正直、お母さんなんていなくなればいいと思ってるんだ。目障りだし、生きてるだけでコストがかかる。
息子の健二のその言葉が、夜の静まり返った廊下に冷たく響いた。私は手に持っていたお茶のトレーを落としそうになるのを必死でこらえた。指先が小刻みに震え、心臓の音が耳元でうるさいほどに打ち鳴らされる。リビングのドアの隙間から漏れ聞こえてくるのは、最愛の息子とその嫁、美咲の、私を突き離すような冷たい言葉の数々だった。
今の今まで、私はこの子たちのためによかれと思って尽くしてきたつもりだった。夫を早くに亡くし、女手一つで必死に息子を育て上げ、この大きな家を守り抜いてきた。定年を過ぎてからも、共働きの二人を支えるために家事の一切を引き受け、食費も光熱費も全て私の年金から出していた。それなのに、彼らにとっての私は、ただの便利な家政婦か、場所を取るだけのゴミのような存在だったのだろうか。
暗い廊下で立ち尽くす私の背中に、得体の知れない悪寒が走る。何かが決定的に壊れる音が、胸の奥で聞こえた。でも、この時の彼らはまだ気づいていなかった。自分たちがどれほど愚かな発言をしたのか。そして、一週間後、彼らの平穏な生活が跡形もなく消え去ることになるということを。
私は暗闇の中で静かに決意を固めた。そこには悲しみを超えた、冷徹な怒りが宿っていた。
お望み通りにしてあげるわ。私は声に出さず、ただ唇を噛みしめた。これが私と息子夫婦との、最後にして最大の戦いの始まりだった。
その夜の空気は、いつもよりずっと冷たく重く感じられた。リビングからは、二人が旅行の計画を立てている楽しげな声が聞こえてくる。私の存在など、最初からそこにはないかのように。私は用意していたお茶をキッチンに戻し、足音を立てないように自分の部屋へ引き返した。古びたタンスの奥に隠してある一通の書類を取り出すと、不思議と手はもう震えていなかった。
この家は私の名義だ。そして、亡き夫が残してくれたこの一等地の土地も。彼らは、私が家族だからという理由で、死ぬまでこの場所を無償で提供し続けると信じて疑っていないのだろう。その甘えが、彼らをどん底に突き落とすことになるとも知らずに。
私は机に向かい、ペンを走らせた。窓の外では月が雲に隠れ、街は深い静寂に包まれている。まるで、これから起こる嵐の前の静けさを象徴しているかのようだった。
一週間。それだけで十分だ。私はこの家を去る準備を始めた。一切の情けを捨てて、彼らが望んだ私のいない世界を現実のものにするために。
翌朝、私はいつものように朝食を作り、いつものように笑顔で二人を送り出した。
「お母さん、今日の夕飯はハンバーグがいいな。肉は高いやつにしてよね。美咲が疲れてるからさ」
健二は、昨夜あんなに冷たい言葉を吐いた口で、平然とそんな要求をしてくる。
「ええ、わかったわ」
私は短く答えた。それが、この家で交わす最後の日常の会話になるとは、夢にも思っていない健二の背中を、私はただ静かに見送った。私の反撃は、もう始まっているのだ。
健二と美咲が仕事に出かけ、家の中に静寂が戻った。つい数分前まで二人の身勝手な要求が飛び交っていたのが嘘のようだ。私はダイニングテーブルにぽつんと置かれた、二人が食べ残した皿を見つめていた。
私の名前は佐藤里子。今年で六十五歳になる。この家は十年前、建築士だった亡き夫の修一が、里子が一生安心して暮らせるようにと、情熱を込めて設計して建ててくれたものだ。都心の端ではあるが、急行が止まる駅から徒歩圏内という好立地。庭には季節ごとの花が咲き、修一がこだわった無垢材の床は、年月を経て深い艶を放っている。私にとってこの家は、夫との思い出が詰まった宝箱そのものだった。
三年前、大手メーカーに務める健二が結婚すると言い出した時、私は心から喜んだ。連れてきた美咲は、おっとりとしたお嬢様風の女性で、最初はとても感じが良かったのだ。
「お母様、お一人では広いお家で大変でしょう。私たちと一緒に住みませんか? 健二さんと相談して、お母様を支えたいって決めたんです」
その言葉を信じた私が、どれほど愚かだったか。同居して半年も経つと、二人の本性が剥き出しになってきた。最初は遠慮がちだった家事の依頼が、いつの間にかやって当然の命令に変わった。共働きで忙しいのはわかる。でも、美咲は自分の洗濯物すら自分で畳まず、脱ぎ散らかした服を私が片付けるのを当たり前のような顔で見ていた。
それだけではない。この家での生活費、食費、光熱費、果ては固定資産税に至るまで、そのほとんどを私の年金と修一が残してくれた貯金から出していたのだ。健二は「俺たちは将来のために貯金しなきゃいけないんだ。母さんはもう十分持ってるだろう」と言って、一円も家に入れようとはしなかった。
「ねえ、このお出汁、少し薄くないですか? 私の実家ではもっと高級な昆布を使っていたので、口に合わなくて」
「お母さん、明日の朝は早いから、五時に朝食の準備しといて。あ、ワイシャツのアイロンも忘れずにな」
そんな言葉に傷つきながらも、私は家族だから、息子が可愛いからと、自分を納得させてきた。修一が残してくれたこの家で、息子夫婦と仲良く暮らすことこそが、亡き夫への弔いになると信じていたのだ。
しかし、昨夜耳にしたあの言葉。『母さんなんていなくなればいい。生きてるだけでコストがかかる』。あの言葉は、私が三十数年間愛情を注いで育ててきた、母親としてのプライドを無惨に踏みにじった。私が身を削って提供してきた食事も、清潔な服も、快適な住まいも、彼らにとっては無料のサービスに過ぎず、提供している私はコストでしかなかったのだ。
私は立ち上がり、二階の寝室へと向かった。そこには、同居を始める際に健二が書いた一枚の念書がある。
『この家は母さんの所有物であることを認め、私たちは居住させてもらう立場であることを忘れない』
当時は「水臭いことはよしてよ」と笑って受け取ったものだが、健二がどうしてもというので、引き出しの奥にしまっておいたのだ。今思えば、あの時の健二はまだ人間としての理性が残っていたのかもしれない。あるいは、単に私を安心させてこの家に居続けるための計算だったのか。
私はその念書を手に取り、リビングにある大きな窓から庭を眺めた。修一が植えた山法師が、今年も白い花を咲かせようとしている。
修一さん、ごめんなさい。私、もう限界みたい。
涙は出なかった。ただ、心の中にあった母親としての未練が、冷たい氷のように固まっていくのを感じていた。彼らは私をコストと呼んだ。ならば、そのコストを削減させてあげましょう。私がこの家から消えれば、彼らの望み通り、私の生活費や医療費といったコストは全て下からなくなる。ただし、彼らが忘れていることが一つある。この家も、この土地も、そして彼らが当然のように享受している快適な生活も、全て私の資産の上に成り立っているということ。
私はスマートフォンを取り出し、ある番号を呼び出した。それは、以前から熱心にこの土地を譲ってほしいと打診してきていた、地元の不動産会社の担当者、田中さんの連絡先だった。この辺りは再開発の計画があり、特に私の家のような広い角地は、喉から手が出るほど欲しい物件なのだ。
「もしもし、田中さんですか? 佐藤です。ええ、以前お話ししていた件ですが…はい。売却の手続きを進めたいと思いまして。条件は一つ、一週間以内に全ての契約を完了させ、代金の決済まで済ませること。それが可能なら、今すぐお会いしたいのですが」
電話の向こうで、田中さんが息を飲むのがわかった。
「え、あ、本当ですか? 以前はあんなに固く拒まれていたのに…。一週間ですね。承知いたしました。上物と調整し、最高条件の買い手を見つけます。今日これから伺ってもよろしいでしょうか?」
「お願いします。私は本気です」
電話を切り、私は深く息を吐いた。もう後戻りはできない。でも、不思議と体は軽くなっていた。重い枷が外れたような、そんな清々しささえ感じていた。彼らは今夜も私の作った夕飯を当たり前のように食べ、私の掃除した風呂に浸かり、私の払っている電気代でテレビを見て笑うのだろう。あと数日後に、自分たちが住む場所すら失うことになるとも知らずに。
私はキッチンの掃除を始めた。これが、この家を磨き上げる最後の大掃除になるだろう。私は誰にも邪魔されることなく、静かに、そして着々と、消える準備を進めていった。
夕方、チャイムが鳴った。やってきたのは、スーツ姿の田中さんともう一人、眼鏡をかけた初老の男性だった。
「佐藤様、急なご連絡に驚きましたが、こちらが提携している不動産鑑定士の伊藤です。今回の物件で、決済可能な買い手がすでに見つかっております」
話は私の想像をはるかに超えるスピードで動き出そうとしていた。
夕闇が迫る頃、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー。ああ、疲れた。なあ、母さん、ハンバーグ焼けてる? 腹減ったんだけど」
土足同然の勢いでリビングに入ってきた健二は、鞄をソファに放り投げると、そのままどっかりと座り込んだ。続いて入ってきた美咲も、手洗いうがいもそこそこに、「ふう、今日も残業で最悪」と独り言のようにこぼしながら、自分の部屋へ着替えに行ってしまった。
私はキッチンで、じゅうじゅうと音を立てるハンバーグを見つめていた。健二がリクエストした通り、近所の精肉店で一番高い黒毛和牛の合いびき肉を買ってきた。この肉代だって、私の財布から出たものだ。
「はい、お待たせ。熱いうちに食べてね」
私がテーブルに並べると、健二は箸を手に取り、一口食べて露骨に顔をしかめた。
「なんだよ、これ。ソース、デミグラスじゃないのか? 照り焼きって、気分じゃないんだけど」
「ごめんなさい。今日はデミグラスの材料が足りなくて」
「足りないなら買ってくればいいだろう。専業主婦なんだから、時間は腐るほどあるんだし。美咲も楽しみにしてたんだぞ」
美咲も席につくなり、ハンバーグをツンツンと突き刺しながらため息をついた。
「お母さん、私、昨日も言いましたよね。夜は炭水化物を控えてるから、付け合わせはポテトじゃなくてブロッコリーにしてほしいって。また太っちゃうじゃないですか」
私は何も言い返さず、ただ黙って自分の分の粗末な食事、昨日の残りの冷えた味噌汁と漬け物を口に運んだ。以前の私なら「ごめんね、次は気をつけるわね」と平謝りしていただろう。でも、今の私には彼らの言葉が、遠い世界の雑音のようにしか聞こえなかった。
「ねえ、聞いてるの? お母さんって、最近、時々ぼーっとしてますよね。やっぱり、年齢的なものかしら。健二さん、今のうちに真剣に考えた方がいいんじゃない?」
美咲が健二に目配せをした。その視線の先にある意味を、私は痛いほど理解していた。
「ああ、母さん、明日から少し片付けを始めてくれないか? 二階の奥の部屋、あそこを美咲の趣味の部屋にしたいんだ。母さんの荷物、もう何年も使ってないものばかりだろう。全部捨てていいからさ」
「あそこは、お父さんの書斎だった場所よ。まだ、整理が終わっていなくて」
私が静かに答えると、健二は鼻で笑った。
「親父はもう死んで十年だぞ。死んだ人間の部屋をいつまでも取っておいて、どうするんだよ。土地の無駄、スペースの無駄だ。俺たちがこの家をもっと有効活用してやるって言ってるんだから、ありがたく思えよ」
「そうですよ、お母さん。私たちは将来、この家をリフォームして子供部屋も作りたいんです。お母さんが一人で広い部屋を占領しているのは、正直言って効率が悪いわ。あ、もしかして、どこか別の場所を探し始めた方がいいのかしら? 老人ホームとか、最近は手頃なところも多いみたいですし」
美咲の言葉は、刃物のように鋭く私の心を切り裂いた。まるで、私がこの家にいること自体が、彼らの明るい未来を邪魔している悪霊であるかのような言い様だ。『コストがかかる』という昨夜の言葉が、再び脳裏に蘇る。彼らにとってこの家はすでに自分たちのものであり、私はそこに居座っている期限切れの同居人に過ぎないのだろう。
