新幹線の窓の外を眺めながら、私はあの日のことを思い出していた。あの時、差し出された温かいお弁当。ほかほかのご飯の上に大きな梅干しと黒ごま。右側のおかずにはほうれん草のおひたし、レンコンの煮物、ポテトサラダ、そして主役のハンバーグ。あれほどまでに身も心も満たしてくれた料理には、きっともう出会えない。
私は大村ゆい香、33歳。料理研究家として働き、3年前に自分の会社を立ち上げた。社員はまだ20名ほどの小さな会社だが、売上は順調に伸び、年間10億円に届くほどになっていた。周りから見れば、私は人生の成功者と言えるだろう。でも、今、私は大嫌いな母のために、長年離れていた故郷へと向かっていた。
母は、私が中学1年生の時に私を置いて家を出た。シングルマザーでありながら、ろくに仕事もせず、恋人と遊び回るような女だった。そんな母が、3年前に急性アルコール中毒で亡くなったと連絡が来たのだ。悲しみはない。あるのは、最後まで面倒をかけさせられたという嫌悪感だけだった。
当時の私は、本当に悲惨な環境にいた。生まれた時から父親が誰か分からない。母自身も「お店に来てた誰かだとは思うんだけどね」とヘラヘラ笑うだけだった。母は私を産んだ時21歳。派手な服装で、いつも香水とタバコの香りをまとっていた。ネイルは常に綺麗に手入れしていて、少しでも汚れることを嫌い、家で料理をする機会もほとんどなかった。
小学校高学年になると、母は数日間家を開けることが多くなった。家には食材はなく、1000円札1枚だけを渡される。「これで適当に2、3日食っといて」と言いながら。でも、帰ってくるのは1週間後になることなどざらで、お金が尽きてしまう時もあった。母は私を必要としていない。彼女が愛しているのは、美しい自分とネイル、そして恋人。嫌でも現実を突きつけられ、私はいつも心を締め付けられていた。
そして、中学1年生の夏。母が「2週間くらい家を開ける」と言い残して旅立ってから、さらに1週間が過ぎても彼女は帰ってこなかった。家にはもう食材と呼べるものはない。塩や砂糖の調味料で空腹をごまかし、水だけでお腹を満たした。夏休み前の修了式の日、足元がふらつく私を担任の教師は心配したが、私は相談しなかった。小学生の頃、給食費を払わない母のせいで担任の女教師に嫌われたことがあったからだ。「あの親の娘ですもんね」と、わざと聞こえるように嫌味を言われた。それ以来、教師という存在を信用していなかった。
空腹を抱えて家に帰ると、なんと母がいた。大きなトランクに荷物を詰めている。
「げ、帰ってきたの?」
「荷物を取りに来ただけよ。またすぐに行くから」
「今までどこにいたの?」
「沖縄よ。彼氏のお店を手伝ってるの。しばらくは帰ってこれないわ」
私は思わず彼女の腕にしがみついた。
「待って。お母さん、行かないで」
「邪魔すんじゃないわよ」
振り上げられた拳が、私の頬を打った。
「お母さんってうるさいのよ。いい? 私はもうあんたの面倒を見たくないの。中学生になったんだし、いい加減自立すれば」
財布から抜き取った1000円札1枚を、彼女は床に放った。
「じゃあね、達者で暮らしな」
パタリと閉じられた玄関扉は、母が私との縁を断ち切ろうとする象徴のように思えた。母は私を捨てたのだ。悲しくて悔しくて、1000円札を握りしめて涙が止まらなかった。
夏休みは、とても寂しい一人暮らしのスタートを切った。電気や水道はそのまま使えたし、家賃も引き落としなので追い出されることはないだろう。問題は食事だった。お金はすぐになくなり、また空腹問題を抱える。なるべく食べ物のことを考えないように長く眠るようにしたが、そうすると今度は体力が衰える悪循環。8月に入った頃には、また体調不良が私を襲っていた。
我慢できなくなってスーパーで試食がないか見て回ったが無駄足だった。小さな近所の公園に入り、木陰のベンチに座る。真夏の太陽は容赦なく熱を届かせていた。このままいなくなってしまいたい。親に必要とされず空腹だけを抱えている。誰にも心配されないのなら、このまま一緒に消えてしまえばいい。
しばらくすると、知らない女性の声が聞こえた。
「ねえ、あなた、大丈夫?」
うっすらと目を開けると、心配そうな年配の女性の顔があった。60代くらいだろうか。エプロンと三角巾を身につけている。身を起こして「大丈夫です」と答えるが、体勢を変えたせいかお腹が鳴ってしまった。
「あら、お腹が空いてるの?」
「えっと…」
言い渋っていると、彼女が隣に座った。
「どれくらい食べていないの?」
「夏休み中、ずっと」
勢いに押されて、つい素直に答えてしまう。後悔したが、彼女はただ静かに立ち上がった。
「うち、すぐそこなの。食べにいらっしゃい」
彼女が指さす方を見ると、公園の外に小さな車が止めてあった。車体の横に「お弁当の満腹堂」と書かれている。
「今配達を終えたばかりで車には何も積んでないの。店には残りもあるから、是非食べに来て」
彼女の格好と車を見れば、普通の近所の優しい人なのだと分かる。差し出された女性の手から、美味しそうな香りがした。油の匂いがお腹の虫を刺激する。
「ほら、子供が遠慮なんかしないで」
力強い彼女の笑顔と腕が、私を立ち上がらせた。
車で3分ほど走った場所に、薄汚れた看板を掲げる「お弁当の満腹堂」があった。彼女に促され、カウンターの横の扉から中に入る。その瞬間、大きな男性の声と様々な料理の香りが溢れてきた。
「妙子、配達ご苦労様。悪いな、足をくじいた俺の代わりによ」
「ただいま。あんた、ちょっと厨房に入らせてもらうよ」
みわさんと呼ばれた女性は厨房に姿を消し、年配の男性が私をじっと見つめた。彼女の夫だろう。奥から出てきたみわさんが説明する。
