「おい、どういうことだ?あんた、あの大手企業の社員って本当なのか?」…

「おい、どういうことだ?あんた、あの大手企業の社員って本当なのか?」...

私が声を潜めて彼に詰め寄った瞬間、息子の霊は鼻で笑った。
「母さんは毒親だよ。俺と父さんは家を出ていくから。絶縁だ。バイバイ」

階段を家のリビングの机の上に置かれていたのは、離婚届。夫・優馬はすでに署名を済ませていた。そして家中から、優馬と霊の私物がすべて消えていた。

霊は電話越しに、嬉しそうに笑いながら私を「毒親」と呼んだ。どうやら彼は、先日私が高級車の購入を反対したことを根に持っているらしい。
「俺たちはもうそこには戻らないから」
「じゃあ、夫とも縁を切るのね。これ以上、あなたたちを家族だと思えないわ」

私はスマホを左手に持ち、右手で離婚届に署名した。
「勝手にどうぞ」
込み上げる怒りを抑え、私は冷静を装った。

その2日後、絶縁を言い渡したはずの霊から再び電話がかかってくる。関わらないという約束をもう忘れたのか。私はゆっくりと通話ボタンを押した。
「縁を切るって話だったわよね。一体何の用」
淡々と尋ねる私に対して、霊は息を荒くした。
「おい、どういうことだ?あんた、あの大手企業の社員って本当なのか?」
「ええ、本当だけど」
「そんなまさか」
事実を知った瞬間、彼は声を震わせた。

私は森脇あや。とあるIT企業の人事部長を務める47歳だ。3つ上の夫・優馬と、22歳になった息子・霊也と3人で暮らしていた。霊也は先日、新入社員として社会人になったばかり。彼は優馬が勤務する保険会社に就職した。
「霊也が俺の後を追いかけてうちに入社するなんてな。お前の成長を感じて嬉しいよ」
内定をもらった段階で大喜びしていた優馬。今、霊也は慣れないながらも懸命に仕事に励んでいるという。
「仕事を始めてようやく父さんの偉大さが分かったよ。俺も早く父さんみたいに同僚に慕われる社員になるから」
「霊なら必ずなれるさ。頑張れよ」
夕食時に笑顔で話す2人。私は彼らの会話を聞きながら、思わずため息をついた。その瞬間、霊也がこちらを睨みつける。
「ねえ、そんな暗い顔で俺の前に座らないでよ。こっちは疲れて帰ってきてるんだから」
「ごめんね。ただ私も疲れているのよ。仕事から帰ってきて、すぐ夕食作りで座る暇もなくて」
「だから何?家事は母さんの仕事だろ?俺らに文句言われても困るんだけど」

彼の鋭い視線に、何も言えなくなる。反論したところで、どうせ聞いてもらえない。
「悪かったわ。今後は気をつける」
私は霊也から目をそらし、食事を再開した。

実は彼は優馬とは仲がいいものの、私には冷たい態度を取るのだ。家事をしても感謝はされず、むしろ嫌みを言われる始末。霊也の態度が変わり始めたのは、確か彼が中学2年生になった頃だ。
「霊也、お弁当作ったから持っていってね」
「いらない。作ってくれなんて頼んでいないから」
箱を手渡そうとするも、霊也はこちらを振り向きもせず家を出ていった。その後も彼はまともに口を聞いてくれず、注意すればすぐに逆切れする。私は霊也が反抗期に入ったのだと考え、しばらく静かに見守ることにした。時が経てば、以前の穏やかな彼に戻るはずだと思っていたのだ。

だが霊也は成人後、私への当たりが強くなった。
「おい。なんで俺のシャツ洗濯していないんだよ」
「え、だってそれ、夜の部屋に脱ぎっぱなしで放置していたものでしょ。せめて籠に入れてくれないと、洗濯すべきものかどうか分からないわよ」
ある日の朝、出勤前の彼はシャツを手に、顔を真っ赤にして激怒する。どうやら今日着ていこうと考えていたものらしい。
「どうして気が効かないんだよ。母親なんだから、ちゃんと家事をしてくれ」
そう言って霊也はシャツを押し付けてきた。
「明日までには洗っておいて」
「分かった」

今までよかれと思って家族3人分の家事をこなしてきたが、そのせいで霊也は私に甘えているのかもしれない。大人になった今でも、母親である私が家事をして当然だと思っている。毎日平然と命令してくる彼に、頭を抱えた。
「霊也、いい加減にしなさい。それが人に物を頼む態度なの?」
「あ、いきなりなんだよ」
軽んじた顔をする霊也。このままだと彼は、いつまで経っても独り立ちできない。私はシャツを突き返し、口調を強めた。
「あなたはもう大人でしょ?甘えるのはやめて。自分のことは自分でしなさい」
「は?母親のくせに家事を放棄するつもり?」
「母親なら何でもやってくれると思っているの?いつかあなただって一人暮らしをする時が来るはず。その時のためにも、一通りの家事はやった方がいいわ。一生実家で暮らすわけにもいかないだろう」
私は霊也のためを思って発言したつもりだった。しかし彼はだんだんと機嫌を悪くする。
「なんだよそれ。自分がやりたくないから俺に押し付けてるんだろ。母親ぶるのはやめてくれ」
「霊也、最近は私が家事をやっても文句ばかりでしょ。不満があるなら自分でやった方が早いわ」
そう発言した途端、彼は立ち上がった。
「父さんの稼ぎで暮らしているくせに」
「え、なんで今父さんの話になるのよ」
「だってそうだろ。大した稼ぎのないあんたがこの家で暮らせているのは、父さんのおかげだ。俺がその事実を知らないとでも思っているのか?」
彼は声を張り上げ、私を非難する。どうやら霊也は就職してすぐ、優馬のすごさに気づいたらしい。
「父さんは俺たち家族のために毎日懸命に仕事に励んでいる。そんな父さんに頼りきりのあんたに、指図されるなんて許せない」
「頼りきりって?私は仕事だってしているのよ。霊也、誰のおかげで生活できているか分かっているの?」
「うるさい。とにかく家事くらいちゃんとやれよ」
彼は私の意見を無視してシャツを渡し、他のシャツに着替えて家を飛び出した。

霊也は優馬を敬っているものの、私のことは見下しているようだ。年々、親子関係は悪いものになっていった。そんな中、優馬は霊也の態度を見ても何も言わない。自分には関係ないことだと思っているのか、知らぬふりをする。さすがに耐えられず、私は優馬に何度も相談した。
「いくら息子とはいえ、最近の霊也の態度は見過ごせない。一度、優馬から注意してよ」
しかし彼は不思議そうに首をかしげるだけ。
「なんで俺が注意するんだ?あいつは反抗期なんだよ。ほっとけばそのうち大人になるさ」
「霊也は優馬の前でも私を散々侮辱しているのよ。息子が母親に生意気な態度を取っているんだから、普通の父親なら叱るでしょう。優馬から注意されたら、霊也も態度を改めてくれると思うの」
私は優馬に力を貸してほしいと頭を下げた。だが彼は鼻で笑う。
「あやは気にしすぎだ。相手は霊也だぞ。息子が母親に反抗的な態度を取ることもあるさ」
「分かっているけど、あまりにもひどいのよ。私が仕事をしていると知った上で、家事を押し付けてきて」

適当にあしらわれるも、私は諦めず優馬を説得しにかかった。これまでの霊也の言動を説明し、彼がどれほど冷たいか伝える。感謝して欲しいとは言わない。ただ、当たり前だと思って欲しくない。あと、将来のためにももう少し家事を手伝わせた方がいいと。
しかし優馬は私の考えを理解してくれなかった。
「霊也は就職したばかりで、仕事と家事の両立がどれだけ大変か、まだピンと来ていないんだろう。この先、仕事に慣れてきたら、家事も少しは手伝うはずだ。今、家事まで手伝わせたら、霊也の頭はパンクするかもしれない。無理させない方がいいだろう」
「だとしても──」
「霊也に何を言われても、聞き流せばいい。あいつはまだまだガキなんだ。だからお前に甘えている。もっと成長すれば、親を理解するんじゃないかな」
楽観的に考えている優馬に呆れるものの、実際、霊也は今、慣れない仕事で手一杯。そんな彼に家事を手伝わせるのは、確かに酷なことだ。私に向かって不満を漏らすのも、ストレス発散の一環なのかもしれない。
「今は霊也のことを優しい目で見てやってくれよ。あまりにもひどかったら、俺もちゃんと注意するから」
「優馬がそこまで言うなら、分かったわ」
悩んだ末、私は優馬を信じ、見守ると決めた。そもそも霊也の性格上、厳しく注意しても態度を変えない可能性が高い。今は彼自身の気持ちの変化を待った方がいいだろう。

