「母さん、明日からは一人で暮らしてもらえますか?」
息子の言葉は、まるで刃物のように私の胸に突き刺さった。夕食後の静かなリビングで、私は手にしていた湯飲みを思わず置いた。六十五歳。市役所で三十九年間勤め上げてきた私の人生で、これほど冷たい言葉を聞いたことがあっただろうか。
「急な話で申し訳ないけど、もう限界なんです」
深夜は私の目を見ようともしない。まるで罪悪感から逃れるように、視線を窓の外へ向けている。隣に座る妻の千春は、他人事のように紅茶をすすっていた。
「お母さん、私たちにも生活があるんです。プライバシーも必要ですし」
千春の声には、一片の温もりもない。不用品を処分するような事務的な口調が、私の心を凍らせていく。
「三十九年も働いてこられたんですから、貯金だってあるでしょう。アパートでも借りて、ゆっくり老後を過ごされたらどうですか?」
私は二人の顔を交互に見つめた。幼い頃に夫を亡くした後、「母さん、僕を一人にしないで」と泣きながらすがりついてきた息子の面影は、もうどこにもなかった。静寂が部屋を支配する中、私は小さく頷いた。心の奥底で、何かが音を立てて崩れていくのを感じながら。
「分かりました。明日から一人で暮らします」
その時の私の声が、不思議なほど穏やかだったことを、息子夫婦は後になって思い出すことになる。
その夜、私は眠れずに過去を振り返っていた。三十九年前、夫が他界した時、深夜はまだ三歳だった。葬儀の夜、小さな手で私の服を掴んで離さなかった息子。「母さん、僕を一人にしないで」。あの涙声が今でも耳に残っている。私は市役所の仕事を続けながら、必死で息子を育てた。朝早く起きて弁当を作り、残業を終えて帰宅すれば深夜になる。それでも、深夜の笑顔を見れば、全ての疲れが吹き飛んだものだ。大学の学費千二百万円、就職活動の支援、結婚資金三百万円、そしてマイホームの頭金五百万円。全て私が負担した。定年まであと少しという今、通帳の残高は五十八万円。全てを息子に注いだ結果だった。
それなのに、この三ヶ月で全てが変わった。
「お母さん、また味噌汁の味が薄いです」
「洗濯物の畳み方が雑ですね」
千春の小言は日に日にエスカレートしていった。深夜は見て見ぬふり。孫に会うことさえ制限され、まるで厄介者扱いだった。そして今夜、ついに追い出し宣言。月十五万円の年金から生活費として八万円を徴収されていたことも、今となっては笑い話だ。
私はゆっくりと立ち上がり、部屋の片隅にある古いアルバムを手に取った。幸せだった家族の写真を一枚一枚めくりながら、私は静かに決意を固めた。もういいのです。全て終わりにしましょう。鏡に映る自分に向かって、私は優しく微笑んだ。三十九年間、本当によく頑張った。そう自分を褒めてあげたかった。
思い返せば、この家での居心地の悪さは三ヶ月前から始まっていた。最初は些細なことだった。朝食の席で、千春が眉をひそめた。
「お母さん、この味噌汁、また薄くないですか?」
私は四十年以上作り続けてきた味噌汁の味を否定された。深夜は黙って新聞を読んでいる。
「すみません。明日から気をつけます」
そう答えた私に、千春は冷たい視線を向けた。
「明日からじゃなくて、今すぐ作り直してください。主人の健康に関わりますから」
朝の忙しい時間に作り直しを命じられ、深夜は結局遅刻ギリギリで出社することになった。それなのに、なぜか私が悪者扱いされる。
以降、千春の要求は不満を増していった。
「お母さん、洗濯物の畳み方が雑です。シワが寄ってるじゃないですか」
「掃除の仕方が適当ですね。ここ、ほこりが残ってます」
「買い物のセンスがないんですよ。なんでこんな高い野菜を買うんですか?」
私が何をしても気に入らない。まるで、存在自体が罪であるかのような扱いだった。
ある日曜日、七歳の孫の洋太が私の部屋に遊びに来ようとした。
「おばあちゃん、折り紙教えて!」
その瞬間、千春が飛んできた。