「ちょっと事情があってね、お腹空いてるみたいだから、お弁当の残り物をあげようと思って」
その言葉を聞いた旦那さんは、すぐにニコリと笑った。
「そうか。なら、まるまる1個余ったのがあるぞ」
彼から受け取ったお弁当を、みわさんが私に差し出す。温かい。お弁当だけではない。彼女と彼の笑顔が、とてつもなく温かかった。
家に帰って食べたお弁当は、とても美味しかった。途中で涙が頬を伝って口に入り、切ない塩っぱさがプラスされる。大人1人前の大きなお弁当は、空っぽだったお腹にすっぽりと収まった。
翌日、私は意を決して満腹堂に足を向けた。お弁当につけられていた立派な箸を返しに行くためだ。すると、またお弁当を手渡されてしまう。
「これも余り物だから」
「でも、そんな、お金も払ってないのに」
断り続けていると、彼女は厳しい表情で言った。
「あなた、きちんと食事は取れている? 腕もこんなに細くて、ちゃんと食べられてないんじゃないの?」
何も答えられなかった。すると、みわさんは柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、話は変わるけど、ここでお手伝いをしない? お手伝いをしてくれたら、余り物の弁当を渡すのはどう? 調理の人手が足りなくて困ってるのよ。この人は今、足をくじいて使い物にならなくてね」
「おいおい、母ちゃん、耳が痛いぜ」
まるで漫才のように話す老夫婦。この交換条件は、夏休み中に飢える危険を抱えた私にとって、救いだった。
「いいんですか?」
「もちろんよ。親御さんさえよければだけど」
「母は、今いません」
私の事情を察したのだろう。みわさんはまたニコリと笑った。
「じゃあ、朝は早いけど7時に来られる? 朝のお手伝い2時間と、18時からの片付けを1時間ほど頼みたいわ」
「はい」
涙がこぼれないように、もう一度頷いた。そんな私に、旦那さんが嬉しそうに声をかける。
「お嬢、名前は何て言うんだ?」
「大村ゆい香です」
「ゆい香ちゃんか。俺は満腹堂の店主、万田幹治。こっちの母ちゃんは万田妙子だ」
「こら、人を鬼婆みたいに言うんじゃないよ」
思わずくすっと笑ってしまった。なんと温かい人柄の持ち主たちだろう。今まで他人の優しさを知らなかった私の心に、初めて灯りが宿る。すると、店内に別の人が入ってきた。
「ただいま」
「お帰り。きちんと配達できたか?」
突然現れた人物に、私はまた緊張する。みわさんと同じ満腹堂のエプロンを身につけたその人は、中学校で見たことのある男子生徒だった。屋上前の階段で気さくに話しかけてくれた、あの3年生だ。
「ほら、言ってたでしょ、短時間のお手伝いさんを雇いたいって。この子、大村ゆい香ちゃんが来てくれることになったの」
どうやらただのお手伝いとして紹介してくれるようだ。
「あ、君、同じ中学の子じゃん。俺、孫の公平。一度階段で会ったことあるよな。同じ未成年労働者同士、仲良くしようぜ」
みわさんと幹治さんは、彼の祖父母に当たるらしい。公平はバスケットボール部のエースで、学校では何かと目立つ存在だ。他の生徒にバレないようにしなければ、と心に誓った。
20年前の夏、私はこうして満腹堂との縁を結んだのだ。マンダ夫妻が結婚してから立ち上げたお弁当屋は、当時すでに創立30年を超え、たくさんの常連客がついていた。私は朝7時に店に着き、最初は店の掃除や容器の準備から始めた。そのうちに、じゃがいもやかぼちゃを潰したり、唐揚げの衣をつけたりと、刃物を使わない調理も任されるようになる。
「米は優しく、米粒を壊さないように研ぐのよ。そうそう。上手よ」
みわさんはいつも優しく指導してくれた。マッシャーはまっすぐ立ててしっかり潰すこと。菜箸は長めに持つと先端で上手につまみやすいこと。きちんと理由を添えられて理解するたび、調理器具の奥深さを学ぶ。調理場に並ぶキッチンツールが、私には魔法の道具のように見えた。これらが美味しい料理という魔法を生み出すのだ。自分が魔法使いにでもなれた気がして、料理のお手伝いは楽しかった。
客足が弱まる朝9時に仕事が終わると、見返り分のお弁当を持たされた。自分も手をかけた料理の味は格別で、労働後の体が喜んだ。そのうち、公平から一緒に食べようと誘われ、4人で囲む食卓は、いつも一人で無音で食べていた私にとって、賑やかすぎるものだった。こんなに明るくて笑顔の溢れる食卓に自分がいるなんて、夢のように思う。夕方6時にも片付けのため満腹堂へ向かう。みわさんは、私に夕食も持たせるために、1日に2度私を店に呼んだのだ。「はい、これお食べ」。最初は申し訳なさを感じていた私も、夏休み後半になると笑顔で受け取れるようになっていた。大口を開けて笑う幹治さんも、気さくに話してくれる公平も大好きだ。彼らの仲間に入れば、日の当たる家族の一員に自分もなれた気がした。
気がつけば夏休み最終日。長期休みでない日も、このお手伝いを続けたいと申し出ると、夫妻は快く了承してくれた。母は、あの日からずっと帰ってこない。当面の食事を確保できてほっとした私は、改めて2人に感謝した。公平も私の事情を知り、「ゆい香も大変だな。もしお前の母ちゃんに会ったら、俺が文句言ってやるよ」と優しく言ってくれた。
それから1年後、私は14歳になっていた。公平は県立高校へ進学し、高校生となった。ある日、夕方お弁当を携えて家に帰ると、鍵が開いていることに気づく。嫌な予感がした。恐る恐る扉を開けると、玄関先に置かれたヒールに、母の帰宅を察する。
「あ、お帰り。こんな時間までどこ行ってたの? この不良」
冗談めかしてタバコの煙をふかす母。約1年ぶりの再会だった。南で過ごしたせいか肌は浅黒くなり、髪の毛はますます明るくなっている。
