泥棒猫! あんたこそ、自分の立場が分かってないのよ。健二さんは私の味方なんだから。健二さんが帰ってくれば…」
「健二さんなら、もう帰ってきませんよ。先ほども言いましたが、彼は今、警察の事情聴取を受けているはずですから。不正経費の件だけでなく、あなたが健二さんにやらせた、あることについてもね。」
梨華の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。「あること」という言葉に、彼女の心当たりが的中したようだ。その時、マンションの入り口に数人の屈強な男性たちが現れた。彼らは私を見ると、深々と頭を下げた。
「お嬢様、お待たせいたしました。こちらの方々の、強制退去の準備が整いました。」
静子はその光景を、呆然と見つめるしかなかった。しかし、本当の絶望はここから始まる。
「ちょっと、退去って何よ? 私の荷物は? 健二のゴルフバッグはどうなるのよ!」
静子が叫ぶが、作業員たちは淡々と作業を続ける。
「お義母さん、そして梨華さん。あなたたちには、これからじっくりと事情聴取をしていただかなければなりません。」
私は梨華が持っていたシャンパンのボトルを軽く指差した。
「そのシャンパン、実は健二さんのカードで買ったものでしょう。でも、残念ながら、その決済はエラーで通っていないはずですよ。未払いの状態で商品を持ち去る。これも、立派な犯罪ですよね。」
梨華の持つボトルが、ガタガタと震え出した。次々と明かされていく真実に、静子の理性が崩壊していく音が聞こえるようだった。
「嘘! 嘘よ! 健二を呼んで!」
静子が地面に座り込み、泣き叫び始めたその時、私のスマートフォンに新たな通知が届いた。それは、健二の会社から送られてきた、正式な解雇通知と損害賠償請求の書面だった。そして、そこには静子さえも知らない、健二の最大級の裏切りが記されていた。
「嘘よ。全部でたらめよ。この女、私たちの仲を裂くために、偽の情報をどこかから仕入れてきたんだわ!」
梨華が金切り声をあげ、私の目の前で激しく足を踏み鳴らした。その拍子に、彼女が履いていたハイヒールの踵がくんっと折れ、見苦しい格好でよろける。しかし、彼女は執念深く私を睨みつけ、震える指を突きつけてきた。
「あんた、自分が何をしてるか分かってるの? 健二さんは私のパパの会社と、大きな取引をするはずだったのよ。それをあんたがぶち壊したの。損害賠償で、一生牢屋に入れてやるから!」
梨華の形振り構わぬ脅しに、静子もすがりつくように同調する。
「そうよ、そうよ。真梨さん、梨華さんの言う通りだわ。あんたが健二の邪魔をしたせいで、私たちの輝かしい未来が台無しじゃない。今すぐ健二の会社に電話して、全部私の嘘でしたって言いなさい。そうすれば、今回だけは許してあげるわ。」
2人はもはや現実を見ることができなくなっていた。自分たちが築き上げてきた虚構の世界が崩れるのを防ごうと、必死に私を悪者に仕立て上げようとしている。
「どうしたの? 早く電話しなさいよ。黙ってないで、何か言ったらどうなの? コラ!」
静子が私の腕を掴み、爪が食い込むほどの力で揺さぶった。私は痛みをこらえながら、ただじっと彼女たちの狂態を見つめていた。すると、梨華が私の沈黙を屈服と勘違いしたのか、さらに残酷な笑みを浮かべた。
「ねえ、お義母様、いい考えがあります。この女、どうせ行くところなんてないんですから。私たちの新しい家で、下働きの家政婦として雇ってあげましょうよ。今までのお詫びとして、一生ただ働きで尽くさせるの。掃除に洗濯、私の靴磨きまでね。あはは。お似合いじゃない?」
「まあ、梨華さん、素敵だわ。それなら健二の心も晴れるでしょうね。真梨さん、良かったわね。路頭に迷わずに済む方法を作ってあげたわよ。さあ、今すぐ土下座して感謝しなさい!」
2人は私の周りを囲み、汚い言葉を浴びせかけ、私を精神的に追い詰めようと必死だった。エントランスを通る住人たちが、遠巻きに私たちを見てひそひそと囁き合っている。その視線が私を突き刺すようだった。しかし、私は一言も発しなかった。ただ、心の中でカウントダウンをしていた。
「あと30秒。」
「何よ、その目は。反抗的な態度ね。土下座よ。土下座しなさい!」
静子が私の背中を押そうと手を伸ばした、その時だった。エントランスに設置された大型モニターと、住人全員のスマートフォンが一斉に緊急通知の音を鳴らした。それは、この管理組合及びオーナー事務局からの緊急重要告知だった。
静子と梨華も、何事かと自分のスマートフォンを取り出した。画面を見た瞬間、2人の顔が今度こそ完全に凍りついた。通知の内容は、こうだった。
『本日、当マンションの前後及び共有施設において、不正な金融取引に関与した疑いのある居住者1名の立ち入りを、永久に禁止いたします。対象者は、403号室居住の佐藤健二氏。なお、同氏は所有者である真梨氏の承諾なく、本物件を担保に多額の借入れを行っていたことが判明いたしました。』
「え…」
静子の手が震え、スマートフォンがタイル張りの床に落ちて、画面が砕けた。
「健二が…この家を担保に…借金?」
「それだけではありませんよ、お義母さん。」
私はようやく口を開いた。その声は、驚くほど冷静で冷徹だった。
「健二さんは、私の父のこの家だけでなく、お義母さん、あなたが住んでいるあの実家も、勝手に担保に入れていたんですよ。」
静子の瞳が、大きく見開かれた。
「な、何を言ってるの? 実家は私の名義よ。健二に貸した覚えなんて…」
「健二さんは、あなたの実印を勝手に持ち出していたんです。梨華さんに貢ぐための資金が足りなくなって、あちこちから手を出していた。梨華さん、あなたも知っていたはずですよね。健二さんが、『母親の遺産が入る予定だ』と言って、あなたを繋ぎ止めていたこと。」
梨華は顔を真っ赤にして、後ずさりした。
「わ、私は知らないわ。彼が勝手にやったことよ。私はただ、彼がお金持ちだって言ったから…」
「自分の正体がバレそうになると、すぐに逃げるんですね。でも、残念ですが、梨華さん。あなたが健二さんと共謀して、私の口座から不正に資金を引き出そうとした証拠も、全て抑えてあります。」
私がそう告げた瞬間、梨華はダッと駆け出した。しかし、そこには先ほどから待機していた警察官たちの姿があった。
「梨華さん。窃盗及び詐欺未遂の疑いで、任意同行をお願いします。」
「いや! 話して! 私は悪くない! 全部、健二が…!」
梨華が絶叫しながら連行されていくのを、静子は腰を抜かして地面に座り込んだまま見つめていた。
「そ、そんな…。そんなバカな…。健二が…私の家まで…」
静子のプライドを支えていた唯一の拠り所である実家。代々続いてきたという彼女の誇りは、最愛の息子の手によって、すでに他人の手に渡ろうとしていた。静子は私を見上げ、震える声で懇願した。
「真梨さん…。助けて、助けてちょうだい。あんたなら、お父様に頼めばどうにかできるんでしょう。健二もきっと、魔が差しただけなの。家族じゃない。私たち、家族でしょう?」
数分前までは私を「恥知らず」と呼び、土下座を強要していた女性が、今は私の靴を掴んで泣き叫んでいる。私は彼女の手を、静かに、しかし冷たく振り払った。
「お義母さん。1つ、大きな秘密を教えましょう。これを聞けば、あなたがなぜ今日、この時間にここへ呼ばれたのか、全て理解できるはずです。」
私は身を乗り出し、絶望に震える静子の耳元である事実を囁いた。それは、私という人間の本当の正体についてだった。
静まり返ったエントランスホールで、静子はまるで糸の切れた人形のように地面にへたり込んでいた。先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく、震える手で私の靴を掴もうとしている。
「真梨さん、お願い。嘘だと言って。健二が、私の家まで勝手に抵当に入れるなんて、そんなこと…。あの子はいい子なのよ。ちょっと遊びが過ぎただけなの。あんたが、あんたがお父様に頼んで借金を片付けてもらえば、済む話じゃないの。」
私はその手を冷たく振り払い、一歩後ろに下がった。
「お義母さん、あなたは先ほどから、私の実家を貧乏のど田舎だとか、私を低学歴の無能だとか、何度も仰いましたよね。でも、あなたは一度でも、私のフルネームを正しく調べようとしたことがありますか?」
静子は涙で滲んだ目で私を仰ぎ見た。
「何を…? あんたは、ただの真梨じゃない。佐藤真梨…」
「いいえ。婚姻届を出す前の、私の名前は殉音寺です。」
「殉音寺…」
その名前を聞いた瞬間、静子の顔がピクリと動いた。この国で、その名を知らぬ者はいない。日本を代表する巨大財閥グループ。不動産、金融、製造業に至るまで、あらゆる産業の頂点に君臨する一族の名前。