「わかったわ。部屋の片付けね。進めておくわ」
私はただそれだけを言った。その従順な態度に、健二は満足そうに頷いた。
「そうそう。最初からそう言えばいいんだよ。母さんは黙って俺たちの言うことを聞いてればいいんだ。炊事も掃除も洗濯も、それが母さんの役割なんだからさ。余計な意見は要らないんだよ」
健二はそう言い捨てると、高級な黒毛和牛のハンバーグを頬張り、スマホをいじり始めた。美咲も「ああ、やっと快適な家になりそう。私、ヨガルームにしたかったんだよね」と嬉しそうに言っている。
私は黙って席を立ち、キッチンの奥で洗い物を始めた。水の音に紛れて、二人の笑い声が聞こえてくる。彼らは私がどんな気持ちでこの家を守り、どんな気持ちで彼らを支えてきたのか、一瞬たりとも考えたことはないのだろう。感謝の言葉一つなく、ただ奪うことだけを考えている。
いいわよ。そこまで言うのなら、望み通りにしてあげる。私は心の中で、今日会った不動産屋の田中さんの顔を思い出していた。田中さんは言った。
「佐藤様、この物件なら、すぐにでもキャッシュで買い取りたいという個人投資家の方がいらっしゃいます。その方は、この建物を壊して新しい事業を始めたいと考えているそうです。一週間以内に更地にするのは難しいですが、建物ごと買い取って、その後はそちらの判断で、という条件なら、即決です」
私はその場で契約書に判を押す準備をしていた。ただし、田中さんには「一週間後の午前中までは、誰にも内緒にしてほしい」と強く念押ししてある。
健二、美咲。一週間後、私はこの家を出るわ。喉元まで出かかったその言葉を、私はぐっと飲み込んだ。今ここで言えば、彼らはきっと全力で阻止してくるだろう。私の年金や、この無料のホテルを失いたくないからだ。彼らが求めているのは私の幸せではなく、私の利用だけなのだから。
私は静かにシンクの縁を雑巾で拭き上げた。ピカピカに磨かれたステンレスに、自分の疲れ果てた顔が映っている。でも、その目は昨日までのような悲しみには沈んでいなかった。
「お母さん、風呂、湧いてないんだけど。早くしてよ。疲れてるんだから」
リビングから健二の怒鳴り声が響く。
「今、済ませるわね」
私は感情を消した声で答えた。明日からは、彼らにとっての地獄へのカウントダウンが始まる。私は自分の大切なものだけを、少しずつ、少しずつ、彼らに気づかれないように運び出す計画を立てていた。
一週間後、その日はあいにくの曇り空だった。健二と美咲は、結婚記念日の休暇で温泉旅行に行く予定の日だった。彼らが豪華な旅館で羽を伸ばしている間に、この家で何が起こるのか。想像するだけで、冷え切っていた私の胸の奥に、暗い炎が灯るのを感じた。
翌朝、私はいつもより一時間早く起き、家中の空気を入れ替えるために窓を全開にした。この家に染みついた、息子夫婦の傲慢な気配を全て追い出したかった。朝の冷たい空気が肌を刺すが、それが却って心地よく感じられた。台所に立ち、彼らの朝食を作り始める。これが、私がこの家で作る最後のまともな朝食になるだろう。卵を焼き、トーストを並べ、コーヒーを入れる。長年繰り返してきたこの動作も、今日が最後だと思うと、指先に妙な力が入る。
「ちょっと、お母さん、寒いじゃないですか。何考えてるのよ」
二階から降りてきた美咲が、肩をすくめながら叫んだ。彼女は厚手のカーディガンを羽織り、不機嫌そうに窓を乱暴に閉めた。
「空気を入れ替えようと思って。ごめんなさいね」
「そんなの、私たちが起きてくる前に済ませておいてくださいよ。冷えは美容の敵だって、何度も言ってるじゃないですか」
美咲はテーブルにつくなり、並べられた朝食を見て鼻を鳴らした。
「またパン。たまにはエッグベネディクトとか、おしゃれなもの作れないんですか? 健二さんの稼ぎで食べてるんだから、もう少しランクの高いものがあったっていいと思うんですけど。あ、もしかして、レシピも覚えられないくらいボケが進んじゃったの? クスクス」
意地悪く笑う美咲の言葉を、私は背中で受け止めた。沈黙を守る私を見て、彼女はさらに調子に乗る。
「そういえば、健二さん。お母さんの部屋の荷物、業者に頼んで持って行ってもらってもいいわよね。整理なんて待ってたら、いつまで経っても私の趣味の部屋ができないわ」
そこへ、欠伸をしながら健二が降りてきた。
「ああ、いいよ。どうせガラクタばっかりだろ。母さん、今週中に必要なものだけまとめておけよ。後の古いアルバムとか、親父の遺品とか、全部捨てていいから。あんなの持ってても一円にもならないし、ただのゴミの巣だろう」
自分の父親が残したものを、ガラクタと切り捨てた息子の言葉に、私は一瞬、握っていた茶碗を強く握りしめた。
「お父さんのものは、私の宝物なの。勝手に捨てるなんて、そんなこと…」
「煩わせるなよ。そんなか弱い思い出に浸ってるから、いつまでも自立できないんだよ。いいか、母さん。ここはもう、俺たちの家なんだ。住まわせてやってるっていう恩があるなら、少しは身を軽くしろ。先が短い人間が、いつまでも場所を取るなよ。見苦しいんだよ」
健二の言葉は、もはや親に向かって言う言葉ではなかった。彼は私のことを、同じ人間としてすら見ていない。ただの場所を塞ぐ無駄なコストとして、排除することしか考えていないのだ。
「わかったわ。必要なものは、自分で片付けるわ」
私は絞り出すような声で答えた。
「そうそう。最初からそう言えばいいんだ。従順なのが、母さんの唯一の取り柄なんだからさ」
健二は満足そうにトーストを口に運び、スマホを操作し始めた。すると、突然美咲が思い出したように言った。
「あ、健二さん、週末の温泉旅行。もう一ランク上の部屋にアップグレードしない? さっきお母さんの部屋の引き出しを掃除してたら、古い封筒に結構な額の現金が入ってたのを見つけたの」
私の心臓が、どくんと跳ねた。それは、いざという時のために、そして修一さんの法事のために、こつこつと貯めていた現金だった。
「え、マジで? いくらあったんだ?」
「数えたら、十五万もあったわよ。お母さん、こんなに隠し持ってたなんて、ずるいですよね。どうせ使い道なんてないんだから、私たちが有効に使ってあげた方がいいわ。ねえ、お母さん、これ、私たちの結婚記念日のプレゼントとしてもらってあげる。いいわよね」
美咲は、私の顔も見ずに平然と言い放った。それはお願いではなく、決定事項としての通告だった。
「それは、お父さんの法事のための大切なお金なの。返してちょうだい」
私が珍しく語気を強めると、健二がテーブルをどんと叩いた。
「うるさいな。法事なんて、坊主に金を払うだけの無駄遣いだろう。親父だって、死んだ後まで金がかかるなんて思ってないよ。それより、今生きてる俺たちが楽しく過ごす方が、よっぽど供養になるんだ。わかったら、がたがた言うな。これは俺たちが預かっておく」
健二は美咲からその封筒を受け取り、自分のポケットにねじ込んだ。私の目の前で、白昼堂々と行われた窃盗。実の息子とその嫁による、容赦ない略奪だった。それでも、私はこれ以上言葉を重ねるのをやめた。何を言っても彼らには届かない。それどころか、反論すればするほど、彼らは私を物分かりの悪い老人として攻撃する口実にするだけだ。私はただ静かに目を伏せ、嵐が過ぎ去るのを待つように立ち尽くしていた。
「沈黙は金ってことね」
「ああ、楽しみ。露天風呂付きのスイートにしちゃおうかな」
美咲の浮かれた声がリビングに響く。彼らは、私がこの数日間でどれほど大きな決断を下したか、微塵も気づいていない。今日、私が業者を呼んで運び出そうとしているのは、私の荷物だけではない。この家にある、私自身の思い出も全部、運び出そうとしているのだ。
「じゃあ、行ってくるわ。母さん、帰るまでに部屋を空っぽにしておけよ。もし残ってたら、全部ゴミ袋に突っ込んで庭に放り出すからな」
健二はそう言い捨てて、美咲と連れ立って出勤していった。バタンと玄関のドアが閉まる音が、この家との決別の合図のように聞こえた。私は誰もいなくなったリビングで、深く息をついた。頬を一筋の涙が伝ったが、それは悲しみの涙ではなかった。あまりの仕打ちに、心が完全に冷え切ってしまった証だった。
私はすぐにスマートフォンを取り出し、田中さんに連絡を入れた。
「佐藤です。予定通り、今日から荷物の搬出を始めます。ええ、家具道具一式、処分するものとトランクルームへ運ぶもの。全てリストアップしてあります。業者の手配をお願いします」
「承知いたしました、佐藤様。それと、例の件ですが、買い主の方が、どうしても佐藤様にご挨拶したいとおっしゃっています。非常に熱心な方で、この家を今の状態のまま大切に使いたいという意向も示されています。もしよろしければ、午後にでも」
「今のまま、更地にするのではなかったのですか?」
「ええ、実は買い主の方が変わりまして。以前からこの家と、佐藤様のご主人様の設計を高く評価していた方が、どうしても譲ってほしいと名乗りを上げられたのです。条件は、以前よりさらに良くなっております」
意外な人物の登場に、私は少し驚いた。でも、今の私には願ってもない話だ。修一さんが建てたこの家が、壊されずに済むのなら。
私は二階に上がり、一番奥の部屋、修一さんの書斎の扉を開けた。そこには、健二たちがガラクタと呼んだ夫の設計図や愛用の筆記用具、そして私たち家族が幸せだった頃の写真が並んでいる。私はそれらを一つずつ、丁寧に白い布で包んでいった。
夕方、大きなトラックが家の前に止まった。ご近所の人たちが不思議そうに見ているが、私は構わない。作業員たちが手際よく私の荷物を運び出していく。健二が全部捨てろと言ったものは、私の手で、大切に別の場所へと移された。
そして夜、仕事から帰ってきた健二と美咲は、家の中の様子が少し変わっていることに気づいたが、あまり気に留めなかった。
「へえ。言った通り、片付けたんだ。意外と聞き分けがいいじゃないか」
健二は、空っぽになった二階の部屋を見て、鼻で笑った。
「これでやっと、私の部屋ができるわ。お母さん、お疲れ様。明日は私たち、朝から旅行に行くから、朝食は要らないわよ。その代わり、私たちが帰ってくるまでに、家中ピカピカにしておいてね。あ、冷蔵庫の残りは、勝手に食べていいから」
美咲は、まるで使い走りのメイドに命じるような口調で言った。
「ええ、わかったわ。ゆっくり楽しんできてね」
私は、自分でも驚くほど穏やかな笑顔で答えた。明日、彼らが家を出た瞬間に、私の最後の仕事が完了する。この家は、もう彼らの安らぎの場所ではない。私が姿を消した後、彼らを待ち受けているのは、自分たちがこれまで積み上げてきた身勝手な振る舞いへの報いなのだから。
結婚記念日の旅行当日。朝の五時だというのに、家の中は騒がしい物音で溢れていた。
「ちょっと、私の水色のワンピース、どこにやったのよ。ちゃんとクリーニングに出しておいてって言ったじゃない」
美咲の金切り声が、まだ眠りの中にいた私の耳を突き刺す。
「それは昨日、クローゼットの右側にかけておいたわよ」
私が這うようにして部屋を出ると、美咲は顔を真っ赤にして私を睨みつけた。
「右側って言ったって、見当たらないから言ってるのよ。もう、これだから年寄りは、自分の都合のいいようにしか言わないんだから。健二さん、ちょっとお母さんに言ってよ。せっかくの旅行なのに、朝から台無しだわ」
健二も、寝癖のついた頭で部屋から出てくると、私を睥睨するような目で見下ろした。
「母さん、朝から美咲をいらいらさせるなよ。お前の仕事は、俺たちが気持ちよく過ごせるようにサポートすることだろう。それすらできないなら、本当にこの家にいる資格ないぞ」