「戻ってきたの?」
「うん。また荷物取りに来ただけ。あの服、どこにしまったかな?」
今更戻って来られても、逆にお手伝いがしにくくなって辛いだけだ。すると、母が何かに気づいて鼻先を動かした。
「いい匂い。あ、お弁当? お腹空いてたのよね」
満腹堂の袋を奪われ、お弁当の蓋が開けられる。その中には、私とみわさんが一生懸命作った今日の料理が詰め込まれていた。
「こんないいもん、どうやって手に入れたの? あ、分かった。あんたもどうせ悪いことしてんでしょう」
ニヤニヤ笑った母は、当たり前のように箸を口にかき込んだ。満腹堂に通っていることだけは、どうしても秘密にしておきたかった。すると、母は言った。
「あんた、中学出たら働きなよ」
「え?」
「そしたら今かかってる家賃も水道高熱費も、自分で払えるでしょう。毎月引き落とされるの、地味に痛いのよね」
「とんでもない。周辺で働ける場所なんてないよ」
「大丈夫。探せばいくらでもあるって」
「いや、私は高校に行きたい」
すると、母は空の弁当容器をテーブルに叩きつけて怒鳴った。
「行きたいなら、自分の金で行けば。もう義務教育じゃないんだからね。いい? 中学卒業したら、家賃も水道高熱費もあんたが払うの。私はもう出さないわよ」
そして、また母は言った。
「そうだ。あんた、私たちの店で働く? 彼氏と開いた沖縄の店よ。何? ちょっと親父たちに酒飲ませたり、喋ったりするだけよ。あんたも顔は悪くないんだから、稼げるわ」
「お母さん、冗談はよして」
彼女の言葉に、母はますます面白がった。
「照れないでよ。あんた、やけにいい体付きになったじゃない。食費もないのにどうやって食べてんの? どうせいかがわしい方法で手に入れたんでしょ」
「そんなことしてない!」
「私の子だもの。きっとあんたも、男に頼って体でしか稼げない女になるのよ」
瞬間、鋭い痛みが頬を襲った。暴力は2度、3度と続いた。心には、再び大きな悲しみと絶望が襲いかかった。一通り満足した母は、再び沖縄へ旅立った。
翌日、どうしても満腹堂に行く気になれなかった私は、休みの連絡を入れる。その日の夕方、みわさんがお弁当を携えて家に来てくれた。
「今日、何も口にしていないでしょ。ほら、お食べ」
渡されたビニール袋を受け取ると同時に、温かい声が心に染みて、思わず涙が溢れた。私はみわさんに、昨日の出来事を話した。話を聞き終えた彼女は、険しい表情になった。
「店で働けって…なんてひどい親なの?」
「警察や児童相談所へ連絡した方がいいんじゃないかって、夫とも何度か話したことはあるのよ」
「それは嫌です。通報されれば一時的に保護はされるでしょう。でも、余計に母の怒りを増幅させるだけで、さらにひどい環境にさらされる危険があります。何よりも、満腹堂に通えなくなるのが嫌です」
ようやく手にした温かい食卓。絶対に手放したくなかった。
「中学を卒業したら、どうするつもり?」
「学費免除の特待生入試を狙います。高校生になったらバイトして、それで家賃と光熱費を支払うつもりです。成績はずっと上位です。家賃だってこのボロアパートなら安い。高校生のバイト代でも賄えるはずです」
「本当に、あなたはしっかりしているわね。でも、早く大人になろうとしないで」
みわさんが屈み込み、私の頬を撫でる。痛みしか生み出さない母の手と違い、美味しい料理とぬくもりを与えてくれる彼女の手。優しい手のひらに包まれて、涙がまた一つこぼれた。
「卒業したら、満腹堂でアルバイトなさい。今度はちゃんとした給料を渡すわ。もちろん、まかない付きよ」
「みわさん…」
「こんなことぐらいしかできなくて、ごめんなさいね」
「いいえ、十分です」
見事受験に合格した私は、学費全額免除の特待生として高校に入学する。入学時にかかる制服や教科書の費用は、マンダ夫妻が肩代わりしてくれた。公平からも、ずっと欲しがっていた本格的な包丁を入学祝いに贈られた。高校では朝に満腹堂で仕込みのバイトをし、勉強に励んだ後、夕方また満腹堂に行くという生活を続けた。週に3日のコンビニバイトも始め、収入を増やした。働いた分は生活費に消え、手元に残ることはほとんどない。それでも、まかないがあるだけありがたかった。そんな生活の中、大学まではさすがに無理だろうという人生の限界も見えてくる。
大学進学を諦めた高校2年の夏休み、私はあることを始めた。今までコツコツ開発してきた自分の料理を動画撮影し、サイトに投稿し始めたのだ。顔出しはせずにスタートした。満腹堂のおかげで料理好きになっていた私は、オリジナルレシピ動画やキッチンツールの使い方、食材の見分け方などを投稿した。この活動は自分の料理の上達にもつながり、楽しいものとなった。そのうちチャンネル登録者数が増え、収益化に成功。しかも1つの動画が大ヒットし、一躍ブレイクを果たす。高校3年生の時にレシピ本の出版話が来た時には、自分の進むべき方向が見えたような気がした。高校卒業後、ますます料理研究家としての動画に力を入れた。出版したレシピ本はヒットし、20歳になる頃には同年代の女性よりもはるかに多い収入を得られるようになり、ひとまずの成功を実感した。
そして、私は人生の一人立ちを決意する。母の知らない場所で生きていく。そのための東京行きだった。20歳の春、私は満腹堂を離れ、東京で一人暮らしを始めることにした。別れ際、みわさんは言った。
「あなたならきっともう大丈夫。立派な力を身につけているわ。料理を愛する力、美味しい料理を誰かに届けたいと思う心。とても立派なことよ。向こうへ行っても頑張ってね」
公平も、最後に優しい表情で言った。