ただ、私としては優馬にも改善してもらいたいことがあった。
「霊也は優馬を見て育った。あなたが家事を手伝わないから、霊也もやりたがらないんだと思うの」
「もしかして、俺にも家事を手伝えって言っているのか?」
彼は目を大きく見開き、返してくる。自分まで攻められるとは思っていなかったらしい。
「今まであやがやってくれていたじゃないか。それなのに、なんで?」
「私は優馬が何もしないから、仕方なく家事をやっていただけ。何度お願いしても、やってくれなかったでしょ」
今まで優馬には、家事を手伝って欲しいと幾度となく頼んでいる。彼はその度に「仕事が忙しい」と言い訳して断ってきた。しかし、私も我慢の限界だ。
「あなたがもう少し協力的なら、霊也だって家事を嫌がらなかったはずよ」
「おいおい、霊也の態度に腹が立つからって、俺まで巻き込むのはやめてくれ。こっちは仕事が忙しいんだ」
「私だって忙しいこと、優馬は分かっているでしょ。それでも私に押し付け続けるつもり?共働きなのだから、仕事が忙しいのはお互い様よ。家事をしなくてもいい理由にはならないはずだ」
私は優馬に、徐々にでいいから手伝うよう告げた。それでも彼は首を横に振る。
「俺、もうすぐ昇進するんだよ。そうなると今よりもっと忙しくなる。だから、家事にまで時間を割けないんだ」
「私だって昇進したわよ。それでも家事をやっているのに」
「あやは昔から家事が得意だったじゃん。俺は苦手なんだよ」
「だから何?」
「あや、頼む」
愛想笑いを浮かべ、私の機嫌を取ろうとする優馬。それだけ彼は家事をやりたくないのだろう。
「せめて優馬の帰りが早い時は、もう少し手伝って欲しいんだけど」
「いや、俺が手伝ったら邪魔になるって。あや一人でやった方がいいよ。なんせ、あやは手際がいいし、仕事と家事の両立だって簡単だろ」
優馬はその後も断固として拒否し続け、結局私が折れる形となった。
「あやには本当に感謝してるんだ。ありがとうね」
そう口にするも、彼の言葉は軽い。優馬が本気で私に感謝しているとは思えなかった。

そんな中、霊也は一層態度を悪化させていく。
「このきんぴら、まずいんだけど。食べる気にもならない。あれ?カップ麺食うわ」
夕食時、彼は突然箸を置いて席を立った。そして私の作った料理を放置し、お湯を沸かし始める。
「もうこれは食べないから、処分しておくね」
すると彼は、残っていたきんぴらごぼうを三角コーナーに捨てた。信じられない行動に、思わず目を疑う。
「ちょっと、どうして捨てるの?いくらなんでもそれは──」
作った張本人の前で料理を処分するなんて、ありえない。私は怒りのあまり、語気を強めた。
「霊也、いい加減にしなさい。そこまで言うなら、もう霊也の料理は作らないから」
私は激昂する霊也に詰め寄った。ただ、彼は目を細める。
「なんで俺が悪いの?まともな料理を作れない、そっちに問題があるんだろう」
「昔から作っているきんぴらよ。現に優馬は普通に食べているけど」
言い争う私たちから目をそらし、一人黙々と食事を続けていた優馬。彼は名前を出された瞬間、顔を強張らせる。
「いや、俺も味付けがいつもと違う気がして……」
「は?ほら、父さんだってまずいと思っていたじゃないか。あんたを傷つけないために、父さんは我慢して食べていたんだよ」
ふんぞり返って、霊也が得意気に笑う。優馬が自分の味方をしたことが、よほど嬉しかったようだ。
「父さんもカップ麺食べる?こんなまずい飯、無理に食べる必要はないよ」
「あ、いいよ──」
かと思えば、優馬は不安そうに私を見ている。完全に霊也の味方をする気はないらしい。どちらにつくべきか分からず、困っているようだ。
「父さん、カップ麺はやめておくよ。俺、あんまり腹が減っていないんだ。きんぴら……もういいかな」
優馬は苦笑いを浮かべ、リビングを後にした。これ以上、私たちの喧嘩に巻き込まれたくないのだろう。残された霊也は、不思議な顔をしながらもカップ麺を啜り始める。
「ああ、やっぱりこっちの方が断然うまいわ。これからはもっとマシな料理作ってくれよ」
「作るわけないでしょ。今後は自分の食事は自分で──」
彼のために家事をしたところで、またこうやって文句を言われるに決まっている。少なくとも料理は自分で準備するよう伝えた。だが霊也はニヤニヤと笑う。
「お父さんから金をもらっておいて、俺の食費をけちろうとしているのか?」
「そういうわけじゃない。料理を捨てるような人に、作りたくないだけ」
「あんたはいいな。父さんの金を、生活費という名で自由に使えて」
「ちょっと待ってよ。優馬からそう聞かされたの?」
疑問を覚えて問いかけるも、霊也は嫌みしか言わない。
「家事すら放棄するなんて。あんたは、何ならまともにできるんだ?適当に言い訳をつけて、料理までやりたがらないとは思わなかったよ。もう母親ぶらないでくれ」
「母親ぶるって?私は霊也の母親で──」
「うるさい。俺の親は父さんだけだ。あんたは母親でも、家族でもない」
予想外の発言に、言葉を失う。黙り込んだ私を見て、霊也は勝ち誇ったような顔をした。その態度に、ふと嫌な予感がする。家族ですらないと否定されてショックではあるものの、霊也がそう告げた理由に心当たりがあるのだ。

私は後日、優馬に相談した。
「『母親じゃない』って言われたんだけど」
話を一通り聞き終わるなり、彼は目を泳がせる。明らかに動揺していた。
「全く、霊也はいつまで反抗的なんだか。どうせ強がりだと思うから、無視しておけ。真に受ける必要ないよ」
「優馬、もしかして……あのことを霊也に伝えたんじゃないの?」
そう問いかけた途端、優馬が肩をビクと揺らす。
「言っていないって。あやに内緒で秘密を明かしたりしないよ。俺を信じてくれ」
うろたえながらも、必死に否定する優馬。怪しいけれど、私はひとまず彼の言葉を信じることにした。

ただ、それから2ヶ月ほど経った頃、次第に優馬の帰りが遅くなっていく。毎日残業で、帰ってくるのはいつも深夜過ぎ。
「今日も遅かったのね。お疲れ様」
「そうだよ。起きていたのか」
私を見るなり、優馬は深くため息をついた。
「悪いな。早く帰れなくて」
「それはいいけど。体、大丈夫?さすがにこうも毎日残業していると、体調を壊すんじゃない?」
「俺も定時で帰りたいんだ。ただ、課長になった途端、仕事量がかなり増えて」
以前話していた通り、彼は昇進し、一層忙しくなったのだ。
「そう。心配になるけど……」
「俺もやりがいを感じているんだ。課長になるのが一つの目標だったから、これからもっと頑張りたい」
「そう、無理だけはしないでね」
「悪いな。霊也と二人きりにさせて」
その言葉に、私まで息をついてしまう。優馬の帰宅が遅くなったことにより、霊也と二人で過ごす時間が前より増えた。霊也は相変わらず冷たく、私とは終始無言。ただ、家事に文句がある時だけ口を開く。
「父さんがいないからって、サボってもいいと思っているの?どうせ時間があるなら、部屋中なく掃除してよ」
霊也は残業続きの優馬を見ているからこそ、定時で帰ってくる私を暇な人間だと思っていた。だが、彼もまた定時上がり。新人だからか残業もなく、私より早く帰宅していることもある。
「霊也も時間があるなら、手伝ってよ」
夕食の支度中、私は霊也に視線を送った。彼はたちまち顔を歪める。
「なんで?俺は仕事で疲れているんだよ。家事をやる体力なんて残っていないって」
「私だって同じよ。自分一人だけが大変だなんて思わないで。霊也、そろそろ大人になりなさい」
新社会人だからと甘く見ていたが、もう就職して半年ほど経つ。私は霊也に改めて家事を手伝うよう求めた。
「霊也が手伝わないなら、食事の準備はしない。私一人分の料理だけ作るけど、それでもいいの?」
「何それ?俺への嫌がらせ?」
「違うわ。霊也が私の作った料理を捨てたこと、まだ許せないの。そんなあなたにご飯を作るのが、バカバカしくて」
私は彼をまっすぐ見つめる。
「私の料理が気に食わないなら、インスタント麺でも食べればいい。これ以上のわがままに付き合えないと伝えた」
すると彼は苛立たしげに舌打ちをする。
「まだあのこと引きずっているのか?あれは、あんたがまずい飯を作ったのが問題だろう」
「だとしても、廃棄する必要はなかったでしょ。捨てられるくらいなら、作りたくない。そう思うのは普通のことだけど」
「あ、そう。じゃあもう作らなくていいわ」
そうつぶやき、立ち上がる霊也。彼は財布とスマホを手にして、玄関へと向かう。
「これからは毎日食べてから帰ってくる。だから、もう俺の飯は作るな」
「分かったわ」
そのまま霊也は家を飛び出していった。新人とはいえ、彼だって社会人だ。収入もあるため、自分の食費などどうとでもできるはず。私はあまり心配していなかった。

しかし、その日を境に、霊也の帰宅までもが遅くなっていく。優馬ほどではないものの、毎回帰ってくるのは22時や23時。毎日夕食を外で済ませて帰ってくるにしても、あまりにも遅いのだ。優馬から以前話を聞いたが、彼の会社は入社1年目の社員にはほとんど残業をさせないという。つまり霊也は定時で退社しているはずだ。
「帰りが遅いけど、夕食は誰かと一緒に食べているの?」
友人や同僚と食事をしているのかもしれない。そう思って尋ねると、霊也は不機嫌そうに顔を背けた。
「あんたには関係ないだろう」
帰りが遅い理由を話す気はないようだ。私はもうそれ以上、霊也に聞くことはなかった。その代わり、優馬にこっそり事情を尋ねる。
「霊也って、帰っているのよね。毎日帰宅が遅いんだけど」
「え?ああ、どうせ外で誰かと飲んでいるんだろう」
「そうなの?相手は同僚の方とか?」
「いや、どうだろうな」
やけに歯切れの悪い彼に、違和感を覚える。優馬は目を泳がせながら、必死に言葉を続けた。
「霊也も仲のいい友人がいるだろうし、そういった仲間と食事をしているんじゃないのか」
私の思い違いかもしれないが、彼はまるで何かを隠しているように見える。その態度を不思議に思ったものの、質問を繰り返したところで優馬は白状しない。ごまかし続けるに決まっている。
「霊也も人と会って、ストレスを発散しているのかもしれないわね」
私はひとまず、話を合わせることにした。