「洋太、おばあちゃんは疲れてるから、今日は会えないのよ」
「でも、おばあちゃんは元気そうだよ」
「いいから、こっちにいらっしゃい」
洋太は不満な顔をしながら、母親に連れて行かれた。ドア越しに聞こえる孫の声を聞きながら、私は声を殺して泣いた。これが毎週のように繰り返された。
金銭的な圧迫もひどいものだった。
「お母さん、来月から生活費として月八万円いただきます」
千春の突然の宣告に、私は耳を疑った。
「八万円ですか?」
「光熱費も含めて当然です。食費に光熱費にその他もろもろ。むしろ安いくらいですよ。普通のアパートなら十万は取られますから」
私の年金は月十五万円。八万円を取られたら、残りは七万円。医療費や日用品を考えると、ほとんど手元に残らない。
「でも、私も家事を全部やっていますし、それは同居の条件でしょう」
「当たり前のことです」
深夜は相変わらず無言だった。まるで、妻の言いなりの操り人形のように。
先月のことだ。私が体調を崩して寝込んだ時、千春は露骨に嫌な顔をした。
「お母さん、病院には一人で行けますよね」
三十九度の熱でふらふらしながら、私は一人でタクシーを呼んで病院へ向かった。診察を終えて帰宅すると、リビングで千春が深夜と話していた。
「正直、お母さんがいると息が詰まるのよ」
「でも、母さんは家事を全部やってくれてるし」
「それだけじゃダメなのよ。プライバシーがないのよ。友達も呼べないし」
「じゃあ、どうしたいんだ?」
「老人ホームとか、一人暮らしとか、選択肢はあるでしょう。お母さんの方が幸せかもしれないし」
私は廊下で立ち尽くした。ああ、私はもう、この家には必要ないのだ。三十九年間、全てを捧げて育てた息子にとって、私はもう重荷でしかない。
それから数日後、あの運命の夜が訪れた。
「母さん、大事な話があります」
深夜が珍しく自分から口を開いた。千春は隣で腕を組んでいる。
「何でしょうか?」
「単刀直入に言います。明日から一人で暮らしてください」
私は息子の顔をじっと見つめた。そこには一片の情も感謝の念も見えなかった。ただ、面倒な問題を片付けようとする冷たい表情があるだけだった。千春が口を挟む。
「お母さんも、その方が気楽でしょう?好きな時に好きなことができますし」
「それに、僕たちも限界なんです。このままじゃ、家庭が壊れてしまう」
家庭が壊れる。その原因が、私だというのか。朝から晩まで家事をこなし、文句一つ言わずに尽くしてきた私が、家庭を壊すと言うのか。
私は静かに立ち上がった。もう何も言うことはない。三十九年という歳月は、この程度の価値しかなかったのだ。
「分かりました。お望み通りにいたします」
私の声は、不思議なほど落ち着いていた。心の中で何かが壊れた音がしたが、もうそれさえもどうでも良かった。
その夜、私は自室で静かに荷物をまとめ始めた。必要最小限の衣類、大切な写真、そして亡き夫の形見の腕時計。三十九年間この家で積み重ねてきた思い出は、小さなスーツケース一つに収まってしまった。深夜二時。家中が寝静まったのを確認してから、私はゆっくりと立ち上がった。鏡の前に立ち、そこに映る自分の顔をじっと見つめる。
「三十九年間、本当にお疲れ様でした」
鏡の中の自分に向かって、私は優しく微笑んだ。もう無理をする必要はない。誰かのために生きる人生は、今夜で終わりだ。
キッチンのテーブルに、一枚の紙を置いた。
「深夜、千春さんへ。ご要望通り、明日から一人で暮らします。これまでお世話になりました。お元気で。母より」
感情のない事務的な文面。でも、これで十分だった。私は静かに玄関へ向かった。靴を脱ぐ音さえ立てないよう、最新の注意を払いながら。最後に、この家の鍵をそっと下駄箱の上に置いた。金属が触れ合う小さな音。それが、三十九年間の母親業に終止符を打つ音だった。