「頑張ってこいよ。もしんどくなったらいつでも帰ってこい。その時は俺、この店をもっと立派にしてるからさ」
それからの私は、人生の黄金期と言えた。出版するレシピ本はヒットを続け、雑誌やテレビでも度々特集を組まれる。30歳の時にオリジナルのキッチンツールを開発販売し、そのために会社を立ち上げて社長となった。現在33歳の私の会社は従業員20名、売上は10億近く。もう人生で恐れるものは何もない。そう思い始めた頃、突然母の訃報が届いた。急性アルコール中毒で亡くなったらしい。事務的に告げる役所の人の声を、どこか遠くに聞いていた。あの母が亡くなった。ストンと腹に落ちたのと同時に広がったのは、解放感と安堵。ただそれだけだった。
そして今、私は母の遺品整理のため、故郷へと向かっている。新幹線の中で、私はあの日のことを思い出していた。あの日差し出された温かいお弁当。今の姿を見たら、マンダ夫婦は驚くだろう。きっと公平だって。
数時間後、故郷の町に着いた。アパートに赴き遺品の整理をする。1秒でも母に私の時間を奪われたくない。そう考えると行動は素早くなり、すぐに片付けは終わった。時刻は17時。もうすぐ夕食の時間になる。アパートを出た私の足は、自然と懐かしいお弁当屋・満腹堂のある方角へ向かう。久しぶりにあそこのお弁当が食べたくなったのだ。私と同じ13年分の年を重ねた公平も、もう35歳。もしかしたら結婚しているかもしれないな、と少し緊張しながら歩いた。
しかし、再び訪れた店の玄関は戸締まりされ、1枚の張り紙が貼られていた。悪い予感がして近づくと、「閉店のお知らせ」という嫌な言葉が目に入る。あの満腹堂が潰れたことに愕然とした。紙に並ぶ達筆を見れば、書いたのは公平だと分かる。今月末を持って閉店するという知らせと共に、長年の愛顧に感謝する文章が綴られていた。その中に、衝撃的な内容を見つける。
「8年前に店主が急逝してからも、お店の味を守りたいという一心で祖母と2人で今日までの暖簾を守ってまいりました。しかしながら力及ばず、今後の営業が困難であると判断しました」
幹治さんが、亡くなった。無慈悲な現実を突きつける文章を読んだ私は、泣き崩れてしまう。心に広がるのは、大きな喪失感と悲しみ。思わずしゃがみ込み、込み上げる嗚咽をこらえた。幹治さんは、いつも明るく元気で太陽のような人だった。大好きな人との別れは、こんなにも辛いのだと初めて知った。
悲しみにくれ、ゆっくりと立ち上がる。すると、知っている人物がそこにいた。
「ゆい香」
35歳となった公平が立っている。最後に会った時は22歳。さらに背が伸び、体も大きくなった彼が、どこか疲れきった顔をして私を見つめている。口調は相変わらず優しかった。
「店の前に誰かいると思って近づいたら、お前でびっくりした。久しぶりだな。元気にしてたか?」
「うん」
公平の話を聞くと、幹治さんが亡くなったのは、私が上京して5年経った頃だった。突然の心臓発作で、何も言えぬまま旅立ったという。公平は大学卒業後、一般企業に就職していたが、幹治さんの死により25歳で店を継いだ。みわさんと二人三脚で店の新しい体制を作り上げたが、2年ほど前からみわさんの体力が限界に近づき、1年前には足を骨折して介護が必要になった。今は老人ホームに入っているという。
「近くにスーパーが乱立し始めたのも不運の煽りとなった。残されたのは設備投資した時に作った借金のみ。店を閉じる前の数ヶ月はほぼ赤字だった」
公平は、力なく言った。
「情けないよな。お前には『立派にして待ってるぞ』って言ったのに、俺が潰しちまった」
しばらく無言の時間が続いた。私は意を決して彼に申し出た。
「私に、何かできることはない?」
帰ってきたのは、そっけない言葉だった。
「ないよ。今更、もう何もないんだ」
そうしてファミレスでの会話は終了し、公平は「それじゃ」と手を上げ、私の前から去ろうとする。また向けられた冷たい背中。本当にこれで終わりにしていいのか? そう自問した瞬間、自分でも驚くほどの力で、私は彼の服を引っ張った。
「待って。私も満腹堂を立て直したい」
「ゆい香?」
突然足止めされた公平は、驚いている。私は溢れ出る感情と考えをそのまま口にした。
「あの店を、私だって愛してる。お願い。恩返しをさせて。今の私にならそれができる。弁護士の人間に相談しましょう」
公平は、私の稼ぎが動画収入と本の印税だと思っているようだ。でも今の私には、それ以上の立場がある。私は名刺を出し、社長の肩書きを彼に見せた。
「私、会社を立ち上げたの。そこには信頼できるお金のプロがいる。あなたの借金問題と今後の店の再建について、相談できるはずよ」
公平はポカンと口を開けた。私は彼に自分の現状を伝えた。顧問弁護士の松村さんという女性がいること。彼女に現在の満腹堂のマイナス分の洗い出しと、借金返済スケジュールの確認、そして銀行に対する融資相談のアドバイスをもらおうと熱弁する。話を聞いた公平は、ぽつりと呟いた。
「再建が、可能なのか?」
「できる。絶対にできる」
私は言い切った。店の灯をこのまま消してはならない。使命感が静かに心で燃えていった。
「私は満腹堂の味を覚えてるし、料理だってできる。公平が料理の勉強不足だったというのなら、私がフォローする。だから、勇気を出して」
彼の手を握った。
「お願い、公平。私にこの件を預けてほしい」
しばらく考えた公平は、小さく笑った。
「すごいなお前は。それじゃあ、ゆい香の人脈に頼ってもいいか。俺もすがれる藁があるなら、掴みたかったんだ」
だが、彼はすぐに心配そうな顔つきになって、私の両肩に手を置いた。