「殉音寺…まさか…。でも、あんたの履歴書には、地方の公立高校卒業って…」
「それは、父が私に普通の金銭感覚と苦労を学ばせたいと願って、あえて公立に通わせたからです。でも、その後の学歴については、あなたは興味すら持たなかった。私は高校卒業後、アメリカの大学に飛び級で入学し、21歳で経済学の博士号を取得しました。その後は、父の会社で経営戦略のアドバイザーを務めていたんです。」
静子の口が、力なく開いた。
「わ、博士…。あんたが…」
「健二さんとの出会いも、実は偶然ではありません。彼が務めていた商社は、我がグループの末端にある子会社です。父は真面目に働いている若手社員の中から、私の結婚相手の候補を何人かピックアップしていました。健二さんは、その中の1人でした。当時の彼は、とても誠実で、野心に溢れつつも謙虚に見えました。私は家柄ではなく、私という人間そのものを愛してくれる人を探していました。だから、殉音寺の名前を伏せ、父の知人が経営する小さな農家の娘という設定で、彼と結婚したんです。結婚式の費用も、わざと質素にしました。あなたたちが、私の背後にある力ではなく、私自身をどう扱うかを見るために。」
静子の顔は、今度は青白さを通り越して、土色に変わっていった。
「じゃあ…、あの時、私が言ったことも、やったことも…」
「はい、全て見ていました。あなたが私の実家をバカにするたびに、父は激怒していましたよ。『今すぐあの親子を破滅させてやる』と。でも、私は止めたんです。健二さんがいつか回心してくれるかもしれない。そう信じたかったから。でも、その期待は見事に裏切られました。」
私は冷たい視線で静子を見抜いた。
「お義母さん、あなたが私を中卒同然の無能と罵っている間、私は自宅の書斎で何をしていたと思いますか? 私は健二さんの会社の経営状況をチェックし、彼が犯していた数々の不正経費や会社資金の私的流用の証拠を、リアルタイムで収集していたんです。そして、彼が梨華という女性に貢ぐために、あなたの家まで担保に入れたことも、その過程で全て把握していました。」
静子はガタガタと震えながら、喉の奥で短い悲鳴をあげた。
「あんた…最初から分かってて…」
「ええ。助けるチャンスはいくらでもありました。でも、あなたは今日、決定的な一線を越えた。私に離婚届を突きつけ、『10分以内に出してこい』と言った。あれが、私の忍耐の限界でした。あの瞬間、私は殉音寺の娘として、あなたたち親子の抹殺を決定したんです。」
私がそう告げた時、エントランスの自動ドアが再び開き、数人の黒スーツを着た男たちが整然と入ってきた。彼らは私の前で一列に並び、軍隊のような規律正しい動きで深く頭を下げた。
「お嬢様。総帥がお待ちです。また、佐藤健二氏の身柄は、現在、都内の警察署にて完全に確保いたしました。不正融資及び横領の容疑について、すでに事情聴取を開始しております。」
リーダー格の男性が、静子には目もくれずに報告した。
「ご苦労様。お義母さんの荷物はどうなりましたか?」
「はい、契約に基づき、全てこのマンションの敷地外へ撤去いたしました。また、佐藤静子氏が現在居住している物件についても、抵当権が実行され、本日を持って差し押さえが完了しております。彼女には、帰る場所はもうございません。」
静子はその言葉を聞いて、文字通り崩れ落ちた。
「私の家…私の誇りだったあの家が…。嘘よ。そんなの認めないわ。健二を呼んでちょうだい…」
「健二さんは、もうあなたの助力を求めることはできませんよ。それどころか、彼は自分の罪を少しでも軽くするために、ある供述を始めているそうです。彼、こう言ったそうですよ。『全ては母にそそのかされた。母が贅沢を望んだから、俺は手を染めるしかなかったんだ』と。」
静子の瞳が、絶望に大きく見開かれた。最愛の息子に、全責任を押し付けられた。その事実が、彼女の心を粉々に打ち砕いたようだった。しかし、この地獄はまだ序章に過ぎなかった。私のスマートフォンの画面が明るく光り、新しいメッセージが表示された。それは、健二が不倫相手の梨華だけでなく、他にもある重大な秘密を隠していたことを示すものだった。
エントランスに冷たい風が吹き抜け、静子のすすり泣く声だけが虚しく響いていた。しかし、私の背後に控える殉音寺家のホームチームのリーダー、高木弁護士が一歩前に進み出た。彼の手に握られた1冊の分厚いファイル。それが、これからの地獄をさらに深いものへと変える爆弾だった。
「佐藤静子様。今お嬢様からお聞きになった通り、事態は単なる家族間の揉め事では済まなくなっております。私ども殉音寺グループ法務部が調査した結果、あなたの息子さんである佐藤健二氏が犯した罪は、横領や不倫だけではありませんでした。」
静子は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、高木弁護士を呆然と見つめた。
「ま、まだ何かあるっていうの? もう家も名誉も全部失ったわよ。これ以上、何を奪うっていうのよ。」
「奪うのではありません。健二氏が、あなたという存在を利用して作り上げた負債を、法的に整理させていただくだけです。これをご覧ください。」
高木弁護士が差し出したのは、数十枚に及ぶ送金記録のコピーだった。そこには、静子の名前で開設された、複数の隠し口座のリストがあった。
「こ、これは、私の名前? でも、私はこんな口座、作った覚えなんてないわよ。」
「その通りでしょう。健二氏はあなたの身分証や印鑑を勝手に持ち出し、あなたの名前で多額の融資を受けていました。それだけではありません。彼は殉音寺グループの関連企業であることを悪用し、投資家たちから『静子が運営する架空の慈善団体』への寄付を募っていたのです。」
静子の顔が、驚愕で引きつった。
「架空の慈善団体? いや、そんな…」
「はい。その額、現時点で判明しているだけで3億円。そして、その資金のほとんどは、先ほど連行された梨華との豪華海外旅行やカジノ、そして、ここが重要なのですが、健二氏が密かに囲っていた、別の女性たちへの生活費に当てられていました。」
「別の女性たち? ちょっと待って。梨華さんだけじゃないの? 健二…、あんた、一体何人の女と…」
静子はあまりの衝撃に、言葉が続かなくなった。彼女にとって健二は、非の打ち所のない自慢の息子であり、自分を敬ってくれる唯一の存在だったはずだ。しかし、真実は、息子は母親を「ただの便利な名義人」としてしか見ていなかった。そして、静子が資産家の令嬢と信じて疑わなかった梨華すらも、健二にとっては数多くいる遊び相手の1人でしかなかったのだ。
「さらにもう1点、あなたにとって決定的な問題がございます。」
高木弁護士の声は、どこまでも事務的で冷酷だった。
「健二氏は、これらの詐欺行為を、母である静子の指示で行ったと、すでに警察に対して明確な供述を始めています。それも、詳細な偽造のメモとともに。そのメモには、あなたが健二氏に対し、『もっとお金を稼いできなさい。どんな手段を使っても構わない』と指示したかのような記録が、あなたの筆跡を完璧に模倣して記されていました。」
「な、嘘よ! 私、そんなこと言ってない! 書いてないわ! 健二! 健二、どうしてそんな嘘を吐くの? 私、あんたのために、あんたがエリートでいられるように、あんなに尽くしてきたのに…!」
静子は狂ったように叫び、アスファルトの地面を拳で叩いた。その姿は、かつては私を「恥知らず」と呼び、見下していた時とは対極にある、無様で見苦しいものだった。私はそんな彼女を、穏やかに見下ろした。
「お義母さん、皮肉なものですね。あなたが私に対して嘘をついてまで優位に立とうとした結果、今度は実の息子さんに嘘をつかれて、破滅させられるなんて。健二さんは、自分が刑務所に入る時間を少しでも短くするために、あなたを犠牲にし立て上げる道を選んだんですよ。」
「そんな…そんなの、あんまりだわ。真梨さん、あんたからも言ってやって。私は無実だって。健二が勝手にやったことだって。」
静子が私の足元に這い寄り、震える手でスカートの裾を掴もうとした。私はそれを、汚れ物でも見るような目で避け、高木弁護士に合図を送った。
「お義母さん、無実を証明したいなら、法廷でどうぞ。ただ、健二さんが用意した証拠は、素人目には完璧に見えるそうです。それに、健二さんが勝手に抵当に入れたあなたの実家ですが。実は、健二さん、あそこを担保に借りたお金も、すでに使い果たしています。さらに悪いことに、貸主は一般的な金融機関ではなく、かなりグレーな組織だという報告も受けています。」