ドアを開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。振り返ることなく、私は歩き始めた。一歩、また一歩。この家から離れるたびに、不思議と心が軽くなっていく。
実は、私には息子夫婦が知らない秘密があった。市役所での私の立場、部長職という肩書き、そして来月に支給される三千万円の退職金。息子には「ただの事務」としか伝えていなかった。給与の詳細も、全て内緒にしていた。なぜ隠していたのか。それは、息子に頼られたくなかったからだ。自立した大人になって欲しかった。だから、必要最小限の援助だけをして、後は自分の力で生きていけるように守ってきた。
皮肉なものだ。息子は確かに自立した。私を必要としないほどに。
歩きながら、私はスマートフォンを取り出した。事前に予約しておいたビジネスホテルへの道順を確認する。明日からの新居が決まるまでの仮の宿だ。
「これでいい。これで、本当にいいんだ」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
翌朝六時。いつもなら、私が朝食の準備を始める時間だ。千春が目を覚まし、キッチンへ向かった。いつもは味噌汁の香りが漂い、炊きたてのご飯の湯気が立ち上っているはずの空間は、不気味なほど静寂に包まれていた。
「あれ? お母さん?」
返事はない。千春は眉をひそめながら、私の部屋へ向かった。ドアをノックする。
「お母さん、朝ですよ。朝食は?」
やはり返事はない。苛立ちを覚えながら、千春はドアを開けた。そこにあったのは、綺麗に整えられたベッドと、がらんとした部屋があった。クローゼットを開けると、ハンガーだけが寂しく揺れている。
「深夜! 深夜、大変よ!」
千春の叫び声で、深夜が飛び起きてきた。
「どうした? 何があった?」
「お母さんがいないの? 荷物も全部なくなってる」
二人は慌ててキッチンへ駆け込んだ。そこで、テーブルの上の置き手紙を見つける。深夜が震える手で手紙を取り上げ、読み上げた。
「ご要望通り、明日から一人で暮らします……」
千春が鍵を見つけた。
「鍵も置いてある。本当に出ていったのよ」
「まさか、本気だったなんて」
深夜の顔が青ざめた。
「でも、昨日言ったばかりじゃないか。普通、もっと話し合うとか、準備期間とか……」
「母さんは、何も言わなかった。ただ、分かりましたって」
急に現実が、二人にのしかかってきた。朝食は? 弁当は? 千春が時計を見る。もう六時半だ。
「私、料理なんてできないわよ」
「コンビニで買えばいい」
洗濯は? 掃除は? 洋太の送り迎えは? 次々と浮かび上がる問題に、二人は呆然とした。今まで当たり前のように享受していたものが、全て母親の手によるものだったことに、今さらながら気づいたのだ。
深夜は慌てて、母親の携帯電話に電話をかけた。呼び出し音が続く。そして、ようやく繋がった。
「母さん! 母さん、どこにいるの?」
電話の向こうで、私の落ち着いた声が聞こえた。
「おはようございます、深夜」
「何が『おはようございます』だ! 急にいなくなるなんて!」
「昨日、あなたが言ったんでしょう。明日から一人で暮らせと」
「それは……でも、普通はもっと準備とか……」
「三十九年間も一緒に暮らしてきて、まだ準備が必要ですか?」
深夜は言葉に詰まった。
「とにかく、一度帰ってきて話し合おう」
「話し合うことなんて、ありません。あなた方の要望通り、一人で暮らします。それだけです」
「母さん……」
「お元気で、深夜。千春さんにもよろしく」
電話は切れた。深夜がもう一度かけ直そうとしたが、今度は電源が切られていた。
リビングに戻ると、千春が洗濯物の山を前に途方に暮れていた。
「これ、どうやって洗濯機に入れるの?」
「そんなこと、僕に聞かれても」
「あなたのお母さんでしょう。連れ戻してよ」
「連絡が取れないんだ」
洋太が起きてきた。
「ママ、朝ごはん」
「今日はパンで我慢して」
「やだ! おばあちゃんの卵焼きがいい!」