「でも、ゆい香。簡単に自分の素性や立場を男にばらすなよ。金がある若い女性を、悪く利用しようとする奴に狙われる」
公平が真っ先に心配したのは、店よりも私のことだった。昔から変わらない、兄のような視線。心配症の幹治さんと似た瞳に、私は少しだけ胸が痛んだ。
「大丈夫。そんなにバカじゃないわ」
「確かにな」
松村さんに連絡を取ると、彼女は仕事の用事で近くまで来ていた。松村さんを含めた3人で、今度は実際の店を見ながら話をすることになった。ガランとした店内に足を踏み入れる。空っぽの陳列棚と、料理の香りが染み込んだカウンター。懐かしさで胸がいっぱいになる。松村さんは、公平が持ってきた書類と睨み合い、しばらくすると厳しく告げた。
「結論から言うと、現在の借金を抱えたまま、これまでと同じお弁当屋さんとして融資を申し込んでも、銀行の窓口で門前払いでしょう」
「やっぱり、そうですよね」
諦めかける公平の方に、私は手を乗せた。
「諦めるのが早いよ。松村さん、これはただのお弁当屋さんの破産手続きの相談じゃないの? 私の会社がこのお店のバックアップに入ることを前提として、話を進めてください」
「おや、ゆい香さん、本気ですね。ならば、戦い方は変わります」
松村さんは、借金の金利引き下げの交渉、あるいは私の会社から低金利での立て替え融資に切り替え、毎月の返済負担を減らすことを提案した。そして、ビジネスモデルの見直しだと言う。
「利益を出そうとしたら、食材の質を落とすか、ゆい香さんがただ働きするしかない」
「質は落としたくない。でも、ただ働きも嫌だ。ゆい香にそんなことはさせられないよ」
否定ばかりする公平に、松村さんは言った。
「だからこそ、味の選別です」
私には、彼女のとしていることが分かる。私は公平に顔を向けた。
「材料コストのかかるメニューはなくし、常連さん向けの定番は残す。その代わり、新しい柱も作る」
「でも、新しいメニューなんか、俺には考えられないよ」
彼の背中をパシッと叩く。
「私を誰だと思ってるの? 料理研究家よ。新メニューならお手のものよ。満腹堂の味を知っているのも再現できるのも私だけ。それに、みわさんに仕込まれた技術が今の会社を作ってくれたんだから、手を貸すのは当然のことだわ。ただ、新メニューの決定は、あなたとみわさんにお願いしたい。2人に認められたお弁当を、私も作りたいから」
「ゆい香……ありがとう。わかった」
見つめ合う私たちを交互に見て、松村さんも満足そうに書類を整えた。
それから、私はしばらくホテルに泊まって地元に残ることにした。借金の返済スケジュールはかなり見直され、返済ペースも前倒しにできる見通しが立った。新メニューの開発は難航したが、私は公平に頼んで、みわさんに会いに行くことにした。彼女に入所している老人ホームで、店の再建に関して伝えるためだ。
「みわさん、あなたの力が必要なんです。みわさんが今まで満腹堂で育てた味を引き継ぎ、新たなメニューを考えたい。その味の決定を、最終的に公平とみわさんでしてほしい」
「まあ、もちろんよ」
2つ返事で返してくれたことに感謝する。ぎゅっと膝上の彼女の両手を握りしめると、みわさんの目元にしわが寄った。
「嬉しいわ。本当に嬉しい。だって、嬉しいのよ。れ子、よく戻ってきてくれたわね」
瞬間、ぴたりと公平の手が止まった。私も聞き覚えのない名前が突然出てきて面食らう。
「れ子、もうずっとここにいてね。達彦君も後から来るのかしら」
顔をあげたみわさんの目はうつろだった。どこか遠くを見つめるぼんやりとした視線。私を通り越して、違う誰かに向いている。
「ばあちゃん…」
公平のかすれた呟きだけが、室内に小さく響いた。
30分後、私たちは施設を後にする。車の中で、公平が教えてくれた。
「れ子と達彦って、俺の両親の名前なんだ」
彼の両親は、公平が5歳の時に交通事故で亡くなっていた。みわさんは、私を嫁のれ子さんと勘違いしたのだ。
「気がつけば、俺も父さんたちと同年代になっていたんだな。なんか変な感じだよ」
微笑みを浮かべながら公平はエンジンをかけた。実の孫である彼こそショックな出来事だっただろうに、他人の私を気遣っている。公平の優しさが胸にしみる。私は彼に声をかけた。
「私の前では、無理して笑わなくていいよ。公平も、たまには私に弱音を吐いてよ」
驚く表情を見せた公平。ハンドルを握っていた左手を、そっと私の頭に乗せた。
「そんな格好悪いところ、見せられるかよ」
そして、また他人行儀な笑顔を見せて手をどけると、そのまま車を走らせた。小さく「ありがとな」と聞こえた気がした。相変わらず、弱みを決して見せようとしない。やっぱり、妹扱いだと思った。
その後も、新メニューの開発に忙しい日々が続いた。ある日、店内のカウンターの中に、古いノートが残されているのに気づいた。それは、満腹堂のメニューのレシピノートだった。みわさんの手書きメモがたくさんあり、彼女のアイデアや工夫が細かく書かれている。料理の知識の宝庫がそこにあった。これさえあれば、新メニューができるかもしれない。新たな魔法を手に入れた私は、再びキッチンと向かい合い試行錯誤を繰り返した。そして、公平と一緒に新たな唐揚げ弁当を完成させた。以前よりも衣が軽く、時間が経ってもサクサクとした食感の唐揚げに、副菜にはパプリカのマリネとほうれん草のおひたし、卵焼き。ご飯には昔通り、胡麻と梅干しを散らして、デザートには私のブランドのゼリーをつけた。試食の際、公平からも太鼓判を押される。
「うん。うまいよ。時間が経っても衣がしっかりしてる。卵焼きも、ばあちゃんのと同じ味だ」
次は、みわさんに試食してもらうことになった。私は、公平に店で食べてもらおうと提案した。