私がそう言った瞬間、エントランスの入り口に、数人の柄の悪い男たちが現れた。彼らは派手なシャツに身を包み、周囲を威圧するように当たりを見回している。
「おい、佐藤健二はどこだ? 連絡が取れねえんだけどよ。あいつ、今日が利息の支払い日だって、は分かってんじゃねえだろうな。」
男たちの1人が、静子の姿を見つけると、ニヤリと下卑た笑みを浮かべて近づいてきた。
「お、あんたが母親か。ちょうどいい。息子が逃げちまったんなら、親が払うのが世の常だよな。実家を担保に入れてるんだ。払えねえなら、今すぐあの家から出てってもらうか。あるいは…」
男は静子の顔を覗き込み、わざとらしく値踏みするような視線を送った。静子は恐怖のあまり、声も出せずにガタガタと震えている。
「ひ、ひ、助けて…。私、何も知らないの。お金なんて、持ってないわ…」
「知らないじゃすまねえんだよ。契約書には、あんたの判子がばっちり押してあんだからな。」
事態は、単なる家庭内の騒動や警察沙汰を通り越し、反社会的な勢力まで巻き込んだ大混乱へと発展していた。静子のプライドという名の城は、もはや跡形もなく崩れ去り、彼女の周囲には、絶望という名の深い闇が広がっていた。私はその混乱の中にいる静子に向かって、最後通告を突きつけた。
「お義母さん、これがあなたが『10分』という時間で選んだ結果です。健二さんを守るためには妻を捨て、欲に溺れた結果、あなたは息子に裏切られ、家を失い、犯罪者の汚名を着せられ、そして借金取りに追われる人生を手に入れたんです。」
「真梨さん、お願い、助けて! 殉音寺の力で、この人たちを追い払って!」
静子は形振り構わず、恥も外聞も捨てて、私にすがりつこうとした。しかし、私は静かに首を振った。
「いいえ。私はもう、あなたの家族ではありません。それに、私の父も言っています。『自業自得という言葉を、その身を持って学ばせろ』と。」
私はホームチームと黒スーツの男たちを引き連れ、ゆっくりとエントランスを後にした。背後では、男たちの怒声と静子の悲鳴のような鳴き声が響き渡っていた。しかし、この物語には、まだ誰も予想しなかった展開が隠されていた。車に乗り込もうとした私の元に、一本の緊急電話が入ったのだ。それは、警察署で事情聴取を受けていた健二が、最後に残したという、ある告白についてだった。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか? 警察署の担当官から、伝えたいことがあると連絡が入りました。」
高級セダンのドアに手をかけた私を引き止めたのは、私の執事として長年使えてくれている安倍だった。彼は警察署に詰めているホームスタッフの最新情報を、耳打ちした。
「健二さんが、最後にある告白を…。はい。どうやら彼は、自分の罪を軽くするためだけではなく、最後の足掻きとして、ある爆弾を落としていったようです。それが、お義母様…いえ、静子さんにとって、とどめの一撃になるかもしれません。」
私は安倍の言葉に小さく頷き、再び静子の方へ視線を戻した。そこには、借金取りの男たちに囲まれ、必死に命乞いをする静子の無様な姿があった。
「ちょっと、お嬢様って呼ばれてるあんた! 助けてって言ってるでしょう! 殉音寺なら、こんなの大したことないじゃない! 後のことは、健二と話し合うから! 今は、今だけは、この人たちを追い払って!」
静子は男たちに腕を掴まれながら、形振り構わず叫んでいた。しかし、その時だ。エントランスの入り口に、もう1人の意外な人物が現れた。それは、健二の秘書として長年彼を支え、静子からも信頼されていた、佐藤という名の真面目そうな青年だった。
「あ! 佐藤さん! 佐藤さんじゃない! 助けてちょうだい! 健二が大変なのよ! 警察に連れて行かれたの。何かの間違いよね? あなたなら分かるでしょう。健二があんなひどいことをするはずがないって!」
静子は、地獄で仏にあったかのように、佐藤秘書に向かって手を伸ばした。しかし、佐藤秘書は静子の叫びを冷たい目で見下ろし、私に向かって静かに一礼した。
「お嬢様、お久しぶりでございます。ご指示通り、潜入調査を完了いたしました。」
その一言で、エントランスの空気が再び凍りついた。
「え…? 潜入調査? 佐藤さん、何を言ってるの?」
静子の声が震えている。佐藤秘書は懐から1冊の手帳を取り出し、淡々と語り始めた。
「静子様。私は健二さんの秘書として働いていたわけではありません。私は殉音寺家が運営する調査機関から派遣された、私設調査員です。健二さんが殉音寺グループの末端企業に入社した当初から、彼の行動に疑念を抱いた総帥、つまり真梨様のお父様のご依頼で、彼の行動を全て監視しておりました。」
静子は信じられないという表情で首を振った。
「嘘…、嘘よ。だって、あなたは健二の親友だって。健二が1番信頼できる部下だって…」
「健二さんが私を信頼していたのは、私が彼の悪事を率先して手伝っていたからです。彼は私を、自分の汚れ仕事を受け負う忠実な犬だと思い込んでいました。だからこそ、私には全てを話してくれたのですよ。梨華さんとの不倫のディテールも、お義母様の実印を使った融資の手口も。そして、彼が今回、なぜ海外出張と称して旅立とうとしたのか、その本当の理由も。」
私は佐藤秘書に促した。
「佐藤さん。彼が警察に話したという、最後の告白について、詳しく教えてください。」
佐藤秘書は深く頷き、静子の方へ向き直った。その瞳には、これまで隠してきた激しい軽蔑の念が込められていた。
「健二さんは取り調べで、泣きながらこう言ったそうです。『俺をこんなモンスターにしたのは、母親の静子だ。子供の頃から、常に他人を見下せ、自分は特別な人間だと思い込めと教育された。その期待に答えるために、俺は虚構を塗り固めるしかなかったんだ』と。」
静子の顔から、完全に表情が消えた。
「健二…、あの子が、私のせいだって…」
「それだけではありません。健二さんは今回の海外出張で、殉音寺グループが極秘に進めていた次世代エネルギーの特許情報を、海外の共犯業者に売却しようとしていたんです。その売却益で、彼は自分だけ海外へ高飛びし、梨華さんも、そして実の母親であるあなたさえも、全て日本に置き去りにしていく計画でした。」
「な…」
静子の悲鳴が、エントランスの天井に響き渡った。
「彼は私に言っていましたよ。『母さんは、過去の栄光にしがみつくだけの老害だ。あのプライドの高い性格じゃ、俺がいなくなればすぐに破滅するだろうけど。知ったことか。俺は自由になりたいんだ』とね。」
佐藤秘書が突きつけた事実は、静子の人生を支えてきた最後の柱を、無慈悲にへし折るものだった。自分を敬い、自分を誇り高い存在へと導いてくれるはずだった最愛の息子。その息子にとって、自分は「早く捨て去りたい老害」でしかなかった。静子はもはや声にもならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。彼女が必死に守ろうとしてきた家族の絆など、最初からどこにも存在しなかったのだ。
借金取りの男たちは、その様子を見て嘲笑した。
「へえ。飛んだ親子だな。おい、ババア。息子にも見捨てられたんなら、もう終わりだな。さっさと実家の鍵を渡しな。あそこは今日から、俺たちの事務所だ。」
「いや、いや…、あれだけは、あの家だけは…」
静子は、かつて私が大切にしていた花瓶を「安物」と言って捨てた時と同じような、残酷な現実を突きつけられていた。自分が大切にしていたものを、土足で踏みにじられる痛み。それを、彼女は今、何倍にもなって味わっていたのだ。
私は崩れ落ちる静子を見つめながら、夜空を見上げた。風はますます冷たさを増していたが、私の心は不思議と穏やかだった。
「お義母さん。これが、あなたが『10分』という時間で手に入れた、自由の正体です。」
私は静かに言い残し、セダンの後部座席に乗り込んだ。安倍が静かにドアを閉め、車が滑り出すように走り出そうとした、その時だ。私のスマートフォンのバイブレーションが、再び鳴り響いた。今度の着信は、なんと警察署にいるはずの健二本人からだった。
「真梨…、真梨、頼む。1度だけでいいから、電話に出てくれ。弁護士を通じて、司法取引の話が来てるんだ。お前が、お前がサインさえしてくれれば、俺は…」
健二の声は、もはや人間のものとは思えないほど、恐怖と欲望が混じり合った醜いものだった。私はその通話をスピーカーに切り替えた。車外で泣き崩れている静子にも、その声が聞こえるように。
「健二さん。1つだけ、言い忘れていたことがあります。」
私は冷たい微笑みを浮かべながら、受話口の向こうの元夫に告げた。