そして1週間ほど経った、ある休日。その日は珍しく優馬と霊也が自宅にいた。最近、2人は休日になると揃って出かけてしまう。そのため、久々に家族3人が揃っていた。
ただ2人はソファーでゴロゴロしたり、動画を見たりするだけ。私が家事をしていても、手伝わない。それどころか、2人は嬉しそうに楽しそうに話していた。
「これとかどう?かっこよくない?」
「いいじゃないか。霊也にも似合うよ」
「何の話をしているの?」
ふと気になって声をかけると、霊也は得意気に答えた。
「車を買うんだ。その相談を父さんにしていただけ」
「車?どんなの?」
彼はスマホの画面を私に見せてきた。表示されていたのは、知識のない私でも知っている有名な車だった。確か金額は500万くらいだ。
「かっこいいけど、これは──」
思わず言葉が詰まる。霊也はまだ社会人1年目。そんな彼の身の丈には合わない、かなりの高級車だ。本人の希望を否定する気はないが、少し考え直すべきだと思った。
「どうしてもその車がいいの?初めての車なんだから、もっと手頃なものがいいんじゃない?」
「初めてだからこそ、本当に乗りたい車を購入するんだよ」
「だけど、かなり高いでしょ。まだ霊也は仕事を始めたばかりだし、今は貯金をした方が──」
「うるさいな。ローンで支払うんだから、いいだろ。あんたには関係ないことだから、俺の決めたことに口を挟むな」
彼は激しく激昂し、声を荒げる。反対されたことが気に入らなくて、イライラしているのだろう。だが、私は霊也のことを心配しているだけだ。
「優馬からも何か言ってよ。かっこいいだけで車を選ぶのはやめた方がいいって」
私は隣に座る優馬に声をかけた。しかし、彼は首をかしげる。
「なんでダメなんだ?霊也の金で買うんだから、いいだろう」
「だって霊也はまだ仕事を始めたばかりよ。もっと収入が安定してからの方が、ローンの返済が楽でしょ」
「霊也なら、今の収入でも計画的に返済していくだろう。あやは過保護だな」
優馬は軽い考えで、霊也の意見に賛成していた。息子のことが心配にならないのだろうか。
「ほら、父さんもこう言ってることだし。あんたは黙っていてくれる?」
得意げに笑いながら、霊也は車の情報を見続ける。そんな彼に、私はふと問いかけた。
「どうして急に車が欲しくなったの?職場には電車で行けるわよね。今、必要なの?」
霊也は今まで車に興味を持っていなかった。かつて運転免許を取った時も、「車を買うのはだいぶ先になりそう」と話していたのだ。それなのに急に車を購入すると決めたことが、引っかかる。
「何かきっかけがあるんでしょ?」
霊也が一瞬、気まずそうな顔をした。すると優馬が愛想笑いを浮かべる。
「きっかけなんて、大したものじゃないだろう。同僚の車に憧れてとか、女性にモテたいとか、そんなものだよな」
「まあ、そんなところ」
霊也は優馬からの問いかけに、何度も頷く。その行動すら、妙だった。2人は口裏を合わせているのではないか。そう思っていると、彼らは無理やり話を変えた。
「そういえば来週のアポのことなんだけど──」
私が入れない仕事の話を語り合う2人。彼らは一体、何を隠しているのか。秘密があると確信した私は、どうにか明かせないかと考えた。

それから3ヶ月後の、ある日。いつものように帰宅した私は、目を疑った。
「どういうこと?」
なんとリビングの机の上に、離婚届が置かれていたのだ。確認すると、優馬はすでに署名を済ませていた。私と離婚する気満々なのだろう。しかも部屋中を見回して、違和感に気づく。家の中から、優馬と霊也の私物が全てなくなっていたのだ。状況が読み込めず、私はただ呆然と離婚届を見つめていた。その時、霊也から電話がかかってくる。
「もしもし」
恐る恐る出た途端、霊也の明るい声が耳に飛び込んできた。
「机の上にある書類、見た?俺と父さんは家を出ていくから。毒親とは絶縁。バイバイ」
彼は朗らかに笑い、私を毒親だと罵った。しかし、そう呼ばれる理由が分からない。
「霊也は私を、毒親だと思っていたの?」
「当たり前だろ。俺の金の使い道に、いちいち文句を言ってきたんだから。意味もなく子供を縛りつける、あんたは毒だ」
霊也はどうやら、先日車の購入を反対されたことを根に持っているようだ。
「俺たちはもう、そこには戻らないから」
「じゃあ、夫とも縁を切るのね。これ以上、優馬と霊也を家族だとは思えない」
私はスマホを左手に持ちながら、右手で離婚届に署名した。
「勝手にどうぞ」
「父さんも、あんたと縁を切れて喜ぶだろうな」
「離婚届を出しておくと、優馬に伝えておいて」
込み上げる怒りを抑え、私は冷静を装った。
「ただ、縁を切るのだから、もう二度と私には関わらないって約束してくれる?」
「当たり前だろ?それはこっちのセリフだ。父さんにちょっかいを出したりするなよ」
そう言い放ち、霊也は電話を切った。スマホを握りしめ、静かに息を吐く。私はその後、すぐさまとある人物に連絡を入れた。

これから2日後、絶縁を言い渡したはずの霊也から再び電話がかかってくる。関わらないという約束をもう忘れたのだろうか。ただ、要件はある程度予想がついている。私はゆっくりと通話ボタンを押した。
「縁を切るって話だったわよね。一体何の用」
淡々と尋ねる私に対して、霊也は息が荒かった。
「おい、どういうことだ?あんた、あの大手企業の社員って本当なのか?」
「ええ、本当だけど」
「いや、そんなまさか」
彼は声を震わせ、電話の向こうで動揺する。驚くのも無理はない。霊也は私の仕事も年収も、何も把握していなかったのだから。
「おじいちゃんから聞いたんでしょう。あの人が嘘をつくわけがない」
「わざわざ私に確かめる必要はないと思うけど」
「だって、ありえないだろう。あんたが大手企業に務めている上に、年収が1000万とか」
「優馬には確認したの?私よりも彼に聞いた方が、霊也は信じるんじゃない?」
「父さんは『そうだったっけ』としか言わなくて」
だんだん彼の声が小さくなっていく。

実は霊也には今まで伝えていなかったが、私はとある大手企業の人事部長を務めている。彼の言う通り、年収は1000万円。その事実を、霊也は義父から聞かされていた。
「俺たちのこと、なんでじいちゃんに伝えたんだ。おかげでじいちゃんにこっぴどく叱られたじゃないか」
「むしろ、黙っていてくれると思ったの?離婚する以上、伝えるに決まっているじゃない」
離婚届だけ置いて2人が家を出ていったあの日、私は霊也との通話を終えた後、義父に連絡を入れていた。
「あやさん、優馬と離婚?それは本当なのか?」
「はい。霊也も優馬についていくとのことです」
2人がすでに荷物も全て持っていってしまって、話し合いもなく離婚になったと知ると、義父は謝罪の言葉を繰り返した。
「あやさん、本当に申し訳ない。優馬は何を考えているのか」
「霊也からは連絡があったんですが、優馬とは繋がらなくて。なので、お父さんから彼に伝えてくれませんか?離婚届は出しましたと」
あの日、私は署名した離婚届を、すぐさま役所に提出した。わざわざ優馬に伝える必要もないかと思ったが、離婚後に絡まれても困る。そこで「離婚した以上、関わらないで欲しい」と伝えてほしいと、義父に頼んだのだ。
「連絡したら、また報告するよ」
ただ、彼が電話をかけても、優馬は出なかった。義父に怒られることを分かっていて、無視しているのだろう。そのため義父は霊也に連絡したらしい。
「面倒なことをしやがって。どうせ仕事だって嘘のくせに」
未だに霊也は、私たちの話を信じていないようだ。
「名を伝えても、疑い続けるのね」
「俺たちから絶縁を言い渡されてショックだったんだよな。その腹いせに、俺たちを後悔させようと思っているんだろう」
「見栄なんて張らないわよ。それなら、絶縁を突きつけられたタイミングで明かしているわ」
「じゃあ、なんで今まで隠していたんだよ」
声を上げる霊也に、思わず肩を落とす。
「私は隠そうとは思っていなかった。でも、優馬に黙っておくよう頼まれてね」
「は?父さんがなんで?」
「優馬が見栄を張っていたのよ。私よりも年収が低いことに、バレたくないって」
まだ霊也が小さかった頃、優馬がいきなり「大事な話がある」と声をかけてきた。
「あやの仕事のことは、霊也に言わないでくれないか?」
「なんで?私の仕事、特に恥ずかしいものじゃないと思うけど」
「いや、霊也は俺のことを尊敬しているだろう。『パパはお仕事頑張っていて偉い』って。それなのに、あやよりも下だと思われたくなくてさ」
彼は霊也に、父親である自分が大黒柱だと思われたいという。だから、事実を伏せるよう頼み込んできた。
「あやの仕事の方が大手だと分かれば、自然と収入が多いのもお前だってバレる。霊也が俺に失望しそうで、怖いんだ」
「そんなことで、霊也が優馬を嫌うとは思えない。ちょっと考えすぎじゃないかしら」
「頼むよ。念のために秘密にしてほしい。俺、霊也に恥ずかしい父親だと思われたくないんだ」
そう、優馬が弱音をこぼす。父親として格好つけたい気持ちは分かる。私は迷いながらも、彼の頼みを受け入れることにした。
「だからって、霊也の前で悪く言うような真似はやめてね」
「もちろん、そんなことはしない。俺はあやに感謝しているんだ。安心してくれ」
そうして今日まで、私は霊也に仕事を隠してきたというわけだ。