「生まれ変わろうとするこの店で、彼女に食べてほしいの。きっと、みわさんも何か感じることがあるかもしれない」
試食会の日、車椅子ごと店内に入ったみわさんは、ぽつりとこぼした。
「お店が明るいわ」
「すごいだろ。大工に頼んで綺麗にしてもらったんだ」
融資相談に成功した公平は、銀行から借り入れたお金で店内をリフォームしていた。私は、彼女の前に新しい唐揚げ弁当を差し出した。蓋を開ける瞬間、みわさんの目が輝いた。
「まあ、美味しそうな唐揚げ。これは…米粉を使ったのね」
「細かくしっかり衣がついてるわ。見ただけで分かるとは、さすがだ」
「ばあちゃん、食べてみてよ」
みわさんは箸を手に取り、唐揚げを口に運んだ。
「うん。美味しい。これは、満腹堂の味だわ」
この言葉を聞いて、心の中で小さくガッツポーズを決める。彼女に認められたのなら、味はきっと大丈夫だ。みわさんは、82歳とは思えないしっかりした口の動きで、お弁当をほぼ完食した。
「ばあちゃん、この弁当で直した方がいいところってある?」
「そうね。ほうれん草のおひたし。彩りとしては良いのだけれど、水分が気になるわ。せっかくの唐揚げの衣に移るかもしれない。鰹節や白ごまを和えて吸わせると、いいわ」
「わかりました。勉強になります」
やっぱりみわさんはすごい。美味しいお弁当を届けるという視点を、きっちりと持っている。すぐに改善点をノートにメモした。
こうしてみわさんの意見も取り入れた唐揚げ弁当は、レシピ完成の形になる。半年後を目指して、店のオープン準備が進められた。公平は、みわさんを施設から自宅介護に切り替えるつもりでいた。
「ばあちゃんに味を見てもらわないと、俺も心配だからさ。それに、店にいた方が、やっぱりばあちゃんしっかりしてるんだよ」
以前の試食会の様子を踏まえて、彼はそう考えたようだ。確かに、あの日を境に、みわさんの認知症の症状は少なくなったように思う。自宅への外出も増やしてみたが、その度に満腹堂を懐かしがり、しっかりとした意見やアドバイスも出してくれた。公平の両親に間違われることも、パタリとなくなった。
オープン前日。私は公平と2人、オープン前の店内で話していた。
「ゆい香には本当に世話になったな。感謝してもしきれないよ」
「ちょっと気が早いってば。まだオープン前だよ」
「そうだけど。言いたくなったんだよ。弁当の味から店の経営に関してまで、フォローしてもらったからさ」
公平はしばらく私を見つめると、力強く言った。
「絶対、成功して見せるから」
「うん」
公平の瞳の奥に宿る熱い感情。それを見ないふりをして、私は頷いた。
翌日オープンした新満腹堂は、新しいメニューを積極的に宣伝したおかげで売上は好調だった。待ってくれていた常連さんたちはもちろん、新しいもの好きの若者、ヘルシー志向の女性や忙しい主婦層にも売れた。時間が経っても美味しいお弁当と評判になり、職場の昼食に買いに来る層も増える。オープンから3ヶ月後、インフルエンサーがSNSに上げたことにより、満腹堂の名は全国的に有名になった。近くで映画撮影があった時には、スタッフ用の大量注文が入り、キッチンは戦場と化した。その時、覚醒したようにはきと動き出したみわさんに、私も公平も驚いてしまう。
「ちまちま動いてたら、この大量注文はさばけないよ。ほら、私がカウンターでお客さんの相手をするから、公平は揚げ物に回りな。ゆい香ちゃんは他の調理に専念して。店先は大丈夫、任せときなさい」
昔のみわさんが戻ってきた。そう実感して嬉しくなる。押し寄せる昼時の客を、みわさんは手際よくさばいていった。満腹堂の看板女将が、そこにいた。
オープンから半年ほど経った。売上は好調に右肩上がりですぐに黒字に転じ、抱えていた負債も返済間近だ。私は週に2度地元に通って店を手伝うというスタンスを続けていたが、社長という仕事は片手間までできるものではない。少しずつ、自分の本来の仕事との両立に限界が近づいていた。満腹堂から手を引くべき時期が訪れようとしていた。公平に話すと、彼は穏やかに笑った。
「今まで本当にありがとう。ゆい香がいなかったら、満腹堂の再建はありえなかったよ」
「公平とみわさんの努力があったからこそだよ。私はほんの少し手を貸しただけ」
「みわさんも最近では、杖一本でしっかりと立っている。施設に入っていたとは思えないぐらいだ」
「満腹堂はもう安泰だよ。公平、頑張ったね」
「ゆい香」
公平の瞳が揺れた。次の瞬間、彼は真剣なまなざしになった。
「俺、これからも頑張って満腹堂を盛り上げていくよ。次は絶対に潰したりなんかしない。味の勉強も経営だって、もっと努力する。だから…」
唾を飲み込んで、公平は告げた。
「ゆい香に釣り合う男になったら、交際を申し込みたい。俺、お前のことがずっと好きだった。今でも好きなんだ」
軽い目まいを起こしそうになった。なぜなら、それは私もずっと聞きたかった彼の気持ちだったから。でも、聞いてしまったら終わりだと思える、ある種の呪いの言葉でもあった。公平が私を好き。夢のような幸福感の向こう側に、のっそりと忍び寄る影がある。母だ。
『私の子だもの。きっとあんたも、男に頼って体でしか稼げない女になるのよ』
中学2年生の夏、酔った彼女から吐き捨てられた言葉が頭にこびりついて離れない。私は母の子。男性関係に奔放で、誰の子かも分からない赤ん坊を産み、子育てを放棄した女の子供だ。この体には、その血が流れている。彼女と同じDNAを持つ、水よりも濃い血が。気がつけば、私は逃げるように彼の言葉を拒絶していた。
「私は…好きじゃないわ」
頭が真っ白で、そっけない断り方になってしまう。公平の横をすり抜け、店を飛び出す。公平は追いかけては来なかった。