「おばあちゃんは……」
千春と深夜は顔を見合わせた。どう説明すればいいのか、二人には分からなかった。
その頃、私はビジネスホテルの部屋で、温かいコーヒーを飲みながら朝日を眺めていた。三十九年ぶりに、誰のためでもない、自分だけの朝を迎えていた。携帯電話の電源を切り、私は小さく呟いた。
「さようなら、私の過去。こんにちは、私の未来」
新しい人生の第一歩。私は静かに踏み出したのだった。
母が消えた翌朝、藤田家は混乱の極みにあった。
「深夜、遅刻するわよ!」
千春の悲鳴のような声が響く。朝七時。いつもなら朝食を済ませ、弁当を持って余裕で家を出る時間だ。しかし今朝は、まだ何も準備ができていない。
「弁当なんて作る時間ない」
「じゃあ、コンビニで買うしかないわ」
「また昨日の夜もコンビニ弁当だったじゃないか」
深夜は苛立ちを隠せなかった。当たり前のようにあった母の手料理が、こんなにも貴重なものだったとは。
「洋太、早く着替えて」
千春が息子をせかすが、洋太は不満だ。
「おばあちゃんの作ったご飯がいい」
「おばあちゃんは……いないの」
「なんで? どこ行ったの?」
子供の純粋な問いに、千春は答えられなかった。結局その朝は、大混乱のまま終わった。深夜は会社に遅刻し、上司から厳しい叱責を受けた。千春も、洋太の保育園への送りに手間取り、パートに遅れた。
夕方、千春が買い物から帰ってくると、洗濯物がまだ干されていないことに気づいた。
「どうしよう。洗濯機の使い方も分からない」
説明書を探すが見つからない。母はいつも当たり前のようにやっていた。洗剤の量も、柔軟剤のタイミングも、何も分からない。適当に洗剤を入れて回してみたが、泡が大量に溢れ出してきた。
「キャー!」
床は泡と水でびしょびしょになった。その時、深夜が帰宅した。
「なんだ、これは?」
「洗濯機が壊れたのよ」
「壊れたんじゃなくて、使い方が分からないだけだろう」
「じゃあ、あなたがやってよ!」
夫婦の言い争いが始まった。洋太が泣き出す。
「おばあちゃんに会いたい!」
その一言で、二人は黙り込んだ。夕食はまたもやコンビニ弁当。食卓は重い空気に包まれていた。
「明日から、どうする?」
深夜が口を開いた。
「家政婦を雇うとか。いくらかかると思ってるの? 月に十万は最低でも必要よ」
「八万……母には月八万円しか渡していなかった。それで、全ての家事をこなしていたのだ」
「母さんに戻ってきてもらうしかない」
「でも、連絡取れないんでしょう」
「市役所に行けば、分かるかもしれない」
翌日、深夜は仕事を早退して市役所へ向かった。母の同僚に会えるかもしれない。受付で母の名前を告げる。
「藤田れ子さんですか? 部長のことですね」
「部長?」
深夜は耳を疑った。
「はい。総務部の部長です。来月定年退職される予定ですが……」
「母が……部長? ご存知なかったんですか? 藤田部長は三十九年間勤続されて、市役所でも尊敬される方ですよ」
深夜の頭が真っ白になった。母は「ただの事務員」だと思っていた。部長だったなんて。
「退職金は……部長ですから、三千万円ほどになるかと」
「三、三千万円……」
膝から力が抜けそうになった。家に帰ると、千春が青ざめた顔で待っていた。
「洋太が熱を出したの。保育園から呼び出しがあって、早退したわ」
「大丈夫なのか?」
「病院に連れて行ったけど、待ち時間が長くて……お母さんがいた時は、すぐに対応してくれたのに」
深夜は、市役所で聞いた事実を千春に話した。
「母さんは……部長だった。退職金も、三千万円」
千春の顔が青ざめた。
「私たち、とんでもないことをしたんじゃない?」
その時、ポストに一通の手紙が入っているのに気づいた。差出人は法律事務所だった。中を開けると、実家の土地と建物に関する書類だった。
「藤田れ子様名義の不動産について、売却のご相談を受けたく取り急ぎご連絡申し上げます。現在の評価額は、土地建物合わせて八千万円となります」