スピーカー越しに響き渡る健二の声は、かつてのエリート商社マンとしての余裕などみじんもなく、まるで追い詰められたネズミが泣き喚いているかのようだった。
「真梨、聞いてるんだろう。お願いだ。殉音寺の力を使って、この件を取り下げさせてくれ。司法取引の条件として、お前が夫婦間の金銭トラブルだったと証言してくれれば、俺の罪は格段に軽くなるんだ。そうなれば、俺たちはやり直せる。また、あの頃みたいに、仲良く暮らそう。」
健二の恥知らずな言葉に、私は思わず鼻で笑ってしまった。その笑い声は、車の外で蹲っている静子にも、そして電話の向こうの健二にも、冷たく響いたはずだ。
「健二さん、本気で言っているんですか? 私たちがやり直す? どの口がそんなことを? あなたは今朝、不倫相手の梨華さんと一緒に、私の実家の機密情報を手土産に、海外へ逃亡しようとしていた。それも、お義母さんすら日本に置き去りにして。そんな人の言葉を、誰が信じると思うのですか?」
「そ、それは…あれは、魔が差したんだ。梨華が、梨華がそそのかしたんだよ。俺は、本当はお前を愛していたんだ。ただ、殉音寺の娘だって知らなかったから、つい甘えてしまっただけで…」
「『つい甘えた』で、3億円もの詐欺を働き、母の実家を担保に入れ、会社の特許を売ろうとしたのですか? あなたの『甘え』は、あまりにも高くつきましたね。」
私が淡々と突き放すと、受話口の向こうで健二の呼吸が激しくなった。焦りが頂点に達したのだろう。今度は、泣き落としから開き直りに変わった。
「おい、真梨、調子に乗るなよ。お前だって、俺がこれだけ尽くしてやった恩があるだろ。殉音寺の看板がなきゃ、お前なんてただの地味な女なんだよ。俺がいたから、お前は主婦という幸せを味わえたんだ。それを恩に感じて、俺を助けるのが妻の義務だろうが!」
その言葉を聞いた瞬間、地面に崩れていた静子が、フラフラと立ち上がった。彼女は震える手で、私のスマートフォンに向かって叫んだ。
「健二! 健二、私の声が分かる! お母さんよ! 今の言葉、本当なの? あんた、私を捨てて海外に行こうとしてたの? 私の実家を、あの家を勝手に売ろうとしていたのは、私のためじゃなかったの?」
静子の悲痛な叫びが、空虚に響く。電話の向こうで、健二が一瞬絶句した。しかし、彼はすぐに毒を吐き散らした。
「母さんか。ち、ちうるせえな。全部、お前のせいだろうが! いつもいつも、人より上に立て、佐藤家の格式を上げろって、俺にプレッシャーをかけ続けて。お前が贅沢な暮らしを望んだから、俺は金が必要になったんだ。お前さえいなきゃ、俺はもっと自由に立ち回れたんだよ。この老害が!」
「健二! あんた、お母さんに、なんてことを…!」
静子はショックのあまり、その場に膝をついた。自分に全てを捧げて育て上げ、自分の人生の誇りそのものだった息子から、面と向かって「老害」と呼ばれ、全ての責任を押し付けられたのだ。彼女の目に宿っていた最後の光が、音を立てて消えていくのが分かった。
「真梨、聞こえるか? 母さんなんてどうでもいい。あいつはもう、終わりだ。だが、俺は違う。俺には才能があるんだ。殉音寺の力があれば、俺はもっと大きな仕事ができる。今すぐ弁護士に連絡しろ。10分以内に、返事をしろよ。分かったか?」
かつて静子が私に突きつけた「10分以内」という言葉。今度はその息子が、私に、それも自分を助けろという身勝手な要求のために、投げつけてきたのだ。皮肉な因縁に、私はただ静かに沈黙を守った。
「おい、何か言えよ、真梨! もし助けないなら、お前の実家の恥ずべき秘密を、世間にぶちまけてやるからな! 潜入調査なんて卑怯なことをした報いだ。覚悟しろよ!」
健二の焦りは、もはや狂気の域に達していた。彼はありもしない虚言を並べ立てて、私を脅そうと必死だった。しかし、その必死さが逆に、彼の無力さを際立たせていた。私はゆっくりと、車の窓を閉め始めた。モーターの静かな作動音が、健二の罵声と静子の号泣を遮断していく。
「健二さん。1つだけ、重大な勘違いを正しておきますね。」
私は窓が完全に閉まる直前、冷徹な一言を放った。
「あなたが売ろうとした、次世代エネルギーの特許情報。あれ、本物だと思っていましたか?」
電話の向こうで、健二が息を飲む音が聞こえた。
「え…? 何…?」
「あなたが私から盗み出したと思っていたあのデータは、私自身が作成した精巧なダミーですよ。それを海外の企業に持ち込もうとした時点で、あなたは産業スパイ罪だけでなく、偽造情報を売買した詐欺罪でも、相手企業から訴えられることになります。もう、あなたが逃げられる場所は、この地球上のどこにもありません。」
「そ、そんな…嘘だろう? 真梨…、真梨…!」
健二の絶叫が途切れると同時に、私は通話を切断した。車内には、心地よい静寂が戻ってきた。外を見ると、静子は借金取りの男たちに引きずられるようにして、エントランスから連れ出されていた。彼女の口からは、もはや意味をなさない言葉が漏れ出し、虚空を見つめる瞳には、絶望だけが湛えられていた。しかし、この物語の真実の全貌は、まだ完全には見えていなかった。健二が盗み出した偽のデータ。実は、その中には彼自身さえも気づいていない罠が仕掛けられていたのだ。
車がゆっくりと走り出し、私はバックミラー越しに遠ざかっていくマンションを眺めた。そこで私は、信じられない光景を目にする。マンションの影から、これまで一度も姿を見せなかったある人物が、穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見送っていたのだ。
走り去るセダンのバックミラーの中で、小さくなっていくマンションの影。そのエントランスの柱の影から、1人の男がゆっくりと姿を現した。仕立ての良いグレーのスリーピーススーツを着こなし、端正な顔立ちに冷ややかな笑みを浮かべて、こちらを見送るその人物。それは、健二が海外企業の交渉人だと信じ込み、密かに機密情報の売却交渉を進めていた相手であり、私の実弟であり、グループの副社長を務める殉音寺陽だった。私はスマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルを押した。すぐに、ミラーの中の男が耳元に手をやるのが見えた。
「お疲れ様、陽。完璧な演技だったわね。」
「姉さんもね。おめでとう。ようやく、あの不潔な男と縁が切れたね。見てたよ。義母さんのあの顔、最高に滑稽だった。」
陽の声は、冷徹な中にも姉への慈しみが混じっていた。健二が自分の実力で掴んだビッグチャンスだと思い込んでいたあの取引。それこそが、殉音寺家が彼を試すために用意した、巨大な罠だったのだ。
「父様は、なんて言ってる?」
「『もっと徹底的にやれ』だってさ。あの男、姉さんの優しさにつけ込んで、殉音寺の資産を自分の財布だと思ってたんだろう。許せるはずがないよ。今頃、警察署では、もっと面白いことが起きてるはずだ。」
陽との通話を切り、私はシートに背を預けた。健二との3年間の結婚生活。それは、私にとって、ある意味では壮大な社会実験のようなものだった。愛した人が、権力と金を手にした時にどう変わるのか。あるいは、最初からその本性を隠していたのか。健二は、私を「何も知らない、実家が貧乏な、従順な妻」だと思い込むことで、自分のプライドを満たしていた。私が家で黙々と家事をこなし、彼の暴言を黙って受け流していたのは、決して彼を恐れていたからではない。彼の嘘、彼の裏切り、彼の弱さ、その全てを、殉音寺グループの次期後継者としての冷徹な目で、ただ観察していただけだったのだ。
静子が持ってきた離婚届。あれも、実は私が裏で糸を引いていた。健二が梨華に夢中になり、情報を盗み出そうとしていることを察知した私は、あえて静子に「健二さんが最近、新しい女性と将来の約束をしているようです。今の奥様を排除すれば、佐藤家はもっと安泰ですよ」という情報を、匿名の協力者を通じて流した。欲に目がくらんだ静子は、その言葉に飛びついた。彼女は健二の出世のためではなく、自分自身が資産家の令嬢という新しい嫁を迎え、さらに贅沢な暮らしを謳歌したいという私欲のために、あの離婚届を準備したのだ。
「10分以内に役所に出しなさい」というあの傲慢な命令さえ、私の計算通りだった。役所が閉まる直前、あるいは特定の銀行取引が停止される直前。あのタイミングで離婚届が受理されることが、健二を法的に完全に破綻させ、殉音寺家の紐から叩き出すための絶対条件だったのだ。
「真梨お嬢様、お顔の色が少し優れませんね。やはり、お疲れではありませんか?」
運転席の安倍が、バックミラー越しに心配そうに声をかけてくれた。