「だからって、ずっと黙っているなんてひどいだろう。あんたは母親面をするくせに、内心では俺のことを息子だと思っていなかったんだな」
今まで教えてもらえなかったことが不服なのか、彼は語気を強める。だが、私だってもっと早く伝えるつもりだった。
「霊也の態度があまりにもひどいから、優馬にも相談したの。収入や家計のこと、ちゃんと霊也に説明したいって」
「じゃあ、なんで優馬に止められたの?」
「『話すとしても、今ではない』って。反抗期を迎えた後、日に日に冷たい態度を取るようになった霊也。私の仕事を大したものではないと決めつける彼に耐えられなくなり、何度も優馬に打ち明けた。ただ、彼は決して首を縦に振らなかったのだ」
「霊也はもうすぐ就活が始まる。あやが大手企業の人事部に勤務していると、あいつはお前の会社に入りたがるかもしれない」
当時、霊也は大学生で就活の準備の真っ最中だった。確かに母親が人事部と聞けば、使いたいと思う可能性はある。だけど、それは優馬の会社が第一志望でしょ。
「このタイミングでいきなりうちに入りたいと思うかしら」
「思うさ。なんせ、あやの会社はうちよりも大手だ。霊也はきっとお前に頼み込む。それでもいいのか?」
それは息子とはいえ、自分の権限で霊也を採用するのは私の意に反するし、正直当てにされても困る。だが、優馬はむしろ自分の会社に霊也を入れたいと考えていた。
「霊也は俺に似て優秀だ。あいつにはうちの会社に入ってもらいたい。同僚にも『息子がうちに来るかも』って話している。だから、今は言わないでくれ」
彼はきっと、霊也に父の威厳を見せられるチャンスだと思っていたのだろう。
「霊也が無事にうちの会社に入社したら、話してもいい。だから、それまでは待ってくれ」
ただ、私の仕事を伏せるとなれば、今後も霊也からの酷い扱いに耐えなければならない。それだけが気がかりだった。
「仕事のことは黙っておくわ。その代わりに、霊也にちゃんと注意してくれる?もう彼のわがままには、うんざりしているんだけど」
「もちろん。俺なりに注意しておくよ」
優馬がそう約束してくれたため、私は黙っておくと決めた。しかしその後も霊也の態度は変わらず、優馬も注意すらしなくなった。
「仕事のことも、霊也が入社したタイミングで話すつもりだったのよ。でも『今話したら、霊也があやの会社に転職したがるかもしれない』とか言って、反対されて」
「なんだよそれ。父さんはどうしてそこまでして、俺に言ってくれなかったんだ?」
「優馬はプライドが高いからね。散々霊也の前で格好つけてきたからこそ、話したくなかったんでしょ」
呆れのあまり、乾いた笑いが漏れる。優馬の反対を無視して伝えることもできたが、その場合、霊也に信じてもらえる可能性は低かった。彼のことだから、「嘘をつくな」と私を責め立てたに違いない。そう思い、結局話す機会がないままだった。
「父さんが、俺に嘘をついていたなんて」
でも、全て優馬のせいだと知るなり、怒りは収まったのか、彼はおずおずと尋ねてくる。
「あんたは、父さんよりも稼いでたってことか。じゃあ、生活費は──」
「優馬からどう聞いたか知らないけれど、生活費の大半を支払っていたのは私よ。だから、一家の大黒柱は間違いなく私の方ね」
「そんな──」
きっと霊也は、電話の向こうで顔を真っ青にしているだろう。声に覇気がない。彼は今まで、優馬こそ家計を支えていると思い込んでいたようだ。
「私の方が稼ぎがいいからって、生活費を多めに負担していたの。言っておくけど、霊也の学費を払ったのも私だからね。全く、感謝するそぶりもなかったけど」
「え、学費は父さんじゃないの?だって、自分で言ってたんだよ。『霊也のために学費を貯めた』って」
私の知らない間に、優馬は嘘を重ねていたのね。残念ながら、霊也の大学の学費はほとんど私が支払っている。彼が受験に合格した後、優馬から相談を受けたのだ。
「俺、今まとまった金がなくてさ。あやが代わりに支払ってくれないか?」
何に使っているのか知らないが、優馬はほとんど貯金がなかった。そこで、私が全額負担することになったのだ。だからこそ、私は優馬や霊也に家事を手伝ってもらいたかったの。お金を出しているんだから感謝しろと言いたいわけではない。ただ、私に家事を押し付けるのはおかしい気がして。
「でも、父さんは何もしていなかったよな。あんたは、それで良かったのか?」
「意地でも家事をしなければ、父さんだって仕方がないでしょ。霊也がいるんだから」
幼い霊也がいるのに、両親2人揃って家事を放棄するわけにはいかない。私は不満を抱えながらも、仕事と家事を両立することとなった。そんな私を見て、優馬は調子に乗ったんでしょうね。結局、家事を手伝ってくれることは一度もなかった。
「霊也も優馬に似て、私に感謝すらしなかったわね」
思わず嫌みを口にする。霊也は慌てて反論した。
「違うんだ。俺、父さんに騙されていたんだよ。てっきり父さんが家を支えていると思っていて──」
彼の話によると、優馬は私が不在の時、霊也に対してさも自分が大黒柱かのように振る舞っていたらしい。
「母さんは仕事をしているが、あまり給料が多くないんだ。だから、俺が代わりに頑張って働いているんだよ」
そんなことをしょっちゅう口にしていたそうだ。また、霊也が幼い頃から私の愚痴をこぼしていたという。その話を信じ、彼はすっかり優馬を尊敬していた。
「あんたが家事をしているのも、父さんより稼ぎが悪いからだって聞いていて。だから、俺たちに家事の協力を求めるなんて生意気だと思ったんだ」
「そんなことだろうとは思ったけど、優馬のせいで霊也の態度が悪化したのね」
思わず頭を抱える。すると霊也が弱々しい声をあげた。
「悪かったよ。俺、ずっと誤解していた」
事実を知り、私に対して罪悪感を覚えたのだろう。珍しく彼は謝罪の言葉を口にした。しかし、すぐには信じられない。私の仕事や年収を知ったから、手のひらを返した可能性がある。
「今更、謝らなくていいわよ。あなたは優馬と一緒に出ていって、もう家族じゃないし」
どんな事情があれ、私に絶縁を言い渡したのだ。謝罪を受けても、許せない。冷たく突き放すと、霊也は情けない声を出す。
「母さん、そんなこと言わないでくれ。俺は父さんに騙されたも同然で──」
彼は妙に焦っているようだった。そんな霊也を無視して、私は通話を終了した。関わらないと約束したのだから、これ以上話す理由がない。私はその後、霊也の電話番号を着信拒否に設定した。