「八千万円……」
深夜と千春は顔を見合わせた。母が所有する財産は、想像をはるかに超えていた。
「お母さん、こんな資産を持っていたなんて……」
「それなのに、月八万円も取っていた僕たち……」
罪悪感が二人を襲った。電話が鳴った。見知らぬ番号だ。深夜が出る。
「もしもし……」
「深夜さんですね。私は、母の友人です。母の居場所を知っていますか?」
「知っていますが、教えるつもりはありません」
「なぜです?」
「あなた方が何をしたか、全て聞きました。三十九年間尽くしてくれた母親を追い出すなんて」
「それは誤解です! 話し合いたいんです!」
「れ子さんからの伝言です。『お金に困ったら連絡をと言われるかもしれませんが、一人で暮らせと言ったのは、あなた方です』と」
電話は切れた。千春が泣き崩れた。
「私たち、最低なことをしたのよ」
深夜も頭を抱えた。家の中は荒れ放題。仕事も家事も、何もかもがうまくいかない。そして、失ったものの大きさに、今更ながら気づいたのだった。
母が姿を消してから、一週間が経った。藤田家は、もはや家とは呼べない状態になっていた。リビングには洗濯物が山積みになり、キッチンのシンクには、乾いた食器が溢れている。掃除機をかける余裕もなく、床にはほこりが積もっていた。
「深夜、また洋太の保育園から電話よ」
千春の声は疲れ切っていた。この一週間で、彼女は五キロ痩せた。
「また熱か」
「今度はおたふく風邪だって。すぐ迎えに来いって」
「僕は会議があるんだ」
「私だって仕事があるわよ!」
毎日のように繰り返される言い争い。かつての円満家庭への面影は、もうどこにもなかった。
千春がパートを早退して、洋太を迎えに行く。保育園の先生が、心配そうに声をかけた。
「最近、洋太君の様子がおかしいんです。おばあちゃんに会いたいと、よく泣くんです」
「すみません。ちょっと家庭の事情で……」
「お弁当も、最近はコンビニのおにぎりばかりですし……」
千春は顔を赤らめた。母がいた頃は、毎朝手作りの弁当を持たせていたのだ。
その夜、深夜は上司に呼び出された。
「藤田、最近どうした? 遅刻は多いし、仕事も雑だ」
「申し訳ありません。家庭の事情で……」
「家庭の事情か。君も大変だな。でも、このままでは昇進は難しいぞ」
昇進の話が潰えた。深夜は落ち込んだ。
家に帰ると、千春が泣いていた。
「もう限界よ。仕事と家事と育児。全部なんて無理」
「家政婦を雇うか?」
「そんなお金、どこにあるの?」
実際、家計は火の車だった。コンビニ弁当や外食が続き、食費は三倍に膨れ上がった。クリーニング代、タクシー代、様々な出費が重なり、貯金は底を突きかけていた。
「母さんを探そう。謝って……戻ってきてもらおう」
深夜は決意した。
翌日、深夜は探偵事務所を訪れた。
「母を探して欲しいんです」
「お母様ですか? 家出ですか?」
「いえ、その……追い出してしまって……」
探偵は眉をひそめたが、仕事を引き受けた。
三日後、探偵から連絡があった。
「お母様の居場所は分かりました。海の見える高級マンションに住んでいらっしゃいます」
「高級マンション?」
「はい。家賃三十万円の物件です」
深夜は絶句した。月三十万円の家賃を払える余裕があったのか。
「それと、調査の過程で分かったことがあります」
「何ですか?」
「お母様は、市役所の部長職で年収は八百五十万円。さらに、ご実家の土地は現在八千万円の価値があり、株式投資でも二千万円ほどの資産をお持ちのようです」
「二千万円……」
合計すると、母の総資産は退職金を含めて一億三千万円を超える。
「さらにお母様は、『藤田れ子基金』という奨学金制度を個人で運営されていて、毎年百万円を恵まれない子供たちに寄付されています」
深夜の手が震えた。こんなにも裕福だった母が、なぜ月八万円を黙って払い続けたのか。なぜ文句一つ言わずに家事をこなしていたのか?