「いいえ、安倍。ただ、少しだけ悲しいと思ったの。あんなに必死に嘘を塗り固めて、結局は何もかも失うことになるのに。どうして人は、足元にある幸せを壊してまで、実態のない幻を追いかけてしまうのかしら。」
「それは、あの親子に、心というものが欠けていたからでしょう。お嬢様の真心を踏みにじった報いです。どうぞ、今は何も考えずに、お休みください。」
車は、私が本来住むべき殉音寺家の本邸へと向かっていた。しかし、物語はここで終わりではなかった。健二はまだ、自分が盗み出した偽のデータに、どれほど恐ろしい仕掛けが施されているのかを知らなかった。あのデータ、それは単なるでたらめな数字の羅列ではなかった。それ自体が一種の追跡プログラムであり、健二が外部のデバイスにコピーしたり、ネット上にアップロードしようとした瞬間に、彼のこれまでの全てのデジタル犯罪の証拠を自動的に収集し、警察と検察、さらには税務署に一斉送信する仕組みになっていたのだ。つまり、健二が逆転の奥の手だと思っていたあのフォルダこそが、彼を永久に社会から抹殺するための、処刑執行書だったのである。そして、警察署で事情聴取を受けていた健二のもとに、さらなる絶望の知らせが届こうとしていた。それは、彼が信頼し、共に海外へ逃げるはずだった不倫相手・梨華に関する、衝撃の事実だった。梨華は警察の調べに対し、驚くべき供述を始めたのだ。
「健二さん? ああ、あの人は、ただのパトロンの1人ですよ。本気で愛してたわけないじゃないですか。むしろ、彼が殉音寺家のお金を横領するように仕向けたのは、私なんです。」
その言葉が、健二の最後の正気を奪うことになる。彼が愛だと思っていたものも、成功だと思っていたものも、全ては仕組まれた罠の中の幻影に過ぎなかった。車が本邸の大きな門をくぐった時、私のスマートフォンに新しい画像が送られてきた。それは、警察署の廊下で顔を覆って泣き崩れる健二の無様な姿だった。かつて、私に「俺の稼ぎで食わせてやってる」と豪語していた男の、見る影もない姿がそこにはあった。しかし、私の胸に去来したのは、スカッとする快感だけではなかった。3年という月日。それを共に過ごした相手が、ここまで見事に壊れていく。その事実に、私は静かな決意を胸に刻み込んだ。
「さあ、始めましょう。最後の仕上げを。」
私は車を降り、私を待っていた父と陽の元へと歩み寄った。これから行われるのは、佐藤健二、そして佐藤静子という存在を、この社会の表舞台から完全に消し去るための、法的手段による冷徹な処理だ。一方、借金取りに連れ去られた静子。彼女が連れて行かれた先は、かつて彼女が「貧乏人の住む場所」と見下していた、ある寂れた地区の古いアパートだった。そこで彼女を待っていたのは、彼女の想像を絶する新しい生活だった。
「嘘よ。こんなところ、人間が住む場所じゃないわ! 話して! 話しなさいよ!」
静子の絶叫が、湿り気を帯びたコンクリートの廊下に虚しく反響した。借金取りの男たちに突き飛ばされるようにして押し込まれたのは、築40年は経過しているであろう木造アパートの一室だった。壁紙は剥がれ落ち、部屋の隅には黒いカビがこびりついている。かつて、大理石の床を高級スリッパで歩いていた静子にとって、そこは地獄の底以外の何者でもなかった。
「おいババア。文句を言うなよ。今日からここがあんたの新しい城だ。実家はもう、俺たちの名義に変わった。文句があるなら、金を使い果たした息子に言いな。」
男たちは、静子の目の前で、彼女が唯一持ち出すことを許された小さな手提げ鞄を投げ捨てた。
「こ、こんな…。あんな広い家から、こんな、こんな鳥小屋みたいなところに…! 健二を呼びなさいよ! あの子が、あの子が黙っていないわ!」
「まだ言ってんのか。息子は今頃、冷たい檻の中だぜ。それに、あんたのことも、共犯だって警察にチクってるって話じゃねえか。仲の良い親子だこって。」
男たちが下卑た笑い声を残して去っていくと、静子は力なく畳の上に崩れ落ちた。シンと静まり返った部屋に響くのは、古い蛍光灯のブーンという音と、遠くで聞こえる野良猫の鳴き声だけだった。数時間前まで、自分は高級な家の大奥様として、嫁を顎で使っていたはずだった。それが、たった1枚の離婚届。あの「10分以内に出しなさい」と言い放った自分自身の言葉をきっかけに、全てが砂のように指の間をこぼれ落ちてしまったのだ。静子は震える手で鞄の中から古いスマートフォンを取り出した。何度も何度も健二の番号を押すが、繋がるはずもない。そこで彼女は、最後にすがるような思いである人物に電話をかけた。それは、不倫相手の梨華だった。
「梨華さん、梨華さん、お願い、助けて! 健二が警察に連れて行かれたの! あなた、資産家のお嬢様なんでしょう? あなたのお父様の力で、健二を、そして私をここから救い出して!」
長いコールの後、ようやく繋がった受話口の向こうから聞こえてきたのは、先ほどまでの可憐なお嬢様とは打って変わった、低く冷え切った声だった。
「はあ? 誰かと思えば、あの勘違いババアじゃない。まだ生きてたの。」
「な、何を言っているの? 梨華さん、冗談はやめて。私は、あなたの義理の母になる人間なのよ!」
「義理の母? 笑わせないでよ。健二さんなんて、ただの便利な財布だっただけ。殉音寺のカードを持ってるから、近づいてあげたのに。まさか、あれが嫁さんの家族カードだったなんてね。おかげで、私まで警察に事情を聞かれるはめになったじゃない。本当に、迷惑だわ。」
「い、いえ…。資産家のお父様は…」
「そんなの、いるわけないでしょう。全部、嘘よ。健二さんも、私の嘘に騙されて、いい気になって会社の金を横領するまで、私に貢いでくれたわ。あ、そうそう。健二さんが『母さんの遺産が入る』って言って、見せてくれた、あの実家の写真。あれ、もう売却の手配済みだから。私の知り合いの業者にね。」
「え? 梨華さん、あんた、最初から私たちを騙してたの?」
「騙される方が、バカなのよ。特に、お義母様。あなたのあのプライド、見てて最高に滑稽だったわ。貧乏人の嫁をいじめて、自分が上流階級になったつもり? 実際は、息子が盗んできた金で食いつないでた、ただの泥棒の親なのにね。あはは。」
無慈悲な通話終了の音と共に、静子の世界は完全に闇に包まれた。静子はスマートフォンの画面を見つめたまま、魂が抜けたように動かなくなった。嫁を「無能」と呼び、不倫相手を「本物のお嬢様」と崇めていた自分。その認識こそが、佐藤家を破滅に導いた最大の原因だった。その事実に、彼女は今更ながら気づいたのだ。
一方、その頃。警察署の取り調べ室では、健二がさらなるパニックに陥っていた。
「そんなはずはない! あのデータは本物だ! 殉音寺の秘密のサーバーから、俺が命がけで抜き出したんだ! それを、あの海外企業の男に渡せば、俺は英雄になれるはずだったんだ!」
目の前の刑事が、呆れ果てたように一枚の書類を突きつけた。
「佐藤さん。君が売ろうとしたデータ。これを見てみろ。君がアクセスした形跡はあるが、中身は空っぽだ。いや、空っぽどころか、君がコピーした瞬間、君のスマートフォン内の全データがこちらに転送されるプログラムが組まれていた。君が隠し持っていた裏帳簿、不倫相手との生々しいやり取り、そして、母親の実印を偽造した際の音声データ。全て、警察の手元にある。」
「な…、偽造…、音声…」
「君は、母親を共犯として陥れようと供述しているが、君のスマートフォンには、君が母親の寝込みに乗じて実印を持ち出し、『これでババアの家も俺のものだ』と笑っている動画まで保存されていたぞ。自撮りモードでな。」
健二の顔から、完全に表情が消えた。彼は、自分がどれほど愚かなミスを犯していたのかを、ようやく理解し始めた。真梨は、ただ黙って耐えていたのではない。自分の方から証拠をさらけ出すように、巧妙に、優しく誘導していたのだ。
「真梨さん、最近、お仕事大変そうね。健二さんの実力なら、もっと上を目指せるはずよ。」
そんな彼女の何気ない言葉が、全て、自分の傲慢さを暴き、破滅の穴を掘らせるための呪文だったのではないか。
「真梨…、あいつ…、あいつ、最初から全部…」
健二はガタガタと震え出し、取り調べの机に頭を打ち付けた。
「ああ、10分だ…。あの10分がなければ…。あの時、母さんが離婚届なんて持ってこなければ、俺はまだ殉音寺の婿として、あの贅沢な暮らしができていたんだ。全部、母さんのせいだ。あのクソババアが、余計なことをしたからだ!」
健二の叫び声は、取り調べ室の外まで響き渡った。しかし、そんな彼の元に、最後の絶望が届けられる。ドアが開き、1人の弁護士が入ってきた。健二が期待していた、自分を救ってくれる弁護士ではない。それは、殉音寺家の法務部長、高木弁護士だった。