私は言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。昨夜、思いのほか荷物を一人で運び出し、慣れない手続きのために何枚もの書類を書いたせいで、体は鉛のように重く、節々が悲鳴をあげている。微熱があるのか、視界が少しふわふわとしていた。でも、そんな私の体調を気遣う言葉など、この二人からかけられたことは一度もない。
「ごめんなさい。今、探してくるわ」
私はふらふらする足取りで、美咲のクローゼットへ向かった。言った通り、ワンピースは一番目立つ場所にかかっていた。美咲はただ、自分の不注意で見落としていただけなのだ。
「あったわよ。これでしょう」
差し出した私に対し、美咲はお礼を言うどころか、ひったくるようにそれを受け取った。
「じみなところにかけないでよね。嫌がらせのつもり? 性格悪いわね、本当」
朝食を食べる間も、二人の罵詈雑言は止まらなかった。
「ねえ、健二さん。お母さんの年金、今月分はもう入ってるわよね。旅行先でちょっといいバッグ見つけたら買いたいから、貸しておいてよ」
美咲が、当然のような顔で言った。
「ああ、いいよ。母さん、あの引き出しにあるカード、貸せよ。どうせお前は、買い物なんて行かないだろう。家でじっとしてるんだから、金なんて必要ないはずだ」
「それは、生活費や家の修繕費のために貯めているものよ」
「修繕なんて後回しでいいんだよ。今は俺たちの人生の方が大事なんだ。ぐずぐず言うなよ。早く持ってこい」
健二は私の返事を振り切り、勝手に私の財布からクレジットカードを抜き取った。それは、私が将来病気になった時のために、そして修一さんとの思い出の品を整理するための資金としてこつこつと貯めてきた口座に紐づいたカードだった。彼らにとって、私の持ち物は全て自分たちの共有財産であるかのような振る舞い。私はその光景を、まるで自分のことではないかのように、冷めた目で見つめていた。
「よし、準備万端。一週間、最高の贅沢をしてくるからさ。お母さんはせいぜい、この古臭い家の掃除でもして待ってろよ」
健二が重いスーツケースを玄関まで運び、私に命じた。
「おい、これ、車まで運べよ。腰が痛いんだ」
「私も、今日は少し体調が悪くて」
「はあ? 甘えるなよ。毎日家でごろごろしてるくせに、何が体調不良だ。ほら、早くしろ。時間が遅れるだろう」
私は震える手で、二人分の重いスーツケースを玄関の外まで運んだ。初夏の朝の空気は、私の火照った体に冷たく沁みた。車に荷物を積み込み、二人は後部座席にふんぞり返るように座る。
「じゃあね、お母さん。帰ってきた時に家が汚かったら、本当に追い出すからね。覚悟しておいてよ」
美咲が窓を下げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あ、母さん。最後にもう一度言っておくけどさ」
健二が皮肉っぽく笑った。
「お前がこの家にいられるのは、俺たちが許してやってるからだってことを忘れるなよ。もし俺たちが要らないって言ったら、お前には行く場所なんてどこにもないんだからな。まあ、一週間、俺たちがいない解放感を味わっておけよ。余生を謳歌できるだろうからさ」
車のエンジン音が響き、二人は土埃を上げて去っていった。彼らを乗せた車が角を曲がり、完全に見えなくなるまで、私は門の前に立ち尽くしていた。心の中には、もう怒りも悲しみも残っていなかった。ただ、深い、深い虚無感だけが広がっていた。
そうね、健二。あなたの言う通りだわ。謳歌するわね。
私はふらつく足で家の中に戻った。静まり返ったリビング。数分前まであんなに騒がしく、私を罵倒していた声が嘘のように消えている。私はダイニングテーブルに置かれた、二人の飲み残しのコーヒーカップを眺めた。いつもならすぐに片付けるはずのそれを、私はそのままにしておいた。
私は電話機を手に取り、不動産屋の田中さんに最後の連絡を入れた。
「ええ、今、二人とも出発しました。はい、よろしくお願いします」
電話を切り、私は自分の寝室へと戻った。そこには、小さなボストンバッグ一つだけが残されていた。中身は数日の着替えと、修一さんの遺影、そして一通の手紙。他には何も要らない。この家にある高価な家具も家電も、全てはあの二人への遺品として、置いていくことにした。それが、どうせ数日後にはゴミ同然になる運命だとしても。
私は家の鍵を締め、玄関のドアの木をそっと撫でた。
修一さん、今まで守ってくれてありがとう。さようなら。
私は一度も振り返ることなく、家の門を出た。そして、あらかじめ呼んでおいたタクシーに乗り込み、駅へと向かった。一週間という時間は、人生に比べれば短いかもしれない。でも、全てを壊し、新しく始めるには、十分すぎる時間だ。
タクシーの窓から流れる街並みを見ながら、私は自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、ある秘密の場所へと向かっていた。息子夫婦は今頃、私のカードで豪華なランチを楽しんでいることだろう。自分たちの足元が、すでに崩れ去っていることも知らずに。
タクシーが到着したのは、都心から一時間半ほど離れた、海を見下ろす高台に立つ小さな建物の前だった。潮風の香りが鼻をくすぐり、遠くで波の砕ける音がかすかに聞こえる。ここは、夫の修一が生前、私に内緒で設計し、残してくれた別荘だった。
「里子さん、いつか仕事に疲れたら、ここで二人で波の音を聞いて暮らそう」
そう笑っていた夫の顔が、昨日のことのように思い出される。私はタクシーを降り、門扉に手をかけた。すると、玄関の中から一人の初老の男性が出てきた。
「里子さん、お待ちしておりました。ようやく、ここを使う決心をされたのですね」
白髪の混じった髪を綺麗に整え、仕立ての良いスーツを着たその男性は、鹿ヶ原さん。修一さんの親友であり、私たち夫婦の会社の顧問弁護士を長年務めてくれた人だ。
「鹿ヶ原さん、お久しぶりです。急なお願いをしてしまって、申し訳ありません」
「何を言っているんですか? 修一さんが亡くなってから十年。あなたはずっと、あの子たちのために自分を押し殺して生きてきた。私は、いつあなたがここへ来ると言ってくれるか、首を長くして待っていたんですよ」
鹿ヶ原さんは優しく微笑み、私のボストンバッグを受け取ってくれた。リビングに入ると、そこは修一さんのこだわりが詰まった、木の温もり溢れる空間が広がっていた。大きな窓からは、青く輝く海が一望できる。あの殺伐とした家とは正反対の世界。私はソファに深く身を沈め、大きく息を吐いた。
健二や美咲は、私のことを何も知らない価値のない老人だと思い込んでいる。『中卒の世間知らずだ』『生きてるだけでコストがかかる』だなんて、勝手なことを言ってくれた。でも、彼らは本当の私を何一つ知らない。
実は、私は修一さんと一緒に建築事務所を立ち上げ、その経営の全てを支えてきた元専務だった。修一さんは設計に没頭する天才肌だったが、数字や法律には滅法弱かった。対外的な交渉、資金繰り、契約書の作成。事務所が業界でも有数の成功を収めたのは、私の徹底した管理があったからこそだと、修一さんはいつも私を「最高のパートナー」と呼んで感謝してくれていたのだ。
健二が生まれた時、私は現役を退き、彼にはただの主婦として接してきた。息子には、仕事の殺伐とした空気を感じさせたくなかった。穏やかで優しい母親として育てたかった。でも、その私の配慮が、健二を傲慢で無知な怪物に変えてしまったのかもしれない。彼は私のことを、自分たちの稼ぎにぶら下がっているだけの存在だと侮辱したが、実際にはその逆だ。彼が今働いている大手メーカーの役員には、修一さんの元クライアントが何人もいる。そして、彼らが住んでいたあの家も、私の個人資産で維持されていたものなのだ。
「里子さん、準備は整っています。あの家の売却手続き、そして健二君夫婦に対する法的措置、全て私の方で引き受けました」
鹿ヶ原さんが、テーブルの上に厚い書類の束を置いた。
「彼らは、あなたがいつまでも黙って耐えていると思い込んでいます。でも、それは大きな間違いでしたね」
私はその書類に目を通した。ここには、健二と美咲がこの三年間で私の口座から勝手に引き出した金の明細や、私に浴びせてきた暴言の記録、そして、彼らが私を酷使していた実態を証言する近所の人たちの陳述書が揃っていた。実は、私は耐えながらも、全てを記録していたのだ。いつか彼らが、私というコストの本当の意味を知る日のために。
「鹿ヶ原さん、私はもう、母親であることをやめました」
私は静かに、でもはっきりとした声で言った。
「あの子たちが望んだ、私のいない世界を、完璧な形で提供してあげたいんです。一切の援助を断ち切り、自分たちの足で立つことがどれほど過酷なことか、骨身に染みて理解してもらうために」
「里子さん、覚悟はできているようですね」
鹿ヶ原さんは、満足そうに頷いた。
その時、私のスマートフォンが激しく震えた。画面を見ると、健二からの着信だ。私はそれを無視し、電源を切ろうとした。しかし、続いて入ってきたメッセージの通知が目に入った。
『おい、ふざけるなよ。カードが止まってるぞ。ホテルのチェックアウトで支払いを拒否されたじゃないか。今すぐ使えるようにしろ。それと、さっき警察から連絡があった。お前、俺たちのお金を盗んだって通報したのか?』
私は思わず、冷たい笑みを漏らした。私が止めたのは、私の名義のカードだ。そして、通報したのは私ではない。不動産会社が家の明け渡し準備のために立ち入った際、隠し金庫がこじ開けられているのを発見し、警察に届け出たのだ。もちろん、その金庫をこじ開けたのは、旅行前に私の法事用の金を盗んだ健二と美咲だ。自業自得ね。
私はスマートフォンの電源を切り、画面を真っ暗にした。これから一週間、彼らがどれほど怒り、焦り、そして絶望するか。それは、これまで私が受けてきた侮辱に比べれば、あまりに小さな報いでしかない。
鹿ヶ原さんが、私の前に温かい紅茶を置いてくれた。
「里子さん、今夜はゆっくり休んでください。明日からは、さらに忙しくなりますよ。あの家を買い取った意外な人物も、あなたに会えるのを楽しみにしています」
「そうですね。ふふ、あの子たちは、まさかあの人が買い手だなんて、夢にも思わないでしょうね」
私は海を見つめながら、穏やかなティータイムを楽しんだ。
一方、その頃。旅行先の高級旅館のロビーでは、健二と美咲が顔を真っ赤にして叫んでいた。
「なんだって、このカードが使えないんだ。そんなはずないだろ。俺の母親のカードだぞ」
「お客様、申し訳ございませんが、こちらは盗難届が出されておりまして。それと、警察の方がこちらへ向かっているとのことです」
ホテルスタッフの冷ややかな視線、周囲の宿泊客からの好奇の視線。彼らが何年もかけて築き上げてきた「エリート夫婦」という偽りのメッキが、音を立てて剥がれ落ちていった。しかし、これはまだ序章に過ぎない。一週間後、彼らが帰るべき家そのものが消滅しているという、最大の衝撃が待っているのだから。
豪華絢爛だったはずの温泉旅館のロビーは、一転して修羅場と化していた。
「いい加減にしろ! 俺が自分の親の金を盗むわけないだろう。これは母さんから譲り受けたものだ!」
健二の怒鳴り声が、吹き抜けの天井に虚しく響く。しかし、駆け付けた二人の警察官の表情は、氷のように冷ややかだった。
「佐藤健二さん、落ち着いてください。先ほど、ご自宅を管理されている不動産会社の方から、書斎の金庫が無理やりこじ開けられ、中身が紛失しているという正式な被害届が出ているんです。通報したのは持ち主であるお母様ではありません。売却手続きを代行している会社です」
「売却? 何を言ってるんだ。あの家を売るなんて、そんなこと、母さんが勝手に決めるはずがない」