答えは一つしかない。愛情だ。純粋な、息子への愛情。
深夜は、母の新居を訪ねた。オートロックのマンションで、インターフォンを押す。
「母さん。深夜です」
しばらくの沈黙の後、母の声が聞こえた。
「何の用ですか?」
「話があるんです。お願いします。会ってください」
「話すことなど、ありません」
「母さん、僕が間違っていました。謝りたいんです」
「謝罪なら、結構です」
「……お金に困っているんです」
その瞬間、母の声が冷たくなった。
「お金に困った。あなた方は、私に『一人で暮らせ』と言いました。その言葉を忘れたんですか?」
「それは……」
「私は、あなた方にとってお荷物でしたよね。邪魔者でしたよね。そんな私に、なぜ頼るんですか?」
深夜は言葉を失った。
「洋太が会いたがっています」
「洋太には会いたいです。でも、あなた方が制限していたじゃないですか。『おばあちゃんは疲れてる』って」
「母さん……」
「深夜。あなたは自分で選んだんです。私のいない生活を。その選択の結果を、受け入れなさい」
インターフォンが切れた。深夜は立ち尽くした。
家に帰ると、千春が涙ぐんでいた。
「もう無理よ。こんな生活」
「千春、あなたのお母さんがいたから、この家は成り立っていたのよ。それを追い出した……」
「あなたを、私は許せない」
「君だって賛成したじゃないか!」
「私も悪かったわ。でも、もう遅いのよ」
洋太が泣きながら部屋から出てきた。
「パパとママ、喧嘩しないで!」
その姿を見て、深夜は涙が止まらなかった。
数日後、深夜の元に、母から手紙が届いた。
「深夜へ。あなたを育てた三十九年間、私は幸せでした。でも、もう私の役目は終わりました。あなたは『明日から一人で暮らせ』と言いました。その言葉通り、私は一人で生きています。そして、とても幸せです。あなたも、自分の選んだ道を生きてください。洋太の教育費として五百万円を信託銀行に預けました。洋太が十八歳になったら、本人に渡るようにしてあります。これが私からの最後の贈り物です。あなたへの援助は、これ以上ありません。自分の人生は、自分の力で切り開いてください。それが本当の親孝行です。さようなら。母より」
深夜は手紙を握りしめ、声をあげて泣いた。
千春は翌日、実家に帰った。別居という形だったが、もう戻ってくることはないだろう。深夜は一人、荒れ果てた家で呆然と立ち尽くしていた。
テレビのニュースが流れる。
「本日、市役所を定年退職された藤田れ子さんが、個人で一億円を市に寄付されました。恵まれない子供たちの教育支援に使われるということです」
画面に映る母は、晴れやかな顔だった。三十九年間の重荷を下ろし、自由になった人の顔だった。深夜は崩れ落ちた。全てを失った。母の愛も、妻も、幸せな家庭も。そして、それは全て自分が選んだ結果だった。
「母さん……ごめんなさい」
誰もいない家に、深夜の嗚咽だけが響いていた。
海の見える新居で、私は朝のコーヒーを楽しんでいた。窓から差し込む朝日が、部屋全体を優しく照らしている。三十九年ぶりの、誰にも邪魔されない静かな朝。これが自由というものなのだと、改めて実感していた。
「れ子さん、おはようございます」
隣に住む同年代の女性、佐藤さんが声をかけてくれた。このマンションに越してきて、素敵な友人ができた。
「今日も陶芸教室ですか?」
「ええ、今日は花瓶を作る予定なんです」
「素敵ですね。私も初めて見ようかしら」
新しい趣味、新しい友人、新しい生活。全てが、輝いて見えた。
午後、弁護士事務所から連絡があった。
「藤田様、お孫様との面会権が正式に認められました。月二回、土曜日の午後四時間の面会が可能です」
「ありがとうございます。子供に罪はない。あの子だけは、私の大切な孫です」
最初の面会日、千春が洋太を連れてきた。洋太は私の姿を見るなり、駆け寄ってきた。
「おばあちゃん! 会いたかった!」