「佐藤健二さん、お久しぶりです。真梨お嬢様からの、伝言を預かってまいりました。」
健二は、すがりつくような目で弁護士を見た。
「伝言? あ、真梨が? 真梨が助けてくれるって言うんだな? やっぱり、あいつ、俺のことが忘れられないんだ。」
高木弁護士は、哀れみのこもった冷たい微笑みを浮かべ、こう告げた。
「いいえ。お嬢様はこうおっしゃっています。『あなたが3年間で私から奪った時間を、これからは刑務所の中で、1分1秒、利息をつけて返してください』と。」
そして、弁護士はさらにもう1枚の紙を差し出した。
「これは、あなたが不倫相手の梨華さんに貢いでいた金銭の明細です。その元手は、殉音寺グループがあなたに貸し付けていたという形になっています。離婚届が受理された瞬間、その全額の返済期限が到来しました。これより、あなたと静子さんの全財産を差し押さえ、不足分については、あなたが一生かけて支払うための法的措置を開始します。」
健二の視界が、真っ白に染まった。自由がないだけでなく、借金という名の鎖が、一生彼と母親の首を締め続ける。死ぬことさえ許されない、奴隷としての人生。その時、健二の頭の中に、今朝の真梨の笑顔がフラッシュバックした。
「お義母さん、本当にいいんですか? 後悔しませんか?」
あの時、彼女が見せた最高の笑顔。それは、自分を愛していたからではなく、自分という重荷から解放された喜びだった。健二は言葉にならない咆哮を漏らしながら、冷たい床に崩れ落ちた。混乱と絶望の渦中で、彼はただ、届くはずのない名前を叫び続けていた。
殉音寺家の本邸。そこは、都心の一等地にありながら、静寂と気品に包まれた別世界だった。広大な日本庭園を望む重厚な和室で、私は1人、静かに紅茶をすするっていた。
「真梨。お疲れ様。3年という月日、ようやく耐え抜いてくれたね。」
部屋に入ってきたのは、殉音寺グループの総帥であり、私の父である殉音寺総一郎だった。父は私の向かい側に座ると、慈愛に満ちた。しかし、経営者としての鋭さを失わない目で、私を見つめた。
「お父様。ご心配をおかけしました。でも、これでようやく、全てが片付きました。」
「ああ。報告は受けているよ。あの親子、最後まで救いの欠片もなかったそうじゃないか。だが、真梨。お前があの男、健二君との結婚を決めた時、私が提示した条件を覚えているか。」
父の言葉に、私は静かに頷いた。実は、3年前の結婚には、健二も静子も決して知り得なかった、最大の秘密が隠されていたのだ。
「健二さんは、自分が運命に導かれ、殉音寺グループの子会社に入社し、運命に選ばれて私と結婚したと思っていました。でも、事実は違います。彼は、最初から試されていたのですよね。」
父は深く頷き、傍らに置いていた一通の極秘ファイルを開いた。
「その通りだ。私は、我がグループの次期後継者であるお前の夫となる男に、単なる能力だけでなく、普遍の誠実さがあるかどうかを確認したかった。だからこそ、あえて彼を殉音寺の威光ではなく、『身分の低い娘の夫』という過酷な環境に置いたんだ。」
健二が知らない最大の事実。それは、彼が結婚した瞬間に、実は殉音寺グループ本社の社長付き役員としての椅子が用意されていたということだ。もし彼がこの3年間、妻である私を裏切らず、静子の暴言から私を守り、地道に努力を続けていたならば、彼は今日、離婚届を突きつけられる代わりに、数千億円の資産を動かすグループの役員に就任するはずだったのだ。
「彼は、あと一歩だった。あと1ヶ月、お前を大切に扱っていれば、今日という日は彼の栄光の戴冠式になるはずだったんだよ。」
父は吐き捨てるように言った。
「皮肉なものですね。彼は、私の実家から数億円を盗み出すために必死になって、結果的に数千億円の未来をドブに捨てたのですから。」
私は、覚めた紅茶を見つめながら答えた。健二が梨華に貢ぐために手を染めた数々の不正。それらは、彼が手にするはずだった莫大な富に比べれば、あまりにも些細で、あまりにも虚しい小銭稼ぎに過ぎなかった。そして、もう1つ。健二が警察署で知ることになる、残酷な事実があった。それは、彼が不倫相手の梨華との間に授かったと信じ込んでいた子供についてだった。
「お父様。梨華さんの件も、全て裏が取れましたか?」
「ああ。彼女は最初から、健二君を嵌めるために送り込まれたプロの詐欺師だった。彼女が彼に見せていたエコー写真も、妊娠の診断書も、全てネットで拾った偽造品だ。彼女は、健二君から引き出した金の一部を、自分の本当の恋人、海外の犯罪組織の男に送金していたよ。」
健二は、自分を愛してくれる唯一の理解者だと思っていた梨華に、文字通り骨の髄までしゃぶられていたのだ。梨華は健二が殉音寺の婿であることを知っていた。しかし、彼女が狙っていたのは健二本人ではなく、彼を通じて引き出せる殉音寺家の資産だけだった。私は手元にある1枚の通知書を眺めた。それは、健二の勾留期限が延長されたことを知らせるものだった。
「お父様。私、これから、最後に、あの方、静子さんに会いに行ってきます。」
「何? 今更、何の用があるんだい?」
「お返しをするんです。彼女が私にくれた、あの『10分間』を。彼女自身の人生に、刻み込むために。」
私は立ち上がり、安倍の用意した車へと向かった。向かった先は、あの寂れたアパート。かつて「貧乏人」と私を見下していた女性が、今、どのような姿で過ごしているのか。アパートの前に着くと、そこには驚くべき人物の姿があった。静子が最後の希望としてすがろうとしていた、彼女の親戚を名乗る男性。しかし、その男性の正体を知れば、静子は今度こそ発狂するに違いない。私は車から降り、ゆっくりとアパートの階段を登った。古びたドアの向こうから、静子のすすり泣く声と、男の野太い怒鳴り声が聞こえてくる。
「おい、いつまで泣いてんだ! 早く、印鑑を出しな! 健二が残した借金は、まだ1億以上残ってんだよ! 払えねえなら、この契約書にサインしな。あんたのこれからの収入、全部、俺たちが管理してやるからよ!」
「いや、いやよ! 私は佐藤静子よ! あんな立派な家に住んでいたのよ! こんなの、夢に決まってるわ!」
私はドアをノックせず、静かに開けた。そこには、床に這いつくばり、強面の男に髪を掴まれている静子の姿があった。静子は私を見ると、一瞬、救いを求めるような表情を見せた。しかし、すぐに私の背後に控える黒スーツの男たちと、私の冷徹な視線に気づき、凍りついた。
「真梨さん…。ああ、真梨さん、助けて! この人たち、私を売り飛ばそうとしてるのよ!」
私は彼女の前に、ゆっくりと膝をついた。そして、バッグから1枚の書類を取り出した。
「お義母さん。助けに来たのではありません。最後の、ご報告に来たんです。健二さんが、もしあと1ヶ月、私に優しくしてくれていたら。あなたは今頃、銀座の高級マンションの最上階で、殉音寺グループの大奥様として暮らしていたはずだったんですよ。」
静子の瞳が、大きく見開かれた。
「え…? 銀座の…最上階?」
「はい。これが、健二さんに渡されるはずだった役員就任の承諾書です。そして、こちらが、あなたに送られるはずだった、殉音寺伝来の宝石のリスト。」
私は、色とりどりの宝石が映った写真を、静子の目の前にバラバラと投げつけた。
「でも、全ては幻になりました。あなたが、離婚届を持ってきた、あの10分間で。」
静子は、写真の中の宝石と、今の自分の惨めな境遇を見比べ、信じられないような悲鳴を上げた。
「嘘! 嘘よ! 健二を呼んで! 私の宝石! 私のマンション!」
「もう、遅いんです。あなたは、自分たちの手で、最高の幸せな未来を、ゴミ箱に捨てたのですよ。」
私が立ち去ろうとした、その時。アパートの廊下に、さらなる意外な人物が足音を響かせて現れた。その人物を見た瞬間、静子だけでなく、私も一瞬言葉を失った。それは、警察に捕まったはずの梨華ではなかった。彼女をプロの詐欺師として健二に引き合わせた、全ての黒幕。そこに立っていたのは、健二が親友だと信じ込んでいた、あの人物だった。
古びたアパートの薄暗い廊下に立っていたのは、1人の初老の男性だった。使い古されてはいるものの、清潔に手入れされたスーツをまとい、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿には、どこか隠しきれない気品が漂っている。その顔を見た瞬間、静子の顔が、これまでにないほど激しく引きつった。
「あ…。まさか、あなた…。どうして…。死んだんじゃなかったの?」
静子の声は裏返り、恐怖で歯の根が合わないほどガタガタと震え出した。