「その辺りも含めて、署でじっくりお話を伺いましょう。周囲の迷惑になりますので、移動してください」
周りで見物していた他の宿泊客たちが、ひそひそと指を差して笑っている。
「見てよ、あんなに偉そうにしてたのに、泥棒なんですって」
「お母さんの金庫を壊すなんて、最低ね」
美咲は顔を覆い、震える声で健二に詰め寄った。
「ちょっと健二さん、どういうこと? 警察なんて聞いてないわよ。私のキャリアに傷がついたら、どうしてくれるの? 全部、お母さんが悪いのよ。あのクソババア、際になって私たちを落とし入れるなんて」
警察車両に乗せられる直前、健二のスマートフォンに一本の電話が入った。画面に表示されたのは、彼の務める大手メーカーの直属の上司、高木部長の名前だった。
「もしもし、部長。すみません、今、ちょっと立て込んでまして」
「佐藤か。今、どこにいる? 警察が会社に来ているぞ。お前、実の母親に対して不当な財産請求をしているという疑いで、弁護士を通じた通告書が届いている。どういうことだ?」
「え? あ、いや、それは家庭内の誤解でして…」
「誤解? 家庭内の問題で済む話か。会社の名誉を著しく傷つけたとして、役員会でも問題になっている。明日からの出勤は停止だ。それから、お前が担当していたプロジェクトの予算に、不透明な金の流れがあるという指摘も入っている。至急、説明に戻れ」
電話は一方的に切られた。健二の顔から血の気が引いていく。スマートフォンの重みで、手がだらりと下がった。プロジェクトの予算……それは、美咲のブランド品代や自分たちの遊興費に、こっそりと流用していた、いわゆる裏金のことだった。これまでは、私が裏で尻拭いをしたり、修一さんの名前で認めてもらったりしていた部分があったが、私がその手を引いた瞬間、隠しきれなくなっていたのだ。
一方、その頃。海沿いの別荘で、私は鹿ヶ原さんと共に、一人の男性を迎えていた。
「里子先生、ご無沙汰しております。ようやくまた、お会いできましたね」
爽やかに頭を下げたのは、四十代半ばの男性、一ノ瀬君だった。彼はかつて修一さんの事務所で一番弟子として働いていた、非常に優秀な建築家だ。数年前に独立して事務所を構え、今では大活躍している。
「一ノ瀬君、立派になったわね。今は、自分の事務所を持って大活躍だとか」
「全ては、先生と里子先生に叩き込まれた基礎があったからです。ところで、この家の件、本当に私に譲ってくださるのですか? あの家は、私にとっても聖地のような場所です」
「ええ、健二たちにあそこを汚されるくらいなら、修一さんの志を継いでくれるあなたに住んでほしいの。あの家をベースに、新しい建築の形を発信していってちょうだい」
一ノ瀬君は、健二が最も嫉妬し、敵視していた人物だった。健二は自分の才能のなさを棚に上げ、「一ノ瀬は親父に媚を売って技術を盗んだ泥棒だ」と、ありもしない手段を使って彼を追い出したのだ。その一ノ瀬君が、自分たちの住んでいた家の新しい住人になる。それがどれほど健二のプライドを粉砕するか、想像に難くない。
「里子さん、これで役者は揃いましたね」
鹿ヶ原さんが、書類を鞄にしまいながら、不敵に笑った。
「健二君夫婦は現在、警察で任意聴取を受けています。カードは全て停止、会社には横領の疑いで調査が入り、もう逃げ場はありません。そして一週間後、彼らが自分たちの城だと思い込んで帰ってくるあの場所には、もう彼らの居場所はない」
「ええ、彼らの居場所は、もうどこにもないわ」
私は窓の外に広がる夕焼けを見つめた。空は燃えるような赤に染まり、波の音が心地よく部屋を満たしている。あの家で過ごした最後の日々、私は彼らに何度もチャンスを与えた。お父さんの法事のお金を返してほしいと、部屋を勝手に片付けないでほしいと。その度に、彼らは私を嘲笑い、踏みにじった。母としての情けは、あの温泉旅館へ向かう車の排気音と共に、完全に消え去ったのだ。
『お母さん、これ、味が薄いんですけど。私の実家ではもっと高級な昆布を使っていたので』
美咲のあの嫌味な声が、耳の奥で蘇る。一週間後、彼女が帰る場所は、彼女が「口に合わない」と切り捨てた私の料理さえ食べられない、路頭に迷う現実だ。彼女の実家とやらも、実は多額の借金を抱えて倒産寸前であることを、私は調査済みだった。美咲が「お嬢様」を演じ続けられたのは、私の資産を食い潰していたからに他ならない。
「里子先生、明日の午前中には、あの家の名義変更と一ノ瀬さんへの引き渡し作業を、全て完了させます」
「お願いします、田中さん。ああ、それから、家の中に残っていた彼らの私物ですが、全て着払いで美咲さんの実家に送っておいてください。一つ残らず」
私は優雅に椅子に座り直し、新しい生活の計画を立て始めた。修一さんが残してくれたこの別荘で、これからは自分のためだけに時間を使いたい。庭にハーブを植え、趣味の絵画を再開し、時折一ノ瀬君の仕事を手伝うのもいいかもしれない。
しかし、復讐はまだ終わっていない。これはまだ、彼らが「失うもの」の始まりに過ぎないのだ。本当の絶望は、彼らが「自分たちは何者でもなかった」という事実に直面した時に訪れる。
一週間という時間は、あまりにも残酷に過ぎていった。警察から解放された健二と美咲は、無一文に近い状態で、なんとかレンタカーを借りて家に着いた。
「きっ、何なんだよ、一体! 会社も警察も、全部あのババアの差し金か! 帰ったら、ただじゃ置かないぞ。絶対に土下座させてやる!」
健二はハンドルを握りしめ、狂ったように叫んだ。
「そうよ、お母さんを無理やり老人ホームに叩き込んで、家を私たちの名義に書き換えさせましょう。弁護士なんて、こっちだって心当たりがあるわ」
美咲も、髪を振り乱し、悲鳴のような声を上げている。彼らはまだ、自分たちが帰るべき家が、すでに他人の手に渡っているという現実を、一ミリも理解していなかった。住宅街の角を曲がり、見慣れた我が家の屋根が見えてきた時、二人の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。家の前には大きな『売却済み』の看板。そして、玄関前で忙しそうに指示を出しているのは、健二が最も憎んでいたあの男だった。
夕暮れ時の住宅街に、けたたましいタイヤの摩擦音が響いた。レンタカーから転がるように降りてきた健二と美咲は、自分たちの目の前にある光景が信じられないといった様子で、口を大きく開けて硬直していた。
「な、なんだよ、これ。何なんだよ、これは!」
健二が震える指で差し示したのは、門扉に掲げられた大きな『売却済み』の看板だった。そして、その奥では数人の作業員が庭の木を剪定し、家の外壁の点検をしている。その中心で指示を出していたのは、健二がかつて「泥棒」と呼んで追い出した、あの一ノ瀬君だった。
「一ノ瀬! お前、なんでここにいる? ここは俺の家だぞ! 勝手に入って、何をしてるんだ?」
健二が狂ったように叫びながら、門を突き破らんばかりに詰め寄った。一ノ瀬君は作業の手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情には、かつて健二に虐げられていた頃の卑屈さは微塵もなく、一人の独立したプロフェッショナルとしての静かな威厳が漂っていた。
「佐藤さん、お久しぶりですね。ここがあなたの家? 何をおっしゃっているんですか。この家は、先ほど正式に私の所有物となりました。登記も完了しています」
「嘘をつけ! 母さんがそんなことするはずがない。認知症なんだよ。母さんはボケてるんだ。老人が勝手に結んだ契約なんて、無効だ!」
「そうよ! 泥棒建築家が、お母さんを騙して契約をさせたんでしょう! 警察を呼ぶわよ! 今すぐここから出ていきなさい!」
二人がわめき散らしていると、一台の高級セダンが静かに家の前に止まった。後部座席から降りてきたのは、背筋をピンと伸ばし、一週間前とは別人のように清々とした空気を纏った私だった。安物のエプロンを脱ぎ捨てて、修一さんが私の還暦祝いに送ってくれた上質なスーツを身にまとった私の姿に、二人は一瞬、言葉を失った。
「母さん…」
「お母様、どういうこと? 冗談はやめてよ。早く鍵を返しなさいよ」
美咲が私に掴みかかろうとした瞬間、運転席から降りてきた鹿ヶ原さんが、その手を鋭く遮った。
「これ以上の狼藉は、おやめていただきたい。私は、佐藤里子様の代理人を務める弁護士の鹿ヶ原です」
鹿ヶ原さんは胸元の弁護士バッジを光らせ、冷徹な声で告げた。
「健二さん、美咲さん。あなた方が『ぼけた老人』という言葉、それは法的にも倫理的にも許し難い侮辱です。里子さんは極めて正常な判断能力をお持ちであり、その上でこの家を売却することを決断されました。正当な対価を支払い、正当な手続きを経て、現在は一ノ瀬様がこの土地と建物の所有者です。あなた方に、ここに立ち入る権利は、一歩たりともありません」
「弁護士? 何だよ、それ。大げさな。母さん、いい加減にしろよ。俺たちをこんな目に合わせて、後でどうなるか、わかってるのか? 今すぐ契約を白紙に戻せ。そうすれば、今回だけは許してやるからさ」
健二は、まだ自分が優位に立っていると信じ込んでいるようだった。
「許す? 健二、あなた、今なんて言ったの?」
私は一歩前へ出て、息子の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥にある冷ややかな光に、健二はたじろぎ、後ずさりした。
「母さん…なんだよ、その目は?」
「あなたたちは、私に言ったわね。『母さんなんていなくなればいい。生きてるだけでコストがかかる』って。で、私はその望みを叶えてあげたのよ。コストである私が消え、コストがかかっていたこの家も手放した。これで、あなたたちは私の年金や私の労働という重荷から解放されたわけだ。喜ばしいことじゃない?」
「そ、それは、あれは…」
「言葉のあとで、あなたは私の大切な貯金を盗み、お父さんの遺品をゴミ扱いし、毎日毎日、私を侮辱し続けた。ええ、あなたは確信を持っていたのね。私が、あなたたちに逆らう意思のない、ただの便利な道具だと思い込んでいたから」
美咲が、震える声で割り込んできた。
「で、じゃあ、私たちの荷物はどうなるのよ? 明日から、どこに住めばいいのよ!」
「荷物は、美咲さんの実家に、着払いで送っておいたわ。今日明日には届くはずよ。それと、住む場所については、あなたたちの稼ぎで、どこなりと借りればいいじゃない。エリート夫婦なんですもの。簡単でしょう?」
私の言葉に、美咲の顔から血の気が完全に引いた。
「実家…って、嘘でしょう…」
美咲が言いかけた言葉を、私は遮らなかった。彼女の実家が借金まみれで、娘からの仕送りを当てにしていたことは、百も承知だ。その仕送りも、元を辿れば私の貯金から出ていたのだから。
「さあ、一ノ瀬さんの作業の邪魔になるわ。早く、立ち去ってちょうだい。これ以上ここに留まるなら、不法侵入として通報します」
鹿ヶ原さんが、スマートフォンを取り出した。
「待ってくれ! 母さん、頼むよ。俺は、会社も首になりそうなんだ。この家まで失ったら、本当に路頭に迷うんだよ」
健二が、地面に膝をつき、必死の形相で私の靴にすがろうとした。
「首に? おかしいわね。優秀なあなたが、そんなことになるなんて」
私は冷たく突き放した。
「あなたがこれまで、私のコネクションを利用して取ってきた仕事も、不透明な経理処理も、全て会社側に報告済みよ。ああ、そうそう。警察の方からも連絡が来るはずだから、金庫のお金についてもしっかり説明してきてね」
「あ、ああ…」
健二の口から、魂が抜けたような声が漏れた。夕闇の中、家の窓から漏れる明かりが、今の私にはとても温かく感じられた。でも、その温もりの中に、彼らが入る余地は、もうどこにもない。