それから1週間後。仕事を終えた私は、自宅である人物の姿を見て、思わず立ち止まった。
「なんで、ここにいるの?」
そこにいたのは優馬だった。彼はニヤニヤしながら、徐々にこちらに近づいてくる。
「待ってたんだよ。どうせインターホンを押しても、出てくれないと思ってな」
「なんで、父さんに言ったんだ?」
「なんでって、離婚したんだから報告すべきでしょ」
「今回のことは、あくまでも夫婦間の問題だ。俺の親まで巻き込む必要はない」
「ああ、俺から伝えるつもりだったのに」
優馬は私が義父に事情を知らせたことに、怒っているらしい。直接問い詰めるため、再び自宅に来たようだ。そもそも離婚届を置いて勝手に家を出ていったのに、よく顔を見せられたわね。
「なんだ、離婚を切り出されて苛立っているのか?自分の方が収入が多いからって、捨てられるとは思っていなかったんだろう」
「そうじゃない。せめて離婚に至った理由を、ちゃんと説明すべきだったでしょ」
電話に出なかったくせに、今更会いに来た優馬の神経を疑う。私はひるむことなく、彼に立ち向かった。だが、たちまち優馬が声を荒げる。
「そんなの、俺にとってあやが必要なくなったからに決まっているだろう。自分の方が稼ぎがいいからって、偉そうにしやがって」
「何のこと?私は偉そうになんて──」
「挙句の果てに、離婚を切り出された腹いせに、親に報告するとか。あやのせいで、こっちは面倒なことになっているんだぞ。霊也にはずっと責められて」
顔を歪めて、頭を掻く優馬。事実を知った霊也から、詰め寄られたらしい。彼はなぜ騙したのかと、優馬を非難したという。
「父親である俺を、冷めた目で見るんだ。だから、あいつにはバレたくなかったのに」
「そもそも、優馬が見栄を張らなければよかったことでしょう。霊也からの信用をなくしたのは、自業自得よ」
「うるさい。俺は悪くない。早く余計なことをしなければ、こんなことには──」
優馬は苛立ちを露わにして、マンション前で騒ぎ立てる。このままでは近所迷惑になりかねない。
「私たちは離婚したの。これ以上、私に関わらないで」
私はひとまず、今日のところは追い返そうとした。だが、その時、彼の背後から見覚えのある人物が近寄ってくる。
「え、なんで父さんがここに?」
現れたのは、霊也だった。彼は優馬がここに来ていることは、知らなかったのだろう。途端に優馬が目を泳がせる。
「俺は、あと大事な話があって──。霊也こそ、なんでお前に会いに来たんだよ」
「俺、ちゃんと母さんに謝りたいと思ってさ」
そう言うと、霊也は気まずそうな笑みを浮かべた。
「母さん、絶縁なんて言ってごめん。電話しても繋がらないから、直接謝罪に来た」
「私とは関わらないでって言ったわよね。謝罪も必要ないと」
「そんな冷たいこと言わないでよ。俺は被害者だ。父さんに騙されていて──」
「おい、俺のせいにするのはやめろ」
優馬が声を張り上げ、私たちの会話を遮る。自分が加害者のように扱われることが、気に食わないらしい。
「俺はちょっと嘘をついただけだ。それを信じた霊也が悪いんだろう」
「責任転嫁しないでくれよ」
「母さん、許してほしい。俺、心から反省して——」
優馬を軽く睨み、穏やかに微笑む霊也。だが、霊也が反省などしていないことくらい、私には想像がつく。彼がここに来た理由も、なんとなく掴めていた。
「お金は渡さないからね」
「何のこと?母さん、急にどうしたんだよ」
「母さんと呼ぶのはやめて。私はもう、あなたの母親じゃないし。どうせ収入を知って、お金をせびりに来たんでしょ」
看破すると、霊也は言葉を詰まらせる。
「バレているなら、もう隠す必要もないか。あんた、年収1000万ってことは、相当金があるんでしょ?ちょっとくらい貸してくれない?」
やはり、私の予想は当たっていたらしい。霊也は金の無心をしに来た。
「今までは、あんたの稼ぎなんて高が知れていると思っていた。だから、俺が小遣いをせびることはなかっただろう?」
「ええ、そうね」
「その分、俺に小遣いを渡してくれてもいいんじゃない?せめて、貸してくれよ。あとでちゃんと返すからさ」
何かに困っているの?わざわざ私に謝罪するフリをしてまで、彼はお金をせびりに来たのだ。そこまでする理由が分からない。ふと、あることに思い当たる。
「もしかして、車のローンが払えないの?」
以前、車の購入を考えていた霊也。彼はあの後、本当に500万の車をローンで買った。その返済が滞っているのではないかと思い、尋ねる。だが、霊也は否定した。
「いや、ローンは問題なく払えているよ。ただ、ちょっと出費が重なってさ、今月は厳しいんだ。20万くらいなら、余裕で貸せるよね?」
彼は適当にはぐらかしつつ、私に徐々に近寄ってくる。
「絶縁のことは忘れてくれ。あれはただの冗談だから。俺は今でも、あんたの息子だ。だからさ、貸してくれよ」
「嫌よ。悪いけど、霊也に渡すお金はないの。今すぐ帰ってちょうだい」
「そんな冷たいこと言うなよ」
すると、今度は優馬が割り込んできた。
「霊也に貸すなら、俺にもお金をくれよ。離婚したことで生活費が少し浮いただろう。そのお金、ちょっとだけでいいからさ」
どうやら優馬も、金銭的に余裕がないらしい。彼も霊也と一緒になって、私に金の無心を頼んできた。本当に、似たもの親子だ。私は呆れながらも2人の提案を拒否し続けたけれど、だんだん彼らの勢いが大きくなっていく。
「俺たちは家族だろ。あやは稼ぎがいいんだから、ケチケチするなよ」
「息子が困っているのに、助けてくれないの?冷たい母親だな」
周囲に聞こえるように、わめき続ける2人。私はスマホを手に取り、警察に通報することにした。しかし、私の腕を優馬が掴む。
「何してるんだ?今、スマホは必要ないだろ。俺たちに金を貸すかどうか、聞いているんだ」
「話して。あなたたちのことを警察に通報するつもり?」
「俺たち、家族だよ。民事不介入で、警察も相手してくれないと思うけど」
彼らは勝ち誇ったように笑う。そのあまりにも気持ち悪い表情に、鳥肌が立った。しかし、その時——。
「おい、あやさんに何をしているんだ?」
背後から男性の声が聞こえる。振り返ると、顔を真っ赤にして激怒する義父がいた。
「なんで、父さんがここに?」
驚きのあまり、自然と優馬の指から力が抜ける。私はすぐさま彼の手を振り払い、距離を置いた。
「あやさん、遅くなってしまい申し訳ない」
「いえ、急だったのに駆けつけてくださって、ありがとうございます」
「あやが父さんを呼んだのか?」
優馬が険しい顔でこちらを睨みつける。実は、優馬の姿をマンション前で見かけたタイミングで、私は義父にメッセージを送っていたのだ。
「優馬、どうして俺の電話を無視するんだ?気づいていないわけではないだろう」
「ごめん。仕事が忙しくて、出る暇がなかっただけなんだ。無視するつもりはなくて」
「忙しいのに、あやさんを待ち伏せする時間はあるんだな」
言い返す言葉もないのか、優馬が黙り込む。
「あやさんに事前に頼んでおいてよかったよ。とはいえ、まさか本当に現れるとはな」
今回、私は義父から事前に「もしも優馬が来たら、連絡が欲しい」と頼まれていた。連絡が繋がらない上に現住所も不明。今日まで、義父は優馬に接触することができなかった。そんな中、優馬はのこのこと私の前に現れた。当然、義父の予想が当たったというわけだ。
「優馬、色々と聞きたいことがある」
「俺は父さんと話すことなんてないし」
「ひとまず、家に入りましょう。ここで騒がれたら困りますので」
「ふざけるな。金を貸してくれないなら、もう用はない」
そう告げた瞬間、優馬が逃げ出そうとする。だが、義父が彼の腕を掴んだ。
「逃げようとしたって、無駄だ。ほら、さっさと入るぞ」
そのまま私たちは自宅へと戻った。

リビングの椅子に、4人が各々腰をかける。優馬は俯いてテーブルを見つめていた。そんな彼に、義父が土を浴びせる。
「優馬、お前は何を考えているんだ?あやさんがどれだけお前と霊也のために尽くしたか、分かっているのか?」
「もちろん、感謝はしている。だけど──」
「俺は、あろうことか一方的に離婚を切り出すなんて。例の、あやさんを毒親だと侮辱したそうだな」
義父の冷たい視線が、霊也に向く。その恐ろしい表情に、私まで身震いがした。
「だって、この人ひどいんだよ。俺が車を買うのを反対してきて」
「お前はまだ22歳。仕事も始めたばかり。母親なら、誰だって心配するだろう。あやさんも、頭ごなしに反対したわけじゃないよな?」
「でも、俺は傷ついたんだ。この人は毒親だよ。子供を自分の思い通りにしたいだけ──」
「そんな風に思っていたのね」
ふと、呆れが漏れる。私は霊也を自分の思い通りに動かそうとしたことはない。
「車の購入を反対されたこと、そんなに嫌だったの?」
「それだけじゃない。俺に無理やり家事を押し付けようとしただろ」
「手伝って欲しかっただけなんだけど。霊也は、何も理解していなかったのね」
「霊也、お前は本当に自分勝手なやつだな」
我慢できなくなったのか、義父が口を開く。彼の低い声に、霊也が肩をビクと揺らした。
「あやさんから、一通りの話を聞いている。彼女が作った料理を捨てたのは、本当か?」
「あれは──」
「それが本当かどうか、尋ねているんだ。答えなさい」
「すみません。捨てました」
義父の威圧感に負け、霊也が怯えながら謝罪する。実は義父は、正義感が強く、しかも曲がったことが大嫌いな厳しい人だ。だから、霊也も優馬も、彼には頭が上がらない。
「父さん、俺たちが悪かったよ。ちゃんと話し合って離婚すべきだった。反省している」
「母さん、ごめん。俺、母さんに甘えていたんだ。本当に申し訳ない」
2人は義父に叱られたくないからと、私に向かって頭を下げる。だが、本当に反省しているとは思えない。義父がいる手前、反論できないから、しぶしぶ謝っているだけだ。おそらく義父も、それを理解しているのだろう。頭を抱え、2人の言動を嘆く。
「お前に、あやさんを紹介するんじゃなかったな。あやさん、すまなかった」
「お父さん、謝らないでください。優馬との結婚を決めたのは、私ですから」
「どういうこと?父さんって、じいちゃんの知り合いで知り合ったの?」
霊也は私と優馬の出会いを知らない。そんな彼に、義父が事情を説明した。
「もう退職したが、俺が務めていた会社は、あやさんが働く会社の取引先だったんだ」
「え、そうだったの?」
「あやさんは当時からすごく優秀かつ真面目で、同僚にもとても慕われていた。そんな彼女に、優馬と一度でいいから会って欲しくて」
義父には仕事で何度かお世話になっており、しかも取引先の社員。断りづらかった私は、ひとまず彼の息子に会ってみることにした。そうして出会った相手こそ、優馬だ。最初は適当な理由をつけて交際はお断りしようと思っていた。だが、優馬は想像以上に素敵な人で、関わっていくうちに私は彼に惹かれていく。その後、私たちは距離を詰め、交際に発展した。
「断ろうと思っていたのに、結婚まで行ったの」
話を聞くや、意外だったのか霊也が戸惑う。私が当初、交際をお断りしようと思っていた理由は、彼も知っているはずだ。
「霊也、優馬から話を聞いているんでしょ?私とあなたは、血が繋がっていないって」
「それ、やっぱり本当なんだな」
「さすがの優馬も、そんな嘘はつかないわよ。私と霊也は、実の親子じゃないわ」
実は霊也は、優馬の連れ子であり、私の息子ではない。霊也の本当の母親は、彼が生まれてすぐに亡くなったのだ。そう、私は義父から優馬を紹介される前に、息子がいることを聞いていた。
「いきなり母親になるなんて、私には無理」
そう思って、優馬との結婚は考えていなかったの。優馬と出会った時、霊也はまだ3歳。急に見知らぬ女性が母親になるなんて、受け入れられないはずだ。そんなことを考えていたが、気づけば私は優馬に惹かれていた。
「あの頃、優馬はお父さんたちのサポートを受けながら、必死に霊也を育てていた。その姿を見て、少しでもいいから力になりたいと思ったの」
そして、私は優馬と共に霊也を育てると覚悟を決めて、結婚した。新婚の頃は、幸せだったことを今でも覚えている。霊也が徐々に懐いてくれて、本当に嬉しかった。しかし、その幸せも彼が成長するにつれて、崩壊する。いつしか霊也は、私に冷たくなっていた。