「洋太、元気だった?」
「うん! でも、おばあちゃんの作るオムライスが食べたい!」
私は微笑んだ。新居のキッチンで、洋太の好物を作った。
「美味しい! やっぱりおばあちゃんの料理が一番!」
「洋太、おばあちゃんはここに住んでいるから、月に二回は会えるよ」
「もっと会いたい!」
「大人の決まりがあるの。でも、会える時は思いっきり楽しもうね」
洋太を迎えに来た千春が、気まずそうに立っていた。
「お母さん。洋太がお世話になりました」
「いえ、洋太は私の大切な孫ですから」
「あの、離婚することになりました」
「……そうですか」
「全部、私たちが悪かったんです。お母さんの存在の大きさに、失ってから気づいて……」
私は静かに微笑んだ。
「千春さん、人生は選択の連続です。選んだ道を、しっかり歩いてください」
その頃、深夜は一人暮らしのアパートで、カップラーメンをすすっていた。離婚が成立し、新居は千春が持つことになった。養育費の支払いで、生活はギリギリだった。慰謝料として、貯金も全て千春に渡した。会社でも、度重なる遅刻で減給処分を受けた。給料は三割減。かつて目指していた昇進の道は、完全に閉ざされた。
ある日、深夜は実家を訪れた。売却の準備をするためだ。八千万円で売れれば、新しい生活を始められる。しかし、不動産屋から衝撃の事実を告げられた。
「この不動産は、藤田れ子様の名義です。売却には、所有者の同意が必要です」
「母の名義? でも、これは実家で……」
「お父様が亡くなった際、全て奥様に相続されています。あなたには所有権がありません」
深夜は愕然とした。最後の希望さえも、すでに失われていた。
一方、私の新しい生活は充実していた。市役所の退職金三千万円のうち、一千万円を市に寄付した。残りは老後の資金として運用している。毎月の年金と資産運用の利益で、十分豊かに暮らせる。週に三回の陶芸教室、月二回の読書会、そして地域のボランティア活動。三十九年間できなかったことを、今、心から楽しんでいる。
「藤田さん、本当にお元気になられましたね」
陶芸教室の先生が言った。
「ええ、人生で今が一番幸せです」
「苦労されたんですね」
「苦労というより、自分を見失っていただけです。でも、もう大丈夫。これからは、自分の人生を生きます」
ある日、深夜から手紙が届いた。
「母さんへ。僕は今、一人でアパート暮らしをしています。千春と離婚しました。全て自業自得です。毎日、母さんがいた頃を思い出します。朝起きれば温かい朝食があり、帰宅すれば綺麗な部屋が待っていた。それが当たり前だと思っていた、愚かな自分を恨みます。母さんに会って謝りたい。でも、その資格は僕にはありません。せめて、母さんが幸せであることを祈っています。深夜」
私は手紙を読み終え、そっと引き出しにしまった。返事を書くつもりはない。深夜は自分で選んだ道を歩むべきだ。それが、本当の成長に繋がる。
夕方、海岸を散歩していると、夕日が水平線に沈んでいく。オレンジ色の光が、海面をきらきらと照らしている。
三十九年前、夫を亡くした時、私は絶望の中にいた。でも、息子のために生きようと決めた。そして、三十九年間、全てを息子に捧げた。それは間違いではなかった。でも、自分を犠牲にしすぎた。息子のためと思っていたことが、実は息子の自立を妨げていたのかもしれない。
「明日から一人で暮らせ」。あの冷たい言葉が、私を解放してくれた。皮肉なものだ。息子に追い出されることで、本当の自由を手に入れたのだから。
今、私は誰のものでもない。藤田れ子という一人の人間として、残りの人生を生きている。洋太が大きくなったら、この話をしよう。人を大切にすることの意味を、感謝することの大切さを、そして自立することの重要性を。
海風が、優しく頬を撫でる。私は微笑んだ。
「ありがとう、深夜。あなたのおかげで、私は本当の自分を取り戻せた」