「里子先生、後のことは私にお任せください。不浄なものは、全て私がこの地から一掃いたします」
一ノ瀬君が、深々と一礼した。彼の手には、修一さんがかつて愛用していた古い巻尺が握られていた。
「ありがとう、一ノ瀬君。修一さんも、喜んでいるわ」
私は再び車に乗り込んだ。バックミラー越しに見える二人の姿は、あまりにも小さく、そして見苦しく歪んで見えた。泣き叫ぶ美咲と、地面を叩いて悔しがる健二。それが、私に注いできた悪意に対する、最初の報いだった。でも、本当の地獄は、これからだ。健二がひた隠しにしてきた、修一さんの死際に関わるある秘密。それを私が知っていることに、彼はまだ気づいていない。
「おい、健二! これ、どういうことだよ! 説明しろよ!」
夕闇が迫る路上で、美咲の金切り声が響き渡った。目の前を優先して走り去る高級セダンのテールランプが、遠い世界の光のように見えた。その車には、つい一週間前まで自分たちの小遣い帳だと思い込んでいた私の母(妻)が乗っている。
「説明しろって言われても、俺だってわかんねえよ。母さんがあんな弁護士を雇ってるなんて、聞いてなかったんだ」
「そんなことじゃないわよ! さっきの一ノ瀬とかいう男が言ってたことよ。あなた、会社で何をしたの? 『不透明な経理処理』って、何よ?」
美咲の形相は、もはやかつてのお嬢様風の微笑みなど微塵もなかった。化粧は剥げ落ち、ヒステリックに健二の胸ぐらを掴んでいる。
「そ、それは…お前のブランド品代とか、旅行代とか、色々必要だったから、少しだけ浮かせただけだよ。どうせ母さんのコネで入った会社だし、少しくらい融通が利くと思って」
「バカじゃないの! 私のせいにしないでよ! あなたがエリートだって言うから結婚してあげたのに、ただの横領犯だったなんて、最悪! それに、この家はどうなるの? 私たちの荷物は、実家に送られたって、私の家は今、そんな余裕ないのよ!」
二人が見苦しい争いを続けていた、その時だった。
「おいおい、賑やかだな、佐藤さんよ」
低く、粘りつくような声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには黒塗りのボロい軽トラックが止まっており、中から強面の男が二人、ニヤニヤしながら降りてきた。
「ひっ…」
健二の顔から、一瞬で血の気が失せた。
「や、山田さん…。一週間後って、約束したじゃないですか」
「ああ、その一週間が、今日なんだよ。連絡がつかないから、心配して来てみれば、家は『売却済み』の看板か。逃げようとしてたのか?」
「い、いえ、そんな…」
山田と呼ばれた男は、健二の方に馴れ馴れしく腕を回した。その指先には、威圧的な刺青が覗いている。
「借金…? 健二さん、これ、何? どういうことなの?」
美咲が絶叫した。
「借金って言っても、ちょっと株で失敗して、その穴埋めに…」
「ちょっと? じゃないだろう。利子込みで五百万だ。来週には、耳を揃えて返してもらうぜ。家を売ったんなら、金はあるはずだろう?」
山田が、看板を指差して笑った。
「な、ないんだよ。売ったのは母さんで、俺たちには一円も入ってこないんだ!」
「はあ? 自分の家だろう。親の家なら、お前の家みたいなもんだろうが。おい、ふざけてるのか?」
山田の目が、座った。
「本当なんだ! 信じてくれ! 今、母さんに見放されたところで…」
「そんなの、俺たちの知ったことか。払えないなら、奥さんにでも働いてもらうしかないな。綺麗な顔してるし、いい店を紹介してやるよ」
「や、やめてよ!」
美咲が逃げ出そうとしたが、もう一人の男に腕をがっしりと掴まれた。
「健二さん、助けてよ! 何とかしてよ!」
「待ってくれ! 母さんだ! 母さんに連絡すれば、きっとなんとかしてくれる。あの別荘があるはずなんだ。海沿いの…」
健二は震える手で、電源を切ったはずのスマートフォンを何度も操作しようとした。しかし、指が震えて、パスワードすらまともに入力できない。プライドも、名誉も、住む場所も、全てが砂のように指の間をこぼれ落ちていく。彼らにとって、私はいつでも金を引き出せるATMであり、不平不満を飲み込むゴミ箱だった。そのゴミ箱が消えた瞬間、自分たちの人生がどれだけ儚いものの上に立っていたのかを、ようやく思い知らされていた。
一方、その頃。私は鹿ヶ原さんと共に、一通の古い書類を見つめていた。中には、十年前、夫の修一さんが亡くなった日の救急搬送記録と、健二の当時の銀行口座の振り込み履歴が入っていた。
「里子さん、本当にこれを、公にするおつもりですか?」
鹿ヶ原さんが、心配そうに私を見た。
「ええ。健二は、私をコストだと言いました。でも、あの子こそが、修一さんの命をコストに変えたのよ。その罪だけは、墓場まで持って行かせるわけにはいかないわ」
十年前、修一さんは自宅の書斎で急性心筋梗塞を起こした。当時、健二は大学を卒業したばかりで、借金を作って苦しんでいた。発見したのは、健二だった。当時の記録によれば、修一さんが倒れてから救急車が呼ばれるまで、実に四時間の空白があるのだ。その四時間の間に、健二は何をしていたのか。この振り込み履歴が、全てを物語っていた。倒れている父親を放置し、修一さんのパソコンから暗証番号を割り出し、事務所の運転資金を自分の口座へ移し替えていたのだ。
「あの子は言ったわ。『親父を見つけた時は、もう冷たくなっていた』って。でも、検視の結果では、早く処置していれば助かった可能性があると書かれていた。私はずっと、あの子を信じようとして、この疑惑を心の奥底に封印してきたの」
私の指先が、怒りで微かに震えた。
「でも、昨夜のあの言葉で、決着がついたわ。健二は、親を人間だと思っていない。自分を生かすための資材だとしか思っていないんだと確信した。ケジ原さん、あの子たちに、真実を見せる時が来たのね」
「健二君は、この事実をあなたが知っているとは、夢にも思っていないでしょうね」
「いえ、だからこそ、一番残酷なタイミングで、突きつけてあげるわ。それが、修一さんへのせめてもの手向けになる」
車は海沿いの別荘へと続く、田舎道を走っていた。背後では、町の明かりが遠ざかっていく。健二と美咲は、今頃、山田たちに詰め寄られ、地獄の入り口に立っていることだろう。しかし、彼らがすがりつこうとしている「母親の愛情」という名の救助線は、もう、どこにも存在しないのだ。
すると、私のスマートフォンが、一度だけ短く震えた。一ノ瀬君からのメールだった。
『先生、信じられないものを発見しました。書斎の壁の裏。健二さんが必死に隠そうとしていた痕跡があります。これは、あまりにもひどすぎます』
私はメールに添付された写真を見て、思わず口を覆った。そこには、健二が隠していた、さらなる罪の証拠が映し出されていた。それは、彼らがこの家を自分たちのものだと言い張っていた理由の根幹を揺るがす事実だった。
「鹿ヶ原さん、計画を変更しましょう。明日、あの子たちを、一度だけこの別荘に呼び出してください」
「呼び出す…? せっかく切り捨てたのに」
「ええ。彼らに、最後の希望を見せてあげるの。そして、その希望が、自分たちの手で粉々に砕かれる瞬間を味わってもらうために」
私の声には、もう迷いはなかった。地獄へ落とすのなら、一度は生還できると思わせてから、突き落とすのが一番の絶望だということを、私はかつての経営者としての経験から知っていた。
金貸しの山田たちに追い詰められ、一晩中町を逃げ回った健二と美咲は、翌朝、私の送った迎えの車に、すがりつくような勢いで乗り込んできた。二人の姿は、もはや見る影もなかった。健二の高級スーツは泥に汚れ、美咲の自慢の巻き髪はボサボサに乱れている。
「母さん、母さんはどこだ? 助けてくれるんだろう? 借金を払ってくれるって、本当なんだな!」
車内でも、狂ったように叫び続ける健二を、鹿ヶ原さんの部下である運転手は、冷ややかな一瞥をくれただけで無視した。車が海沿いの別荘に到着すると、二人はその豪華な佇まいに息を飲んだ。
「何よ、これ? お母さん、こんな隠し別荘を持ってたの? ずるいわよ」
美咲の目に、一瞬で醜い強欲の光が戻った。
「健二さん、見て! ここを売れば、借金どころか、また贅沢ができるわよ! やっぱりお母さんは、最後は私たちに頼るしかないのよ」
二人は自分たちが今置かれている立場を忘れ、浅ましくも次の獲物を見つけたハイエナのように、息巻いて玄関をくぐった。リビングで彼らを待っていたのは、私と鹿ヶ原さん、そして、険しい表情をした一ノ瀬君だった。
「母さん、遅いよ! 心配したんだからな。ほら、早く、あの山田って連中に金を払ってやってくれ。俺たち、ひどい目にあったんだぞ」
健二が、以前と変わらぬ、いや、それ以上に傲慢な口調で私に詰め寄ってきた。
「お母さん、この別荘、素敵じゃない。私たちも、今日からここに住ませてもらうわね。あ、部屋は一番広いところにして。潮風って肌に悪いから、高級な空気清浄機も買ってもらわないと」
美咲に至っては、すでに自分の家であるかのようにソファにふんぞり返っている。私はゆっくりと、手元のティーカップをソーサーに置いた。
「借金を清算する条件は、伝えてあるはずよ。健二、美咲」
「ああ、わかってるよ。何でも言う通りにするからさ。書類にサインすればいいんだろう? 早くしてくれよ」
健二が、苛立たしげに手を差し出した。
「その前に、あなたたちに見せたいものがあるの」
私は一ノ瀬君に目くばせをした。一ノ瀬君は、重苦しい足取りで、テーブルの上に一つの古い木箱を置いた。
「佐藤さん、昨日、あの家の書斎、修一先生が一番大切にしていた壁の裏から、これが見つかりました」
「何だよ、そのボロい箱。そんなのいいから、早く金を…」
「黙って、見てなさい」
私の鋭い一喝に、健二は肩を跳ね上がらせ、黙り込んだ。一ノ瀬君が箱の中から取り出したのは、修一さんの直筆の日記と、一通の封筒だった。
「これは、修一先生が亡くなる直前まで書いていた日記です。そこには、信じられない事実が記されていました。佐藤さん、あなたは十年前、先生が倒れているのを見つけた後、何をしましたか?」
健二の顔が、一瞬にして土色に変わった。
「な、何って…救急車を呼んだに決まってるだろ!」
「嘘をつくな!」
一ノ瀬君の声が、リビングに響き渡った。
「日記には、こう書いてある。『健二が私のパソコンを操作している。私が苦しんでいるのを目の前で見ながら、あいつは会社の口座から金を移している』。ああ、これが、私の育てた息子の正体か…。もう、意識が遠い…」
部屋の中が、凍りついたような静寂に包まれた。健二の額から、滝のような汗が流れ落ちる。
「そ、それは、親父の被害妄想だ! 倒れて、意識が混濁してたんだろう!」
「いいえ。証拠は、それだけじゃないわ」
私は、鹿ヶ原さんから渡された別の書類を、健二の前に叩きつけた。
「あなたが振り替えた金額と、その直後にあなたの借金が完済された記録。そして…」
私は、一ノ瀬君が壁の裏で見つけた、もう一つの書類を掲げた。
「修一さんの、真実の遺言書よ」
健二の目が、その遺言書に釘付けになった。そこには、修一さんの震える文字で、はっきりとこう記されていた。
『全財産は妻に譲る。息子の健二には、一銭の相続権も与えない。彼は私を見殺しにし、自らの欲望のために親を捨てた。彼を、佐藤家から追放する』
「そんなの、認められるわけないだろう! 俺は、息子なんだぞ!」
「いいえ、認められます」
鹿ヶ原さんが、冷徹に告げた。
「民法では、被相続人を殺害しようとしたり、見殺しにして刑に処せられたりした者は、もちろんのこと、著しい非行があった場合、相続資格あるいは排除の対象となります。この日記と、当時の救急搬送の遅延の証拠があれば、里子様があなたを相続人から排除することは、十分に可能です。というか、すでに手続きは完了しています」