「霊也、いつから聞いたの?」
霊也の態度からして、私と血が繋がっていないことを知っているはずだ。
「優馬から知らされたんでしょ?」
「俺が成人になった頃、父さんから大事な話があるって言われて」
ゆっくりと、霊也が事情を語り始める。優馬は気まずそうな顔をしていた。
「正直、びっくりしたよ。あんた、普通に俺の母親として振る舞っていたから。ただ、母親じゃないってことを、もっと早く教えて欲しかった」
「ごめんなさい。本当は早く言いたかったの。でも──」
「いいよ。理由は聞いている。あんたが伝えたがらなかったんだろう」
へ?
その返答に、耳を疑う。どうやら優馬は、私を悪者にして霊也に事実を伝えたらしい。
「霊也、ごめんな。ずっと騙していて。実は、お前に口止めされているんだ」
「そう。霊也に告げたのだ」
「そう。実の母親じゃないってバレたら、俺に見放されると思ったんだろ。だから、ずっと隠していたんだよな」
「ちょっと待って。優馬、どういうこと?」
「霊也、一旦静かにしてくれ」
「あれは父さんが言ったんだろ?『あいつは一生、実の母親のふりをし続けるつもりだ』って。将来、介護してもらうために——」
彼は慌てふためく優馬を無視して、話を続ける。もちろん、私は介護のために事実を伏せていたわけではない。しかし、霊也は優馬を信じ、私に不審感を募らせた。彼が私に冷たい態度を取るようになったのは、そういった経緯かららしい。
「よく分かったわ。優馬はとことん霊也を騙していたのね。呆れた」
「ちょっと、なぜ優馬の話だけを信じるんだ?あやさんに確認はしたのか?」
「いや、聞いたところで否定されるに決まっていると思って」
「私は本来、もっと早く霊也に伝えたかったの。あなたが小さい頃から、いつ話すか優馬に相談していたくらいなんだから」
元々、私は結婚に際し、事実を隠すよう頼まれた。
「まだ霊也は子供だ。今、事実を知ったら、彼はショックを受けると思う。だから、成人するまでは黙っていてくれないか」
プロポーズをされてすぐ、優馬に相談されたのだ。
「だけど、霊也は3歳よ。私がいきなり家族になったら、戸惑うわ。いくら家族とはいえ、急に現れた女性を母親だと教えるなんて」
「大丈夫だよ。ずっと霊也に言い聞かせていたんだ。『あの人は、霊也のママなんだよ』って。あいつも俺の話を信じている」
「でも、後で事実を知った方が、悲しむと思うんだけど」
私としては、霊也を騙すような真似はしたくない。最初から育ての母として、彼に関わりたかった。そう伝えるも、優馬は譲らない。
「親子としての関係を深めてから、伝えた方がいいよ。長年家族として関わっていれば、霊也も事実を受け入れられやすいだろうし」
「分かった。でも、成人までは待たなくてもいいんじゃないかしら。彼が15、6歳くらいの時にでも」
「まあ、伝えるタイミングは、霊也の様子を見守りながら、おいおい決めようよ」
結局、私は彼の意思を尊重して、しばらく霊也に黙っておくと決めた。ただ、霊也が成長する中、私は何度も優馬に相談している。
「次の誕生日で、霊也も16歳よ。そろそろ本当のことを伝えるべきじゃないかしら」
「でも、霊也は今、反抗期だ。このタイミングで知ったら、今後の関わり方に悩むかもしれない」
「それも、そうね」
話し合いの末、予定通り成人になるタイミングで伝えることとなった。しかし、霊也が成人になる直前、突然優馬が考えを変える。
「今、霊也は大学受験で大変な時期だ。まだ言うべき時じゃない」
「それじゃあ、いつ報告するの?来年?」
「いや、20歳になった頃にしよう。ちょうどいい節目だし」
私は不服ながらも、しぶしぶその提案を受け入れた。だが、優馬はその後も私をはぐらかして、先延ばしを続ける。
「社会人になってからの方がいいんじゃない?20歳とはいえ、大学生なんてまだ子供みたいなものだし」
20歳の誕生日前日、そう言い出したかと思えば、大学卒業を控えた頃にまたもや意見を変える。
「この家を出ていく時に伝えようよ。それなら、お互い気まずくならずに済むだろう」
そして、私の口で伝えることが叶わぬまま、今日に至る。
「あんたが隠していたわけではないの。でも、父さんの許可を取らずに、俺に言えばよかったのに」
霊也は名残惜しそうに、こちらを見た。
「そう思ったこともあるけれど、霊也はどうせ私の話を信じないでしょ。優馬から聞いた話こそ事実だと思い込むくせに」
「それは──」
否定できないのか、彼は顔を背ける。

そんな中、優馬は居心地が悪そうにそわそわしていた。今までの嘘がバレて、後がないと思っているようだ。すると義父が、鋭い目つきで優馬を睨みつける。
「優馬、どうしてあやさんに黙っていたんだ?」
口を閉ざして何も言えない優馬だが、義父だけでなく私や霊也からも視線を注がれ、しぶしぶ声をあげる。
「霊也は、俺のことを信じてくれている。正直、俺は霊也くらいしか、自慢できる相手がいないんだ。そんな息子を、あやに取られたくなかった」
「は?」
「もし、霊也が血が繋がらないのに育ててくれたあやに感謝して、お前に丸め込まれる可能性がある。それだけは、阻止したかったんだ」
優馬の言い分が、全く理解できない。思わず固まっていると、義父も困惑したような表情を浮かべた。
「優馬は、あやさんに何ひとつ感謝していないのか?」
「感謝はしている。だけど、霊也の親は俺だけだ。霊也とあやは、他人だろう」
だから、優馬は霊也から尊敬される父親でありたいからと自分を磨くのではなく、私の悪口を言って貶めていたらしい。そして、私の印象を悪くした上で、「実の母親ではない」と霊也に告白した。
「散々愚痴を聞いていたからか、霊也は俺の味方をしてくれたよ。『俺の家族は父さんだけだ』って言ってくれてね」
そこまでして霊也を味方につけたいのか、信じられない。
「あやさんが、今までどれほどお前たちを支えてきたか」
拳を震わせ、怒りを露わにする義父。だが、優馬は平然と笑っていた。
「はは、感謝はしているって言っただろ。でも、彼女は赤の他人だ。本当の家族じゃない。霊也も、そう思うだろう」
笑顔のまま、霊也に同意を求める。ただ、彼は慌てて弁解を始めた。
「俺は父さんに騙されていたんだ。被害者なんだよ。母さん、ごめん」
「あ?なんで?いきなり謝った霊也に、驚き、優馬が絶句する」
「本当は、母さんに感謝していたんだ。でも、父さんの話を聞いて、一瞬母さんを疑ってしまった。俺が悪いよ」
霊也は目を潤ませ、頭を下げる。おそらく彼は、金を借りるために私に謝罪しているのだろう。
「許してほしい。もう二度と、母さんにひどいこと言ったりしないから」
「え?いい加減にしろ。お前だって、あやの悪口、一緒に言っていたじゃないか」
「あれは、父さんに合わせていただけだって」
見苦しい言い争いを始める親子2人。義父は大きくため息をついた。
「霊也は、被害者ぶって泣きつけば、あやさんに許してもらえると思っているのか」
その言葉に、霊也が目を泳がせる。考えがバレていると気づき、動揺しているのだろう。それでも、自分は悪くないと言い張った。
「俺は騙されたんだよ。全部、父さんのせいなのに」
「優馬を信じたのは、霊也の判断よね。私は母親として霊也に接してきた。しかし、あなたは過去を踏まえた上で、私を毒親だと罵ったの」
「それは、そうだけど──」
「私は今まで、霊也を本当の息子だと思って育ててきた。優馬が何を言おうが、私を信じるという選択だってできたはずだ。優馬の言葉を聞いて、霊也は私が悪いと思ったんでしょ。それなら、もう私とは関わらないで」
「待ってくれよ、俺はただ──」
「霊也、いい加減にしないか。お前は自分が被害者だと思っているのだろうが、実際に悲しい思いをしているのは、あやさんだぞ」
一喝され、霊也が口を噤む。その隣で、優馬は悔しそうな表情を浮かべていた。