「久しぶりだね、静子。死んだことにされていたとは。残念だが、君が私の財産を全て持ち逃げし、勝手に死亡届の準備まで進めていた、あの日から、私の時計は止まったままだったよ。」
男性は、静子の絶望に満ちた瞳をまっすぐに見据え、静かに、しかし重みのある声で告げた。この男性こそ、健二の本当の父親であり、静子の元夫・佐藤正雄だった。静子はこれまで、健二や周囲の人々に対し、『夫は地方の名家の出身だったが、若くして事故で亡くなった。私は未亡人として苦労して健二を育てた』という嘘の身の上話を語り続けてきた。しかし、事実は逆だった。正雄さんは地方の資産家の家系だったが、5年ほど前に嫁いできた静子が、正雄さんの両親を言いくるめて家の実権を握り、正雄さんを精神的に追い詰めて家から追い出したのだ。その後、静子は家の金を不正に引き出し、正雄さんの名前で多額の借金を作った上で、健二を連れて東京へ逃げた。それが、佐藤家の始まりだった。
「正雄さん。私はわざとらしく、驚いたふりをして、正雄さんに声をかけました。実は、彼を探し出し、保護していたのは、私の父でした。静子の過去に不審な点を感じた父が、徹底的に調査を行い、地方の小さな工場で細々と働いていた正雄さんを、見つけ出したのです。」
「真梨さん。今まで、私の息子のせいで、辛い思いをさせてしまったね。本当に申し訳ない。」
正雄さんは、私に向かって深く頭を下げた。その誠実な姿は、健二とは似てもにつかなかった。
「ちょっと待って! なぜ、あんたが真梨と繋がっているのよ! 嘘よ! こんなの、何かの間違いよ!」
静子は、現実を受け入れられず、床を這いずりながら叫んだ。
「静子。君が健二に教えてきた『佐藤家の誇り』なんてものは、最初から存在しないんだ。君が盗んだ、私の実家の金。君が作り上げた、虚構の歴史。健二は、その呪いに縛られ、君と同じように、他人を騙し奪うことでしか、自分を保てない人間になってしまった。君の歪んだ教育が、実の息子を犯罪者にしたんだよ。」
正雄さんの言葉は、静子の心の一番深いところにある、彼女がひた隠しにしてきた劣等感という急所を、的確に貫いた。
「違う! 私は…、私は健二を、一流の男にしたかっただけよ! 健二は、私の最高傑作なのよ!」
「最高傑作? ああ、確かにそうだね。君の醜い部分を、全て凝縮したような男になった。今、彼は警察署で、君のことを『自分の人生を邪魔した、最悪の母親だ』と叫び続けているそうだよ。それが、君の育てた結果だ。」
静子は言葉にならない悲鳴を上げて、頭を抱えた。そこに、私の背後に控えていたホームチームの1人が、新たな書類を提示した。
「佐藤静子様。正雄氏より、過去の財産横領及び私文書偽造に関する損害賠償請求が出されました。また、殉音寺グループに対する詐欺行為、及び真梨様に対する精神的苦痛に対する慰謝料請求も合わせ、あなたには、総額で○億円を超える支払い義務が生じています。」
「こ、こんなの、払えるわけないじゃない! 私はもう、一文無しなのよ!」
「分かっています。ですから、本日を持って、あなたが身につけているそのブランド物の服、その指輪、そして、あなたが隠し持っていた古い実家の権利書。全てを、正式に差し押さえさせていただきます。今のあなたには、法的に佐藤の名前を名乗る資格すらありません。」
静子は、自分の腕に輝く金色のブレスレットを必死に隠そうとした。しかし、無慈悲にも、執行官たちによって取り上げられていった。虚勢を張るための鎧を、1つ1つはぎ取られ、彼女は文字通り、ただの惨めな老婆へと成り下がっていった。私は、絶望の淵に沈む静子を見つめ、最後の一言を放った。
「お義母さん。あなたは私に、『10分以内に役所に提出しろ』と言いましたね。あの時、もし私があなたの言葉に従わず、泣いてすがっていたら、あなたは満足したかもしれません。でも、私はあなたの指示を忠実に守りました。10分以内に、私は自由になり。10分以内に、あなたたちは地獄への切符を手にしたんです。」
私は正雄さんの手を取り、ゆっくりとアパートを後にした。背後からは、自分の服まで奪われそうになり、形振り構わず暴れる静子の醜い叫び声が聞こえてくる。
「返して! 私の宝石! 私の人生! 真梨! あんた、ただじゃ置かないわよ! 呪ってやる!」
その声は、かつて私を震え上がらせた威厳など微塵もなく、ただの負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。車に乗り込むと、正雄さんはふと、大きなため息をついた。
「真梨さん。これで、良かったのかい? 健二は私の息子だが、彼には、もう救いはないかもしれない。」
「いいえ、お父様。彼には、これから自分の罪と向き合うための、長い長い時間が与えられます。それが、彼にとって唯一の救いになるはずです。」
私はそう答え、スマートフォンで、最後のある処理を実行した。それは、健二が収監される予定の拘置所へ、私が用意した特別なプレゼントを届けるための合図だった。健二はそこで知ることになる。彼が殉音寺家から盗み出したと思っていた、あの偽のデータ。実は、そこには「データ」以上の、彼の未来を決定付ける、驚愕の仕掛けがもう1つ隠されていたこと。そして、スカッと爽快な復讐劇の頂点は、警察署で刑事が放った、最後の一言によって、予期せぬ形で幕を閉じることになる。
警察署の取り調べ室。冷たい蛍光灯の光が、パイプ椅子に力なく座り込む健二を照らしていた。かつてのエリート商社マンの面影はなく、無精髭が伸び、目は充血し、高級だったはずのシャツは、汗と涙で無残に汚れていた。
「嘘だ。そんなはずがないんだ。何かの手違いだろう。なあ、頼むよ、刑事さん。俺は殉音寺グループの身内なんだぞ。義理の父親は、あの殉音寺総一郎だ。俺をこんな風に扱って、ただで済むと思ってるのか?」
健二は、まだ自分が殉音寺の婿という幻想にすがりついていた。目の前の刑事は、哀れみを通り越して、もはや呆れ果てたという顔で、大きなため息をついた。
「佐藤健二さん。君はまだ、自分の立場が分かっていないようだな。君の弁護人、いや、殉音寺家から差し向けられた代理人が、もうすぐ到着する。そこで、君の本当の通信簿を見せてもらうといい。」
重い鉄の扉が開き、殉音寺家の法務部長である高木弁護士が入ってきた。彼は無表情のまま、1冊の革張りのファイルを、取り調べ室の机に置いた。
「健二さん! 助けに来てくれたんですね! さあ、今すぐこの連中に言ってやってください。俺をここから出せって! 真梨には、俺からよく言っておきますから。夫婦喧嘩が、ちょっとこじれただけだって!」
健二が身を乗り出して叫んだが、高木弁護士はそれを冷たく遮った。
「佐藤健二さん。勘違いしないでいただきたい。私は、あなたを助けに来たのではありません。お嬢様、殉音寺様からの、最終通告を執行しに来たのです。」
「最終通告?」
高木弁護士は、ファイルをゆっくりと開いた。そこには、健二がこの3年間、どのように評価されていたかが、克明に記されていた。
「佐藤健二さん。あなたは、自分が偶然、殉音寺家に転がり込んだ幸運な男だと思っていましたね。ですが、事実は違います。あなたは、殉音寺総一郎総帥が仕掛けた、後継者選別テストの被験者だったのです。」
「テスト? 何の話だよ…」
「総帥は、娘である真梨様を支える伴侶として、あなたを選んだ。ですが、権力や富を与えてから本性が出るのでは、遅すぎる。だからこそ、あえて『身分の低い妻とその親戚を養う苦労人』という役割をあなたに与え、3年間の観察期間を設けたのです。」
健二の喉が、ゴクリと鳴った。
「もしあなたが、この3年間、真梨様を愛し、守り、謙虚に努力を続けていたならば。あなたは、今日のこの瞬間、殉音寺グループ本社の常務取締役に就任し、総額数千億円を超える資産の管理権を譲り渡される手はずになっていました。」
「せ、数千億…」
健二の瞳に、かつてないほどの欲望と、それを上回る衝撃が走った。
「ですが、あなたの成績は、最悪でした。会社の金の横領。特許情報の売却未遂。そして、何より、真梨様への度重なる侮辱と裏切り。これらは全て、殉音寺の監視システムによって、1分1秒の漏れもなく、記録されていました。」
高木弁護士は、ファイルの中から1枚の写真を差し出した。それは、今日、健二が役員に就任した際に座るはずだった、本社の最上階にある豪華な役員室の写真だった。
「本来なら、あなたは今頃、ここで指揮を執っていたはずです。ですが、あなたは自ら、その権利を捨てた。それも、あのお母様が持ってきた離婚届によって、ね。」
「あ、ああ…、あの…離婚届…」