「嘘だ…嘘だろ…」
健二は、その場に崩れ落ちた。美咲はことの重大さをようやく理解したのか、がたがたと震えながら、健二から距離を置こうとしている。
「ちょ、ちょっと、健二さん! あなた、お義父さんを見殺しにしたの? 最低! 最低だわ! 私、そんなの知らないわよ! 全部、この人が勝手にやったことなんです! お母さん、私は被害者なんです!」
「被害者? よく、そんな言葉が言えるわね、美咲」
私は、美咲を冷たく見据えた。
「あなたは、健二が実の父親を犠牲にして手に入れたお金で、贅沢三昧を繰り返していたのよ。『知らなかった』では、済まされない。それに、あなたのご実家の借金を、健二が会社の金を横領して穴埋めしていたのも、あなたが指示したことだという証拠のメールも、全て押さえてあるわ」
二人は、もはや言い逃れのできない状況に追い込まれた。私の目の前にいるのは、愛する息子とその伴侶ではなく、親の命と金を食い潰し、最後まで反省の色も見せない、浅ましい強欲の塊だった。
「お母さん、頼む! 悪かった! 本当に悪かったよ! だから、助けてくれ! あの山田たちが、外で待ってるんだ! このままじゃ、俺、殺される!」
健二が、私の足元に縋りつき、涙を流してすがってきた。一週間前、『コストがかかる』と私を罵った男と、同一人物だとは、到底思えなかった。私は、すがりつく健二の手を、ゆっくりと、でも力強く、振り払った。
「助けてあげるわよ。条件通り、借金は清算してあげる」
私の言葉に、健二の顔に、ぱっと希望の色が差した。
「本当か? ありがとう、母さん! やっぱり、母さんは優しい!」
「ただし」
私は、冷徹な笑みを浮かべた。
「私が支払うのは、あくまで『立て替え』よ。あなたはこれから、私の関連会社が運営する僻地の労働施設で、死ぬまで働いて返してもらうわ。一切の贅沢は許されない。自由も、プライドも、名前すらも、捨てて。それが、修一さんの命を奪ったことへの、せめてもの贖罪よ」
健二の顔が、恐怖で引きつった。
「労働施設…? 何だよ、それ。ただの奴隷じゃないか。そんなの、嫌だ!」
「選ばせてあげるわ。今すぐ、外にいる山田たちのところへ戻るか。それとも、私の用意した地獄へ行くか。どちらにする?」
その時、別荘の玄関のチャイムが、地獄の鐘の音のように鳴り響いた。外には、しびれを切らした山田たちが、鉄パイプで遊びながら待ち構えていた。
チャイムの音が鳴り響く度、健二と美咲はびくっと肩を震わせ、玄関のドアの方を怯えた目で見つめていた。
「ひっ…嫌だ。助けて…。殺される…。本当に殺されるわ…」
美咲は床にへたり込み、ボロボロになった爪を噛みながら、がたがたと震えている。
「母さん、お願いだ! 金だ! 金を払ってくれ! 山田たちは、待ってくれないんだよ!」
健二が、私の足元にすがりつき、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んだ。私は、そんな息子の姿を、冷めた目で見下ろしていた。一週間前、この男は私を『コスト』と呼び、『いなくなればいい』と言い放った。その時の傲慢な顔は、どこへ行ってしまったのだろう。今、目の前にいるのは、ただ自分の身を守るためだけに、親に泣きつく醜い塊でしかない。
「健二、あなたは勘違いしているわね。私があなたを助けるのは、母親としての情けからじゃないわ。修一さんの命を奪い、その遺産を食い潰したあなたに、相応の地獄を味わわせるためよ」
私の冷徹な声に、健二は一瞬息を飲んだ。
「地獄…労働施設って、何なんだよ。どこへ連れて行くつもりだ?」
私は窓の外に目を向けた。
「私が長年、建築事務所の専務として築いてきた人脈は、あなたたちが想像しているよりずっと広いの。四国の山奥に、限界集落を再生するための開拓地があるわ。そこを運営しているのは、かつて修一さんに命を救われた元自衛官の男性よ。非常に規律に厳しく、甘えは一切許されない場所。そこで、あなたは借金が完済されるまで、朝から晩まで泥にまみれて働くのよ」
「山奥の開拓…? 嘘だろ? 俺は、大手の会社員なんだぞ! そんな、開拓民みたいな真似ができるか!」
「できるかできないかじゃない。やるのよ。それとも、今すぐ、あの山田たちの車に乗る?」
私の問いかけに、健二は言葉を失った。外からは、「おい、佐藤! 出てこいよ!」という怒鳴り声と、ドアを蹴る鈍い音が聞こえてくる。そこへ、これまで沈黙を守っていた美咲が、すがるような声で私に話しかけてきた。
「お、お母さん。私は関係ないわよね? 健二さんが、勝手にやったことだもの。私は実家に帰るわ。だから、私の分だけでも、少しだけお金を…」
美咲は、自分のことだけを考えて、健二を切り捨てようとした。その身勝手さに、隣で膝をついていた健二が、驚愕の表情で彼女を見上げた。
「か、お前、何を言ってるんだ? お前の実家の借金のために、俺は横領までしたんだぞ!」
「うるさいわね! あなたが勝手にやったことでしょう! 私は、そんなこと頼んでないわよ!」
二人の、見苦しい言い争いが始まった。私は、その光景をただ黙って見つめていた。これが、私を貶め、追い出した二人の、慣れの果て。愛も、信頼も、最初からそこにはなかったのだ。
「美咲、実家に帰るなんて、無理よ。あなた、まだ気づいていないの?」
私は、鞄からもう一通の書類を取り出した。
「あなたの実家が経営していた建設会社。多額の負債を抱えて、倒産寸前だったわね。昨日の午前中に、ある投資会社が全ての債権を買い取り、完全に買収したわよ。そして、その投資会社の筆頭株主は…私よ」
美咲の動きが、ぴたりと止まった。
「あなた、いつも『自分の実家が高級な昆布を使っている』とか『お嬢様だ』とか自慢していたけれど、これからはその実家も、私の管理下に入るの。あなたのご両親は、私の指示通り、地方の清掃工場での仕事を斡旋してもらったわ。もちろん、贅沢なんて、二度とできない生活よ。あなたに、帰る場所なんて、もうどこにもないの」
美咲の顔から、色が消えた。彼女が守りたかったプライドも、虚栄心も、全て私が買い取ったのだ。
「そんなの、嘘よ! 嘘!」
「嘘だと思うなら、お父様に電話してみたら? おそらく、今は工場の宿舎へ移動している最中で、繋がらないでしょうけど」
リビングに、美咲の絶望的な叫びが響き渡った。彼女は床を叩き、泣き叫んだが、誰も彼女に手を差し伸べる者はいなかった。一ノ瀬君も、鹿ヶ原さんも、ただ軽蔑の目を向けているだけだ。
「母さん、どうして…どうして、こんな残酷なことができるんだ? お前は、俺の母親だろう?」
健二が、恨みがましい声をあげた。
「母親? そうね。私は、あなたを愛していたわ。でも、あなたは私の愛を、ただの無料のサービスだと思い込んだ。そして、修一さんの命まで奪った。母親としての私は、あの日、あなたが修一さんを見捨てた瞬間に、死んだのよ」
私は立ち上がり、玄関の方へ向かった。
「さあ、決断の時よ。鹿ヶ原さん、警察に通報して」
鹿ヶ原さんが、静かにスマートフォンを操作した。
「あ、山田さんたちについても、私の知り合いの刑事が、今こちらへ向かっているから。健二、あなたは警察で、横領と見殺しの件について事情を聞かれるか、それとも、私の用意した施設へ行くか。どちらにせよ、もう、これまでの人生には戻れないわ」
その時、再びチャイムが鳴った。今度は、山田たちの乱暴な鳴らし方ではない。どこか落ち着いた、規則正しい音。私がドアを開けると、そこには数人の警察官と、一人の貫禄のある男性が立っていた。その男性の顔を見た瞬間、健二が、今日一番の絶叫をあげた。
「あ、あなたは…どうして、ここに?」
そこに立っていたのは、健二の務める大手メーカーの社長、その人だった。
「佐藤君に、話がある。いや、話はもう、警察の方でするんだったね」
社長の言葉に、健二は完全に腰を抜かした。彼がひた隠しにしてきた会社でのさらなる不正。それは、単なる横領だけでは済まされない、大規模な背任事件にまで発展していたのだ。
「お、お母さん、助けて! 健二さんが悪いの! 私は、何もしてない!」
美咲が、私のスカートにすがりつこうとしたが、私はそれを冷たく避けた。
「美咲さん、あなたにも、聞きたいことがあるの。あなたが、亡くなった修一さんの生命保険金の受取人を、勝手に書き換えようとした件について、ね」
震える手で膝をつき、社長の靴先を見つめる健二の姿は、滑稽なほどに惨めだった。あの大手メーカーの社長が、わざわざこんな海沿いの別荘まで足を運ぶなど、普通では考えられないことだ。
「社長、どうして、あなたがここに? 私の不祥事の件でしたら、後ほど会社へ伺うつもりで…」
「佐藤君、君はまだ、自分が置かれている状況が分かっていないようだね」
社長は深くため息をつき、私の方を向いて、深々と頭を下げた。
「里子先生、この度は、弊社の社員が多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
「里子…先生?」
健二が、呆けたような声を漏らした。
「社長、どういうことだよ? 俺の母さんは、ただの主婦だぞ。社長の知り合いなのか?」
「失礼なことを言うな!」
社長は、健二を鋭く睨みつけた。
「佐藤里子先生は、我が社の創業期において、亡き修一先生と共に、技術の基盤を築いてくださった、恩人中の恩人だ。現在も、我が社が保有する主要特許のいくつかは、里子先生の名義になっている。君が今、営業で使っているあの看板製品も、里子先生の助言がなければ、完成しなかったものだ」
健二の顔が、驚愕に歪んだ。彼が鼻にかけていた「エリート社員」としての地位。その陰には、自分が蔑んでいた母親の存在があったのだ。
「お母さんが…特許…? 嘘だ…そんなの、聞いたことない…」
「当然だ。里子先生は、『息子には自分の力で歩んでほしい。私の影は隠しておいてくれ』と、強く希望されていたからね。だが、まさかその恩に泥を塗るどころか、会社の金を横領し、さらに恩人である母親を虐げていたとは。君という人間を信じて採用したことが、私の人生最大の失敗だ」
社長の冷徹な言葉が、健二のプライドを粉々に砕いた。
「そして、美咲さん。あなたについても、重大な報告があります」
鹿ヶ原さんが、私の前に置いていた一冊のファイルを開いた。
「あなたが、健二さんのパソコンを使い、修一様の生命保険の受取人を自分に変更しようとした形跡が見つかりました。さらに、里子様の署名を偽造し、この別荘までも自分たちの名義に書き換えようとする書類を作成していましたね」
「そ、それは…将来の管理をスムーズにしようと思っただけで…」
「管理? これは、窃盗と文書偽造です。この書類に使われた印鑑は、里子様が大切にされていた、修一先生の印鑑を勝手に持ち出したものでしょう? すでに、筆跡鑑定と指紋調査の結果が出ています。逃げ切れは、できませんよ」
美咲は、もはや言葉も出ないようで、魚のように口をぱくぱくとさせていた。彼女が夜な夜な私の部屋を漁っていたのは、単なる嫌がらせではなく、私の財産を根こそぎ奪うための狩りだったのだ。
「健二、美咲。あなたたちが、触れてはならなかったのは、お金や家だけじゃないわ」
私は一ノ瀬君に促され、テーブルの中央に置かれた小さな箱を指差した。それは、一ノ瀬君が書斎の壁の裏から発見した、修一さんの本当の秘密だった。
「この箱の中には、修一さんが亡くなる直前に、ある場所へ預けていた、最後の贈り物が入っていたのよ」
一ノ瀬君が、静かにその箱を開けた。中に入っていたのは、数枚のSDカードと、修一さんの直筆の手紙だった。
「これは、修一先生が設計した、この家とあの別荘に組み込まれていた、見守りシステムのバックアップデータです。先生は建築士として、常に家族の安全を考えていた。だからこそ、最新の防犯センサーと記録装置を、誰にも分からない場所に設置していたんです」