私は、そんな彼にとある写真を突きつけた。
「この機会に、優馬に見てもらいたいものがあるの。ほら、よく撮れているでしょ」
「あ?なんで?」
たちまち、優馬が目を大きく見開いた。霊也も写真を見た途端、息を飲む。
「母さん、これって──」
「優馬が私と離婚したのは、この彼女と結婚するためよね」
映っていたのは、一回り以上年が離れている女性と腕を組む、優馬の姿だった。彼は不倫をしていたのだ。
「どうせバレないと思っていたんでしょ。だけど、私は知っていたの」
「嘘だ。どうして──」
「探偵事務所に調査を依頼したの。優馬の帰りがやけに遅いから、何をしているのか気になって。あなた、残業じゃなくて、彼女と毎日会っていたようね」
調べた結果、不倫相手は「長野シオン」という女性だった。彼女は33歳で、優馬と接点があるわけではないらしい。
「彼女とは、どこで会ったの?職場ではないみたいだし」
そう問いかけるも、優馬は黙ったまま。余計なことを言いたくないようだ。すると義父が、彼を怒鳴りつける。
「ちゃんと答えろ。お前は、なんということを」
ちなみに義父には、事前に連絡した際、不倫の事実を伝えていた。義父は不倫を知った途端、大激怒。彼は本人に真相を確かめたくて、どうにか優馬との接触を試みていた。
「不倫していたのは、事実なんだな」
一層語気を強めて、優馬を問い詰める義父。霊也はただ静かに、私たちのやり取りを聞いていた。その時、あろうことか優馬が白状した。
「そうだよ。俺はシオンと交際している。交際どころか、先日結婚したばかりだ」
「優馬、お前は──」
「父さん、少し落ち着いてくれよ。彼女はとても素敵な人なんだ。あやよりも若くて綺麗で、しかも優しい。父さんだって、気に入るよ」
「そういう問題じゃない。お前は、家族を裏切ったんだぞ」
義父は顔を真っ赤にして、優馬に詰め寄る。私はふと、霊也の表情に違和感を覚えた。なぜか彼は、優馬を見てニヤニヤしていたのだ。
「霊也、何か言いたいことでもあるの?」
「え?いや、なんでもないよ」
「シオンさんだったかしら。霊也も、彼女と面識があるのよね」
霊也は再び優馬に視線を送り、事実を話すかどうか迷う。私は2人に、探偵事務所での調査結果をそのまま伝えた。
「シオンさんって、社長令嬢だと偽って男性に近づくそうね。しかも、毎回狙いは既婚者だとか」
「何を言って──」
優馬も霊也も動きを止め、表情を強張らせる。彼らはシオンの正体を知らなかったらしい。
「今回、不倫の証拠を掴むために調査を依頼したのだけど、その結果、判明したのは意外な事実だった。彼女、同じような手口で、何度も男性に貢がせているのよ。至って平凡な家庭の子で、父親は社長でも何でもないみたい」
さらに、シオンは優馬以外の男性とも頻繁にデートを重ねていたのだ。複数人の男性と会っている証拠もある。私は別の写真をいくつか、机に並べた。
「ほら、これ。いろんな男性と腕を組んでいるでしょ?」
「ありえない。これはお前が作った合成写真だろう。シオンは俺に惚れているんだ。すでに結婚もしているし」
「そうだよ。彼女が嘘をつくはずがない」
「霊也、やっぱりシオンさんに会っているのね」
「しまった」と言わんばかりに、霊也が両手で口を塞ぐけれど、もう遅い。
「霊也、あなたの帰りが遅かったのは、シオンさんと会っていたからかしら」
「だったら、何だよ」
霊也は開き直り、シオンと会っていると認めた。
「優馬は、こんな女に騙されたのか」
呆れ返っているのか、義父が頭を抱えてため息をつく。だが、優馬はまだ騙されていたことを認めない。
「シオンと俺は結婚したんだ。彼女は本気で俺を愛しているんだよ」
話を聞くに、2人はアプリで出会ったらしい。
「どれだけ仕事で疲れていても、シオンに会ったら癒されるんだ。彼女は俺の心の支えだ」
「きっかけをくれた霊也には、感謝しているよ」
「どういうこと?」
「霊也が、背中を押してくれたんだ」
優馬が明るい笑顔で、嬉しそうに語る。優馬は収入が多い私を妬み、ずっと霊也に愚痴をこぼしていた。そんなある日、霊也から「他の女性と結婚しちゃえば?」と提案されたという。
「父さんは俺たち家族を養えるほどの経済力がある。だから、母さんなんかよりもっと素敵な女性と出会えると思うけど」
彼は優馬が家計を支えていると勘違いしていた。それゆえ、他の女性ともすぐ結婚できると考えていたらしい。
「確かに。よりいい条件の女性を探せばいいのか」
思い立った優馬は、即座にアプリを入れ、不倫相手を探した。そして出会った女性が、シオンだ。
「シオンは、俺がプレゼントするもの何でも喜んでくれるんだ。その度に『優馬さんが好き』と伝えてくれて」
優馬は調子に乗り、彼女にかなりお金を使ったのだ。ただ、そんな彼の太っ腹ぶりに目をつけ、シオンは結婚を決めたのではないか。
「本当にシオンさんに愛されていると思っているの?彼女はお金目当てで、優馬に近づいただけよ。現に、ほかの男性もシオンさんに散々貢いで──」
「うるさい。シオンがそんなことをするはずがないだろう。彼女は社長令嬢で、実家が裕福なんだから」
それが嘘だと伝えたにも関わらず、未だに彼女を信じる優馬。彼はシオンに夢中で、早い段階で霊也にも紹介していたらしい。
「まさか父さんがあんなに綺麗な女性と付き合うとは思わなかった。羨ましい限りだよ」
霊也が目を細めて、優馬に笑いかける。その表情は、どこか気持ち悪かった。心からの笑顔に見えない。
「霊也に合わせて以来、シオンが一層俺との結婚を意識したんだ。『早くお嫁さんになりたい』って。だから、もう私と離婚しようと決めたのね」
「母さんよりも、シオンさんといた方が父さんは幸せになれる。母さん、素直になりなよ。父さんが幸せになるのが、悔しいんだよね。だから、シオンさんが平凡な家庭の生まれだとか、嘘をついているんでしょ」
霊也もまた、シオンが社長令嬢だと信じ込んでいる。その時、彼が車を購入した理由に気づいた。
「もしかして、優馬の再婚相手が社長令嬢だから、あんなにも高い車ですぐに購入を決めたの?バレた時、困った時には、シオンさんの力を借りれば大丈夫だと思って?」
「彼女の力を借りるなんて、無理よ。シオンさんの家は、裕福でも何でもないんだから。いい加減にしろ。見苦しいぞ」
シオンを侮辱されたと思ったのか、優馬が目を釣り上げる。今の彼にとって、シオンだけが頼りなのだ。
「シオンは、お金目当てで結婚を決めたわけじゃない。彼女は内面を見て、俺を選んだんだ」
「だから──」
「そろそろ霊也、白状したら?あなたも、シオンさんと交際しているんでしょ」
そう告げた途端、霊也の顔から血の気が引いた。
「俺がシオンさんと付き合うわけないじゃん。父さんの奥さんだよ」
笑いながら弁解するも、彼は額にびっしりと冷や汗をかいていた。その異変に気づき、優馬がいぶかしげな表情を浮かべる。
「霊也、何を焦っているんだ?今のは、あやのはったりだろ?」
「もちろん。俺はシオンさんとは──」
「じゃあ、この写真は何?」
私は新たな写真を机に並べた。そこに映っているのは、シオンと二人でホテルへと入る霊也。またたく間に、優馬は目を丸くした。
「霊也、どういうことだ?なぜお前が、シオンとホテルに行っているんだよ」
「これは、合成だよ。俺は決して──」
「合成なわけがあるか。どう見たって、本物だろう。おかしいと思っていたんだ。二人でやけに仲がいいから」
優馬は一瞬声を荒げたかと思えば、ブツブツとつぶやき始める。以前から、霊也のことを疑っていたらしい。
「俺がいない間、二人で何をしているのか。聞いても、シオンは教えてくれない。正直、3人暮らしを続けるかどうか、迷っていたんだ」
「いやいや、俺は本当にシオンさんとは──」
「じゃあ、今からシオンに聞く」
そう言うと、優馬はスマホを取り出して、シオンに電話をかけた。
「霊也も、父さんも、誰も喋るなよ。俺は、シオンの本心が知りたいんだ」
「父さんでも、黙れ。静かにしろ」
その剣幕に驚いたのか、霊也が口を閉ざす。優馬は通話をスピーカーモードにした。
「あ、シオン。いきなりごめん。今、電話できる?」
「いいけど、どうしたの?」
こちらの状況を悟られないよう、穏やかな口調で切り出した彼。シオンは少々そっけない態度だった。
「実はさ、聞きたいことがあって──。シオンは、霊也と付き合ったりしていないよね」
優馬が恐る恐る尋ねるも、彼女からの返答はない。
「シオン、どうしたの?俺の声、聞こえている?」
「聞こえているわよ。まさか、もう気づくなんてね」
再び聞こえてきたシオンの声は、妙に明るかった。優馬が眉をピクリと動かす。
「え、シオン、本当に霊也と付き合っているの?」
「だから、そうだって言っているでしょ。それより、私も聞きたいことがあるんだけど」
「いや、先に俺の話を──」
「霊也が教えてくれたんだけど、収入が多いのは元嫁の方だったって。本当?優馬の稼ぎ、大したことないの?」
シオンは不機嫌そうな声を出す。その問いかけに、霊也が優馬から目をそらした。
「霊也、お前、シオンに余計なことを言ったのか?」
「もしかして、そこに霊也もいるの?」
「いや、俺は──」
「はっきり言え。シオンに、全部話したのか」
優馬の怒声に、泣きそうな顔をする霊也。もう隠し通せないと思ったのだろう。
「シオンの相手にふさわしいのは、俺だ。父さん、もう彼女を解放してあげてよ」
「お前、父親に向かって何を──」
「シオンが本当に好きなのは、俺だ。父さんはもう、彼女に愛想を尽かされているんだよ」
「霊也、今、何が起きているの?説明してよ」
状況が飲み込めないのか、シオンは電話の向こうで戸惑っていた。そんな彼女を放置して、霊也は優馬に声を張り上げる。
「シオンを紹介された後、彼女に食事に誘われたんだ。その時、シオンは『霊也の方がタイプだ』って言ってくれて」
シオンは優馬と交際しつつ、霊也のことも誑かしていたらしい。
「先に出会ったのが霊也だったら、良かったのに。本当に好きなのは、霊也なの。優馬さんは、私より早く亡くなるでしょ。その時は、霊也と結婚したい」
そんなことを言われ、彼は本気になってしまった。
「父さんとシオンが結婚するのは、いい気はしなかった。でも、彼女と一つ屋根の下で暮らせるなら、悪くはないかなって」
だんだんと霊也が顔を歪ませる。一方、優馬は血走った目で彼を睨みつけていた。
「お前は、俺を尊敬していたんだろう。それなのに、父親の彼女を寝取るなんて──」
「仕方ないだろ。シオンが本気で好きなのは、俺なんだから。父さん以上に、俺はシオンに愛を伝えていた」
なんと霊也も、シオンに色々と貢いでいたらしい。先ほど「お金に困っている」と話していたが、それもシオンに高価なプレゼントをしたからだという。
「一緒にいられるだけで幸せだけど、本当はシオンと二人きりになりたい。だから、もう父さんは身を引いてくれないか。彼女を幸せにできるのは、俺だ」
「ふざけるな。シオンは、俺と結婚したんだぞ」
「だから──悪いけど、私は優馬と結婚していないわよ」
「は?」
驚きのあまり、優馬が固まる。霊也は余裕の笑みを浮かべていて、この事実を知っていたようだ。
「嘘をつくなよ。離婚届を出してくれたんだろ?」
「あれ、捨てたの。優馬があんまりお金を持っていないって聞いたから、結婚する気がなくなっちゃって」
「霊也の仕業か」
彼が優馬の収入をばらしたことで、シオンは結婚をやめたらしい。そのことに気づくや、霊也を逆恨みする優馬。
「俺とシオンの結婚を邪魔しやがって」
「俺一人のせいじゃない。シオンに選ばれなかった父さんが悪いんだろ。あの家、俺たち二人で暮らすから、父さんは出ていってよ」
「だめだ。あの家は、俺が借りているんだぞ。出ていくなら、お前らだ」
「なんで私が、出て行かなくちゃいけないの?優馬こそ、邪魔物だから。早く荷物まとめて退去してよ」
シオンは猫を被るのをやめたのか、ケラケラと優馬を嘲笑う。次第に、彼の顔は真っ赤に染まった。
「俺を笑いものにするな。許さない」
怒りのまま、霊也に飛びかかろうとする優馬。ただ、義父が2人の間に割って入る。
「優馬、落ち着け。自業自得だ。霊也を攻めるのはやめろ」
「なんでだよ。悪いのは、霊也だろ」
「霊也にも非はあるが、彼は不倫をしたわけではない」
「だとしても──」
優馬が力なく、その場にへたり込む。そんな彼を見て、霊也はほくそ笑んでいた。
「父さん、ごめんね。俺、シオンと幸せになるから」