「そうです。真梨様は、最後まであなたを信じようとしていました。ですが、お母様が『10分以内に提出しろ』と言い放ち、あなたがそれを承認した瞬間、テストは終了しました。不合格です。それも、史上最低の点数で。」
健二の全身から、血の気が引いていくのが分かった。天国と地獄。名誉。全てが、自分の手の届くところにあった。あと一歩。あと数分、妻を大切にしていれば、全てが自分のものになるはずだった。それを、不倫相手との遊びや、母親のつまらない勘違いのために、自分自身で叩き壊してしまったのだ。
「ああ、待て、待ってくれ! 撤回だ! 離婚は撤回する! 真梨を、真梨をここに呼んでくれ! 愛してるんだ! 悪かった! 全部、俺が悪かったんだ!」
健二は机を叩き、狂ったように叫んだ。しかし、高木弁護士の言葉は止まらない。
「撤回は不可能です。離婚届は、すでに受理されました。そして、ここからが、本当の意味での『お仕置き』の始まりです。佐藤健二さん。」
高木弁護士は、不適な笑みを浮かべた。
「あなたが必死に盗み出し、梨華さんを通じて売却しようとした、あのデータ。中身は空っぽだと申しましたが、実は1つだけ、お嬢様からの『プレゼント』が入っていたんです。」
「プレゼント…?」
「はい。あのデータがコピーされた瞬間、あなたのスマートフォン、パソコン、そしてお母様の端末にある、全ての不適切な履歴が、日本中の主要なSNSと、あなたの取引先、さらにはあなたの親戚一同に、一斉に拡散されるように設定されていました。タイトルは、『佐藤健二と母・静子の、華麗なる犯罪記録』。」
健二は目を見開き、ガタガタと震え出した。
「ああ。今頃、ネット上は、あなたたちの話題で持ち切りですよ。あなたの不倫、お母様の借金取りへの醜い命乞い。そして、あなたが真梨様をいかに虐げてきたかという記録。全てが、全世界にさらされました。あなたたちは、もうこの国で、顔を上げて生きていくことはできません。」
健二はあまりの衝撃に言葉を失い、口をパクパクとさせるだけだった。その姿は、まるで陸に上げられた魚のようだった。
「さらに、お母様の静子さんについてですが。彼女が唯一の誇りにしていた、実家の土地。あそこは現在、殉音寺グループが買い取り、来月から、公衆トイレの建設が始まることになりました。お母様が『高貴な家柄』と誇張していたあの場所は、これから末永く、多くの人々の汚れを洗い流す場所として、活用させていただきます。お母様には、その管理員としての仕事を、刑期を終えた後の義務として、用意してありますよ。もちろん、無給でね。」
健二の精神は、もはや限界だった。プライドを、金を、未来を、そして自分たちのルーツさえも、徹底的に踏みにじられ、跡形もなく破壊されたのだ。
「真梨…、真梨…! 許してくれ! お願いだ! 助けてくれ!」
健二は床に膝をつき、取り調べ室の壁に向かって、何度も頭を打ち付けた。しかし、その声が彼女に届くことはない。私はその頃、本邸のテラスで、正雄さんと一緒に、静かな午後を過ごしていた。
「真梨さん。もう、いいのかい?」
「はい、お父様。これで、あの親子に関する、全てが私の人生から消去されました。」
私はスマートフォンの画面を操作し、健二からの着信拒否設定を、永久拒否に変更した。
「『10分で出しなさい』と言われた時は、どうなることかと思いましたが。終わってみれば、10分で世界が変わりましたね。」
私は空を見上げ、晴れやかな気持ちで微笑んだ。健二と静子。あの2人が、これから何十年という時間をかけて償わなければならない罪。それを思うと、少しだけ胸が痛んだが、それ以上に、ようやく自分を取り戻せたという解放感が、私を包み込んでいた。しかし、物語は、まだ終わっていない。最後に、健二が警察署の独房で目にする、本当の意味での「スッキリ」する結末が待っていた。
翌朝。健二の元に届けられた朝食のトレーの下に、1枚の紙片が挟まっていた。そこには、真梨の筆跡で、こう記されていたのだ。
『私があなたを愛していた3年間。あなたが私に、一度でも「ありがとう」と言ってくれたら、この結末は変わっていたかもしれません。さようなら、佐藤健二さん。いえ、名もなき受刑者さん。』
健二はその紙片を握りしめ、言葉にならない絶叫を上げた。その声は、重厚なコンクリートの壁に虚しく吸い込まれていった。
事件から数ヶ月が経ち、町には爽やかな秋の風が吹き抜けていた。殉音寺家の本邸。私は、父の趣味である庭園の手入れを眺めながら、穏やかな時間を過ごしていた。かつて、佐藤という名の身勝手な親子に怯え、耐え忍んでいた日々が、遠い昔の出来事のように感じられる。あの後、健二と静子の親子には、法と社会の厳しい審判が下された。健二は、横領、産業スパイ未遂、そして多数の詐欺罪で実刑判決を受け、今も冷たい檻の中で過ごしている。かつて「俺の稼ぎで食わせてやってる」と豪語していた彼は、今では自分の名前さえ、番号で呼ばれる日々だ。彼が獄中で知った最大の絶望は、彼が人生の成功と信じていたものが、実は全て私の手のひらで転がされていたテストの結果に過ぎなかったという事実だった。
一方、義母だった静子には、さらなる因果応報が待っていた。彼女は今、かつての佐藤家の家系である実家があった場所に立てられた、公衆トイレの清掃員として働いている。かつて「育ちが知れるわね」「貧乏臭い」と私を罵っていた、その口で、今は利用客に「ありがとうございます」と頭を下げ続ける毎日。高級ブランドに身を包んでいたその手は、冷たい水と洗剤で赤くひび割れ、かつての傲慢さは、どこにも見当たらなかった。
ある日の夕暮れ。私は仕事の合間にかつて住んでいたあのマンションの近くを通りかかった。すると、そこには、ボロボロの作業服を着て、地面に膝をつきながら、懸命にトイレの床を磨いている静子の姿があった。
「お義母さん。」
私が静かに声をかけると、静子はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。私の顔を見た瞬間、彼女の瞳に、絶望と後悔、そして一筋の涙が浮かんだ。彼女は何かを言おうと口をパクパクさせたが、結局は深く頭を下げ、震える声でこう言った。
「申し訳ありませんでした。私は…、私は、一番大切なものを、自分の手で壊してしまったんですね。」
静子は、私がかつて彼女に贈った、安物だけれど心を込めて選んだ手袋。今も、それを大切に持っていた。彼女は贅沢やプライドという幻影を追いかけるあまり、目の前にあった本物の家族の優しさに、気づけなかったのだ。私は何も答えず、ただ彼女の背中を見つめ、その場を後にした。許すことはできないけれど、もう彼女を憎む気持ちも残っていなかった。
「お嬢様、そろそろ、お時間です。」
安倍が優しく声をかけてくれた。今、私の隣には、本当の家族である正雄さんが座っている。正雄さんは、父の計らいで、殉音寺グループの関連施設で管理職として再起し、失われた人生を取り戻そうと、懸命に生きている。
「真梨さん。あの子たちが失ったのは、金や地位じゃない。人を信じ、人に愛されるという、人生で最も尊い権利を、自ら放棄してしまったんだ。君が今、こうして笑っていられることが、私にとって、最大の救いだよ。」
正雄さんの言葉に、私は静かに頷いた。車が走り出し、夕日に照らされた街並みが後ろへ流れていく。あの10分間。もし、あの時、義母がいきなり離婚届を持ってこなかったら。もし、私が夫の裏切りに気づかず、ずっと騙され続けていたら。今も私は、あの暗い家の中で、冷たい言葉に耐えながら、生きていたかもしれない。
「お義母さん、ありがとうございます。あの10分間が、私を自由にしてくれました。」
私は心の中でそう呟いた。皮肉なことに、敵が仕掛けた最大の罠こそが、私にとっての最大の福音となったのだ。殉音寺家の本邸に到着すると、父が玄関先で待っていた。
「お帰り、真梨。新しいプロジェクトの資料ができているよ。これからは、殉音寺の未来を担う1人の経営者として、思う存分、腕を振るってくれないか。」
「はい、お父様。喜んで。」
私は力強く答え、一歩踏み出した。これからは、誰かの顔色を伺う必要はない。自分の力で、自分の信じる道を歩んでいく。奪われていた3年間の時間を、これからの豊かな人生で、何倍にもして取り返していくつもりだ。人は、奪うことで幸せになれるのではない。与え合い、守り合い、共に歩むことでしか、本当の豊かさは手に入らない。あの親子が、一生かけても気づけなかったその真実を、私はこの胸に深く刻み、新しい未来へと走り出した。空には、一点の曇りもない美しい月が登り始めていた。私の物語は、ここから、本当の意味で始まっていくのだ。