一ノ瀬君がタブレットを操作し、動画を再生した。そこには、十年前のあの日。リビングで、苦しそうに胸を押さえて倒れ込む、修一さんの姿が映し出されていた。そして、数分後、帰宅した健二が、その場に立ち尽くす姿も。
「親父…? 親父、大丈夫か?」
動画の中の、まだ若い健二は、一度はスマートフォンを手に取る。しかし、彼の視線は、テーブルの上に置かれた修一さんの銀行のキャッシュカードと、開かれたままの通帳に釘付けになった。健二は、苦しむ父親の横で、震える手でノートパソコンを立ち上げた。画面に映る数字を凝視し、自分の口座へと、送金の手続きを始めたのだ。
修一さんが「ケ…ジ…助けて…くれ…」とかすれた声で、右手を伸ばした。その時、健二は、その手を、冷たく振り払った。
「悪いな、親父。あんたが死ねば、この金も家も、全部俺のものなんだ。死ぬなら、今、死んでくれよ」
動画の音声が、静かなリビングに響き渡った。健二は、自分が放った十年前の残酷な言葉を、再び耳にすることになったのだ。
「あ、ああ…」
健二は耳を塞ぎ、狂ったように叫んだ。
「消せ! 今すぐ消せ! それは捏造だ! 俺じゃない!」
「捏造なものですか。これが、あなたの真実よ」
私は、震える声を必死に抑えて告げた。
「私は、修一さんが最後まで、あなたを信じようとしていたことを知っていた。だからこそ、この映像を見るまでは、あなたの四時間の空白を、『ショックで動けなかった』のだと思い込もうとしていた。でも、現実は違った。あなたは、自分の借金を清算するために、実の父親を見殺しにしたのよ」
美咲も、動画の内容に戦慄し、腰を抜かしたように健二から離れた。
「化け物…。あなた、本当に化け物だわ!」
「お前に言われたくない! お前だって、この金で宝石やバッグを買って喜んでただろうが!」
二人はどん底の状況で、なおも互いを罵り合い、責任をなすりつけ合った。
「佐藤君には、刑事罰を受けてもらう。会社としても、告訴状を提出した」
社長が、冷たく言い放った。
「そして、美咲さん。あなたのご実家の負債についても、里子先生から、全額一括返済の請求が届くはずだ。返せなければ、あちらの会社も、資産も、全て差し押さえられる。あなたたちには、もう、一銭の猶予もない」
「そ、そんな…お母さん、嘘でしょう? 私たちを、路頭に迷わせるつもり? 親なら、最後は助けてくれるのが普通じゃない!」
「普通? ええ、普通なら、そうね。でも、あなたたちは、私に『いなくなればいい』『コストがかかる』と言ったわ。だから、私は、あなたの望み通り、この世から『優しいお母さん』という存在を消したの。今、ここにいるのは、あなたたちに正当な報いを与える、一人の権利者であり、被害者の妻よ」
外では、山田たちが待ち構える車のエンジン音が、不気味に響いている。一方で、別荘の敷地内には、警察の赤い灯りが近づいてくるのが見えた。
「借金取りに捕まるか、警察に捕まるか。あるいは、私が用意した極寒の開拓地で、死ぬまで働くか。さあ、選びなさい。どれを選んでも、あなたたちが夢見ていた華やかな生活は、今、この瞬間に、完全に終わったのよ」
私は、修一さんの写真を胸に抱き、彼らを冷たく見つめた。二人の顔は、恐怖と絶望で土色に染まり、もはや言葉を紡ぐこともできなくなっていた。
しかし、逆転の劇は、ここで終わりではなかった。一ノ瀬君が、もう一つの箱の底から、ある鍵を取り出した時、健二の顔が、この世の終わりを見たかのように歪んだのだ。
一ノ瀬君の手のひらの上で、鈍い光を放つ小さな銀色の鍵。それを見た瞬間、絶望に打ちひしがれていたはずの健二の瞳に、ぎらりと、醜い光が宿った。
「そ、そうだ。その鍵! それだ! それだよ! 親父が死ぬ間際、俺に何か言いたげに指さしていた場所。書斎の床下にある、隠し金庫の鍵だろ! 母さん、これさえあれば、これさえあれば、全部解決するんだ!」
健二は、膝立ちのまま、まるで獲物を見つけた獣のように、一ノ瀬君に詰め寄ろうとした。
「あの家には、親父が隠した裏金が、数億はあるはずなんだ! 建築家なんて、裏でいくらでも金を動かせるんだろ? その金があれば、横領の穴埋めも、借金の返済も、全部、釈然とできるくらい返せる! 母さん、早く、その鍵をよこせ! 俺は、佐藤家の長男なんだ! その金を受け取る権利がある!」
美咲も、それまでの涙を一瞬で拭い去り、見苦しい笑みを浮かべて立ち上がった。
「そうよ、お母さん! やっぱり、隠してたのね! お母さんには内緒で、私たちに残してくれたんだわ! あんな古臭い家を売ったお金なんて、どうでもいいわよ。数億の現金があれば、また港区のマンションに住めるし、ブランド品だって買い直せる! 早く、早く、鍵をよこしなさいよ!」
二人のあまりの強欲さと、死んだ夫を利用しようとする浅ましさに、私は言葉を失うのを通り越して、乾いた笑いが込み上げてきた。
「俺が…私が、三十数年かけて育て、家族として迎え入れた人間の、正体。夫の修一さんが、命を削って守ろうとしたものの、成れの果て…」
私は、一歩前へ出て、一ノ瀬君の手から、その銀色の鍵を静かに受け取った。
「健二、あなたは本当に、お父さんのことを何も分かっていないのね。修一さんは、あなたたちが思うような、卑怯な人じゃなかった。裏金なんて、一円も、持っていなかったわ」
「嘘だ! 貧乏人の強がりなんていいんだよ! 鍵があるってことは、そこに何かがあるってことだろう! 見せびらかしてないで、さっさと渡せよ、このババアが!」
私に向かって、これ以上ないほどの侮蔑を込めて、健二が叫んだ。その目は、もはや母親を敬う息子のそれではなく、金を奪うためなら何でもする、犯罪者の目だった。
私は、健二の罵倒を冷たく受け流し、ゆっくりと首を振った。
「ええ。確かに、この鍵は、本宅の地下室へ続く扉の鍵よ。でも、そこに眠っているのは、あなたたちが夢見ているような、近未来的な財産ではないわ」
私は、鹿ヶ原さんに目くばせをした。鹿ヶ原さんは頷き、リビングの大きなモニターに、本宅と繋がっているリアルタイムの映像を映し出した。そこには、一ノ瀬君のスタッフたちが、本宅の書斎の床下を慎重に開けている様子が映っていた。扉が開かれ、隠された地下の小部屋が現れる。
「ほら、見ろよ! 部屋があるじゃないか! 宝の山だ! 大金だ!」
健二と美咲は、画面に食い入るように顔を近づけた。しかし、ライトに照らされたその部屋の中にあったのは、ファイルが整然と並べられた棚と、使い込まれた建築模型の数々だった。
「何だよ、これ! 書類と模型じゃないか! 金はどこだ? 札束は、どこに隠してあるんだよ!」
健二の悲鳴のような怒号が響く。一ノ瀬君が、静かに説明を始めた。
「佐藤さん、ここにあるのは、修一先生が一生をかけて設計してきた、全ての建築物の定期点検記録と、将来の修繕費を無償で賄うために設立された、財団の権利書です。先生は、自分が建てた家で暮らす人々が、将来困らないようにと、自分の報酬のほとんどを、この財団の維持に当てていたんです」
「財団…? 何だよ、それ! 他人のために金を使ってたってことか? ふざけるなよ! 自分の息子が、こんなに苦労してるのに、水臭い他人の家の修理代のために、金を溜め込んでたのかよ!」
健二は、あまりの衝撃に言葉を失い、その場にへなへなと座り込んだ。
「じ、じゃあ、一円も残ってないの? 私たちの生活は、どうなるのよ! お母さん、これ、何かの間違いでしょう? 実家に、仕送りしなきゃいけないのよ! 今月も!」
美咲も、狂ったように喚き散らした。私はモニターに映る、修一さんの仕事の痕跡を見つめながら、誇らしい気持ちでいっぱいだった。修一さんは、形に残る金銭よりも、人との繋がりと、自分が作った作品への責任を大切にする人だった。
「そして、この鍵には、もう一つの役割があるのよ」
私は、手元のタブレットを操作した。すると、地下室の棚の奥から、一通の赤い封筒が取り出された。それは、修一さんが弁護士に預けていた、ある特約事項だった。
「鹿ヶ原さん、読み上げてください」
「承知いたしました。『本遺言に基づき、佐藤健二が、本宅の隠し財産を不当に要求した場合、あるいは里子を誹謗中傷した場合、佐藤健二に対する全ての生活支援及び住居提供を、即座に消滅させる。同時に、佐藤健二が過去に犯した不祥事に関する全ての調査報告書を、関係当局及び債権者に開示するものとする』」
部屋の中の空気が、さらに一段と凍りついた。健二の顔は、もはや正気を感じさせない、真っ白な色に染まっていた。
「調査報告書…。親父…。そこまでしてたのか…」
「修一さんね。健二、あなたが自分を見殺しにしたことも、会社の金を使い込んでいたことも、本当は、薄々気づいていたのよ。それでも、あなたがいつか反省することを信じて、この書類が使われないことを願っていた。でも、あなたは最後まで、修一さんの期待を裏切ったのよ」
私は、銀色の鍵をテーブルに置いた。
「この鍵で開いたのは、宝箱ではなく、あなたたちの罪の記録という名の、奈落の扉だったのよ」
その時、別荘の外で待機していた警察官たちが、ついにリビングへと入ってきた。
「佐藤健二さん、並びに、美咲さん。先ほどの横領・証拠隠滅の疑いに加え、生命保険金詐欺未遂及び、文書偽造の容疑で、署まで同行願います。それと…外にいる債権者の山田という人物からも、あなたたちの居場所についての通報が、別ルートで受理されています」
「嫌だ! 捕まりたくない! 母さん、助けて! 借金は、払ってくれるんだろう? 約束したじゃないか!」
健二が、警察官に腕を掴まれながら、私に向かって見苦しく叫び続けた。
「ええ、払ってあげるわよ。条件通りにね。ただし、これからあなたが行く場所は、あなたが想像しているよりも、ずっと厳しいわよ。警察での取り調べが終わった後、あなたの身柄は、私の管理下に入る。そこで、死ぬ気で働いて、返してもらうわ」
「うっ…!」
「美咲さんも、同じよ。あなたの実家が、私の会社の一部になった以上、あなたはそこで、最底辺の清掃業務から始めてもらう。これまで、私がこの家であなたたちのためにしてきたこと。今度は、あなたたちが、自分の手でやる番よ」
「そ、そんなの、耐えられないわ! 私は、お嬢様なのよ! 泥臭い仕事なんて、できるわけないじゃない!」
美咲の絶叫も、警察官によって遮られた。二人は、引きずられるようにして、別荘の玄関を出された。外では、パトカーの赤い灯りが激しく回転し、夜の闇を切り裂いている。そのすぐ後ろでは、山田たちの黒い車が、逃げ場を塞ぐようにして止まっていた。彼らがこれから辿る道は、光の一筋も見えない、奈落の底へと続く階段だった。
静まり返ったリビングで、私は深く椅子に座り直した。
「里子先生、これで、全て終わりましたね」
一ノ瀬君が、優しく声をかけてくれた。
「ええ。修一さんの残したものを、ようやく守り切れた気がするわ。ありがとう、一ノ瀬君。鹿ヶ原さんも」
私は、窓の外に広がる穏やかな海を見つめた。明日からは、もう『母さんなんていなくなればいい』という言葉に怯えることも、理不尽な侮辱に耐える必要もない。私の新しい人生が、ようやく始まろうとしていた。
しかし、パトカーが去った後の静寂の中で、私はあることに気づいた。健二が、最後に言い残した、不気味な一言。
『母さん、忘れてるだろう。あの家の二階のクローゼット。あそこにある、もう一つの箱のことを』
パトカーが去り、夜の静寂が戻った別荘のリビングで、私は健二が最後に放った言葉を反芻していた。二階のクローゼットにある、もう一つの箱。あの子は、あんな極限状態にあっても、私を揺さぶろうとしたのだろうか? それとも、本当に私がまだ知らない何かが、残されているのだろうか?