「シオンさん、ちょっと、いいですか?」
親子喧嘩が落ち着いたタイミングで、私は口を開いた。まさか他にも人がいると思っていなかったのか、シオンの声が動揺する。
「え、誰ですか?」
「私は、優馬の元妻です。あなたと優馬、2人に慰謝料を請求しますので、それをお伝えしたくて」
「慰謝料って──」
優馬が目を点にして、こちらを凝視した。
「あや、待ってくれよ。俺は今、彼女を霊也に奪われたばかりなんだぞ。そんな俺から、金を取るなんて」
「私は、慰謝料なんて支払いません」
「優馬か霊也か、どっちか支払ってよ」
「俺が支払うわけないだろ。霊也、お前が慰謝料を代わりに出せよ」
「俺が、そんなの嫌だ。こっちもシオンへのプレゼントで、カツカツなのに」
霊也が頑なに拒否をする。しかし、シオンは甘えたような声で、彼にすがり続けた。
「私と結婚したいんでしょ?それなら、かっこいいところ見せてよ。霊也なら、支払ってくれると信じているから」
「本当に無理だって。不倫したのはシオンだし、ちゃんと払いなよ」
「は?じゃあ、もういいわ。霊也とも、別れるから」
彼女の声色が、一瞬で変化する。先ほどまでとは打って変わって、冷たい口調となった。
「シオン、拗ねないでよ。さすがに、その冗談は笑えないって」
「冗談じゃないわ。お金を出してくれないなら、霊也と結婚する意味がないから」
「だけど、俺は──」
「じゃあね、2人とも」
そこで、シオンが一方的に電話を切った。慰謝料から逃れようと考えているに違いない。だが、それは無駄だ。探偵事務所での調査により、私はシオンの実家の住所も知っている。
「彼女には、後日、内容証明を送ることにした。ひとまず、優馬には慰謝料を支払ってもらうから。あと、2人とも、二度とこの家には近づかないで」
「なんでだよ。あや、俺に裏切られてショックだったんだよな。本当にごめん。でも、俺、目が覚めたよ」
すると優馬が、ゆっくりと私に歩み寄る。彼は復縁すれば、慰謝料を支払わずに済むと考えたようだ。シオンとは結婚していなかった。だから、今すぐにでも再婚できる。
「あや、俺たち、やり直そうよ」
「優馬、お前は──」
怒りを露わにして、義父が恐ろしい形相を向ける。ただ、私は彼を静止した。
「私は優馬と、やり直す気なんてないの。諦めてくれる?でも、慰謝料だけ支払ってくれたら、それで十分。もう、私には顔も見せないで」
「どうして、俺たち夫婦だったんだろう」
優馬は目に涙を浮かべ、こちらに視線を送るが、その顔を見ても何も思わない。私は義父に合図を送った。すると、彼は優馬の腕を無理やり引く。
「もう、帰るぞ。これ以上いたら、あやさんに迷惑がかかる」
「待って。俺はまだ、あやに伝えたいことが──」
必死にもがいて反抗するも、義父は力ずくで優馬を連れていった。その年の割に大きな力に驚くと同時に、リビングに残った霊也が目に入る。
「霊也も、出ていってくれる?」
「俺、ちょっと調子に乗っていたというか……最悪、母さんに見放されても、社長令嬢と結婚できるって、甘く考えていたんだ」
彼は言い訳を並べ、どうにか許しを乞おうとする。しかし、先に絶縁を切り出したのは、霊也だ。
「私は、毒親なんでしょ。お互い、縁を切った方が身のためよ」
私は彼の言葉を無視して、背中を押した。そのまま、玄関へと連れていく。
「母さん、頼む」
「私は、ここまで育てたんだから、十分でしょ。あとは、一人で頑張りなさい」
取りつく島もないと分かったのか、大人しく出ていく霊也。私は、その後ろ姿を静かに見送った。もう、彼らと会うことはないだろう。

その後、私は弁護士を通して、慰謝料請求の手続きを行った。優馬は借金をして一括で支払い、シオンは両親に立て替えてもらったそうだ。彼女は不倫が両親にバレ、絶縁寸前らしい。立て替えてもらったお金を返すべく、バイトを掛け持ちさせられているとか。ちなみに、優馬と霊也は、義両親からも絶縁された。彼らは互いに憎み合い、それぞれ一人暮らしをしているという。
ただ、職場ではしばらくの間、毎日顔を合わせていた2人。優馬は借金の返済があり、仕事をやめることはできない。そのため、泣く泣く続けていた。一方、霊也は限界を迎え、退職したそうだ。彼はローンの支払いができず、最終的に車は手放したらしい。今は仕事を探しながら、苦しい生活を送っていると聞いた。優馬も、返済に追われ、以前よりも痩せているそうだ。
一方、私は変わらず仕事に励んでいる。先日、昇進が決まり、同僚にお祝いしてもらった。そのタイミングで、新居に引っ越した。前の家は優馬や霊也が住所を知っている。彼らがまた現れるかもしれないので、自分好みの物件に移り住んだのだ。誰かのためではなく、私一人のための生活を、今は謳歌している。これからも仕事に打ち込み、充実した日々を送っていきたい。

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