店から出ると、足は自然と近くの公園へと向かった。昔、中学1年生の時にお腹を空かせて逃げ込んだ、あの公園だ。違うのは季節。今は秋の夕方で、少し薄暗い。ベンチに座って、私は一人呟いた。
「本当に、成長してないな」
私は、あの頃から何も変わっていない。上京して社長になっても、いつまでも母の存在に怯え、弱いまま。情けなくて涙がにじむ。冷たい風が吹き込んだ時、不意に「カツン、カツン」と静かな音が聞こえた。杖を使い、こちらに歩いてくるみわさんの姿が見えた。
「ゆい香ちゃん、大丈夫?」
あの時のように心配する声をかけられ、涙腺が崩壊する。私の隣にそっと彼女は座り、優しい手のひらが背中に触れた。
「ごめんなさいね。あなたたちの会話は、聞いてしまったの。ゆい香ちゃん、あの言葉は、本心ではないわね。あなたと公平は、そう愛おしく見えたわ。何が、あなたの気持ちを止めようとしているの?」
静かに問われ、顔を両手で覆う。今まで誰にも見せたことのない情けない感情を、彼女の前でさらけ出した。
「私は…悪い人間だから」
「なぜ?」
答えるのに時間がかかった。説明するにはあまりにも醜すぎる、自分の本性を見せなくてはならない。それが嫌で、ずっと一人で抱えていた。
「母が死んだと聞いた時、ほっとした。いなくなって、嬉しかった。もう2度と姿を見せるなと、心から思った。人が亡くなった事実を、心底喜んだ自分を自覚した時、私はやっぱり母の血を引いているのだと実感した。不幸を喜ぶ人間が、いい人なわけがない。私は、あの母親の娘なのだと。こんな人間が、公平に釣り合うわけがない。私の本性を知ったら、彼はきっとがっかりする。満腹堂の再建に向けて動く中で、公平からの好意は感じていた。でも、見ないふりをし続けたのは、失うことが怖かったからだ。私もいつか母のような醜い面を見せてしまうかもしれない。そうなったら、きっと彼に愛想を尽かされて、私の心は壊れるだろう。だから、公平を突き離した」
「それに、きっと彼も気の迷いだ。店を救った恩と恋愛感情を、ごちゃ混ぜにしているのだ」
むせび泣く私の隣で、みわさんが柔らかく言った。
「ゆい香ちゃんは、いい子よ。とってもいい子。あれだけ素敵な料理を作れる人が、悪人なわけがないわ。何度だって私は言うわよ。ゆい香ちゃんはいい子。いい子よ」
涙が止められない。みわさんが紡ぐ言葉は、私が何よりも渇望してやまなかったものだ。そう、私はただ認めてもらいたかった。「あなたはいい子だね」と言ってほしかった。悪い人間になるという母の呪いに、ずっと苦しんできた心を解き放てるのは、たった3文字。みわさんは、どうしてそれがすぐに分かったのだろう。やっぱり、この人は魔法使いなのかもしれない。手のひらも、呪文を唱える声も、とても優しい。耐えきれずに、私は彼女に抱きついた。子供のようにワンワン泣き、感情を爆発させる。
「みわさん、私、本当は公平さんが大好きです。彼と満腹堂で働いた時間があまりに幸せで、だから手放すのが怖かった」
「手放さなくていいのよ。あの子だって、何も考えずに告げたわけじゃないでしょ。ねえ、ゆい香ちゃん。失うことばかりを考えないで」
涙に濡れる私の目を、みわさんはしっかりと捉えた。こちらを、シイラだらけの手で握りしめる。
「あなたのこの手は、料理を生み出す素敵な手よ。失うのが怖いのなら、作ればいい。何度でも、何度でも。満腹堂を再建させたゆい香ちゃんには、もうその力があるはずよ」
「それに、私は、あなたほど優しい子を知らないわ」
「私が…優しい?」
か細い声で繰り返すと、みわさんはしっかりと頷いた。
「うっすらと記憶の片隅にあるの。亡くなった娘の夢を見たわ。でも、あれは、あなただったのね。ゆい香ちゃん」
小さな衝撃を受ける。認知症の初期症状があった頃の記憶を、彼女は覚えていたのだ。れ子さんと重なった私の影を、きちんと見てくれていたのだ。そのことが嬉しくて、私は頷く。
「娘さんのふりをして、ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。私だって、また娘に会えたような気がして、とても幸せだった。ねえ、私たちは、似た者同士かもしれないわね。あなたが家族を求めるように、私もあなたに娘の影を見ていたの。まるでお弁当のようよ。他人同士という素材を、満腹堂の箱に入れて、1つの家庭を作ろうとしていた。でも、それは、素敵なことだと思わない?」
みわさんの言葉が、長年心にあった私の呪いを、じわじわと溶かしていく。小さく頷くと、みわさんはふふっと笑った。
「ほら、やっぱり、優しい子だわ」
それから彼女は私を抱きしめて、ポンポンと肩を叩いてくれた。体はもう私の方が大きいのに、こうして胸に抱かれると、幼子に戻ったような気分になる。みわさんは何度も何度も私の背中や頭を撫でる。温かな体温に、自分の全てが肯定されていく気がした。怖さがなくなった安堵感とは違う。満たされたこの気持ちは、何と表現すればいいのだろう。不意に、お腹が鳴った。
「あら、お腹が空いてるの?」
「はい」
まるで20年前の再現だ。小さく笑うと、彼女も同じように感じたのか微笑んで言う。
「うち、すぐそこなの。食べにいらっしゃい」
「でも…」
「子供が遠慮なんかしないの」
「みわさん、私、もう30代だよ」
昔とは違う、大人同士の会話。私は働き盛りになり、みわさんは杖をつくようになった。でも、変わらないものがここにある。彼女の優しさだ。
「そうね。お年頃の娘さんだわ」
みわさんが腰をあげると、私も自然と立ち上がった。2人で、再び満腹堂を目指した。