「里子先生、気になりますか?」
一ノ瀬君が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「いえ。修一さんのことだから、私に内緒で何かを隠しているとしたら、それはきっと、ただの遺産ではないと思うの」
私は翌朝、一ノ瀬君と共に、今は彼の所有となったあの家を訪れた。一週間前までは私の家だった場所も、今は庭の木々も整えられ、修一さんの設計した本来の美しさを取り戻しつつある。二階の私の部屋。かつて健二と美咲が「ガラクタだ」と吐き捨てて、無理やり片付けさせようとしたクローゼットの奥。壁紙を剥がすと、一ノ瀬君が熟練の技で、隠し扉を見つけ出した。そこには、小さな黒漆塗りの箱が置かれていた。私は震える手で、その蓋を開けた。中に入っていたのは、一冊の分厚い通帳と、私宛ての手紙だった。
通帳を開いて、私は息を飲んだ。そこには、修一さんが亡くなった十年前から、毎月決まった日に、私の誕生日の日付と同じ金額が、振り込まれ続けていたのだ。
「これは…」
「里子先生、見てください。振り込み元は、修一先生が設立した財団の配当金です。先生は、自分の死後も、あなたに毎月給料を払い続けるように、手続きされていたんですね。それも、あなたが彼らから自立して、自由に生きるための資金として」
さらに、手紙には、こう書かれていた。
『里子へ。もし君がこの箱を開けているとしたら、それは、健二たちが私の期待を裏切って、君を傷つけた時だろう。すまない、里子。私は、健二の弱さを知りながら、父親として、厳しくなり切れなかった。でも、建築家としての私は、最悪の事態を想定して家を建てる。家族という関係が崩れた時のために、この家には、君を守るための最後の仕掛けを施した』
「最後の仕掛け…」
私が呟いた瞬間、一ノ瀬君が、通帳の最後のページに挟まれていた、一枚のカードを見つけた。それは、ある大手警備会社のマスター解除キーだった。
「先生、これです! この家にある、全ての監視カメラ及び金庫の開閉記録。それらのデータが、リアルタイムで、修一先生が提携していたある場所に送信されるようになっていたんです」
「ある場所…? もしかして、警察の捜査機関?」
「いいえ、もっと直接的です。健二さんが務めている会社の、コンプライアンス委員会です」
私は、その事実を知り、思わず震えが止まらなかった。修一さんは、健二が私の財産に手を出したり、私を虐げたりした場合、その証拠が、自動的に健二の会社に届くように設定していたのだ。
「あの子が必死に隠そうとしていた横領も、不当な金の流れも、実は、修一さんが残したこのシステムによって、とっくに把握されていたのね。健二、あなたは自分だけが賢いと思っていたけれど、お父さんは、ずっと前から、あなたの全てを見通していたのよ」
私は、その足で、鹿ヶ原さんに連れられ、警察の面会室へと向かった。そこには、一晩の取り調べで、すっかり衰弱し、髪を振り乱した健二と美咲が、座っていた。
「母さん…。母さん、来てくれたのか? 助けてくれ! あの映像は、間違いなんだ! 全部、美咲にそそのかされたんだ!」
健二が、アクリル板越しに叫ぶ。
「お母さん、私、あんなビデオのことなんて、知らないわよ! 全部、健二さんが勝手にやったことなの! 私は、ただ、この人に騙されてただけ! 私には、実家の借金があるの! お金を! お金をちょうだい!」
美咲も、負けじと、私に見苦しい顔を向けた。二人は、ここに来てもなお、互いをなすりつけ合い、私に金を要求してきた。私は、冷たい、どこまでも冷たい声で、彼らに告げた。
「健二、美咲。あなたたちに見せたいものがあるわ」
私は、クローゼットから見つけた、修一さんの手紙を、アクリル板越しに見せた。
「お父さんは、あなたたちが私を虐げることを、十年前から予見していた。そして、あなたたちが私を『コスト』だと言って追い出そうとした瞬間に、あなたたちの人生が完全に終わるように、仕掛けをしていたのよ」
「遺言…だと…?」
「ええ。あなたが務めていた会社の社長が、なぜあの別荘に来たか、やっと分かったでしょう? お父さんが預けていた証拠データが、あなたたちの最後の暴言をきっかけに、自動的に本社へ送信されたのよ。私が警察を呼ぶ前に、会社はすでに、あなたの横領と背任の証拠を握っていた。あなたは、私に負けたんじゃない。あなたを見守り続けていた、お父さんに負けたのよ」
健二の顔が、絶望に歪んだ。
「親父が…死んだ親父が…俺を…」
「お父さんは、あなたを愛していたからこそ、これ以上の罪を重ねさせないために、全てを終わらせる決断をしていたの」
そして、私は美咲に向き直った。
「美咲さん、あなたのご実家も、私の管理下に入ったと言ったわね。残念だけど、あなたのご両親は、あなたのこれまでの言動に愛想を尽かし、親子の縁を切ることに同意されたわ。彼らは今、私の用意した場所で、自分たちの犯した罪を償うために、真面目に働いている。あなたを助ける人は、この世に一人もいないのよ」
美咲は、その場に力なく崩れ落ちた。
「嘘よ…。嘘…。私は…選ばれた人間のはずなのに…」
「選ばれた? そうね。あなたたちは、選ばれたわ。自分たちの強欲によって、何よりも大切な、家族という宝物を捨て去る道を選んだのよ」
私は、立ち上がった。
「さようなら、健二。さようなら、美咲。これが、私からあなたたちに送る、最後にして唯一の情けよ」
私は、二人の絶叫を背に、面会室を後にした。
「待ってくれ! 母さん! 里子! 行かないでくれ! 助けてくれ!」
健二の声が、廊下に響き渡ったが、私の心には、もう何の波紋も広がらなかった。警察署を出ると、外は眩しいばかりの青空が広がっていた。一ノ瀬君が、私の車を回して、待っていてくれた。
「里子先生、これで本当の意味で、全てが清算されましたね」
「ええ。修一さんの、最後の愛情を、ようやく受け取ることができたわ。彼は、私が一人になっても、笑って生きていけるように、全てを整えてくれていたのね」
私は、バッグの中にあった銀行の通帳を、そっと撫でた。そこには、修一さんが私のために残してくれた、莫大な自由への資金が刻まれている。でも、私にとっての一番の宝物は、それではなかった。どんな時でも私の幸せを第一に考えてくれていた夫の深い愛、そして、その愛に気づくことができた、この瞬間でした。
「一ノ瀬君。あの家を、世界で一番温かい人が集まる場所に変えてちょうだい。修一さんの設計した、あの家が、もう二度と、冷たい悪意に満たされることがないように」
「はい、先生。修一先生の魂を継いで、最高の建築を作り上げます」
車は、海沿いの別荘へと向かって走り出した。健二たちがこれから辿る地獄の道。刑務所での長い日々。そして、出所した後に待っている、私の関連会社での過酷な労働。彼らが自分たちの罪の重さを真に理解するまで、その報いは終わることはない。それが、私に注がれた悪意への、精一杯のスカッとした結末だった。
しかし、私の物語は、ここで終わりではなかった。夫が残してくれたこの自由な時間を使って、私は、やりたかったことを全て叶えようと決めていた。誰のためでもない、私自身のための人生。それが、修一さんへの一番の恩返しになると信じて。
あの、嵐のような出来事から、三年の月日が流れた。海沿いの別荘に差し込む朝日は、今日も変わらず穏やかで、部屋全体を黄金色に染め上げている。私はバルコニーに出て、大きく深呼吸をした。潮風の香りと、庭に植えたハーブの爽やかな香りが混ざり合い、心の中をゆっくりと浄化してくれるようだ。
「修一さん、おはよう。今日も、いい天気ね」
リビングに飾られた夫の写真に声をかけるのが、私の新しい日課になった。写真の中の修一さんは、三十年前と変わらない、少し照れくさそうな笑顔で、私を見守ってくれている。
三年間。私は、あの土地を、一ノ瀬君と共に、新しい形へと生まれ変わらせた。かつての家は一度解体され、そこには今、『佐藤建築コミュニティハウス』という小さな建物が立っている。そこは、修一さんの設計思想を継承する若手建築家たちの拠点であり、同時に、親を亡くしたり、家庭環境に恵まれなかったりする子供たちが、自由に、もう一つの家として過ごせる居場所になっている。私は、そこで週に数回、子供たちに簡単な料理を教えたり、人生の相談に乗ったりして過ごしている。
「里子おばあちゃんのハンバーグは、世界で一番大好き!」
そう言って笑う子供たちの顔を見ていると、かつて私が健二に注いできた愛情が、決して無駄ではなかったのだと思えるようになった。愛情は、受け取る側がそれを拒絶したとしても、別の誰かの心を温めるものとして、じわじわと巡り巡っていくものなのですね。
そんな、ある日。私の元に、一通の手紙が届いた。差出人の名前を見て、私の指先が、わずかに止まった。
『佐藤 健二』
あの子からの手紙だった。健二は現在、私が指定した四国の開拓地にある更生施設で、今もなお、労働に従事している。そこでの生活は、彼がかつて享受していた贅沢とは無縁の、朝から晩まで土を耕し、自分たちが食べるものを自分たちで作るという、文字通りの自給自足の毎日だ。
私は、震える手で封を切った。かつての傲慢な文字とは違い、少し掠れた。でも、一文字一文字を、丁寧に書こうとしたことが伝わる文字だった。
『母さんへ
お元気ですか。急に手紙を書いて、ごめんなさい。ここに来て、三年が経ちました。最初は、母さんを恨んでばかりいました。どうして俺を、こんな地獄に送ったんだ。どうして親なのに、助けてくれないんだと。毎日、壁を叩いて泣いていました。でも、一年が過ぎ、二年が過ぎ、毎日泥にまみれて働くうちに、少しずつ自分の指先が硬くなっていくのを見て、ふと思ったんです。『俺が生きてるだけでコストがかかると言った母さんの手は、いつもこんな風に荒れていたのか』って。冬でも水仕事をして、俺のために温かい食事を作り、俺が脱ぎ散らかした服を洗濯してくれていた母さんの苦労を、俺は『無料のサービス』だと思い込んでいた。これだけ働いても、一円も給料が出ない。そんな労働を、何十年も続けてくれた母さんの愛情が、どれほどの重みを持っていたか。この施設で、自分の服を自分で洗い、自分の食べる野菜を、一から育てるようになって、ようやくわかりました。
母さん、ごめんなさい。俺は、最低の息子でした。親父を見捨てたあの日のことも、思い出すたびに、足が震えます。親父が俺を信じて残してくれたシステムが、俺の罪を暴いた時、ようやく俺は、父親に叱られたんだと感じました。今更、許してくれなんて言えません。俺は、ここで、自分の命が終わるまで、自分の犯した罪を償い続けます。母さんは、俺のことなんて忘れて、どうか、自分のために生きてください。
最後に、お願いがあります。もし、親父の墓参りに行くことがあれば、俺の代わりに、一度だけ、手を合わせてもらえませんか? 本当に、すみませんでした。
健二より』
手紙を読み終えた時、私の目からは、温かい涙が溢れて止まらなかった。あの子が、ようやく一人の人間に戻った。エリートという鎧を剥がされ、親の財産という頼みの綱を奪われ、たった一人で土と向き合ったことで、ようやく彼は、かつての私が愛した、小さな頃の健二のような、純粋な心を取り戻したのかもしれない。
私は、返事を書かなかった。それが、彼に対する、今の私の誠実な答えだと思ったからだ。許すことだけが、愛ではない。彼が自分の足で立ち、自分の罪と向き合い続けること。それを、遠くから見守ることが、今の私にできる、最後の母親としての仕事なのだから。
ちなみに、美咲さんのことだが。彼女はその後、実家の会社が運営する清掃現場での仕事に耐えきれず、何度も逃げ出そうとしたらしい。しかし、その度に厳しい現実に直面し、今は誰にも見向きもされない小さなアパートで、一人で暮らしながら、こつこつと働いていると聞いた。彼女がかつて『コスト』と呼んでいた平穏な暮らしが、いかに贅沢なものであったか。それを失った後の孤独の中で、彼女もまた、自分自身の人生を、見つめ直している最中なのだろう。
夕方、私は、修一さんの墓を訪れた。新しく供えたばかりの白い菊の花が、夕日に輝いている。私は、健二の言葉通り、修一さんに手を合わせ、報告した。
「修一さん。あの子、ようやく、自分の間違いに気づいたみたいよ。あなたのおかげね。あなたが残してくれた勇気と愛が、私を救い、そして最後には、あの子の心をも、救ってくれたのね」
風が吹き抜け、木々がざわざわと音を立てた。まるで、修一さんが「頑張ったね」と、優しく撫でてくれたかのように。私は、微笑んだ。今、私の周りには、一ノ瀬君という素晴らしい継承者がいて、鹿ヶ原さんという頼れる友人が、そして、コミュニティハウスで出会う、子供たちがいる。血縁を超えた、新しい家族。私は、もう、一人ではない。
あの夜、暗い廊下で「いなくなればいい」と言われた時に感じた絶望。あの痛みがあったからこそ、今の私は、本当の意味で自由になれた。失ったものは大きかったけれど、手に入れたものは、それ以上に尊いものだった。
私は、丘の上から海を見つめた。果てしなく続く水平線の向こう側には、まだ見ぬ未来が待っている。これからの人生、私は、自分のために、そして、修一さんが愛したこの世界のために、一歩ずつ、大切に歩んでいこうと思う。
「お母さん、今日の夕飯、一緒に作ってもいい?」
コミュニティハウスから、子供たちの元気な声が聞こえてくる。
「ええ、もちろんよ。今日は、最高に美味しいハンバーグを作りましょうね」
私は、空を仰ぎ、最高の笑顔で、そう答えた。私の、新しい人生は、今、始まったばかりなのだから。