店に帰ってきた私を、公平は驚いた様子で迎え入れた。私たちが顔を合わせて気まずくなっている間に、みわさんは夕食の支度をすると言って奥に行ってしまう。彼に向き合うと、思い切って私は謝った。
「さっきは、ごめんなさい。好きじゃないなんて言っちゃって。でも、あれは嘘なの。本当は私…」
拳を握りしめ、勇気を振り絞った。
「公平が好き。私もずっと、好きだったの」
まっすぐに見つめて告げると、公平は大きく目を開いた。言い訳するように言葉を続ける。
「私はシングル家庭で、しかも放置された子で。こんな人間が、温かい家庭を築けると思えなかったの」
「ゆい香…」
「でも、私、努力する。だからお願い。私を、公平と満腹堂のそばにいさせてほしい。これから先も、ずっと。人生を一緒に歩みたいの」
緊張して返事を待つと、彼は大きく破顔した。
「俺だって、同じ気持ちだよ。待ってたぜ。プロポーズまで、先越されちまった」
「え? あ、そういえば」
公平には告白されただけなのに、私はそれをはるかに上回るプロポーズの返事をしたのだ。感情が高ぶりすぎていた。恥ずかしさのあまり、顔が真っ赤になる。
「ごめん。そんなつもりじゃなかった」
「おい、嬉しかったんだから、撤回するなよ。俺はもう、聞くつもりはないぞ」
今度は、公平に抱きしめられる。みわさんといい、家族の体温は同じように温かい。
「俺だって、結婚したいと考えてる。でも、お前は社長で会社を持っていて、そこまで踏み込んでいいか分からなかったんだ」
「公平…」
「一緒に人生を歩みたいと言ったのは、勢いだったのか? 本当はそこまで考えてない」
近くで聞こえる彼の心音に、公平もまた緊張しているのだと分かる。そっと胸を押して顔をあげると、
「考えてるよ。許されるなら、満腹堂の2階をオフィスにして、また一緒に暮らしたい」
「オフィス?」
彼と視線を合わせる。照れ隠しも相まって、私の説明は早口になった。
「つまり、サテライトオフィス。本社とは別の業務拠点にするの。ここを新メニュー開発のテストキッチンにして、リアルな顧客の声を本社にも届ける。きっと社員も納得するわ」
「さすが、副社長だ」
先ほど考えた思いつきだが、うまくいくような気がした。満腹堂で新メニューを開発・販売し、客の反応を知る。すぐに本社に反映させれば、会社としてのステップアップになるだろう。悪くない未来に、自然と笑みがこぼれる。
「公平だって、立派な2代目。満腹堂の店主よ」
「ああ、じいちゃんに負けないようにしなくちゃな」
彼となら、この店を守っていける。大好きな店の中で愛を確認した私たちは、抱きしめ合った。公平の胸に顔を埋めていると、静かにトクトクと彼の鼓動が伝わった。温かくて、気持ちいい。幸せに酔いしれそうになっていると、ひょっこり顔を出したみわさんに驚いて、2人して体を離した。
「ばあちゃん、見てたのか?」
「はいはい。今更照れなくてもいいのに。おめでとうね。さ、夕飯の支度できたから、食べましょうか」
「はい」
元気に答え、店の奥にある休憩スペースへと入る。盛り付けたご飯を差し出すみわさんが、私の大好きなあの言葉を口にした。
「はい、これお食べ」
私に元気を与えてくれる、魔法の言葉。彼女のよそったご飯粒が、ピカピカと光っていた。
その後、私は公平と交際をスタートさせ、半年後には結婚に至る。店や仕事もあるので式はあげなかったが、近所の写真屋さんでお祝いの写真を撮影した。ウェディングドレスとタキシード姿の私たちを前に、みわさんは珍しく涙を見せた。
「綺麗ねえ。あなた、立派な姿だよ」
彼女の胸元に抱えられた、幹治さんと娘夫婦の写真。れ子さんと達彦さんが、息子の門出を祝うように微笑んでいる。
後日、私は自分の中でけりをつけるため、ある場所を訪れた。母が眠る納骨堂だ。合同葬された彼女には、立派な墓標はない。私を長年苦しめた存在が、名も知らぬ他人と一緒に骨となり、地下にいる。納骨堂へ手を合わせ、持ってきた花を備えた。心にあるのは、母への祈りではなく、自分への決意。完全な決別宣言のため、ここに来た。
「私は、あなたと違う人生を生きるわ。さようなら」
二度と心を彼女に囚われたりはしない。まとわりついていた過去と決別し、その場を後にする。私の背後で、清らかな風が一時流れた。
そうして、また公平とみわさんの3人で満腹堂を切り盛りする。私が発案したサテライトオフィスは思った以上に効率よく機能し、数人の社員もこの町に住むようになった。気がつけば拠点のような位置になり、満腹堂を我が社の研究開発部門として子会社化してはどうかといった話まで出ている。
「そうなると、社長の部下になるのか」
「あら、そうなりたいんでしょ?」
「家でも仕事でも頭が上がらないのは、ちょっとなあ」
顎をこする公平の背中に、みわさんの手のひらがパチッと響いた。
「家で頭が上がらないのは、いつまでもゆい香ちゃんにデレデレしてるからだろ」
「痛いよ、ばあちゃん。全く」
「父親になったんだから、シャキッとしな」
杖をついて店の奥に行く彼女のお目当ては、2歳になる我が子だ。私と公平の間に生まれた可愛い息子は、お昼寝の真っ最中。
あれから月日は流れ、私は37歳、公平は39歳になった。結婚後しばらくして授かった子供は、元気にスクスクと育っている。みわさんも86歳となったが、まだまだ元気。孫の寝顔を見て満足したみわさんは店に戻ると、定位置へ座った。カウンター横にある座布団付きの椅子が、今の彼女の居場所。常連さんたちとおしゃべりするのが、楽しみな様子だ。座布団の上でお客さんを迎え入れる姿は、店の守り神のようにも見える。そんな彼女と目が合い、思わずにっこりと私も笑った。これからもお店が繁盛していきますように。幸せな香りと景色に包まれて、今日も満腹堂は回っていく。



